事務的に参加したバンドの打ち上げから解放されて店を出た庵は、路上に見知った顔を見つけ、思わず足をとめていた。彼の記憶の中では立てたスタイルでセットされている長い金髪を今は肩に流し、細い腰に手を当ててあからさまな視線を投げて寄越しているのは、
「二階堂⋯⋯?」
その人だった。思いもかけない人物の登場に、庵は知らず怪訝な声で呼びかけてしまっていた。
「よお」
かるく手を挙げてそれに応じた彼は、
「初めて見たよ、おまえンとこのステージ」
今宵客としてフロア内にいたのだと言外に告げてから、更にこんなことを口にした。
「勿体ないよな、今夜のがラストライブなんだって?」
惜しいと思うんだけどなあ、俺は、と続けた言葉はどうやら紅丸の本心らしい。
「バンド抜けてバイトも辞めて、おまえどうすんの、これから。ほかに何か楽しいこと、あんのかよ。⋯⋯それとも余計なお世話?」
「⋯⋯⋯⋯⋯」
言おうとした言葉をそっくりそのまま先に言われ、庵は憮然として口を噤む。全くその通りだ。部外者にとやかく言われる筋合いはない。
バンド脱退の件は今夜のライブを聴いていたのだからともかく、バイトを辞めたことまで知っているとなると、それはもう偶然で済まされる範疇ではなかった。
紅丸が意図的に調べていたのだということか。だとすれば、今夜、おそらくはライブハウスから自分を尾行して来てここにいるのだろう彼は、何らかの目的を持っているということだ。
自然、庵の裡に警戒心が芽生える。
「なあ八神、これからちょっと付き合えよ」
「どこへだ」
「どこでも。訊きたいことがあるんだ。落ち着いて話ができるトコだったらどこでも構わない」
誘いかけるその言葉とは裏腹に、それを吐き出す口調にも庵を見つめる眼にも、有無を言わせない強さがあった。それに気圧された訳ではなかったが、庵は無言で顎をしゃくり、紅丸に先に行くよう促す。
彼らは連れ立って歩きだし、すぐに手近な喫茶店を見つけてドアを引いた。
繁華街に立地し早朝まで営業しているその店は、深夜であるにも関わらず、週末であるからか八割方のテーブルが埋まっていた。
相応に賑やかさがあって、会話を聞き取られる心配がないことを確認してから、紅丸が単刀直入に切り出す。
「おまえが京に自分を殺させようとした、本当の理由はなんだ?」
オーダーを訊きに現れたウェイターに、庵の了解もとらずコーヒーをふたつ注文すると、紅丸はすぐさま彼へと視線を戻す。
「何を疑っているのか知らんが、あのとき言った通りの理由しかない」
紅丸の真剣な眼差しに晒されても、庵が取り合おうとする気配は少しもない。
ふっと息をついて一呼吸置き、紅丸は更に尋ねる。
「おまえさ、本気で死ねるなんて、思ってたのかよ」
「なんだと?」
「京に、八神、おまえを殺す気がないことくらい知ってたろう? その気のない京が放った技で、マジに死ねると思ってたのか」
庵は黙っている。
「最初から結果は見えてたんじゃないのか?」
紅丸は思っていた。庵は最初から解っていたのではないか、と。手を抜いて京の相手をしたところで、自分の目論みが外れるということくらい。
庵は考え込んだ。正直、意識の表層でそれを考えたことはなかった。だが、改めて紅丸に指摘されてみれば、その水面下で、無意識のうちに自分は悟っていたのだろうとも思えてくる。
京には殺してもらえない。そのことを、この身をもって確かめることで、選びたくなかった途に進まなければならなくなった己を納得させよう、と。
だとすれば、京との果たし合いは、ただの確認作業で、つまりは通過的儀礼に過ぎないものだったのか。
黙ってしまった庵と彼の顔をじっと凝視している紅丸の前に、コーヒーのカップがふたつ並ぶ。伝票を裏返して置くウェイターの、ごゆっくりどうぞという決まり文句が消えても尚、しばらくふたりは無言だった。
