紅丸を残してレストランを出た京は、数時間前に到着し、離脱したばかりの空港へ取って返した。しかし、そこで足止めを食らうことになる。目指すべき空港への便がすべて欠航していたからだ。到着時にロビーで耳にしていた筈の天候不良のニュースを、京は少しも記憶にとどめていなかったのである。
この場で天候の回復を待っていても埒があかない。
陸路なら移動できるのだ、であれば、空路より時間は掛かるが手段を変えるまで。
無駄足を踏んでしまったことを苦々しく思いながらも即座にきびすを返した京は、モノレールに乗り空港を離れた。この後の乗り換えを頭の中でシミュレートし、新幹線と山陰本線を乗り継ぐことにする。
こういうとき、山陰に新幹線が走っていないことが恨めしい。ふだんなら気にも止めないような事象にまで理不尽な怒りをぶつけつつ、モノレールから在来線に乗り換える。更に新幹線へと乗り継いで、乗客の姿がまばらな自由席車両の窓際のシートにふかく腰を沈め、ようやく人心地がついた気になった。
あとは京個人が自力で出来ることは何もない。ひたすら列車に身体を運んでもらうばかりである。
次の乗り換えまで二時間半ほど。眠って過ごしても良かったが、神経が高ぶっているのか、脳内で渦巻く思考がとめられなかった。
見るともなく車窓を流れる景色を眺めながら、京の物思いは当然のように庵へと向かって漂いはじめる。
庵を『八尺瓊』として認め受け容れること、それがあの男を生かす術だと信じた。今でもあのときの決断を間違った選択だったとは思わない。もしもそうしていなければ、もっと早くにあの男は消滅してしまっていただろうから。
――八神の生は奇跡なのかも知れない。
京の胸中にふっと湧いて来たのはそんな思いだった。
庵は死を恐れない。それどころか、彼には、死ぬということに限りなく甘美な幻想さえ抱(いだ)いていた過去がある。そのような、死ぬことを怖いと思えない人間に生きることなど出来るわけがない。なのに庵は生きている。
彼が生きているということ。そして、これからも生きて行くということ。それは奇跡だ。しかし限りなく残酷な。
庵は決して、いま生きている自分を肯定的に受け止めてはいないのだろう。
あの男はずっと迷っている。惑っている。
そこでまた、新たな思い――今度は疑問だった――が京の脳裏を過(よぎ)った。
死ぬために生かされてきた庵は、いつ、生きるということを覚えたのだろうか。
八神一族の者がそれを教えた筈はない。ならば誰が彼にそれを学ばせた? 庵には不必要であった筈のその知識を、認識を、彼に与えたのは、誰だ。
もしかしなくても、それは――。
ドクリ、とひとつ大きく心臓が跳ねた。
京は電流にでも触れたような勢いで腰を浮かせる。そして、ごくりと唾を呑み込んだ。が、それは、一瞬にしてカラカラに干上がった喉にひどく絡まった。
八神当主としての庵ではなく、もちろん八尺瓊当主としての彼でもない、八神庵というひとりの人間に、生きるということを教えたのは、教えてしまったのは――、
――俺、か。
考え至った結論に、京は顔色を失くしていた。
中途半端に立ち上がっていた姿勢を元に戻しながら、喘ぐように呼吸をひとつ。
庵という個人と深く関わっていた外部の人間は、おそらく自分ひとりしかいない筈だ。自分は闘うことを介して彼と接点を持った。だが今、庵は闘えなくなっている。
闘いを通して覚えた生(せい)。けれどもう、闘うことでは支えていけない生――。
無意識に口元を手で覆い、京は呻く。胃液が逆流するような不快感が込み上げて来ていた。熱く焼けた鉄の塊が、じわりと鈍く胃の腑を突き上げているような。
そうなのだ。死に憧れていただけじゃない。あいつは、あの男は、確かに知っていたではないか。生きるということを。この腕に幾筋もの疵を刻んで、生きたいと叫び、渾身の力でもがいていたではないか。あの男は『八神庵』だろう? あの男が、『八神庵』だろう?
