『おまえさ、いつまで実家(そっち)に籠ってる気なんだ。いいかげん東京(こっち)に戻って来いよー』
京が八神家を訪れてのち約一週間、焦れた調子の電話で京を実家から誘い出したのは紅丸だった。紅丸は海外で開催される格闘大会に個人エントリーしており、都内で庵と最後に会った日の翌日から半月ばかり日本を離れていたのだが、帰国と同時に気がかりを解消しようと行動に出たのである。
紅丸に請われるまま、京は午前の航空便で大阪を発ち、昼前には羽田に到着していた。
空港のロビーで流れる臨時ニュースは、九州・中国地方の日本海側上空の気流の乱れを伝え、朝から全便の発着が見合わせとなっていることを告げていた。
モノレールに乗って空港を離れた京は、約一時間後、紅丸と待ち合わせた都内の駅に降り立った。
「よう」
手を振って、ここだと注目を促す友の姿を改札の向こうに見留め、京もかるく手を上げながら近づいて行く。紅丸は、セットされていない金髪をライトグレーのハーフコートの背に流し、その上から濃紺のグレンチェック柄のマフラーを巻く冬仕様の姿で京を待っていた。
京と紅丸とが直接顔を合わせるのは昨年末に大阪のホテルで逢って以来で、ずいぶんと久しぶりの再会であるのだが、改まって挨拶をするような間柄ではない。特に近況を報告し合うでもなく、そのまま目的地も告げず先を行く紅丸について京も歩き出した。
「で、なんで男ふたりで宝石店?」
ジュエリーショップという語彙は京の辞書にはなかったらしい。紅丸が歩みをとめた店舗の看板を前にして京は渋い顔になっている。入店を躊躇するように袖を引く友を、紅丸はなんの含みもない笑顔で振り返り、
「いいじゃんいいじゃん、取り寄せ頼んでたのが届いたって連絡が留守中にあってさ、受け取って帰るだけだから」
ちょっとくらい付き合え、そう言ってさっさと入り口のドアを開けてしまう。
「チッ」
舌打ち後、外で待つのも退屈だろうと京もしぶしぶ後に従った。
店員を捕まえ用件を話している紅丸の傍らで、しばらくの間は大人しくしていた京だったが、すぐに飽き、ショーケースを覗き込みながらふらふらと店内を歩き始める。そうして、あるケースの前で動きをとめた。
「京」
何か気になる物でも見つけたのか、と用件を済ませた紅丸が、小振りのショッパーを片手に京に近づいて来る。
「なに見てんの? ⋯⋯ああ、真珠」
「これって天然と養殖とがあるんだな」
そういうのは魚とかの食い物だけかと思ってた、と言いながらケースの前から離れた京は紅丸と連れ立って店の外へ出た。
「そういや京、おまえ真珠がどうやって出来るか知ってるか?」
「いや」
店を出ると同時に発せられた紅丸の問に京は首を振る。
「あれってさ、貝の中に入った異物が元になって出来上がるもんなんだよ」
「異物?」
「そ。貝はその異物を吐き出せないんだろうな、きっと。それで、自分の躰内に存在し続けても危害を受けない状態にしようとして、異物のまわりを自分を組成するのと同じ成分で包み込むんだと」
時間をかけて、幾重にも。そうして出来上がるのが、あの丸い、誰もが知る形の真珠の粒なのだ。
異物を躰内に持ち続ける期間が長ければ長い程、真珠は大きく育つことになり希少価値が上がって高値がつく。天然真珠とはそういうものなのだ、と紅丸は言った。
「じゃあ養殖真珠ってのは、⋯⋯まさか」
「ん。その異物を、人工的に貝の中に挿入して真珠を作らせる」
「⋯⋯貝の口こじ開けて中の肉を切って?」
「まあ、そういうことになるな」
京は連想してしまった痛みに眉をひそめ、口に出す。
「なんか痛てぇ話だな、それ」
「実際痛いんだと思うぞ、異物の存在自体も」