紅丸が先に手を伸ばしてカップを口に運び、それをきっかけに、また言葉を重ねる。
「八神、おまえ今どこに住んでんの」
その問いには即答せず、
「あいつに訊けと言われたか」
庵は反対に問いかえした。
「問い詰めて俺が吐くとでも思っているのか? ⋯⋯第一ほかにも調べようはあるだろう。KOFの線もあることだ」
庵は、京と八咫家の女当主とが、この東京で接触したことを知っていた。京にちづると逢う機会があったのなら、なぜそのとき彼女に尋ねなかったのか。96年の大会を仕切ったちづるには、選手の居所くらい知れている。
「それとも、俺が棲処(すみか)を変えたとでも思ったか」
自分は逃げたりなどしないのに。逃げる場所などどこにもない。自分には、目の前に残された、このただひとつの途を先へ進む以外に出来ることはないのだ。
「あいつが俺を探していたことなら知っているぞ」
「なら、どうして会ってやらなかったんだ」
「必要のないことだからな」
「京が言ってたぜ、気配まで消してやがる、って」
そうまでして見つけられないようにしていることに、どんな意味があるのだろう。
「で、今日おまえが俺を見つけたのは偶然か?」
話を逸らすように問いかけた庵に、
「まさか」
紅丸はオーバーアクションで肩を竦めてみせた。彼の身体を流れる血の内の半分がそう見せるのか、そんな外国人めいた仕種がすこしも厭味にならない。
紅丸は言った。
「バンド関係シラミ潰しに当たらせて貰った努力の成果さ。褒めてくれよ。お陰ですっかりインディーズに詳しくなっちまった」
「ご苦労なことだな」
だろ? と、軽い口調のまま応じ、
「だけど連絡先までは割れなくてさ。なんつーの、ガードが堅いって言うか、口が固いって言うか⋯⋯。緊急事態だからっつっても誰も教えてくんねーんだもん、参っちゃったね」
と、本当に困り果てていたとも思えない調子で話を続ける。だが、おまえどんな口止めしてたんだ? と尋ねたところで、庵からの返答はなかった。
「仕方ないから、おまえが出るっていうライブのチケット取って、今日まで待ってたわけ」
「京にはもう連絡したのだろう」
「いや」
してないよ、と、あっさり返された意外な返答に、庵は数度瞬きした。
「あいつのためにと思ってやったことじゃないんだよ。俺が個人的におまえを捕まえたかっただけ。訊きたいことがあるって言っただろ」
「それにはもう答えた筈だな」
言い様席を立ち、伝票を掴んで歩き出そうとした庵の腕を、紅丸の手はしっかと捕らえる。
「まあ待ちなって。訊きたいことはまだあるんだから」
庵を再び席につかせ、紅丸は質問を続けた。
「なあ、八神。大蛇ってのは何なんだ」
「あいつから聞いていないのか」
「京が好き好んでそういうこと話すと思う? そりゃあ少しは俺が無理に聞き出したこともあるけどさ」
KOF96決勝戦後のゲーニッツとの闘い、それと先だっての庵との果たし合い、このふたつの件に、大蛇とは無関係である自分を、意図していなかったにせよ巻き込んでしまったこと、それを悔いる気持ちがなかったら、今でも京は自分に何も語っていないだろうと紅丸は思っている。
「だから俺には細かいことまでは解らないんだけど、大蛇ってヤツの封印は、解かれちまったんだろ? ってことは、そのうち復活してしまうってことだよな」
「あいつが、そう言ったのか」
「ちがう。あの、神楽って女が、確か去年そんなふうなこと言ってた記憶がある」
初めて目の当たりにした大蛇の力は、紅丸には信じ難いものだった。こんなものが、この世に存在していていいのかとさえ思った。再会したルガールが持っていた力も、あのゲーニッツという牧師が見せた力も、紅丸には超人のそれとしか思えなかった。
