世間に充満していた正月気分がすっかり抜け、誰の身にもごく当たり前の日常が戻って来た頃。賃貸契約だった部屋の解約手続きをするために、庵は半年振りで上京していた。彼は神楽家で体力を回復して後(のち)、直接八神本家へ帰り、それきり東京へは足を向けていなかったのである。
「あっれー、八神じゃん。よお、いつ東京(こっち)に戻って来てたんだァ?」
空港から移動し、都心の駅で電車から降りた庵は、改札を抜けたところで偶然にも見知った顔と鉢合わせした。紅丸である。この男と庵とは余程の縁があるらしい。見れば紅丸の方は買い物の途中なのか、服が入っているのだろう大きなショッパーを肩から提げていた。ショッパーにはシャープな書体でブランドのロゴがプリントされている。
「な、時間ある? あるんだったらどっか入んない? ここで立ち話もナンでしょ」
紅丸のどこまでも軽い口調が庵の心を動かした。八神の本家に籠ったここ数ケ月、彼は身内以外の者とは殆ど会話らしい会話を交わしていないのだ。
「いい時間だし昼飯でも一緒にどう?」
腕時計を見ながらの紅丸の誘いに乗り、庵は彼と共にランチサービスの時間帯に入っているイタリアンレストランのドアを引いた。
「ずいぶん雰囲気変わったよな、おまえ。去年大阪で会ったときにも思ったけどさ」
窓際の席に案内されて腰を落ち着けると、お絞りを手にした紅丸は、庵をまじまじと見つめ、そんなふうに言った。ふたり共、料理の注文は既に済ませてある。
「そうか?」
自覚のない庵が何気なく問い返せば、紅丸は、ああ、と大きく頷き、
「勿論いい方向に、だぜ。なんかスッゲェ柔らかくなったっていうのかな。近寄り難いってこともなくなったし」
と、説明した。が、かつての彼が、庵に対して近寄り難さを感じていたとも思われない。おそらく一般論を語っているのだろう。
「これが俺本来の姿だ」
庵がそう応えると、
「大した役者だよ。俺はすっかり騙されてた」
紅丸はそれだけを言って、庵の罪を軽く笑い流した。紅丸という男が、彼と接する大概の人間に居心地の悪さを感じさせないのは、この男がこんなふうに、さりげなく相手を気遣うことの出来る大人だからなのかも知れない。
「なあ、東京に戻って来たんなら、バンドの方には復帰しないのか? おまえのいたバンド、ライブのたびに違うベース入れて活動してるみたいだけど」
おまえのこと待ってるんじゃないのかな、と紅丸は言った。彼は昨年来、かつて庵が所属していたバンドの動向を、誰に頼まれた訳でもないのにずっと追い続けていたらしい。
「そういう予定はないな」
「そうなんだ⋯⋯。もったいない話だな」
そんなふうに惜しまれても、庵は正直困ってしまう。自分はこの都市(まち)に戻って来た訳ではないのだ。二度と来ないために今ここにいる。それを言えば、紅丸は自分を咎めるだろうか。
会話が途切れた丁度そのとき、それぞれ注文していた料理がふたりの前へ運ばれて来た。
「で、お家のごたごたは片付いた?」
ピザの大皿に手を伸ばしながら紅丸が訊く。庵の前にはパスタの一皿が置かれている。
「ああ。草薙家・神楽家との仲は修復された」
その庵の簡潔な返事に、そっか、と軽く相槌を打ち、紅丸はバジルの葉の乗ったオリーブオイルの強く薫るピザを口に運んだ。
「あれから、京とはどうなってるんだ? 個人的に」
わざわざ最後に一言付け加えたのは、家同士の関係について聞きたい訳ではないぞ、との牽制である。
「別に。どうもなっていない」
庵は器用にパスタをフォークに巻きつけつつ、短く現状を伝えた。
「いいのかよ、このままで」
「このまま?」
紅丸の言葉に、庵はフォークを動かす手をとめ、顔を上げた。