傷を入れられることは勿論だが、異物を躰内に孕むこと自体も痛いのではないかと紅丸は想像する。自然発生したものであれ人為的に挿入されるものであれ、それが痛いからこそ、身に触れても刺激を受けないように傷つけられることがないように、あの角のない丸い形に変化させるのだろうから。ただし、人工的に挿入される『核』と呼ばれる異物には球体状に加工された貝殻が使用される。だから、形状故の痛みがあるのかどうかまでは正直なところ判らないのだが。
真珠貝の話はそこまでにして腕時計に目を遣り、
「ちょっと早いけど昼メシ食わねえ?」
紅丸は京を誘い、庵と最後に会った日に食事をしたのと同じイタリアンレストランへ足を向けた。
「おまえ最近八神に逢ったか?」
ウェイターに案内されたテーブルに着いた途端、紅丸がそう切り出した。
「最近も何も――」
紅丸の質問に答えながら、京も彼の正面の席に腰を下ろす。
「八神になら一週間? いや、その前の日だっけな。あっちの屋敷で逢ったばっかだぜ」
八神がどうかしたのか、と京が改めて口にする前に、
「なんか変わったところ、なかった?」
紅丸が矢継ぎ早に訊いて来る。
「変わったところって言われても⋯⋯」
以前の彼のことを思えば、何もかもが変わっていたと言えるだろうし、本来の彼、つまり『八尺瓊』としての彼のことだと考えれば、何も変わっていなかったとも言える気がする。
「何なんだよ、いきなり。あいつがどうかしたのか?」
返答に窮し、京は逆に訊き返す。時間をかせぐようにメニューを開き、ランチタイム限定のセットに目を通すと、手を挙げてウェイトレスを呼んだ。
「俺、このあいだ⋯⋯半月くらい前だったか、この店であいつとメシ食ったんだけどな」
京に倣って注文を決めた紅丸は、ウェイトレスが立ち去るのを待って話を続け、グラスの水に口をつけた。
「そのとき聞いたんだけど、あいつ、結婚するんだって?」
「ああ」
頷いた京は、挙式は春だ、と付け加える。
それを聞いた紅丸は、不快そうに顔を顰めた。京が承知している、つまり宗家が了承済みの縁談であるということだった。
実を言えば紅丸は、あの日庵から聞かされた縁談が八神家の一存であればいいと願っていたのだ。そうであるならば、京の、宗家の意向ひとつで阻止することも可能だろうから。
「あいつな、隠居したいって言ったんだ」
「隠居⋯⋯」
「さっさと子供に家督譲って引っ込みたいんだってよ」
あれは庵の心底からの願望だったと紅丸は感じている。
紅丸はあの日、庵がこの都市(まち)に帰って来たのだと思い込んでいた。だが、それは誤りで、庵はここから遠く離れた雪深い土地に引き籠もり、それっきり人目に触れる場へ姿を現していないのだ。既に隠居しているようなものではないか。
「いいのか、おまえはそれで」
意図せずして、紅丸はかつて庵に訊いたのと同じようなことを京に対しても尋ねていた。
「いいのか、って⋯⋯」
「だってよ、八神の奴、跡継ぎが出来たら消えるって言ってんのと同じだろ」
「消えるって、別に⋯⋯。表立っては家の指揮を執らなくなるって、それだけのことだぜ?」
うちの親父を見てみろよ、と京は言う。彼の父親である柴舟は、息子に家督を譲ったことで隠居の身分になっているのだが、紅丸の言うような<消え方>はしていない。それどころか逆に羽根を伸ばし放題で、家とは無関係な表舞台に頻繁にその顔を出している感さえある。
「あいつの場合でもそうなると思うか」
京の説明を受け、しかし紅丸の眉間の皺は消えなかった。
「八神は⋯⋯、あいつはマジで消える気なんじゃないのか? 俺たちの⋯⋯いや、おまえの前から」
「それは」
言葉に詰まり、京は晒されている紅丸の強い視線から顔を背ける。
「否定できるか?」
「⋯⋯」
出来ない。実際、会うことを拒絶されたばかりでもある。
「ヤバイよ、あいつ。うまく言えないけど、放っとくのマズイ気がすんだよ、俺は」
