『救済の技法』後編2


 年の暮れ、某ホテルのパーティー会場へはそれぞれに精一杯の正装をした関係者たちがぞくぞくと集まって来ていた。京も、紅丸に見立ててもらった白いスーツに身をつつみ出席している。
 堅苦しい挨拶などは一切なく、冒頭、集まってくれたことに対してちづるから感謝の言葉が述べられただけで、すぐに宴(うたげ)は無礼講となった。
 慣れないスーツを着た京が、紅丸や大門といった旧知の人間に囲まれて和んでいる様子を、遠くから眺めるひとりの男の姿がある。それは、このパーティーにおける陰の主賓のひとりでもある庵だった。庵は、薄い紫色の地に濃い紫のストライプが入ったスーツを着て、定刻通りに会場へ姿を現した。彼には、京に話さなければならないと思っていることがあるのだが、いつどうやって彼に切り出すか、それを決めかね、京に近づくことも出来ずにいる。
 そんなとき、庵の背後から太い声が掛かった。
「よお」
 庵は反射的に振り返る。
「生きてやがったとはな」
 声の主は七枷社だった。白のタキシードに濃紺の蝶ネクタイ、カマーバンドを着けた盛装姿で、男は庵の前へと歩み寄る。
「タフな野郎だぜ、まったく」
「それはこっちの台詞だろう」
 社は肉体と精神とを分けるなどという人間離れしたことをやってのけ、97年大会を散々掻き回してくれた者のひとりなのだから。
「大体どのツラ下げてこんなところに出て来られるんだ、貴様は」
 ほかの連中にしてもそうだ。まるで何事もなかったかのような貌でこの場にのこのこ現れ、雁首を揃えていられる神経が庵には知れない。
「八咫の女に言ってくれよ。招待状送ってきたの、あの女なんだからさ」
 社の言い分にも一理ある。
「まったく、何考えてるんだか読めねえ女だよな、神楽ってのは」
 確かに、ちづるは一風変わった思考回路の持ち主であるようだ。考え方がどうも浮世離れしている。
「ま、おまえらが大蛇斃してくれちまったからよ、俺たちが今更どうこう騒いだって、大したことじゃねえんだろうけど?」
 それを見越して彼らにまで招待状を送ったというのか、ともかく社だけでなく、マチュアやバイスといった綺麗どころも顔を揃えているのは確かだ。しかし、生き残った者全員が出席している訳でもない。
「女はいるようだが、ガキはどうした」
 自作とおぼしき衣装でドレスアップしたシェルミーの姿態は、この華やかな会場内にあっても一際目立つためすぐに庵の目に飛び込んできたのだが、いくら探してもクリスの姿は見つからないのだ。
「年齢制限でもあったか?」
「笑えねえな」
 そう言ってから、
「さすがにあいつは無傷って訳にもいかなくてよ。ここに顔出せるまでには回復してないってゆーか」
と、軽い口調ながら真面目に説明する社に、
「大丈夫なのか?」
 思わず庵は重ねて尋ねていた。
「まあな。なんつーの、大蛇復活に利用されたのはあいつの精神体だからよ、あの姿で負った傷は元のひとつの身体に戻った時点でかなり治っちまうモンらしい」
「では致命傷にはならずに済んだのだな?」
「ま、そーゆーコトだ。⋯⋯なに、おまえ心配してくれてたのかよ?」
 庵の念の押しようが気になったのか、社はからかう口ぶりだ。
「一応な」
 彼に怪我を負わせたのは自分たちなのだし。
「おまえも大概解んねえヤツだなあ。神楽(ひと)のこととやかく言えねえぞ」
「貴様には言われたくない」
 庵にしてみれば、クリスという一個人に恨みがあった訳ではない、と言って片付けたいところだ。
「けどよ、おまえらだって、ケガやら何やらけっこう色々あったんじゃねえの?」
「ああ。あいつは、」
と、庵は京のいる方へ顎をしゃくって見せ、
「右腕を派手に骨折していたらしいな。後はお定まりの全身打撲だ」
「おまえは?」
「大火傷。背中いちめん焼け爛れているぞ」
 見たいか? と、ひとの悪い笑みを造ってみせた庵に、社は顰めっ面で上体を引く。
「悪趣味ーっ」
「冗談だ。⋯⋯アレは気持ちのいいものじゃない」
 ――自分で見ても。