もし、『草薙』としてでない京という存在が、庵に彼個人というものを確立させたのだとしたら。『草薙』としての京としか関われなくなる『八尺瓊』としての庵は、『八神庵』を生かすことが出来ない。己を生かすためには、彼は京を手に入れる必要がある。しかしその行為を『八尺瓊』としての庵は、自分に認めてやることが出来ない。だから、だからこそ庵はあんなにも頑で、孤独で、苦しいのだ。
庵に関する何もかもが京へと集約され、何もかもが京を起点に広がって行く。
あの男は、どこまで『草薙京』に捕われているのか。
まるでその生命(いのち)そのものまでを預けてでもいるかのようだ。
「――――ッ」
とうとう京は声無く絶叫した。全身が瘧のように震え、彼は両手で自らの身体を抱く。襲い来る戦慄を抑えようと、京は奥歯に力を込めた。噛み締めた歯の合わせがギリギリと軋んだ。
ひとひとりの生命(いのち)を、そうとも知らぬうちに背負わされて、平然としていられる訳もない。
全身の血液が瞬時に冷え、一気に下がっていくのが自分でも判った。えずき上げそうになるのを必死に堪え、京はきつく目をつぶる。胃の腑をゆさぶるような戦きは、すぐには収まってくれなかった。
――しっかりしろ、京。
自分を叱咤し、鼓舞し、詰めていた息をそっと吐き出す。ゆるゆると目蓋を上げると、脂汗を拭うように額に手の甲を押し当てた。
弱気になっている場合ではないのだ。
いまはただ、手遅れになっていないことを祈るしかない。『八神庵』がまだ消えていないことを。
それでもかすかな希望はあった。
庵が本当は<それ>を手放したくないと思っていること。『八尺瓊』になろうとする意志とは裏腹に、それを、『八神庵』を、消したくないと望んでいること。
だからこその苦痛であり、だからこそ諦められなければ壊れるとも言ったのだろうから。
――そんなこと、させるものか。
絶対に、させない。消させはしない。たとえ庵を殺すのが庵自身であるのだとしても。
京が八神の屋敷を去った直後、庵は<それ>を決行していた。<それ>とは、道場に結界を張り、外界と己とを切り離すことを指す。八神流古武術の持つ、時を止める技をアレンジし、その中では時の流れが異常をきたすよう、特別な結界を選んでいた。
早く時間が進むように。
死が、早くこの身に訪れるように。
何を言い遺しても言い訳にしかならない。嘘になってしまう気がする。だからこの死に対する自らの心情を、庵は誰にも告げず、書き残したりもしていない。ただ都に対しては、申し訳ないと詫びたい気持ちがあった。八神家の未来を、すべて彼女に託すことになってしまうだろうから。
――都、後を頼む。
それでも、許しを請うつもりはなかった。決して楽になるために選ぶ死ではないけれど。生きたがっている自分を殺すのだから、それは庵にとって苦痛で、訪れる死には安らぎもきっとない。けれど、だからといって今この結末を選ぶという行為は、やはり許されるべきことではなかった。だから庵は謝らない。謝れない。
庵がこの世に残す気掛かりはひとつだけ。それは、京のこと――。
自分の死を知ったら、彼はどうするのだろう。それだけが庵の懸念だった。けれど、悲しみも痛みも、そしておそらくは怒りですらも、いつまでも同じ強さでひとの記憶に留まるものではない。いつかは薄れ、やわらぎ、思い出の中に埋没して行くことだろう。だからきっと大丈夫。
――これで諦められるんだろう?
