東京のアパートに戻ってから、京はずっと庵の側についている。庵はまだ眠っていた。けれど特に危険な状況ではない、というのが静の見立てだ。八神家から連れ出した直後には微かだった脈拍も、いまでは素人目にも判るほど確かになっていて、峠を越していることは間違いなかった。だから庵にその意志さえあるのなら、いつ目覚めてもおかしくはない。
万が一にも大蛇一族に干渉されることがないよう、京は念のため、部屋中に草薙の結界を張り巡らせている。更には庵の身体の周囲を自分の氣で包み、彼を護ることに専念していた。
「なあ起きろよ、庵」
京は目覚めない庵に語りかける。早くその眼を開けて、この手を取れ。おまえ自らの意志で。
「いつになったらおまえの声が聞けんのかな」
自分ばかりが一方的に話しかける、ふたりきりの時間。早く庵からの応えが欲しい。
先だって静の指導の元、京は注射器の扱いをマスターしていた。庵に点滴による栄養摂取をさせるためだ。いまも庵の腕には針が刺してあり、細いチューブから彼の静脈へと液体が送り込まれている。点滴の針を刺したその部位が目に触れるとつい痛みを想像してしまうので、京は彼の腕の中央をタオルで覆い隠していた。
京が庵を伴ってこの部屋に戻った数日後、紅丸が庵の様子を見に訪れた。血縁以外では彼にだけ、京は庵がここにいることを知らせてあったのだ。
「ど? 八神の様子は」
「寝てる。あの日からずっとな」
ワンルームの京の部屋に上がり込んだ紅丸は、奥の六畳間を覗いた。庵は京のベッドに寝かされている。ちょうど点滴が終わったところで、剥き出しになった庵の肘の内側には脱脂綿がちょこんと乗っていた。その綿の色に負けぬほどの肌の白さと、静脈の浮き出た、見覚えのない細身の腕に、紅丸は少しだけ表情をゆがめたが、口にしたのはそれとは別のことだった。
「あのときと、同じようなカオしてんのな」
それは眠る庵の顔を見ての発言。
「あのとき?」
紅丸の後をついて部屋に入った京は、湯気を上げるインスタントコーヒーの入ったマグカップを差し出した。振り向いてそれを受け取った紅丸は、ふたたびその視線を庵の方へ戻す。
「八神がさ、おまえと果たし合いやったろ? あの後、病室にいた八神って、こんなカオしてた」
とても穏やかで、幸福そうな表情。
「そうだっけな。⋯⋯でもあのときとは違うさ」
目覚めたくなくて眠りを選んだのだろうあのときと今のそれとは、おそらく根本にある物が異なっている。京にはそれが判っていた。だから彼には焦りがない。
「紅丸、おまえさ、眠ってる間に頭ん中が整理されるような感じって、覚えねえ?」
「あー、経験あるな。うん、解るぜ、その感覚」
人は睡眠中に記憶を取捨選択するという。
「だからこいつは眠ってるんだと思う」
いまの庵は、眠ることを目的に眠っているのではない。目覚めることを目的に眠っているのだ。そう、目覚めるための眠りなのだ、これは。京がかなり強引な遣り方をして、怒涛の中で最も重要なことを庵に認めさせてしまったから、彼は自分の頭の中をまだ整理できていない。何を自分の中に残し、何を捨ててしまっていいのか、彼は眠りの中でその選別作業をしているのだろう。
――もう選び間違ったりはしないよな、庵?
