『救済の技法』前編6


 ベッドに腰掛けて煙草を咥え、その先端に自分の炎で火をつける。京は深く一服して、床に力無く転がる男の肢体を見遣った。
 べつに助けてやろうなんて思ったんじゃない。自分が彼に手を出したのは、たぶん好奇心だ。ここへ来たのだって、きっとその好奇心に誘惑された所為。
 ちづるに庵の居所を教えられて尚、京は彼に逢おうとはしなかった。誰かの言に従うという行為が癪だったせいもあるが、なにより、庵がそんなにヤワな男だとは思えなかったし、思いたくもなかったからだ。
 庵の身に大蛇の血の増幅に起因した血の暴走が起こっているらしいと聞かされ、彼が狂うとも教えられたが、それでも危機感は湧かなかった。庵が大蛇になど負ける訳がない、と根拠も定かでない自信を持っていたから。
 けれど。
 数日前から、それまではいくら探っても感知できなかった庵の氣が、京のセンサーに勝手にひっかかり始めたのだ。そして、少しずつ強さを増していくそれを、京は無視し続けることができなくなった。
 庵の氣の放出は、おそらく無意識の出来事だったのだろうと思う。そうでなければ、この男が自分にそれを感知させるような失態を犯す訳がない。もがき苦しむ姿を、庵が醜態だと思っているであろうその姿を、彼が自分に見せる筈もない。
 死人のように血の気のない青褪めた頬を晒して気を失っている庵を、京は我知らず痛ましげな表情で眺め遣った。
 京はここへ来て初めて、溢れ出す氣を抑えることに気が回らないほど、庵に余裕がなくなっていたのだと知った。
 大蛇の血に逆らうことで手一杯だったなんて。この、男が。
 ――死んでしまいたい。
 殺してくれ、と。庵の口から零れた本音。それができるのは、『草薙』を於いて他にはいないのだ。
 でも。
「殺してなんかやれねえよ」
 まだ何も聞いてはいないのだから。庵の口からは。彼の口から彼の言葉で、何もかも聞いてしまうまでは、どんな理由があるにせよ、その呼吸を止めてやることはできない。そしてふたりの闘いに決着をつけるまでは、自分には彼を殺してやることなど考えられもしない。
 だが。
 狂っていく自分を止めたくても、自らは死ぬことも適わない。そんな運命、どう自分を納得させれば受け容れることができるのだろう。庵がどう考えているのか、彼の本心を聞いてみたい。京はそう思った。
 ――ああ、そうか。
 だから自分は、ここへ足を向けてしまったのかも知れない。好奇心の所為だけでなく。
「八神」
 呼びかけてみても、意識を飛ばしてしまった庵は目を開けない。何気なく伸ばした指先で京が触れた庵の右手は、戒められ血の巡りが悪くなっているせいか、酷く冷たかった。
 屍のような体温。まるで死者の肉体だ。
 彼の腕を自由にしてやりたいと思ったのだが、あいにく鍵の在処(ありか)が判らない。
 座っていたベッドからシーツを引き剥がし、京は庵の身体の上に落とした。それからやおら立ち上がり、吸っていた煙草を床の上で踏み潰すと、隣の部屋を覗きにいく。
 家具らしい家具のなにもないその部屋の床に、それはあった。無造作に投げ出されていた鍵は、庵が自ら己の腕を戒めた後で、寝室からこの部屋へと投じたものだ。無論、そんなことは京の知るところではなかったが。
 鍵を拾い上げて元の部屋に戻り、京はすぐに庵の右腕に手をかける。その感触に反応したのか、低い呻き声を発して庵が身じろいだ。鎖のこすれる音がした。
「起きたか?」
「⋯⋯まだ、いたのか」
 そう口にしてから、やっと庵は重い目蓋を上げた。汗で額に張りついた前髪を、鬱陶しそうに左手で掻き上げる仕種が気怠い。無駄だと思っているのか京の行為を止めることもせず、庵は鎖が解(ほど)かれていくのを黙って見ている。
「ほらよ」
 そう言って京は、自由になった庵の腕を乱暴に放った。
 庵は身体を床に投げ出したまま、強張って動かない己の右手首をさする。そこは皮膚が擦り切れ、ところどころ血が滲んでいた。
 倒れ込んだままの庵を京が抱え起こすと、男の身体は痙攣のような身震いを起こした。
