約束を、したのに。
共に逝く、と。
目を開けた時そこにあったのは、見慣れない色に見慣れない木目模様が入った天井だった。首を動かそうとして、それだけで背中に激痛が走り、男は思わず呻き声を漏らす。
側にあった人の気配が存在感を増した。
「八神」
女の声だった。衣擦れの音がして、視界を遮るように覗き込む顔が現れる。ちづるだ。庵の呻きに彼の目覚めを知ったのだろう。
「やっと気が付いたのね⋯⋯」
女の声が震え、その瞳に涙が滲んでいるように見えるのは、目の錯覚ではないらしい。
「⋯⋯あいつは」
それが男の第一声。
その三人称が誰のことを指しているのか寸分疑うこともせず、ちづるが柔らかく微笑んだ。
「無事⋯⋯とは言えないけれど、大丈夫。五体満足で生きているわ」
それを聞き、庵は肺を空にするような深い溜息を漏らして目蓋を伏せた。
そうか、あの男は無事か⋯⋯。
あのとき――。草薙の力を八神にぶつければ、京も庵もふたりとも死ぬ。大蛇は確かにそう言った。
が。『八咫』の存在がそれを狂わせたのか。それとも他の何者かの力が作用したのか。
「俺を助けたのはおまえか、神楽」
「ええ。草薙は柴舟殿が」
要は、誰ひとり欠けることなくあの異空間から救出されたということだった。
「だから草薙はここにはいないの。でも草薙(あちら)の屋敷で、もう意識は取り戻しているそうよ。四日前だったかしら⋯⋯連絡があったわ」
しかし、世間には、京も庵も行方不明と伝えられている。彼らの身体が本調子になるまではふたりの生存を伏せようと、ちづるが手を打ったのだ。それは、大蛇一族の報復を惧れての画策だった。
「きっと今頃はじっとしていられなくて暴れ出していることでしょう」
その様子を想像したのか、クスクスと笑うちづるを他所に、庵は全神経を自分の躰内に向けていた。そして、<それ>の喪失を確かめた。
「大蛇は⋯⋯」
「今度こそ本当に斃せたのよ。草薙とあなたの力によって、ね」
庵は天井の梁を睨み上げる。彼のそれは、何事かを決意した貌だった。
「ああ、そうだわ。あなたが目覚めたことを草薙に知らせなくては⋯⋯。あちらも心配しているでしょうし」
そう言ってちづるが立ち上がり男に背を向けたとき、その背後では庵が両腕を脇に引き寄せて、起き上がる準備を始めていた。
「待て」
「なに?」
振り向いて、ちづるは血相を変えた。
「ちょっ⋯⋯八神、何を⋯⋯、駄目よ! まだ無理に決まってるでしょう!? 起き上がるなんて⋯⋯!!」
「手を貸せ」
庵は頑として譲らない。放っておけば、無理矢理にでもひとりで起き上がってしまいそうなその剣幕に、
「無茶なことを⋯⋯」
ちづるは眉を顰めつつも手を貸さざるを得なくなってしまう。
苦痛に息を荒らげ額に脂汗を滲ませながら、それでも庵はどうにか上体を起こし切った。
「⋯⋯⋯⋯」
右手を左胸に当て、いうことを利かない自分のものでないような手に、それでも渾身の力を込め、庵は浴衣の胸元をきつく握り締める。喰い縛った奥歯の隙間から、低い呻きが漏れた。
「⋯⋯八神⋯⋯?」
横顔の、削げて鋭角になった男の顎のラインを、その双眸から透明な液体が伝い落ちて行く。
「俺はもう――『八神』では、ないのだな⋯⋯」
堰を切った、滝のような涙。
芒洋とした瞳で。
「――八神⋯⋯?」
神楽ちづるから、彼女が主催したKOF96、97年大会の全出場選手宛てにクリスマスパーティーヘの招待状が送られてきたのは、KOF97が終了して三ヶ月を過ぎた、晩秋のことだった。公にはされていない話だが、これまでの自分たち神器を守護する三家と大蛇との騒動に、大蛇とは無関係であったにも関わらず有無を言わせず巻き込んでしまった大多数の選手たちに対し、お詫びの気持ちを込めて、というのがその主旨であるらしい。