本当に欲しいものは、ずっと昔から判っていた筈なのだから。そして、京が『八神庵』の存在を認めた今、もう庵にはわざと選び間違える必要もない筈だ。
京は、庵が横たわるベッドの端に腰を下ろした。
「なあ紅丸、おまえ覚えてるか? 去年の暮れに大阪のホテルで、あの女たちに言われたこと」
カーペットの上に腰を下ろしてコーヒーを飲んでいる紅丸に、京は以前マチュアとバイスに言われた謎掛けのことを尋ねる。
「俺がしなかったことが庵を追い詰めてるって、あいつらそう言ってたろ?」
紅丸は頷いた。
「ああ、覚えてる」
紅丸はあの翌日、そのことを庵本人に直接問い質しもしたのだ。けれど庵は本当のことを言わなかった。嘘をついた訳ではなかったが、すべてを話してもくれなかった。
「俺がしなかったことってのは、庵の望む死を、こいつに与えてやらなかったってことだ」
今になってみれば、あのときの謎掛けの意味が京にも正確に理解できる。京は紅丸に説明した。
「で、俺でなければ駄目、なのに、俺だからこそ駄目なんだって言ってたのは、庵が俺を手に入れたがってて、でも、手に入れたい相手が俺⋯⋯つまり『草薙』である以上、『八尺瓊』としての庵にはそれを望むことが出来ないってことで⋯⋯」
それで庵は追い詰められていた、と。そういう意味だったのだ。
「⋯⋯いまごろ謎解きができたって遅いよな」
自嘲するように口にした京に、紅丸はゆるりと首を振る。
「けど手遅れにもなってない。だったらもうそれで充分じゃねえか」
紅丸は、いま心の底から安堵していた。間に合ったのだ、と。庵が完全に壊れてしまう前に、京は彼を捕らえ、その腕の中へ引き寄せることに成功したのだ。
「八神はおまえのことしか見てなかったもんな」
その言葉に顔を上げた京は、口端をゆるめる。そして彼は庵の頬を撫で、確認をとるように声をかけた。
「⋯⋯おまえは、俺を手に入れたかったんだよな?」
彼がそのことをいつ自覚したのかは判らないが。
「でもこいつは、それをしてはいけないことだと自分を戒めてて、長い間ずっと、それを望んでいない振りを続けてた」
でも、それは飽くまでも<振り>だ。振りは振りでしかない。だから、庵の仮面は剥がれ落ちたのだ。理性を失くし、禁忌を忘れて、彼はやっと本当に望むもの――京――の名を呼ぶことができた。
「けどな、こいつが欲しがってたのは、そもそも『草薙』としての俺なんかじゃなかったんだ」
一度として、京は『草薙』としての己で庵と接したつもりはない。庵の認識が違っていたとしても、少なくとも京本人はそのつもりでいたし、現実に庵が求めたのも『草薙』ではなく、京だった。
「だからさ、素直に欲しがってくれてりゃ良かったんだよ。そうすれば⋯⋯、」
いくらでもくれてやれたと思うのだ。京もまた、『八神』としてではなく『八尺瓊』としての彼でもない、ただの庵を見ていたのだから。
「京⋯⋯、おまえさ、ソレ話す相手間違ってる。それこそ八神本人に伝えるべきだろ、俺なんかじゃなくて」
紅丸は京に訴える。思えば庵もそうだった。なぜ肝心なことに限って、このふたりは、互いに向けて話そうとして来なかったのだろう。なぜ第三者である自分にばかり、心情を吐露して来たのだろう。
「まったく⋯⋯、俺は伝言板か? 伝書鳩か?」
聞き仏じゃねえんだぞ、と大袈裟な溜息をついて見せた紅丸だが、その口調はいたってのんきなものだった。済んだことを責めるのは、彼の性分ではない。
「解ってるって。次はちゃんと言うよ、こいつが目ェ覚ましたらな⋯⋯」
苦笑で応じ、京はまた庵の顔に目を向けた。頬がこけてしまっているせいで柔和とは言い難いが、それでも庵の表情は凪いでいる。
「なあ京、おまえ、八神を好きか?」
不意に紅丸が訊いた。
「どういう意味で?」
京は真顔で問い返す。
「どんな意味ででも構わない。人として、男として、友達として、仲間として、血縁として⋯⋯何でもいい。こいつを、好きか?」
京ははっきりと首を横に振った。
「そんなの、考えたこともねえよ。でも⋯⋯、」
彼にはひとつだけ確信を持って言えることがあった。
「もし、こいつのことが必要かって訊かれたら、それなら即答できる。⋯⋯俺にはこいつが必要だ、ってな」
「⋯⋯なんだ、ちゃんと自分で言えんじゃん。安心した」
一瞬、拍子抜けした、という貌をして見せ、それから紅丸はゆるゆると相好をくずした。
「俺と闘えるのかどうかが一番の問題なんじゃないんだよ。構わなかったんだ、生きようっていう意志さえ持っててくれるんだったら」
無防備に晒された男の頬に、京は指の背で触れる。確かに、こんなふうに彼に触れる日が来るとは、想像もしていなかったが。
「こいつがいれば、俺は自分を確認できる」
闘うこと以外の、生きている意味を考えることが出来るのだ。『草薙』としての自分などではなく、ひとりの人間としての自分の存在を認識できる。それは、そうではない生き方をして来た庵がいてくれてこそだ。
自分は『草薙』として、闘うために生まれて来たのではない。自分は大蛇を斃すために生きていたのではない。それを京に教えてくれるのは、いま目の前で眠っているこの男しかいないのだ。こんなにも近くにいて、こんなにも血を同じくしていて、こんなにも似ていない自分たちだけど。だからこそ互いが必要なのだと京は思う。だからこそ惹かれ合い、無い物ねだりをしてしまう。