「もしそれが俺の勝手な想像じゃなく本当なのだとしたら、八神、おまえがいなきゃいけないんじゃないのか?」
「大蛇を再び封印するために、か」
「そうだ」
「⋯⋯おめでたいな」
紅丸の見慣れた癖のある笑い方で、庵は唇端を吊り上げた。
「俺が⋯⋯『八神』が、大蛇を復活させたがっているとは思わんのか」
「思わないな」
力強く迷いのない否定。
「八神家に伝わる大蛇の血と力ってヤツは、今はおまえひとりの身体に宿ってるんだろ。だとすれば、だ。例え八神一族の望みが大蛇の復活なのだとしても、『八神庵』にしかそれを左右する力はないってことだ。⋯⋯八神、おまえはそんなこと望んじゃいない。おまえは、自分がそうすることで何が起きるか想像できないほど馬鹿じゃないだろ」
大蛇の復活が意味するもの、そして引き起こされるであろう惨事。それが想像できないなんて言わせない。
「買いかぶりだなんて言うなよ」
また先回りされ、庵は軽く首を振りながら吐息と共に苦笑する。
「だが⋯⋯」
と、否定の言葉を口にしかけ、ふと何かを思いついた貌になった。
「そうだな。ひとつ教えておいてやろう。おまえは気付いていないようだからな。⋯⋯おまえは、大切なことを見落としている。俺の死が意味するのは『八神』の死であって、『八尺瓊』が絶えるということではない」
「どういうことだ?」
「俺に妹がいることを知らないか? つまり、俺が死んだところで、妹が生きている限り、そしてその血を繋いでいく限り、八尺瓊の血は絶えないのさ」
「いもうと⋯⋯」
そうだ、と庵は頷いてみせた。
「元々八神は女系の一族だ。だから、血を残すのが女であることも、俺たちにとっては自然だ」
いうなれば、『八神』という名によって区別される生き物は、厳密には庵ひとりなのである。
「どうだ? これで安心したろう」
庵の死後も、三種の神器の家系は安泰という訳だった。たとえ家同士の仲が悪いままであったとしても。
「OK。そのことは理解した。じゃあ、もうひとつ」
「まだあるのか」
いい加減うんざりだと言いたげな様子の庵に構わず、紅丸は続ける。
「ホントに『八神』は『草薙』を恨んでんのか?」
「ああ」
何を言い出すのだ、と呆れた表情を見せて庵は答えた。
勿論この回答は嘘なのだが、本当のことは、紅丸に知らせる必要がない。だから教えない。
不服そうに見える男の貌を前にして、それでも庵は表情を変えなかった。
「でも、おまえは、京っていう個人と、もう闘う気はないんだよな?」
「言った筈だ。もうそんな必要はないと。あいつは、手を抜いて相手をしてやった俺をでさえ、殺すことができないような男だぞ。草薙の末裔が聞いて呆れる」
庵は続けた。
「あいつには、宿命などというものと向き合う気がない」
そういう気構えでいるからこそ、彼は『草薙』でいられるのだと庵は思う。
「京はそうやって今までを生きて来たのだし、これからもそうやって生きて行くのだろう」
あの男は、それでいいのだ。
「あいつはあいつの信じるように、信じる道を行けばいい。これから俺の進もうとしている道に、あいつを連れ込もうなどという気も今更起きんな」
京は『八神』の存在無くしても、生きて行けるのだろうから。
彼は自分とは違うのだ。己(おの)が身を流れる大蛇の血と、表向き敵と位置づけられる『草薙』の存在と、そのふたつに因ってのみ、生を支えられてきた自分とは。
「でも、八神⋯⋯」
続く言葉を口にすることをなぜか逡巡し、心の中で紅丸は庵に問いかける。
宿命を無視することで京が自己を確立しているのなら、京もまた、宿命に縛られていることになりはしないか、と。
「どっちにしろ⋯⋯もう遅いかもしれないぞ」
本当に言いたかった言葉は飲み込んでしまい、結局紅丸が口にできたのは核心の縁(ふち)。
