それからひと月。京は庵と逢うことがなかった。京との邂逅の翌日部屋を出た庵は、今度こそ本当に行方をくらましたのだ。以前籠もっていたことのある古寺にも足跡(そくせき)はなく、ちづるにも行き先はつかめず、彼を一族の裏切り者として追っている筈の八神本家でさえ、どうやらその足取りを完全に見失っているようだった。
庵の死を想像して胸を痛めるちづるを前に、けれど京は平然としていた。
確かに庵は死ぬことを予告した。
だが。
――あいつはまだ死んでなどいない。
それは京の希望的観測ではなく、確信だった。ちゃんと理由はある。それは庵の身体だ。あの日、最後に庵に逢ったとき、京の腕の中にあったのは、生きようともがく身体だった。京が怯みそうになる程の、苛烈な生がそこにはあった。京は庵が疵痕を残した自分の腕を眺めやっては、そのときのことを思い出していた。
人の肉体は、死ぬためには存在しない。生きるためにそこにあり、生を繋ぐためにひとつひとつの細胞を呼吸させている。そもそも最初から、ただ死ぬためだけに存在するのであれば、生まれて来たこと、それ自体が意味をなさなくなってしまう。
庵の肉体も、また――。それは、あんなにも生の歓喜に満ち溢れていて。京は圧倒されそうだった。生の狂気。生への執着。この腕の中で、庵の身体は京を怯ませるほどの激しさを見せつけ、生きようとしていた。その狂気を支えていたのは、たとえ庵本人には無知覚であったとしても、彼の意識に他ならない。
だから、大丈夫。庵は死んでなどいない。
彼はきっと再び自分の前に現れる。
果たして京は、その自分の予想通り、庵とKOF97の会場で再会することになった。
「なんだよ、死ぬんじゃなかったのかあ?」
開会式が行われる会場で庵の姿を見つけた京は、彼の元へ歩み寄り、皮肉と揶揄とを込めてそう言った。
「誤算だ」
応える男は素っ気ない。彼自身、まさか自分がこの舞台に立てるとは思っていなかったのだ。たとえ死には至っていなくても、少なくとももう正気ではいないだろうと、そう予想していた。
それが。自分は狂うことも、ましてや死ぬこともなくここにいる。
京と最後に逢ってから過ごした今日までの日々、庵の血の暴走は一度も起こらず、血の増幅そのものもずっと小康状態を保っていた。初めのうち、庵はそれを、京に抱かれたことで『草薙』による抑止力が働き、その影響が持続している所為だと思っていた。ところが、どれだけ日が過ぎても庵の肉体に変化は訪れず、気付けば今日という日を迎えてしまっていたのだ。『草薙』に起因しない以上、今のこの状況には、おそらく大蛇一族が関与しているのだろう。そうでなければ、血の暴走の進行が止まっていることの説明がつけられない。
「⋯⋯ま、いっか。俺には好都合だからな」
と、誰に聞かせるともなく口にしてから、京は庵に向き直った。
「前にも言ったけど、この大会が終わったら、ちゃんと決着(ケリ)つけようぜ、今度こそ」
――俺たちふたりの闘いに。
「⋯⋯くだらんな」
「じゃあ、なんでおまえはココにいるんだよ?」
「貴様の知ったことではないわ」
三家の当主が一堂に会せば、おそらく大蛇に連なる者共もその姿を現すだろう。彼らが何を企んでいるのかは判らないが、その企みに、この身を利用されるようなことだけは避けなければならない。そう考えた庵は、彼らの野望を打ち砕くために、KOF出場を決意した。
KOF97開幕。翌日から各チーム各ステージへの移動が始まり、緒戦(たたかい)の火蓋は切って落とされた。
興奮と熱気、歓声と怒号に包まれたスタジアム。今回、京がそのハレの舞台に立つのは、一年振り四度目のことになる。だが、何度経験し体感しても、体中を駆け抜ける緊張感には武者震いと快感とがつきまとう。だから、忘れられない。過去に参加した、KOF以外のどんな格闘技大会においても、これほどの興奮も緊張も京は味わったことがなかった。KOFでのみ味わうことができる、それは最高の美酒だ。