「俺はさ、こいつに八尺瓊の当主として生きるってことをやめさせたい訳じゃないんだ。こいつが本気でそうしたいって思ってるんなら、それでも構わない」
あの屋敷に帰っていく彼を、大人しく見送れる自信はなかったが。
「ただしそれは、八神庵っていう個人を生かした上での話だ」
抜け殻になった庵を生かしたいとは思わない。何者かに操られる傀儡など、見ていたくはない。意志を持って動く彼でないのなら、それは京が認めた八神庵ではないのだ。
「わがままだな」
「いいんだよ。俺はわがまま極めるって決めたんだから」
不遜な笑みを見せて、京は事もなげに言い放つ。
「おまえのエゴは周りの人間まで巻き込むからなァ⋯⋯」
程々にしといてくれよー、と紅丸はかなり本気の口調で嫌がっている。自己完結型の庵とは対照的に、京のエゴは周囲巻き込み型なのだ。
紅丸の危惧が解っているのかいないのか、京は気のない相槌を打って話題を変えた。
「紅丸、俺さ、こいつに恨んで欲しいんだ」
「え⋯⋯?」
「嘘じゃなくて、振りじゃなくて、本当に」
「なんで」
「ん。うまく言えねんだけどさ⋯⋯、」
京は少し口籠もってから、死を望んでいた庵に生きるということを教えたのは自分なのだ、と紅丸に言った。当時の庵にとっては不必要で、それどころか害にさえなる知識を、それとは知らずに彼に教えてしまっていたのだ、と。
「そのことに⋯⋯こいつに生きることを教えたってことに対して、怒りをぶつけて欲しいと思ってる」
「謝りたいのか」
「そうだな。謝って、それから⋯⋯」
もっと怒らせたい。もっと、教えてやりたい、生きるということを。これからの彼と、そして自分のために。
「だから⋯⋯」
だから早く目を開けろ、庵。そして俺を見ろ。話したいことがたくさんある。おまえに教えたいことが、伝えたいことが、山ほどあるんだ。
――俺は運命なんて知らない。
宿命もいらない。そんな物の存在しない世界で、庵を生かしてやりたい。何もかもをひっくるめて、庵という存在を包み込んでしまいたい。理解してはいけないというのなら、それでもいい。だけど、放ってもおかない。
「紅丸、俺は最強のエゴイストになるからな」
目蓋の裏が眩しい光を受けてオレンジに染まる。このまま目を開けたらきっと眩む。怖くて目が開けられない。
――⋯⋯?
誰だろう。すぐ側に人の気配がある。確かめたい。でも目が開けられない⋯⋯。
目蓋がピクリと痙攣する。それを待っていたように、顔の上に影ができた。目蓋の裏が色を失くす。
「いおり」
自分の名を呼ぶ柔らかな声。その声に誘導されるように、おそるおそる目を開ける。すこし霞んだ視界に、見知った男の顔が飛び込んで来た。
「⋯⋯きょ、う⋯⋯」
――ああ、俺はまたこの男に⋯⋯。
「良かったな、まだ目は溶けてないみたいだぜ」
庵の顔を覗き込んだまま京が笑う。
――目が溶ける⋯⋯? そんなに長く俺は眠っていたのか?
そこでいきなり、意識が混濁してしまう前の自分がどんな状況にあったのか、庵は思い出した。
――そうだ、俺はもう⋯⋯。
庵の視界が急速にぼやけ始めた。同時に呼吸が乱れる。
――なんだ? おかしい。どうして⋯⋯。
曇った目をこすろうと持ち上げた庵の腕は、京の手に阻まれた。それに抗議する間もなく、掴まれた腕を強く引かれて上体を起こされる。そのまま庵の身体は暖かなものに包み込まれた。鼻先に陽なたの洗濯物の匂いがある。その匂いを胸郭いっぱいに吸い込んで、庵は不意に溢れそうになった声を噛んだ。
嗚咽――。
「バーカ、よせよ、庵。我慢なんかすんなって。泣けるときに泣いとかねえと、泣きたいと思うときにまで泣けなくなっちまうぞ」
――いいんだ、もうなんにも我慢しなくて。
京のその言葉に、庵は自分が泣いているのだと知る。そして自分の身体を受け止めている暖かなものが、京の胸だと理解した。
なぜだか身体は動かなかった。
逃げようとも思わなかったし、離れたいとも感じなかった。無意識にシーツを掴み寄せる庵の手を、京の手のひらが上から覆う。強引にならない力で、その手は京の身体へと引き寄せられた。
「おまえはさ、」
子供をあやすような仕種で庵ごと全身を揺らしながら、訊くでもなく聞かせるでもなく京が庵に話しかける。
「待ってたんだよな」
庵の背に添えた京の手のひらは、ゆったりとしたリズムを刻み始めた。
「誰かが自分をあの場所から連れ出してくれるのを」
自分からは抜け出せない場所だったから。
「おまえは生きたかったのさ」
だからこそ、あんなまどろっこしい遣り方で死のうとしたのだ。苦しい時間を長引かせるだけの、あんな遣り方で、じわじわと、まるで真綿で首を締めるように。
――なんて不器用なんだろう。
「自分のこと、認めてやれよ⋯⋯?」
京の胸元にまで引き上げられた庵の手には、充分な握力がない。不安定に揺らぎそうになる彼の身体を、京の両腕はしっかりと支え、尚もゆるやかなリズムを保ってあやし続ける。
「俺はもう見つけちまったんだから」
庵は高い高い城壁を築いて、堅牢な砦を築き上げて、本当はひどく脆い自分をその中にずっと隠していたのだ。そこに隠れた彼を、京はもう見つけてしまった。
――だからもう、おまえも認められるよな?