「あいつ⋯⋯自分の宿命ってヤツと真剣に向き合っちまったのかも知れないからな」
「どういうことだ」
紅丸の言葉の指す状況が想像できず、庵は眉をひそめ問い質す。
「今年の大会、京は、あの神楽って女と組む気でいるぜ」
「なんだと?」
「お陰でこっちはチームメイト探しに大わらわだ」
ちづるとチームを組む筈だったキングと舞のふたりも、いまごろは随分慌てていることだろう。KOFまでは、後ひと月余りしか猶予がない。
紅丸とて時間がないのは同じ筈だが、
「もっとも、俺に声掛けられて断るお嬢様方はそうそういないけどね」
と、おどけた口調で付け足すことを忘れなかった。
「ま、あいつにどういう心境の変化があったのか、俺は知らないよ? でもこれがどういうことを意味してるか、それは解るよな?」
見え透いていた。紅丸に確認されるまでもない。草薙京が神楽ちづると組むのなら、彼らが次にチームに引き入れたいと望む選手は、八神庵である筈だ。三神器を揃えようという意図がみえみえではないか。
「馬鹿なことを⋯⋯」
庵は知らず口元に手を当て、声に出して呟いていた。その言葉を聞き咎め、
「それをおまえが言うのか? あいつを宿命なんてものの中に引きずり込もうとしてたのは、八神、おまえなんだぞ」
紅丸は強い口調で庵を責める。
「そうだ、俺だ⋯⋯。解っている」
そんなことは。
でも。
「馬鹿なことを⋯⋯」
もう一度、おなじ悔やみの言葉が庵の奥歯の隙間から繰り返された。
――どうしてそんな⋯⋯。
今更、なのだ。もう自分の覚悟は決まってしまっている。馬鹿だ、京。おまえがそんなことをしても、もう⋯⋯。
話すべきことをすべて話し終えたのだろう、伝票を手に紅丸が席を立った。
「悪かったな、長いこと付き合わせて。ここは俺の奢り、な」
レジで清算を済ませて店を出ると、外はもう早朝の気配を漂わせ始めていた。
紅丸と別れる段になって、庵は、
「二階堂」
と、男を呼び止めた。
背を向けかけていた紅丸が立ち止まる。
「京を俺に近づけるな。あいつにとってロクなことにならん」
「⋯⋯強情だな」
紅丸の返した言葉に、庵はフンと鼻を鳴らしてみせた。
紅丸は、京に望まれても尚、彼と共にステージに立つ意志がないと言外に告げた庵を指して、強情だと言ったものらしい。
「だいたいな、京がそう簡単にどうこうなっちまうワケねえっての。あいつは相当タフだぜ?」
――次元が違う。
庵はそう思ったが、口には出さず、
「壊れてからでは遅いぞ」
それだけを言い置いて、目覚め始めた街の、蒼く澄んだ空気の中へと歩きだした。
ベッド以外なにもない部屋で、ひとり、来(きた)るべき時を待つ。
紅丸と会った日を最後に、庵は部屋から一歩も外へ出なくなっていた。あれから何日が過ぎたのか、時間の感覚は既にない。今ではもう、痛覚しか働いていないのではないかと思う。それ程にほかの感覚は鈍り、体中が軋むような痛みだけを知覚している。
苦しさに庵はもがく。
能(あた)うことなら、一思いに殺して欲しかった。後どれだけこの苦痛を味わえば、自分は解放されるのだろう。死という終焉に辿り着けるのだろう。
擦り減った神経。気が狂ってしまわないのが不思議なくらいに。つまらぬ意地などかなぐり捨てて、いっそ大蛇の血に呑まれてしまえば、どれだけ楽なことか。少なくともこの痛みからは確実に解放される。
狂った上で京の⋯⋯草薙の手に掛かって死ぬ。
それが庵に残された最後の選択肢。
できることなら彼らの手を煩わせることなく、ただ狂い死ぬ自分でありたいと願う。だが、自我を失くした己の行動など、庵にも制御不能だ。だからどうなるのかは解らない。
なるようにしかならない。