自分が結界の内に入ってから、現実世界でどれだけの時間が過ぎたのか、もう庵には解らなくなっている。板張りの床に投げ出された手足の感覚はすでに朧(おぼろ)で、頭だけが生きている、そういう認識だ。完全に食すことをやめた彼の肉体の内側では、既に臓腑がその動きのほとんどを停止し、わずかに確認できるのは尚も弱い脈動を全身に伝える心臓だけ。そんな状態になっても、重く淀んだ何かが充満し、内蔵という内蔵を腹の底から突き上げ圧迫しているような感覚は未だつきまとっている。呼吸が止まったら、内側より膨れ上がって身が裂かれてしまいそうなこの感覚からも逃れ得るのか、それともこれは死後にも尚残る感覚なのか⋯⋯。庵は、そんな益体もないことをぼんやりと考え続けている。
考えるという行為だけは、死を想う今でも、死が目の前に迫って来ている今でも、己の身体から出て行かないものらしい。庵にはそれがひどく可笑しかった。
死を夢見ているのは肉体ではない、精神だ。肉体は、精神に道連れを強要される被害者であり、犠牲者であり、生け贄だ。だから、出来ることならこの肉体だけは生かしておいてやりたい。庵はそんなことを思う。この器に別の人格を住まわせることが可能なら、誰かに差し出したい。生きたいと願う何者かに、使って貰って構わない。
――ああ、そうか。
そんなことを思う人種だから、この身、そして八尺瓊の血は、大蛇のそれと共生し得たのか。
――馬鹿だな⋯⋯。
溜息をつくように庵は己を蔑んだ。今ごろ気付くなど遅過ぎる。そんなことなら最初から、こんな身体、大蛇にくれてやれば良かったではないか、抗うことなどせずに。そうして京に引導を渡されていれば、自分はとうの昔に消え失せることが出来ていた。
あの頃の自分は何に拘っていたのだろう。たとえ生き延びても、こうやって八神庵としての自分を否定しなくてはならなかったのに、どうして生きようなどと⋯⋯。
――京が助けてくれるとでも思ったか?
音のない嘲笑が庵の喉を震わせる。彼に、そうして欲しいと請うことさえ出来なかったくせに。
庵は目を閉じた。伸ばした腕の先で力無い指先が痙攣している。
――未練だな。
庵は女々しい己を嗤い、京の存在から意識を逸らすために、死についてとりとめなく考え始めた。
かつての自分、『八神』としての自分が死ぬということには重要な意味があった。けれど今、ただ人であるだけの自分が死ぬということには、どんな意味があるのだろう。いま死のうとしている自分の死には、何か意味があるのだろうか。
だが、死んでしまう庵には、その答えを知る機会は永遠に訪れない。
そうやって一秒毎に無へと近づきつつある庵の営みを阻止する何者かが現れたのは、そのときだった。
結界を抜けて来た者の気配に気づき、庵はぼんやりと目を開ける。
「⋯⋯⋯⋯?」
あれは誰だ。歪んだ時空を切り裂いて、陽のような明るく輝く氣を背に立っているのは。
逆光で、顔が見えない――。
夕刻になってようやく、京は八神家へ到着していた。あの日庵に宣言した通り、今度は玄関からの堂々とした訪問だ。彼は勝手に表門を抜け、正面突破で屋敷へと上がり込んでいた。どういうわけか、応対に出て来る者が誰もいない。もっとも京は最初からそれを期待していなかった。この家に起きている異常事態を、薄々予測していたからだ。
緊迫した雰囲気が屋敷中を包んでいる。この屋敷に近づいただけで、京の研ぎ澄まされた感覚はその空気を確かに捕らえていた。
屋内に入ってからも京の緊張は続いていた。人がいる気配を感じるのに、誰ひとりとしてその姿を現す者はない。京の行動を、皆どこからか息を潜めて窺っているのだろう。そう思うと、京の臓物(はらわた)は煮え繰り返りそうになる。庵の身に火急の事態が起きていることは間違いないのに、なぜ誰もそれを自分に知らせなかったのか、と。
京は険しい表情で離れを目指す。庵が道場にいるだろうことは予想できていた。おそらくそこに結界が張られているのだろうことも。その想像を裏付けるように、道場に近づくにつれ、ビリビリと痺れるような感覚が京の全身に襲いかかり始める。そして、その道場を目前にして、京は足を止めた。迂闊には足を踏み出すことが出来ないのだ。そこに張られていたのは、あろうことか『八神』の結界だったのである。
「⋯⋯冗談、だろ」
京は思わず声に出し、息を飲む。そんなものが張られている理由も原因も京には判らない。ひとつだけ言えるのは、『八尺瓊』の血しか持たない者には、『八神』の結界を破ることが出来ないということだ。この家の人間には、この結界の内側に入ることが出来ない。
しかし、庵はどこにこれほどの『八神』の力を残していたというのだろう。
――いや、ちがう。
瞬時に京は己の想像を否定する。
違う。そうではない。残滓などでこれほど堅固な結界が張れるものか。まさか庵は再び大蛇の血を、その力を手に入れたというのか。でもどうやって?