紅丸が庵から感じ取った危機感は、京が漠然といだいている不安とも通ずる感覚だ。
「八神が言ったんだ。自分は諦めることには慣れてる、だから大丈夫、耐えられる、って」
「諦める⋯⋯」
それは京には縁遠い言葉。
「そう。それってさ、あいつには何か望みがあるってことだろ? だけど、それを諦めないといけない、そう思ってる」
それが何なのか、紅丸には漠然としか判らない。判っているのは、京に関わる何かだろうということ。それだけ。
「しかも、諦めないでいることよりも諦めてしまうことの方が楽だからとか、そういう積極的な理由で諦めようとしてるのとは違う」
むしろその逆で、諦めてしまうことの方が彼にとっては辛い選択であるようだった。
何かを諦めるというのはネガティブなことなのだろうけれど、諦めないでいること以上にエネルギーを要することなのではないかと紅丸は考えている。やめるということ、何もしないでいるということ、どちらもが動きのないアクションだ。そして、ある一点に留まり続けるために必要なエネルギーは、変化を求めて動き回るためのそれよりも、ともすれば消耗が大きいのかも知れない、と。
そんな苦痛を押してまで、庵が諦めようとしていることとは何なのか。
紅丸の話は、京に、彼がかつて庵から聞いた言葉を思い出させた。
「そういや、あいつ俺に言ったことがある」
全てを受け容れてしまえることの強さと、ひとつのことしか信じないで、それ以外を受け容れないことの強さとは、同じレベルで考えてはいけないものだ、と。
「だから、どっちが本物の強さかなんてことは、考えても無意味だ、ってな」
諦めないでいることと諦めること、それも、この強さ云々と似た次元の話なのかも知れなかった。
庵がいま『八尺瓊』として得ようとしている強さは、全てを受け容れることのそれだ。あの男は、何もかもを自分ひとりで呑み込み、自分ひとりで消化しようとしてもがいている。
あの痛みでさえもひとりで呑み込んでしまおう、と。そうして京の助けを拒むのだ。
京の言葉を受けて紅丸が言う。
「確かにそうなのかも知んねえな。そう、多分どっちも強い。でさ、どっちも苦しいことなんだよ」
京は頷く。
「ああ。でも俺には、あいつの方が辛いように思えちまう」
それは、どう足掻いても京には解らない苦しさだからだ。比べようのない苦しみだということは、頭では解っている。だが、京は考えずにいられない。庵の苦しみを想わずにはいられない。そして己の氣で触れた、あの痛みを思い起こしてしまう。庵の裡に巣食う、あの鮮烈で強烈だった痛みを。
「八神はいったい何を諦めようとしてんだろ」
運ばれて来たラビオリの皿へ、思い出したようにフォークを伸ばした紅丸が独り言のようにつぶやく。答えを期待していなかったのだろうその声に、けれど京は反応した。
「⋯⋯死ぬこと、だろうな」
あの男は、長いあいだ、死ぬことを望まれ、死ぬことを望んでいた。それが、大蛇の血を祓われてなお生き延び、いまは『八尺瓊』として生きることを義務づけられている。
「あいつはな、生まれてからずっと、死ぬことだけを期待されてたんだ。おまけに本人にもその自覚があって、死ぬためにしか生きて来なかった。だから、もう死ぬ必要がなくなった今もまだ、死に対する憧れから逃れられてねえんだろ」
「⋯⋯そういうこと、か」
それからしばらくふたりの間に会話はなく、沈黙を埋めるように食事に集中する。
リゾットをあらかた平らげて、手にしていたスプーンを皿に添え置き、それを機にふたたび京が口を開いた。
「紅丸、おまえ気付いてたか、あいつが俺のこと草薙って呼んでたこと」
「え、ウソ⋯⋯」
京の言ったことが信じ難く、紅丸はフォークを操る手を止め目を見開いた。
京、と。
