最終日のスケジュールはその殆どが自由行動になっていた。朝食後は、チェックアウトの時間さえ守るなら、どこで何をするのも各人の自由である。そういう訳で、海外からの招待客たちなどは、朝食時に親しい者同士が集まり、賑やかに観光の計画を立てていた。そんな中、庵は朝食を済ませたその足でフロントへ向かっていた。そこを、
「なんだよ八神ィ、おまえもう帰っちまうの」
と、紅丸に呼び止められる。庵はその手に、一日目に着ていたスーツが入っているのだろう衣装カバーと小旅行用のバッグとを持っていた。どう見ても帰り支度なのである。
紅丸は、肯定のために顎を引いた庵を見、
「まだ午前中だぜ? もうちょっとゆっくりして行きなよ」
せっかちだなあ、と言いながら、
「何か急ぎの用があるって訳でもないんだろ?」
と、ホテルのラウンジへ半ば強引に庵を誘った。紅丸に指摘されたとおり庵には積極的に断る理由がなく、結局彼は紅丸に押し切られるかっこうでラウンジに向かうことになる。
ふたりが移動してみると、そこには先客がいた。拳崇とアテナである。彼らは師匠である鎮元斎と三人で、94年から毎年KOFに出場している最古参チームのメンバーだ。
「何年経っても変わんないな、あのふたり」
紅丸がそう言ったのは、拳崇がいつもの調子で懸命にアテナに何かを訴えかけている様子だったからだ。おそらく、せっかくのクリスマスシーズンに人の大勢いるところへ来られたのだから、帰国までの時間デートしたいとでも申し入れているのだろう。彼らは普段中国の人里離れた山奥で修行を積む生活を続けており、あまり市中に遊ぶことがない。
「アテナちゃんが天然ってのがイタイよな」
拳崇は必死に喰い下がっているのだが、応じるアテナは随分とつれない態度をとっている。露骨に迷惑そうな貌をされているのに、それにめげることなく後を追う拳崇の、健気といえば聞こえはいいが情けないともいえる姿を紅丸が目にするのは、今年でもう四年目だ。その間(かん)ここまで関係が進展せず、そのくせ決定的に壊れもしない組み合わせというのも、ある意味ずいぶん貴重な存在だろう。KOF名物のひとつとも噂されているそんな彼らを見遣り、拳崇のことを、
「健気を通り越して哀れっつーカンジ」
紅丸は苦笑いと共にそう評した。モテることを当然と受け止めている彼のような男には、拳崇の気持ちなど一生理解できないのかも知れない。
「片想い、か⋯⋯」
不意に庵が誰に聞かせるともなく低い声で呟いた。彼もまた紅丸と同じく拳崇とアテナに視線を送っている。だが庵の方は紅丸とは全く違うことを考えていたらしく、独り言のようにこう続けた。
「相手を振り向かせようという気がないのなら⋯⋯、最初から、相思相愛になろうなどと望まないなら、それはそれで幸せだろうな」
一方的に想いを寄せるということは、ブラウン管の向こうの役者やタレントのファンでいることと変わらない。
思わず振り向いた紅丸の視界の中で、庵は冷静で真剣な横顔をしていた。彼は、まるで紅丸に聞かせているのではないといった口振りで、どこか芒洋とした視線を拳崇たちに向けている。紅丸は、庵が誰か別の人間のことを考えているのだと気付いた。
「自分を相手好みに変える必要もない、努力など何もしなくていい。ただ想っているだけで満足だというのなら、これほど楽なことはない気がする」
自らがそれを幸せだと思うのなら、尚更。
ただし、と庵は言い添えた。
「想っているということを、相手に覚られてはならない場合もあるが、な」
振り向かせてはならないときもある。対象が、振り向かせてはならない相手だとしたら。振り向かせることを赦されない存在であれば。振り向かせてしまった瞬間から、苦しみが始まる。
「八神⋯⋯」
紅丸が気遣う表情を見せた。知らぬ間に、場の空気が重くなっている。そのことに気付き、
「⋯⋯どうかしているな」
