今から庵が語ろうとしている話が、昨年末、結局あのホテルで京に言えずに終わったことだった。
「京、おまえは大蛇を『悪』だと思うか?」
唐突に庵は京に問う。
「いきなりなんだよ。そんなの考えたこともねえよ」
答える京に庵はなおも畳み掛ける。
「ならば、あのとき、なぜ大蛇を斃した」
「そりゃあ、やられそうになったからに決まってる。正当防衛だろ、あれは」
目には目を、歯には歯を。やられそうになれば、当然やり返す。それが京の考え方だ。
大蛇が自分たちにその力を向けたから、こちらも拳で応酬したまでで、大蛇を悪だと定義していた訳では無論ない。事前に、庵に向かっては、大蛇は俺が斃すなどと宣言した京だったが、それとて決して大蛇を悪だと思っての発言ではなかった。
京は自分のことを、悪者退治をするに相応しい正義の味方だなどとは思っていない。寧ろ、正義などという言葉を聞くだけで、無条件に虫酸が走る手合いである。
「なるほど」
京の返答を聞いた庵は、どこか安心したような貌で頷いた。
「ならばこれから俺がする話にも問題はなかろうな」
この世に、完全な、滅ぼすことが正しいとされ得る『悪』などない。それが『八尺瓊』の考え方だ。
前置きを終え、庵は改めて本題に入った。
「一八〇〇年前、大蛇は封印されたと言われているが、あれは嘘だ」
庵が口にした衝撃的な台詞に、京は一瞬呼吸をとめた。
息を吸い唾を飲み込む音が、静まった室内にやけに大きく響く。
「じゃあ、一八〇〇年前に大蛇を封印したって話、それ自体がウソなのか? なかったことなのか?」
――あれは作り話?
京の疑問に庵は首を振った。
「いや、そうではない。完全には封印されなかった、そう表現するのが適切だな」
「どういうことだ」
「八尺瓊が、八咫にすべてを渡さなかったからさ」
八尺瓊は、自分ひとりが抱え込むのには過剰だった分だけを、八咫に封印させたのである。
「どうして。何のためにそんなことを⋯⋯」
「欲しかったんだ、支えになるものが」
「支え?」
「ずっと、俺にも解らなかった」
そう言って、庵は少し遠い眼をした。男の視線は京の顔を通り越し、その背後の虚空を見ている。
八尺瓊の孤独。
大蛇の血を失くして初めて、庵は本当の意味で、そして己の身をもって、時の八尺瓊の想いを理解することになった。
庵は京へと視線を戻す。
「大蛇は草薙の技によって祓われ、八尺瓊が捕らえてその身に封じた大蛇は、封印という形に姿を変え、八咫の手により護られて行く。大蛇を封じるという一族最大の使命を果たし終えたとき、八尺瓊は、対大蛇という構図に於いてはもう必要のない存在になった」
それは、一度必要とされた者には、とても耐えられない喪失感だった。
そしてそれと同時に、八尺瓊は草薙にも八咫にも相談できない悩みをかかえることになる。
『草薙』と同じ陽の血の流れを汲みながら、一方で、それとは正反対の性質の陰の血をも引き継いでいる一族。それが『八尺瓊』の血筋だ。故に『八尺瓊』は最も大蛇に近しい存在だと言われ続けてきた。一族の家紋である『八尺瓊』の月が、満月ではなく三日月を象っているのも、彼らの持つ闇の部分を表現しているためだ。
八尺瓊の心の裡には闇がある。底知れぬその闇の深さは、八尺瓊自身を脅えさせる程のものだった。
だが、大蛇を己の身に封じるためには、その闇の存在こそが必要不可欠でもあったのだ。
闇で以て闇を受け容れる。
それは『八尺瓊』にしか務め得ぬこと。
しかし。
――大蛇封印後も、この闇を持ち続けていいものか。
生じた疑問を、けれど八尺瓊は草薙にも八咫にも問うことができなかった。
「それでも、八尺瓊の当主は生きるという途を選ばなければならない。大蛇一族を滅亡させた訳ではなかったし、『八尺瓊』は、神器の勾玉を護り続けねばならん家系でもあったからな」
現在の庵もまた、その生存を義務づけられた存在だ。今の彼には八尺瓊一族の当主として、世継ぎを残すという使命が課せられている。
「だが時の八尺瓊当主は、勾玉の護り手としてだけではない、もっと違う理由を欲した。自分がこれからを生きて行く上で、その営みを支えてくれる、別の理由を」
『八尺瓊』という、ある意味特殊な立場の自分をではなく、ただひとりの人間としての自分を、何かに必要として欲しかった。そして彼は、その『何か』を対外的な存在にではなく、己の裡に求めた。
『理由が己の裡に在る』
それが彼にとっての理想形。
百パーセント、すべてを自分の中で完結させてしまえる。この形ならば、誰にも頼らなくていい。誰にも迷惑をかけないで済む。
結果、その理由に大蛇を選び、大蛇の一部を血という形で自らの躰内に残すことになった。
つまり、彼は身の裡にある大蛇の血を死なせないために生きる。そのことを生きる支えとしたのである。
