その年も、京が待ち望んだ<熱い>季節はやって来た。
一九九六年、夏――。
それまで闇試合として密かに行われてきた、とある格闘技の祭典が、この年から、スポンサーが付きテレビ中継もされるというクリーンなイメージに一新され、公式大会として全世界に認知されることになった。三人一組の参加チームが2グループに分かれ、それぞれグループ内の総当たり戦で決勝を目指し、最終的に優勝チームを決める、トーナメント形式の格闘大会だ。
その名称を『THE KING OF FIGHTERS』という。
開催三年目を迎えたその年、KOF96の頂点を極めたのは、草薙京・二階堂紅丸・大門五郎という、94年第一回大会からの馴染みの顔触れが揃う日本代表チームだった。
この大会が始まる直前、京は牧師姿の外国人を相手に、野試合で、生まれて初めてとも言えるような屈辱的な敗北を喫している。まるで歯が立たなかった。
男の名はゲーニッツ。
決勝戦が終わった後、優勝チームの前へその姿を現した彼を、京は自らの拳(こぶし)で叩きのめした。その後ゲーニッツが自ら死を選んだことにより、KOF96は本当の意味での閉幕となる。
そして、この大会の終了後、出場選手のひとりだった八神庵が、この年エディットしていたふたりの女性格闘家に生死の境を彷徨わせるほどの重傷を負わせた上、行方不明になっているという話を、京は日本に戻ってから風の噂に聞いていた。
だが、庵のことに関しては殆ど気を掛けてなどいなかった。彼は去年も大会終了後に、今回と同じような失踪騒ぎを起こしていたからだ。そのときも、やはりその年のチームメイトだったふたりの男性格闘家に重傷を負わせ、けれど今年の夏、何事もなかったように涼しげな貌で大会にチームエントリーして来た。
故に。
翌年の97年、何処(いずこ)からとも知れず、何者かの手によって届けられた書簡の差出人が彼であると判ったときも、京は少しも驚かなかった。ああ、やっぱり生きてたんだな、と大した感慨もなくそう思っただけ。
書簡の内容は、予想通りの果たし状。
それを受け取ったとき、京は紅丸・大門とチームを組み、春休みを利用して日本国内のメジャーな格闘大会に出場中だった。そのため、この大会が終了したらという条件を付けて、果たし合いを受けることを庵に伝えた。KOF96では、チームとしての対戦は成ったものの、直接ふたりが拳を交わすチャンスは与えられなかったから。
あのとき。
『命拾いをしたな』
庵は捨て台詞を残し、
『首を洗って待っているがいい。すぐにあの世へ送ってやろう』
不遜な笑みを浮かべて、決勝戦に臨む京を見送っていたものだ。
――どうせ退屈だし。
あの日の昏(くら)い笑みを思い出しつつ、京は軽い気持ちで庵からの申し出を受けることを決めたのだった。
男の企みになど気付ける筈もなく。
まったく毎度毎度ご苦労なことだ、とその顔に苦笑さえ浮かべ、京は半ば嘲るように男の貌を思い起こす。
八神 庵。
彼は、京がKOF95で初めて顔を合わせた人物だった。宿命という言葉ひとつを大義名分に、京を殺すべき相手だと言い放った男。日常の何もかもが退屈になって、どうしようもなく倦(う)みかけていた京を、否応無く、横暴ともいえる強引さを以て非日常の世界へ引き擦り込んだのが彼である。
とはいえ、庵のその行為は、京にとって感謝こそすれ恨みに思うようなことではなかった。煩わしさを感じながらもその一方、心のどこかで彼との対戦を楽しみにしている自分を、京は否定しない。
庵が望むように、宿命とやらの範疇で彼と生命のやりとりをしたいとは思わない。しかし、格闘という枠のなかで彼と対峙し、拳でもって真剣に競い合うことならば、厭(いと)うどころか寧ろ歓迎する。危険だからと、例えユキに泣いて止められても、これだけは譲れないと思うし、譲ろうという気も毛頭なかった。
闘っている間、京は自分が生きているということを、どんなときよりも強く実感できた。血が騒ぎ心が躍るその瞬間は、他のなにものにも代え難い。
だから。
強いヤツと闘い続ける。
それが京の望みだった。
国内の格闘技大会は、京たちのチームが無難に優勝を飾って終わった。表彰式の後、夕刻から、主催者サイドが用意したマスコミ向けの祝賀会がホテルの中庭で開かれ、出場選手は全員それに参加している。ファンサービスの意味合いも含まれているのか、大会関係者でなくても、観戦チケットを所持した上で相応の手続きさえ済ませれば出席することが可能という、気安い立食形式の会だ。
