――沙汰を待つ。
そう言い置いて庵が草薙家を後にしてから数日。八神家と草薙・八咫両家との関係を修復するための神事が、草薙の本邸において、旧正月の一昼夜をかけ、執り行われることに決まった。
それが、京の選んだ八尺瓊一族への対応。
庵はこの処置を頭のどこかで予想していた。京は『八尺瓊』を見捨てないだろう、と。家というものに対して拘りのない彼には、『八尺瓊』を切り捨てるべき積極的な理由もまた、ないのである。
――想う自由だけを残して、切り捨てて欲しかった。
草薙の決断を知らせに八神の本邸を訪れた使者は、そのとき勾玉もそこへ残して行った。それを手に、庵は身の裡に抱える誰にも打ち明けられない痛みを弄ぶ。
――なのに赦してしまうんだな、おまえは。
忘れてもくれないくせに。
恨みがましいと、女々しいと、自分で自分の想いを卑下してみても、その感情は庵の裡から消えてはくれない。
出来得ることならば。
京の記憶を消したい。
庵は真剣にそう思う。京の記憶の中から、かつての八神庵の姿を消してしまいたい。そうすれば自分は、彼と距離を置いた上で、同じ時代を共に生きて行くことが出来るだろう。この想いを抱いたままであっても。
――でも。
どれだけ庵が願っても、決して忘れてくれはしないのだ、あの男は。
「⋯⋯⋯⋯」
庵は目蓋を伏せ、両手で顔を覆った。儀式の行われる日まで、もういくらも時間はない。それなのに、庵の気持ちは定まらぬまま頼りなく揺れている。
――どうすればいい? 俺は、どうすれば⋯⋯。
『八尺瓊』に還った後の己を想い、庵は苦悩する。
冬にしては珍しく、淡く輪郭をぼかした宵の月が、そんな彼の姿を見下ろしていた。
そして、旧正月前日。庵とちづるのふたりは、既に草薙本家に到着していた。その日の内に、家主を交えた三人で、翌日の儀式の段取りを確認しなければならないからだ。
そういう訳で、彼らは屋敷の一室に集まり、ちづるが持参した古文書を囲んで額を突き合わせていた。
が、小半時もしないうちに早々(そうそう)と京が音を上げる。
「いいじゃねえの、もう。神楽、おまえが一番こういうの詳しいんだからよ、明日もおまえが仕切れ」
巫女として日常的に儀礼事に携わっているちづるは、確かに儀式全般の作法には詳しい。が、そうかといって、京の要請に従うことはできない。
「そういう訳には行かないわ。今回のことは、草薙、あなたに中心になって動いて貰わないと⋯⋯」
困るのだからとちづるが言い切る前に、京はもう立ち上がっていた。そして、
「俺道場にいるから。特別にしなきゃなんねえことだけ後で教えて」
とだけ言い置き、
「待ちなさい! あっ⋯⋯。ああ、もう⋯⋯」
追い縋るちづるの制止の声も聞かず、部屋を出て行ってしまう。
ちづるは庵に向かって大仰な溜息をついて見せ、
「わたしとあなただけで話し合っても意味がないわ」
問題は草薙なんですもの、と嘆いて肩を落とした。
三家の中で、最も儀礼事に疎いのは草薙家なのだ。元が『八尺瓊』である庵には、京ほどには今回の儀式に際して支障がない。
「そう心配するな、神楽。京とてその気になれば、儀式のひとつやふたつ無難にこなすさ。あいつは本番に強く出来ているだろう?」
「だと良いのだけど」
「相変わらずの心配性だな」
「あら酷い。どうせなら慎重だと言って欲しいわ」
心外よ、と笑いながら言い、その後でちづるは表情を改めた。
「ところで八神、もう草薙とはゆっくり話が出来たの?」
ちづるは、この元旦、庵が京に両家の歴史について本当の話をして聞かせたことを知っている。
「八神当主としての話なら、な」
この返答に因れば、つまり庵と京とが交わしたのは、飽くまで当主という立場にいる者同士での会話だったということだ。京の意識はともかくとして、少なくとも庵の方はそのつもりだったのだろう。
「いいの? 八神。今しか出来ない話があるでしょう?」
庵には、『八尺瓊』に還ってしまう前の、今でなければ京と話せないことがある筈だ。
が、庵は、
「おまえのはアレだな。心配性なのではなくて、ただのお節介だ」
と、まともに取り合わず、答えを明確にしようとしない。