 そう言い加えた庵を、不意に真顔になった社が眺める。が、すぐにチャラけた表情に戻ってこんなことを言った。
「もったいないな。その背中にそんな傷ができちまったなんてよ」
「女じゃないんだ、どうということもなかろう。第一俺は裸身(からだ)を人前に晒さねばならんような商売はしていない」
 格闘をしていたという点で肉体を資本にしていたことにはなるのだろうが、かといってそれで喰ってきた訳でもない。
 だが、社は、
「男だからとか女だからとか、そういう問題じゃねえんだよ。もったいないモンはもったいないんだって」
 そう言って譲らない。
「解らんな」
「ま、自分(てめえ)のことだし⋯⋯そんなもんか。けど、うん、やっぱ勿体ねえよ」
 それに、と続けて、彼はどこまでが本気か判らないことを口にした。
「女が見たら泣くぜ? 怖がって」
「ハッ、知ったことか」
 そんなふうに言われても庵には苦笑するしか出来ない。
 会話が下世話な路線へ移行し始めたところへ、
「なあにぃ、男ふたりでダベっちゃってぇ」
 女の猫撫で声がふたりのあいだに割りこんだ。
「こんなイイ女放ったらかしにして男といちゃいちゃしてるなんてヒドイじゃないの」
 いつの間にか猫のように音もなく近づいて来ていたシェルミーが、徒(あだ)な仕種で社の肩にしなだれかかる。背中のぱっくり開いたドレス姿が艶めかしい。
「行きましょう、リーダー♡」
 甘えた声で囁く女の細い腰にしっかりと長い腕を回し、社は、
「じゃあな」
と、もう片方の手を軽く挙げて庵に背を向けた。
 庵が息をつく間もなく、去って行く男女と入れ替わりで今度は女ふたりが彼の両脇に立つ。
「お話は終わったようだけど、ここ、お邪魔してもいいかしら?」
 庵の顔を覗き込みながら、わざと他人行儀な言葉遣いで声を掛けてきたのはマチュアだ。
「少し話があるんだ。構わんだろう?」
と、我を通すのはバイス。この、対照的な外見と性格とを持つ大蛇一族の女たちは、しかし、庵個人に興味があるという点では意見が合致していた。大蛇八傑集の一員として八神家当主である庵を監視しようとしたのではなく、ただ庵という人間に惹かれて側にいただけだと、かつてゲーニッツに向かってそう告げた挙句、その言葉どおりの行動を取ってみせもした。
「俺はてっきり、おまえらが報復しにくると思っていたのだがな」
 また理解に苦しむ連中が現れた、と内心面倒に思いながら、庵は彼女らに言う。庵の言(げん)は、96年大会の終了後、彼女たちを半殺しの目に遭わせたことを指している。
 しかし、女たちは事も無げだ。
「あれは一種の事故だろう」
「血の暴走⋯⋯、あなたの意志ではなかったのだもの。恨みに思ったりなどしていないわ」
 彼女たちは大蛇一族八傑集の中でも頭抜けて自分の欲望に忠実な性格をしているようで、大蛇が斃された今は、ひとりの人間として、またひとりの女として、その人生を最大限楽しんで生きる途を迷うことなく選んだらしい。
「で、話というのは何だ」
「おまえ、私たちと同じ匂いがしなくなったな」
 言いながらバイスが庵の首筋へ鼻を近づけ、わざとらしくクンと匂いを嗅ぐ仕種をしてみせた。
「今年の大会の後、あなたの中にあったアレも祓われてしまったの?」
 庵の喉元から目を上げないまま、艶のある笑みを浮かべたマチュアが、ついと男の顎に指を這わせる。長く伸ばした爪に真っ赤なマニキュアが鮮やかだ。
「⋯⋯知っているくせに」
 庵は女の手を邪険に振り払う。
「確認しておいても悪くはないじゃない?」
 怯むこともなく、何かを見透かそうとするようにじっと見上げてくるアイスブルー。庵は眼を閉じることで、彼女の追及を躱す。
「もう興味も無くしたろう?」
 庵の言葉に大蛇の女たちは哄笑(わら)った。
「言った筈よ? あなた個人に興味があるって。あなたの中に大蛇の血が流れているかどうかなんて、最初っから問題じゃなかったわ」
 そう言ってマチュアは再び庵の顎を取り、それから手のひらで包み込むようにして、ゆっくりと頬をひと撫でした。
