『救済の技法』後編8


 旧正月の大儀を終えた後も、京は草薙の本家を離れていなかった。東京に戻って何があるでなし。今年度を最後に強制退学がほぼ確実となった高校にも、もう今更用はない。そう考えると、急に重たくなった彼の腰はその場から動かなくなってしまったのだ。幸い小煩い父の柴舟はいないし、静も何も言わない。それをいいことに、京は毎日を道場で過ごしていた。幼い頃から、屋敷の中でこの場所に居るときが一番落ち着いていられるのだ。身体が鈍(なま)らない程度には自主鍛練にも励んでいる。だが、握る拳に力がないことを京は痛感していた。
 張り合いがなく、氣が籠らない。
 その理由は、彼自身、なんとなく判っている。
 闘う楽しみがない――。
 もう庵とは闘えない。そう思うだけで氣が萎える。この道場で闘った、彼との最後の手合わせを思い出すにつけ、遣る瀬ない気分に苛まれる京だった。
 強いヤツと闘う。
 それだけを望んで彼と闘いたいと思っていたのなら、庵がかつて京に言ったように、代わりはいくらでもいる筈だ。なのに、なぜ彼なのか。なぜあの男でなければ駄目だと感じるのか。その理由が京自身にも判らない。
 忘れてしまえと庵は言った。おまえの望む俺は、もうどこにもいないのだから、と。
 だが京が望んでいた八神庵とは、一体何者だったのだろう。ただ闘うことができる、それだけの存在だったのだろうか。
 いや、そうではなかったからこそ――。






 その日も道場にいた京の元へ、家の者から来客の知らせがあった。八神家から庵の名代が訪れるという。それを聞いた京には名代の用件にすぐ察しがついた。この時期八神家から草薙家に使いが寄越されるとすれば、それは現在進行中である筈の、庵の婚姻に関する話だろう、と。
 京が客間で待っていると、程無くして、家の者に案内される客人の軽い足音が聞こえてくる。音もなく障子が開けられ、そこから現れたのは訪問着姿の若い女性だった。齢は京と変わらないくらいだろうか。しとやかな和装の似合う富士額をのぞかせ、一方で闊達そうにも見えるショートヘアをもつ娘。齢の頃の割に随分と落ち着いた雰囲気のその佇まいを、京は怪訝な面持ちで眺め遣る。
 誰なのだろう、この女性は。
 庵の名代だというので、彼はてっきり重鎮の古老が現れるものと決めてかかっていたのだ。
 娘は京の前に正座した。
「あ⋯⋯、えっと⋯⋯」
 どう対応したものか迷っている京に、
「八神家当主の名代として参りました」
 女はそう言って頭を下げる。
「あんた⋯⋯」
と、相手が何者なのか、問い質しかけたその直後、京は彼女の正体に気付いた。彼女から感じ取ることのできる氣が、京にとっては得体の知れないものではなく、むしろ馴染み深いそれだと判ったからだ。途端、京の心は柔らかくなった。これと似た氣を持つ男を、彼はよく知っている。
「八神の妹さん⋯⋯だな」
 京の問いかけに女は頷いた。庵に年子の妹がいることは京も知っている。
 庵の妹は、
「八神都(みやこ)と申します」
と、改めて名乗り、そして、
「本日は兄の名代として参りました」
と、もう一度、前(さき)とは言葉を変えて挨拶した。
「それは⋯⋯」
 ご苦労様――。何と応じていいのか戸惑い、京は言葉を飲み込む。慣れないことはするものじゃない。そう思い、普段どおりに接することを決めた。そこで先手を打ち、まずは当たり障りのない話題を振ることにする。
「雪、大変だったんじゃねえ?」
 すると都も、
「ええ、こちらはそうでもなかったですけど、向こうは」
 自然に返してくれた。これで変に難しい会話にならずに済みそうだ。
「そっか。もう結構積もってるんだろうな、あっちは」
「毎年のことです」
 八神の本家は中国山脈の裏、日本海に面した山陰地方に所在している。豪雪とまではいかない地域だが、それでも山陰といえば、例え平地であっても積雪のない年などまず有り得ない。じき裏庭が雪に埋まってしまう、と都は言った。大阪でも数日前に積もる程の降雪があったが、この家の庭にはそのときの雪の名残が申し訳程度、日陰に顔を覗かせているだけだ。