「WINNER IS KYO」
トリの京が緒戦の勝利宣言を受け、チームの2回戦進出が確定した。
だが。
「なんなんだよ、今の試合(アレ)は!」
選手控室に戻るなり、京は力任せに庵の胸倉を掴み上げていた。
「草薙! やめなさいッ」
ちづるの制止になど耳を貸さず、京は尚も力を込めて庵の胸倉を自分の方へと引き寄せる。
「なんとか言えよ!」
緒戦の先鋒は庵。その彼は、試合開始早々から、相手に向かって我武者羅に突っ込んでいた。何度も何度も。勝利が確定するまで、相手を地に叩き伏せるまで、繰り返し繰り返し。けれどそれは、京の知る八神庵という男の格闘スタイルではなかった。いつだって、一歩引いたところから相手の出方を冷静に観察し、ここぞという瞬間を逃(のが)さず、タイミング良く対戦者の懐へ飛び込みフィニッシュに持ち込む。それが彼の闘い方だった筈だ。彼が今日見せたような接近戦、それを好むのは、むしろ京の方なのである。
なのに――。
今日の試合では、相手の意表をついた格好になって、逆にそれが勝利を呼びよせたと言えなくもないが、同じ手が二度も通用するほど、この大会の参加者たちは甘くない。殊、古参の連中ともなれば尚更に。
「炎も使わねえで⋯⋯なんのつもりだ!?」
詰め寄った京に、しかし庵は不遜な口調で言い放つ。
「なにが不満だ? 俺はちゃんと自分の責任を果たした筈だがな」
そして、彼は不意に表情を変えた。
「それとも、なにか」
昏(くら)い瞳が至近距離で京の双眸を見据え、鈍い光を放つ。
「スマートに勝たなければ嫌なのか」
「そいつはてめぇのセリフだろ」
ただし、去年までの。
「気に喰わんのなら、いつでもエディットは解消だ。俺は少しも構わんぞ」
横着ともとれる斜(はす)な仕種で京を見遣り、庵は薄ら嗤う。
「草薙も八神も、いいかげんになさい!」
ちづるが、今度はふたりの間に躰を割り入れるようにして彼らを引き離そうとするが、二対一では流石に分が悪く、なかなかそれは叶わない。
「調子にのるなよ? 京」
胸倉を掴まれたままだった庵の腕が、言いざま、京の手を力任せに振り払った。そこでようやくふたりの間に距離ができ、ちづるがホッと息をつく。
「とにかくホテルに戻りましょう。次の移動は明日だから、ふたりともそのつもりでね」
部屋に戻ってからも、男たちの間を流れるムードは険悪なままだった。ただ、さっきと違っているのは、京がいくら悪意のこもった視線をぶつけてみても、庵が敵意を返して来ないということだ。庵は京を見ようとせず、京の挙動に関心も示さない。彼は自分のベッドに腰を下ろして、膝の上に広げた雑誌をめくっている。京は訳もなくムカムカする気分で、気付けば彼に、今度は言葉をぶつけていた。
「なに辛気臭せぇツラしてやがんだ。ムカツクんだよ、てめぇの顔見てるとさ」
――それならば、視なければいいだろう。
そんな言葉が返って来ると思っていた。そうしたら、売り言葉に買い言葉で、今まで彼とよくやってきた小競り合いのひとつも誘える算段だったのだ。なのに、京の予想を裏切り、庵は無表情な顔を上げて京を見ることはしたものの、何も言わぬまま、再び雑誌へとその視線を落としてしまう。
なんとか言えよ、といつもなら続けられる筈の台詞が、なぜか京の喉元で絡まった。表情の読めない庵の横顔が、それでも頑なに自分の干渉を拒んでいるようで、京はさらに苛立つ。自分のペースに持ち込めないもどかしさを感じ、むしゃくしゃした気分に煽られるまま、気付けば立て続けに数本、煙草を灰に変えていた。
どれほどの時間が過ぎたのか、京が冷静さを取り戻したときには、庵の姿が部屋から消えていた。どこへ行っていたのかは判らないが、彼が部屋に戻って来たのは、夜、京が眠ている間のことだったようだ。
