京が行動を起こしたのは、式を挙げた都が八神家を出た後のことだった。挙式を控えた人間のいる家に不穏な空気を持ち込まないでおこうという遠慮と配慮は、彼でも持ち合わせていたらしい。
どこへも立ち寄らず、まっすぐに自分のいる道場を目指して来たらしい男の姿を見留めて、庵は慌てるでもなく、伏していた床からおもむろに身を起こす。それがあまりに自然な身のこなしだったため、それまでの彼の態勢を、京は異様に感じなかった。
「どこから忍び込んだ?」
怒るでなし迷惑がるでなし。淡々とした表情と声音とで、庵がそれを言い当てる。京は両手に靴を持って、そこに立っていた。それでなくても庵に来客の触れがなかった以上、この男が正規の訪問をしたのでないことは明白である。
「裏の垣根乗り越えて来た」
「何か不都合でもあったのか? 素直に玄関から入ればいいものを」
「邪魔されたくないんでな」
「⋯⋯邪魔?」
正式に、つまりこの家を表門から訪問すると、京は宗家の長という立場で出迎えられてしまう。そうなれば、まず間違いなく自分のペースを乱されることになるだろう。京はそれを嫌ったのだ。だから、誰にも会わない経路をたどって一直線にここへ来た。
「まあいい。とにかく、拭け」
庵は顎をしゃくって京の肩口を指し示し、手拭を一本差し出した。京の肩と頭には白く雪が積もっている。京は素直に勧めに従い、両肩の雪を払って頭を拭いた。
「で、何の用だ。こんな日に、わざわざここまで出向いて来るなど⋯⋯。電話で済む話ではないのか」
庵の言うようにこの日は生憎の悪天候で、朝から吹雪いていた。余程のことがなければ外出する気も削がれよう。
「向こうは晴れてたんだよ」
実際、積雪に往生させられていた京は言い訳がましくそう答えた。ただし、思い立ったが吉日、の言葉どおり、たとえ出掛けの天気が雷雨だろう豪雪だろうと、こうと決めた以上、京は動く。
彼は庵と直接対面したかったのだ。電話で事を済ませる算段など、最初(はな)から頭になかった。
「都のことか?」
庵に先回りされ、なぜそう思うのか、と京が表情で逆に問い返せば、その貌を読み、
「いや、宗家に無断で式を挙げさせただろう」
そのことを咎めに来たのか、と彼は言っているのだ。無論、京の性格上、それが有り得なさそうな想像だと承知の上での話ではあった。
「違げェよ。そんなんじゃねえ」
案の定、京は首を振る。
「ならば⋯⋯」
庵はそこで一旦言葉を切った。
「怖くなったか」
京の視線の先で、庵の表情がじわじわと、京の見慣れた、かつての昏いそれに塗り替えられて行く。
過去へと時間が巻き取られて行く――。
「こわい⋯⋯?」
京がそれと気付かぬうちに、庵は主導権を握ろうとしていた。このとき庵は、既に胆(はら)を決めていたのである。京を騙し抜くための、一世一代の大芝居を打とう、と。これが最後の嘘だ。
そう。
最期の、嘘。
「あんなものを見せられて、恐ろしくなったか⋯⋯?」
あんなもの。その言葉の指すものが、あの夜自分が触れた痛みのことだと、京は気付いた。
氣で氣を探る――。
まだ庵の身体に大蛇の血が流れていた頃、その暴走を抑えようとして、彼が強烈な氣を発したことがある。そのときのことを思い出し、京は数日前の夜、庵に向かって精神の触手を伸ばしてみた。とはいえ、そんな遣り方で仕掛けて、それが素直に受け容れられてしまうとも、正直思ってはいなかったのだが。きっと簡単にブロックされてしまう、京はそう想像していた。