祝賀会が始まってからしばらくは、一頻りインタビューやら何やかやで揉みくちゃにされてしまった京たちだったが、一時間程して場も落ち着き、ようやくゆったりと食事に取り掛かる余裕ができた頃。
「京、あれ⋯⋯八神じゃないのか」
取り皿の上のスモークサーモンに気を取られていた京に、紅丸が声をかけた。
「え? ウソ、どこに」
キョロキョロと辺りを見回す京に、
「ほら、あそこ」
と、紅丸が中庭の一角を指さす。
「おいおい、マジかよ⋯⋯」
間違いない。あれは八神だ。
KOFに臨む彼がいつも着用している、赤いボンテージパンツに白いドレスシャツ、三日月を背にした濃紺のショートジャケット。そして、その燃えるような赤い髪。一度目にすれば忘れられなくなるその衣装と、何よりも彼の放つ氣の禍々しさは、どこにいようが変わることもなければ隠しようもなかった。
大会参加者でもない彼が、なぜこんなところにいるのか。
一瞬は訝しみを覚えた京だったが、すぐに彼と自分とが交わした約束のことに思い至った。
――ああ、そうか。
庵の申し出を受諾し、この大会が終わったら相手をしてやる、とそう答えたのは他でもない自分だ。しかし、だからといってそれが直接的には、今この中庭に彼がいるという理由とは結びつかない。
庵は自らこんなところに出て来ているわりに何をするでもなく、ただ夜空を見上げている。その視線の先の天空には、彼の背負う三日月と同じ衛星(ほし)とは思えないような、丸く明るい月が架かっていた。
月が明るければ明るい分だけ足元の影はその濃さを増す。そこだけが切り取られた絵のように、庵は周囲に溶け馴染むこともなく深い陰影の中に浮き立っていた。彼の周囲には、これだけは普段と変わることなく人影がない。
格闘技ファンで八神庵を知らぬ者などいない筈だが、ひどく近寄り難く、且つ重い雰囲気を醸し出す彼に、敢えて話しかけようという酔狂者もまた一人もいないのだろう。
我知らず月光に誘われるように歩き、気付けば京は、さりげなく男の隣に並んでいた。
庵はぴくりともしないで立っている。
僅かな沈黙を意識した後、口を開いたのは京だった。
「綺麗な月だな」
「⋯⋯そうか?」
深い意味を込めて言った台詞ではない。だから京は、自分の言葉に、まさか反論が、否それ以前に返答自体が、返って来るとは思っていなかった。
一方、庵の方はといえば、黙り込んでしまった京を振り返ることもしない。彼の色素の薄い琥珀色の瞳は睨むように月の姿を映して、普段より透明度が増して見える。覗き込む角度によっては金色にさえ見えるその瞳を、京はこのとき唐突に美しいと感じた。それこそ、いま自分たちの頭上に浮かんでいる、あの月のように。
ただ、男の眼の奥に潜む冥い影は気になった。
と。
「月など⋯⋯脆弱なだけの存在だ」
庵が言った。蔑むような憐れむような、そして、憎むようですらあるその声音。
「ぜいじゃく?」
男の口から吐き出された、思いもよらぬ単語。
京は聞き咎める口調で、思わず庵の言葉を反芻する。
「太陽がなければ、その存在すら誇示できんのだぞ」
「そうかも知んねえけど⋯⋯」
その殆どを前髪に覆われた庵の横顔は、感情を読み取りたくても、京にその表情を窺うことすら許さない。だが、気のせいではなく、彼の放つ雰囲気が、常の――京の知る――それとはどこか違っている。ただ、それがどこということまでは、このとき京には判らなかった。
「自分ひとりでは⋯⋯」
何かを言いかけて不意に言葉を途切らせた庵は、その視界をひととき闇に変えた。そして、
「⋯⋯貴様には」
ふっと気の抜けた溜息を零し、
「どうでもいい話だったな」
低く聞き取りにくい声でそう続けてからゆっくりと目蓋を上げ、ドレスシャツの裾を翻す。
その眼は一度も京を見ないまま。
――太陽には、関係のないこと。
擦れ違いざま鼓膜を掠めた、その言葉の意味を問い質す隙も与えられず、京はひとりその場に捨て置かれた。
京を置き去りに、祝賀会の会場を離れて建物の中へ入った庵は、すぐには部屋へ戻らずホテル内のロビーでひとり掛けのソファーに腰を下ろしていた。
どれほどの時間をそこで過ごしたのか、がやがやと騒がしい一団が入口の回転扉を抜けて来るのに気付き、彼はハッとして我に返る。