それでもちづるは追い縋った。
「でも、八神⋯⋯」
何かを訴えかける女の視線から男は顔を背ける。
「言ってどうするんだ。話して何になる? 俺は『八尺瓊』に還るのだぞ」
明日の儀式が終われば、今ここにいる、厳密な意味ではもう『八神』でなく、そしてまだ『八尺瓊』でもない曖昧な立場の男は消えてしまう。明日、彼には八尺瓊当主という明確な立場が与えられる。ならば、やはり話すことは出来ないのだ。立場を変えようと名前を変えようと、京の中に生きる八神庵という人間は一個体なのだから。今日までの庵と明日からの庵とを、彼は別個のものとして考えてはくれまい。だから、ちづるの語る、今ならば言える話など、庵にしてみれば有って無いようなものなのだ。
「⋯⋯辛いわね」
ちづるの言葉に庵は顔を戻し、
「それも俺一代限りのことさ」
素っ気なく言い切った。公然と『草薙』に執着することを許された時期のある、自分ひとりが苦しいだけだ、と。
「次の当主は、また元通り、最初から心を殺して生きて行ける。彼らなら、」
と、一族の者たちを指し、
「そういう生き方をさせられる筈だからな」
かつて自分を教育したように、次当主のことも、彼らならば巧く導いてくれるだろう。庵はそれを確信している。だから、未来(さき)のことは少しも心配していなかった。不安なのは己のことのみだ。
「⋯⋯⋯⋯」
ちづるは庵の顔をじっと見つめていた。この男の裡にある嵐を、彼女は知っている。未だそれが彼の中で鎮まってはいないのだろうことも。
「『八咫』のわたしに、何か出来ることはないの?」
あなたのために、とちづるに問われ、
「そうだな⋯⋯」
庵は少し遠い目をした。
が、すぐに視線を戻し、
「強いて言うなら、黙っていることくらいか。尤も俺に言われなくてもそうせざるを得ないのだろうがな、おまえは」
ちづるは苦笑した。
『八咫』には『八咫』の掟がある。『八尺瓊』同様、やはり彼女たちの一族も、草薙一族のためにならないことは決して行えない。
ちづるという一個人の想いとは別に、彼女にもまた、八咫の当主として、したくても出来ないことがあるのだ。
「足枷だらけね、わたしたち」
言ってどうなるものでもないと知ってはいても、つい愚痴めいた言葉が出てしまう。
そんなちづるの想いが理解できるから、庵も苦笑気味に応じる。
「今に始まったことでもなかろう」
「そうだけど」
大蛇を斃したのに、とちづるは思ってしまうのだ。大蛇はいなくなったのに、自分たちの生き方は変わらない。
「仕方ないさ。大蛇一族を殲滅させた訳ではないのだからな」
達観したような庵の言葉。
無論、庵の言いたいこともちづるには既に解っている。
大蛇一族が健在であれば、彼らはいつかまた、第二第三の大蛇を生み出そうと動き始めることだろう。大蛇がこの惑星の絶対意志である以上、二度と再びそれが形を成して現れ出ないとは断言できないのだ。
将来(さき)のことなど誰にも判らない。
そうは言っても、当面の間は、大蛇云々を第一に考えずに済むのは確かで、それは三家の人間にとって喜ばしいことに違いなかった。
「ともかく、明日の儀式が終われば漸く本当に一段落つくわね」
「そうだな」
「それにしてもさっきの草薙には参ったわ」
ちづるは笑いながら話題を元に戻し、そして、
「これ、」
と、一枚の紙を服のポケットから取り出した。
「草薙家(こちら)で用意して貰いたい道具を書き出して来たの。悪いのだけど、草薙に渡して来てくれないかしら」
庵に否やはない。ちづるから差し出されたそれを手に、彼は京のいる道場へと向かった。
道場の入り口に立って中を覗いてみれば、京はその場にいたが、努力は嫌いと公言するだけあって稽古をしていた訳でもないらしい。
「京」
庵は、戸口に背を向けている男を呼んだ。そして、振り向いた彼に近づいて行き、
「神楽が、」
と、ちづるから預かった紙片を差し出した。
「明日、用意して欲しい物のリストだそうだ」
京がメモに目を通すのを確認し、伝えるだけ伝えて庵はその場を去ろうとする。その彼を、
「待てよ」
と、京が引き止めた。
「相手してくんねえ?」