だから驚いてしまった。まさか庵が、自分から彼自身を探らせてくれるとは。庵はあのとき、自らの意志で、その内面へと通じる扉を開いてくれたのだ。それを京は確かに感じた。
じわじわと、軟体動物が未知の物体に向け触手を伸ばすように、京はおっかなびっくり庵の意識に触れて行った。そこから伝わって来たのは、強烈な痛みだった。
このとき、なんの心構えもしていなかった京は、迂闊にもその痛みに無防備に感応してしまった。
フィジカルな痛みになら免疫ができているし、多少のことでは音を上げない自信もあった。だが庵から伝わるものは、それとは全く質の違う痛みだった。京には馴染みの薄い痛み。臓腑を素手で鷲掴みにされているような、皮膚の内側を、薄刃の剃刀が走っているような。そんな有り得ない筈のことが、しかし庵の意識の中では現実に起こっていたのだ。京は息苦しさを覚え、途中で手を引いてしまいたくなった。
「⋯⋯痛かったぜ、あれは」
痛過ぎた。それは看過できない痛みだった。
「同情なら要らんぞ」
庵の突き放すような物言いに、
「おまえが悪いんじゃねえねえか、あんなもの見せるから!」
京は憤慨し、反射的に叫んでいた。
その言葉に庵が表情を殺す。
「そうだな⋯⋯。おまえが責められる謂れはないな」
あの痛みを教えてしまったのは自分だ。責められるべきは自分。知られたら、この男に同情されることくらい、予測できていたではないか。そのことを解っていて、それでもそれを見せるしかなかった。隠し通すことも、誤魔化すことも出来なかった。取り繕うことが出来なかった。
「あ、いや⋯⋯違う。八神、そうじゃない」
勢いのまま口にしてしまった己の言葉を、京は慌てて撤回する。
「悪いのはおまえじゃない。それを見せるように仕向けたのは、俺、だ」
見たがったのは自分だ。庵はその自分の望みを、その我儘を、黙って受け容れてくれただけ。なのに、それを責められては堪るまい。
「⋯⋯悪りィ」
「謝るな」
俯いて謝罪する京から、庵は顔を背けた。
「なんでだよ。俺を責めればいいだろ! おまえは俺と向き合う気もないのか!?」
責められなければ、詰られなければ、京には庵との接点が持てない。彼と関われない。その切っ掛けが欲しいのに。彼からそれを与えられたいのに。それさえも拒絶するのか、この男は。
なぜだ。
――俺が『草薙』で、おまえが『八尺瓊』だからなのか?
「どうしておまえはそうやって、何もかもを自分に還しちまうんだよ!」
何故すべてを自分ひとりで呑み込んでしまうのか。
苛立つ京に、しかし庵は落ち着いた口調で応じた。
「楽だからさ。自分ひとりをどうにかすることで、すべてに対応できるんだ。これほど楽なことがあるか?」
誰の手も借りず、すべてを片付けることが出来る。だからそうするのだ、と庵は言った。それが、『八尺瓊』である者たちには自然なことなのだ、とも。
「⋯⋯」
京は首を振る。解らない、そんなこと。それは京が持ち得ない感覚だ。
「何が原因なんだ」
京の問う言葉の意味が解らず、庵の顔は怪訝な表情を覗かせる。
「あの痛みの正体はなんなんだ?」
――何があんなにおまえを苦しめてる?