そう観念している一方で、しかし八神庵としてでない、他の何かとして京と逢いまみえる、それだけは許し難いとも思う。そんなことになるくらいなら、同情を買ってでも八神庵のままで殺されてしまいたい。そう望む自分を失くせない。狂って自我を失くした、人でなくなったこの肉体で、京と対峙する自分を思うと、庵は抗わずにいられないのだ。
運命に身を任せる――。
自らその途を選んだくせに。それでもまだ足掻くのか、おまえは。この血と共に逝くことを心に誓ったのは、ほかの誰でもないおまえじゃなかったのか⋯⋯。
己の往生際の悪さを、庵はそんな言葉で責め、詰る。
――でも、まだ。あと少し。あと少しだけ⋯⋯。
何に希望を託しているのか自覚もなく、それでも庵は無意識に生きようとしていた。
ブラインドを下ろした庵の部屋は、時間に関わりなく薄暗い。その薄暗い空間に、ドアの開く音が響いた。
しかし、庵はそれを幻聴だと思った。だから身じろぎもしないで目を閉じていた。この部屋を訪れる者など、いる訳がない。八神の人間の出入りも禁じてあった。当主の命令は絶対だから、彼らがそれに背く筈もない。
それなのに、フローリングの床に直接側臥した自分を、誰かが見下ろしているような錯覚に襲われて、己の感覚も侵され始めているのだと庵は信じた。
ところが、その何者かの気配は、いつまでも消えずそこにある。
――おかしい。
庵は重い目蓋を上げた。その視野に男物の靴。弾かれたように顔を起こし、庵が見上げたその先にあったのは、
「きょ、う⋯⋯?」
その男の顔だった。
――嗚呼。
まだ、この男が何者であるのかを認識できる程度には、己の意識はしっかりしているらしい。
だが、庵の声帯を何日ぶりかに通過して現れたのは、
「なにを、⋯⋯しに、来た⋯⋯」
そんな拒絶の言葉だった。
もう構うなと言わなかっただろうか、自分は。
「おまえこそ⋯⋯なんなんだよ、これは」
およそ人の生活空間とは思えないこの場所。そして庵のその姿。
彼はなぜかその利き腕を、金属の鎖でベッドヘッドのパイプに固定されているのだ。よく見れば、ご丁寧に南京錠で鍵までが掛けられている。
「なんの真似なんだ」
悪巫山戯にしては度が過ぎている。
京はぐるりと部屋を見回してみた。が、鍵は見当たらない。
「誰にやられた?」
「⋯⋯知る必要はない」
それは庵自身がやったことだった。誰彼かまわず、それこそ見境なく襲い掛かりたくなるのだ。発情期と呼んでもいい衝動。その血を宿させ自由に操ることのできる器を残させるために、庵の中に棲む大蛇の血が暴れ出しかけていた。庵の理性を喰い破り、本能の赴くままに行動せよと意識下に命じる。
そこから生み出されるのは、爆発的な攻撃力。
意識下への命令に逆らうべく、この部屋から簡単には出られないように、庵は自分自身の肉体をみずから戒めた。この衝動に打ち勝ち、ヤマを越えられたならば、つぎに訪れるのは自我の崩壊。つまり完全に血の暴走に呑まれるということ。その状況に辿り着くために、そしてまた大蛇の血を後世に遺さぬように、庵はこんな真似をしているのだ。
「やめろっ、京!」
鎖に手をかけ、どうにかして錠を外そうとし始めた京に気付き、切迫した声で庵が叫ぶ。
「はずすなッ」
「だから、なんなんだって訊いてるだろ」
顔を背け、自分の目を見ないようにする庵の態度に、京が薄く嗤う。彼は庵の顎に手をかけ、強引に上向かせた。
「触る、な⋯⋯」
語尾が不自然なほど震える。
「八神⋯⋯?」
「俺に、触れるな⋯⋯」
京の気のせいではなく、きつく閉じられた庵の目蓋が微かに痙攣している。
「おまえ、熱でもあんのか」
触れている肌が異様に熱い。京が見下ろしている男の顔にも、うっすらと汗が浮き始めている。脈を取ろうと、首筋に移動させた手は、庵の頭の一振りでその肌から弾かれた。
「やめろと言っている!」