翌日、二度目の移動を終えたホテルのロビーで、京と庵はちづるから部屋の鍵をそれぞれ別に受け取った。
「おい、神楽! コレどういうことだよ」
自分の持つ鍵と庵のそれとに、別々の部屋番号が刻まれていることを知り、京は問い詰めようとちづるに迫る。KOFでは基本的に、同じチームの同性同士が、ひとつの部屋に宿泊することになっているのだ。なのに、これは一体どういう例外措置なのか。
そのとき、
「俺の顔を見ていたくないと言ったのは貴様だろう?」
と、ちづるではなく、彼女の側にいた庵が言った。
「そんなこと、俺は⋯⋯」
言いかけて、京は口籠もる。自分は、庵の言ったようには言わなかった。が、しかし、彼に揚げ足を取られても仕方のない表現をしたことも、また事実だった。
「俺ひとりがそう思っているのならと、昨日までは耐えてやっていたんだ。だが、貴様も同じように感じていたと知ってな、神楽に言って、このホテルには部屋をもうひとつ取らせておいた」
昨日、部屋を留守にしていた間に、庵はちづるの元を訪れて、そのことを要請していたのである。
「気に喰わん者同士、顔を突き合わせているのは苦痛なだけだ」
そうだろう? と、同意を求めておいて返答を待たず、庵は京に背を向け歩き出してしまう。彼は手にしたルームキーと同じ番号のプレートがついたドアの前で歩みをとめると、後から歩いて来る京を気にすることもなく、ドアノブに手を掛けた。
「八神」
その庵を反射的に呼び止めてはみたものの、続けるべき言葉を見つけられず、京は唇を噛む。
「⋯⋯⋯⋯⋯」
ドアに半分躰を隠しながら振り返った庵は、京がそれ以上なにも言いそうにないのを見届けて、無言無表情のまま部屋の中へと姿を消した。
「⋯⋯っ、なんなんだよッ!」
自分に与えられた部屋に入るや否や、壊さんばかりの勢いでドアを叩きつけた京は悪態をつく。だが、吐き捨てた言葉は、虚しいほど自分にしか返らない。
「クソっ」
苛立ちをぶつけるべき正当な相手を視界から失い、京の躰内に充満する遣り場のなくなった憤怒のエネルギーは、あたり構わず撒き散らされることになった。哀れだったのは、八つ当たりで無残に壊される、罪もない部屋の備品たちだ。弁償代が高くつきそうだが、それは大会主催者サイドに請求がいくだろう。京の知ったことではない。
一頻り暴れ、少しは気が晴れたのか、京はどすんとレザー貼りの椅子へ腰を落とした。
京という人間は基本的に、ひとを振り回すことはあっても振り回されるようなことはない。なのに今、彼は庵の存在だけは無視できなくなっていた。いや、無視できないどころか、彼の一挙手一投足にいちいち気分を掻き乱されている。その理由が解らないだけに、京の苛立ちは募るのだ。
京は庵の変貌を思う。
熱の籠もった彼の双眸は、いつも自分を見ていた筈だ。なのに、いつからだろう。気付けば、あの眼は自分を見なくなっていた。多分それは、もう構うなと、自分との関りを拒絶した、あのときを境にしている。いま自分を目の前にしても、やはり彼は自分を見ない。
京には、庵が心さえ動かしていないように見える。
それを悔しいと思った。なぜなのか悔しい。そして、擦り抜けてしまった彼の視線を、もう一度自分の元へ引き戻してやりたいと思う。あの男が、自分以外の何者かに捕らわれているなんて、許せない。例えそれが、庵自身にであったとしても。
2回戦も順調に勝ち抜き、つぎの試合会場へ移動するため、京たち三人は飛行機に乗り込んでいた。向かう先は中国である。
機が離陸し、シートベルトの解除が表示されてすぐ、庵が隣に座るちづるに向かい、
「着陸の一時間前になったら起こせ」