――京を想っているくせに。
自覚症状のある風邪は、自覚できないどんな疾患よりもタチが悪い。紅丸はそのことを知っている。
「ホントにこのまま⋯⋯終わっちまうワケ?」
「⋯⋯⋯⋯」
庵には答えようがなかった。どうしろと言うのだ。仕方ないではないか。もう闘うことも出来ぬものを⋯⋯。
「おまえ、どうしたいんだよ、これから」
答えない庵をどう思ったものか、紅丸は問うことをやめない。それに対する庵の返答は簡潔そのものだった。
「隠居」
「はあっ!?」
予測もつかなかった言葉に驚いた後、すぐに紅丸はそれを冗談だと思ったらしく、
「もうちょっとマシなボケかませよなあ。突っ込み損ねたろうが」
と、軽口を叩く。しかし、庵は真剣に言い直した。
「いや、本気だ。さっさと子供に家督を譲って隠居できればいいと思っている」
もう表舞台へは出たくない。それは庵の本音だ。
「マジかよ」
紅丸は唖然と呟き、
「けど、子供って⋯⋯。八神、まだ結婚もしてねえうちから、そんな」
気が早過ぎるだろう、と言う彼に庵が告げた言葉は、更に紅丸の想像の域を越えていた。
「結婚の予定ならあるぞ」
「ウソ⋯⋯」
紅丸が今度こそ完全に言葉を失う。
「式に呼んでやろうか?」
庵はにやりと笑ってそんな彼を見た。
「まあ、実際問題不可能なんだがな。部外者を呼べる程の余裕がない」
庵の親族と宗家・草薙の主だった人間を集めただけで、かなりの出席者になってしまう。神前結婚であるため、そんなに多くの人数を呼ぶことが出来ない。婚礼の儀は出雲大社で行われるという。庵は訊かれもしないのに、そんなことまでを紅丸に話して聞かせた。
――マジってことか。
話がここまで具体性を持っている以上、これはやはり庵の冗談などではなく、現在進行中の事実らしい。
「俺が八神の家督を継いだのも、あの男と同じ15の年だ。だから、」
後15年。庵はそう言った。後15年余もすれば、自分は引退できるだろう、と。
「そうやって、京から離れて行くつもりなんだな⋯⋯?」
紅丸が庵に向けた視線は、彼を咎めている。が、
「悪いか?」
開き直ったようにそう言われてしまっては、紅丸にも返す言葉がない。どのように悪いのかまでは説明できなかったからだ。しかし、少なくとも彼の気持ちは、それを良いことだとは認めていないし、納得もできていない。
「八神、おまえにとって京は何なんだ。あいつはおまえにとって、今でも『特別』な存在なんだろう?」
――是。
「代わりなどいない。俺にとっては」
彼は唯一無二の存在。
「そこまで自分で言えるんだったら⋯⋯」
「なぜ求めないのか、とでも訊くつもりか?」
紅丸の言葉を遮り、皮肉な口調で庵は言う。そして、紅丸の返答を待たずにこう続けた。
「だがな、そんなことは誰にも望まれていないんだよ」
『八尺瓊』としての庵には、それは決して赦されないことであるのだし、第一京本人に在ることを望まれているのも、今の彼ではない。
「八神⋯⋯」
「二階堂、そんな眼で俺を見るな」
――そんな憐れむような瞳で。
庵は皿の上に視線を落とし、巻きついているパスタを口に運ぶでもなくフォークを回し続ける。
「八神、ひとつ教えてくれ」
真剣な面差しで紅丸は庵に詰め寄った。
「おまえにとってあいつと⋯⋯京と闘うってことには、どんな意味があったんだ? あいつと闘ったとき、おまえは何を考えた? 何を感じてた?」
紅丸は京と庵との直接対決を、庵が『自殺』を企てた最後の果たし合い以外では、ただ一度、KOF95に於けるそれしか観たことがない。そして、そのときは、庵から殺意しか感じなかった。そのことに関しては、