と、庵は困ったように苦笑した。紅丸を相手に、無自覚だったとはいえこんな話をしてしまうとは。我ながら軽率だったかも知れない。
「八神、おまえ、だから京に⋯⋯」
紅丸が口にした男の名に、庵は一瞬身を硬くした。今の話から、紅丸に何かを覚らせてしまったらしい。
「闘えないから、か? だからあんなこと言ったのか?」
「あんなこと?」
紅丸の言葉の指す内容が解らず、庵は怪訝な貌をした。それを更に怪訝な貌で紅丸が見返して、
「おまえがあの女たちに言わせたんだろうが。京に『忘れろ』ってさ」
「俺のことを、か?」
庵に確認を取られて、紅丸は片方の眉だけを器用に吊り上げた。
「あれ、おまえからの伝言じゃなかったのか⋯⋯」
「ハッ」
自身を嘲笑って、庵は反射的に額に手を宛てた。どうやら自分は知らぬ間に、思いもよらない方法で彼女たちから意趣返しされていたらしい。
庵が、かつての自分のことを京に忘れて欲しいと思っているのは本当だ。その気持ちを、マチュアとバイスのふたりに勘づかれたことも事実である。だがそれを、京に伝えてくれとは頼んでいない。
「俺は何も頼んでいないぞ、あの女共には。⋯⋯だが、」
言いながら、そういえば、と庵は昨夜の京の言動を思い起こしていた。あの男も、確か似たようなことを口にしなかったろうか。そう、『あれは、そういう意味だったのか⋯⋯』と。庵が忘れるようにと彼に要求する前から、京はそう言われることを知っていたような節があった。
成程、これで得心が行く。
「その気持ちは本心だ」
「その気持ち、って⋯⋯、京に忘れられたいってことか?」
「ああ」
「京を苦しめるから、なのか?」
紅丸は聡かった。庵が具体的なことを何ひとつ語っていないのに、彼には、庵が忘れられたがっている理由が解るらしい。
「もう俺は闘えないからな」
敢えて理由を口にして様子を窺えば、庵の予想どおり、紅丸は、やっぱりなと確信を深めた表情になった。
「ありもしない希望をいだかせるのは趣味じゃない。忘れて貰わなければ困る」
庵とて辛いのである、京の望みに応えられないということは。
「そういえばあのとき⋯⋯」
マチュアとバイスが言っていた、もうひとつの意味深な言葉を紅丸は思い出した。
「おまえが京のために死にたがってたって、あのふたり、そんなこと言ってたんだよな⋯⋯。なあ八神、京のためにってのはどういう意味なんだ?」
マチュアとバイスの癖のある笑みを思い浮かべ、庵は苦々しさに口端を歪める。
「俺や八神一族が願っていたのは、草薙家と八神家との確執の終焉などではなかったということさ」
紅丸にそう応えながら、
――やられたな。
庵は敗北を認めた。よもや彼女たちにそんなことまで喋られていようとは。まんまと一泡吹かされた。
「八神一族は、ただ、俺の⋯⋯八神当主の命を終わらせたいと、そう望んでいただけなんだ」
結果、どんな形であるにせよ、それが両家の確執の終焉に結びつくことには違いなかったが。
「それは、『八神』をこの世から消し去るために、か?」
紅丸の言葉に庵は頷く。
「『八神』が消えるということは『草薙』を殺し得る人間がこの地上からいなくなるということだ」
庵は、そして八尺瓊の血を引く一族は、それを望んでいただけなのである。
「それが『京のため』なのか?」
「そうだろう? 奴の命を奪える者がこの世からいなくなるということだからな」
その説明では納得できなかったのか、紅丸は浮かない貌をしている。
「あの女共が奴やおまえにどう言ったのかは知らんが、俺が死にたがっていた理由はいま言ったとおりだ」
京を傷つけないでいたいと願った自分個人の想いを、庵は意図的に伏せた。そこまでのことは、紅丸にも、他の誰にも知られる訳にはいかないからだ。ただ、ちづるにだけは、その想いの存在を、既に勘づかれてしまっている。
「でもどうしてなんだよ? おまえも、おまえらの一族も、京を⋯⋯いや、『草薙』を、か⋯⋯、あいつの一族を憎んでるんだろう?」