涙腺がいかれたらしく、庵の涙はすぐにはとまらないようだった。だが無理に泣き止ませるようなことはせず、京は辛抱強く庵に付き合っている。
どれほどの時間そうしていたのか、腕の中の庵が小さく身じろいだ。泣き止んだものらしい。離れようとする身体に今度は逆らわず、京は腕をほどいて庵の自由にさせてやる。じっと俯いたままの顔も、無理に上げさせようとはしなかった。泣き貌が見たい訳ではない。
「気が済んだか?」
庵は答えず、痩せた手で懸命に頬を拭っている。
「⋯⋯ここは?」
「東京の俺の部屋。草薙本家じゃないぜ」
京の目には見えないが、庵はその前髪の間から上目使いに室内を見回している様子だ。
「おまえがここにいることは、八神の連中も知ってる。俺が宣言して出て来たから」
「そうか⋯⋯」
そう言ったきり、庵はふたたび黙ってしまった。が、それを気にせず、京は庵に向かってまた話しかける。
「あのさ、この前な、紅丸と真珠を見たんだ」
京は紅丸に教えられた真珠の成り立ちのことを思い出していた。
「おまえ、真珠貝みたいだよ」
身の内側で、異物を真珠へと変えていく貝の話。
「『八尺瓊』は、それをして来たんだな。ずっとずっと長い間、誰にも知られないところでさ」
たとえ望まないものでも。与えられるもの、押し付けられるもの、何ひとつ拒まず拒めず、飲み込むだけ飲み込んで。吐き出し方を知らないから、消化剤(くすり)を求めてまた次の何かを飲み込んで行く。
「善も悪もなくて当然だ。おまえには何もかもがそこに在って然るべきものたちなんだから」
何ひとつ否定しないなど、苦しいだけである筈だ。けれどそれすらも肯定し、そうやって大蛇をも受け容れた。だからこそ『八尺瓊』は、大蛇を受け容れることが出来てしまった。
「おまえはその『八尺瓊』になるって、決めたんだろ」
一度は確かにそう誓ったのだ、庵は。そして、本気でそうなろうともしたのだろう。京が本当の彼の存在に気付かず庵を放置していたら、いずれはそうなれていたのかも知れない。
「⋯⋯だけどな」
京は庵に向かって手を伸ばし、彼の頬に触れる。庵は一瞬ぴくりと反応して、俯けていた顔を上げた。腫れた目蓋と充血した眼とが痛々しい。
「許さねえから」
――本当のおまえを消すことだけは許さない。
『八尺瓊』になるのは構わない。とめたりしない。けれど庵自身を殺してしまうことだけは許せない。許さない。
「なるんなら、おまえを生かしたままで『八尺瓊』になりな」
――この言葉の意味が、庵、おまえには解るか?