言い様、シュッ、と風を切る速さで、握った拳を庵の顔面に向け寸止めする。庵は表情を変えず、瞬きもしない。
「さすがだな」
京は笑い、しかし俄に真顔になった。
「なあ八神、おまえさ、もう武術はやらねえの?」
少し改まった表情でそう尋ねる。
「『八尺瓊』には必要のない能力だからな」
庵は京の質問に答え、そして補足した。
「八神流古武術は、草薙流古武術を基本にそれを真似て創り出された、言わば亜流だ」
偽物だという言い方もできるだろう。八神流古武術は、飽くまで『八神』が伝えて来たものであって、『八尺瓊』が伝えて来たものではない。『八尺瓊』はもともと家固有の武術を持っていなかった。闘うための技が必要ではなかったからだ。彼らが『八神』と名を変えてから古武術を編み出したのには、大蛇の血の増幅に長く耐えるため、肉体を鍛えなければならなかったという抜き差しならぬ事情が絡んでいる。
「じゃあ、八神流の鍛練はやっぱもう積んでないってことか」
「ああ」
「もう忘れちまった?」
「いや、そんなことはないと思うが⋯⋯なぜだ?」
どうして京がそんなことを訊くのか解らず、庵は彼に問い返す。
「見たいな」
草薙の者以外が復習(さら)う古武術を、京は見たことがなかった。それを見てみたい。彼は急にそう思ったのだ。思うと同時に、その望みは、京の口から言葉となって現れていた。
「それとも、思い出したくもないか?」
一応は譲歩するように訊いてみる。『八神』として生きていた時期のことは、庵にとって辛い記憶かも知れない。京はそう思っていた。
「いや、別に構わん。見たいのだろう?」
京が懸念する程には庵の側に拘りはなかったらしい。彼はあっさり了承すると、すぐに用意された道着に着替え始めた。
「出来そうか?」
改めて京が尋ねる。
借り物の道着に着替えを終えた庵は頷き、
「しばらく離れてはいたが、おそらく身体が覚えているだろう」
物心ついた年齢(とし)から、毎日休むことなく鍛練を繰り返してきた技だ。頭で考えて思い出そうとするよりも、肉体の記憶に任せた方が確実なように思う。きっと筋肉が、その細胞のひとつひとつが、技のすべてを覚えている筈。
頭脳中で記憶を手繰ることを敢えてせず、庵はゆっくりと道場の中央へ歩み出した。
京の視線がその動きを追っている。
袴の裾を捌いて正座し、呼吸を深くしながら集中していく庵の氣の昂まりが、京には手に取るように解った。真正面に座った京にひたと据えられた庵の目線は、感情を剥離させているせいで、虚空(くう)を見ているようにも感じられる。
氣が満ちると同時にスッと背筋を伸ばして立ち上がった彼は、一度伏せた目を開け、それを契機に身体を動かし始めた。一式から順を追い、ひとつひとつの型を正確に決めて行く。その筋肉の流れるような動きは、京の目に氣の通う様までを見せていた。
庵の四肢が描く軌跡を残像が追う。
「⋯⋯⋯⋯」
静かだった。聞こえてくるのは、衣擦れの音と素足が床に触れて発つ音と、そして庵の繰り返す規則正しい呼吸の音だけ。
それは京にとって、ひどく気持ちのいい時間だった。
――綺麗だ。
溜息をつくように、京はそう感じる。庵の躍動には、京が行う草薙流古武術を源流にしているとは思われない優雅さがあった。八神流が無意識に発していたのであろう禍々しさも今はなく、硬質さと剛健さとを削ぎ落とされた庵の動きは、寧ろしなやかですらある。おそらくは、いま庵が身につけようとしている『八尺瓊』の何かが、柔和な動きを生み、また穏やかな氣を伴い、彼の体外へと滲み出しているのだろう。
眺め続けているうちに、京は舞を見ているような錯覚に囚われ始める。
これは演武ではなく、演舞だ。
どれ程の刻(とき)ときが過ぎたのか、瞬きも忘れて魅入っていた京を真正面に見据える向きで、庵は最後の型をきっちりと決め納め、一礼してすべての演武を終えた。そして、ひとつ大きく深呼吸し、
「満足したか?」
と、冬だというのに額に浮かんだ玉の汗を、道着の袖で無造作に拭いながら京に尋ねる。
「あ、ああ」
見終わって尚、夢から醒めぬ面持ちでぼんやりとしていた京は、その言葉でようやく我に返った。
「なら、いいが」