「先日、」
と都が口を開き、
「兄の結婚相手が正式に決まりました」
 それを京に伝えることが、彼女の名代としての役目であるらしい。
「⋯⋯そうか」
「結納も済んで、今は挙式の日取りを調整しているところです」
「相手は⋯⋯?」
「八尺瓊の縁者です。かなりの遠縁ですが。詳細は、こちらに」
と、都は持参していた一通の封書を京の前へ差し出した。京は黙ってそれを受け取る。そして、
「式の日取りはいつ頃になりそうなんだ」
 開封しないままに封筒から目を上げ、都に訊いた。
「二ケ月程先のことになるかと思います」
「じゃあ、四月の⋯⋯中旬、か」
「はい。山陰ではようやく桜が満開になる頃です」
「さくら⋯⋯」
 京は桜の花に対して華やかなイメージを持っていない。彼にとって桜の花は、儚いものの象徴だ。潔く、儚い花。その花の季節に、あの男は式を挙げるのか。
「それ、あいつの⋯⋯八神の希望か?」
 ふと気になって確かめてみれば、京が想像した通り、都は頷いた。
「そのようです。少しでも早く、というのが長老たちに共通した意見だったのですが、四月まで待って欲しい、と」
 桜の咲く頃がいい――。
 そう言って、庵が家中(かちゅう)の意見を容れなかったのだという。
「兄が我を通すことは珍しいので、皆驚いたそうです」
 都の話に因れば、己の婚儀であるにも関わらず、庵はそれまで長老たちの取り決めに、唯々諾々と従っていたらしい。
「あいつ、今どうしてるんだ? ずっとそっちの家に居るんだろ」
 昨年のKOFの後、庵は神楽家で療養し、動けるようになってすぐ八神の本邸へ帰った。京が知る限りでは、以来そこから動いていない筈なのだ。
「ええ、ですが、先日久しぶりに東京へ出掛けていたようです。借りていた部屋の解約をしに」
 解約。つまり庵は、もうあの街には戻らないつもりだということか。
「趣味で続けていたバンドからも、昨年の大会前には既に抜けていたという話でした。そういえば⋯⋯」
 ベースを処分するよう家の者に申し付けていました、と都の話は続けられ、京は驚愕に目を見張った。
 ――リッケンバッカーのベースを?
 大切なものだ、と。そう公言していた筈なのに。バンド活動は、彼唯一の趣味ではなかったのだろうか。あの男はそれも捨てようとしているのか。
「まだ処分されてはおりませんが」
 という都の言葉を聞き、京は思わずホッと安堵に胸を撫で下ろす。そんな彼の様子を見て、都がその頬に柔らかな笑みを刷いた。控えめで穏やかな笑顔。庵も、微笑うとこんな貌になるのだろうか。
「兄には無断で、わたしが預かることにしました」
「良かった⋯⋯」
 心底そう思っているらしい京に、都は親愛の籠った眼差しを向ける。
「いつかまた、触りたいと思うようになるかも知れませんし」
 そのときには、捨てずにおいたことを喜んで貰えるだろうから。
「いま兄は、日がな一日道場で過ごしています」
 どうやら、あの男も自分と同じような感覚を持っているらしい。京はそう感じた。道場という場所の持つ神聖な空気が、彼にも心地良いのだろう。
「で、あいつ道場に籠もって何してるんだ?」
「さあ、それは⋯⋯。道場にいる間は邪魔をせぬよう言い置かれているので、わたしにも⋯⋯」
 判らない、と都は言ったが、『八尺瓊』に伝わる術を復習(さら)っていることは間違いないだろう。ただ、日中ずっとそれをし続けているとも考え難い。
「夜は古い文書(もんじょ)を読んでいるようです。蔵から随分と沢山の書籍を自分の部屋へ運ばせていました」
 八尺瓊の残した文献を調べているらしいとのことだ。
「キミ、あいつとは仲良いの?」
 京が軽い気持ちで尋ねたそれが都の何を刺激したものか、その質問をきっかけに彼女は想いを吐き出すように庵のことを語り始めた。
「⋯⋯そうなのでしょうね、きっと。家の者たちに隠しているような本音も、かなり最近までわたしには聞かせてくれることがありましたから」
