『救済の技法』後編3


 その夜、庵はホテルの部屋でいつまでも眠れずにいた。
 原因ははっきりしている。昼間の出来事がいまだ尾を引いているのだ。
 ――己の身に夏はもう訪れない。
 二度と自分が闘いの舞台に立つことはなく、故に京と拳を交わすこともないのだと、その事実を改めて突き付けられた男の心中は激しく波打った。二度と巡っては来ない季節を想うと胸が灼けて痛んだ。その場にいることにも息苦しさを感じ、それで気付けば昼食会を抜け出してしまっていた。
 ちづるには悪いことをしたと思う。だが、どうしようもなかったのだ。あのまま会場に居続けたら、自分が何をしたか判らない。
 あのときからずっとささくれ立ったままの神経が、いま庵に眠ることを許さないでいる。理由は明白なのに、彼にはそれをどうすることも出来ない。
 日付が変わる時刻になっても眠りは訪れず、明かりを落とした部屋で、庵は着替えもせずベッドの上に横たわっていた。
 そうやってじっとしているだけなのに、庵の体温はいつしかじわじわと熱を上げ始めていた。心の乱れに乗じて膨れ上がっていく氣が吐き出されぬまま躰内に蓄積され、更に凝縮されて温度を上げさせているのだ。とどまることを知らないその熱の上昇に、庵は次第に焦り始めた。
 このままではまずい。どうにかして鎮めなければ。
 庵はベッドからのろのろと起き上がりバスルームへ向かった。
 こうなれば最終手段だ。気持ちを穏やかにして氣を鎮めることが適わないなら、外からの刺激を借りて強制的に熱を下げるしかない。
 衣服を脱ぐのも面倒で、庵はそのままシャワーの下に立つとコックを全開にし冷水を頭から被った。こんな原始的な方法で氣を鎮めなければならないなど、覚醒したての頃ならいざ知らず、炎を完全にコントロールできるようになって以来、彼にとっては初めての失態だ。
 身体の持つ熱が高ければ高い分、シャワーの水を冷たく感じる。あまりの冷たさに歯の根が噛み合わず全身の筋肉も萎縮するが、それでも容易に熱は冷やされない。肌に張りつくシャツの感触を不快に思いながら、それでも庵はじっと堪え降水に打たれ続ける。しかし、深い呼吸をくりかえして早く氣を鎮めようとすればするほど、彼の意識は乱れた。
 どれほどの時間が過ぎたのか、意識の混乱はそのままに氣の放出だけを収め、ようやくシャワーを止めたとき、辺りの静けさを憚る遠慮がちなノックの音がしていることに気付いた。
 こんな時間に誰だ。
 訝しみつつ、庵は濡れて肌に吸いつく衣服を強引に剥ぎ取りながら、急いでバスルームを出る。ドアに近づいてみると、その向こうから男の声が聞こえた。
「八神、俺だ。開けてくれ」
 京だ。
 庵の心臓がドクリとひとつ大きく跳ねた。彼は部屋に備えつけのローブを大急ぎで羽織り、室内の灯りをつけてからドアを押した。平静を装えているか、それだけが気がかりだった。
「大丈夫か? いま、なんかすごい氣が⋯⋯」
 気になって様子を見に来たのだ、と廊下に立っていた京は寝間着姿。その上からダウンジャケットを羽織っている。口からは白い息。
「起こしたのか」
「あ、いや⋯⋯そういう訳じゃねンだけど」