その筈なのに、まるで京を殺さないでいたくて命を断ちたがっていたのだという前(さき)の庵の発言では、紅丸の腑に落ちる訳がない。
「⋯⋯恨んでなどいないんだ」
「え?」
「俺も、俺たちの一族も、草薙一族を恨んではいないんだ。ずっと憎んでいる『ふり』をしていただけで、な」
ある意味部外者である紅丸を相手に、その行動の根底にある真意すべてを語って聞かせるつもりはなかったが、それでも、もう庵には彼を偽らねばならぬ理由がない。
「あのとき⋯⋯、草薙の屋敷で、おまえたちには鹿爪らしい理由を並べて聞かせたが、あのすべてが事実だった訳じゃない」
故あって自分たちの一族はずっと周囲を欺いていたのだと庵は説明し、悪かった、と紅丸に頭を下げた。この男に対しては、草薙の屋敷にいた時分にだけでなく、その後も嘘をつき続けて来ている。
「いいよ、八神」
済んだことは気にしないから、と紅丸は何でもないことのように応じ、
「要するに、おまえらの一族は『草薙』を殺し得る存在である八神庵を消したかったってことなんだな? 理由はともかくとして」
と、話をまとめて庵の顔を見た。
「ああ、そうだ」
庵は頷き、
「ただ、その理由については、話すと長くなる。勘弁してくれ」
一八〇〇年分の歴史を語ることになるから、と説明すると、紅丸は苦笑いと共に了承してみせた。実をいえば、小難しい話は彼もあまり得手ではないのである。
「今年の大会後の騒動のときにも、俺は死のうと思っていた」
大蛇と対峙することになった、あのギリギリの状況に置かれて尚、やはり庵の覚悟は微塵も揺らがなかったのである。彼がそこで瞬時に選択したのは、京の手に掛かり大蛇共々消え去るという、どこまでも利己的で非生産的な結末だった。
「俺は死ねると思っていた。そのつもりで覚悟も決めていたんだ」
しかし、庵は逝けなかった。今も彼は、ここでこうして生きている。
生きてしまっている――。
衛星としての月は、ひどく特異な存在である。あれほどに大きな質量をもつ星は、通常衛星たり得ない。地球の引力が働かなければ、月は決してそこに在り得る天体ではなかった。地球の引力に囚らわれることがなければ、もっと、どこか遠くへ弾き飛ばされていた筈の星。
大蛇がいなくなれば、庵もまた⋯⋯。
けれど。
月を縛る力はなくなった筈なのに。月は今も同じ位置に在り続けている。それは異常な事態。有り得ない状況。
――なぜ俺は死ねなかったのだろう。
「予定が狂ってしまったな」
その冗談めかした庵の言葉が存外彼の本心であると気付いたのは、やはり相手が紅丸だったからだろう。紅丸はこういう心の機微に敏感だ。
「だがな、二階堂。あいつが間違ったことをした訳では決してないんだ。そもそもあいつには、俺を殺さねばならん理由がないからな」
庵が自分を殺し得る存在だと解っていても、京には庵を殺す気などなかった。彼は『八神』としての庵の存在を恐れてはいなかったからだ。当然その京には、庵を消すべき理由もない。
「あいつはあのとき――大蛇と対峙したとき――己の為すべきことを成した。ただ、その結果、俺の身体から大蛇の血が祓われてしまった。それだけのことなんだ」
だから、京が庵に対して負い目を感じなければならないようなことはひとつもないのである。
「建前はそうなんだろうよ。けど、あいつの気持ちはそんな言葉じゃ片付かないと思うぜ」
紅丸は言い返す。現に京は紅丸の前で嘆いていたのだから。
「だからこそ、忘れて欲しいんだよ、俺は」
京と闘うことのできた八神庵という男のことを。そうでなければ、生きることが辛すぎる。京を苦しめるだろう己の存在を、自分はきっと許せない。
けれど同時に。
この自分の願いが決して叶わないだろうことも庵は知ってしまっていた。『八尺瓊』であれ『八神』であれ、自身が『草薙』と血縁関係にあることには違いない。当主でもある自分が、京と一生隔絶したまま生きることは不可能なのだ。自分を見れば、彼は思い出してしまうだろう。闘えた、ということを。