 美女ふたりに囲まれる男ひとり。遠目には、彼ら三人、親密な雰囲気を醸し出して見えるのかもしれない。
「あなたにとって、大蛇の血はそんなに大切なものだったの? 今までのことなんて忘れて、これからはただの人間(ひと)として、楽しく生きて行けばいいじゃない」
「そうだな」
 気のない庵の返答を聞くや否や、
「心にもないことを口にするのだな」
 バイスが紅い唇を歪めた。
「魂(こころ)ここに在らず、ね」
 追い打ちをかけるようにマチュアも絡む。
 狂気のような、凶器のような想いを捨てて、抜け殻のようになってしまっている男の心。女たちにはそれがはっきりと見えている。
「それでおまえは生きて行けるのか?」
 それは断罪のように。バイスの指摘は庵の胸に痛かった。






 庵を解放し、マチュアとバイスのふたりが次に声を掛けに行った相手は、
「お久しぶりね、草薙の坊や」
 草薙京、その人だった。
「おまえら⋯⋯。生きてたんだな。今年は出て来なかったからよ、俺はてっきり死んでんだとばっか思ってたぜ?」
 京らしい不謹慎な挨拶だ。
「相変わらず口が悪いのね」
 怒るでもなくマチュアはそう言って、いきなり、
「八神庵から、伝言よ」
と、口調を変えて続けた。その後を継ぐ形で、
「『俺のことは忘れろ』」
 バイスが庵の声色を真似る。
「忘れろ⋯⋯?」
 意外な言葉を聞かされて、京は瞬き、驚きの表情をみせる。
「ええ。あなたにそう伝えてくれって」
 京の側でこの会話を聞いていた紅丸は、反射的に庵の姿を探して広いホールを見渡していた。目当ての男はひとり、ホールの隅の柱の陰に隠れるようにしてひっそりと佇んでいる。紅丸は尚も会話には参加せず、しかし女たちの言葉には耳を欹(そばだ)てた。
「可哀想よねえ」
と、マチュアが言った。
「あんなに死にたがっていたのにな」
とは、バイス。
「あなたのために、ね。⋯⋯なのに死に損なって。可哀想だわ」
「ちょ⋯⋯っ、待てよ、なんだよ。なんの話なんだ?」
 ――俺のため?
 彼女たちの発言が腑に落ちず、京は怪訝な貌をする。それを見たバイスが、相棒に目線で合図を送った。その視線を受け、マチュアが京に向き直る。
「草薙京。あなた、自分がなにをしたのか解ってる?」
 こんな脈絡のない問いかけに、どうすれば答えを返せるというのか。
 京は呆れ果てて首を振る。
「カンベンしてくれよ、あんた言語障害おこしてんのか」
「これ以上は言えないわ。でも、黙って見てもいられないのよ」
「おいおい、言葉じゃなくて頭の方がイカれてんの?」
 京は自らの片顳(こめかみ)に指を突き立てて眉を顰める。
「だって彼に嫌われたくないんですもの。しゃべりすぎたら怒られるわ」
 そう言って艶のある紅い唇が訳有りな笑みを見せた。口調は軽いままに、これが最大のヒントよ、とアイスブルーの瞳は真剣に囁いている。だが、次の瞬間には、
「本当に報われないったら! 相手はこんなに鈍感なんだもの。同情しちゃう」
 おなじ瞳に揶揄の表情(いろ)を乗せて、女は笑っていた。
 京には話が一向に見えてこない。
 しかし、そんな京を置き去りに、女たちは勝手にふたりで討論し始めた。
「永遠の片想い、ってトコロかしら」
「そんな生易しいもんじゃないさ」
「あら、バイス。そんなことはないわよ。恋が生易しいだなんて!」
 心底憤慨したという口調と表情とで、マチュアがバイスに喰ってかかる。
「あー解った解った。それについてはまた、ふたりきりのときにでも議論しよう」
 マチュアの抗議を両手で制し、次いで人差し指を京に向け、バイスはこう続ける。
「今はこの馬鹿に話をしているところだ」
「そうだったわね」
 マチュアは相棒に同調し、再び京に向き直った。そして、
「忘れないことね、自分のしたこと⋯⋯、いえ、<しなかったこと>が、彼をどれだけ追い詰めているか」
と、脱線しかけた話題を主軸に戻し、無責任とも思える台詞を投げかける。
「⋯⋯っ、だからッ、なんの話なんだよ!?」
 京の憤慨は尤もだ。気を持たせるだけ持たせて焦点をぼかしたままのこんな物言いでは、京でなくとも理解できまい。