と、言って庵は諸肌脱ぎになり汗を拭き始めた。
その庵の上半身に何気なく目を遣った京はゆるく眉根を寄せる。
視覚が違和感を訴えていた。何かおかしい。
汗を拭き終わりシャツに袖を通そうとしている庵に、京は怪訝そうな表情のまま尋ねる。
「八神、おまえ痩せたか? 腕とか、前からそんなに細かったっけ⋯⋯?」
元から太い腕ではなかった筈だ。しかし、自分のそれと比べると一回りは細い気がする。
それを指摘された庵は、そうかも知れんな、とあっさり肯定し、
「もう闘いの拳を握る必要がないからな」
そう続けた。その間も庵の指先は機械的に動いており、シャツのボタンを嵌めて行く。
「⋯⋯⋯⋯」
京は複雑な想いでその様を眺めている。
この男は、本当にもう闘えないのだろうか。
しかし、今の演武を見る限りに於いて、京にはそれが信じられなかった。
「なあ、」
京は庵を呼ぶ。
「最後にもう一回だけ、俺と闘ってくれないか」
庵が顔を上げると、京は顔を顰め、俯いていた。
「だめなんだ。納得できねえんだよ」
庵と闘えないのだということが。頭では一応その理屈を理解していても、感情がそれについて行かない。庵本人の口から聞いた現実であるにも関わらず、やはり京にはそれを事実としては受け止め切れていなくて、最終手段に訴えるしかなくなってしまっていた。この身体をして実感する以外に、その葛藤を消化するすべがない。
庵はそんな京をしばらく無言で見つめていたが、
「ならばその身をもって知るしかないな⋯⋯」
ついにはそう応えた。
それでおまえの気が済むのなら、と。
それは庵にとって、酷なことになるのだろうけど。
そのことを承知しながらも、それ以外の方法では、やはり己を納得させることの出来ない京が、呻くような声を出す。
「⋯⋯そうさせてくれるか?」
「ああ。受けよう、その勝負」
京の決意。
庵の観念。
どちらもが、何かの喪失を確かめるための私闘。
どちらもが同じだけ、それぞれ違う場所に痛手を負うと解っての。
炎を使わないことをハンデとする。そう言った京に、庵は首を振った。
「それでは意味がない」
炎を使わない同士で闘うのなら、ふたりの能力差は殆ど出ない筈だと彼は言うのである。鍛練をやめているせいで、多少自分の方が分が悪いが、それは決定的な差にはならないだろう、と。そういう理由で、結局ハンデはなくなった。
ふたりは道場の中央で向かい合う。
そして、京の「いくぜ!」という言葉を合図に、張り詰めていた空気が動き出した。
ふたりの拳は紙一重の差で躱され、擦れ違う。足技を絶えず繰り出して相手の隙を誘いながら、互いに大技を仕掛けるタイミングを狙い、一瞬たりとも逸らされない彼らの視線は熱を孕んで白い光を乗せ、相手を射殺さんばかりの鋭さで牽制し合っている。
互角だ、と京は感じた。かつての庵となんら変わるところはない。京にはそう思えた。ブランクさえも全く感じられず、技の切れにも衰えはなく、それを仕掛けるタイミングも、相手の呼吸の読み方も完璧だ。感覚が研ぎ澄まされていて反応が早く、寧ろ強くなっているような気さえした。その拳から受ける衝撃も、決して弱くはなっていない。
だが時間の経過に伴って、次第に庵が受け身一方になり始めた。炎が使えない分、どうしても詰めが甘くなるのだ。京に与えるダメージが充分でない。そして更に、炎に炎をぶつけることで打ち消すことができていた筈の京の技を潰し切れず、それも庵には確実に負担となっていた。
目に見えて庵が疲労して行く。ついには呼吸が荒くなり、不意に足元が揺らいだかと思うと姿勢が崩れた。
しかし、庵は尚も闘い続けようとする。
――まずい。
京は直感的にそう思った。このまま無理をさせれば庵に怪我をさせてしまう。やめさせなくては。
「八神ッ」
無理な態勢から、それでも渾身の力を込め、懐めがけて飛び込んで来た庵の身体を、京は身を呈して受け止め、その衝撃のまま床に倒れ込んだ。全身で押さえ込み、技を封じるようにして京が抱きかかえた男の身体は、大きく肩を上下させ、しかしまだ技を繰り出そうとして激しく身をよじっている。
「もういい、⋯⋯もういいから⋯⋯っ」