「なあ、八神。じゃあさ、少なくとも今のおまえは、もう死にたいとは思ってないんだよな?」
忘れて貰えるのなら自分の存在が京を苦しめることはないと、庵がそう考えているのであれば、それはイコール、彼が自分の生を肯定しているということだ。そう考えた紅丸は、ナイーブな話題だからこそ、敢えて軽いノリで確認しようとしたのだが、
「どうなのだろうな」
庵から返されたのは、そんな曖昧な回答(いらえ)で。
「おいおい、勘弁してくれよー」
紅丸は眉を顰めた。
しかし、誠心誠意、庵には彼を騙すつもりも欺くつもりもなかった。これが今の庵に返せる唯一精一杯の答えなのだ。死にたいと叫ぶ心と、生きなければと囁く理性と。せめぎ合うふたつの声の狭間で、庵は自分を見失い自分を疑っている。今ここに生きている自分は、果たして、死に憧れる己を殺し『八尺瓊』になることをちゃんと選べているのだろうかと。
「けど、死ぬ必要がなくなったことだけは確かだよな? おまえにはもう『草薙』を殺す力がないんだから」
庵はその問には頷いた。紅丸の言う通り、死ぬ必要があったのは『八神』としての自分だから。
紅丸は長い間じっと庵の顔を見つめていたが、そこに欺瞞の表情(いろ)がないと判断したのか、 おもむろに話題を変えた。
「これから、京との関係はどうなるんだ?」
「さあな」
「なあ、謝っちまえば? 京に謝って、今までのこと全部精算にして、そんで一からやり直せばいいんだ。何もかも白紙に戻して、あいつとの関係をそっから新しく始めればいい。そうだろ?」
紅丸は思うのだ、京に忘れて欲しいだなんて、そんなこと、本当は言わなくてもいいのではないかと。京との関係を断ち切る必要などないのではないか、と。過去は過去として、現在(いま)は現在(いま)として。庵が続けたいと望むのなら続けて行けばいいのだ、京との新しい関係を。そうするのは、ごく自然なことだろう。
「それとも、アレか? もしかして許して貰えないとでも思ってるワケ?」
闘えなくなったということだけが、京に、かつての庵の存在を忘れさせるに充分な理由になるのだろうか。紅丸にはそうは思えない。
「京だって、おまえのこと許すに決まってる。今のおまえのことも、あいつになら受け容れることが出来るさ」
庵はその紅丸の言葉には直接コメントせず、
「二階堂。許しを請うということは、エゴじゃないのか」
そう問うた。
「エゴ?」
「自己満足の産物じゃないのか」
「自己満足⋯⋯?」
「そうだ」
許されたいと願い、許しを請うこと。それを傲慢と言わずしてなんと言うのか。謝罪とは、相手のため⋯⋯、相手を想っての行為のように見せかけて、その実、行為の裏に潜んでいるのは自己愛だ。庵にはそうとしか思えない。
立て続けに思考の飛躍を強いられて、紅丸は暫し押し黙った。その間(かん)約十五秒。目の前にいる男がどのような経路をたどってその結論を導いたのか、惑うことなく弾き出し、
「それも真理か⋯⋯」
そう呟いて、しかし、紅丸は厳かに続ける。
「でもな、八神。許して欲しいって態度に表して貰えなきゃ、許したいと願ってる方だって許すって行為を実行できないんだ。だったら⋯⋯、許したいと思っている相手に『許させてやる』のだとしたら、許しを請うことはエゴじゃない。違うか?」
今度は庵が黙る番だった。
「⋯⋯真理だな」
――そうか。そんな考え方も有り、か。
だから謝ってしまえ、と紅丸は繰り返した。そうして京との新しい関係を築け、と。
確かに庵はこれから京との間に新しい関係を築いて行くことになる筈だった。だがそれは八尺瓊当主としての庵の役目であって、八神庵というひとりの男の意志とは何の関わりもない行為だ。
だから。やはり。
庵はそこに、死の誘惑から逃れられていない自分を見つけてしまう。誰かのために生きる自分であるよりも、あの男のために死ねる自分でいたかった。と。京という個人のために、消えて行ける自分でありたかった。そう叫ぶ声を聞いてしまうのだ。