ときに吐き捨てるように、ときに愛惜しむように。庵が発音するその名は、なぜか特別な響きを持って紅丸の耳に心地良く馴染んでいたのだ。
「いつから?」
「今年の旧正月に神楽と三人で集まって、あいつを八尺瓊の当主として受け容れる――俺たちはそういう選択をした。その後からだ」
つまり、紅丸が庵と遭ってこのレストランで話をしたときには、既にその選択がなされていたことになる。だが、そのとき庵が京のことをどう呼んでいたか、紅丸は思い出せなかった。もしかすると、固有名詞は一度も口にしなかったのかも知れない。
「なんで急にそんな⋯⋯」
「『八尺瓊』に還ることが決まってからのあいつは、俺を草薙当主としてのみ認識しようとしてるんだよ」
京は皮肉っぽく唇を歪めた。呼び名を変えたことも、その認識を強固なものにするための一手段。
「そうやって、昔の――闘うことが出来た自分を殺そうとしてる」
「どうして」
「俺に、『闘うことのできた八神庵』を忘れさせたいんだろ」
そうやって、京から関心を寄せられまいとし、気に掛けられることを拒む。京と必要以上に関わる気は、あの男にはもうないのだ。
「それと、あいつにとっての昔の自分は『死にたがっていた八神庵』だから⋯⋯だと思う」
京は息をつく。
「死にたがってた頃の自分を抱えたままじゃ、あいつは⋯⋯」
不意に京の顔が歪んだ。痛みを堪えているように見えるその表情に、
「どうした、どこか痛むのか」
紅丸が眉根を寄せ、気遣わしげに問う。
「いや。俺じゃねえ」
京は首を振った。痛いのは自分ではない、庵だ。
「?」
理解できない返答に怪訝な貌を見せる紅丸を置いて、京は言葉を続ける。
「『死にたがってた八神庵』を抱えてちゃ、あいつは八尺瓊当主として生きて行くってことに苦痛を感じる」
八尺瓊当主としての責務を果たすためには、庵は生きなければならず、だが生きるためには、死に憧れる男の存在が苦痛になる。
「だから、その存在を消してしまわないと、あいつ自身が辛いんだ」
「そんなんで大丈夫なのか、八神の奴」
「あいつに言わせりゃ、そういう苦痛を抱えるっていうのも、乗り越えなきゃなんねえ試練のひとつなんだと。⋯⋯俺には理解不能だけどな」
眉宇に煩悶を滲ませ、京は首を振った。いつだって庵の言い分は、とうてい京には理解できない。
「次に会うときは、完全な『八尺瓊』としての自分でありたい――、あいつにそう言われたよ」
「完全な八尺瓊?」
「そう。あいつは俺のことを宗主として崇め奉る気なんだろ」
「お前、それ容認すんの」
「⋯⋯」
したくない。容認などしたくない、が、それを望むことは京のわがままだ。
「俺には」
京が言葉を絞り出すようにして口を開く。彼の視線は紅丸を離れ、テーブルの上の空(から)になった料理皿を見るともなしに眺めている。
「あいつの望みが何なのか解ってる。いつだってあいつは、俺に対してたったひとつのことしか望んじゃいない。なのに俺は⋯⋯」
京は、庵のその、ただひとつの願いを叶えてやれないのだ。いつも、いつも。
庵はかつては京に殺されることを望み、その必要がなくなってからは、過去の己を京に忘れて欲しいと願っている。なのに京は、彼に死を与えてやれず、今また、過去の、闘えた男を忘れることが出来ない。
ジレンマ。
「挙げ句、自分の願いが叶わないだろうってことをあいつは予想してて、だからその願いを殺すすべまで探そうとする」
どこまでも庵は、利己的な自分を殺そうと努める。それが『八尺瓊』の本質なのだと言い、おまえが悪いのではないと突き放し、関心を寄せられることを善しとせず、京が謝ることさえ認めない。そして構おうとする腕を振り払う。寄り添い手を差し伸べることなどもっての他だろう。
「なあ、紅丸、」
京は視線を上げ、紅丸を見た。