――判らない。
が、ともかく庵は、在るだけ総ての力を動員して、この結界を張ったのだ。これでは京とて迂闊には手が出せない。それは、大蛇の血の持つ力、それそのものが強力であるからだけではなかった。結界を張った、庵の想いの苛烈さ故だ。おそらくは大蛇側の者か、草薙一族の中でも最も濃くその血を受け継ぐ京か、そのどちらかでなければ容易に弾き出されてしまうであろう、それほどに堅固な結界だった。
――いまは考えてる場合じゃねえ。
内部では一刻を争う事態が起こっているかも知れないのだ。
京は両の拳をぐっと握り、目を閉じて氣を高める。そして、咆哮と共に、渾身の一撃を結界に向けて叩きつけた。
人の形をしたシルエットが近づいて来る。庵は片方の肩を支えに顔を上げている姿勢が苦痛で、静かに頬を床へ落とした。視界が狭まる。その視界の中に、男の素足が見える。そういえば、いつかもこんなことがあった。あの時、靴を履いてそこに立っていたのは⋯⋯。
庵は弾かれたようにまた顔を上げた。霞む彼の眼に、やはり思っていた男の姿が映る。
――嗚呼、どうして⋯⋯。
なぜ放っておいてくれないのだろう、この男は。
声にはならなかった筈の庵の疑問に、
「俺はおまえを死なせたくねえんだ」
庵が今いちばん聞きたくて、今いちばん聞きたくなかった男の声が答える。
――なぜ、だ。
「おまえが死にたがってないからな」
――何を言ってるんだ、おまえは⋯⋯。
「もう騙されねえって言ってるんだよ、<いおり>」
「!?」
庵は目を瞠った。
膝をついた京がその顔を覗き込み、顎を取る。
「なあ、庵、今ここにいるおまえは誰なんだ?」
自信に満ちた男の貌が、自分を見下ろしている。庵は息を呑んだ。京はもう知っているのだ。何もかも。自分が隠して来たことの総てを、この男は、もう⋯⋯。
庵は身を引こうとした。京の手から逃れようと、腕をつき上体を起こす。顎に触れている京の手を掴もうと動かした庵の腕は、しかし逆に京に捕らえられてしまう。手首を捻られ、庵は仰向けに押さえ込まれた。
動けない。
気力も体力も、いまの彼のそれでは京に敵う筈がなかった。
「答えられない、か?」
京が真上から覗き込んだ庵は、憔悴しきった双眸を向けている。それは熱を孕んで潤み、無言で京を見上げていた。大蛇の血を祓われたというのに、その瞳孔は縦に長い形を保ったままだ。
不意に京を襲った既視体験(デジャヴ)。
今のように熱に浮かされたこの紅い瞳が、今と同じ角度で自分を見上げていた、あれはいつのことだった?