「俺が全部見ててやる」
『八尺瓊』になろうとする庵が、何もかもを飲み込んで、傷つく姿も苦しむ姿も、そしてそれを包み込み受け容れる姿も、ぜんぶ。すべて側で見ていてやる。見届けてやる。決してひとりでなど、もがかせはしない。
「なぜだ⋯⋯」
掠れた声が京に尋ねる。
「なぜ、放っておかない⋯⋯?」
「おまえが必要だからさ」
「⋯⋯おまえとはもう闘えないのに、か?」
「ああ。それでも必要なんだよ、本当のおまえが、な」
もしも『八尺瓊』として生きる庵に、生きるための痛みが必要だというのなら、自分がいくらでも傷つけてやろう。彼の傷を癒してやろうなどとは言わない。苦痛を和らげてやるとも言うまい。
――庵。
何もしないでいてやるよ。おまえが『それ』を望まないのなら。おまえが『そう』望むのなら。だけど放っておいてもやらない。突き放してなんかやらない。
それが京のエゴ。
「俺から隠れられるなんて思っちゃいないよな? 月(おまえ)は太陽(おれ)にすべてを晒してるんだろう?」
京にも本当は解っている。太陽にでさえ見えない場所があることは。月の表裏を同時に見ることは不可能だ。見えているのはいつだって半分だけ、その表側だけ。だからどうしても譲れないものがあるのなら、その裏側に隠せばいい。
自分は庵のすべてを手に入れることは出来ないし、彼もまたすべてを明け渡してしまうことはないのだろう。
――だったら、いいだろう? 側で見届けることぐらいは許してくれても。
傷ついて苦しんで、それでもすべてを刺のない、誰も、そして自分をも傷つけない形に変えていくその様を、包み隠さず見せてみろ。
「もしおまえが、本気であの屋敷帰りたいと思うんだったら、俺はとめない」
京の言葉に庵が目を瞠った。拭い切らなかった涙がまだ睫を重く濡らしている。
「俺は、おまえの意志でこれからどうするかを決めて欲しい。強制も強要もしたくない」
――俺の側にいるか、それともあの家に帰るのか。
庵は暫し沈黙し、その後で口を開いた。
「⋯⋯おまえの、好きに⋯⋯」
「だから、」
言いかけた庵の言葉を遮り、
「それじゃダメだろ?」
京は苦笑し、口調がきつくならないよう注意しながらそう言った。庵自身が選んでくれなければ意味はないのだ。
「もう自分に嘘つかなくていいんだぜ? おまえがどうしたいのかを、自由に選んでいいんだ。家のこともさ、都ちゃんが心配するなって言ってたから」
「⋯⋯⋯⋯」
それでも庵には答えが出せないようだった。京は穏やかな口調で彼に告げる。
「いいさ、今すぐ結論出さなくても。時間はいくらでもあるからよ。⋯⋯ゆっくり考えな」
その日からふたりだけの生活が始まった。
庵は京に仮面を剥がされ、鎧も失くした。何に触れても簡単に傷を負ってしまう剥き身になった彼を、けれど京は意識することなく自然に受け止めている。ふたりでの暮らしにも徐々に慣れ、ときどきの接点を持ちながらも過干渉することはなく、それぞれのペースでの生活が確立されつつあった。
いま、部屋の片隅には、彼が都に頼んで譲り受けて来た、庵のリッケンバッカーのベースとアンプが置かれている。それを初めて目にしたとき、庵は泣き笑いのような貌になった。最近では京が出掛けて留守の間など、戯れに爪弾くこともあるらしい。
窶れていた庵の外見がもとの姿を取り戻した頃、カレンダーの日付は、いつの間にか三月になっていた。
「なあ庵、おまえさ、大蛇の力は無くしたって言ってただろ。あれ、嘘だったのか」
ある日の夕暮れ時、京はずっと気になっていたことを話題にした。庵に『八神』の結界が張れた理由が、まだ京には解っていなかったのである。
「残っているとは知らなかった。本当だ」
庵はそう答えた。結界を張ろうという、その段になって初めて、自分自身もその存在に気付いたのだ、と。庵の裡にあった大蛇の血は、完全に祓われた訳ではなかったのである。それは一八〇〇年の昔に身の裡に取り込んだ、封じられたときの姿に戻り、外界からの刺激を受け取らない形で内在し続けていた。炎の色を変えることもない、深い深い眠りに就いていた。庵本人は元より、大蛇側の人間にも外からは感知できないほど、その存在感は希薄なものだったのだ。そしてそれは今後も、庵自らがその力を解放しようとしない限り、眠りの殻を破ることはない。
「あのとき⋯⋯大蛇と遣り合ったあのとき、な」
京は、眠る庵に付き添っていた間、ずっと考えていたことを話し始めた。
「俺には、おまえを死なせたくないって気持ちが確かにあった。もちろん自分が死ぬなんてことも納得できなかった」
しかし、そのために取れる策など、あのときの京には具体的には何も思いつけはしなかったのだ。あの瞬間に京に出来たことといえば、大蛇を薙ぎ祓うための技を全身全霊をかけて放つ、ただそれだけ。かつて庵に、皮肉を込めて指摘されたように。
「だから大蛇が言った通り、相打ちになる確率も五分⋯⋯いや、それ以上にあったと思ってる」
一か八か。あれは命を賭(と)した博奕(ばくち)だった。大蛇を屠り去ることが出来るか、自分が死に庵も死ぬか、それとも、ちづるまでもを巻き込んで、三人すべてがその身を消滅させることになるか。