と、言った。そのまま彼は、彼女の返答を待たず、さっさと眠る態勢に入ってしまう。庵は、大蛇一族の存在を意識して気を張り詰めるあまり、もうずっと熟睡することが出来ずにいた。庵が京との同室を嫌った本当の理由も、実はここにあったのだ。長い時間を同じ空間で過ごしていては、自分が常に何かに対して神経を尖らせ続けていることを、京に悟られずに済む筈がない。だから、もしも京と自分とが諍いを起こさないでいたとしても、折りを見て、なるべく早い段階で彼とは別室にして貰うつもりでいた。その庵の睡眠不足は、京と別室になって以降も依然続いており、彼は慢性的な疲労を抱えたまま、異様なテンションで試合に臨む結果となっていた。
庵は窓際の一番奥の席で、通路側へ背を向けて、微かな寝息を発てはじめる。京とちづるが側にいることと、この機内に大蛇一族が紛れている様子がないこと、そのふたつが、彼を安眠に誘っていた。
「とても疲れているようね」
機内食が運ばれる時間になってもまだぐっすりと眠っている庵の姿を見て、ちづるが聞かせるともなく京に言う。
その台詞に京は、
「⋯⋯毎回ムチャな闘い(やり)方してるからだろ」
と、吐き捨てる語調で、通路を挟んだ隣の席から彼女に応じた。彼はちづると庵の方へは顔も向けず、ムスっとした貌で頬杖をついている。この男は、先の2回戦でも炎を使わず勝利をおさめた庵に、またも喰って掛かっていた。庵の余裕のない闘い方が気に障って仕方なかったのだ。が、庵がそれを無視したのもまた、初戦後と変わらぬ態度だった。
「⋯⋯⋯⋯」
ちづるが、何か言いたそうな表情で京の方へ顔を向けた。
「なんだよ」
視線を感じてちづるを振り返った京に、けれど彼女は結局なにも言わないまま首を振った。彼女には庵の憔悴の原因が薄々判っていた。だが、それを京に伝えるべきかどうか、結論を出しあぐねていたのだ。
三人を乗せた飛行機は、十時間程のフライトの末、空港に着陸した。着陸に備えるために一度ちづるに起こさせた庵は、空港から宿泊先の指定ホテルへ移動するシャトルバス中で再び眠りに就いてしまった。そしてホテルに到着したというのに、今度はいくら呼んでも目覚めなかった。
困り果てているちづるに、京は、
「そこらへんに転がしとけば? 目が覚めたら自分で中まで入るだろ」
と、無責任なことを言う。
「草薙!」
いいかげんなこと言わないで、と吊り上がった眼でちづるに睨まれ、かといってそれに怯むような可愛らしさなど、微塵も持ち合わせていない京だったが、
「ったく、仕方ねーなあっ、もー。世話かけやがってよ」
盛大に文句を垂れながら、それでも渋々その躰を肩に担ぎ上げ、そこでピタリと動きを止めた。
「神楽」
京は硬い声で、先を行く女を呼び止める。
「なに?」
振り向いたちづるの視線の先には、怖いと表現するしかない男の貌。
「こいつの今年のプロフィール、どうなってる」
押し殺した声で京は尋ねる。その声が聞きとれなかったのか、え? と訊き返すちづるの顔を正面に見据えて、
「ウェイト、どれくらいあった?」
と、再度、今度は明瞭な口調でそう問うた。
「⋯⋯⋯⋯」
痩せてしまっている、と顰められた京の表情から、ちづるは目を逸らした。
「どうなんだよ、神楽」
庵と再会を果たしたとき、なぜ気付かなかったのか、己を疑ってしまう程の痩せ方だ。肩に当たるこの硬い感触は、おそらく肋骨(あばらぼね)。
「知っていたわ」
――彼のウェイトが落ちていることくらい。
ちづるは重苦しい表情で答えた。
「大蛇の血のせいよ。八神がこの大会で炎を使わずに闘っているのも、多分それの所為なのでしょう」
「なんだソレ」
「炎を使えば、おそらく血の暴走を招く⋯⋯」
「な、ん、だと⋯⋯?」
躓(つまず)くように言って、京は黙った。何を考えたのか、彼の貌が、ちづるの見ている前で、徐々に引き締まったものへと変化していく。
「⋯⋯神楽」
強張った声がちづるを呼び、そして何事かを決意した表情で面を上げると、
「このホテルの部屋、シングルなんだろ? 悪いけどツインに戻してくれ。⋯⋯コイツと一緒の部屋がいい」