「昔の俺だ。ずっと⋯⋯死にたがっていた男がいただろう」
――ああ、やっぱり⋯⋯。
京は胸の裡に呟く。やはりあの男は死んでいなかった。死を望むあの男は、今も庵の中に棲んでいる。ただ、庵はその男を殺す気だ。もう死にたがっている訳ではない。
このとき京は、重要なことを失念していた。
死を望む男と、京に執着し、京を支えに生きていた男とが、表裏一体の存在なのだということを。しかもその男こそが、八尺瓊当主である以前に存在する、本当の、ただの八神庵という一個体なのだということを。
いま自分の前にいる男が、八尺瓊当主という偽りの仮面を被った、その八神庵であるのだということに気付かぬまま、京は語りかけていた。
「なあ、俺に預けろよ」
「預ける? 何をだ」
京にとって、あのとき感じた痛みは強烈過ぎた。
「おまえひとりが苦しむことねえだろ。だから俺に預けろよ、その腕ひとつでいいからさ」
その腕ひとつ、その脚一本。何でもいい、その身の一部を預けてしまえ。そうすれば、あの痛みは軽くなる。
――俺が請け負ってやるから。
以前、その氣を引き受け、吐き出す手助けをしたときのように。
しかし庵は首を振った。
「それは困る」
「困る? なんでだよ。好んで苦しむ必要なんか⋯⋯」
「あるんだ」
好んで苦しむ必要はないだろう、そう言いかけた京の台詞を、庵は否定の言葉で遮った。
「あれは、俺にとっては必要なものなんだ」
「なんであんなもんが⋯⋯」
「あれを乗り越えて初めて、俺は『八尺瓊』に相応しい人間になれる」
庵のその言葉に、京は暫し想像を巡らせ、
「試練⋯⋯、なのか?」
思い至った結論を口にした。
庵は頷くことでそれを肯定する。
「一度はおまえたちを騙し、裏切ったんだ。あれくらいの試練、あって当然だろう」
儀式ひとつを済ませただけで片が付くような話ではないのだと、庵はそう説明した。
「そっか」
つまり『八神』であった昔の庵を消すことが、『八尺瓊』として生きる彼の試練の達成になるという訳か。京は合点する。
「得心が行ったか?」
「ああ。まあ、うん、一応、な」
飽くまで、一応。
京がこの場所を訪れた目的は、庵が今も死を望んでいるのか否か、それを本人に直接逢って確かめることだった。それは、庵の言外の言葉から既に確認済みだ。彼に死ぬ意志はない。
しかし――。
京は首を捻った。なぜだろう。己の胸の裡に巣くうあの霧は、少しも晴れていないのである。腑に落ちない何かがまだ存在している。
が、そんな京の思惑と困惑とを知らない庵は、
「しばらくの間、おまえはここへ来るな」
と、言った。
「どうして」
「俺は、おまえと次に逢うときには、完全な八尺瓊当主としての自分でありたいんだ」
こんな中途半端な存在のままでは、もう二度と逢いたくない、庵はそう言う。
しかし、京はそれを承諾できなかった。
「放っとけって? そっとしとけって? ⋯⋯それは出来ねえな」
「なぜだ。猶予くらい与えてくれてもいいだろう」
京は首を振る。なぜと訊かれても、京にはその理由を答えることが出来なかった。彼自身判っていないのである、自分の気持ちが。だが放ってはおけない。そうしたくない。それはもう理屈ではなかった。
この危機感はなんだろう。この焦燥はどこから溢れて来るのだろう⋯⋯。
その答えをこの男に求めるのは間違いだろうか。そう思い惑う気持ちとは裏腹に、京の身体は自然と動いてしまっていた。
京の腕が伸び、目の前の男の両肩を掴む。
「⋯⋯!?」
庵が驚いた次の瞬間、伸掛(のしか)かられるような姿勢で、彼は板の間へ仰向けに押し倒されていた。
知らず、ひとつ大きく心臓が跳ねる。
庵の左胸の上に頭を乗せた京は、直接頬に響いた彼の鼓動を、しっかりと感じ取っていた。
「な、んの⋯⋯真似だ」
あまりの驚愕に、すぐには平静を取り戻せないでいる庵が上擦った声で言う。気を落ち着かせようとしてか、彼は大きく呼吸(いき)をした。隆起する胸の動きを薄い道着越しの頬に感じながら、京は目を閉じる。庵の些細な変化も見逃さないよう、神経を研ぎ澄ませて。
「いいかげんに⋯⋯離れろ」
沈静した振りを装うにも、この態勢では不可能だった。例え表情や声を取り繕えても、いまだ鎮まる気配のない庵の拍動は、彼に抱き着き、その肌を密着させている京には簡単に知られてしまう。
「⋯⋯重いだろう、草薙」