「⋯⋯くっ、⋯⋯、⋯⋯」
 苦しそうに息をつぎ、触れられることを嫌った庵が京の胸を押しかえす。しかし、その腕には充分な力がない。
「暴れんな」
 短く言い置き、京は庵の身体を抱き上げる。痩せて筋肉の落ちた彼の身体は想像以上に軽くて、京は無意識に眉根を寄せていた。
 このままでは庵はどうにかなってしまう。少なくとも、自分の知る『八神庵』という存在ではなくなってしまうのだろう。
「自我など⋯⋯持たずに生まれて来ればよかった」
 寝具の上に降ろされた庵が、吐息を零すように言った。
 それは無意識のうちに零れた彼の本心(きもち)。
「ならば、貴様らを殺すことなど」
 力のない右腕がのろのろと動き、自らの顔を覆う。
「わけもなかった⋯⋯」
 庵の閉じられた薄い目蓋の下から、一筋、透明な液体が耳殻へと流れ落ちた。
「そうであれば俺は⋯⋯」
 なんの迷いもなく消えて行くことができたのだ。感情を持たない形代であったなら。
 京の腕が再び庵の身体に伸びる。そして、表情を隠す彼の腕を取った。逆らうように力の入った腕は、しかし易々と京にどかされてしまう。
「⋯⋯⋯⋯⋯」
 泣いている、と思ったのに。
 京を見上げる男の視線は痛いくらいに乾いていた。






 シャワーを浴び、着替えを済ませた庵が部屋に戻ったとき、まだそこに京はいた。庵は濡れた髪を拭く手をとめタオルをベッドへ放り投げると、窓際の壁に凭れかかり、吸うでもなく煙草を口に咥える。手元では、その長い指でライターを弄ぶ。ネオンに照らされる男の横顔は、眩しそうに少し眼を眇めていた。
 ブラインドの上げられた窓から、色とりどりのネオンの洪水が室内に流れ込んでいる。地上八階の高さにある都心のマンションの部屋の外は、もうすっかり真夜中の表情だ。
「もう、ウソはナシだぜ」
 静かな京の声に、庵が視線を動かす。
「本当のことを教えろ」
 念を押さなくても、もう庵に嘘をつく気がないだろうことを京は確信している。つい今し方、僅かではあるが、彼は本音を漏らした。
「おまえは、何をしようとしてたんだ? ⋯⋯何をしようとしてるんだ?」
 おまえに、草薙一族を抹殺する力があるということも、自分では簡単に死ねないということも、もう知っているのだと、京は念のため、先回りして庵から逃げ道を奪う。
「予想はついているのだろう?」
「⋯⋯死にたかったんだよな、おまえは」
 確認をとる京の言葉に庵は頷く。
 しかし、京は納得していない表情だ。
「理由が解んねえ」
「馬鹿馬鹿しくなったのさ。八神の復讐劇とやらに付き合うことが」
 言いながら庵は煙草に火をつけた。添えられた手のひらの内側で、ボッと音を発ててライターから吹き出した小さな炎に、一瞬炙られた男の顔が、深い陰影を刷(は)く。パチンという、蓋が閉まる硬質な金属音を部屋に響かせた後、庵は、
「貴様はいつも言っていたな、俺に殺される理由が解らん、と」
と、咥え煙草でくぐもる声を出した。
「俺にも解らんさ、俺が貴様を⋯⋯『草薙』を殺さねばならん理由など」
 庵は眼を細め、肺胞ひとつひとつにまで染み渡らせるように、胸郭いっぱいに煙を吸い込んだ。そして、惜しむようにゆっくりと、今度はそれを吐き出して行く。指に挟み直した煙草の赤い光源からは、細く長く紫煙がたなびいた。
「『草薙』を屠る力が俺にしかないからと言って、なぜ俺が、俺だけが、この手を汚さねばならん? なぜ俺がすべてを背負わねばならんのだ? 奴らはな、自分の手を汚さずに済むという確証があるからこそ、『草薙』への復讐を考える⋯⋯そんな卑怯で身勝手な小心者(やから)なんだよ」
 当主は恰好(てい)のいいスケープゴートなのだと庵は言った。
「茶番を終わりにしたかった、そう言ったのは本心だ」
 復讐が終わらぬかぎり連綿と続くであろう事態、つまり当主が生け贄として捧げられ続ける事態、その茶番を自分は終わりにしたかったのだ、と庵は説明する。かといって、己の望みを叶えるために、一族の悲願をも叶えてしまうことは癪だったのだ、とも。