京はそう言ってようやく歩きだした。
目を覚ますまで庵の側についているよう、ちづるに言い渡されるまでもなく、京はボーイに自分の部屋へ荷物を運んでもらった後、その足で庵の部屋へ引き返していた。
京は、ベッドの脇へ椅子を移動させ、その背に腕を回して座り、庵が目覚めるのを待っている。その四肢をベッドの上に降ろしたときには確かに仰向かせておいた筈のなのに、京が部屋へ戻って来てみると、庵は左腕を自分の躰に敷き込むような姿勢になっていた。横臥した庵は、少し膝を曲げ背を丸め、苦しそうに眉根を寄せていて、その表情は京の目に、草薙家で大蛇の氣の放出を抑えようとしていたときのそれと、とてもよく似て見えた。京は椅子に馬乗りになった姿勢のまま、じっと男を観察し続ける。
さっきちづるは言っていた。炎を使えば、庵は血の暴走を招く、と。そこで京は疑問を持ったのだ。草薙である自分と長く行動を共にしていながら、庵はいま暴走の兆しを見せていない。それはなぜなのか、と。そもそも、一度始まってしまった血の暴走は止まらない筈なのだ。なのに庵の躰内におけるそれの進行は、KOF97が始まる前、最後に自分が彼と会ったときから小康状態を保ったままであるように見受けられる。それには何か理由があるということか。だとすれば、庵本人はその理由を知っているに違いない。
――訊き出してやらなければ。
そのとき、庵の右手がシーツをきつく握り込んだことに京は気付いた。彼の手の甲には筋が走り、そこに浮く四つの骨が色を失くすほど、強い力が込められていく。苦悶の表情が更に深くなり、その唇からは低い呻きすら漏れ始めた。
嫌な空気を感じ取り、京は腰を浮かせる。
「八神」
椅子から降りてベッドの側まで近づく。
「八神!」
肩を掴んで強く揺さぶる。びくりと全身を震わせ、庵が大きく目を見開いた。
「⋯⋯⋯⋯」
己の置かれている状況が呑み込めないのか、庵はしばらく硬直したように動かなかったが、二度三度と瞬きを繰り返し、肺を空にするような深い溜息をついた後、ようやくゆっくりと上体を起こした。
「なぜ貴様がここにいる」
庵は片手で両顳(こめかみ)を押さえ、掠れた声で言う。彼の額には冷たい脂汗が浮かんでいた。
「ひっでぇ言い種だな。ちったぁ感謝してくれてもいいんじゃね? おまえが起きねえもんだから、わざわざ俺がここまで運んでやったんだぜ、バス降りてから」
――頼んだ覚えはない。
そう、得意の屁理屈が炸裂するかと思ったのだが、庵から京に返されたのは意外にも、
「それは悪かったな」
びっくりするほど素直な言葉だった。ただし、口調は完全に感情を欠いている。
「いつまでここにいるつもりだ」
憂鬱そうな表情はそのままで、庵が面を上げた。
「おおかた神楽にでも言われたのだろう? 俺が起きるまでついていろと。⋯⋯用がないのなら、さっさと自分の部屋へ帰れ」
「ああ。言われなくても帰るさ」
京は庵から離れ、ドアへと向かう。今日のところは、大人しく引き上げてやろうと思った。でも⋯⋯、
「けどな、八神。おまえ、明日からまた俺と同じ部屋だからな? ⋯⋯覚悟しとけよ」
――もう逃がさない。
驚いた表情で見送る庵の顔を肩越しに一度振り返り、京はその部屋を後にした。
ツインの部屋に移って3日ののち、中国ステージで第3戦が争われた。ここでの試合は、先鋒の京ひとりが相手チームの選手ふたりをステージ上に叩き伏せ、中堅だったちづるの一戦でチームの勝敗が決したため、大将だった庵は不戦に終わっている。それは、庵に無茶な闘いをさせないための、京とちづるの目論みが成功したということだった。
中国ステージでの試合は日暮れを待って行われるため、試合が終わるのは夜だ。試合後に夜の繁華街に繰り出す選手もいる中、京はまっすぐにホテルの部屋へ戻っていた。庵も一緒である。