「あいつの望みを叶えてやれない俺は薄情か? ひどいヤツなのか?」
「⋯⋯」
返答を望まれていないその問いかけに、紅丸はただ真正面から向き合うだけだ。
「もしそうだとしたって、俺には出来ねえんだよ、そんなこと」
これまでもそうだった。そしてこれからもきっと、ずっと、あの男の願いを聞き届けてはやれない。そんなこと、出来やしない。したくない。
――八神庵が⋯⋯、あの男がいなければ、俺は⋯⋯。
京だけをその目に映し、京だけを追い続けていた男。そんな存在は庵以外、どこにもいない。あの男から向けられる執着を、鬱陶しいと表向き嫌って見せながら、その実こころのどこかで快いとも感じていたのだ。身の裡のどこかが満たされる感覚があった。それを忘れられる訳がない。
「無理なんだよ、あいつを忘れるなんて。闘えないからって、それが、俺が八神のことを忘れる理由にはならねえんだし」
だからこそ、自分は庵にとって疫病神でしかない。そう言って面を伏せ、重く口を閉ざしてしまった京に、
「なんで忘れる必要があるんだよ」
紅丸が問いかける。
覚えていればいいではないか。過去に確かに存在したその男を、なぜ今になって否定しなければならない? いなかったことになど出来はしないのに。その男あってこその、今の庵ではないのか。過去を否定して現在はあり得ない。それは庵自身にとっても同じことの筈。
紅丸の言葉にふたたび顔を上げ、けれど京は静かに首を振ってみせただけだった。
「それでもさ、もうこれ以上、俺のせいであいつが苦しむところは見たくねえ」
それも京の本心だ。
「あいつが俺に望むことを、俺はどうしたって叶えてやれないから」
それはもうどうしようもない、仕方のないことだから。
「だったらせめて」
せめて、生き方だけでも。
あの男がこうしようと決めた、その先行きだけは、好きにさせてやらねばと思うのだ。
それが自分には納得の出来ない選択であっても。
「だから、あいつが『八尺瓊』になって、家督を子に譲って、隠居したいっていうなら、それを見届けてやるしかねえだろ」
「⋯⋯」
紅丸は釈然としない面持ちで口をつぐんだ。ふかく重い溜息がこぼれる。
このタイミングで食後のコーヒーが運ばれて来、一旦ふたりは言の葉をおさめた。
カップに手を伸ばした紅丸はあたたかな湯気に顎をなでられ肩の力を抜くと、焙煎された豆の香りを堪能しつつ思案を巡らせる。
知りたいと望んだ、庵が何を諦めようとしているのかは、いちおう把握した。それは京の推測でしかなかったが、的外れとも感じない。
ただ、諦めることが出来なければ壊れると、あの日、彼(か)の男はそう言ったのだ。
もう既に壊れかけているのではないか――。
紅丸は物騒な想像をしてしまう。
指の先から、爪先から、ゆっくりと病に冒されていくように。組織が、その細胞を壊死させていくように。ゆるやかに壊れ、やがて死に至る。庵はその身に死に至る病を飼っている。当の庵自身、その病の存在に気づいてもいるのだろう。しかし、彼にはそれを治療する意志がない。治す方法(すべ)を知っていて、それを実行しない。そうして、死に至るのをただじっと待っている。
飛ぶことのできる翼を閉じたまま、ひとりただ朽ち果てる日を待っている。
――八神、それがおまえの望みなのか、本当に。
胸の裡で庵にそう問いかける一方、紅丸はそれを頭から疑って掛かってもいた。
もしも紅丸の想像通り、庵の望みが別にあるのなら。死にたがっていた男を消すこと以外に望んでいることがあるのなら。
それを暴き、叶えることは、きっと京にしか出来ない。
だからこそ京をけしかけ、焚き付けようと、今日この男と会う約束をとりつけたのだが、京は京で、見守ると既に心に決めたようなことを言う。
――さて、どうしたもんかね?