「八神」
その集団の中から、いつの間にか耳に馴染んでしまっていた男の声が自分の名を呼んだ。
先程とは違い、庵の眼は視線をゆっくりと動かして声の主の顔を捕らえた。
草薙 京。
この男と庵とが同じ時を同じ場所で過ごしたのは、過去二回のKOF期間中だけだ。それなのに、忘れられないくらいに聞き間違いようがない程に、庵がその声を覚えてしまっているのは、彼がそれを記憶の中で何度も反芻していたからである。
「なんだ、おまえもココに泊まってたんだ?」
宿泊しているホテルを指して京が言う。
「⋯⋯何をしに来た」
質問に質問で返した庵の問には答えず、京は肩越しに、
「さき帰ってろよ」
一緒にホテルに戻って来ていたチームメイトたちにそう言葉を投げて、どっかりと庵の正面のソファーに腰を下ろした。祝賀会でかなり呑んできたらしく、京の顔はアルコールに上気している。
「なんだ、『殺す』って言わねーの」
「⋯⋯こんな場所で、わざわざ騒ぎを起こすこともなかろう。じき、何の気兼ねもなく闘えるものを」
「それもそうか」
あっさりと納得したらしい京は、接種したアルコールがそうさせるのか、やたらとニコニコしている。嬉しそうだ。
見ているのが嫌になる程ゆるんだ面から庵は視線を逸らした。
「で、どういう心境の変化なわけ」
「何がだ」
「だってよ、おまえ『殺す殺す』って言うわりに、今までいっぺんもKOF以外の場で俺に関わって来たことなかっただろ」
公衆の面前で京を屠ること、それが己の快感だ、と。そう言い放ったことさえある彼なのに、今回の果たし状が初めてなのだ、KOFに関わりのない場での邂逅を取り付けられたのは。
――気付いていたのか。
京のことを調子が良いばかりの軽い輩だと思ってきた庵だが、彼は何にも気付いていなかった訳ではないらしい。
しかし、内心の小さな驚きは顔に出さず黙って目の前に座る男を見守る庵に、酔っ払いは尚も言い募る。
「アレなの、暴力はキライだってぇのショーメーしてるつもりか?」
舌足らずな口調。
「気紛れだ」
「へーんなのぉー」
いきなり怪しくなった呂律を不審に思って庵が彼を見遣れば、京はテーブルに突っ伏して眠りこけていた。
「おい、京」
呼びかけても反応はない。
「⋯⋯⋯⋯」
京に、こうも無防備に正体もなく眠り込まれてしまうとは、正直庵には予想外だった。自分に命を狙われているという自覚など、彼には微塵もないのだろうか。ここでは騒ぎを起こさないと言った、先の自分の言葉を鵜呑みにして。
いや、そんなことは有り得ない。京が八神庵という人間の言動を信用する筈はない。
では今ここで少しでも殺気を放てば、それに反応して跳び起きる、と?
そうなのかも知れない。
しかし、先刻自らが京に宣言したとおり、いまは庵の方に彼を襲う気がなかった。
ともかく、泥酔している人間をこのまま放置しておく訳にもいかず、
「まったく世話の焼ける⋯⋯」
庵はひとつ大きな溜息をついてから、意識のない男の身体を荷物を担ぐ要領で肩に抱え上げる。そして、彼の温かさと重みとをこんなふうに間近に感じることができるのも、きっとこれが最初で最後だと思いながら、しっかりとした足取りで歩きだした。
このとき。庵は、京に対する己の感情の正体を、もう知ってしまっていた。
果たして京は、自分がこの想いを連れていくことを許してくれるだろうか。そして、己の、最初で最後の、たったひとつの我儘のために、彼の手を拭えない血に染めさせてしまうだろう自分のことをも――。
コツコツとドアをノックして、庵はそれが開かれるのを廊下で待った。ドアを開けて顔を覗かせるなり、
「京ッ!」
血相を変えた紅丸とは対照的に、
「シッ」
庵は少しも慌てず、静かにするようにと、立てた人差し指を唇にあてた。
「騒ぐな。起きる」
「⋯⋯え、なに、こいつ寝てんの」
紅丸は拍子抜けした表情だ。彼は、京が庵に怪我でも負わされているものと思い込んでいたらしい。
庵は肩に担ぎ上げていた京の四肢を、自ら床に膝をつくことでその場に降ろした。
いつの間にか音もなく近寄って来ていた大門が、まさに爆睡状態の京の背を支え、両脇に腕を掛けて部屋の中へと引き擦り入れる。
その様を黙って見送った庵は、ベッドに寝かされた京の姿に視線を縫いとめたまま、
「二階堂」
傍らに立つ男を呼んだ。
「なに?」
紅丸が顔を上げたところで視線を彼に向け、