「大蛇の血を持つということが、いかに危険であるかを知りつつ、だ」
同時にこの選択は、『八尺瓊』が持つ闇の存在を肯定することにもなった。大蛇の血が住まうことができるのは、『八尺瓊』の闇の部分でしかありえないからだ。
「だが決して、大蛇の血そのものが危険だという訳ではない」
それを利用して、大蛇の力を行使することには危険が伴うだろうが、ただ所有しているだけならば何ということもない。
「京、判るか? 大蛇が、八又大蛇と呼ばれるものが何の象徴であったのか。あれは決して化物などではない」
問われた京は想像を巡らせ、やがて思い当たるものの存在を口にした。
「自然現象、か?」
「そうだ。ただ、そう言い切ってしまうと少々語弊はあるがな。まあ、自然界にあった何らかの力、そんなところだろう」
自然現象を引き起こすのに必要なエネルギーというものは、この地上に確かに存在している。古来人々は、人間の手には負えない物事や事象すべてに神や妖怪として名を与え、それらを理解し把握しようと努めてきた。大蛇もまた、そういったものの一つだったのだろう。
大蛇は、地球という惑星の絶対意志と定義される精神体だ。その大蛇が、どのような姿形で人類の前に現れてきたのかは文献に頼るしかないが、質量を持つなんらかの物質を介してでしかこの世に現れ出ることのないそれは、常に同じ形態をしているとも限らないらしい。現に去年、彼らの前に姿を現したそれは、クリスという媒体を使って人の形をとった。
ただし、大蛇一族と呼ばれているのは紛れもなく人間の集団だ。彼らは自然界に存在するエネルギーの操作法を識る一族で、中でも八傑集は特にその能力に優れた存在である。そんな彼らの一族が長として崇めているのが『独立した意志』を持つ、大蛇という名を冠した正体不明の物体、もしくは物質、ということなのだろう。
これらの事柄を、庵は家に残る古文書を紐解くことで知った。
「一八〇〇年前のそれは洪水だとする説があるようだが」
しかし、今ここで問題なのは、それが何であったのか、ではない。
「あれは人の悪しき幻想、いや、妄想と言ってもいいかも知れんが、そんな想像が生み出した、ある種の幻影(まぼろし)だ」
「じゃあ、大蛇に捧げられた生け贄の娘ってのはなんなんだ」
神代の物語として知られる須佐之男命(すさのおのみこと)の大蛇退治。そこには八人の生け贄の娘が登場する。有名な日本神話の一節だ。
「自己満足の産物」
庵の返答に京が深々と溜息をつく。
「人身御供を差し出して、気を休めたってのか」
ただの気休めのために人の生命を奪った、と?
それは京にとって俄には信じ難い発想だった。
「自然界に存在するエネルギーに善も悪もない」
例えその力の強さが脅威ではあっても。
庵は言う。
「だから、それらが引き起こした現象を、神からの鉄槌だと思うのは人の勝手だ。だが、人はいつの頃からかその力を悪しき物だと考えるようになったのだろうな。人間に害為す存在だ、と」
そう定義することで生み出された八又大蛇という脅威に対し、生け贄を捧げるという、目に見える犠牲を出すことで、人々は心の安寧を得ようとしたのだろう。
「驕った考えだ」
「そうかも知れん」
古代人の持っていた思想や概念など、現代人である自分たちには理解できなくて当然なのかも知れない。だが、驕っていると京のように言い切ってしまえるほど、ひとは強いものではないのではないかと庵は思う。
庵は暫し口を噤んだ。
話し声が途絶えると、一度は弱まっていた筈の風がまた吹き始めたのが、障子の向こうから聞こえる音で判る。
その音を聞くともなく耳に入れながら、庵はまた口を開いた。
「話を戻そう。八尺瓊が、大蛇の血をその身に孕んだことは事実だ。だが、最初から『草薙』と敵対しようと思ってそうした訳ではない。その証拠に、当時の八尺瓊の当主は大蛇の力の使い方を知らなかった。大蛇の血をその身に孕むと決めたときには、それを知るつもりも、知りたいとも思っていなかっただろう。⋯⋯しかし六六〇年前、知る機会を得てしまった」
「大蛇一族と接触したんだな」
「そうだ」
六六〇年前、『八尺瓊』は大蛇一族との接触を持った。しかしその接触は、『八尺瓊』自らが望んだことではなかった筈である。なぜなら、その接触は、当主の正妻が殺害されたことに端を発しているからだ。
「血の盟約、持ちかけたのは大蛇一族だったのか? それとも八尺瓊が」
「どちらであっても同じことだ」
庵は京の言葉を遮った。
「最終的に、血の盟約を結ぶ決断を下したのは『八尺瓊』なのだからな」
敵対する大蛇一族に付け入る隙を与えてしまった。それだけで、充分な落ち度であり罪なのだ。『草薙』を裏切ったのではないかという疑いは、決して疑惑だけでは済まされない。神器を護る家柄において、疑念を持たれるということは、そのまま死に直結した。この時代、疑わしきを罰する、その精神が生きている。