京と闘うことで生きるということを覚えてしまったときから、庵は京を草薙一族のひとりとしてではなく、一個の人間として認識し始めていた。ただ、死にゆく八神としての己には必要のないものとして、その認識も、意識の表層へ現れ出ることがないように、そのほか諸々の感情と共に、重しをつけ、心の何処か、ずっと深い場所に沈めておいたのだ。だが、その重しがはずれ、それまで抑え込んでいた何もかもが、今一度に吹き出してしまっている。庵はそれに対処し切れないでいた。
『草薙』のため、という対外的理由を隠蓑に、本当はただ京のためだけに死のうとしていた自分。その存在が、庵の中で日増しに大きくなって行く。その存在から目を逸らすことも出来ず、追い詰められる。
揺れる心。
死という名の深く暗い淵。それは、いつだって庵の足元にあった。ぽっかりと、黒い口を開いて待っているのだ。彼がその一歩を踏み出す瞬間を、今や遅しと待ち構えている。
――落ちてしまえば楽になれるわ。
甘く囁く声がする。
ちづる主催のクリスマスパーティーが全日程を終了する日、正午過ぎにチェックアウトを済ませた京はその足で草薙本家へと向かっていた。新年を実家で迎えるためである。例年の彼ならば、盆暮れ正月だからといって律義に帰省したりはしない。だが、その日、ホテルの部屋へ京宛の電話が入り、
『元日、八神家がこちらへ使者を寄越すそうです。京、あなたに話があるのだとかで。草薙家の当主として、あなたにはそれを出迎える義務がありますよ』
電話口で静にそう言われてしまっては、さすがの彼も逃げ出す訳にはいかなくなったのだ。八神の名を出され、それを無視出来るほど、今の京は庵に対して淡泊ではいられなかった。
今朝、京は未明まで庵と共に過ごした。京が彼の部屋から立ち去らなかったためである。だが明け方、京が微睡み始めた頃に庵は部屋を出て行ってしまったらしい。昼になって目覚めた京が部屋主を探したときには、もう庵はチェックアウトを済ませホテルを出た後だった。
捜し出してどうしようというのでもなかったが、何か忘れ物でもしたような後味の悪さが残り、すっきりしない気分だった。
もっと――。
もっと何か話すことがあったような気がする。済んだことではなく未来(さき)のことを。これからどうするのか、それを考える方が、過去を悔やむよりずっと有意義なことである筈なのだから。
「らしくねえな」
思わず声が出ていた。
本当にらしくない。済んだことを嘆くなど、草薙京のすることじゃない。京は自嘲する。
そんな彼の帰郷を、母親の静は少しだけ神妙な面持ちで待っていた。
「お帰りなさい、京」
玄関で、一族の長でもある息子を出迎えると、静は電話では話さなかったことを彼に伝えた。
「大蛇を斃したことで、今後は八神家との関係を改善して行かねばなりません。それをどのように進めていくか、それは京、草薙家当主であるあなた自身が、直接彼らと会って決めることです。いいですね?」
静はそれ以上は何も言わなかった。この件に関しては万事京の一存に託すということで、家中(かちゅう)の意見が一致しているのだろう。現在柴舟が修行と称して家を空けており、京以外に決断を下せる人間がいないという事情もあった。
決断を任された京は、静に対し、解ったと簡潔に応じ、以後それに関する話題は、使者が訪れる元日まで彼らの言の葉に上ることはなかった。
ただ、
――次は、あいつと未来(あした)の話をしよう。
京はそれだけを心に決めていた。
年が明けて一九九八年一月。元旦のその日は、前夜から降り出した粉雪が激しく舞う生憎の空模様で、むろん初日の出を拝むなど絶望的。挙句、陽が高くなる時刻が来ても空に重く立ち込めた暗い雪雲は晴れず、気温が上がらないために溶けない雪の粒が、強い風に飛ばされて乾いたアスファルトの路面上を走る、そんな寒さ厳しい一日になった。風の勢いが弱まったのは、正午も間近になった頃である。