「頼みがある」
そう言って、ジャケットの内側にしのばせていた包みを差し出した。
手のひらに少し余るくらいのサイズのそれは、品の良さそうな紫色の布でくるまれている。形状からして、中身は箱物らしい。
「これを⋯⋯、果たし合いが終わったらあの男に渡せ」
庵の言うあの男というのが京を指していることは紅丸にも判っている。
「自分で渡せばいいだろう? それともナニか、自分が負けるとか思っちゃってる?」
「俺から何か渡されたとして、あいつが素直に受け取ると思うか?」
紅丸の挑発には乗らず、庵は淡々と答える。
「それもそうか」
言い返された紅丸も引き際は心得たもので、必要以上に絡むような愚は犯さない。
「どうしてもあいつに返さないといけない物だ。だから、俺からだとは言わなくてもいい。適当に言い繕ってくれ。そこは任せる」
機転の利くおまえになら、全面的に委任してしまっても大丈夫だろう? と庵の眼は語りかけているようだ。
そこまでを聞いて紅丸は何かを思いついたらしく、不意に悪戯な表情をつくり、
「あいつに害のあるモンじゃあねえよな?」
からかう口調で訊く。
庵は少しだけ頬を緩めた。
「ああ、そういう類いの物ではない。安心しろ」
紅丸が包みを受け取るのを確認し、庵はきびすを返す。その背を、
「おまえらの果たし合い、<いい結果>で終わるよう、祈ってるぜ」
と、紅丸の真剣な声が追いかけてくる。
庵はその意味深長な言葉に、肩越しに顔だけで振り向いて、
「俺もな」
低く応え返した。
翌日、京と庵のふたりは、大会が終了して用済みになった、取り壊される前のステージに立っていた。勿論レフリーも観客もいない。見守るのは紅丸と大門のふたりだけだ。どちらに頼まれた訳でもないが、試合の公平さを見届け判定を下すことと、最悪の事態に備えて様々な手配をすること、このふたつが彼らふたりに任された、暗黙の役目だった。
対戦に必要なふたりの能力は、そのどれもが拮抗している。持ち技までが似通っているため、勝負の行方は誰にも予測できない。
「READY GO!」
紅丸の声を合図に、闘いの幕は切って落とされた。
先に仕掛けたのは京。昨年のKOFでは一度も使わなかった朧車で、彼はいきなり空中からの蹴りを見舞う。そんな京の姿は、紅丸の目に、KOF本選のときよりも数段熱くなっているように映った。対する庵の方はじっと力を温存し、そのエネルギーを最大限に活かせるワンチャンスを待っているような、一種不気味な雰囲気だ。
紙一重の間合いで相手の拳を躱し、僅かな隙をついて反撃の技を繰り出す。そのくりかえし。ふたりの対戦は、息もつかせぬ展開になった。これが公式大会なら、とっくに制限時間を過ぎている。だが、この果たし合いに制限時間は設けられていない。そうして、ふたりともが決定打を打ちあぐねている間に、いたずらに時間ばかりが過ぎていき、互いの体力に限界が見え始めた。
次が最後の攻撃になるだろう。紅丸がそう思ったとき。
遊びは終わりだ、と。一声叫び、真っすぐに天を突いた庵の両腕は八稚女の構え。京もまた、庵とほぼ同時に大蛇薙の構えをとっていた。京に於いては、避けるとかガードするとかいった消極的な選択肢が、最初からない。やはりこの場面でも、彼は常と変わらぬ強引で博奕(ばくち)的な闘い方を選択していた。おそらくは無意識に。
この一撃ですべてを決する――。
そんな覚悟と気合。
咆哮を上げて。
どちらの技が先に決まるかが勝負の分かれ目だ、と紅丸は読んだ。最悪、相打ち。
そして一瞬ののち――。
炎の乱舞。
放たれたふたつの異なる色の炎は、過去この対戦カードにおいて幾人ものギャラリーが眼にしたように、ひとつの炎に融合されるか打ち消しあって消滅するか、そのどちらかになる筈だった。紅丸と大門が固唾を呑んで見守る中、しかしそれは鮮やかなオレンジ色の残像だけを生んで宙を走り、真っ向から襲い来るべき蒼紫(そうし)の炎は沈黙したまま。庵の身体は一瞬にして紅蓮の炎に包まれ、そして、どうっ、という地鳴りと共に背中からステージに叩きつけられた。
「八神ィ――――ッ」
京が叫んで庵に駆け寄る。それに続いて、紅丸もステージに駆け上がってきた。
「救急車!」
大声で、けれど普段の冷静さを失わない紅丸が大門に叫ぶ。大門は彼に言われるよりも早く、その体格に不釣り合いなほどの俊敏さで、既に走り出していた。
「八神ッ!」