庵と再び同じ部屋で過ごすことになって、彼が自分との同室を嫌った本当の理由が、京にもようやく読め始めていた。自分の側にいては、身体の衰えを隠し通すことが難しかったからだろう、と。更に庵は、昼夜を問わず、あまり眠れていないふうで、それも自分に覚(さと)られたくないことのひとつだったのかも知れない。
部屋に戻った京は、試合が終わる時刻に合わせて届けて貰えるよう頼んでおいた夜食の乗るテーブルへ近づく。そして、庵を振り返り、
「八神、おまえは?」
と、食べるかどうかを尋ねた。窓際に立って夜空を見ていた庵は、いらない、と首を振る。彼の視線は窓の外に向けられたままだ。
「おまえ、試合前もほとんど喰わなかっただろ」
彼らは試合前、運動するのに支障がない程度の軽食を摂っていた。当然、用意された料理は夕食としては不十分な量で、だが、庵はそれさえも食べ残したのだ。
「出番がなかったからな」
だから空腹ではない、と彼は言う。
「大丈夫なのかよ、ホントに」
「なんの話だ」
ここでやっと、庵の顔が京の方を向いた。
「メシもろくに喰ってない、睡眠も充分にとれてない。そんなんでよく⋯⋯」
「気味が悪いぞ、京。なんの冗談だ」
自分を気遣う京の発言を途中で遮り、庵は眉間に皺を寄せて、露骨な不快感を表した。京は庵から視線をはずし、所在無げに両手をポケットに突っ込むと、テーブルに着くでもなくその周囲を歩きだす。なにかを考えているらしい。そして、庵の正面を向く角度で足を止め、
「ずっと気になってることがある」
そう切り出した。やっとふたりでゆっくり話ができる状況を作れたのだ。これを機に、尋ねておきたかったことを訊いてしまおう。京はそう思った。この際、夜食は二の次だ。
「血の暴走は、一度始まったら止まらないものだって俺は聞いた」
それは事実なのかと表情で問う京の顔を、感情を消した目線で見据え、庵は肯定の頷きを返す。
「でも、おまえのは⋯⋯進行してないよな」
確認のための言葉にも、庵は顎を引く。
「じゃあずっと平気だったのか? 俺と最後に逢ってから、この大会が始まるまでの間も」
その問には即答せず、庵は窓際から離れると、自分のベッドへ腰を下ろした。
「なぜ今頃になってそんなことを訊く」
「ずっと気になってたんだよ。あの後も、その前の⋯⋯草薙(ウチ)の本家にいたときみたいに、血ィ吐いたりしてたのかと思って」
庵の部屋で、京が再び彼と逢ったとき。あのときの、庵にとってはおそらく悪夢のようであったろう出来事が、果たして少しでも彼を救うことになったのか、京にはそれも気掛かりだった。勿論、この件に関しては、問うたところで素直に答えて貰えないことくらい、重々承知していたが。
「どうなんだよ、八神」
なかなか答えようとしない庵に痺れを切らし、京は催促の言葉をかける。彼の裡には、思い出すだけで躰の奥底に潜む燠火が燃え上がりそうになる、そんな夜の記憶があった。その記憶に喚起されるのは、死を望んでいると口にした庵から、ほかの誰からよりも、生きているということ、そして生きようとする意志を強く感じさせられた、ということ。あのとき感じ取った庵の生を、京は今でも忘れられずにいる。あんな苛烈な生を見せつけた人間を、京は他には知らなかった。
「おまえが俺の前で血を吐いたとき、それは大蛇の血が草薙の氣に反応したからだって言ったな。でもよ、草薙の氣に反応するんなら、なんで今おまえは正気なんだよ。変じゃねえか。これだけ長く俺の近くにいるんだぜ」
「草薙の屋敷にいたとき⋯⋯、」
と、ようやく庵が言葉を口にして、更に続けた。
「貴様は何を思っていた? 何を考えて俺を抱いた?」
庵の直接的な表現が、一瞬京の頬を引き攣らせる。が、躊躇いながらも彼は答えた。
「目を、覚まさせようと思ってた。おまえの中にある大蛇の血が、俺の⋯⋯『草薙』の氣に反応すれば、おまえは目覚める⋯⋯そう思ったんだ」