 本当は、わたしにさえ言いたくはなかったのだと思う、と都は庵の心境を推し測り、それでも誰かに言わなければ、耐えられないようなことがあったのでしょう、と少しだけ笑った。
 あの庵にも、当主という重責に圧し潰されそうになることがあったらしい。草薙家と八神家との因習に対する意識の差を思い、京はそう推(お)した。
「わたしには、とても優しい兄でした」
 過去形で語られた言葉に、京は敏感に反応する。
「今は違うって⋯⋯?」
 都は首を横に振る。
「でも⋯⋯何も話してくれなくなりました」
 庵は本心を誰にも明かさなくなった。彼が何を考えているのか、今では都にも判らない。
「それが一族の望みだからと意に染まない縁談を受け容れて、想ってもいない相手と結婚して、何をどうしたいのか」
 何が兄にそうさせるのか。兄が何を想っているのか。
 都は俯き、畳に向かって呟く。
「わたしには、もう兄が解りません」
 そうして兄はどうなってしまうのだろう。
 都は漠然とした不安を感じている。彼女の抱えるその不安は、当人達は知る由もないことだが、京の胸の裡にある霧と同質のものだ。
 都は再び顔を上げ、そして、
「今回の名代としての役目は、わたしにとって、八神の者としての最後の務めになります」
と、わずかに口調を改めた。
「どういう⋯⋯」
「実は兄より一足先に嫁ぐことが決まっているのです」
 本来ならば宗家である草薙の元へ、伴侶となる男性と共に挨拶に訪れるのが分家としての筋だ。しかし婚姻相手の立場を優先し、男性が草薙・八尺瓊・八咫いずれの縁者でもないことや、婿取りではなく都が嫁ぐ形の婚姻であることなどの理由から、この件に関しては宗家に対し正式な報告がなされていなかった。式も内々で済ませるため、宗家の人間は誰も招待されない。このような例外が許されるのは、草薙家の現当主が、因習に拘らない京であるからこそだ。
「なので、あと数日でわたしはあの家を出なければなりません。ですが⋯⋯」
と、口籠もり、
「草薙さん」
 都は京のことを親しみを込めてそう呼んだ。それは宗家の頭領を呼ぶに相応しい言い方ではなかったが、この場にそれを咎める人間はいない。
「わたしにあの家の異質さが感じ取れるのは、兄のお陰です」
 庵が真実を知って、後に改めて八神の総意を受け入れると決意したとき、ひとつだけ家中に命じたことがある。それは、妹の都に自由を与えること、というものだった。自分がこの家に縛られる代わりに、彼女には何の束縛も与えてはならない、と。そうやって、庵は都を家の柵(しがらみ)の外へ出すべく骨を折っていた。彼のその姿勢は今も変わっていない。
 都は言う。
「八神という家の、八尺瓊という一族の、そのいびつさがわたしには解ります。⋯⋯わたしだけでなく、おそらく兄にもそのことは解っている筈なんです。なのに、」
 そこまで言って、不意に都は言葉を途切れさせた。そして、次に口を開いたときには話の流れが変わっていた。
「去年、兄が神楽家から戻って来たとき、わたし泣きました。生きて戻って来てくれたことが嬉しくて」
 庵に死という使命が課せられているのは、当然都も知っていたことだ。その彼が、生きて戻った。
「それまでの兄は、当主だからという理由だけで我(が)を殺し、沢山のことを諦めて来たのだろうと思います」
 諦めたということさえも否定して生きていた庵。
「でも、昨年の出来事で⋯⋯大蛇の血を失うことで、兄は自由の身になったのだと思いました。これからは兄自身の思うように⋯⋯好きなように生きて行けるのだと」
 都はそれを信じて疑っていなかった。
「そうじゃ、なかったのか⋯⋯?」
 濁された言葉の先を読み、京が眉を顰める。その問いかけに、都は曖昧に首を振った。それは判らないという意思表示。
 けれど、兄はまだ何かを諦めようとしている。
 都にはそんなふうにしか見えないのだ。自分の思い過ごしであるのならいいのだけれど。
「もう兄は、自分自身を護ることさえやめてしまったのではないか⋯⋯そう思えることがあるんです」