――ああ、そうだ。あれは⋯⋯。
眼を閉じた京の目蓋の裏に蘇るのは夜の光景とその記憶。
京はこの身体に、かつて二度、触れたことがあった。
快楽。それを目的にはしない、肉体の繋がり。
目的を持った交合。
愉しみも生殖も望まない性交。
だけど意味のある交接 。
そして、必死に生きたがっていた庵の、その身体――。
そうだった、あれは、二度目のあの時そこにいたのは、八神当主としての庵ではなく、無論『八尺瓊』としての彼でもなかった。あのとき生きようとしていた意志が誰のものだったのか、この男に思い知らせてやろう。思い出させてやろう。それが、それこそが、自分が忘れることが出来ずにいた八神庵という男なのだと、庵、おまえに教えてやるよ⋯⋯。
京は目を開けて、じっと庵の双眸を見つめた。
「自分の口からは言えないってことか」
その言葉と共に自分に向かって伸ばされた京の腕を、庵は拒まない。彼はゆっくりと視界を闇に閉ざした。
――抵抗しないつもりかよ⋯⋯。
京は鼻白む。
――俺が『草薙』で、おまえが『八尺瓊』だから? 無駄なことを。今更なにを取り繕うんだ。逃げられるとでも思ってんのか、庵。俺が逃がすとでも?
「いいぜ、別に答えなくても」
京は不敵な笑みをその頬に浮かべ、庵の首筋に指先を這わせる。伏せられていた庵の目蓋がかすかに痙攣した。
「この身体に訊いてやるから」
その言葉に、庵の喉仏が微かに上下する。京は彼の耳元に唇を寄せた。
「壊してやるよ」
――おまえの中にある、あの堅牢な牙城を。
「そうしたら、言えるんだろ?」
砦のように頑なな心に、素手で触れてやる。
「覚悟しな」
その仮面を剥がしてやるから。
ただ享楽を植え付けたいだけだと思い知らせるような、京にそんな触れられ方をしたのは初めてで、庵はどうしようもなく震え出す己の身体を、自らの腕で抱き締めようとする。けれどその行為を京は許さない。
「⋯⋯ッ⋯⋯う⋯⋯」
「愉しめよ⋯⋯いおり⋯⋯」
まだどこかで庵は無意識にブレーキを踏んでいる。それを感じ、追い詰めるように殊更冷たい声で京は囁く。飲み込もうとする声を許さず、庵の歯列を指で割った。
「う、く⋯⋯っ」
アクセルを全開にさせてやる。
庵に自分を、京を感じて欲しいのだ。庵自身を感じさせたいのだ。正気を失くしたところで初めて見せられる素顔があるというのなら、それをこの手で暴き出してやる。本音をさらけ出させてやる。
京は道着の袷から侵入させた手で、庵の素肌を探る。その手指は搦め手を探し、更に彼の肌の上を彷徨う。庵が無意識に呼吸(いき)を噛み、握り締めた拳に思わず力が込められる、その場所を探り当てては、そこにばかり執拗に触れ続けた。
まるで痛みを堪えているような庵の表情が、京の眼にはひどく生々しさをもって映る。早くなっていく彼の呼吸に無意識に煽られながら、京は器用に男の身体を反転させた。道着を取り去り、そこに現れる疵痕に唇を寄せる。庵の全身が震えた。皮膚の感覚の生きている場所を探しながら、京は尚もしつこく触れて行く。
「あ⋯⋯ぅ⋯⋯」
前に回された京の手に熱くなった自身を嬲られ、庵は小さく啼いた。
「や⋯⋯めろ、⋯⋯」
庵には余裕がない。既に幾度となく意識は途切れかけていた。それに逆らおうと、眉間に深く皺を寄せ、彼は自身を襲うすべての感覚に耐えようと試みる。
――駄目だ。
流されてはいけない。流されてしまったら、自分が何を口走るか判らない。
しかし庵は確実に、断崖へと追い詰められていた。ふたたび歯列のあいだに差し込まれた京の指を唾液に濡らしながら、男の意識は次第に熟れていく。いつしか庵の理性は消し飛んでいた。何も考えられなくなった彼の、その痩せた身体は、ただ己(おの)が身を苛む熱から解放されたいばかりに相手を誘い、煽ろうとし始める。強引に顎を取って振り向かせた庵の、その眼が既に焦点を失くしていることを見て取り、京は満足気に笑んだ。