「俺を殺させて草薙の家名に泥を塗る。そんな生温いことで、奴らが満足する筈はなかったのさ。奴らの望みは飽くまでも草薙一族の抹殺だ。だから俺は、奴らの望みを叶えるふりをして、貴様をつけ狙った」
 それは一族の者たちを欺くための疑似行為。
「つまり、おまえの本当の狙いは、俺に自分を殺させて、一族の復讐心を挫(くじ)く⋯⋯そういうことだったのか?」
 だとすれば、八神一族にとって庵は裏切り者だったということか。
 頷く庵に、京は正直、我が目を疑った。
「じゃあ、なんで本当のことを俺に⋯⋯」
「言えば俺を殺してくれたのか」
 本当のことを言われていたとしても、貴様が俺を殺すことなどなかった筈だ、と庵は言い切った。それこそ自分の思惑に、貴様が付き合わねばならぬ義理はなかったのだから、と。
「開き直ってんじゃねえよ! なんでホントのこと隠してたのかって言ってんだ、俺は」
「決まっている。同情されては困るからだ」
 汚れた窓ガラスに、それでも辛うじて映り込んだ自分の顔を、庵は凝視した。
 己の虹彩が、歳を重ねるに従って小さくなって行くことに気付いたのは、何歳(いくつ)のときだったろう。そのうちに瞳孔の形までが変化して、まるで猫のそれのようになったとき、彼は前髪を伸ばし始めた。人に興味を持たれるのが煩わしかったからだ。
「貴様に憐れまれるなど、まっぴらだ」
 そうだ。憐れまれてはならない。そして京にも、『草薙』にも、真実を知られる訳にはいかない。『草薙』には、これからもずっと『八神』を疎んじて貰わなければ。世間にも、あいつは死んで良かったのだと思われるよう振る舞わねば。『八神』は悪であり続けなければならないのだから。
「だが、知られた以上、尚更貴様と関わることはできんな。殺して欲しくて貴様に付きまとっていたなどと、世間に公表されては俺の恥だ」
 知られていなかったからこそ、かつてはそれを望めたのだ。望んだのだ。よもや『八咫』に、自殺不可能という事実が知られていたとは。
 ――迂闊。
「あんな身勝手な連中のためになど、俺はこの大蛇の血を遺したりはせん。どのみち八神当主は短命だ。そのうち俺は死ぬだろう。大蛇の血に理性を呑まれてな。俺はそれを待っているのさ」
 自分にもはっきりとした死期は測れない。これまでに、どれだけの生命を削ってあの蒼紫の炎を燃やしてきたのか、庵本人にも判然とはしなかったから。
「それだったら、最初からひとりで勝手に死んでくれれば良かったじゃねえかよ。俺を巻き込む必要なんかなかった筈だ」
「さっきの俺を見ただろう」
 大蛇の血を後世に遺さず死ぬということは、簡単なことではない。生半可な覚悟でできることじゃない。
「貴様に殺されるという方法が、一番楽で、簡単で、確実だったんだ」
 苦労なく死ねる。だからだ、と庵は京に理由を告げた。
 勿論、真意は別にある。それは、狂った自分が、京を傷つけずに済むということ。
「やってらんねえ」
 京は、お手上げのポーズで頭を振った。
 所詮は『八神』の考えることだ、自分には理解不可能ということか。
「もっとも、大蛇などに負ける気も毛頭ないがな。この衝動には抗い通してやるさ」
 京にとっては見慣れた、不遜な笑みが、庵の表情を変える。
「一時的なものなのか?」
「そうだ。いまは発情期なんだよ」
 半分はハッタリだった。確かにこの衝動は一時的なものに違いないが、時を経たからといって、庵の身体がいまさら正常になる訳ではない。
 だが、どうせ京には真実など判らない。だから、と庵は改めて心に誓う。肝心なことは教えまい、と。
 そして、庵の思惑どおり、語られなかった真実の存在には気付くことなく、京は言われたことを全てだと受け止めたようだった。
「ま、そうやっててめぇが死ぬのは勝手だな。⋯⋯けどよ、死ぬ前にさ、当主として、一族の意識改革はかっといてくんねえ?」
「意識改革だと?」
「『草薙』を恨みに思うのは間違いだ、ってことさ」
 神楽から聞いたぜ、と京は前置きをし、六六〇年前のあのとき、八尺瓊当主の正妻を殺(あや)めたのは、草薙一族の者ではなく大蛇一族だったのだろう、と庵に言った。