日程は二泊三日。KOF開催時に選手宿泊施設のひとつにもなった大阪のホテルに部屋が用意されており、パーティーもそのホテルの大広間を借り切って行われる予定になっている。招待客にはパーティーの前日から部屋がリザーブされていて、海外からの参加者などが利用できるよう手配するということだった。
「神楽も粋なこと考えるもんだよな。京、おまえも出席するんだろ?」
と、紅丸に問われ、ご飯を口一杯に頬張っていた京は、取り敢えず頷くことで意思表示してみせた。
ここは都内にある和風定食屋。昼間、紅丸から晩飯を奢ってやると電話で誘われ、京はこの店を希望した。駅の近くに店舗を構えるチェーン店のひとつで、料金がお手頃、そのくせ料理にはボリュームがある。平日の夜ともなると仕事帰りの独身サラリーマンや部活帰りの学生やらでたいてい店内はごった返しているのだが、今日は土曜の夜であるせいか、比較的空いているようだった。
「ぜってー出なきゃいけねえんだとよ、俺とあいつは」
ゆっくりと咀嚼していた飯粒を一気に嚥下してから、京がやっと口を開く。彼が口にした『あいつ』というのが八神庵のことなのだろうと紅丸が推察するのと同時に、京は苦々しい口調で続けた。
「俺らの無事な姿を皆に見せるってのも、パーティー開く目的のひとつなんだとさ。ったく、なぁにが無事なんだかなあ? よく言うぜ」
自分も、そしてあの男も、無事などと言い切ってしまうには、おそろしく憚りのある身だったというのに。
「ま、それくらいは協力してやれよ。マジで皆心配してたんだからさ。俺たち、おまえらの生死も判らなくてホント参ってたんだぜ?」
解ってんの? と重ねて問われ、
「悪かったと思ってるよ、それは」
京はしぶしぶ、慣れない反省の言葉を口にする。だが、ある意味それは仕方のないことでもあったのだ。大蛇一族の残党がどのような報復措置に出てくるか判らず、京や庵、そしてちづるに関しても、正確な情報を世間に流すことは控えざるを得なかった。だから長い間、近しい人たちに対してでさえ、彼らの生死は伏せられたままだったのだ。
「ところでさ、もうひとりのお騒がせ野郎の方は? 東京に戻って来てるって話も聞かないけど⋯⋯、元気なのか」
「知らねえ」
京が急に不機嫌になった。
「なんだよ、おまえ会ってないの」
「⋯⋯⋯⋯」
撫然とした表情で京は黙り込む。何やら訊いてはならないことに触れてしまったのかも知れない。だが、そう思った紅丸が、気を回して話題を変える前に、京自らがその先を口にした。
「逢いに行こうと思ったんだ⋯⋯だけど⋯⋯」
らしくない歯切れの悪さ。嫌な予感がして、紅丸は先回りする。
「言いたくないなら別にいいぜ? 無理に聞こうとは⋯⋯」
思わないから、と続いたであろう紅丸の気遣いを、京は首を振ることで断った。彼は手に持っていた箸を、どんぶりごと盆へ返し、
「⋯⋯こわくて逢えなかったんだよ、俺」
紅丸に耳を疑わせる言葉を口にした。
「こわい?」
思いもよらない京の言葉。
「多分、一生許して貰えない⋯⋯」
庵が炎を失った――。
京が草薙家で意識を取り戻し、動き回れるまでに快復して、そろそろ庵の様子を見に行こうかと、神楽家を訪れようとしていたその矢先、彼はちづるからそのことを聞かされた。
「おまえにだから話すけど」
京が紅丸にわざわざ断りを入れたのは、これまでに何度も、家のこと、ひいては自分と庵との問題に、本来無関係である彼を否応無く関わらせてしまっているからだった。紅丸には知る権利がある。そして京自身もまた、話の理解できる相手に事情を聞いて欲しいと思っていた。