「そんなんで解るかっての!」
 業を煮やし、京は噛みつかんばかりの勢いで吐き捨てる。
 それでも女は動じず、
「自分で考えてごらんなさいな」
 そう、突き放すようなことを言った。更にそこへバイスの痛い突っ込みが入る。
「いや、考えさせるだけ無駄かも知れんぞ、マチュア。この男、ハイスクールを何回卒業し損ねていると思う?」
「それとこれとは話が別よ。ああ⋯⋯でもそうねえ、男に第六感なんて無いかしらね」
 細く長い、綺麗な指を顎に当て、マチュアはわざとらしく小首を傾げる仕種をする。
「だと思うぞ」
と、バイスの相槌。
 直後、京が叫んだ。
「さっきから大人しく聞いてりゃ、言いたい放題言いやがって! おまえらいい加減にしやがれッ!!」
 自分の目の前で、自分を無視した、そのくせ自分を肴にする会話を繰り広げられて京はついに切れた。自慢ではないが彼の堪忍袋の緒は脆弱だ。
「解るように話せよ!」
 ひとを虚仮(コケ)にするだけ虚仮にして、一体この女たちは何様なのだ。
 苦虫を噛み潰したような京の表情を見、女たちはひどく哀しそうな貌をした。
「わたしたちは彼の味方なの」
「だから放って置けなくてな」
「つい、お節介をしたくなるのよ」
 ここのくだりで紅丸が再びホール内を見回した。が、予想したとおり庵の姿はもうどこにも見当たらなかった。おそらく部屋にでも戻ってしまったものだろう。その間も京たち三人の話は続いている。
「⋯⋯俺にどうしろって?」
 口調は穏やかだが、恫喝するように低く響く声で言い、京は女たちの顔を睨め付けた。しかし、ふたりとも解答を教えてはくれず、ただ静かに首を振る。
「本当に報われないわよねえ。あなたでなければ駄目だなんて」
「挙句、おまえだからこそ駄目なのだからな」
 再び同じような台詞を口にしながら、その声音は先程とは打って変わり、じわりと心にまで染みるような響きを持っていた。それを敏感に感じ取ってしまったせいで、京は不覚にも追求の糸口を見失う。
 そして、去り際にバイスが言い残した、
「どちらのエゴが上手(うわて)なんだろうな?」
という謎掛けのような台詞は、京の心にいつまでも広がり続ける波紋を生んだ。






 翌朝、ホテル内のレストランで朝食を摂った女性陣の一団が、部屋へは戻らずロビーに集まり賑やかなお喋りに興じていた。そこへ、やはりレストランでの朝食を摂り終えた庵が通りかかる。
「あ、そうだ、八神さんにも訊いてみましょうよ」
 女性たちの輪に向かってそう提案してから、
「八神さん」
 物怖じしない麻宮アテナが男を呼びとめた。
「今わたしたち、『過去のある瞬間に戻って何かをやり直すことができるなら、どの時点に戻って何をしたいか』っていう話をしてたところなんですけど⋯⋯」
と、状況を説明し、続けてこう尋ねる。
「八神さんだったらどうします? 因にわたしは、超能力に目覚める前に戻って、普通の女の子のままいられるような方法を探してみたいなって思うんですけど」
「もちろん、今のまんまっていう答えもアリだからね」
 そう補足したのは不知火舞だ。どうやら彼女の望みがそうであるらしい。
「⋯⋯⋯⋯」
 庵は立ち止まって考え込んだ。
「そんな、真剣に悩まなくてもいいんだぞ、ヤガミ」
 苦笑したキングが思わずそう声を掛けてしまったほど、長い時間を思考に費やしてから、
「生まれる前に戻る、というのも構わないのか」
と、庵は一同の顔を見回した。それを受けたアテナの、
「別にそんな厳密に条件をつけてた訳じゃないですから⋯⋯」
という言葉を聞き、それなら、と庵はこう答える。
「性別が決まる前の段階に戻って、女に生まれて来るというのがいい」
 その返答を聞くや否や、えー、とか、うわー、とか、何人もの口から奇声とも歓声ともつかない声が上がった。
「なんでなんで?」
 興味津々といった態度も露に椅子から身を乗り出し、皆を代弁する形で訊いてくるユリ・サカザキに、
「今とは全く違う方が、何かと面白い人生になりそうだからな」