ここで京を引かせてしまっていいものだろうか。
紅丸は自問する。
そして、さほど迷うことなく結論を導き出した。
「ほんとうに、それでいいのか、京。おまえ、後悔しないか?」
「⋯⋯」
「遠慮なんて全然らしくねえぞ」
「けど、」
言葉に詰まるのは、それが図星だからだ。そう、本当に、まったくもってらしくない。
もっとも、ここへ来て尻込みする京のことも理解できなくはないのだ。KOF97閉幕後、快復した京が紅丸を相手に嘆いてみせた、庵から闘う術を奪ったこと、その負い目がこの男が本来持つ資質、傍若無人な挙動を鈍らせてしまうのだろう、と。
けれど、今こそその資質を発揮すべきときなのではないか、紅丸はそう思う。傲慢でない京など京ではないし、そういう京でなければ為し得ないことがある筈だ。
「あいつ、諦めることが出来なかったら壊れるって、俺にそう言ったんだ」
「壊れる?」
ハッとしたように京が顔を上げた。その顔つきが険しい。
もしもあの痛みに打ち勝てず、いつまでも死に憧れたままでいたら、庵は壊れる、そういうことなのだろうか。肉体は生きていても、その精神が死んでしまう、と。
「八神が成ろうとしている、その『八尺瓊』ってヤツはさ、八神自身を壊してまで、成らなきゃいけないものなのか?」
「それは⋯⋯」
京は口ごもる。
「だってよ、おまえの⋯⋯おまえらの話聞いてたらさ、なんか⋯⋯『八尺瓊』ってのは、生きた人間じゃないみたいに思えて来るぜ?」
まるで傀儡のような。
生ける屍。
「八神があいつの望む『八尺瓊』とやらになったとき、そこに八神の⋯⋯『八神庵』の意志ってのは存在するのか?」
「⋯⋯」
それは京も感じている疑念だった。
死にたがっていた過去の庵を消し去った後に残るのは、いったいどんな男なのか。抜け殻でない保証がどこにあるのか。
「だいたいおまえに執着しない八神なんて、八神じゃねえだろ」
紅丸に畳み掛けられて、とうとう京は天を仰いだ。本音を言えば、自分に執着していた男を、京は失いたくないのである。
「俺も――、俺もそれが嫌(ヤ)なんだよ⋯⋯」
けれど、京が執着すればするほど、庵は『過去の自分』を早く消そうと躍起になるだろう。そうして、あの痛みに苛まれるのだ。
そうやって、京という存在は庵を追い詰めてしまう。
「無理だと解ってても、あいつのまま、俺に執着したまま『八尺瓊』になれって言いたくなっちまう」
だから、庵と最後に会ったとき、放っておいてはやれないと京は宣言してしまった。いずれまた折りをみて会いに行くことにもなるだろう。『八尺瓊』になろうとする庵を見守ることとは別に、彼との関わりを断つつもりは毛頭ないのだ。庵に拒まれてもそこを譲る気はない。
「それは本当に無理なことなのか?」
「俺には正直よくわかんねえ。けど、八神(あいつ)に言わせるとそうらしい。『草薙』に執着するのは『八尺瓊』には許されないんだと。⋯⋯少なくともそういうのは、あいつが目指す完全な八尺瓊当主の姿じゃないんだろうな」
たとえ京が『不完全な八尺瓊』でも構わないと思い、それを庵に告げたとしても、庵自身がそれに従うことは万に一つもないだろう。
だいいち、死に焦がれる男を抱えたまま生きることは、イコール庵に無限の苦しみを与えることでもある。庵にとって好ましい状況ではなく、そしてまた、それを望むことが出来るほど、京は非情にはなり切れなかった。
「⋯⋯俺にも理解できねーわ」
ついに紅丸も頭を抱えてしまう。
やがて抜け殻になるのだと判っていて、それを見守り見届けることしか出来ないなど、とんだ悲劇――、いや、いっそ喜劇だ。