「あのときの俺は、あいつを本気で殺そうとしていたからな」
と、庵のフォローが入る。
「でも、その後は違うよな。違う理由で京と対戦したがってたよな」
初めて京と試合で闘った後、実現はしなかったものの、京との対戦を望み続けた庵が何を求めていたのか。少なくともそれが京の命を奪うことではなかったと、紅丸は今にして思い直していた。庵は殺すチャンスを狙って京と闘おうとしていたのではなかった。もっと別の何かを得んがために京との対戦を望んでいたのだ。それが何であったのか、紅丸は知りたかった。
「死にたがってたのとも違う。おまえは何を望んであいつと闘おうとしてた?」
庵はひどく冴えた視線を紅丸に向けた。
「教えん」
ただ一言。それが庵からの返答。
それは庵ひとりが知っていて良い想いなのだ。ちづるにだけは既に知られてしまっているが、他の者にまで教える訳にはいかなかった。教えるつもりも無論ない。知られて汚(けが)させたくはないと思う。
――否定などさせるものか。
「八神⋯⋯」
そのとき、庵が頬に刷いた笑みがひどく犯し難く、紅丸はそれ以上、その領域に踏み込むことが出来なくなった。それほどに、庵の鮮烈な笑みは神聖に見えたのだ。紅丸は追及を諦め、話題を変えた。
「八神、おまえ、もう自由なんだろ? 大蛇ってヤツがいなくなったんだからさ、もう好きにしていいんだろ?」
「ああ」
だが、20年、ずっと背負ってきた使命からいきなり解放され、これからは好きにしていいのだと言われても、正直庵にはどうしていいのか解らなかった。好きにしろと言われることは、彼にとって突き放されるのと同じこと。庵はこんな形で自由になることを望んではいなかったのだ。彼が望んだ自由は、飽くまでも死ぬことで得られるそれでしかなかった。
「贅沢な話じゃねえの。好きに飛べる翼があるって解ってて、それを使わないってのはどういうことさ」
そういうのを宝の持ち腐れって言うんだぜ、と紅丸はそんな喩え方をした。
飛ぶための翼も、飛べるだけの力もあって、なぜそれを使わないのか、と。
紅丸には、庵が何を考えているのか解らなかった。なぜ好んで翼を閉じるのか。なぜ殻に籠ろうとするのか。庵が自ら望んで鎖に縛られようとしているように見えるのは、決して紅丸の思い込みではないだろう。
庵は答える。
「飛び方など知らんからな」
自分は死ぬための生き方しか知らない。それしか解らない。他の生き方など、今更⋯⋯。
「そんなの、教えて貰えばいいじゃねえか」
誰に、とは言わなかった。
誰に、とは訊かなかった。
「それを教えられる奴はいるんだ」
あの男はその羽根の使い方を知っている。
「だから、困るんだろう」
庵の反応に、ふーっ、と大袈裟なほどの溜息を吐いて、
「前から頑固なヤツだとは思ってたけど、これ程とは知らなかったな」
と、紅丸は眉間に皺を寄せる。
京だから、困る、と。庵はそう言っているのだ。
「俺は知りたいとも思わん」
――他の飛び方など。
一度地に着いた足なら、もう二度と飛び上がれなくて構わない。この背にあるのは、もう自分のためには決して羽ばたかない翼。死んだ羽根。それでいい。
「人間、諦めが肝心だろう?」
庵は笑った。これまで紅丸が見たことのない、柔らかな貌で。けれどその眼はガラス玉のよう。感情の見えない、死魚の濁ったそれを連想させる昏い瞳。
「まさかおまえの口からそんなセリフを聞くとはな」
諦め、だなどと。
紅丸は庵の貌を、怖いものでも見るようにして眺める。
「⋯⋯」
結局パスタに口をつけぬまま、庵はフォークを皿の上に置いて窓の外へと視線を投げた。