その声に、京がようやく少しだけ身体を浮かせた。彼は庵の顔の位置まで己のそれを押し上げると、その黒目がちな大きな双眸で庵の眼を捕らえる。すべてを見透かすように覗き込んで来るその視線に、庵の心臓がまたひとつ、派手な鼓動を刻む。
庵がぎこちなく目を逸らしたのは、そのとき京の手が、彼の左胸に押し当てられていたからだ。
隠したくても隠せない、動揺。
京が人の良くない笑みをその頬に浮かべた。
「なに緊張してんだよ?」
己のいだく疑念の源を、この男の中に見つけたい。
「⋯⋯」
庵は無言。ここが正念場だった。ここで京を騙し切ることが出来なければ、これまでの芝居が水泡に帰す。
何をどう言えば、この男は引き下がってくれるだろう。
庵は表情を殺した横顔で、必死に考えを巡らせる。そして眼を閉じてひとつ溜息をつくと、微苦笑を浮かべた眼で京のそれを見上げた。
「緊張もするさ。おまえにされたことを思えばな」
「!」
かつてこの身に無体を働いたおまえに押さえ込まれているのだから、と敢えて言葉にされ、京は戦き、弾かれたように庵の上から身を引いた。
それに伴い、自由を取り戻した庵が起き上がる。
「草薙、俺はそんなに頼りないか? 哀れに見えるか?」
闘うこのと出来ないこの身は、手を貸そうとせずにはいられない程に。
「そうは言ってねえよ」
「ならば、信用ならんということか」
真正面に京の顔を見据え、庵は言い募る。
「それは⋯⋯」
その言葉は否定できない。
京は口籠もった。
庵の言うことを心のどこかで疑っているからこそ、きっと自分は彼から目を離せない。あの霧が晴れない。
「成程。どうやら俺は、相当に信用を失くしているらしい」
庵は唇を苦い笑みに歪め、当然といえば当然のことだな、と呟いた。かつて自分が京を何度騙し、自分たちの一族がどれ程の時間、『草薙』と『八咫』とを欺き続けたのかを考えれば、と。
京は首を振る。
「俺にも解んねんだよ⋯⋯」
なぜ彼を放っておけないのか。自分が庵の何を疑っているのか。京には自分の気持ちが見えない。
「忘れられない、か」
「え?」
「俺と闘えたことが」
それが、おまえが俺を気に掛けずにいられない未練の正体なのではないか、と庵が指摘する。
「そう、なのか⋯⋯?」
京は混乱し、自問する。やはり自分のことが解らない。
しかし、自答しようとする京の思考を阻み、庵はそれを結論と断定して話を展開してしまう。
「ならば余計にだ。必要以上に俺と関わるのはやめろ」
庵は言う。距離も時間も置いた方がいい、離れてしまえばいつか忘れるだろう、と。
「なんだよ、俺から離れてく気なのか? 逃げんのかよ!」
「逃げるのではない。離れるなどとも言ってはおらん。必要に迫られれば、嫌でも関わり合わねばならん立場だろう、俺たちは」
――『草薙』と『八尺瓊』なのだから。
「それが嫌なんじゃねえか、俺は!」
京は、『草薙』としての自分で『八尺瓊』としての庵と接したいのではない。
「それは矛盾だ、草薙。俺はその『八尺瓊』に、」
「八神、ちょっと待て」
不意に京が庵の言葉を遮った。硬い貌をして、京は男を見据える。
「おまえいつから俺のことそう呼んでる?」
「⋯⋯何のことだ」
「とぼけんなよ。なあ、いつからだ? いつから名前で呼ばなくなった?」
京に問い詰められ、庵の双眸が一瞬怯えの表情(いろ)を閃かせた。
「⋯⋯俺はもう」
震えそうな声音を繕うように、ゆっくりと庵は言葉をつむぐ。
「『八神』ではないだろう?」
「そうだけど」
「俺はあの男を消さなくてはならんのだ。おまえが忘れられずにいるあの男を」
あの頃の自分に繋がるものは、切り捨てたい。その呼び名ひとつにしても。
だから、と庵は言葉を継いだ。
「矛盾だと言っている。例え闘えた俺のことがおまえには忘れられないのだとしても、あの男、『八神』は消えるんだ。俺が『八尺瓊』になることと引き換えに」
俺が『八尺瓊』に還ることを選択したのはおまえだろう、と庵に言われてしまえば、京に返す言葉はない。
「俺はもう『八神』ではいられないんだ。おまえもそのつもりで俺に接してくれ」
「もう自由に逢いに来たら駄目だって言うのか?」
今日のように、草薙当主としてでない、ただの京として逢いに来てはいけない、と。
「来ても、俺は<そのつもり>で迎えるぞ」
――俺はおまえを、草薙当主としての身分でしか認めない。
「それは、おまえにとっては不本意なことだろう?」
――耐え難かろう?