だが、それしか選択肢がないなどということが、本当にあり得(う)るのか。
「京」
小休止(ブレイク)を提案し、紅丸が京に向かって煙草の箱を差し出す。
「ん、サンキュ」
素直にそれを受けた京は一本抜き取り、指先に点した炎で火をつけた。
カトラリーの籠と共にテーブルの端に避けられていた灰皿を己と京との間に引き寄せながら、紅丸は長期戦の構えでソファー席にふかく座り直す。ランチタイムに入った店内は少しずつ混み始めていたが、まだ座席には余裕があった。もうしばらく退店の必要はなさそうだ。
紅丸は長くなった灰を灰皿に落とし、
「なあ、京。そもそも今の八神は死を望んじゃいないんだろ? 『八尺瓊』として生きることを選択したのなら、死にたいと願うなんて変だよな? 生きることの弊害でしかないんだから。なのに、死にたがっていた過去の自分を消すことが、どうして今のあいつにとって苦痛になるんだ?」
それっておかしくねえか、と降って湧いた疑問を京にぶつける。
「むしろ、積極的にやるべきことなんじゃねえの? 死に対する憧れを消すっていうのは」
それなのに、なぜ。なぜ苦痛を覚える? 過去の、死を望まれていた自分を捨てることを、今更どうして躊躇するんだ? それが試練になるだなんて、おかしくはないか。
「⋯⋯」
雷に打たれでもしたように、京の身体が硬直した。
「きっと別の理由があるんだよ、京。八神が苦痛を感じるのには、なんかもっと別の理由があるんだ。違うか?」
そうでなければ辻褄が合わない――。
「俺は、また、」
また、騙された、のか。あの男に。
京は紅丸の顔を凝視し、つまずくように声を絞り出したあと黙り込んだ。頭の中では目まぐるしく、思考が、言葉が、渦巻きはじめる。
よもやあの痛みは、『八尺瓊』になろうとする庵に課せられた試練などではない、と。そういうことなのか。あれが試練でないのだとしたら、なぜ庵はそんなことを? 死に焦がれる過去の自分を手放しさえすれば楽になれるのに、そうしないのはなぜだ。
手放そうとしているものが、闘えた男でもあるから、なのだろうか。
――いや、それも違うな。
京は無意識に首を振る。
庵が目指す『八尺瓊』に、闘うための力は必要ない。闘う力に未練があるのだとしても、『八尺瓊』となることを第一義とするのなら、それを捨てることと苦痛とが結びつくのはおかしいだろう。
どうしてだ。
京は必死に考えを巡らせる。
苦しいだけの現状を、あの男はなぜ維持しようとしているのだろう。誰が、何が、彼にそうすることを強いているのか。いや、そんなことより、あいつが消さなければならないのだと言った『過去の自分』の正体は、そもそも何なんだ?
「正体⋯⋯」
声に出して言ってみて、京自身がハッとする。
――それこそが、本当のあいつなんじゃないのか。『過去の自分』、その存在こそが。
八尺瓊当主という立場は庵が担うべき役割であって、彼個人の本来の姿ではない。
そう、庵にとって八尺瓊当主というものは、あくまでも彼が担うべき<役割>でしかないのだ。彼の存在そのものでは決してない。そして役割というものは、自己が存在することを前提にして成り立つ。だから、役割の上にしか成り立たない自己などというものは、真の自己たり得ない。だとすれば、庵が『過去の自分』を消してしまうということは⋯⋯、
自己の喪失。
精神の、自殺――。
本来の彼を殺してしまうということ。ついさっき紅丸が危惧したように、『八尺瓊』という、器だけの、中身のない、傀儡が生まれてしまうことになる。
それが、あの男が『八尺瓊』に還るということなのか。抜け殻になることが。
それを許していいのか。
――本当に?