「それに、八尺瓊当主自身、チャンスだと思っていたかも知れん」
「チャンス? なんの⋯⋯?」
「力を得るための」
そう言って、庵は京の顔を見、
「『八尺瓊』の特殊能力が治癒にあることは、おまえも知っているな?」
と、確認を取る。
その言葉に京は頷いた。その話なら、ちづるから聞いている。
『草薙』の背負う太陽が『武』の象徴であるのに対し、『八尺瓊』の月は『癒』の象徴である。その『癒』は、治癒を意味するだけでなく、その懐の深さをも意味していた。正も負もなく善も悪もなく、ただすべてを、有りのままの姿で有りのままに受け容れる――その精神を言動の根底に置く、それが八尺瓊一族という存在だ。
ただし、と庵は言い添えた。
「誤解するなよ、京。ひとつのことしか信じない、そのことの強さと、すべてを受け容れてしまえることの強さ、そのどちらが正しいとか、どちらが本物の強さだとか、考えることは無意味だ。同じレベルで比較出来ることではないからな。だが、そんな『八尺瓊』にとって『武』の強さというものは永遠の憧れだった」
本来なら、一生かかろうと世代を越えようと、決して手に入ることはなかった筈の強さ。それを手に入れるチャンスを『八尺瓊』は掴んだ⋯⋯いや、掴んでしまった、のである。
――大蛇一族から、大蛇の力の使い方を聞き出せば⋯⋯。
それは甘い甘い誘惑。
「もしも『八咫』が、大蛇の封印を別の場所に移していなかったとしても、『八尺瓊』がそれに手を出すことはなかっただろう」
それが目的ではなかったのだから。
「やっぱり、封印は解いちゃいなかったんだな」
かつてちづるが話した通りだった。八尺瓊の当主は、封印には手を出していなかったのだ。彼はただ、己の裡にあるその血を利用して、どうすれば力が使えるようになるのかを習得したに過ぎない。
「ただ純粋に強くなりたかった」
『草薙』と肩を並べる気など、微塵もなかった。
「大切なものを護るどころか、八尺瓊自身が護られるだけの存在でしかなかったんだ。六六〇年前の当主は、そんな自分が嫌だったんだろう」
女であれば、巫女であれば、そんな自分にも耐えられたろう。そんな自分を認めることも出来たろう。しかし、彼は男だった。更にそこへ来て、彼は身重の妻を殺されてしまうのだ。
それが決定打になった。
大切なものを護ることも適わぬ己の不甲斐なさを白昼の元に晒された――。
「もう二度と大切なものを無くしたくない。護り切れずに、 哀しい想いはしたくない。あんな悔しい想いは二度と御免だ。だから強くなりたい。そう願った」
――ああ、でも。
庵は胸の裡で嘆く。
また失ったのだった。やはり護り切れずに。
そのとき脳裏を過ったひとりの女の面影に、庵は密かに唇を噛んだ。
ただ、庵がそれを失ったのは、大蛇の力を得たせいで、だ。庵が『八神』であったから。
庵は京に覚られぬよう息をつき、過去の痛みから目を逸らして話を続ける。
「『八尺瓊』は、大蛇と接触すること、それ自体が彼らの策略と知っていて、敢えてその策に嵌まってみせた」
大蛇一族の方は、『八尺瓊』を味方につけたかったのか、それともただ『草薙』・『八咫』と仲違いさせたかったのか、ともかくかつて京が庵に指摘したように、彼らの言動が、三神器の屈強なトライアングルを崩す、それを目論んでの罠だったことは確かだ。
「それが罪だってのかよ。なんでだよ、強くなりたいと思うことが罪になんのか?」
言い募る京に対して、庵はしずかに首を振った。
「その手段が問題だったんだ。そうだろう? 強くなりたいなどと高望みをして、『八尺瓊』が彼らと接触したりしなければ、封印の場所を大蛇一族に知られるようなことはなかった筈だ」
彼らにそれを知られなければ、ゲーニッツに神楽の姉が殺されることもなく、大蛇の封印を解かせる結果にはならずに済んだのだ。そして、『草薙』を屠り得る八稚女の技を、『八尺瓊』が手に入れてしまうことにもならなかっただろう。
だが、それよりもまず。六六〇年前の事件の真相がどうであれ、一八〇〇年前、八尺瓊当主が大蛇の血を既にその身に宿していたことだけは紛れもない事実なのだ。
「一八〇〇年前から一〇〇〇余年もの間、『八尺瓊』は周囲を欺き続けていたんだ。それだけでも充分な罪であり、裏切り行為だ」
庵の言葉に京は反論できなかった。しかし、まだ腑に落ちない点はある。
「そんな理由で大蛇と盟約を結んだんなら、なんで『草薙』と対立することになっちまったんだよ」
「腕試しだったのかも知れん。『草薙』にとっては、いい迷惑だったろうがな」
純粋に、その力を試してみたいという欲求。男なら誰もが持っているだろう欲望。強さに対する羨望と嫉妬。男ならば誰だって最強を目指したい、一度はそう思うものだろう。その気持ちは京にも理解できた。