 実は京もまた、深夜であるにも関わらず、この時間まで眠ることが出来ないでいたのだ。昨夜パーティー会場でマチュアとバイスから聞かされた、謎掛けのような言葉がずっと気になっていて、このことをいつ庵本人に問い質そうかとそればかりを考え、まんじりともしていなかったのである。
「済まなかった」
 京にここまで足を運ばせたことに対して謝罪する庵の素直な態度に、
「い、いや、別にそれは⋯⋯構わねえんだけど」
 謝られた当人は少なからず戸惑った。かつてなら決してそこに伴わなかった筈の<感情>が、庵の言葉に宿っていたからだ。
 このとき、庵の立場は実に曖昧なものだった。既に大蛇の血を祓われている以上『八神』として京に接することは出来ず、かといって、まだ京に『八尺瓊』としての己を認められてもいない。因って、京に対し今の自分がどんな態度で臨むべきなのか、庵は図りかねていた。
「大丈夫だ。もう何ともない」
 柔らかな口調で言って、庵はさりげなく京との会話を打ち切ろうとする。その庵の意図に気付いたのかどうか、京はそこで引き下がらなかった。そして、感情(いろ)のない庵の双眸を見据え、尋ねる。
「何があった」
「なにも」
 庵は首を振る。
「何もなくて、あんなことにはならねえだろ」
 庵と同じように炎を操る京には、幼い頃に似たような経験がある。だから、彼を相手に嘘や誤魔化しは通用しない。
「⋯⋯⋯⋯」
 京の追及に俯き、それきり黙ってしまった庵を、京もまた無言で見つめる。しばらく奇妙な沈黙が続いた後、先に口を開いたのは京だった。
「⋯⋯もしかしなくても、おまえ、俺のことずっと避けてた?」
 よく考えてみれば、このホテルへ来てから自分たちが言葉を交わすのはこれが初めてなのである。いま改めて、京はそのことに思い至った。京はずっと庵の存在を意識していたし彼と話をするタイミングを測ってもいたのだが、それを許さなかったのは庵の方なのだ。彼が自らの周囲に漂わせていた張り詰めた空気は、故意か偶然か、しかし、確かに京の接近を阻んでいた。だから、京は珍しくも気後れし、庵の側へ歩み寄ることが出来なかったのだ。京が庵に対して感じている負い目も、その躊躇いに拍車をかけていたのだろう。
 庵が京の言葉に顔を上げた。
「避けてなどいない。ただ⋯⋯、もう関わる必要がなくなった、そう判断しただけだ」
 それが、これまで京と接触しないでいたことに対する、庵からの回答。
 既に大蛇を斃してしまった今、自分が『草薙』・『八咫』とつるむ必要はもうないから、と。そう説明を加えながら、庵は廊下から室内に流れ込んで来る冷えた夜気に、知らず身震いしていた。濡れたままの髪が凍るように冷たい。
 庵の震えに気付いたのか、不意に京が手を伸ばしてきた。自分に向かって伸ばされた男の手の意味に気付けず、庵はあっさりと髪に触れることを許してしまう。ハッとしたときにはもう遅かった。
 京の、
「ふざけやがってッ!」
との一言と共に、庵はむんずと手首を引っ掴まれ、部屋の中へと押し込まれてしまっていた。
 京の背後でドアが閉まる。
「お、い⋯⋯っ」
「いま何月だと思ってんだ!!」
 ――冬だぞ、冬!