「おまえらは奴らに騙されたんじゃねえかよ。騙された上に唆かされて、俺たち『草薙』に楯突いた。で、その事実を、いまはちゃんと知ってるんだ。なのに、『草薙』に復讐しよう、だ? イカレてるぜ」
「馬鹿なことを。イカレているのは貴様らの方だろう。俺たちがいつ、正妻を殺されたことで貴様らを恨んでいるなどと言った? そんなこと、一度も言った覚えはないぞ」
「ちがう⋯⋯のか?」
 戸惑いをあらわにする京を、庵は鼻先で、小馬鹿にしたように嗤った。
「大蛇の血を手に入れたことは、確かに『八神』の勝手だ。だがな、その『八神』を『草薙』は疎んじたんだよ。己のそれを凌駕するかもしれない、強い力を手に入れた『八神』を、貴様らは闇に追い落とした。自らの保身のために、な。その所為で『八神』が世間から虐げられてきたこと、それは紛れもない事実だ。恨んで悪いか」
 ――嘘。嘘だ。
『草薙』に『八神』が虐げられた歴史など、どこを探しても出て来はしない。闇へとその身を潜ませたのは、八神一族自らの望みだったのだから。八神一族の意志が自らにそうさせたのだ。『草薙』を傷つけ得る力をもってしまったことに脅え、惧れをいだいて、歴史の表舞台から身を引いた。『草薙』を、『八神』が本心から憎んだことなど過去に一度もない。真実を知らない庵に草薙一族抹殺を命じていた時分にでさえ、必要以上に『草薙』を恨ませることがないように、八神の者たちは気を遣っていた節がある。おかげで庵は『恨み』というものを、言葉としてでしか認識できていなかったくらいだ。
「なら、なんで、六六〇年もかかって、俺たちを滅ぼせなかったんだよ!?」
 それを成せるだけの能力を備えていると、ちづるも言っていた。それなのに復讐を完遂できなかったのは、『八神』に『草薙』を殺さねばならぬ理由がなかったからではないのか。
「巫山戯たことを」
と、庵はふたたび京を嗤い、言い募った男の反証をバッサリと一言のもとに斬り捨てた。
「『草薙』と心中したくなかっただけさ」
「心中⋯⋯?」
「草薙一族の抹殺。それができたなら、その時点で『八神』はその生を終えるんだよ」
「どういう⋯⋯」
 何を言っているのか解らない。理解、したくない⋯⋯。
 大きく目を見開いて、京は無意識に首を振る。だが、直感的には何かを理解してしまったらしい彼に、優しいともいえる表情を向けて庵は言葉を継いだ。
「草薙の血を引く者すべてを殺すということは、つまり大蛇にとっての脅威をこの世から消し去るということだ。貴様らを消してしまえば、『八神』の存在も当然用済みになる」
 いつの間にか、『八尺瓊』は大蛇の血によって生かされる存在になってしまっていた。いや、いつの間にか、ではない。一族が八尺瓊の名を棄て、八神を名乗るようになってから、だ。躰内の大蛇の血の存在に翻弄されるようになってから。
「『草薙』を滅せば『八神』も絶えるのさ。だから、歴代の当主は誰もが無意識に、もしくは意図的に、そうすることを避けて来たのだろう」
 誰だって、己の命は惜しい。簡単に差し出せる筈がない。例えそれが、一族の恨みを晴らすためであっても。
 庵はそう説明した。
「解ったか、京。貴様が、八咫の女に何をどう吹き込まれたのか知らんがな、自分の都合のいいように真実をねじ曲げて解釈されてはこちらが迷惑だ」
 京が単純明快な頭脳の持ち主で良かったと庵は思う。自分は、まだまだこの男を欺き、騙し続けなければならないのだから。
 死が、我が身をこの世から消し去ってくれるまでは。
「ともかく俺は、これからは自分のしたいように、したいことをする。それだけだ。貴様らは、残された八神の者共がふたたび大蛇と血の盟約を結んだりしないよう、今度はしっかり監視することだな」
「勝手なことを」
 そうだ。勝手だ。だが心配はいらない。八神の一族が、再び大蛇と血の盟約を結ぶことなど有り得ないから。
「大蛇の狙いがなんだったのか、おまえ一遍でも考えたことあんのかよ」
 苛々とした様子で京が言う。