「だけど、おまえも俺もさ、ボロボロだったけど、結局生きてたろ。それがどうしてだったのか、ずっと考えてた」
櫛名田姫(クシナダ)の不在、それだけが、大蛇が完全復活できずに斃れ、そしてまた自分たちが生き残れた理由ではなかったように感じるのだ。
京は言った。
「おまえの中に、在ったからなんじゃないかな、それが」
確証など何もないが。
「俺はさ、そいつが⋯⋯、大蛇の血が、そうしたかったからなんじゃないかって、そう思うんだ」
「大蛇の血が⋯⋯?」
訊き返す庵に、京は頷く。
「大蛇の血ってさ、増幅して宿主の意志を自分の意志で喰い潰しちまうだろ? それって、大蛇の血が独立した意志を持ってるってことになるよな? だとしたら、そういうことも有り得るんじゃないのか」
理屈としては納得できる。だが⋯⋯、
「なんのために⋯⋯」
「さあ。そんなの俺には判んねえよ」
それを知っているのは、今はまた深い眠りの淵に沈むその血だけ。語る術を持たないその意志だけだ。
でも、なんとなく。ただ漠然と。
――庵を大蛇の道連れにさせたくなかったのではないか。
京はそんなことを思ったのだ。その血は庵を生かしたかったのではないか、と。
永い時を『八神』の中で生き続けてきたそれは、外部に存在する大蛇やその一族の思惑によってのみその行動を左右される物ではなくなっていて、それだけでなく『八神』と共鳴する部分を持つようにすらなっていたのではないだろうか。だからこそあのとき、庵が大蛇に直接働きかけられ操られそうになったとき、彼が暴走するのを喰い止め得た。生きたいと、無意識に望む庵の願いを叶えるために。
この想像は京ひとりの穿ちすぎた見方だろうか。
もしそうだったとしても。京はそれでいいと思った。庵は生きている。それが結果(すべて)だから。
大蛇の血が大蛇と共に祓われず、以後も庵の血の中に残った理由は定かでない。それが無意識であれ、庵の心底からの望みだったからそうなったのか、それともただ単に己の力が及ばなかったからそうなったのか。でもそれも、もう済んだことだ。庵も自分も生きている。それで充分。
「もう、おまえの意志を喰い潰すような真似はしないのかな」
眠る大蛇の血を指して京は言い、
「⋯⋯俺にも判らん」
と、答えた庵に尚も畳み掛ける。
「ほんとに?」
「⋯⋯しつこい」
「何回聞いても安心なんかできねえよ」
おまえウソばっかつくんだから、と京はずいと庵に顔を近づけた。そして庵の鼻先に指を突き付ける。
「いいか、ホントのことを黙ってるってのも、充分ウソになるんだからな」
既存の真実を知らせないという手段で以て、自分は幾度彼に騙されたことか。
「随分と横暴だな」
庵は溜息をつき、
「だが本当に判らんものは判らん」
真摯にそう答える。その庵の顔を、更にじっと覗きこんでから京が言った、「確かめてやろうか」という台詞は、冗談とも本気ともとれる語調だった。京が『草薙』の氣を意図的に大蛇の血にぶつけ、その結果を見れば、おのずと答えは出る。それをしてやろうか、と京は言っているのだ。しかしこの提案には、流石の庵も即答できなかった。
「京⋯⋯」
戸惑い、脅え、怯み⋯⋯。
かつての庵とは縁薄い感情が、一瞬の内にその表情を目まぐるしく変化させる。顔色もわずかに悪くなったようだ。しかし、
「大丈夫だって。ぜんぶ俺に任せろ」
京は事も無げに言う。
「だが⋯⋯」
まだ何か思い切れない様子の庵を京は強引に押し切り、彼の両肩に手をかけた。ビクリと跳ねたそれを宥めるように胸の中へ引き寄せると、庵も諦めたのか、それ以上は何も言わなくなった。
氣で庵の意識の内部を探る行為。
かつて眠り続ける庵に対し、京は同じようなことを為したが、今度は庵の側にも意識がある。互いが互いの氣に集中することで、あのときよりも簡単に、京の氣は庵の内面に侵入することができた。京の氣は、更に意識の深淵を探索して行く。そして、
――あれだ。
眠る<それ>を見つけ出した。京が躊躇なくそれに向かって『草薙』の氣をぶつけたその瞬間、ビリッとした痺れが彼の全身を襲い、と、同時に、
「―――ッ!!」
声にならない絶叫が庵の喉を震わせる。庵の周囲で、ゆらりと大気が揺らいだ、かげろうのように。そして、その揺らめきは、段々と大きくなっていく。
京は『草薙』の氣をぶつけた直後庵の意識から撤退し、自分と彼とを護るために完全防御の態勢に入っていた。
「⋯⋯ぅう⋯⋯っ」
京の目の前で、庵は苦悶の表情に顔を歪めている。彼の周囲で揺らいでいた空気が、一瞬にして蒼く染まった、と、そう認識した途端、京はハッと息を呑む。
――ちがう。
空気が蒼いのではなかった。蒼いのは⋯⋯。
蒼いのは、炎、だ。
庵の体表から吹き出すようにして、それはふたりの前に姿を現した。
「ああ⋯⋯」
言葉にならなかった。溜め息のように口から声が漏れる。
京はその光景に完全に眼を奪われた。
「庵⋯⋯見えてるか?」
――その色の違いが判るか?