無意識なのか必死に抵抗を続ける庵に、京は胸を締め付けられた。胸の痛みを堪えながら京がずっと彼を抱き込んでいると、もがいていた庵の身体から徐々に力が抜けて行き、ついには荒い呼吸に上下する肩のそれだけを残し、ほかの動き一切を停止した。
弱い腕の力で胸を押され、京は大人しく庵を解放する。板の間に座り込む形で、ふたりは向かい合った。
「はっ⋯⋯ッ」
庵は俯き、胸を深く喘がせて何度か咳き込む。そして、躓くように言った。
「情け、ない、な⋯⋯」
――無様だ。
相手を倒すための技であれ癒すための技であれ、どちらを駆使するにも必要となるのは己の肉体と精神だ。だから庵は『八神』の技を捨てただけで、肉体を鍛えることまでをやめてしまった訳ではない。それなのに、いま自分はこんなにも弱い。
庵は思った。もっと、もっと何度も京と闘っておけば良かった、と。蒼紫の炎を燃やし、この命を削って、一日も早く、この身に死が訪れるように。
しかし、これでもう二度と、庵が京と拳を交えることはなくなった。だから庵が京を傷つけるような事態も二度と起こり得ない。それは歓迎すべきこと。
そう頭では考えてみても、やはり庵の胸を灼いているのは、例えようのない寂寞感だった。
――女に生まれていれば⋯⋯。
庵はいつかの仮令(たとえ)話を想う。
もしも自分が女に生まれていれば。そうすれば、最初から京と闘うことはなかった。あの歓喜を知ることもなかった。いや、京自身に出逢うことさえなかったかも知れない。そうであれば、きっと生きることも知らずにいられた。
庵は血が滲むほど強く唇を噛む。
詮無いことだった。思っても、望んでも、時は戻らず現状(いま)は変わらず。今更なにも⋯⋯。
「⋯⋯はっ」
庵の口から乾いた嗤いが漏れる。それは自分に向けた嘲り。
「これが、最後だ」
まるで死刑を宣告する裁き主のように。
――俺は明日、『八尺瓊』になる。京、おまえがそれを選んだのだから。
「今日を限りに八神流古武術は完全に封印する」
『八神』は明日、完全に死ぬのである。ならば、明日からは『八尺瓊』として生きる自分を享受しなければ――。
翌日、予定されていた儀式は、恙無(つつがな)く履行された。
儀式を終えた後、庵は自分に用意されていた客間を出、庭の見える屋敷の廊下に立っていた。この日、儀式の最中に降り出していたらしい雪は、陽が暮れ落ちてからもまだ降り続いており、庭に白い化粧を刷こうとしている。その庭の景色の変わり行く様を、庵は目を眇めて眺めていた。
なんと穏やかで自然な変様であることか。積もる雪の存在を拒むものは何もなく、すべての物が、ただ降られるに任せ、それを受け容れている。かつて庵が眺めた桜の老木も、今やすっかり綿帽子に全身を覆われて、白髪の老人のようだ。
――こんなふうに。
己の身にも、緩やかな時の流れの中で、その立場の移行が訪れたのであれば、自分はもう少しうまく対処できていたのかも知れない。我が身に降りかかった様々な事象の急激な変化を思い、庵はそんなことを想像してしまう。
と、そのとき、
「八神」
不意に名前を呼ばれ、庵は声のした方を振り返る。無理矢理現実に引き戻された彼の意識が、頭のどこかで抗議の声を上げていた。
「こんなところにいたの。部屋にいないから探したわ」
そう言って、庵の隣に並んだのはちづるだ。
「何を見ていたの?」
「別に何も」
「すっかり積もってしまったわね」
庵に倣って庭へ目を遣り、一面の銀世界を前にして彼女はそう言った。降雪量の多い京都の盆地に暮らすちづるにとって、雪など珍しいものではない筈だが、こうして、ひとつの大役を果たし終えてから目にするそれには、また違った感慨も沸くらしい。
ちづるは、
「お疲れさま」
と、改めて庵を労い、庵もまた、
「おまえもな」
と、ちづるに返す。
「これで何もかも元通りになったわ」
ちづるが解放感を滲ませて口にしたその言葉を、だが庵は心の中で否定していた。自分だけは違う、と。
元通り。