 庵はそう理由を述べる。そして、ニヤリと笑い、
「ただし、おまえらのような騒がしいだけの女にはなりたくないが」
と、言い添えた。
 その余計な一言に、
「なんですってーっ!?」
「ひどいっチ!!」
 憤慨した舞とユリがそれぞれ声を上げる。
 しかし、庵はその非難の合唱に背を向けさっさと歩き出してしまっていた。
 背後では、ふたりを宥めるキングの声がしている。
 騒がしいだけの、という形容はむろん冗談だ。彼女たちは皆、KOFの招待状を受け取るだけの人並外れた格闘技術を身につけているのだから。
 ――過去のある瞬間に戻って、人生をやり直すことができたら。
 庵はひとり嗤った。
 ――無駄だ。
 例えどの瞬間に戻ってどう肢(みち)を選択し直したところで、自分は何も変わるまい。きっと、今あるのと同じ自分がここにいることだろう。こんな苦しい人生を二度も送るくらいなら、いっそ生まれて来ないというのが一番だ。自分を孕む母諸共、この世から消し去ってしまえたら――。
 それが一番の幸福である筈だ。
 そして、もしもそう出来ていたなら、自分はこんなところで死に迷わずに済んでいる。
 庵はいま完全に生きる理由を見失っていた。
 なにが自分を認めてくれたら、自分は自己を確立できるのか。誰がこの存在を許してくれたら、自分はこの世界に生きていられるのか。
 その身から大蛇の血が失われたことを悟ったとき、庵は同時に己の存在理由をも見失った。一族にとっても、特異性を失くした彼は、もう唯一無二の存在ではなくなっている。庵と同等の濃さの血を受け継ぐ人間ならば、もうひとりいるからだ。そして、庵を死なせることだけを考えて20余年の時を過ごした彼らもまた、庵と同様に戸惑っていた。彼らは、庵を生かすすべなど知らないのである。
 死ぬためだけに生きていた。それなのに、いま自分は生きている。死ぬためには生きられないのだとしたら。それでも生きて行かなければならないのだとしたら。
 生きて行く理由は?
 その意味は?
 庵には解らない。
 死ねると思っていた。それだけを望んでいた。なのに自分は生きている。生きてしまっている――。
 生きる目的を見失ったまま尚、拷問のように生かされ続けている今の自分は、一体何者なのだろう。
 それでも漠然とではあるが、これからの自分が八尺瓊当主として生きて行くのだろうこと、それだけは庵も承知しているつもりだった。
 けれど。
 頭では理解していても気持ちは簡単にそれを裏切るのだ。死んでしまえと声がする。死ねば楽になれると誘いをかける。
 そのとき、廊下を歩いて行く男の目に、晴れ渡る青空に溶けるように浮かぶ、白い月の姿が飛び込んできた。庵はつと窓際で足を止める。そして、その月を見上げた。
「どうして俺を連れて逝かなかった⋯⋯?」
 思わず口をついて出た恨み言。
 ――連れて逝け、と言ったのに⋯⋯。
 庵は苦しそうに眉根を寄せ、目蓋をふせる。
 ――俺はおまえを⋯⋯。
 恨んでしまいそうだ。






 二日目のその日は、昨夜パーティーを催したのと同じホールを使い、正午から立食形式の昼食会が開かれた。その昼食会が始まってすぐ、ちづるの周囲で来年のKOFについての話題が飛び出す。スポンサーのついた直近(ここ)二年の大会は、どちらも公にできない物騒な事件が起こった末に閉幕となっている。そのため、もうスポンサーがつかなくなるのではないか、というのが世間ではもっぱらの噂だったのだ。
「スポンサーが一コもつかへんようやったら、やっぱ開催はキビシイん?」
 椎拳崇の素朴な疑問がちづるに向けられる。
「って言うか、その前に、大会を開催する気自体、あるの?」
 そう尋ねたのは舞だ。自然、会場中の注目がちづるに集まる。
「ええ。勿論ありますとも。皆さんからのご要望があるのなら、来年も、わたくしが責任をもって主催させて頂きますよ」
 ちづるは気負うことなくニッコリと微笑む。次こそは、皆がただ純粋に格闘技界の頂点を目指して闘う、そんな大会作りをしたい。そうすることが出来てこそ、過去二度の大会で知らぬ間に被らせてしまった多大な迷惑を、皆に許してもらえるのではないだろうか。