叫んで庵に取りすがった京が、目の前で倒れ込んだ男の上体を抱え起こす。
「なんで避(よ)けなかった!? なんで⋯⋯っ」
だらりと力無く垂れ落ちる長い腕。京に揺さぶられるまま、意識のない身体は振動するだけだ。
「京、よせ」
京の背後から彼の肩を強く掴んで、紅丸はその動きを制した。頭部を強打した様子はなく、現時点では耳からの出血も見留(みと)められないが、それでも闇雲に動かすことは危険だ。
「八神ッ」
耳元での京の大声にも、庵はまったく反応しない。よく見れば、不可思議なことに、彼はうっすらと微笑んでいるようだった。内蔵への圧迫から生じる出血に、唇端から赤い体液を大量に溢れさせながら、それでも彼の口元には淡い笑みが確かに浮かんでいる。
痛みを知覚しなかった筈はない。なのに、彼の表情のこの穏やかさは、どうだ。
「こいつ⋯⋯」
「⋯⋯八神?」
何をどうすることもできないまま、ただ助けを待つだけの彼らの元へ救急車が到着したのは、それから僅か二分後のことだった。
病院に担ぎこまれた庵はいくつかの検査を受けた後、すぐにオペ室へと運ばれ、緊急手術を施されることになった。
手術中を示す赤いランプを忌ま忌ましげに睨みつけ、京はオペ室前の廊下に備えつけられた長椅子に、前屈みの姿勢で腰を下ろしている。紅丸はその隣で腕を組み、壁に背を預けて立っていた。この場にいない大門は連絡係として、ひとりホテルの部屋で待機している。
京は顎の下で組んでいた拳に額を押しつけた。そしてゆっくりと顔を上げ、今度は唇を押し当てる。指に歯を立ててしまいたい衝動に駆られていた。
「あのとき⋯⋯」
京が口を開いた。
その声に、紅丸が彼の方へと顔を向ける。
「あのとき⋯⋯俺が大蛇薙放ったとき、アイツ、待ってたろ。八稚女出すのやめて」
「⋯⋯⋯⋯」
「ガードもしようとしなかった。それどころじゃねえ、腕降ろして待ってやがったんだ」
その瞬間の映像は京の目蓋に焼きついていて、何度でも巻き戻し、鮮明に再生することができた。
八稚女を仕掛けるためにまっすぐ天を突いていた庵の両腕は炎を呼ばないままに降ろされて、正面から襲い来る紅蓮の炎を、その身はただ棒立ちになって待っていた。直後、庵は大蛇薙の炎に包まれ、スローモーションのコマ送り映像のように、その身体が地を離れ、後方へと吹き飛ばされて行った。
「大蛇薙をまともに喰らったら⋯⋯あれが急所にハマっちまったらヤバイってことくらい、あいつでなくたって判る。なのに⋯⋯なに血迷ったこと⋯⋯ッ」
何が歯痒いのか何に苛立っているのか、京は無意識に親指の爪を噛んでいる。見兼ねた紅丸が京の手を抑え、無理にその行為をやめさせた。そして、自分の考えを口にする。
「八神が⋯⋯、あいつ自身が望んだってことじゃないのか⋯⋯?」
「殺されたかったって言いたいのかよ」
誰に対する憎しみが籠もっているのか、睨み上げて来る京のキツイ視線に怯むこともなく、紅丸は彼の手を掴んだまま、
「⋯⋯ああ。だって、どう考えたって⋯⋯あれは⋯⋯」
言い淀みながらも答え返す。
――自殺行為。
百万歩表現を譲るにしても、庵の現状を見れば、自傷行為にまでしか格下げできない。
「俺を殺人者にしようって?」
「それは判んねえよ。でも、多分、それは違うと思う」
京を犯罪者にしようとして、ではない気がする。
紅丸は慎重に言葉を選んだ。ただでさえ苛々して思考力の低下している短気な男を相手に下手なことを言えば、文字通り火に油を注ぐ結果になってしまう。
「これは俺の想像でしかないが⋯⋯、おそらく八神はただ死にたかったんじゃないのかな」
「死にたかった? じゃあ、なんで俺に!」
「判んねえ、俺にも。けど」
それ以外に考えられないではないか。
「真相は本人に訊いてみるしかない」
生きて出て来たらな、と続けて、険しい貌をしたままの紅丸は、掴んでいた京の手をようやく解放した。
「死ぬワケねーだろ!」
吐き捨てた自分の言葉が予想外に深く己の胸に突き刺さり、京は不機嫌そうに貌を顰める。
「こんなことで死なれちゃ堪んねえよ」
このまま逝かせてなんかやれない。そんなこと、できない。
庵の口から、京は何ひとつ納得のいく回答を聞かされていないのだ。自分が八神に恨まれなければならない理由も、果たし合いの途中でそれを放棄した理由も、そして何より、庵が八神に拘っている訳を。
