庵が草薙家を離れた翌日、京は彼の後を追うように東京の自分のアパートへ戻った。高校進学にあたって、何かと煩わしさのつきまとう本家を出たいと希望した京の我儘に、寛容なのか放任なのか、草薙家の人間は誰も反対しなかった。そのため彼は、この数年、東京でのひとり暮らしを満喫している。
もう迎えるのが何度目になるのか、数えることも嫌になった高校三年生の一学期は、とっくの昔に始まっている。だが、京はまだ一度しか登校していなかった。今年卒業できなければいいかげん強制退学を喰らうかもしれないが、今はそれよりもっと気にかかっていることがあるのだ。それは、草薙家を出た直後、完全に気配を断ってしまった庵のことだった。
庵が八神の本邸に立ち寄っていないことを確認すると、急く心のまま、彼がいるであろう東京へと戻ってきた京だったが、庵の雲隠れは、物理的距離を縮めたくらいでおいそれと居場所を知らしめてくれるような子供騙しではなく、未だその行方は掴めていない。しかも京は庵の住まいを知らないのだ。それ故、そこへ押しかけることも出来なかった。
そして。
ひと月が過ぎふた月が過ぎ、間近に迫る夏の気配が、京の闘争本能をくすぐり始める頃。京は思いもかけぬ形で庵の姿を目にすることになる。
そのとき京は自分の部屋でテレビを観ていた。ほとんどの局が夕方のニュースを流している時間帯で、京はリモコンを操って一通りチャンネルを梯子すると、最終的に、声の好きな女性アナウンサーが原稿を読んでいる映像を選んだ。ニュースはちょうどスポーツ関連のコーナーになり、KOF97の開催を告知する内容が報じられ始める。
そこで京は庵を見た。
テレビ画面に映し出された資料映像は、前年大会のそれ。蒼紫の炎を翻す庵の姿をバックに、アナウンサーはこう告げた。シード選手として八神庵の参戦が決定している、と。
京は正直呆れた。KOFをくだらない大会だと言い放っていたのに、そして自分とはもう関わらないと言ったのに、なんだ、やっぱり今年も出場するんじゃないか、あの男は。
確かに、依然気配を断っていることに対する不審感は完全には払拭できなかったが、かといってこれ以上気にかける必要もなさそうだ。
京がそう判断を下して数日。しかし、京と庵との間に第三の、無視することのできない人物が介入してきた。
その日、ひとり暮らしの部屋へ帰り着いた京を、固定電話の呼び出し音が出迎えた。PHSを持ち歩くようになってから、ほとんど置物と化している電話機は、解約の手間を惜しんだ代償に、いまなお月々の基本料金だけを律義に喰いつづけている。
久しぶりに聞くそのコール音に京は驚いて、一瞬三和土(たたき)で固まったものの、ぺちゃんこの学生鞄を足元に投げ出しつつ受話器に手を伸ばした。そして、相手の声を聞くや否や、彼は今持ったばかりのそれを、フックに叩きつけようかと真剣に考えた。
――取るんじゃなかった。
電話の主は神楽ちづる。神器を護る三家直系のうち、現世代最年長の彼女が、京はなぜか苦手なのだ。
『渡したいものがあるの。出て来てくれないかしら』
選択権を与える物言いをされているのに、断ることは絶対に許さない、そう脅されているように感じてしまうのは京の持つ余計な先入観のせいだろうか。
「なんだよ、渡したいものって」
帰宅して、これから部屋でのんびりできると思っていた矢先なだけに、彼女の声は、京の身体に余分な疲れを積み上げて来るようだ。
『KOFの招待状。もちろん今年のよ』
「なんで送って寄越さねーんだ」
ちづるが大会を主催した前回のKOFでは、そうしていたのに。
『近くまで来ているのよ、だからついでにと思ったの。それとも、要らない?』
招待状を人質ならぬ物質にして、彼女は京を脅しているらしい。
ふーっ、と鼻から、ちづるに聞こえるようわざと大きく音をたてて息を吹き出し、
「わかったよ、解りましたッ。で? どこまで出てやりゃいいんだよ」
自棄になる寸前のなけなしの理性で聞くべきことを尋ねてみれば、ちづるから告げられたのは京が下校途中頻繁に訪れるファミリーレストランの名前だった。彼はその足で、十数分後、指定された店のドアをくぐっていた。