額に手のひらを宛て、京は俯いた。
――いや。
許す許さないはひとまず脇に置くとして、ともかく、個としての自己を消してしまえば、庵は役割を担うだけの自分に苦痛を感じないで済む。それは間違いない。
だが彼は、それを目指していないのだ。それどころか『過去の自分』を失いたくないと思っているのではないだろうか。だからこそ今、あの強烈な痛みに苛まれているのでは――。
この仮説が正しければ、自己を切り捨てようとしているのだから、辛いのは当たり前だった。
「京」
「えっ」
夢から覚めたような面持ちで京が瞬く。彼は完全に己の思考に没入しており、目の前の紅丸の存在さえ意識の外へ追い出してしまっていた。
「落ちるぜ」
紅丸が灰皿を京の前へと滑らせる。京の指の間、吸うことを忘れたまま燃え続けていた煙草の先端で、灰が長く伸びていた。
「サンキュ」
灰皿の中には二つに折られた吸い殻がひとつ。紅丸は既に二本目に火をつけている。
京は灰を落とすと、気を取り直したように一服、煙をふかした。
「紅丸」
「ん?」
「あいつが消そうとしてるのは、あいつ自身なのかも知れねえ」
あの男が京に対して消さなければならないと語った『過去の自分』とは、『死に憧れる男』であり『闘えた男』でもある、彼自身。八神庵、そのもの。
それが、京が至った庵の『過去の自分』の正体だった。
庵は『八神』を、つまりは庵という個を捨てなければ『八尺瓊』にはなれない、そういうことなのだろう。自己を消そうというのだ、とうぜん容易ではないだろうし、あれだけの苦痛を伴うことにも頷ける。
そして、それが叶ったあかつきに残るのは、ただの器。抜け殻だ。
「おまえが言ったとおり、このまま放っておいたら、あいつは⋯⋯」
消える――。
消えてしまう。
「阻止しろよ、京。そんな八神、俺は見たくねえぞ」
大人の分別をかなぐり捨てて、感情の赴くまま呻くように紅丸が訴えかける。
「『八尺瓊』の血は、八神でなくても次の世代に継いで行けるんだろ? 妹がいるからってあいつ本人も言ってたし」
庵当人の身に万が一のことがあったとしても、自分と同等の血の濃さをもつ妹がいる。だから、神器を守護する三家の存続には支障がない。庵がそういう趣旨の話をしたことを紅丸は覚えていた。
「だったら引き止めろよ、京。あいつを『八尺瓊』になんかすんな」
八神庵を死なせるな。
そんな事態になったら、京、おまえは、あの男から蒼い炎を奪ったときなどよりも、ずっと深く後悔することになる。いまよりも、もっとひどい飢餓感に襲われることになるぞ。
親友の言葉に背を押され、京は席を立った。
「行くのか」
「ああ。一秒だって時間が惜しい」
庵と最後に会ってから約一週間。たったそれだけの期間にどれほどの変化があるとも思えないが、それでも悠長に構えていられるような心境ではなかった。なにより京は、頭を使うより先に身体が動く、そういう男なのだ。
「じゃ、俺はこっちで吉報を待ってるぜ」
食事代の支払いを引き受けた紅丸は、ひらひらと片手を振りながら激励し、店を出て行く男の決意を漲らせた後ろ姿を見送った。
紅丸は己の役目をただしく把握している。
自分の出る幕はここで終わり。この先の領域に踏み込めるのは、当人同士だけだ。
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