格闘家として鍛え上げてきた肉体のお陰か、庵は皆(みな)の望みどおり、その呼吸を止めることなくオペ室から運び出されて来た。集中治療室にその身を移された彼は、しかし薬の効用が切れる時間を過ぎても一向に目を覚まさない。
「正直なハナシ、俺は八神の方がこんなことになるとは思っちゃいなかったんだ」
庵の目覚めを廊下で待ちながら、沈黙に耐え兼ねたように紅丸が言った。
「最悪の事態は考えてたけど、それは⋯⋯京、おまえが斃されるってことに対してだった」
京のプライドを傷つけるだろうことを充分覚悟した上での言葉。怒ってもいいぜと言い加えた直後、案の定、京の憤怒の声が廊下いっぱいに響き渡った。
「俺の力がこいつのより劣るって言いたいのかよ!?」
一瞬にして噴き出した京の怒りに身を浸しながら、紅丸は尚もしずかに言葉をついだ。
「力は互角だと思うよ。それでも勝敗が決まるのは、飽くまでも試合時間っていう制限と判定があるからで、そこには時の運ってのも関わってくるだろう。まあ、運も実力のうちとは言うけどさ。⋯⋯それに、」
あの大会、とKOFのことを指して、
「に関して言えば、お互いが先鋒で対峙しない限り、同じ条件下で闘うことにはならない。しかも例え先鋒でぶつかれたとしても、後のこと、考えちまう」
一対一、崖っぷちで対峙するのと、負けても残りのチームメイトがまだ闘えるという状況とでは、どうしたって対戦の仕方も心構えも違ってしまうだろう。
「八神には迷いがなかった。おまえに対して⋯⋯いや、おまえを殺すってことに対してな。少なくとも去年のKOFの期間中までは、俺はそう感じてた」
そこまで言って紅丸は、京に向き直った。
「だけど京、おまえは違ったろう。おまえは飽くまでも試合の中、競技としての闘いの中でしか、本気になっちゃいなかった。八神を殺そうなんて気は、ハナから持ってないんだ。そのおまえと八神とが拳を交わして、どっちに軍配が上がると思う? 殺意が勝らないなんてマジで思うか? そんな保証、どこにもないだろ」
紅丸は、京にも殺意をもって欲しいとか、そういうことを言っている訳では決してない。勝てば正義だなんて、陳腐で認めたくない格言を吐く気も無論ない。だが、今この瞬間には、京に対し、こういう言い方しかできなかった。
「⋯⋯⋯⋯」
沈黙する京を尻目に、紅丸はまだ続ける。
「それにな、八神には手段を選ぶ気なんてなかったハズだぜ、おまえの息の根を止められるんだったら」
たとえ世間に、卑怯だと、汚いと、罵られるような遣り方であったとしても。本気で京を殺したいと思っていたのなら。
京は紅丸の視線を真っ向から受け止め、しかし沈黙を破れないままでいる。言い返したい気持ちは体中、噴き出しそうなくらいにあるのだが、言い返すべき言葉は何ひとつ明確にならない。それは紅丸の言葉を正論だと思ったからなのか、図星をさされたからなのか。
唸るような声を奥歯の隙間から絞り出して、京は眉間に深い縦皺を刻む。
しかし、何がどうであれ、理由がなんであれ、現実に実際に倒れたのは庵の方で、彼が目の前のガラス一枚を隔てた空間に横たわっているという事実は、むろん覆(くつがえ)らない。
重苦しい沈黙が再びあたりを浸し始める。その静寂を破ったのは、
「あっ」
という、紅丸の驚いたような短い叫び声だった。
「ヤバイ、忘れてた! おまえに渡すように、八神から頼まれてたものがあったんだ」
言いながら紅丸は、側の長椅子に置いていた自分のスポーツバッグに手を伸ばす。
「果たし合いが終わったらおまえに渡すようにって、昨日の夜、八神から⋯⋯」
あったコレだ、と紅丸は、その中から紫色の包みを取り出した。事態のあまりの急展開ぶりに、彼はすっかりその存在を忘れ去っていたのである。
「八神が?」
紅丸から包みを受け取り、京は長椅子に腰を下ろした。
「自分からだとは言わなくていいって、あいつそう言ってたけど」
手渡されたそれを膝の上に置き、格式にのっとった手順で丁寧に折り包んである手触りのよい布を、京はもどかしい手つきで開いていく。
「あ⋯⋯」
京の手の動きが最後の最後で止まったのは、その布に染め抜かれた家紋に気付いたからだった。本来なら包み終わった時点で目に入る場所にある筈のそれは、八神家の三日月。庵が、外からは見えないよう、わざとそう折り包んだものに違いない。例え彼の言(げん)に従って紅丸が名を明かさずとも、それを見さえすれば贈り主が知れるような細工だった。