 ちづるの返答を聞いて、皆一様に安心した貌になった。
「来年こそは優勝頂きや!」
「残念でした。来年の優勝はあたしたちよーだ」
 途端に賑やかになった場の雰囲気に紛れ、庵がさりげなくホールから抜け出した。
「八神、どこへ行くのですか」
 昼食会のセッティングされた広間を出たところで、ちづるが彼に追いついてくる。
「部屋に戻るだけだ。心配するな」
「まだ昼食会の途中なのよ」
 咎めるような視線を向ける女に庵は苦笑を返し、
「皆には気分が悪くなったとでも言っておけ」
 そう言って踵を返そうとする。その背へ、
「⋯⋯ごめんなさい」
と、蚊の鳴くような小ささで、ちづるから声が掛かった。
 謝罪という予想外の言葉を耳聡く聞き取った庵は、思わず足を止めてしまう。振り向いた男の視線の先で、女は俯いていた。
「なぜおまえが謝る?」
「あなたにはまだ辛い話を⋯⋯」
 ちづるは口籠もる。次回KOF開催の話題が庵に席を立たせたのだと彼女には解っていた。庵はもうKOFには出られないのだ。
「気にするな」
 応じた庵の口調は飽くまで穏やかだった。そもそも、それが話題に上ったこと自体が彼女の責任ではない。
「後悔⋯⋯」
「していない」
 庵の顔を見上げ、後悔しているのかどうか尋ねようとしたのであろうちづるの言葉尻を攫(さら)って、男はきっぱりと言い切る。
「最後にあの途を選択したのは俺自身だ」
 京とちづるとチームを組むということも、彼らと共に大蛇に立ち向かうということも。すべては庵が自ら選んで決めたことなのだ。その結果として大蛇の血を失い闘えなくなったのだから、これもまた、庵自身が選び取った結末に違いない。庵には己の選んだ途を後悔する気などさらさらなかった。
「そうね、愚問だったわね⋯⋯」
 ちづるはどこか困ったような表情で微笑し、そして、
「あなたは『八尺瓊』に還るの?」
と、庵の今後を推察して尋ねる。
「そうだ。⋯⋯草薙と八咫がそれを赦してくれるというのなら、な」
 庵はそう応え、更に、
「大蛇と共に『八神』は滅んだんだ」
 だからもう何も心配することはないぞ、と続けた。しかし、ちづるは男の言葉に不安気な貌をする。
「だけど、あなたたちの一族は⋯⋯」
 ――今も草薙を憎んでいる筈。
 ちづるのその表情を見、庵は自分が肝心なことを話し忘れていると気づいた。そうだった。まだ彼女らに本当のことを知らせていなかったのだ。
「あれは、嘘だ」
 庵は正直に告白する。
「俺たちは、ずっと『八尺瓊』のままだったんだ」
 事細かに事情を説明しなくても、この言葉だけで彼女には解る筈だった。ちづるは三家の歴史についてよく識っている。ならば八神と名を変える以前の一族のことも、当然知悉している筈だ。その庵の予測どおり、
「じゃあ、あなたたちは⋯⋯」
 驚きは隠せないものの、庵が口にした少ない言葉だけで彼女はすべてを正確に把握したらしい。
「『草薙』のために?」
と、こちらも言葉少なに確認を求めるちづるに、庵は大きく頷く。
「俺たち、つまり『八尺瓊』は、いつだって『草薙』のために存在してきた。一八〇〇年の昔から、六六〇年前のあのときでさえ、⋯⋯そして今も、『草薙』のために在る。変わってなどいないのさ、本質はずっと」
 ――八尺瓊は草薙の影。
 そんな言葉が三家の中には生きている。
 例えその身を滅ぼしかねない程の危険を伴う行動であっても、それが草薙一族のためになるのなら、それを為すことに八尺瓊一族は後込(しりご)みなどしない。
 そこには確固たる理由があった。
 もしも八尺瓊一族が滅んでも、その代わりはいくらでもいるからだ。少なくとも、八尺瓊自身はそう信じていた。『草薙』の影は『八尺瓊』でなくても構わないのだ、と。
 影は光が生み出すもの。そこに光が存在する限り、影は新しく生まれる。