「庵⋯⋯聞こえるか」
身悶える獲物の耳朶を、捕食者の低く掠れた声が愛撫する。
「⋯⋯っ、も⋯⋯」
「やめて欲しい?」
その京の言葉に、庵はガクガクと全身を震わせ、何度も頷きを返す。
「じゃあ俺を呼べよ⋯⋯、そしたら⋯⋯、」
――終わりにしてやるから。
熱く灼けただれた頭の中で、どうにか京の言葉を理解した庵の無意識の譫言が、
「きょ⋯⋯お⋯⋯ッ」
ついにその名を口にした。
庵を腕に抱いて京は時空の歪みから抜け出した。庵は昏睡に落ちている。
京は母屋の電話を勝手に拝借してタクシーを呼ぶと、その足で玄関口まで出、そこへ仁王立ちになった。そして屋敷中に聞こえるよう、大声を張り上げる。
「おまえら、今ホッとしてるだろ! 庵を死なせずに済むと思って、ホッとしてんだろ!?」
それは、今この時も息を殺して事の成り行きを見守っているのだろうこの屋敷の人間に向けられた京の叫び。自らの上擦る胴間声に、彼は激昂する気をますます逆撫でられる。
「ふざけんなよッ」
――甘えるのも大概にしろッ。
ここまで庵を追い詰めながら、放っておいたのは誰だ。どうして、こうではない生き方を肯定してやらなかった。生きることを、どうして教えてやれなかったのだ。もっと、もっと早くに。もっと早くにそうしていれば。
「こいつはなあっ、生きたがってんだよ! ⋯⋯それを、なんでおまえらは⋯⋯ッ」
――見過ごせるんだ!?
庵を愛しいと思うのなら、なぜこんな生き方しか許せないような彼に育ててしまったのか。なぜ、こんな終わり方を選ばせるような彼にしてしまったのか。
「俺には解んねえよ。おまえらの考えてることも、おまえらの持ってる感覚も、庵のことも⋯⋯!!」
そして。自分はちっとも心の広い人間ではないから。庵のようにすべてを是として受け容れるなんて、そんな寛大な真似はできないし、しようとも思わない。
「畜生⋯⋯ッ」
最後の罵倒は、京が自分自身に向けたものだった。どうして自分は、もっと早くにこうしなかったのだろう。どうしてこんな息苦しい場所から、庵を連れ出してやれなかったのだろう。嫌がられても抵抗されても、引きずり出してやっていれば良かったのだ。それが己の信じる途なのだから。そしてそれは、庵が望みながらも、自らに選ぶことを禁じた肢(みち)だったのだから。
紅丸の言う通りだ。似合いもしない遠慮などして、どれだけ遠回りをしてしまったのか。無為な時間を過ごしてしまった。
腕の中の頼りない温もりを、京は壊れることを恐れるようにその全身で深く包み込む。腕を解(ほど)いてしまったら途端に霧散してしまいそうな男の体温を、この世に繋ぎとめるべく身体全部で柔らかく抱く。簡単に横抱きに出来てしまうその軽さが正直怖かった。
「こいつ、連れてくからな!」
京はもう一度、屋敷内に向けて吠えた。庵をこんなところへ置いてはおけない。これ以上は駄目だ。
屋敷の前に到着したタクシーへ、意識のないままの庵の身体を押し込み、京は彼と共に八神家を後にする。
一時的な滞在のつもりで草薙本家に立ち寄った京は、庵を静に診せた。この場に長逗留する気は京にはなく、庵の容体の確認ができれば、すぐにでも、彼を伴って東京のアパートへ戻りたいと考えていた。家や血といった、重苦しいものを連想させ易い場所から、出来るだけ庵を遠ざけたかったのだ。まだ暫くは眠り続けるだろう彼を、新しい場所で目覚めさせてやりたい。