「あいつ、もう⋯⋯闘えないんだ」
自分が大蛇を斃してしまったから。庵の身体に宿っていた大蛇の血を祓ってしまったから。
「⋯⋯わかってたのか、こうなるって」
紅丸の言葉に京は首を振った。そこまでのことに思い至らぬまま、己は大蛇と対峙してしまったのだ。
「大蛇を斃すことがあいつにどんな影響を及ぼすかなんて、俺、そんなこと、考えもしなかった」
だからこそ、大蛇を斃したら勝負しろだなんて、あんな無茶が要求できたのだ。
そういえばあのとき、庵は返事をしなかった。約束、してくれなかった。
「でも、判ってたんだろうな、あいつには」
仮に生き残ったとしても、そのときにはもう、自分に闘う能力がないだろうことを。だから、大蛇と共に逝く、と。彼はそう言ったのか⋯⋯。
大蛇と共に死ぬ――。
京は、そう言い切ったときの庵の貌を思い出す。気負いも悲壮感もなく。ただそれを強く望んでいる貌だった。だからこそ訳も解らないのに悔しくなって、勢いのまま彼に感情をぶつけ、大蛇を斃すと言い放ってしまったのだ。
「おまえ、あいつのこと鬱陶しがってたけど、勝負すんのは嫌いじゃなかったもんな」
嫌うどころか。心のどこかでは、いつも彼との勝負を楽しみにしていた。あの男を相手にするのでなければ得られない何かがあることを、京は確かに知っていた。
「八神に許して貰えないこととは関係なく、自分が許せないんだろ、おまえは」
紅丸の指摘に、京は唇を歪める。
「また退屈になっちまうんだぜ? 何もかもが」
せっかく面白くなり始めていた人生が、今度は、あろうことか自分自身のせいで退屈なものに逆戻りするのだ。
「あいつを闘えなくしちまったのは俺なんだからさ、許して貰うってこと、それ自体求めちゃいけないんだと思う。恨まれるのも当然で、仕方ないと思う。けど⋯⋯、」
と、京は暫し口を閉ざした。そして、言う。
「俺はさ、許して貰えないことが恐いんじゃない。恨まれることも恐くない」
恐いのは、今おそらく恨みを抱(いだ)いている筈の庵が、恨みを抱くのと同時に、その恨みを晴らすすべをも喪(な)くしてしまっているということなのだ。今の彼は、もし復讐を想ったとしても、それを果たす手段を持っていない。そのことが恐い。
――あいつは、どうやってそんな自分を宥めればいいんだ?
「恐くもなるか⋯⋯」
紅丸が大きく溜息をつく。彼には京の心境が、こわいくらいに能く解っているらしかった。
「八神がどう気持ちの整理つけてんのか、解んねえんだもんな」
「だろ?」
整理をつけるどころか、それさえも<出来ない>のだとしたら、危ないのは庵の精神の方だ。京はそのことを想って、こわいと口にしたのである。
「じゃあ、あのことがあってからおまえが八神と逢うのは、今度のパーティーが初めてってことになるのか」
「ああ」
「覚悟決めねえとな」
「解ってる」
逃げようとは思わない。卑怯者にだけはなりたくない。自分のしたことには正面から向き合わなくては。
「そういやさ」
と、気分を変えるように京が言った。
「そのパーティーって、正装で出席ってなってたけど、このカッコじゃマズイのかな、やっぱ」
京は平素から愛用し、KOFでのユニフォームとしても着用している校則破りな学ランを指さしていた。
「んー、せっかくの機会なんだから、たまにはいつもと違う服装で出てみてもいいんじゃない?」
着慣れたその制服を好む彼の心理が解らない訳ではないのだが、正直なところ、さすがの紅丸もこの発言には呆れるしかない。
「服選ぶんなら、いい店紹介するからさ」
そう言って紅丸は、友の肩をポンと叩いた。
back | next |