だが、腕試しのために始まった、おそらくは一対一であった筈の勝負が、一族対一族の、しかも血で血を洗う凄惨且つ大規模な戦へ発展してしまうとも考え難い。
が、思い浮かんだ京の疑問は、続く庵の台詞で解消する。
「『腕試し』の最中に大蛇の血に呑まれ血の暴走を起こしたのだとしたら、どうだ? その結果、草薙の者を殺めるような事態になっていたら」
当時の八尺瓊当主の肉体は、『武』の強さを受け容れる器としては未熟だった。血の暴走は早期に訪れた筈だ。
「⋯⋯討つよりほか、ないな」
呻くように京は答える。
「だろう」
草薙はそうせざるを得まい。
「本当は、そうしたくなかったのだとしても、だ」
京の言葉は『草薙』の言葉だ。
庵は暫し眼を伏せた。
が、すぐに感傷を振り切る。
「大蛇の力を操れる存在が血族の中に在ることを、『草薙』が善しとする筈がないし、もしそんな存在を受け容れ、また、受け容れたことが世間に知られてしまったら、『草薙』の威信は失墜する」
「だから袂を別ったのか」
「おそらくは」
別たざるを得なかったのだろう。それ以外には対処の仕様がなかったのだ。『草薙』にしても、『八尺瓊』にしても。それが互いに望み合った結果だった筈。
『八尺瓊』は切り捨てられることだけを望み、『草薙』は切り捨てることでしか、『八尺瓊』の気持ちに応えてはやれず。
時の両家の代表者たちは、おそらく協議の上で、互いの一族の身の処し方を決定したものと思われた。だからこそ、『草薙』には当時の話が正確に伝わっていないのである。意図的に、『草薙』の側にはこの話を伝え残さぬよう、代表者たちが話し合い、そう取り決めたに相違なかった。宗家である『草薙』にとって不都合になり得る記述を、後世に残す訳にはいかなかった筈だから。
これが、『八尺瓊』が、『草薙』・『八咫』に、そして世間に対して隠し続けていた、六六〇年前の決裂の真相。
しばしの沈黙ののち、京が訊いた。
「そのとき、『八尺瓊』は『草薙』に話したのか? 大蛇を封じた後、どうしてその全てを『八咫』に渡さなかったのかを」
庵は否定するために首を振る。
「なんでだよ? 『八尺瓊』がそれを教えてたら『草薙』はそんなこと⋯⋯。おまえらを切り捨てようなんて」
そんなふうに考えはしなかっただろう。『八尺瓊』を切り捨てる以外の、もっと別の解決策を模索した筈だ。
「知ってれば、俺たちはもっと早くに⋯⋯」
そう、もっと早くに大蛇の血を祓うことを考え、『八尺瓊』に、大蛇の血を孕む以外の生きる支えを持たせようとしたに違いない。
「だから、だ」
庵は強い口調で言った。
「知れば『草薙』は俺たちを救おうとしただろう。だが、俺たちは『草薙』にそれをさせる訳にはいかなかったんだ」
『草薙』が『八尺瓊』を救おうとする行為は、即ち大蛇を斃すこと。『草薙』を危険に晒すということだ。
「なんでだよ!?」
「それは後で説明する。⋯⋯とにかく」
『草薙』に敗れた『八尺瓊』は、このときを境に歴史の表舞台からその名を消す。以後彼らは『八尺瓊』の名を棄て、『八神』を名乗るようになった。
「だがな、『八尺瓊』⋯⋯いや『八神』は虐げられてそうした訳じゃない。自ら望んで時代の表舞台から身を引いたんだ」
手に入れてしまった力の大きさに脅えて。その力で誰かを、何かを傷つけてしまうことがないように。『草薙』を傷つけてしまうことがないように。
「このことについてはずっと嘘をつき通していた。謝らねばな」
「別に謝ってなんか欲しくねえよ」
悪かった、と頭を下げた庵に、京は首を振る。
いまさら『八神』に『草薙』を恨む理由がなかったと知ったところで、そして、かつて聞かされた理由が虚言だったと判ったところで、こんな途方もない話ばかりが連続する状況では、殊更受ける衝撃もない。京の裡で、常人としての感覚などとっくの昔に麻痺していた。
「そうして、」
そんな京の胸の裡を知ってか知らずしてかふたたび庵は語り始める。
「『八神』として生きることになった『八尺瓊』の男当主は、己の肉体と精神を鍛練することで、血の暴走に対応しようとした。その結果、簡単には大蛇の血に呑まれることもなくなった。ただし、どんなに鍛えたところで、いつかは耐えられなくなる」
人間の肉体は、老化してゆくものだから。
「齢(よわい)を重ね大蛇の血に狂っていく当主の姿を、当主でない一族の者たちはただ成す術なく見ているしかない。いつしか彼らはそのことに耐えられなくなった」
『八神』は厭(あ)いたのだ、繰り返されるだけの歴史に。
「だがな、彼らとて何もして来なかった訳では決してない。六六〇年の間捜し続けたんだ。命を断つ以外に、この血を捨てる方法はないのか、と」