包みの中身は桐の箱。
ふだんの乱雑さは鳴りを潜め、箱に巻きつけられた紐を解ほどく京の手つきがぎこちない。逸る気持ちを押さえて蓋を開け、そこでふたりが目にしたものは、
「勾玉⋯⋯?」
京の手元をじっと覗き込んでいた紅丸は、見慣れないその小さな物体に目を丸くする。
衝撃吸収のために箱の中に敷かれた、弾力のある赤い布の上に納められているそれは、『八尺瓊の勾玉』と、そう呼ばれる代物だった。
「家宝だ。八神家の」
京は手の中のそれを見つめたまま、微動だにしない。
「京?」
紅丸が不審そうに京の顔を覗き込む。
「どういうことだ⋯⋯?」
誰へ聞かせるともなく京は呟いた。その眼は勾玉を凝視したまま。
「どうしてこんなものを、俺に⋯⋯」
果たし合いの結果如何で、庵が自分の身の危険を計算していたのだとしても、これは八神家に送るべきものである筈だ。いや、そもそも庵個人が、いかに当主だとはいえ、家宝を八神家から持ち出していること自体、充分に面妖(おか)しい。
八神家⋯⋯。
そこまで考えて、京はハタと気付いた。
「そうだ、こいつの家⋯⋯八神の本家に連絡しねえと」
当主が倒れたのである、お家の一大事ではないか。
長椅子から立ち上がった京は、電話をかけるべく集中治療室の前を離れた。紅丸もその後を追う。しかし、京の足は待合室の廊下で、なぜかそれ以上動かなくなってしまった。
「どうした?」
公衆電話を目前にして、それでもなかなか動こうとしない彼を不審に思い、紅丸が声をかける。
「おまえ、掛けてくんねーかな、八神ンとこ」
「へっ?」
庵をこのまま八神家に帰してしまってはならない、返してしまってはならない、そんな気がするのだ。理由は京自身にもよく解らなかった。直感(カン)と言ってしまえば、それなのかも知れない。
「八神があんなことになってるてのはとりあえず伏せといて、あいつン家(ち)が今どんな様子になってんのか知りてェんだ。うまく聞き出して欲しい」
家宝を手放す。そんな大事(だいじ)を本家の人間が知らない筈はない。京はそう考えた。この予測が正しければ、彼らは庵の行動をも事前に知っていたものと考えられる。その彼らに問えば、庵が何をしようとしていたのかも判る筈だ。
「OK。やってみまひょ」
面倒なことをいやに簡単に言ってくれるものだ、と呆れた紅丸だったが、それを口にも顔にも出さずにおどけた調子で了承し、
「で、番号は?」
「ああ、それなら⋯⋯」
八神本家の連絡先は、京が草薙本家へ問い合わせることで判明した。
受話器から呼び出し音が流れ続ける。それを1、2、と頭の中で数えながら、紅丸は応答を待った。6まで数えたところで送話器の上がる音が受話器から聞こえ、年配の女性の声が八神を名乗る。紅丸は使用人とおぼしき彼女に対し、自分の身分を、KOFに参加したことがあり庵とは面識がある者だと明かして、至急庵と連絡をとりたい旨を伝えた。
が、
『庵様の動向については、八神家は一切関知致しておりません』
それが、相手から返ってきた言葉のすべてだった。そのあまりの素っ気ない応答に、受話器に顔を寄せ耳を欹(そばだ)てていた京は目を丸くして紅丸と顔を見合わせる。
庵の動向を把握していないというのなら、当主の現状を知らせるのが正しい行いに思われたが、京の咄嗟の判断でそれを見送り、紅丸は適当に言葉をつないで八神家との会話を切り上げた。
「家の人は何も知らされてないみたいだな」
別段取り乱している様子は感じられなかったし、確信犯的に紅丸を欺いたとも思えない。紅丸を相手に、そんな腹芸は必要ない筈だからだ。だとすれば、
「要は当主の一存ってこと、か⋯⋯?」
京は呟いた。
宿敵だと公言して憚らなかった草薙へ、庵が八神の家宝を差し出すということ。それは、八神家の意志とは関りのない行為だった、と。そういうことになる。
「あのな、紅丸」
集中治療室前へと戻りながら京は、八神のことと大蛇(オロチ)のことについて、少しだけ紅丸に話をした。そうすることで自分の考えも整理したかったのだ。
八神のもつ大蛇の血は、代々、当主となるべき直系の第一子にのみ受け継がれる。そして、その引き継ぎが完了した時点で先代は大蛇の血を失い、それによって大蛇の力を使えなくなる。そういう仕組みになっている筈だ、と。