庵に問われ、京は頷く。
「だから、ここへは来るなと言うんだ。来なければ、そんな態度で迎えられることもない」
嫌なら来るな。
それは正論だろう。だが。
「無理だ⋯⋯」
京の気持ちはそれ納得しない。
「俺が『八尺瓊』に還ることも、おまえは認めないのか。許してくれないのか?」
庵の咎めるような言葉に京は顔を上げた。
「そうは言ってねえよ⋯⋯けど、⋯⋯何か⋯⋯何かないのかよ? 俺には忘れることなんか出来ねえ。でも、おまえがあの痛みを抱えてるのを黙って見てることも⋯⋯」
――出来ない。
庵があの男を消さないでいるということは、即ち、死を望む自分をその身に飼い続けるということだ。庵が、苦しみ、のたうち続けなければならないということだ。それくらいは京にだって判る。
だからこそ、
「もっと別の方法はないのかよ⋯⋯?」
何か違う途がないのかと考えてしまう。あの男を生かしたまま、尚且つ庵が苦しまないで済む方法。もちろん、『八尺瓊』に還ることを前提として。
それは、欲張りで不可能な話なのだろうか。
――京⋯⋯。
危険、危険、危険、危険⋯⋯。
庵の頭の中で半鐘が鳴り響く。
別の生き方があることを庵は知っている。だがその存在を、京に気付かせる訳にはいかない。
「無茶を言うな。そんなことを言われたら、俺は『八尺瓊』にはなれん。あの男を生かし続けねばならん」
庵は、溢れかける感情を抑えつけ、震えそうな声を堪えた。
「だが例え生かし続けても、おまえとは闘えんのだぞ?」
生きているのは精神だけなのだ。それに伴う肉体を、庵は既に失っている。大蛇の血は祓われたのだから。
「それとも、もう一度、俺に大蛇と血の盟約を結ばさせたいか」
京は俯き首を振る。そんなことは望まない。望んでも叶わぬことでもある。だが、命の遣り取りを抜きにして、京が庵との闘いを望んでいたことだけは確かだった。そして、庵が闘えなくなったからといって、彼の存在を忘れられるのかといわれれば、そうではないのだということも。
京は知っている。その命を懸けてまで、自分だけを追い続けていた、そんな男は庵以外いない。これまでも、そしてこれからも、一生――。
それなのに、その庵の精神が、京だけを見、京だけを追い求めていたその精神が、いま死に臨んでいる。そうと知りながら、死にゆくそれを、京はただ手をこまねいて見送ることしか出来ないのだ。
しかし。
――本当に、これでいいのか?