「三種の神器の一角を切り崩すこと。それがヤツらの狙いなのかも知れないんだぞ!?」
 もしそうであれば、庵の死は奴らの思う壷ではないか。庵は八神の直系嫡子であると同時に、男児ではあれ、八尺瓊にとっても直系嫡子であることには違いないのだから。
「だとしたら、なんだ?」
「奴らの言いなりになって、それでいいのか?」
「関係ないだろう。今ここで貴様が心配することではない」
 庵の指先で煙草が、小さな音を発てながら焼け付いていく。庵は見るともなく、その火種に視線を落とした。
 どうか、誰か、この願いを聞き入れて欲しい。京を傷つけたりすることなく、この命が燃え尽きますように。京に殺して貰えますように⋯⋯。
「⋯⋯関係あるんだよ」
 京の言葉に顔を上げ、庵は訝しむ貌をみせる。
「八神のお家断絶は確かに俺には関係ない。けどな、おまえが死ぬってことなら話は別だ」
 京の言わんとすることが読めず、庵は眉を顰めてみせることで、話の先を彼に促す。
「俺との決着、つけてからにしろって言ったろ?」
「もう興味がないと、俺は言った筈だがな」
「よく言うぜ」
 京はみじかく吐き捨てる。
「興味がないってんなら、なんで出るんだ? KOF。くだらない大会だとか言ってたくせに、しっかり選手登録されてるじゃねえか」
 京の言うとおり、庵は選手登録されている。彼自身、雨の中、街頭の巨大スクリーンに流される、前年大会の資料映像を見上げた記憶は鮮明だ。
 だが、
「八咫の女の仕業だ」
 エントリーは自分の意志ではない、と庵は素っ気なく言い放つ。
「でも、おまえは断らなかったんだろ」
「フケるさ」
 KOFまで後たったひと月。けれどその夏まで、己の神経が正常であり続ける筈がない。そのことは誰よりも、庵自身が実感している。だからこそ彼は、敢えて辞退の手続きをしなかった。それだけだ。
「なんだよ、出て来いよ」
「なぜ俺が貴様にそんなことを言われねばならん? 関係ないだろうが」
 にべもない庵に、
「だから、関係あるって言ってるだろ、さっきから。俺はな、今年はおまえと同じチームなんだよ」
 京はそう言い、庵が反応する前に言葉を継ぐ。
「そうそう、それからな、シングル登録のヤツは、自分からエディットの申し入れ、できねえらしいから」
 そのことと自分が京と組むことと、一体どういう関係があるのか、そう問い質した庵に京は答えた。
「俺は神楽と組む。で、俺と神楽が三人目のエディットメンバーにおまえを選んだ。そういうことさ。で、生憎シードのおまえには拒否権がない。解ったか?」
 それは、過日庵が紅丸から聞いたとおりの話だった。
 京はちづるとチームを組むことを承諾し、それだけではなく、三人目のエディットメンバーとして、庵をも受け入れた。京の意図がどこにあるのか庵には知る由もないが、少なくとも八咫の女は、どうあっても、対大蛇に於ける三枚の最強カードを揃えたいのだろう。
「随分と横暴な話だな」
「俺に言われても知らねえよ。文句があンなら神楽に言いな。大会ルール作ってんのあいつなんだから」
 京の言い分にも一理なくはなかったが、それ以前の問題がひとつある。
「俺と組むことを貴様が了承しなければ、そういう事態にはならんだろうが」
「それもそうか」
「なぜだ」
 故意なのか無意識なのか、惚(とぼ)けた返事をする京に、庵は辛抱強く尋ねつづける。
「なぜ貴様は俺と組むことに同意した?」
「さあ⋯⋯なんでかな」
 飽くまで答えをはぐらかそうとする京に痺れを切らし、
「巫山戯るなよ、京」
 庵はドスの効いた重低音で詰め寄った。が、その庵に怯むこともなく、京はあっけらかんと答える。
「別にふざけてなんかねえって。⋯⋯強いて言えば⋯⋯そうだな、気紛れってヤツ?」
「気紛れ、だと?」
「シングル登録にして、予選からひとりで闘ってみるってのも悪くないと思ったし」
 京もちづるも、シード選手である庵を三人目のエディットメンバーに決めた時点で、招待チーム登録のリストから名前がはずされた。因って、予選から個人戦で勝ち上がらなくては、本選に出場できないのだ。