京のこの知識が正しければ、つまり今現在大蛇の血は、庵ひとりに集約されているということになり、その彼が世継ぎを残さぬままに死ねば、大蛇の血が後世に伝わることはない。それはイコール、八神の血が絶えるということだ。
庵はそれを承知で様々な手を打ち、そしてすべてが終わったあかつきに、元はひとつの血であった草薙家へ、あの勾玉を返還しようとしたものと思われた。大蛇の力を持たぬ一族の八神家へではなく、草薙家に。
京と紅丸は、このとき初めて、庵の行動の意味を理解したような気がした。
つまり庵は、草薙・八神の両家の間にある柵(しがらみ)に、自らの代で終止符を打とうとしたのではないか、と。
庵から聞いた言葉を思い出して、紅丸が言う。
「そうだよ、『返さないといけないものだ』って、八神のヤツ、そう言ってたんだ⋯⋯」
渡す、ではなく、返す、と庵はあのときそう言ったのだ。
ふたりは集中治療室の前まで戻った。
改めて目にするガラス越しの庵の姿に、京の背筋を悪寒が走る。もし本当に、自分が庵を殺してしまっていたら。もう目の前のこの肉体が息をしていなかったら。どうなってしまっていたのだろう、この世界は。少なくとも自分を取り巻く環境は、変化せずにはいなかった筈だ。
京自身も気付かぬうちに、八神庵という男の存在は彼の中に居場所を確保し、いつの間にかしっかりと根付いていたらしい。
京は、呼吸器を装着され、その器具に口許を覆われた男の、生気のない横顔をじっと凝視(みつ)める。
例えこの男がどうにかなっていたとしても。
――なるようになっただろう。
頭のどこかでそう思う気持ちと、そんなことは起こしてはならない変化だと、心の中で思う気持ちと。
気分が悪い。
波が押し寄せて来ていた。何かが波のように、京に向かって押し寄せて来ていた。そしてその波は、いつまでも引くということを知らなかった。
結局、数日ののち、庵は意識の回復を待つことなく一般病棟の個室に移された。呼びかけたり叩いたりしても、彼から反応は返らない。だが、植物人間とか脳死とか、そういう類いの状態ではないのだそうだ。ただ眠っているだけなのだと。
現に庵は寝返りを打つといった動作を、頻繁にではないものの、医師や京たちの目の前でして見せている。
医師からの説明では、眠りが、通常のそれよりも深いのだという。併せて、目覚めないのは精神的なものに原因があるのではないか、というのが病院側の見解だとも伝えられた。
庵の入院以来、京は庵の家族とは連絡がつかないのだと偽り、自分は彼の親戚であるからと言って、病院側との交渉一切を引き受けていた。庵と親戚であるという点は一応間違いではない。
その京も、いつまでも庵をこのままにしておく訳にいかず、決断を迫られていた。
庵が一般病棟に移されて二日後の正午。
「電話しに行ってくる」
庵の眠る病室で、紅丸と共に彼に付き添っていた京が、そう言って椅子から立ち上がった。
「どこに」
「草薙の本家だ。いい加減、こいつをどうするか話し合っとかないとな」
こういうとき、京は草薙当主の貌になる。そうして病室を出た彼は、それから随分と長い間戻って来なかった。
再び京が紅丸の前に姿を現したのは、もう陽が傾き始めようかという時刻。
彼の表情は、相変わらず冴えない。
「どうなったんだ、話し合いの方は」
「んー。まあ、いろいろ⋯⋯。とにかく今はこいつの容体がはっきりしないからな、結論が出せねえ」
早くひとつの決断を下してスッキリしてしまいたい、というのが今の京の本音だ。彼はその性格上、中途半端な状況に置かれていることが我慢し難いのである。
京と紅丸は、申し合わせたように、ベッドの上の庵へと同時に目を向けた。
ベッド脇に設置された脳波計のモニターの上を、くりかえし、蛍光グリーンの光が走っては消える。
ふたりの視線の先で、庵は眠り続けている。庵のこんな穏やかな貌を、自分たちは過去に一度でも見たことがあっただろうか。
いつだって庵は、何かに追い詰められたような、何かに押し潰されそうな、そんな余裕のない表情をしていた。今更のようにそのことに思い至る。
だとしたら、いま彼は⋯⋯。
「しあわせ、なのかな」
独り言のような京の呟きに、紅丸も小さく答える。
「⋯⋯たぶんね」
そのとき、沈黙だけが彼らの世界のすべてだった。
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