この日、当主の務めを果たすため、珍しく早起きをしていた京は、朝食を摂り終えた頃からそわそわと落ち着かない気分になっていた。
今日のうちに八神家の使者が来る。彼らは何を話しに訪れるのだろう。六六〇年もの永きに渡り草薙に対する憎しみの炎を燃やし続けた一族の考えることは、自分の想像をどれほど超えていることか。
まるで未知の生物との邂逅に備えるような気分で、京は彼らの到着を今か今かと待っていた。
京の意識の中で、庵個人と八神一族とは完全に別個のものとして認識されている。それ故彼は、昨年末、庵と話をしたときのように普通には、使者たちと会談できると思っていなかった。
強風の鎮まった正午過ぎ、ついに家の者から京の元へ使者の到着の報がもたらされた。
京は早速使者の待つ応接の間へと向かう。そして、和室の障子を開けた瞬間、彼はその場で動けなくなってしまった。
蹲るようにしてその部屋の下座にいたのは、京が予想だにしていなかった人物。
「や、がみ⋯⋯?」
そう、それは庵だったのである。しかも、これは一体何の真似なのか⋯⋯。
「顔上げろよ、おい」
平伏、というのだろう、庵のこの姿勢は。
狼狽えた声で京がやめるよう訴えるのに、庵はすぐにはその言葉に従ってくれない。
「よせって。なあ、頼むから⋯⋯」
京の戸惑いをよそに、庵はそのままの姿勢で新年の祝辞を澱みなく述べた。それを終えてからようやく身じろぐ。彼は畳についていた両手を脇に引き寄せるのに合わせて上体を起こし、ゆっくりと面を上げて行く。それでも眼は伏し目がちなまま、視線を畳の上に留(とど)めていた。
――あ⋯⋯。
そこで京は目を見張った。正面で顔を上げた庵の衣装に眼を奪われる。
「初めて見たな、おまえのその正装」
いま庵が身につけているのは、八尺瓊家の正装だった。折れそうに細い三日月の家紋が背と両袖とにあしらわれた、紫に近いくすんだ緋色のその衣装は、京の父である草薙紫舟がKOF参戦時に着用していたものとよく似た形をしている。かくいう京もやはり、無理矢理着せられて、紫舟と同じ衣装に身を包んでいた。ただし室内であるため、足袋は履いていない。
「⋯⋯まさか御当主サマ自らがお出ましとは思わなかったぞ」
気を取り直して軽口を叩いた京だが、しかし庵の方は彼に同調せず、神妙な貌付きを崩さぬまま、
「上座へ」
と、一言そう言った。
「だからさ、俺そういうの嫌なんだって。おまえだって知ってるだろ」
言いながら、京は庵の前へ、殆ど距離を置かずに胡座で座した。
庵の方も最初から諦めていたのか、それ以上無理強いする気配はない。
使者である筈の庵が何も言い出そうとしないので、
「で、何の用なんだ? 話があって来たんだよな、おまえ」
と、京の方が彼に誘い水を向けた。庵は、
「ああ。宗家への新年の挨拶ついでに、な」
そう応える。
平伏こそして見せた彼だったが、流石に言葉遣いまでは変わっていなかった。京は安堵の溜息をつく。これで庵に敬語など遣われた日には、違和感のあまりこの場から裸足で逃げ出したくなっただろう。
このとき、ついでと説明した庵だったが、無論実際には、これからする話こそが今回の訪問のメインである。
「草薙に、八神の処分を決めて貰わねばならん」
庵はそう言った。
「処分、だと⋯⋯?」
不快感を刺激する言葉を聞き咎め、京は思わず目を剥く。
が、庵は、そんな京に構うことなく続ける。
「そうだ。そのために、これから長い話をすることになる。一八〇〇年分の話を」
そう言って、庵がやおら居住まいを正した。背筋をピンと伸ばし、京の顔を真正面に見据える。
「八尺瓊一族は一八〇〇年前から、草薙と八咫の両家を欺いてきた。まずはそのことを告白せねばな」
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