 京は庵に抵抗する隙を与えず、両肩を押さえ付けるようにして彼をベッドに座らせると、バスルームへ直行した。
「いくら火熱(ねつ)鎮めたいからってなあ、冬に真水かぶるバカがどこにいるんだよッ」
 いくら鍛えて丈夫な身体だとはいえ、無茶をするにも程がある。
 京は文句を垂れながら、タオルを手にすぐさま戻ってきた。そして、自分でやれると言う庵をさしおき、わしゃわしゃと乱暴な手つきで髪を拭い始める。庵は勢いに呑まれ、されるがままだ。そうやって一通り水分を散らしてから、乱れて絡まりそうな赤い前髪に京は手櫛を入れた。
「こんなもんか」
 京は顎を引いて庵を眺め、ひとり合点し、それから、
「着替えろよ。そんな薄着、見てるこっちまで風邪引きそうだ」
と、言い終わらぬうちに庵のローブに手を掛け、強引にそれを脱がせようとする。
「やめろ!」
 京の行為をやめさせようと激しく抵抗したのが逆効果だった。ローブの袷(あわせ)がはだけ、庵の右肩が露になる。
 瞬間、そこに現れたものに、京は息を呑んだ。
 心臓が、ひとつ大きく脈打ち、鎮まる。
 白い筈の庵の肩に――。
 焼け爛れた、という表現が、おそらく最も見適うその皮膚の状態。
 醜い、疵痕。
 京の体温が一気に冷えた。
 急に動きをとめ、自分の目の前で凍り付いてしまった男の視線の先にあるものが何であるのかに気付き、庵が諦めて息をつく。
「一生、見せるつもりはなかったんだがな⋯⋯」
 言い訳のように呟いて彼は袷を直した。俯くその目が後悔に濡れている。
「やがみ⋯⋯」
 どうして気付かなかったのだろう。ちょっと考えれば解りそうなものなのに。
 けれど、そんな京の感傷を吹き飛ばすように庵は言った。
「そっちこそ、無傷という訳にはいかなかったのだろう? 神楽から聞いただけのことしか俺は知らんが。それと変わらん」
 確かにそのとおりだ。京もやはり、しばらくの間ベッドに縛り付けられ怪我の治療に専念しなくてはならないくらいには、全身に傷を負った。しかし庵の疵は⋯⋯。
「見せろよ、全部」
 京に乞われるまま、庵は着直したばかりのローブから両肩を抜き、彼に背を向けた。
 まるでそれが自分の疵ででもあるかのように、京は痛みを堪える眼差しで庵の背を視る。
 火傷のケロイドは背中の右側に片寄って広がっていた。よく見ると右腕の裏側にまでその範囲は及んでいる。袖のない服は、もう着られないかも知れない。
 あれから四ヶ月――。
 けれど完治したと言ってしまうには、あまりにも生々しい血肉の色。再生された外皮もまだ他の皮膚に比べると薄いのか、下手に触れると破れてしまいそうに脆く見える。
「触っても⋯⋯平気か⋯⋯?」
「ああ」
 不安そうに訊ねる京とは対照的に、庵はやけにあっさりと頷く。おそるおそる、京は手指の腹で柔らかなその皮膚に触れてみた。が、庵はピクリともしない。
「もしかして、解らないのか?」
「ああ。皮膚の神経が一部失われているらしい」
 だから、触られる部分や触り方によっては、触れられていること自体が解らないのだと庵は答えた。だがそれは、彼にとっては些細なこと。神経と共に失ってしまったもうひとつの物の方が、庵にとっては何倍も何十倍も重要な意味を持っていたから。
 庵の背に頭を触れさせて、京は俯いた。
「京?」
 どうしたのだ、と、背後で動きをとめた京に庵が呼びかける。
「気にするな。俺は女じゃないんだ、大したことでもなかろう」
 第一格闘をする身で、疵痕のひとつやふたつ、無い方がおかしい。
「けど⋯⋯」
 ――この疵をつけたのは、俺じゃねえか⋯⋯。
「本人が気にしていないことを他人が気に病んでどうする」
 諭すような穏やかな物言いが、却って京の胸を抉(えぐ)る。優しい言葉こそが凶器だった。
 だが、庵の方には京を責める気など微塵もない。