ちづるの言う『元』とは一体いつのことなのか。己の存在に疑問を感じていた時代など、『八尺瓊』にはなかった。『八尺瓊』であった時代には、その存在に確かな意味があり、存在理由を疑う必要なく生きていられたのだ。そして、『八神』となってからも、大蛇の血を孕むことで存在意義を見い出すことが出来た。だが現在(いま)の八尺瓊(じぶん)には⋯⋯。
「これでしばらくは平穏な日常が送れるわね」
少なくとも、ちづるたちが生きているこの時代には、大蛇が再び生まれることもないだろう。女の声は安堵と希望とに満ちている。
「だといいな」
と、その言葉に応じながら、しかし庵は、自分が失ったもののあまりの大きさに打ちひしがれていた。身の裡に生じてしまった空洞を埋めるのに必要な何かを、彼はまだ見つけられず、平穏な日常など望むべくもない状況だ。
「そう出来るよう努力することが、これからのわたしたちの務めよ」
ちづるは明るく言い、続けて、
「静さんが、雪も止まないことだし、今夜もここに泊まっていくようおっしゃっているわ」
と、静の言葉を伝え、やっと庵を探しに来た本来の目的を果たした。
だが、
「そうか⋯⋯。だが俺は辞退させて貰おう。この程度の雪ならまだ飛行機も飛んでいるだろうしな」
腕時計で時刻を確認しながら、庵は辞意を表す。彼は儀式用の衣装を着替え、とうに帰り支度を終えていた。
「何か大切な用事でもあるの?」
降雪の中、何を急いで帰る必要があるのか、とちづるの言葉は咎めるようだ。
理由を知れば、彼女はどんな反応を示すだろう。それを少し意地悪く想像しながら、庵はわざと素っ気なく答える。
「ああ、大切な用がな。明日は見合いをせねばならん」
「お見合い⋯⋯!?」
庵の予想通り、ちづるの口からは驚愕の声が上がった。
「そんなに驚かなくてもいいだろう」
思わず庵が苦笑してしまう程の驚き様だ。
「遅すぎるくらいなんだ、俺たちにしては」
との庵の言葉に、ちづるはすぐに平常心に返って、
「⋯⋯そうだったわね、あなた今春(はる)には23になるのですものね」
と、思い出したように頷いた。
八神と名を改めてからの八尺瓊当主は、得てして早婚なのだ。大蛇の血を継ぐ器を確実に確保するため、己の意志とは関わりなく子を為すようになっていたことを割り引いても、大蛇の血を孕むこと自体が肉体機能の衰退を速めてしまうので、必然的に早婚にならざるを得なかった訳だ。
いま庵の身体から大蛇の血は失われているが、過去に消耗したその生命がいか程のものか、その嵩は誰にも判らない。だから、庵の婚姻を急ぐに越したことはないと一族が判断したものだろう。
「今回の相手で決まるという保証はないが、いずれにしろ近いうちに正式な通知を送ることになるだろうな」
「おめでとう、八神」
ちづるは短い言葉ながら、心の底からの祝意を伝える。彼女には、伴侶を得ることで庵が新しい生き方を始められるなら、それが彼自身のためにもなると思えたのだ。
しかし、祝辞を言われた当の庵は、それが己にとって本当に目出度いことなのか判らずにいた。考え始めても、行き着く先は袋小路だと判っているその疑問を放置して、代わりに彼は、
「そういうおまえはどうなんだ、神楽。浮いた話ひとつ聞いたことがないが、随分とせっつかれているんだろう? 家のお歴々に」
と、ちづるを肴に、人の悪いことを言った。相手が相手なら、本気で憤慨されそうな台詞である。
が、流石にちづるの度量は大きく、
「そうなのよ」
と、素直に認めて苦笑してみせた。ちづるの方が庵や京より年齢が上だということが第一にあるし、また、結婚という問題に関しては、女性であることで、確かに男共とはまた違った見られ方をしてしまうのも仕方のないことだ。
「大蛇復活を完全に阻止するか、再び封印し直すことが出来るまでは、って、そう言ってこれまでその話題には触れさせないで来たのだけど」
「その手はもう通用せんな」
「ええ。今度からは何と言って誤魔化そうかしらね」
女の声は笑っている。
そんな冗談とも本気ともつかない会話を交わすふたりの元へ、
「風呂の準備が出来たから、メシの前に入っちまえって」
お袋が、と静からの伝言を携えて京が足早にやって来た。
その京を振り返り、
「悪いな、草薙。俺には明日どうしても抜けられん用がある。だから今日はこのまま帰らせて貰うぞ」