目の前で揺れる炎、それは京の記憶の中にある『八神』の炎とは、その色が異なっている。
蒼。
ずっと蒼いと形容されて来た『八神』の炎は、しかし厳密に言うならば、紫により近い青色をしていた。大蛇一族の操るそれもまた、蒼紫の炎だった。だが今、庵の周囲で踊るそれの色は、紛れもない蒼。
蒼いとしか表現のしようがない、澄んだ色をしている。
これは『八尺瓊』のそれではなく、無論『八神』のそれでもない炎。
「これがおまえの炎なのか⋯⋯?」
庵は炎の勢いを抑えることに必死で、京の言葉には答える余裕がない。彼は尋常ならぬ集中力でもって、それを手のひら一点に集めようとしている。まるで生まれて初めて炎の召喚をしたときのように。
京は確信する。
――これが庵の炎だ⋯⋯。
手を触れるまでもなく、その熱量は側にいる京にも伝わってきていた。その炎は人の身を灼く熱さを持っている。これは紛れもなく、闘いのための炎。
京が見守る中、吹き出すように溢れ、暴れ、踊っていた炎は、急速に庵の手の中へと収斂されて行き、やがて全てが庵の躰内へと吸い込まれた。
「どうだった、久しぶりの感覚は」
よほど体力の消耗が激しかったのか、疲弊し切った庵はまだ口も利けない様子だ。力を込め過ぎた右の拳が、不自然に痙攣を起こしている。それを見て、京は手を伸ばした。そして、強張ったままの庵の指をいっぽんずつ順に解(ほぐ)していく。解し終えると、庵がホッとひとつ息をついた。
「無茶させたな」
「全くだ」
返された悪意のない言葉に京は苦笑し、
「もう休めよ、疲れたろ? 話したいことはあんだけど、今夜はやめとく」
それを、らしくない気遣いだな、と皮肉りながらも、庵は大人しく京の薦めに従った。
「あ、今日はベッド譲ってやるから」
寝る前に、と手洗いへ向かった庵の気怠げな背へ、京の声が飛んだ。
京が寝る用意を整えて奥の部屋に入ると、庵はもうベッドの中で寝息をたてていた。寝付きの悪い彼にしては珍しく、横になるなりすんなりと眠れたらしい。それだけ疲労していたのだろう。京もベッドの横に並べた布団の中に入ったが、かなかなか眠気が訪れない。なんとなく、気が昂ぶっているのが判る。気の高揚は感染する(うつる)ものなのだろうか。そんなことを考えながら、しばらくは眼を閉じて頑張ってみていた京だったが、やはり一向に眠りの波は訪れず、彼は諦めて起き出した。庵の気配を気につつ、ベランダに近づく。そして、そっとカーテンを開けた。
――あ⋯⋯。
妙に視界が明るくなって、もしやと空を見上げれば、そこにはやはり丸い月の姿。
――ああ、今日は満月だったのか⋯⋯。
黄金色(こんじき)の月明かりは、なぜかひどく暖かく感じられた。京はカーテンをそのままに、庵の眠るベッドへと移動する。ギシリと重くスプリングを軋ませて、ベッドはふたり目の男の体重を受け止めた。庵はそれに気付かず眠っている。起こしてしまうことを危惧しながらも、沸き起こる衝動を抑え切れず、京は彼の髪にそっと触れた。
「⋯⋯」
庵のうすい目蓋がぴくりと震える。慌てて手を離したが、意識の覚醒は止まらなかったらしい。京がじっと見ている目の前で、その双眸がゆっくりと視界を取り戻した。庵の眼が自分の姿を捉えたことを確認し、
「悪りィ、起こしちまった⋯⋯?」
京が問うと、
「いや⋯⋯」
首を振り、庵は起き上がった。ふたりは自然とベッドの上で向かい合う格好になる。
「自然に目が覚めた」
そう言って、何気ない仕種でベランダの窓を振り仰いだ庵は、嗚呼、と吐息のような声を漏らし、穏やかに目を細めた。月明かりに気付いたのだろう。
「満月みてぇ」
「そのようだな」
なごんだ庵の横顔を見つめていた京は、ふと気になって彼の前髪に手を伸ばした。
「京?」
驚いて顔を戻した庵に構わず、京は彼の前髪を掬い上げる。赤褐色の瞳は健在だ。月の光を受けて、角度によっては金色にも紅くも見える虹彩と、縦長の瞳孔。
「なんで気付かなかったかなー⋯⋯」
それは見事なまでのキャッツアイ。京は苦笑を消して眼を細める。
「⋯⋯?」
訝しみの視線を向ける庵に、
「いや、おまえのこの眼だよ。変わってなかったのにさ、なんで俺、そのことに気付かなかったのかと思って」