 ならば、『草薙』という光が存在する限り、第二第三の『八尺瓊』を彼らが生み育てることも可能だろう。そう思うからこそ『八尺瓊』はいつだって身を呈し、命を懸けて事に挑むことが出来たのだ。それが、『草薙』を護るために必要な行為であるのなら、躊躇う理由など彼らにはなかった。彼らの生への執着心は、他の二家の者たちに比べ、格段に希薄だったのである。それは今でも変わっていない。
「それでは⋯⋯わたしたちは、ずっとあなたに騙されていたということなの?」
 ちづるの問いに庵は苦笑した。
「俺自身、長く騙されていたのだがな」
 まったく、敵を欺くにはまず味方から、とはよく言ったものだと思う。
「種明かしをされてみれば、他愛ないことだったさ⋯⋯」
 すべては『八尺瓊』が『草薙』を想うが故の選択だった訳だ。
「そうだったのね」
 得心した様子でひとつ頷き、ちづるは、
「草薙にはもうこのことを?」
と、庵の顔を見上げた。男は正直に首を振る。
「いや、まだだ。だが近い内に話そうとは思っている。いつまでも黙っておく訳にはいかんからな」
 実をいえば昨夜から、庵がいつ京に切り出すか、その時期を迷っている話というのが、それなのである。
「ともかく、そういう訳だ。だから、もういいだろう? 何もかもおまえの望みどおりに事は運んだ。俺たちについても心配は無用。そっとしておいてくれないか」
 俺たち、と。庵は自分たちの一族のことをそう言った。その言葉に含まれた、これまでには一度として耳にしたことのない慈しみの響きを聞き取って、なぜかちづるの胸は熱くなる。
「あなたはそれでいいの、八神」
「良いも悪いもない。俺は『八尺瓊』に還るんだ。大人しく彼(か)の地へ引き籠もるさ」
 そうするのが一番自然なことだろう、と庵は言う。確かにそうなのだろう。だが、ちづるには、素直に頷けないものがあった。
「でも八神⋯⋯」
 八尺瓊に還る――。
 表向きはそういうことになるのだろう。それはちづるも認めるところだ。だが、それと同時に、彼女の胸中には一抹の不安も生まれていた。庵の感情はその現実について行けるのだろうか、と。
 人間(ひと)が頭で考えることと心で想うこととは、必ずしも一致しない。第一、元から『八尺瓊』であった者と『八神』から『八尺瓊』へ還る庵との間には、その立場に於いて天と地ほどの違いがある。『八尺瓊』に還ろうとする庵は、そのとき己の内面に沸き起こるだろう葛藤をどう鎮めるつもりなのか。
「あなたが『八尺瓊』に還るということは⋯⋯」
『草薙』への、そして、京への執着を捨てるということ――。
「神楽!」
 ちづるに最後まで言葉を紡がせず、切迫した声で庵が叫ぶ。その一瞬、彼の裡を吹き荒れる感情の嵐が、その猛威の一端を覗かせた。
「それ以上、言うな」
 押し殺された呻くような声。ちづるの視界の中で、男の眼は苦渋に満ちた表情(いろ)をしていた。
「八神⋯⋯」
 その双眸を目にし、ちづるは言葉を詰まらせた。女性である彼女にだからこそ、感覚として理解し得ることがある。今この瞬間に庵の内面で荒れ狂っているだろう嵐を、感じ取ることも出来てしまう。
 月が太陽に惹かれるのは道理だ。いや、月だけではないだろう。多くの生き物が植物が、その光に引き寄せられ、その存在を糧にして生きている。それと同じように、いつの時代にも『八尺瓊』は『草薙』に惹かれた。まるで無意識の領域で本能に刷り込まれた予定行動であるとでもいうように、それに従おうとする衝動はごく自然に『八尺瓊』である庵の裡にも存在している筈なのだ。だが、神の声を聞くことをその使命とする巫女は、俗世の者と結ばれることを赦されない。
 それは決して実を結ばない徒(あだ)花。
 だから『八尺瓊』の女たちは、どうしようもなく『草薙』に惹かれるのに、決して想いを遂げることはなかった。それは赦されないことだから。『八尺瓊』の巫女たちは、胸にいだくその想いに気づかれることさえ罪として、気持ちを殺してきたのだ。『草薙』を惑わせてはならない、と。
 しかし、庵にはそれが許されていた。いっときのこととはいえ、京への執着が公然と認められていたのだ。そのことを⋯⋯、
 ――八神、あなたは忘れてしまえるの? 忘れてしまえたの?