「だからだ」
暫しの沈黙。言われたことを理解しようと、京は考えを巡らせる。しかし、
「⋯⋯八神⋯⋯解んねえよ」
その途方に暮れたような、不似合いに情けない京の声音は、庵の嘲笑を買った。
「笑うなッ」
京の憤慨をよそに、くつくつと喉の奥に籠もる笑いを、尚しばらく彼に聞かせた後、庵は、
「ならば二度目は? あのときは何を思って俺に手を出したんだ?」
挑発するような上目使いの視線を京へと向ける。
「助けようと思って、だ」
「どうやって」
庵の眼が、かつて自分に向けられていたときと同じ、熱を孕んだそれのように思えて、京はそこから目線をはずせなくなった。
「あのときは⋯⋯おまえの欲を解放してやればいいってことだったんだろ」
「それだけだったのだろう?」
ああ、と頷く京へ、
「その違いだ。⋯⋯解らないか、京」
が。そこまで言われても、やはりまだ京にはよく飲み込めなかった。
「⋯⋯⋯⋯」
黙り込んでしまった京の頭脳は、どうやら混乱しているらしい。苦笑して、庵は言葉での補足を試みる。
「大蛇にとって『草薙』の力は脅威だ。それが自分に向けられるものであるのならな。だが、ただそこに草薙の者がいるだけでは暴走を引き起こしたりしない。『草薙』が自分に対してその力を発揮しようとして初めて、それに逆らう。アレはそういう性質を持っている」
だから、同じ抱くという行為であっても、意図したことによって、それに伴う結果は違ってくるという訳だ。
「解った」
京は大きく頷いた。頭蓋内全体を覆っていた靄が、やっと晴れた。
「あの後おまえが暴走しなかった理由は解ったよ。でもそれは、今この瞬間に、血の暴走が進行してないってことの理由にはならないよな?」
一度始まってしまった血の暴走は、草薙の氣の有無に関わらず、進行する筈なのだから。
「⋯⋯⋯⋯」
庵は観念するしかなかった。誤魔化せるなら誤魔化してしまいたかった。騙せるものなら騙し通したかった。この一件に、京を関わらせないようにする為に。だが、彼は何にも気付かぬほど愚鈍ではあってくれなかったようだ。もうこれ以上は隠しても無駄だった。
「貴様が感づいているかどうかは知らんが⋯⋯」
と、前置きし、庵は、この大会に昨年以上に多くの大蛇一族が関わっていることを指摘した。
「そのうちの誰かが、俺の暴走を抑制している。それが、いま俺が暴走しない理由だ」
「そうだったのか⋯⋯」
呟いて、京は自分を納得させるためだというように、何度も小さな頷きを繰り返す。そして、確認を取るために口を開いた。
「八神、それじゃ大蛇の血ってのは、外部からの干渉を受けるってことなのか」
「正確には、大蛇と、それに与(くみ)する者たちからの干渉を受ける、だな」
それもまた、血の暴走が引き起される原因のひとつだ。彼らの手に掛かれば、血の増幅を待たずとも、庵は暴走することになる。
「奴らの狙いは何なんだ」
「判らん」
庵は首を振った。ただ、彼らの最終目的が何であるのかだけは想像がつく。それは大蛇の完全復活だ。だが、この大会中に彼らがそこまでを成す気でいるのか、また、成せるだけの何かを手にしているのか、そこまでは庵にも確証がない。
「奴らがおまえの暴走を抑制してるワケは?」
「知らん」
「じゃあ、おまえがこの大会に参加した理由は?」
今大会に、彼らが関わってくるだろうことを予測した上で、おまえは参戦したのだろう? と京が訊く。
「このままでは俺は自分の死さえ奴らに邪魔される。我慢ならん」
万一、この身が大蛇の復活に利用されようとしているのであれば、それだけは避けなければ。何としてでも。
「俺のすることを邪魔しようというのなら、例えそれが大蛇一族だろうと、容赦はせん」
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