庵と共に上京することを、都にだけは知らせておいた。嫁いで八神姓ではなくなっているが、八神家のことは彼女に一任するのが最善だと判断したからだ。
静の見立てで庵に長距離移動させても良いとのお墨付きを貰い、京が部屋で本家を離れる準備をしていると、そこへ当の静が現れた。暫く黙って京のしていることを見守っていた彼女は、
「京、あなた顔付きが変わったわね」
不意にそう言って、自分より遥かに背の高くなった息子を、頼もしそうに見上げた。それがひどく面映ゆく、照れ隠しをするように、京はしゃがみこんで乱暴にバッグに荷物を詰め込んで行く。
「八神のお家のことは、何も心配しなくていいわ」
静の言葉に、京は顔を上げる。
「あなたは彼のことだけをお考えなさい」
「⋯⋯⋯⋯」
京は無言で首肯を返す。意志の強さを感じさせる息子の態度に、静は心底安堵した貌を見せ、ひとつ頷きを返すと、庵のために処方した漢方薬を京に手渡して、そのまま部屋を出て行った。
「庵、おまえ考えたことあったか?」
自分のことを、本当のおまえのことを心配し、気に掛けてくれている人間が、一体どれだけいるのかを。
京は、いまはこの屋敷の別の部屋で眠っている庵に向かって語りかける。
「おまえが自分で思うより、おまえは色んな人に必要とされてるんだぜ?」
――『八神』でも『八尺瓊』でもないおまえが、な。
翌日、庵を連れて大阪を発つ日、朝早くから都が草薙邸を訪れていた。庵の生活必需品や身分証明書などの貴重品を届けるためだ。
「こいつ借りてくよ」
屋敷の門前に横付けされたタクシーの後部座席へ、いまだ意識のないままの庵の身体を毛布にくるんで乗せ、
「ちゃんと返還(かえ)しに来るからさ」
京は傍らに立つ都にそう声をかけた。
「絶対に、なんて約束はできないけど、でも多分『庵』として、あの家に返せるんじゃないかと思う」
だから、いつまでになるかは自分にも判らないが、この男を貸して欲しい――。
京の願いに、
「草薙さんの思うようにして下さい」
しっかりとした迷いのない口調で都は応える。
「⋯⋯兄が望まないと言うことでもいいんです。草薙さんがしたいように⋯⋯」
『八尺瓊』としての庵には、たとえそれを望んでも決して選べない途がある。そして、その選べない途をこそ、兄は選ぶべきなのではないか、都はずっとそう思っていた。その途を選ぶという行為が、庵という個人を生かすことにもなるのだと、彼女は無意識に解っていたのだろう。
「八神の家のことは心配しないで下さい。きっと誰もこのことに抗議したりはしないと思います」
『草薙』の意志に逆らう者など、あの一族の中にはいるわけがないのだし。
「それでも、もし何かあったとしたら、そのときはわたしが責任をもって鎮めます」
――任せておいて。
京に向かってそう言った都の頬に浮かんだのは、驚くほどに力強い笑み。しかし京には不安があった。なぜなら、都はもう八神家の人間ではないからだ。それを危惧し、指摘しようと口を開くより先に、
「わたし、名前を戻します」
いきなりの宣言で都は京を驚かせた。
「八神の姓に戻ります」
もともとは都が婿養子を迎える予定の縁談であったため、彼女がしようとしていることは決して無理難題ではない。
「だから、兄の目が覚めたら伝えて下さい。『八尺瓊』の血はわたしが責任を持って継いでいくから、そのことなら心配しないようにと」
安心して、『八神』でも『八尺瓊』でもない、それ以外の何者でもない『自分』に還ってこの世界を見て欲しい、と。それが妹から兄へのたったひとつの願い。
都は晴れやかに笑って見せた。
どうか心配しないで。母となる女は、きっとあなたたちが思うより、もっとずっと強い存在(もの)だから――。
back | next |