 役目を終えて帰途に就く都を見送った後、京は庭に面した廊下に出、見るともなく空を見上げていた。振り仰いだ冬空には、凍えそうな姿をさらして月が浮かんでいる。
 昼間に昇る月の、白い姿。その存在感の薄い朧な様が京の気を強く惹く。
「八神⋯⋯」
 庵が口癖にしていた対戦後の台詞のせいでもないのだろうが、月を見ると京は彼を想わずにいられない。そうでなくてもこのところ、ぼんやりしているように見えているときの彼は大抵庵のことを考えていた。京自身、己の胸の裡にある名のない靄が消えない限り、あの男のことを考えない日はないだろうと、半ば自嘲気味に肯定してもいる。
 かつての対外的な『八神』の象徴が夜の満月であるとすれば、その本質である『八尺瓊』のそれは、いま京が見上げている真昼の月だ。
 その存在を目立たせぬよう、雲の白さに紛れるようにしてそこに在る衛星(ほし)。
 庵は、昨年末、元の形に戻っただけだと、あるべき姿に還っただけだと、ホテルの部屋で京にそう言った。その庵は『八尺瓊』に還り、『八尺瓊』の当主として婚儀を挙げる。恐らくそれは自然な成り行きであり、そして祝うべきことでもある筈だった。なのに京は素直に喜べない自分を感じている。その理由を、京は都との会話の中で見つけたような気がしていた。
 それは終わり。
 庵が望んでいた、死。
『わたしを見つけないで』
『俺を忘れろ』
 聞こえる筈のないふたつの言葉が京の耳の奥で重なる。
 だが。
 マイナス12。
 それが月の光度。
 それは太陽の光に掻き消される、けれど、確かにそこにある光だ。
 ここにいる、と。
 生きている、と。
 ささやかな自己主張をして、月は今も確かに生きている。
 ――今頃あいつ何してんのかな。
 京は庵を想う。
 もし同じ空を見上げていたとしても、きっと彼(か)の地ではこの月が見えまい。雪雲に覆われた曇天の下で、彼はいま何を想っているのか。
 空の青さが眼に染みて、京は目蓋を伏せた。赤い目蓋の裏で、庵の、八神庵の周囲に漂っていた死の昏い影を思い起こす。
『八神』として死ななければならなかった彼。大蛇の血を失くすことで、その八神庵は死んだ筈だ。しかし、死んだのはその肉体、身体機能だけであって、決して精神ではない。だからもし、八神当主としての精神がまだ庵の中に生きているのだとしたら。
 ――だとしたら、あいつは⋯⋯。






 陽が暮れて行く。今日もまた、昨日と同じ一日が終わろうとしている。そんな時刻になっても、庵は自分の部屋へは戻らず道場の中で伏していた。都が京に話したとおり、彼は一日の大半をこの場所で過ごしている。
 庵は毎日毎日、同じ行動を繰り返していた。
 朝、陽が昇ると同時に起き出して食事をする。そのまま道場へ入り、身につけたばかりの八尺瓊の技の鍛練をする。一通りそれを終えた後は、もう彼にはすることが何もない。しかし、彼はその場から動かなかった。まるで、この狭い箱の中にしか己の居場所がないのだとでも言うように。
 そんな筈はない。
 そんな筈はない。
 もしもここから這い出(い)でることが可能なら、もっと違うところにも自分が居てもいい場所を見つけられるかも知れない。いや、その場所は確かにあるのだ。庵はそれを知っている。
 けれど庵はここから離れようとしなかった。背中の翼を広げれば、どこへでも行けることを承知の上で。
 あの日、紅丸には飛び方を知らないと言った庵だが、それは嘘だ。飛び方なら知っている。そうとは知らず、庵にそれを教えた男はいるのである。だから、もしもこの箱の中から一歩でも外に出てしまったら、そのとき自分がどこを目指すのか、それが庵には判っていた。
 ――駄目よ、庵。あなたはここから出てはいけない。
 庵に囁きかけるのは『八尺瓊』の声。
 ――解っているさ。俺はずっとここにいる。俺は<おまえ>になるのだからな。
 庵は声の主に心の中でそう応え返す。
 ――そう、俺は『八尺瓊』に。