そうして、『八咫』が収集した情報や文献には残らぬところで、男の当主たちは皆、思いつく限りの手段を己(おの)が身を以て講じ、その呪縛から逃れる術を試した。それが彼らの使命だった。
「しかし、何を試しても成功はしなかった。結局『そんなすべは存在しない』それが最終的に至った結論だ」
死んでこの運命の、宿命の輪を断ち切る。それ以外に血の盟約を破棄するすべはないのだと、認めたくはない事実を、幾人もの当主の犠牲の上に、ついにようやく受け容れて、一族は次期男性当主の死を決定した。
「ちょっと待ってくれ」
そこで京が口を挟み話を中断させた。
「『八神』に名を変えてからも、おまえたちの一族は基本的に女の当主が立ってきた筈だろ? それなら、なんでその女が子を残すことをやめなかったんだ? 大蛇の血を受け継いだ女が結婚しなきゃいい。子を生まなきゃ血の継承はとめられた筈だ」
大蛇の血を持つのは当主、つまりは第一子だけなのだ。ならば、大蛇の血を受け継いだ女の当主が、子を遺さなければ良かったのではないか。男の当主が死を選ばなくても、済んだ話ではないのか。
「違うか?」
京の問い掛けに、庵が小さく首を振った。その表情が翳っている。
「京、おまえは狂人というものを見たことがあるか?」
「なんだ、いきなり」
はぐらかす気なのかと身構えた京を無視して、庵は尚も言葉を継ぐ。
「俺は見たことがある。俺の母親が、それだ」
不意に庵の声から表情が消えたことに気付き、京は思わず身を硬くした。
「八神当主が自ら死を選べない特殊な立場にあることはおまえも知っているな」
京は頷く。そのことなら、以前ちづるの口から説明を受けた。
「大蛇の血の継承を、女当主が終わりにできない理由も、それと同じ特殊性にある」
このとき、声からだけでなく、庵の顔からも表情と呼べるものが消え始めていた。感情を押し殺そうとしているのだ。
「八神の当主たる女はな、数え年(かぞえ)で18歳になると、例え処女でも子を孕む」
「!?」
処女受胎で有名なマリアには実際には夫がいた。
果たして神の子の本当の父親は誰だったのか。
八神の女当主の運命を想うとき、庵はいつもそのことを考える。
「もし夫をもっていたとしても、生まれて来る第一子の本当の父親は、その男ではない」
京は完全に言葉を失っていた。途方もない話の展開についていくのがやっとの恰好(てい)だ。
しかし庵の方は、淡々とした口調で昔語りを続けていく。
「俺も例外ではない。俺に人間の父親はいない」
先代である庵の母は婿取りをしたので、戸籍上に父はいる。だが、彼は遺伝子レベルでの庵の父親ではなかった。
「臨月を迎えるまで胎児の性別は調べない。それが八神家の掟だ。そして胎児の性別が判明したその日、女は発狂した」
死ぬ運命を背負わされて生まれ出ずる我が子。
次に生まれる第一子の男児には、苛酷な運命が課せられる。それは既に絶対の決定事項として、久しく八神家に伝えられていたことだった。
「そのために、俺は女の腹を切り裂いて取り出された」
庵のそれは、まるで今そこで見て来たとでも言うような口振りだった。
「なんでそんな話を、」
するんだ、と訊きかけて京は口を噤んだ。この一連の話こそ、前(さき)の自分の疑問に対する庵の答えだと思い至ったからだ。
長い沈黙があった。
外では風がまた一段と勢力を増したのか、樹木の枝々が激しくしなる音が時折部屋の中にまで聞こえて来る。
庵は不穏な話を最後にこう締め括った。
「女には、決して背負えない使命がある、そういうことなんだ」
――なんて苛酷で残酷な。
京には掛けるべき言葉が見つけられない。自分では見ることが適わないが、おそらく己の顔面はいま血の気を失くしているだろう。
そんな様子の彼を置き去りに、庵は話をつづけた。
「俺が、八神家直系の第一子の男児としてこの世に生を受けたとき、一族の意志は既に固まっていた。この子にすべてを託そう、と」
この世に生まれ出(いず)る前から定められていた庵の人生。
「俺は最初から、そのためだけに生かされていた」
だから庵には不必要な物事、感情すらも、極力教えないようにされて来た。
「俺自身そのこと⋯⋯、俺の死を一族皆が望んでいるということは、幼い頃から知っていた」
「じゃあ、まさかおまえ、死ぬことを納得してたっていうのか?」
「ああ。自由になれるなら、それで良いと思っていたのでな」
「馬鹿なこと言うなよ! 死んで自由になったって、その先なんかねえじゃねえか!」
京の言うことはもっともである。確かに死ねばその先はない。けれど、それさえも承知の上で庵は己の死を見つめていたのだ。
「それでも構わなかった」
庵は生きることなど知らなかったのだから。一族の者は誰ひとり、彼に教えはしなかった。生きる、ということを。
「八神、おまえ⋯⋯」
言葉を失った京の貌を見て、庵は苦笑した。
「京、おまえがそんな貌をしてどうする」