冬だというのに東京では青空が覗いて見える。そういえば自分はここへ来るまで、一体どれほどの間、青空を見ていなかったのだろう。懐かしいものを見るように、庵はその青を眼に映す。山陰では冬ともなると、何週間と曇天が続くことも珍しくなかった。
春の訪れを渇望するひとの心は、雪国に暮らした者でなければ解らない。それと同じように、生け贄の幸福は生け贄にしか理解できない幸福だ。生け贄は、生け贄として捧げられることでしか幸福にはなれない。それを誰がどんなに望んでいなくても。そしてもし仮に生け贄自身がそれ望んでいなくても。そのためだけに生かされて来た者の、その人生に報いる手段はただひとつ――。
「諦める、ということなら、」
と、庵は紅丸に横顔を見せたまま口を開いた。
「俺は、この世に産まれ落ちた瞬間から知っている」
庵が諦めるということを覚えたのは、この世に引き摺り出され、母体から無理矢理切り離された、その瞬間だ。ある筈もない記憶の映像を自身で作り上げ、庵はそれを後天的に持っていた。
この世に自己という存在が生み出されることを、果たしてひとは皆望んでいるものなのだろうか。
「だから大丈夫さ。大抵のことには耐えられる」
20余年の人生を、庵は諦めることで生き繋いで来た。まだ、という者も在るだろう。だが庵にとっては、『もう』20余年。
ただ、なぜ自分は目覚めてしまったのかと、今でも時々思うことはある。あのまま眠り続けることが、どうして自分には許されなかったのだろうか、と。京と対峙したあの後も、大蛇を斃したあの後も。そのまま眠り続けることが出来ていれば、ならば自分は⋯⋯。
二度目の目覚めの後も、庵は決して生きることを肯定した訳ではないのである。ただ、死ぬことを諦めただけ。死を望むことをやめようとしただけ。そのお陰で、今こうして亡骸のような自分がここにいる。
「諦め切れなかったら⋯⋯?」
紅丸の言葉に、庵はゆっくりと顔を前へ戻した。
「そのときは壊れるだけだ」
もう既に、崩壊は始まっているような気もしている。自分では知覚できない場所で。
「それはそれでいいかとも思うがな」
いっそ潔く――。
この不安定な精神(こころ)が消滅するのなら。狂って何も解らなくなってしまえるのなら。そうなれば、飛べる翼があることにも、きっと自分は気付かないでいられる筈だ。それはどんなに幸せなことか。
「何もかもが無くなるというのは、いいものだぞ?」
庵はそう嘯(うそぶ)いた。
その後、人との待ち合わせがあるという紅丸は店に残り、庵の方は律義に自分のパスタ代をテーブルの上に乗せてから席を立った。その庵の姿が都会の午後の雑踏に紛れるまで窓越しに見送り、紅丸は大きく息をはく。
「八神、どうしておまえは、そう素直じゃないんだよ」
他の誰をもその双眸に映すことなく、ただひとりの男に囚われているくせに。
紅丸は思わず声に出していた。
「あそこまで行くと⋯⋯テコででも動かしてやりたくなるよな」
知りたいとは思わないなんて、諦めることには慣れているなんて、そんなことを口にしながら、けれど差し伸べられる手を、八神、おまえは待っているんじゃないのか? 諦め切れずに。
だとしたら――。
紅丸は心密かに決意する。
八神、俺はおまえを追い詰めるぞ。逃げることのできない袋小路(ばしょ)へ。追い込んでやる。あの男の腕の中へ。あいつは黙って見守っていてくれるような、そんな『優しい男(ヤツ)』じゃない。八神、おまえだって、そんなこと解ってるんだろう? そして、その場所でなら、素直になれる自分のことも。
紅丸は呟く。
「八神、あいつの強引さ⋯⋯、身を以て知りな」
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