と、庵は帰宅の意志を告げる。
草薙、と。庵は京のことをそう呼んだ。この日の儀式を終えて、『八尺瓊』として生きて行くことが自他共に認知された庵には、もう彼のことを京とは呼べなかったのである。八尺瓊家が草薙家の分家筋に当たる以上、これからの庵にとって京という存在は、本家草薙の総領ということになり、決してそれ以外の何者にもなり得ない。
「なんだ、そうなのか⋯⋯。あ、じゃあ駅まで送ってってやるよ、タクシー呼ぶのも面倒だろ」
このとき京は、庵が発した聞き馴れない呼び名を、まだ意識に留めていなかった。
「いや、雪も降っていることだ、歩いて行こう。そう大変な距離でもないしな」
京の申し出をやんわりと断り、数分後、庵は草薙家をひとり辞した。
「これでホントに良かったのか」
ちづるに向かってそう言ったのは京だった。珍しくも気弱な発言。庵が去った後、給仕を静に任せ、京はちづると夕餉を囲んでいる。
「草薙? どうしたのです、珍しい」
感じたままを口にしたちづるの声音は、だが決して京を揶揄してはいなかった。心底案じているという目付きで、彼女は男の顔を覗き込む。
「なんかスッキリしねんだよ」
とだけ言葉にして京は首を振った。彼は、自分の胸の中にもやもやと 蟠(わだかま)る得体の知れない感覚の存在を明確に意識しているのだが、それを上手く言葉で説明することが出来ないでいる。
「なあ、神楽。あいつ、大丈夫なのか」
「八神のこと?」
「ああ」
これが本当に最善の選択だったのだろうか。考えに考えて、それ以外には選びようのない途を選んだつもりの京だ。だが、その途を進むのに必要な儀式をも既に施行してしまった今となって、彼の胸の中に巣くっていた疑念が、むくむくと頭を擡(もた)げて来ているのである。
「あいつは、こうじゃない、もっと違う結果を望んでたんじゃねえかって⋯⋯」
京にはそんな気がするのである。
自分たちには選べないことだと言いながら、しかし、選びたい途はと問うたなら、その回答は確固としてあの男の中に存在していたのではあるまいか。
そして、それは多分⋯⋯。
「草薙、あなたがそんなことを言ってどうするの」
京の思考の行く手を遮るように、強い口調でちづるが言った。
「八神だってもう覚悟を固めた筈よ?」
もう、儀式とて済ませてしまったのだ。
「『八咫』としても、今後は彼を八尺瓊当主として認知し、それに相応しい対応をするわ」
だから、当然宗家である『草薙』にも、それ相応の態度で臨んで貰わなければ、とちづるは訴える。
「解ってんだけどよ」
頭では、ちづるの言う理屈をちゃんと理解している。それでも、胸の裡に巣くう霧が晴れない限り、この疑念に悩まされ続けるだろう自分の姿が京には容易に想像できる。そして同時に、
「それに、どうせ訊いたって素直に答えちゃくれねんだろうしな」
庵本人に直接問い質したところで、そのとき彼が取るだろう態度も、京の目には見えていた。
次は未来(さき)の話をしようと、そう思った筈なのに。彼と未来の話が出来るようにと、庵を生かす途を選んだつもりなのに。なのに、まだ自分は過去を想っている。あの男は本当はどうしたかったのか、と。何を望んでいたのか、と。
知らず溜息が漏れる。
「京、おかわりは?」
と、部屋の隅に控えていた母から不意に声が掛かった。物思いに耽っていた割に京の食は進んでいたらしい。ハッと我に返り、彼は殆ど条件反射で、空になっていた茶碗を差し伸べられた静の手に渡した。白飯がつがれるのを待ちながら、冷めかけた味噌汁を啜り、続けて小皿の上の漬物にも箸を伸ばす。銀舎利の山と盛られた茶碗を再び受け取って、京は気持ちを切り替えるように、
「ったく、らしくねえよなあ」
と、それこそ彼らしくない自虐の言葉を吐き出した。自分はこの期に及んで何をぐだぐだ思い悩んでいるのだろう。全く、らしくない。
空になった櫃を抱え、静が部屋を出て行った。後には京とちづるが残される。
「それにしても、とんだ誤算だったぜ。大蛇を斃しちまえば面倒事は全部なくなると思ってたのによォ」
京は皮肉を絵に描いたような貌で嗤った。大蛇を斃してからの方が、やらなければならないことが多いではないか。