同情か憐情か、それとも困惑か。複雑に絡み合った幾つもの感情が、微妙なバランスを保ちながら、いま京の顔の上にひとつの表情を造り上げている。
「第一俺は死んでなどいない。生きて今ここにいるだろう? それに、俺は前にも言った筈だ、もう死ぬ必要はなくなったと」
だから、これは飽くまで昔語りなのだ。過去の話。今の自分を語っている訳ではない。
庵にそう言われてようやく、京は奇妙な表情をその面(おもて)から消した。
「じゃあ本当にアレは⋯⋯、昔おまえが俺を本気で殺そうとしてたときは、ただ俺をその気にさせて、俺に殺されようって、そのつもりで?」
そう言って京が庵に確かめたのは、庵の口から聞かされながら、どうしても信じられないでいたことだ。
庵は、そうだと短く言って頷いた。
「もっとも最初の頃は、俺自身、まだ真実を知らされていなかったのだがな」
だから、当時の庵は、ただ一族に請われるまま、京や他の草薙一族の命を狙おうとしていただけだ。草薙一族の抹殺が己の使命であると信じて。
「でも、おまえはそのときも、俺たちの一族を抹殺すれば、自分が死ぬってこと、それは判ってたんだ?」
「ああ」
庵は何でもないことのように肯定する。それが、正直京には堪らない。
もう済んだことだとはいえ、過去のことだとはいえ、それでも、己の人生がただ死ぬためだけに用意されたものであったなど、そんなことをそんなふうに当たり前のような貌をしてこの男に認めて欲しくはなかった。
なぜ彼はそんな自分の人生に疑問を持たなかったのだろう。なぜそんな、理不尽である筈の一族の願いを、なんの抵抗もなく受け容れたのだろう。
庵の持つ感覚が、京には理解できなかった。頭でも、身体でも。
「無論、八神の者たちにとって、草薙の者を傷つけることなど本意ではない。ただ彼らは、俺が本気の殺意を見せれば、『草薙』も本気で闘わせざるを得ないだろうと考え、そうなれば、俺が死ねる確率も高くなると、そう思っていたらしい」
庵が続けた淡々とした語調の説明に、京は遣る瀬ない想いで首を振り、溜息を零した。
「八神、それっておまえ自身騙されてたってことじゃねえかよ。ハラ立たなかったのか?」
「⋯⋯立たなかったな」
それは本当のことだ。一族の口から事実を聞き出したとき、庵はひどく冷静で、自分でも呆れる程すんなり総てを受け止めてしまっていた。
おそらくそれは、それまで何を望むことも許されずすべて諦めていた彼が、一度きり、まさに最期のことだとはいえ、選択権を得られたからだったのだろう。
どういう遣り方で『草薙』をその気にさせるか、『草薙』の誰の手にかかるか、それを庵は自らの意志で選ぶことができるのだ。
だから、真実を知らされたとき庵の裡に生じたのは、騙されていたことを恨むそれではなく、寧ろ喜びの感情だった。そしてこのとき、彼の胸一杯に満ちていたのは、かつて持ち得たことのない程の安堵感。それは京を殺さなくていいのだと気付いたことにより齎された歓喜であった。
「解んねえな⋯⋯」
京はまた首を振った。
「なあ、なんでずっと黙ってた? どうして嘘なんかついてまで、俺たちの関心を逸らせようとしたんだ?」
構うなと言ってこの屋敷を去ったとき、庵が自分に見せた拒絶の背を、京は今でも鮮明に思い出せる。
「『草薙』が大蛇を斃せば、八神当主の誰かが死ななくてもその血は祓えたんだろう?」
現に今、庵の中にそれはないのである。京が、大蛇を斃したから。
ならば最初から、『草薙』に頼めば良かったのではないか。その復活がいつになるかは判らないにしても、封印の場所があの一族に知られた時点で、大蛇が再び人々の前に姿を現すことは確実だったのだ。だから、いつか大蛇を斃してくれ、と。そう頼めば良かったのだ。その日が来るまでは、血の暴走を起こさぬよう、早期に血の譲渡をし続けなければならなかっただろうが、それでも、当主の死を選択するのに比べれば、いくらも容易であった筈だ。
しかし、京の言葉に庵は首を振った。
「すべては『八尺瓊』であった俺たち一族の勝手な行いが招いた厄災だ。ならば、その厄災は自分たちで鎮める。それが筋というものだろう」
自分で蒔いた種を自分で刈り取る。それはごく自然な行為ではないか。
「身内の勝手で始まったことなら最後まで勝手にやらせて貰う、そう思って面妖(おか)しいか?」
「おかしいだろう!? おまえらには、当主を死なせるって方法でしか、終わりに出来ないことだったんだぞ!」
八神当主に死を与え得る存在は、大蛇に連なる者と『草薙』だけである。しかし、大蛇一族の悲願である草薙一族の抹殺を果たさぬ限り、大蛇が八神当主を死なせてくれよう筈はなく、『草薙』に真意を告げた場合もまた、八神当主が『草薙』に殺されることは叶うまい。なぜなら『草薙』は、大蛇を斃す力も技も持っている。その彼らが真実を知れば、まず間違いなく、八神当主の命を奪うことよりも、大蛇を斃すことの方を選択するだろうからだ。