 けれど庵は、自分が決して『八尺瓊』として相応しい存在にはなれないだろうことを悟ってしまっている。『草薙』に仕え支えることを自らの最大の幸福とする『八尺瓊』には、きっとなれない。それ以上の幸福があることを、庵はもう知ってしまっているのだから。
 京やちづるの前でどれだけ完璧に自分を偽ることが出来たとしても、自分自身の気持ちまでは騙せない。京が見せてくれた生き方で、この先の人生を歩みたいと望む自分を無視できない。
 生きたがる本当の自分が、『八尺瓊』であろうとする庵を、痛みで以て咎め苛む。
 大蛇が斃され、庵がその生命を終えることなくこの屋敷に戻って来たとき、家の者たちは手放しで歓喜した。もうご自分を偽る必要はなくなりましたね、と。そう言ったのは妹だったか乳母だったか。
 ――違う。そうじゃない。
 込み上げる否定の言葉を、そのとき庵は飲み込んだ。
 どんなに望んでも叶わない願いというものは今でも、いや今だからこそ、存在している。叶えてはいけない願い。理性で、犯してはならないことだと解る、それは罪。
 庵には解っていた。自分が京を我が物にしたいのだということが。京という人間が、八神庵という一個人の生を支えている。彼が庵に生きることを教えた。飛ぶことの愉しさを教えた。だから、庵は彼が欲しい。彼と共に生きたい。けれど太陽を独り占めにするなど、そんなことは赦されない。八尺瓊当主として生きて行く庵にとって、それは決して赦され得ないことだった。庵は太陽に一方的に照らされる月としての自分に満足しなければならないのだ。
 月から何かを望むなど、あってはならぬこと。
 だが、それに耐えられないだろう自分をも、庵は知ってしまっている。すぐ側にそれはあって、少し手を伸ばせば届いてしまう。一度は手を伸ばすことを許されもした相手が、すぐそこに居るのだ。宗家の当主として、京は常に庵の側に在る。その男を望むことが許された過去を、庵はなかったことにはしてしまえなかった。生きることを知ってしまった自分を殺すことができなかった。紅丸に指摘されたとおり、この背に翼は今もあるのだ。飛ぶことの出来る翼が。
 だから――。
 庵は心密かに死期を定めた。いつ終わるとも知れぬ苦痛には耐えられない。けれど、終わりのある痛みにならば⋯⋯。
 八尺瓊当主として、最低限の使命を果たし終えた時。
 それが庵の決めた終末の期限だった。彼は指折り数えてそのときを想う。後いくつ何をやり遂げたら自分の役目は終わるのだろうかと。既に挙式日の決まっている妹を、この家から無事に嫁がせ、そして自らが婚儀を挙げ子を成して。
 庵が『八尺瓊』の血を引く以上、その第一子は女児であるだろう。
 子をもうけた、その先のことはもう考えていなかった。子供の将来は家の者に任せてしまうつもりでいる。彼らは決して悪いようにはしないだろうから。
 庵には父親になる自分の姿がどうしても想像できなかった。子供というものに対しても実感は湧かない。そして何より、自分のような人間に、父親になる資格はないと考えていた。『八尺瓊』としての生き方を教えられないような男を父に持つ子は、きっと不幸であるだろう。そしてまた、実父を持たぬまま、一族の手によって『八神』として導かれ、教えを受け、育てられた自分のことを鑑みても、その点で次期当主を心配する必要はないと思うのだ。
 彼らは庵のようには惑わない。迷うことなく正しい『八尺瓊』としての生(せい)を、次期当主に教え授けてくれることだろう。
 体中に巣くう痛みを抱いて、今も庵は蹲っている。動くのさえ億劫で、このまま朝までここにいようかと、そんなことを考えた。板張りの床から直に身体に伝わる冷たさも、彼の重い腰を上げさせる理由にはならない。己の身体を労る気持ちなど、とっくの昔に失っている庵だった。
 もう眠りたい。今度こそ本当に眠ってしまいたい。他の誰かのためにではなく、ただ自分のためだけに。
 この想いは、誰にも知られてはいけない。だからこそ、この姿を隠すため、庵はひとりきりの時間を確保し、道場に籠もっているのだ。今はまだ、取り繕うのも難しいくらいに本当の自分が剥き出しになってしまう瞬間があるから。