 生きろと叫ぶこの男の心を知りながら、それでも自らの死を望んだ自分。更には、生き残ってしまった己をさえ、受け容れられずにいる自分。自分は死ねるとさえ思っていたのだから。あの炎を浴びて自分は消えてしまえる、と。そんなことを考えていた不誠実な者に対して、痛めなければならない胸など、この男が持つべきではないのだ。
 庵はそう思う。
 感傷を捨て去り本来の自分を取り戻すまでの時間、庵の背後でじっとしていた京だったが、しばらくしてゆっくりとその背から離れると、ローブを直して庵を振り向かせる。そして唐突に、
「手ェ出せ」
と、言った。
 庵には訳が分からない。
「その氣、吐き出しちまえよ。溜め込んでてもしょうがねえだろ」
 更に言って、京が手を差し出して来る。庵の躰内で燻る膨大な氣を自身の炎に変換し消費してやると彼は言っているのだ。
「なぜ俺のためにそんなことをする」
 京の行動の意図は飲み込んだ庵だが、彼の心境までは理解できない。自分のために、なぜこの男がそんなことをしようと思い立ったのか。
「なんだっていいだろ。だから、とにかく⋯⋯っ、あーっ、もーっ、面倒臭せえ!」
 意味のない音声を羅列して、焦れた京は有無を言わせず庵の手を取った。そして、強引に庵のそれと重ねた自身の手のひらから、凄まじい勢いで紅蓮の炎を吹き出させる。
「――――ッ!!」
 庵はその衝撃に耐えられなかった。座り続けていることもままならず、腕だけを京に預ける恰好でシーツの上へ倒れ込みそうになる。体勢を崩した庵の肩を、京がもう片方の腕で抱き、支えた。そうしている間にも、庵の身体の中からは凄まじい勢いで氣が吐き出されて行く。
 どれほどの時間そうしていたのか、弱まる火力を確認した京がようやく炎を収めたときには、庵を苛んでいた熱の膨張も止んでいた。
 庵が深く吐息をつく。
 力の入っていた男の全身から緊張が消えるのを感じ、筋肉が弛緩するのに合わせて絡めていた手指を解(ほど)くと、京は庵の肩を解放した。支えを失った男の身体はぐったりとベッドの上へ沈み込む。よほど消耗したのか、すぐには口もきけないようだった。
 その庵が、
「礼を、言わねばな」
と、かすれた声を発したのは、乱れていたその呼吸が充分に整ってからのことだ。彼は、自分の意志を確認されぬままに為されたことだとはいえ、助けられたのには違いないと思ったのだろう。
「いらねーよ、礼なんか」
 応える京の方は少々罰が悪い。庵から蒼紫の炎を奪ってしまったのは自分なのだ。彼からあの炎が失われていなければ、こんな事態そのものが起きていない。だから、彼に礼を言われるのは筋違いだと思う。彼には恨まれこそすれ、感謝など。
「だがな、京」
と、庵はベッドから起き上がり、額に滲んだ汗をローブの袖で無造作に拭う。
「おまえがこんな真似をしなくても⋯⋯」
 そう言いながら、京の眼前へ、いきなり右の拳を突きつけたかと思うと、
「⋯⋯っ」
 京は瞠目し、知らず息を呑んでいた。突き出された庵の拳から淡くユラユラと立ちのぼったのは、紅い陽炎(かげろう)。
「俺は、発火能力までを失った訳ではないからな」
 だから、本来は京の手を借りなくても、過剰な氣の処理くらい自分で出来るのだ、と庵は主張したいらしい。
 このとき、庵は京のことを『おまえ』と言った。それは、これまでは決して京本人に聞こえる場面では口にしなかった呼称だ。それまでずっと憎む振りで口にしてきた『貴様』という二人称が、庵にはもう、意識することなしには遣えなかったのである。
 ――初めて見る⋯⋯。
 そんな庵の言動の些細な変化には気付けず、京は庵の手のひらの上で踊る紅い炎に目を奪われていた。これは『八尺瓊』の炎。
 紅く柔らかな揺らめきに誘われるように、京は恐る恐る手を伸ばす。身に覚えのある、灼かれる痛みを想像した彼の予想を裏切って、京が触れた庵の炎は彼を傷つけたりはしなかった。色は京の持つそれと同じなのに、庵のそれは温度が低く勢いも弱い。言い換えれば、暖かくて柔らかい。