「何を言っているの、草薙。無くなったじゃない。あなたの嫌いな格式張ったことも、今日の儀式で終わりなのよ? もう誰もあなたの手を煩わせたりしないわ」
京の態度にあからさまな呆れの表情を見せて、ちづるはこれまで通りの姉貴風を吹かせる。彼女には時として、京が出来の悪い弟のように思えることがあるのだ。
「だったらいいけどよ」
「信じてないわね、わたしの言うこと」
「当たり前だろ」
憤然として京は言い返した。
「俺はもう誰の言うことも信じねえよ。大嘘つきにずっと騙され続けてたんだからな」
京の言う大嘘つきとは、無論庵のことである。
「恨んでるの? 騙されてたこと」
「別に。そんなんじゃねえよ。第一済んじまったことじゃねえか」
「だったら、何が気になるの」
「それは⋯⋯」
鋭く切り込んで来たちづるに京は口籠もった。
済んだことだと口にしながら、けれど決してそれが京の中では終わっていないのだと、ちづるには判っている。
沈黙を噛むように舎利に箸をつけ、尚しばらく京は黙っていたが、
「あいつ⋯⋯」
と、低い声で言い、
「ずっと死にたがってたろ」
ようやくそれだけを言葉にした。
『八神』として死ななければならなかった庵。大蛇の血を失うことで、庵の中のその男は消えた筈だ。だが、あの死の誘惑から、果たして庵は逃れることが出来たのだろうか。殺して欲しかったのだと、それこそ血を吐くような想いで祈るように望んでいたその願いを、彼は本当に捨て去ることが出来たのか。それ故に、彼がこれからの生き方を肯定しているのなら、それに越したことはないのだが。
でも、もし――。
もしも、今尚彼がそれを⋯⋯死を、想っているのなら。
――さあ、どうするんだ? 草薙。最強のエゴイストは誰だい?
女の紅い唇が、記憶の残像の中で京を嗤う。
「それなら心配はいらないわ。八神にもうそんな気はないわよ」
京の懸念を打ち消すために、ちづるが言った。
「なんでそう言い切れるんだ」
「だって⋯⋯」
そこで一旦言葉を切り、ちづるは己の確信を、京にどう話して伝えようかと考えを巡らせる。そして、こう切り出した。
「さっき八神が言ってたわよね、明日、抜けられない用があるって」
「ああ。それが何だってんだ」
「あれね、お見合いなの」
「みあ、い?」
唖然と言葉をオオム返しにし、その一瞬後、
「ウソ⋯⋯あいつ結婚すんのか!?」
と、京は声を裏返して目を剥いていた。僅かな間があったのは、見合い後の帰結として婚姻が控えているのだという至極当たり前の事実が脳で理解されるのに、暫しの時間を必要としたためらしい。
「八神自身まんざらでもない様子だったわよ」
「マジかよ⋯⋯」
京は言葉を呑んだ。
「あの家は仕来(しきた)りに忠実だから、本来であれば二十歳(はたち)までには、婚礼の儀を執り行ってしまうものなの。八神は今22でしょう? そう考えたら遅いくらいだわ」
そうは説明されても、庵と同い年の京にしてみれば、『まだ』22歳なのである。現実味が薄い。
「ね、八神はちゃんとそうやって将来のことを考えているわ。だからもう、死ぬことなんて想っていないでしょう」
――だといいけどよ。
今度は口に出さず、京は胸の裡にそう呟いた。おそらく彼の抱(いだ)く疑念は、ちづるに話してみても理解はされまい。
京はちづるの説明を受けて尚、やはり納得できていなかった。大体、その結婚するという行為さえもが、庵の本心を隠すための虚偽でないと、なぜ言い切れる? 自分たちを安心させ、関心を逸らさせるための罠でないという保証が、一体どこにある? 全てを終わらせるための準備ではないと、誰に断言できるのだ。
疑い出せばきりがないと判ってはいても、京は考えることをやめられない。
このまま時をただ無為に過ごして、胸の裡にある霧の晴れる日など、果たしてこの身に訪れるものなのか。その日が来るまでに、何か取り返しのつかないことが起きてしまうのではないか。
漠とした不安が京を苛んでいた。
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