 でも、それもあと少しだ。
 あと少しの辛抱。
 春が来たら――。
 宵闇に侵食されて行くように、いつしか庵は眠ってしまっていた。






 夜更けの静もった空気が、何者かの気配にざわめく。それに揺さぶられて庵は目覚めた。自分の周囲を、目に見えない何かが取り巻いている。
「あ⋯⋯」
 それは京の氣だった。ビクリと身を竦め、咄嗟に『扉』を閉じかけて、しかし庵は意識下でのその行為を最終的には遂行しなかった。隠そうとする行動そのものから京に悟らせてしまう『何か』の存在があることに気づいてしまったのだ。
 どうせ何かを勘ぐられてしまうのなら、いっそ誤解の仕様がないように、ありのままを曝してしまった方がマシ。
 探りたければ探ればいい。好きなだけ、好きなように。いつだって思う様、俺を暴いて来たおまえなのだから。
 ――されるに任せよう。
 そう覚悟は決めたものの、つい身を堅くして構えてしまうことまではやめられず、庵の意識はがちがちに強張ってしまっている。それを敏感に感じ取っているのだろう京の氣が、宥めるように遠慮がちに触れて来るのが余りにらしくなくて、
「ふっ」
 庵は思わず気の抜けた笑みを零していた。京のその闘い方に顕著に表れる、常の強引さはどこへ行ってしまったのだろう。あの傍若無人ぶりが身上の筈なのに。
 だから、
「京」
 もうずっと、胸の裡でしか呼べなかった名を、その舌に乗せた。声にしても彼には届かないと知りながら、
「何を躊躇っているんだ、おまえらしくもない」
 敢えて口に出すことで自らの緊張を解こうというように、庵は見えない男に向かって語りかける。
 京、おまえに逢ってしまったら、今の俺は容易く崩壊する。身体の中から溢れ出す何かが、内側から俺を蝕み、壊して行くだろう。
 ここにはそんな毒がある。
 だが、隠さないでいてやるよ⋯⋯。
「好きにしろ、京」
 いつもそうして来たように、暴けるだけ暴けばいい。その我儘な強引さで。
 そして、今度こそ本当に俺を⋯⋯。
「待っているぞ」
 ――壊してくれ。






 翌日も、庵は道場の中で小さく丸くなって蹲り、じっと時間が過ぎるのを待っていた。冬ともなると途端に日照時間の激減する山陰の、道場の入口から気紛れに差しむ暖かな陽の光を全身に浴び、庵はぼんやりと時を数えている。冬の微量な陽差しに柔らかく身体を包み込まれていると、誰かに護られているような錯覚に陥ることがある。でも、錯覚だと気付かないでいたい、それは感覚。少しだけ眠りの気配に誘われる。
「お兄様」
 若い女の高く澄んだ声が、母屋の方から聞こえた。
「そちらに行っても構いませんか」
 許可を求めるのは都の声だ。庵は倒れ込んでいた道場の床からむくりと起き上がる。そして母屋まで聞こえるよう、道場の戸口から顔を出して妹に応え、彼女にそれと悟られぬよう、着衣を正し乱れた髪を撫でつけた。
 間もなく茶の用意を整えた盆を手に現れた年子の妹は、道場の入り口から顔を覗かせ、
「一息入れましょう」
と、笑ってそれを掲げて見せる。この地方には古くから、日に二度の茶の習慣があった。ただし、茶と言っても抹茶を点(た)てる本格的な茶の湯ではなく、現在では茶請けを用意して玉露を愉しむ程度の簡略化されたものになっている。
「外の方がいいお天気です。縁側で召し上がりませんか」
 都の言うとおり、今日は風のない晴天で、陽の当たらぬ屋内より外の方が暖かいようだ。
 誘われるまま庵が廊下へ出て行くと、都が湯飲みをふたつ並べ、茶の用意を始めたところだった。茶請けは羊羮。小皿に切り分けられたそれを妹に勧められ、
「俺はいい。おまえが食え」
 庵は皿を妹の方へ移動させる。兄の甘い物嫌いを知る妹は、ダイエットですかなどと冗談を言いながら、庵に湯飲みを差し出した。
