それは、いつもと変わらぬ朝だった。まだ周囲が薄暗い時間に目覚めた京は、腕の中にいない男を探し、乱れたベッドから抜け出した。
「はよー」
別れの予感を抱(いだ)いたことなど忘れたように、京は台所に向かって声をかける。が、返事はない。
京が庵とふたりでこの部屋に暮らすようになってから、食事を作るのも洗濯をするのも、そういった家事全般は毎日交替でやって来ていた。今日は庵の当番日だ。
京は電気をつけた。蛍光灯に照らされた部屋の中、見れば食卓代わりの炬燵の上に、ひとり分の朝餉の支度が整えられている。
そして庵は、いなかった。
台所の、ひとつしかないガスコンロにかけられたままの鍋の中で、味噌汁がまだ熱い湯気を上げている。蓋を取ってそれを確かめ、京は、
「あいつ、食わずに行ったんだな⋯⋯」
たいして意味もない台詞を声に出して言ってみて、反応(いらえ)がないことに、今更のように彼の不在を実感する。予測していたこととはいえ、それでも少しだけ、身体のどこかが軋んでいるようだ。
京はその後、部屋から無くなっているものを点検して回った。服や靴、整髪剤、歯ブラシといった日用品は殆どそのまま残っていたが、通帳や印鑑、パスポートなどの貴重品を入れてしまっていた庵のセカンドバッグはそれごと消えている。
――やっぱり出て行ったか。
確信。そして、深い感慨の中で京は改めてそれを思う。庵はふたたび炎を手に入れたのだ、と。彼が何のためにここを出て行ったのかなど、考えるまでもない。そんなことは京が一番よく知っている。
ただ一つだけ、彼を行かせてしまう前に確かめておけば良かったと思うことがあった。それは、あの蒼い炎が庵の命を削るのかどうか。もしそうだとして、庵は自分と闘う気になるだろうか。自らの命を削るだけの価値あるものとして、庵は自分を認識してくれているだろうか。そして、かつてのように、また命を懸けて自分を追って来てくれるだろうか。
――強く、ならねえとな、もっと。
庵に負けないように。あの男を飽きさせないように。あの男が一生涯自分を追い続けられるように。彼に拳を叩き込まれても、決してふらついたりは出来ない。自分は彼から向けられるあの視線を、真っ向から受け止めなければならないのだ、その生き様ごと。
――ゾクゾクするぜ。
喜びに胸を躍らせ、笑みに弧を描いた唇で、京はベランダの窓を開けた。早朝の澄んだ空気が、新しい季節の匂いを連れて部屋の中へと吹き込んで来る。いつの間にか冬が終わっていたことに彼は気づいた。季節は確実に巡っている。それを肌で感じる。
そして。
またあの季節はやって来るのだろう。
<熱い>夏。
それは再会(やくそく)の季節だ。
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2000.07.24 脱稿/2018.12.07 改訂&再掲載・完
2023.07.30 微修正