故に、八神一族が望んだ当主の死というものは、悪人のふりをし、『草薙』に『八神』を疎ませ世間をも欺いて、そこまでして初めてようやく叶おうかという望みだった。いや、実際には、そこまでしても尚、叶う確率がどの程度あったのか、それさえ疑わしい<自殺>だったのかも知れない。
「他にもっと良い方法があるって知ってて、どうしてそれを望まなかった?」
京が咎めるような眼で庵を見る。
問われた庵はそこで怪訝な貌をした。
「もっと良い方法だと? ⋯⋯『草薙』に大蛇を斃させることが、か?」
「そうだろ? おまえが死ぬことより、その方がよっぽど良策じゃねえか」
一か八かで『草薙』に騙し殺されることに比べたら、よほど確実性も高かろう。
言い募る京に、しかし庵は首を振った。
「駄目なんだ。それは俺たちには望めないことだったんだ」
「どうしてだよ。そんなに草薙の力が信用できなかったってのか!」
「そういうことではない」
『草薙』の力に信服が置けなかったからではない。『草薙』の命を危険に曝すなど、八神一族には出来ないことだったからだ。『草薙』を大蛇に立ち向かわせることを思えば、『草薙』に『八神』を殺して貰うことの方が、断然、『草薙』に掛かるリスクは小さいのである。『八神』に『草薙』を害する意志がない以上。
「さっきの答えもここにある」
庵がそう言ったのは、後で説明すると言って、返答を保留していた事柄についてだ。
「俺たち『八尺瓊』はな、『草薙』を危険な目に遭わせないこと、それだけを考えて生きている」
もし『草薙』が、『八尺瓊』が大蛇と血の盟約を結んだ真意を知ってしまえば、『草薙』は盟約を破棄させようとして、『八尺瓊』のために行動を起こすだろう。
庵はそれを指摘し、
「それをさせたくなかった。それをさせることは、俺たちには許されないことだった」
と、続けた。
「なんでだよ、何が許されないんだ? 誰が許さねえんだ!? 解んねえよ、俺には!」
半ば叫ぶように訴え、京は拳を握り締める。
この苛立ちは、何にぶつければ消えるのだろう。どこに吐き出せばいいのだろう。
京には八尺瓊一族の考えていることも、その考え方自体も、理解できなかった。なぜ許されないなどと言うのか。何が許されないことなのか。そもそも誰がその正当性を裁くというのだ。
しかし、庵は意に介さないふうだった。
「それでいい。俺たち自身、おまえたちに理解されようなどと思ってはいないからな」
そしてこれからも、ずっと解らないままでいて欲しい。
『草薙』の影を自認する『八尺瓊』にとっては、『草薙』に顧みられることさえも耐え難いのである。気に掛けて欲しくない。『草薙』にはただ前だけを見て、彼らのしたいように、思うとおりに生きて欲しい。その手助けができるなら、『八尺瓊』にとってはそれが最大の幸福。『草薙』のために生きてこそ、『八尺瓊』は『八尺瓊』なのである。だから『草薙』は『草薙』のまま、自由奔放であってくれさえすればそれで良かった。
それが『八尺瓊』の願い。
同時に、『草薙』のためだけに生きているという『八尺瓊』の存在が、決して彼らの足枷にならないようにとも願っていた。重荷になる訳にはいかないから。疎まれたくはなかったから。
結局のところ、どれだけの世代を越えようと、『八神』と名を変えてからでさえ、『八尺瓊』はただ『草薙』のために生きる――そういう生き物であり続けたということなのだ。
『草薙』のためを想って生きる。
それは彼らにとって例えようのない幸福。それはもう理屈ではなく、遺伝子に記憶を刷り込むことが可能なのだとしたら、『八尺瓊』の裡に宿るこの感情は、きっとそうやって受け継がれて来、そしてこれからも、同じようにたゆまず受け継がれて行くことだろう。
科学的根拠などなくても、庵にはそれだけは信じられた。事実、己がそうなのだ。
「これで、こちらからの話は終わりだ。どういう処分が下されても、俺たちはそれに従う」
そう言って、庵はずっと袂に仕舞っていた紫色の包みを取り出し、それを一旦畳の上に置いてから京の前へと押し滑らせた。
「これ⋯⋯」
目の前に現れた物を見て、京が思わず声を出す。
見覚えのある色の布。見覚えのある形とその大きさ。京が初めてそれを目にしたときと違っているのは、月の家紋が表から見えていることだ。
それは、八尺瓊の勾玉が納められている桐の箱だった。
京の拳を受けて庵が昏睡した後、この神器は彼と共に一旦は草薙の屋敷に運ばれたが、庵が屋敷から立ち去る際、彼の荷の中に収められて再び持ち出されたのである。
京は手を伸ばし、畳の上からそれを取り上げた。今度は布を開くこともなく、ただ見つめている。