 都は、庵とはまた違った意味で、その生誕に複雑な事情を抱えている。庵が誕生してのち、彼の死が決定事項であったために、一族はもうひとり、彼と同じ濃さの血を持つ子を必要とした。しかし母となるべき女は既に発狂してしまっている。それ故彼らは、体外受精という手段で第二子を誕生させる途を選択した。発狂した女の卵子と、庵にとっては戸籍上でしか父と認められない男の精子を用い、一族の中から健康な女性を選出して、彼女の胎内つまり『借り腹』で胎児を育てたのだ。そうやって、都はこの世に生を受けた。なので、彼女には、直接血が繋がらないながらも母と呼べる存在がある。その女性もまた自分の腹を痛めた子である都を、実の子として愛(め)で、慈しみ育てた。
 庵もこの妹をことのほか大切にしており、彼はいつの頃からか、『普通』である彼女には『普通の人生』を歩んで貰いたいと思うようになっていた。自分がこの異常事態に終止符を打ちさえすれば、何もかも正常になる。ならば、その先の時代を生きていく都には、ごく普通の生活を送らせてやりたい、と。
 そんな庵の願いが通じてか、旧家の娘という以外、都にはこれといって特異な点は見当たらなかった。
 小さな庭に面した廊下の縁にふたり並んで腰掛けて、庵は煎茶を口に運んだ。箱庭のように仕切られた目の前の空間は真っ白な雪に埋め尽くされ、背丈のひくい庭木などはすっかり埋没してしまっている。
 急須の中の茶葉を取り替えながら、
「婚姻のお相手が決まりましたね」
 都が言った。
 庵は頷く。彼は庭を見つめたまま表情も変えない。
 元から感情を表に出すことの少なかった兄だ。けれど最近、それに更に拍車が掛かっているような気がして、都は心配している。
「結納も済ませたしな。宗家にも連絡が行った筈だ」
「⋯⋯いいのですか、本当に。ご自分の意志は⋯⋯」
「訊いてどうする」
「お兄様はずっと、おひとりの女性(ひと)を想っておいででしょう?」
 それは、もうこの世にはいない女性だ。死後になって初めて、都がその存在を知った兄の想い人。都は彼女の名を知らなかった。庵が巧妙に隠蔽していたせいだ。
 執着していることを感づかれれば、彼女の身に危害が加えられるかも知れず、それを予測できない兄ではなかっただろう。だからこそ、彼女に対して抱(いだ)いた想いは半端なものではなかった筈だ。
 命懸けの恋。
 一歩間違えば陳腐になり下がる表現が、ふたりにとっては決して大袈裟ではなかった。けれど、彼らは生木を引き裂くように分かたれた。それでも兄は黙って耐えたのだ。血の涙をその頬に伝わせながら、身を引き千切られるような烈風の中で、恨み言ひとつ口にせず。
 その、想像を絶する苦痛を堪えることができたのは、あのときにはまだ、兄に縋ることの出来るものがあったからだと都は思っている。
 それは『草薙』と大蛇の血。
 けれど、今はそのどちらもが存在しない。大蛇の血は失われ、『草薙』もまた、執着すべき――執着を許される――相手ではなくなってしまった。
「『八尺瓊』の血脈なら、わたしが繋いで行けます。ですからお兄様は⋯⋯」
 庵は首を振ることで、続く妹の言葉を制した。
「都、それでは子供が可哀想だ」
 相変わらず庵の横顔には表情がない。しかし、声だけは穏やかだった。
「当主である俺の子として⋯⋯継承者として生まれたのなら、その子も自分の立場に諦めがつけられるだろう。だが、本来そうではないおまえの子としてこの世に生を受け、そのような運命を押し付けられるのであれば、それは納得の出来ることではないからな」
「ですが⋯⋯」
 予定どおりに庵が死んでしまっていたら、そのときは、『八尺瓊』の血を残す役目は都が担う筈だったのだ。彼女はそのためにこの世に生を受けた。しかし、それを都が口に出す前に、
「子は親の都合のいいように扱える道具ではない。旧い家の因習に振り回されるのは、この家に残る者たちだけで充分だ。そうは思わんか」
 庵はそう言った。
 庵が生還した時点で、都の結婚は婿取りという形から嫁入りへと変更されている。だから、彼女はあと数日でこの家を出て行くのだ。
「都、おまえを責めている訳ではない。おまえが俺のことを想って言ってくれたと理解しているつもりだ。でもその考え方は間違っている。⋯⋯解るな?」