本当にそれしか、選択肢はないのだろうか。
ふたりの間に長い沈黙が落ちていた。
それを破ったのは静かな庵の声。
「草薙、今日はもう遅い。帰った方がいい。夕餉の支度が始まったようだ」
庵に言われて意識を向けてみれば、空腹感を煽る匂いが確かに母屋の方から漂って来ている。
「もうそんな時間か⋯⋯」
京は時計を探して道場を見回したが、目当てのものはどこにも置かれていないようだった。京も庵も時計を身につけてはおらず、正確な時間は判らない。
しかし、一旦道場を出てみれば、雪雲のせいだけでなく、空はもう真っ暗だった。
「帰りたくねえな」
他意なく計算なく、正直な気持ちが京の口をつく。
「泊まる気ならば家の者に言うぞ」
そうしなければ宿泊の準備を整えることができない。
「それは勘弁しろ」
京は苦笑する。この屋敷の人間に自分の来訪を知られては、その後どんな扱いを受けるか判ったものではなかった。おそらくは、こんなふうに庵と普通に話をすることさえ、ままならなくなるのだろう。それでは滞在する意味自体なくなってしまう。
「じゃあ大人しく退散するわ」
それがいい、と頷いて、庵は京を伴い道場のある離れを出た。
廊下を歩きながら、
「駅まで送ってくれんの?」
と、冗談めいた口調で訊く京に、
「悪いな」
庵はかぶりを振り、雪道の運転にはまだ慣れていないのだと言う。
「車を呼ぼう」
「いや、いい。待ってる間に駅まで歩けるだろ」
せっかちな京らしい物言いに、
「健脚だな」
混ぜっ返すような庵の応答。
「馬鹿にすんなよ。鍛え方が違うぜ」
「だな」
庵は微かに笑った。その気配が空気の振動になって伝わり、彼の隣を歩いていた京を振り向かせる。
京の視界の中で、庵は少し俯き気味に微笑っていた。それは、京がこれまで何度も目にして来たどの笑みとも違っていて、おそらく庵が初めて京に見せる柔らかなもの。
だから思わず、
「⋯⋯おまえ、変わったな」
その言葉が京の口をついて出ていた。
途端、庵の横顔が表情を消してしまう。
「変わりもするさ。もう『八神』ではないんだ」
返された庵の言葉に自然と京の表情は曇った。
「おまえは⋯⋯今の自分のこと、受け容れられてんのか?」
納得出来ているのか?
「ほんとは今でも⋯⋯」
今この瞬間にも、消えてしまいたいと願っているのではないのか、と。続く残りの言葉は飲み込んだ。
庵に死を思い出させるようなことは、もう言わない方がいい。それに触れるのは危険だ。直感的にそんな気がした。
「どうした。おまえらしくもない」
京の言葉を聞いていなかったような調子で言って、庵は笑う。そこにはもう、前(さき)のような柔らかさはなかった。
「おまえの方こそ変わったんじゃないのか」
俺のことを鬱陶しがっていたのは誰だったんだ、と庵に指摘され、
「⋯⋯おまえのせいだろ。おまえが変わっちまうから」
京はそう言い返した。
「だからおまえも変わらざるを得なかったと、そう言うのか」
「だろ?」
「一理あるな」
「一理じゃねえよ、二理も三理もある」
京はすべてを庵のせいだと言いたいらしい。
庵はそれを否定しなかった。
「戻りたいか」
「え?」
「変わる前の自分に」
「出来もしねえこと言うなよ」
京は皮肉っぽい笑みに口端を吊り上げる。
「出来ないこと、か。それが解っているなら、もう蒸し返すのはよせ」
「俺だって解ってんだよ、そんなことは!」
京は自身に対する苛立ちを隠せない。
今日の自分はどうかしている。なぜか過去のことばかりが気にかかる。未来の話をしようと何度も思い定めてきた筈なのに、いざこの男を前にするとそれが出来ない。
そんな京の様子を庵は黙って横目で眺めやる。
庵は、自分の限界を改めて思い知らされた気分だった。
一度朱く染まった水はずっと朱いままなのだ。もう二度と、元の透明(いろ)には還らない。