 なぜか郷愁に似た気分を掻き立てられた。
 その、胸の奥をあたたかくする懐かしさの原因を確かめたいとでもいうように、京は庵の炎に手を重ねてみる。庵は拒まず、大人しくそれを受け容れた。京の指に絡まり手のひらを擽(くすぐ)るその炎の動きは、まるで心地いい愛撫のようだ。
「⋯⋯もっと熱いのかと思った⋯⋯」
「正確には炎ではないのかも知れんな」
 仕組の違いなど調べようもないが、と言いながら、庵が炎を収めた。それを潮に京も名残惜しく手を離す。
「でもよ、今のがおまえの炎なんだったら、余計⋯⋯」
 前(さき)のような攻撃的な氣は必要ない筈だった。あれだけの熱量を抱え続けることも、それを急激に放出することも、庵の身体には負荷になるだけだ。
「とにかく⋯⋯気は済んだだろう? もう部屋に戻れ」
 京を部屋から退出させようとする庵の言葉に、けれど男は従わなかった。
「話がある」
 だからまだここにいる。そう言った京を、庵は無下に追い出すことが出来ない。考えてみれば、庵にも京に言わなければならないことがあるのだが、今夜のような雰囲気の中でそれを口にすることはできそうになかった。第一こんな動揺を抱えたままでは、冷静な対話にならないだろう。
 庵は黙って男からの言葉を待った。
「昼食会のときにさ」
 京がそう話を切り出す。
「女の子たちから聞いたぜ。おまえ、女に生まれたいって、そう言ったらしいな」
 庵はその仮定(たとえ)話をしたときの状況を思い出し、頷いた。そういえば、朝、女性陣とそんな話をした。
「なんで女なわけ」
「それくらい今と違えば、なにかと楽しめそうだと思ってな」
 京に問われた庵は心にもない理由を述べる。だが、彼の本音を見透かしたように、
「俺はまたてっきり、『あのとき』に戻って俺に殺されたい、そう言ったんだろうって思ったんだけど? おまえ、あんなに死にたがってたもんな」
 厭味ではなく。京は思ったままを口にした。
「そうか、そんな選択もできたか⋯⋯」
 庵の返した言葉に、京が眉をひそめる。
「八神、おまえまだそんなこと考えてんのか」
「そんなこと、とは?」
「死ぬってことだよ」
「どうなのだろうな⋯⋯」
 庵は曖昧に答え、こう続けた。
「だが、もうおまえを巻き込んだりはしない。おまえに殺して欲しいなどとも言わん。安心しろ」
 手首を切ってでも薬を呷ってでも、どんな方法ででも死ぬことはできるのだ、医学的には。生物学的にヒトでなかった彼の肉体はヒトになった。
 が、庵がそれを口にした途端、
「八神!」
 京の咎めるような目線が真っ向から注がれる。それを更に真っ向で受け止め、男はひとの悪い笑みを造って見せた。
「本気にしたか?」
「⋯⋯!」
「冗談だ。⋯⋯考えてもみろ、俺には死ぬ必要も、死ななければならん理由も、もうどこにもないんだ。俺のことを心配するなど、らしくないぞ、京」
 そうなのだ。大蛇が斃され、その血が躰内から祓われてしまった以上、積極的に死を望まなければならぬ理由が庵にはもうない。だが、その一方で、生きなければならないという理由までもが、彼にとっては積極的なものではなかった。それが今の彼の唯一最大のジレンマ。
「俺には『八尺瓊』としての人生がある。いまさら死を望んでどうする」
 京に向かって口にするこの言葉を、一刻も早く本心からの気持ちにしてしまいたい。庵はそれを強く願っていた。だがその願いを叶えるのが困難であることも庵にはよく解っていた。
「⋯⋯俺は、おまえに恨まれてるだろうと思ってたよ」
 急に声のトーンを落とし、京が言った。
「なぜだ、なぜ俺がおまえを恨まねばならん」
 京もちづるも、なぜ自分に向かって同じようなことを言うのだろう。
 怪訝な貌をする庵に、
「だってよ⋯⋯、おまえ、もう闘えないんだろ?」
 京は僅かに口籠もりながら応える。