 しずかに諭すように、噛んで含める調子で庵は言う。けれどどんなに優しい言葉でも、受け止め方次第では刺になる。
「はい」
 都は頷き俯いた。己の浅慮を思って唇を噛み締める。
「でも、お兄様、相手の方もお可哀想です」
「⋯⋯そうだな」
 兄と結婚することを決めた女性は、どういう心境なのだろう。
 都は想像する。
 家に縛られる庵を憐れんで結婚に同意したのか、それとも彼女もまた、一族のために犠牲になることを、自分の使命に課すような性格(タイプ)の人間なのか。『八尺瓊』の縁者であるからには、その可能性は十二分にあった。
 ――この家はおかしい。この一族はおかしい。
 外界との接触を庵につよく勧められてきた都だからこそ、一族の特異性がその眼に際立つ。
「お兄様は、それでいいのですか」
「おまえはじきにこの家を出るんだ。もう家のことも俺のことも心配するな」
 やわらかな物言いだった。しかし、それは確かな拒絶。もうこの話題には触れるな、と庵は言外に告げていた。
 都は知らず頭(こうべ)を垂れる。。
 哀しかった。
 ――最後の最後で、兄はまた『家』を選んでしまったのか⋯⋯。
 今度は『八神』でなく、『八尺瓊』という家を。家の安泰を図るためだけに延ばされた生。心配事がすべて解消されたら、『八尺瓊』の血の継承を見届けたら、そうしたら、兄は⋯⋯。
 けれど兄には、この家に殉じる必要が本当にあるのだろうか。
 どれだけ庵に言い含められようとも都には納得が行かなかった。
 兄は生きながら死んでいる。肉体は生きて呼吸をしているけれど、その心はもう既に死にかけている。朽ちかけた、病んだ若木。本来持つ筈の青葉を自ら振り落とし、樹皮をも引き剥がして、誰かに斬り倒されるのを待っている、裸の樹。樹医を望まず、剥き出しになってしまった傷口を庇うことも放棄して、彼は樵(きこり)の訪れを焦がれるように待っているのだ。見る者の胸が切なくなるような眼差しで。まるで想い人を待つように。
 そんな妹の感傷など知りもしない庵は言う。
「都、おまえは自分のことだけ考えていればいい。挙式までもう二日だぞ」
 ――生きなければ。
 頭の中で、自分に言い聞かせるように、庵は最近この言葉を繰り返すようになっていた。
 生きなければ。
 生きなければ。
 まるで、繰り返せば繰り返すだけ苦痛が和らぐ呪文ででもあるかのように。
 そう、俺はまだ生きていなければ。果たすべき使命を終えるまでは。
 そして、桜の花が咲いたら――。
 ふたりの間に置かれていた盆の上で、急須はいつの間にか空になっていた。
 都が湯飲みを片付け始める。その手慣れた様を黙って見つめていた庵が、不意に言った。
「あの男に逢ったのだな」
 京に逢ったのだな、と。
「はい」
 都は正直に答える。元から隠す気はなかったし、隠さなければならぬ理由もない。
「判りますか?」
 顔を上げた都が問えば、庵が頷く。
「あいつの気配がある」
 都の周囲に、微かな残り香のように。
 切れ長の眼をさらに細め、見える筈のない気配を透かし視る視線がひどく優しい。
「そうか、おまえが名代として立ったのか」
「はい。八神家の人間として、最後のお務めをさせて頂きました」
 庵はまた庭へ目を移した。その表情が、先刻よりも更に凪いだそれになっている。そんな兄の横顔を、都は片付けの手をとめて見守った。
「昨日あいつがここへ来た」
 それはどこか唄うような、柔らかな声音。
「近いうちに本体が乗りこんで来るのだろうな⋯⋯」
 独り言のように呟かれたのは、おそらく兄の願望だ。その騒々しいであろう様を思い浮かべたのか、微かに綻んだ口元の表情が常になく暖かい。
 そのとき突如都に訪れた予感。
 病んだ若木の待ち人は、彼なのではないか――。
 背筋を走った悪寒に、彼女はその身を凍らせた。





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