「けどよ、べつに神楽やおまえと一緒に、一八〇〇年前の大蛇退治を再現しようなんて、俺はこれっぽっちも思っちゃいねえよ?」
と、敢えて口にして、京は己の意識が変わっていないことを強調する。もちろん、そんなことをわざわざ聞かされるまでもなく、庵には京の心情など解り切っていた。
 庵はそれ以上京に問うことをやめた。肝心な質問に対しては答えをはぐらかされたままだと気付いていたが、今更だと思い直したのだ。
 どうせ自分はKOFに出場できない。ならば、京の真意がなんであれ、それこそ関係がなかった。
「これ、貰ってくぜ」
 ジャラと音を発て、ネオンの洪水をその体表に反射して光る物体を、京が床から拾い上げる。それは、ついさっきまで庵の腕を縛りつけていた鎖と錠。
「要らねえだろ? ⋯⋯必要になったら俺を呼べばいい」
「フン」
 庵は鼻で嗤う。
「男を抱いて楽しいか」
「べつに楽しくはねえな」
 ――でも。
「必要ならいつでも相手になってやるってことだ。試合と同んなじさ。俺との決着がつかないうちに、おまえにおかしくなられちゃつまんねえんだよ、こっちとしては」
 だから、そのためになら庵に手を貸してやってもいい。京は本気でそう思っている。
 家のことは関係ないのだ。ただ自分は、八神庵という個人と、格闘という手段で優劣を競いたい。雌雄を決したい。それを望んでいるだけ。
 だからこそ京はちづるの要請を受け入れ、彼女と庵との三人でチームを組むことにも同意した。たとえ庵にKOF参戦の意志がなかろうと、チームを組むことを決めた以上、ちづるが何とかする筈だ。京はそう考えた。そうやって、彼女が庵をあの舞台へ引っ張り出してくれるなら、自分にとっては好都合。
「だからさ、チーム優勝果たしたら、その後で今度こそ俺たちふたりの決着、つけようぜ」
 決着がついた後でなら、庵が大蛇の血によって狂ってしまおうと死んでしまおうと、自分の知ったことじゃない。
 無情にも、京はそう考えていた。
 勿論、庵と闘って勝つのは自分だとも信じている。
「そういう訳だから、その身体どうにかしとけよ? 夏までに。俺以外のヤツに負けるなんて許さねえかんな」
 相手が例え大蛇であっても。自分以外に負けるなど、そんなことは許さない。
「貴様の理屈になど、俺は従わんぞ」
 随分と勝手なことを言ってくれるものだ。
 そう思う一方で、何も知らないからこそ吐ける台詞を耳にすることが出来、安堵してもいた。まだ自分が、京を騙せていることを確信したからだ。
『どうにかしろ』と。
 このとき京がいだいていた危機感などは、所詮その程度のものだった。庵の身体が、大蛇の血に蝕まれ始めていることをちづるから聞かされてはいたが、それがどれほど深刻な状況なのか、京は本当の意味では理解していなかったのだ。そして、それを京に語ったちづるもまた、一度始まったら決して止まることのない血の暴走が、一体どれ程のスピードをもって進行し、庵の意志を喰い尽くすのか、実際のところは少しも解っていなかった。
「また来る」
 そう言い残して立ち去る男を、
「⋯⋯好きにしろ」
 庵はそんな言葉で見送った。
『また来る』
 言った以上、彼は再びここを訪れるだろう。
 苦しみのたうちまわる己の姿を八神の者たちには見せたくなくて、だから庵は、最期の時は独りで迎えようと思っていた。この部屋は、そのために引き籠もった場所だった。
 もう充分な筈だ。八神の者たちが受ける痛みも苦しみも。彼らにこれ以上の拷問は、今ここでは必要ない。
 生きて残される彼らには、この後にも、延々と続く悲しみと苦しみとが待っているのだから。
 男の決断は早かった。
 さあ、これからどこへ行こう。どこで独り、狂おうか。
 殆ど吸われることなく燃え尽きた煙草はいつの間にか灰になり、庵の指先から零れ落ちて、床の上にその残骸を晒していた。





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