 ――俺があの炎を失くさせちまったから。
 自責の想いを抱えている京に、しかし庵は、確かな口調でこう言った。
「暴力は嫌いだと、俺はずっと言ってきた筈だぞ? 俺は闘いたくて闘っていた訳ではない。ただ、おまえをその気にさせるためだけに、闘っていたんだ」
 それに、と庵は続け、
「俺は本来あるべき姿に戻っただけだ。なのに、なぜおまえを恨みに思わねばならん?」
 京が俯く。
「第一あのとき、」
と、大蛇と対峙した瞬間のことを指し、庵はこう言った。
「あれ以外の手を打てたとでも言うつもりか?」
 瞬時に下さなければならなかった判断と、それに続く咄嗟の行動と。あれが精一杯だった筈だ。
「京、自惚れるのもいい加減にしておけ。自信過剰も結構だが、度を過ぎると鼻につく」
 ひとを小馬鹿にしたような庵の言葉。それに弾かれたように京の顔が上がった。だが、京の発そうとする言葉を待たず、庵は追い打ちをかける。
「おまえが俺の炎を奪った、だと? 冗談だろう。これは俺が選んだことの結末なんだ。おまえの所為などである筈がない」
 庵がそう言い切った直後、その面(おもて)に瞬時に怒りを閃かせ、
「俺はなあっ」
 噛みつくような勢いで京が叫んだ。
「おまえと⋯⋯っ」
 吹き出す激情が男の喉を詰まらせる。
「闘いたかったんだよ!!」
 ――だから。蒼紫の炎の喪失が、痛い。
 しかし、そんな京の感情を置き去りにして、庵はにべもなく言い放った。
「忘れてしまえ。おまえの知る八神庵などという男は、最初からどこにもいなかった。⋯⋯そう思うことだ」
 ――かつてあんなにも、家柄や血筋といった古い因習を否定して来た、京、
「おまえになら出来るだろう?」
 そうして、一八〇〇年前からこんにちに至るまで、三家の関係は何事もなく良好なままに続いていたのだと思えばいい。本来、闘うことのできる『八尺瓊』などというものは、在ってはならない存在なのだから。
「そんな、簡単に割り切れるかよ!」
 望むままにそれが出来るというのなら、とっくにそうしている。
「関係ないと、そう言っていた、あれは嘘か?」
「ウソじゃねえ。ウソじゃねえけど、あれは⋯⋯」
 八神当主としての庵や草薙当主としての自分、そしてそれらと密接に繋がる大蛇や大蛇一族というものに対しての否定であって、庵という一個人との関わりを否定した覚えは、京にはなかった。
「嘘でないのなら、そういうことにしておくんだな。これ以上俺に何を期待しても無駄だぞ」
 どんなにそれを望まれようと、庵にはもう京と闘うことは出来ないのだ。そうしたいと、例え庵自身が願ったとしても、それだけは決して叶わない。ならば、忘れて貰うよりほか無いではないか。京の知る、闘うことのできた八神庵という男の存在は。
 京の視線が庵の顔を離れた。俯いて視線を床に落とした彼は、そのまま苦しげな表情で目を伏せる。
「忘れろ、って」
 咽ぶように喉に絡まった小さな声。
「あれは、そういう意味だったのか⋯⋯」
 京がずっと真意を測り兼ねていた、大蛇の女たちが伝えに来たあの言葉。それは、かつて確かにそこにいた筈の男のことを忘れてしまえ、と。そういう意味だったのだ。
 ――そんなこと、できるかよ⋯⋯。
「代わりを見つけろ」
 その言葉に再び京の顔は庵へと返る。
「代わり、だと⋯⋯?」
 恫喝するような低い声。しかし、
「代役はどこにでもいるだろう?」
 庵は淡々と言い放った。自分が死ぬためには草薙という存在が必要不可欠だった。だが、京にとっての自分は、特別な存在では有り得ない。だからきっとどこかに、京にとっての、かつての八神庵に相当する人間は居る筈なのだ。
 逆もまた真なり――。
『草薙』と『八神』。この両家に於いて、その公式は成り立たない。
「おまえは強い奴を相手に闘いたいのだろう?」
「ああ」
 その通りだ。京はいつだってそう言って来た。しかし、続く庵の、