この瞳孔の形状が変わらぬかぎり、庵の躰内に『それ』はあるということなのだ。
それをもっとよく見ようと、京は庵の顎を捕らえ、更に至近距離からその双眸を覗き込んだ。そして、不意にピタリと動きをとめる。
「⋯⋯京?」
不可思議な表情をして固まってしまった京に、庵がおそるおそる呼びかける。京はその、緩慢に動く唇に気を取られていた。
――ああ、そうだった。
なぜか急に京はそれを思ったのだ。この男とキスをしたことはなかったのだ、と。身体は何度か繋げたのに。
京は変わらずの至近距離で庵と視線を合わせている。やがてゆっくりと口を開いた。
「いいのかな。それとも⋯⋯」
つづく言葉をしばし噛み、京はくすくすと忍び笑いを漏らし始める。そして更に言葉を継いだ。
「やめといたほうが⋯⋯いいのかな」
覗きこむ瞳の表情を読み、京の言わんとしていることを正しく理解したらしい庵は、
「やめておけ。後悔することになるぞ」
冷めた声で返しながら、そのくせ拒絶の表情(いろ)はない。
「どうせ後悔するならやっちまってから後悔したいタイプなんだ、俺は」
それを聞いて庵がフッと笑った。笑いのあとで何事かを呟く。
――おまえらしい。
そう聞こえた。
京はその顔から笑みを消すと、庵の薄い唇の端に親指を添える。首をすこし傾け顔を近づけて行くと、庵がごく自然な仕種で目蓋を伏せた。上下の睫が綺麗に揃い、目許に淡い影が落ちる。刃(やいば)のような視線の鋭さを失うと、途端に庵の表情は凪いだ湖面のように静かになる。その一瞬の変化が京にはひどく新鮮だった。
柄にもなくドキドキする。
焦点がぶれるぎりぎりまで目を開けていた京も、やがて視界を閉ざした。
唇が触れ合ったと同時に反射的に引かれた庵の顎は、すぐに元の位置まで戻って来る。それを待って再び触れたときには、もう逃げなかった。
京は舌先で乾いた唇をなぞり、庵の下唇を唇で咬む。息を継ぐために開かれたその隙間から、そっと舌を差し入れてみる。拒まれない。庵の反応を窺いながら、京は徐々に口吻けを深めて行った。
「応えろよ⋯⋯」
口吻の合間に京の声。
「ちゃんと⋯⋯応えろ⋯⋯」
口唇を触れ合わせたまま囁くその声が、庵の唇を湿らせる。もう一度、角度を変えて深く侵入してきた男の舌に促されるまま、庵は京のそれに己の舌を絡めた。
飲み込み損ねた体液が、唇の端から溢(こぼ)れ落ちる。息を継ぐために離れた唇のあいだで、熱い呼気までが絡み合う。熱く濡れた舌の感触を満足するまで堪能してから、京はゆっくりと口吻けをほどいた。
庵が目蓋を上げて京を見る。熱を孕んだ視線が絡んだのを合図に、京はかるく身体をぶつけた。これじゃ照れ隠しだな、と自嘲を混じりに、大型の猫科動物の子供同士がじゃれかかる仕種で、京は庵に触れる。
「おまえがいるせいで、俺のせっかくの独り暮らしが台無しだぜ? 女も連れ込めねえ」
下世話な台詞で京が庵をなじる。が、口調は完全に悪ふざけのそれだ。それを受けて返す、
「それは悪かったな。叩き出すか?」
庵の答えもまた白々しくわざとらしい。
「責任とって相手しろよ」
にやりと笑い、京も軽口で応じる。
「楽しくはないのだろう?」
庵が口にしたそれが、いつかの自分の台詞だと京は気付いた。あの日のことを庵も覚えているのかと思うと、興奮が蘇る。それを押し殺して、
「楽しくなくてもやることはやれるさ」
無粋なことを言ってのけ、不意に京は動きをとめた。知らず真顔になっていた。その視線で捕らえた庵の表情もまた、いつの間にかシニカルな笑みを消し去っている。
――もしかしなくても⋯⋯。
これって誘われてるんだろうか。
知らず京の喉が鳴った。上目遣いに庵の双眸を覗く。
「庵?」
触れるだけの口吻けを庵に送れば、彼の唇は柔らかくそれを受け止める。
「調子に乗るなよ、京」
京の唇にあまく歯を立てた庵からの、それが返答だった。
明日自分が目覚めたとき、彼はこの部屋から消えているだろう。この瞬間、なぜか京はそれを予感した。
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