外から見える窓際の席で彼が現れるのを待っていた女は、見慣れないライダースーツ姿。座るレザーシートの横に、フルフェイスのヘルメットが置かれている。バイクレースが趣味だという彼女は、どうやら京都からここまでツーリングして来たらしい。掛かった時間といつ京都を発ったのかは、想像もしたくなかった。
――この化け物め。
心中に吐き捨て、京は眉を顰める。
「用が済んだらさっさと帰るぜ、俺は」
女の顔を見るなり、京はそう宣言した。
「あら、久しぶりに東京まで出て来たのに⋯⋯。もう少しゆっくり付き合ってくれてもいいのじゃなくて?」
ちづるの、古風且つ抑揚に乏しい物言いが、ますます京の気に障る。
「疲れてんだよ!」
悠長に話すちづるとは対照的に、京は苛々と言い放つ。そして、オーダーをとりやって来たウェイトレスをその場に少し待たせ、
「当然ここは奢りなんだろうな」
と、ニヤリと笑った。それくらいの意趣返しをさせて貰わなければ、腹の虫が収まらないと思ったのだ。が、
「ええ、勿論構いませんよ。わたしは社会人ですもの」
と、ちづるににっこり笑い返されてしまう。暗に、学生のあなたには払わせられない、と言っているこの台詞はいたく京を憤慨させ、依怙地にさせるには充分だった。
「コーヒーだけでいい」
待たせていたウェイトレスに、高校生は憮然と注文する。
「あら、本当にいいの? ついでに夕食も食べて行きなさいな、遠慮などせずに」
「遠慮なんかしてねえっ」
ムキになってしまうのが我ながら情けないが、まだ自分が学生の身分であることをこの女に指摘されるのだけは、どうにも許し難い、心の狭い京だった。
「ここまでわざわざ来てみたのに⋯⋯八神の気配を感じ取ることは出来ないのね」
ウェイトレスが立ち去ってから、不意にちづるがそれまでとは語調を変えた。彼女の目線はガラス越しの外へと向けられ、初夏の景色を眩しそうに見つめる。
「なんだよ、あんたそんなことの為にわざわざ京都くんだりから上京して来たってワケ? ご苦労なこったな」
「あら、今あなた聞き捨てならないことを言ったわね。京都くんだりじゃないわ、上京でもないわよ。わたしは江戸くんだりまで下ってきたの」
「あんたの感覚、それ時代錯誤って言わないか」
「で、いつからなのかしら?」
いつまでもふざけていられるほど暇な身ではない。ちづるはすぐに話を本題へ戻す。
「知らねえよ、そんなこと」
「あなたが関わっているのではなくて?」
「なんでそう思うんだ」
「何があったのか話してちょうだい」
ちづるは、京がこの件に関わっていることを微塵も疑っていない。それが、当の京には気に喰わない。そして彼にとってもっと気に喰わないのは、ちづるの想像がおそらく正しいということだ。
「八神に直接訊けばいいじゃねえか。俺なんかに訊くより本人に尋ねた方が、よっぽど確かだと思うぜ。あんたは知ってんだろ、あいつが住んでるトコも」
「あなたの口から聞きたいのよ、わたしは。⋯⋯話してくれるまで、これ、渡してあげないから」
京の目の前でヒラヒラと、招待状が入っているのだろう封筒を振ってみせるちづるの笑顔は、まさに悪魔の微笑みというヤツで。力づくで奪い取りたくなるのをどうにか堪(こら)え、京は膝の上できつく拳を握った。どうせ手を伸ばしてみたところで軽く躱され、不様にあしらわれるに決まっている。
「脅迫じゃねえかよ⋯⋯」
これだから京はこの女が苦手なのだ。弱みを握ることで主導権まで奪ってしまった。
「ったく。俺んトコにだけいつまで経っても届かねーから、おかしいと思ってたんだ!」
先(せん)だって、プライベートでも付き合いのある紅丸から、招待状が既に送られて来ていると聞かされ、京は不審に思ったのだ。だいたい彼は、自分が日本代表チームの一員として登録されており、今年もKOFに参戦できるということを、自身が招待状を手にするのよりも先に、テレビや雑誌の広告を通して知ったのだ。面妖(おかし)な話である。
「そういうことだったのかよ」
「そういうことって?」
「とぼけんな」
この女は初めから、それを餌に自分を意のままにしようという魂胆(はら)だったのか。
「ムカつくっ」