 果たしてそのようなことが可能なのか。
「八神、あなたは⋯⋯」
 言いかけて、自分に向けられた庵の眼に強い拒絶が滲んでいることを感じ取り、ちづるは問い質したい気持ちを無理に飲み込んだ。そして、代わりにこう言った。
「どうして恨まないの、わたしたちを」
「わたしたち⋯⋯?」
「『八咫』と『草薙』よ」
「なぜだ。なぜ俺がおまえたちを恨まねばならん」
 庵の顔から苦渋の表情は消え去り、代わって戸惑いが浮かんだ。
「だってそうでしょう。わたしたちはあなたの為になることを、何ひとつすることが出来なかったのよ?」
 見過ごして来てしまったのではないか。『八神』と名を変えてからの『八尺瓊』の苦しみを。それどころか、彼らを理解することさえしようとしなかった。
「望んでいなかったさ」
「え⋯⋯?」
「何かして欲しいなどと、俺たちがおまえたちに対して思ったことは一度もない」
 いや、寧ろ何もして欲しくなかったというのが正しいのだろう。自分たち『八尺瓊』の我儘に、他人を巻き込みたくなどなかったのだから。『八尺瓊』は、いうなれば自己完結型エゴイストなのである。
「『八咫』こそ、なぜ俺たちを恨まない? 六六〇年前、『八尺瓊』があのような過ちを犯していなければ、おまえは身近な肉親を失うこともなかったんだぞ」
 庵の言う身近な肉親とは、ちづるの双子の姉のことだ。彼が指摘するとおり、ちづるの姉がゲーニッツの手に掛かってその短い生涯を終えたのは、八尺瓊一族に因るところが大きい。六六〇年前、八尺瓊一族は大蛇一族との接触を謀り、それに成功した。そのことが、のちに数百年の時を越え、ちづるの姉の身に不幸を招く結果を生んだ。
「⋯⋯恨んだわ。殺したいと思うくらいに恨んだ」
 でも、決して誰かを殺して還ってくる命ではないから。そう思ったからこそ八咫の一族は、煮え繰り返る臓物(はらわた)を耐え、吹き出す殺意を堪えて、時の八神を責めなかったのだ。
「それと同じことだ」
「違う!」
 ちづるは即座に庵の言葉を否定した。
「同じじゃないわ。わたしは恨んだ。でも、あなたは恨むことさえ放棄してる。違う?」
「過程が大切だとでも言うつもりか? 俺にとっては結果がすべてだ」
 何かを訴え掛ける眼差しを向けるちづるに対し、
「神楽、おまえがいつまでも不在では賓客に対して失礼だぞ。さっさと会場に戻れ」
と、言って庵はそれ以上の会話を拒み、彼女に冷たく背を向けた。ちづるは唇を噛み、泣きそうな貌でその背を見送る。
「あなたが恨んでくれないと、わたしたちは⋯⋯」
 ――許しを請うこともできないのよ⋯⋯。
「わたしたちはあなたに謝ることさえ許されないの?」





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