だが、庵の激しい拒絶の言葉も、京に対しては何の牽制にもならない。京は好奇心に煽られるまま、獲物の肌に再び指を伸ばす。
「⋯⋯⋯⋯!!」
触れられて、獲物はびくりと身を竦ませた。否が応にも意識させられる他人の肌の感触に、己の皮膚の下で物欲しげにざわめくの熱の存在を意識せずにいられない。
「⋯⋯なるほどなあ⋯⋯。そういうことかよ」
このとき、目を開けなくても庵には、京がどんな貌で自分を見下ろしているか、解る気がした。
きっと嘲笑(わら)っている。
蔑むように嗤っている⋯⋯。
「八神、観念しちまいな」
耳元で囁かれた狩人の言葉は、もう獲物の脳に正確な言語としては届かなかった。
「すげぇな⋯⋯」
何度その欲を吐き出しても鎮まる気配のない庵の身体を、京が下卑た声音で揶揄する。
「そういや聞いたことがあるぜ、蛇の交尾ってのは、そうとう濃厚なもんなんだってな?」
大蛇と蛇とを同等に考えていい筈もないが、もはや庵の思考はそれを聞き留め、指摘できるような状況下にない。
――熱い。
何もかもが。触れ合う皮膚も、吹き出す汗も、身体に纏わりつく空気でさえも。
吸いこんだ酸素(くうき)の熱さに喉を焼かれ、肺が爛れる。身体の内側から熱に侵食されていく。
陸(おか)の上で溺れているような錯覚。呼吸(いき)が、苦しい。
自身をきつく握りこまれ、けれどそれが痛みではなく別の感覚に擦り替わる一瞬。
「⋯⋯っ、あっ」
過ぎる甘さは毒だった。全身を震わせ、庵は京の腕を握り締め、そして耐える。
切ることを忘れて伸びてしまっていた爪が、容赦なく京の皮膚を喰い破っては血を流させる。それに頓着するふうもなく、京は好き勝手に動き続けていた。
「う⋯⋯く⋯⋯」
首を振って荒く熱い息を撒き散らしては、また喉を詰まらせる、そんなことの繰り返し。逃げようとする庵の身体は、しかし京の腕の中で身じろぎ、わずかに態勢を変えることしか適わない。どこかにまだ残っている理性が邪魔だった。
いっそ、何もかも捨てて。すべてをこの男に――。
「余裕だな」
突然の言葉に庵は目を見開く。
「なに考えてる」
庵が見上げた目線の先で、京の双眸が彼のそれをひたと見つめ返していた。何かを見透かすような黒い瞳。どこまでも深く、飲み込まれてしまいそうな黒い闇。
底のない、冷たく暗い――。
この闇の正体を自分は知っている。それは己の心の奥深い場所に⋯⋯。
「⋯⋯ッ、⋯⋯あ⋯⋯」
唐突に体内を力の限りに蹂躙されて、庵は悲鳴を飲み込み損ね、反射的に目を閉じていた。視界は再び闇に閉ざされる。掴みかけていた答えを取り逃がし、彼の意識は深く冷たい闇の淵へと落ちていく。
体力はとっくの昔に限界点を越えている筈だった。それなのに、身体の芯にある熱は、いつまで経っても鎮まる気配がない。どれだけ熱を吐き出しても、まだ足りないのだと訴えるように、貪欲に京を銜えこむ自分の身体が疎ましい。そうまでして楽になりたいのか、と庵は心の中で自身を詰る。けれどそんな自分の心をも裏切る彼の肉体は、尚も京を求め、男を離そうとはしなかった。
解っている。相手は京でなくてもいいのだと。この苦痛を少しでも和らげることができるなら、おそらく相手は誰だっていいのだ。
こんな自分⋯⋯殺してしまいたい。死んでしまいたい。
庵は心の底からそう思った。
「きょ⋯⋯う⋯⋯」
確かに開けた筈の庵の眼に、見ることを望んだ男の顔は映らない。もう視覚がおかしくなり始めている。
歪み始めているのは感覚なのか、それとも意識なのか。
「中途半端に⋯⋯助けようと、する、くらいなら⋯⋯っ」
消え入りそうな低い声が京の鼓膜を打つ。
「⋯⋯いっそ、殺せ」
――殺してくれ。
最後、譫言のように呟いて、庵は自我を放棄した。
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