庵は京と出逢い『彼』を知ってしまった。死ぬことを望まれて、他人の意志に生かされていただけの自分ではなく、自らの意志で生きようとする自分、その自分の存在を、京と闘うことで京に教えられた。その事実は消えない。『彼』の存在を、今更なかったことにはしてしまえないのだ。『彼』は今も庵の中に生きている。そして痛みを与え続けている。その痛みすら今の庵には愛惜しい。
一度覚えた歓喜の味を、庵は終生忘れることなど出来ないだろう。
八尺瓊当主としてだけ生きていく人生には、耐えられる筈がない。そんな『彼』の叫びを自覚させるように、現実を突き付けるように、今日この時、京は庵の前に現れた。
『もしあのとき、おまえを死なせちまってたら、俺だって⋯⋯』
いつだったかの京の嘆き。
忘れることは出来なくても諦めることは出来る――。
あのとき京はそう言いたかったのだろうと思う。
――ならば、諦めさせてやろう。それ以外にはもう、俺がおまえにしてやれることはないからな。
京に忘れて貰えないのなら、京が己に対する関心を失ってくれないのなら、もう庵に出来ることはひとつしかない。もとより庵には『彼』が死ぬのを待つつもりなどなかった。『彼』を殺せないことなど判り切っているのだから。
――引き金を引いたのは、おまえだ、京。
やっと。
やっと京が自分を殺してくれる。
庵にとってそれは、喩えようもなく幸福なことに思えた。
京を送り出すために、庵は玄関から表の道路へ出るまでの敷地内の小道を彼と並んで歩いた。雪はまだ降り続いている。傘を出す手間を惜しんだため、ふたり共すぐに雪塗れになってしまった。
「邪魔したな。今度はちゃんと玄関から入ることにするからよ」
表門を前にして、京の後をついて歩いていた庵を振り返り、男が再びの来訪を予告する。
「⋯⋯元気でな」
「なんだよ、急に改まって。気味が悪いぜ」
庵は答えず、目の前の格子戸を開けた。ゆっくりと敷居を跨ぎ、ボア付きのフードを被り直した京が降りしきる雪の中を路上へと出て行く。
いつ露見するとも知れない危険な真実を呑み込んだまま、庵は最後まで、京を欺き通した。だが猶予はない。このまま彼に関心をよせられ続ければ、いつか仮面は剥がれ落ちる。京に本当のことが知れてしまう。庵が生き続ける限り存在し続ける『彼』のこと、その『彼』が庵に与え続ける痛みのこと、そして『彼』を死なせる気のない庵のことが。『彼』の存在を許し、『彼』から与えられる痛みを甘受したまま、世継ぎをもうけるまでの最低限の期間を生き、そして逝こうとしている庵のことが。
決して真の『八尺瓊』にはなれない庵のことが。
それらを知ってしまえば、京が庵を放っておいてくれる訳がなかった。けれど庵には『草薙』の腕を――救いの腕を――取ることはできない。
せめて八尺瓊当主としての最後の使命を果たすまではと、そう思って今まで耐えて来たのだが、もう無理だ。もうこれ以上隠し通せない、騙せない。庵の中にある痛みの有無を、京はいつでも確かめることが出来る、その術を持っているのだから。
遅かれ早かれ、いつか京にはすべてがばれてしまうだろう。
そうなる前に。
「もう二度と⋯⋯」
庵は、街灯に照らされながら去って行く京の背を、その場に佇みじっと見送る。
今この眼に映る像を、この世の最期(おわり)に見る光景にしたい。
「ここへは来るなよ」
――来ても逢うことは出来ないからな。
呟いた声は京には届けられない。
雪に白く掻き消される男の後ろ姿を、その陰影を、庵は目蓋に焼き付ける。
――もう俺は、いないぞ。
かすかに動く男の唇が低く低く呪の詞(ことば)をつむいでゆく。
指を二本立てて結んだ印が宙中の何かを押すように一閃すると、内側からゆらりと立ち昇った青白い膜が道場全体を包み込んだ。その光の膜はしばらくの間ギシギシと軋音を発てながら身をよじるようにうごめいていたが、やがて動きを止め、静寂を道連れに不可視の存在となった。
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