庵が言った。
「俺たち八尺瓊一族にこれを護る資格がないと判断するなら、この神器は『草薙』の手で納めて欲しい」
『八尺瓊』は、一度は宗家の『草薙』を裏切ったのである。だから、この神器を今まで通り何事もなかったように護り続けることは出来ない。庵はそう言い添えた。
しかし京は庵に請われた選択をすぐにはせず、
「前にもおまえ、これをウチに渡そうとしたことがあったな。あれは何のためだったんだ?」
と、まずは問い返す。
庵は答えた。
「これをおまえに渡せば、『草薙』は俺たちの一族と接触せざるを得ないだろう?」
そうなったときには、死んだ庵に代わり、家の者の口から真実が明かされる手筈だったのだ。いま庵が京に話して聞かせた、一八〇〇年分の歴史が。
「そのために⋯⋯?」
庵は、そうだと頷き、
「真実を明かした上で、一族の処分を『草薙』に、」
「だから、どうして処分だとか⋯⋯!」
庵に最後まで言わせず、京が声を荒らげる。
しかし、庵は冷静に言葉を返した。
「言った通りの意味だ」
『草薙』が下す判断に一族の将来すべてを託す。『草薙』に『八尺瓊』の全権を委ねる。それは『八尺瓊』にとっては、ごく自然な流れだった。
支配するもの、されるもの。
両家をこのふたつに色分けするなら、『草薙』は前者であり、『八尺瓊』は『草薙』に支配される後者ということになる。
支配する。人の上に立つ――。
『草薙』にそんな意識がないことは『八尺瓊』とて百も承知だ。そうしようと、望んで『草薙』が人を支配しているのでないことも知っている。
作意などない。『草薙』はただ自然発生的にその位置に配されてしまうのだ。望むと望まざるとに関わらず、彼らは生まれついての王なのである。
しかし『八尺瓊』は違っていた。意識して、『草薙』に支配されることを望み、彼らに尽くしたいと願っている。
ただし『草薙』の側にその願いを聞き届けなければならぬ義務はなく、義理もない。
それを知っているから、『八尺瓊』はそれを誇示することをせず、『草薙』に何を求めることもしないのだ。
「身勝手だと思ってくれて構わない」
事実そうなのだろうから。
庵は深く頭(こうべ)を垂れた。
願わくば、その言葉で責めて欲しい。詰って欲しい。勝手に始めたことならば、勝手なままで終わらせなければならなかったものを、そうすることさえ出来ず、その手を患わせてしまうのだから。
――こんなわたしを⋯⋯。
「だが、頼む、京。頼むから決めてくれ。俺たちには選べないんだ」
――どうか、この罪深きわたしを裁いて。そして、生き残ってしまったこの身を、どうか赦さないでいて欲しい。あなたを苦しめるだけの存在を、どうか⋯⋯。
忘れて欲しいのに、赦さないでいて欲しい。それは矛盾した願いだ。
いまだ庵の中にはふたりの自分が生きている。それは、八尺瓊当主としての人生を選択した彼と、八神当主の意識を引き擦った、しかし『八尺瓊』でも『八神』でもない、ひとりの人間(ひと)としての彼と、である。だからこそ、庵は京に選んで貰わなくてはならなかった。これから自分が進むべき道筋を、生きるべき自分の有り様(ありよう)を。
「勝手だ⋯⋯。勝手過ぎる⋯⋯」
京が押し殺した声で呻くように言った。俯く庵を真っ向から睨む彼の眼に、苦悩と焦燥の表情(いろ)が覗く。
「遅いじゃねえか。おまえが、おまえが死んでから何もかも知らされたって遅過ぎんだよ!!」
ついには語気を荒らげ、京は庵に詰め寄った。
「俺には何にも出来ねえだろ!?」
しかし庵はただ首を振る。
『草薙』の手を煩わせないこと、『草薙』の関心を買わないこと、それが『八尺瓊』の最優先事項。そして、その掟を守ることは『八尺瓊』の誇りでもある。そうすることは『八尺瓊』の意志であり、掟を破ることは、彼らにとって万死に値する禁忌だった。
――解らなくていい。京、おまえは何も知らなくていいんだ。
本来それは、『草薙』が知ってはならないこと。知られてはいけないことなのだ。『八尺瓊』の願いも、庵の想いも。
「なんとか言えよ、八神!」
庵は俯き、応えない。
彼は、『草薙』に自分たちを理解されたくて真実を語った訳では決してない。関心を寄せられたくて教えたのでも無論ない。そして、これからも、『草薙』に助けて欲しいとは思っていない。むろん、その『草薙』には京も含まれる。
「解んねンだよッ」
京が叫ぶ。解りたいのに。
理解したいのに。どうしてそれさえ受け付けてくれないのか。どうしてこの望み受け容れてくれないのか。
京の悲鳴のような声は、見えない刃(やいば)となり、庵の心を鋭く切りつける。
障子の向こうでは一段と風音が激しさを増し、その気性のままに荒れ狂っていた。
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