「おまえの眼鏡に適う人間ならば、この世にごまんといる筈だ」
という言葉には、素直に頷くことが出来なかった。
 ただ強いだけの相手なら、庵の言うように何人でもいることだろう。だが、庵でなければ駄目なのだ、と京は漠然とそれを意識していた。その理由を、彼は頭では理解していない。けれど、確かに彼の肉体はそれを感じていた。満たされない、と。庵以外の他の誰にも、この乾きを癒すことは出来ないのだ、と。飢えた心が訴える。
 不意に庵は、右鎖骨付近に軽い衝撃を感じた。驚いて見遣れば、京が額を押し付けるようにして、凭れ掛かって来ていた。
「どうした、京?」
「⋯⋯悔しいんだよ」
「悔しい?」
 京は面を上げぬまま語り始めた。
「大蛇ってヤツにさ、振り回されるだけ振り回されて、俺、ムカついてたんだ。で、それを斃してやってよ、ざまァみろって思った。これで面倒なことは何もかも無くなるんだ、ってな」
 それなのに。
 京は力無く笑う。俯いているため、その表情が庵には見えない。
「確かに大蛇には勝った。斃してやったんだ。俺がこの手で、な」
 ベッドの上に遊ぶ京の右腕が、その先で拳を握る。
「⋯⋯俺は勝った。なのに⋯⋯」
 自分は何を得たというのだろう。むしろ失った物しかないような気がする。しかもそれは、二度と取り戻せない物なのだ。永久に、この手の中には返って来ない。今この拳の中には何もない⋯⋯。
「してやられたも同じじゃねえか」
 京は唇を噛んだ。勝利がこんなにも自分を虚しい気分にさせたことなど、過去に一度でもあっただろうか。
「なあ、八神」
 京は庵から離れ、顔を上げる。彼は大蛇と対峙した、そのときのことを思い起こしていた。
「あのときもやっぱり⋯⋯、最後まで、おまえは死にたいと思ってたのか」
 自分の顔を見つめて問うて来る京に、庵はただ凪いだ眼を向けている。そこからは名のある感情が読み取れない。
 そういえばあのとき――大蛇に最後の一撃を加える直前――京の意識に語りかけてきた者がいた。その声は彼に向かってこう言った。
『庵ト共ニオロチヲ倒セ⋯⋯』
 ――イオリトトモニ。
 その言葉を、あのときの京は咄嗟にこう解釈した。庵と一緒に闘って大蛇を斃せ。そう言っているのだと。だが、もしかしたらあの声は、庵もろとも大蛇を斃せ、と。そう言いたかったのだろうか。あのとき、その身を以て大蛇の動きを封じていた庵には、京の拳を避けることなど不可能だった。だから、庵の命には構わず、大蛇に草薙の真拳をぶつけろ、と。
 ――それが、八尺瓊一族の願いだ、と⋯⋯?
 声の主は、八尺瓊一族。
「俺の眼には⋯⋯」
 その一瞬に。振り向いた庵の横顔を、京は今でも鮮明に思い出すことが出来た。あのときの庵の表情は、生きたがっているように見えたのだ。自らの死を哀しんでいるように見えた。でもそれは、自分ひとりの思い込みだったという訳か。あれは京自身がそう思いたかった、願望の錯覚――。
「おまえには何もかも判ってたんだな。だから、あんなに死にたがってたんだな」
 その言葉が返答を求めるものでないと気付いているのだろう庵は、押し黙ったまま京の声を聞いている。
 迷路に迷い込み、出口を見つけられず入口も見失ったような男たちの元に、まだ夜明けの足音は聞こえて来ない。
 京はその視線を暗く沈んだ窓の外に投げ、呻くように言った。
「もしあのとき、おまえを死なせちまってたら、俺だって⋯⋯」
 忘れることはできなくても、きっと、諦めることはできただろうと思う。
 京は再び俯き目蓋を伏せる。
「なあ、八神。俺はおまえを⋯⋯、死なせてやれば良かったのか⋯⋯?」
 明けることを知らぬと言いたげに、深い夜はその腕(かいな)に黒い闇を抱き続けていた。





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