一声吠えてから、京は開き直ってちづるを見据える。
「⋯⋯なにを聞きたいって?」
こんな面倒にながながと付き合う義理はない。さっさとカタをつけ、帰ってフテ寝してしまおう。
「去年の大会が終わってから、あなたたち二人の間に何があったのか、それを知りたいの」
そう言われて京は、庵から果たし合いを申し込まれ、それを受けたことと、その後に起きた事態を、自分に不都合な点を除いて一通りぜんぶ話し、最後をこう締め括った。
「ウチの本家を出てって⋯⋯それからだ、あいつが気配殺してんのは」
「そうだったの」
話をしているうちに、京の気持ちは次第に昂ぶってきていた。思い出された記憶が、彼の中にある何かの感情を刺激したのだ。
「あいつ、自分のこと俺に殺させようとしやがった。未遂に終わってなきゃ、今頃俺は犯罪者だぜ? ったく、俺には『草薙』も『八神』も関係ないって言ってんのに、なんで俺があいつを殺さなきゃなんねーんだ!? ふざけやがって」
そのときのことを思い出し、憤懣やる方ないといった風情で、京は握り拳をテーブルに叩きつける。
ドン、という派手な音と共にテーブルの上のコップが踊り水飛沫を跳ね上げたが、彼はそんなものには目もくれない。店中の人間の視線が一斉に自分に集まったことも、平然と無視する。
「全くどうかしてるぜ。一族の悲願達成のために、てめぇの命を差し出す? 俺には理解できないね」
苛々と、今にも貧乏揺すりを始めそうな脚を、組み替えることで抑えつけながら、京はそう吐き捨てた。
「おかしいわ」
京の言葉に、ちづるの呟きがかぶる。
「八神には、草薙一族すべてを⋯⋯それこそ『一族郎党の皆殺し』を成せるだけの力があるのよ。大蛇の血を最大限に利用すれば、この現代に於いてであっても、それが難しいなんて、そんなことはない。それは言い訳よ」
「いいわけ?」
ちづるの説明に、京は俯けていた顔を上げた。
「八神は嘘をついているわ」
「なんのために」
「それは、判らないけど⋯⋯」
――もしかしたら。
ちづるの頭にひとつの仮説が浮かんだ。
「『八神』の総意云々は関係なくて、ただ、八神が、彼が死にたかったのじゃないかしら」
「はあぁっ?」
――そんな訳あるか。
京は裏返ったような声を上げて、ちづるの想像を一笑に付した。
だいたい、『草薙』に罪を負わせるという理由をつけられてでさえ、京には、庵が自らの命を棄てようとしたことが信じられなかったのである。その庵が、ただ死にたい、それを理由に死ぬ、だ? そんなこと、あり得ない。
「しっかりしてくれよ、神楽。相手はあの八神庵だぜ? 自殺なんか考えるようなタマかっての」
そう言って、京は自分の言葉にピンと来た。
「なんだ、そうだよ、自殺すりゃ済むんじゃん。『八神』の恨みが関係なくって、ただ自分が死にたかっただけだってんならさ。俺に殺させようなんて、それこそこっちはいい迷惑だ」
本気でそう思っているらしい京に、ちづるが真顔で問いかける。
「草薙⋯⋯、あなたまさか知らないの⋯⋯?」
「なにが」
「八神が自分では死ぬことができないということを、よ」
「なんだと?」
組んでいた脚をほどき、思わず身を乗り出して来た京に、
「あなた、ほんとうに今まで何も知ろうとしてこなかったのね⋯⋯」
呆れた、と、ちづるはこれ見よがしに肩を落とし、深い息をついた。
「⋯⋯じゃあ教えろよ、神楽」
そんなふうに言うのなら、今この瞬間から知ろうとしてやろうじゃないか。京は険しい眼差しをちづるに向ける。
「何を知りたいの?」
答えを知っていて、わざとそう訊いて来るちづるを煩わしいと思いながらも、それを凌駕する好奇心が京の口を割らせる。
「八神のことだ」
「八神庵のこと? それとも八神家のこと?」
「両方、全部」
ちづるはクスリと笑った。そして、欲張りね、と言ってから、
「いいでしょう。わたしが知っていることなら全て話してあげます。それで、何から話せばいいのかしら?」
ああでも、と続けて、
「残念だけど、わたしたち『八咫』に正確に伝わっているのは、『八神』がまだ『八尺瓊』だった頃のことまでよ」
そう付け足した。
「それから後のことは隠蔽されていて⋯⋯」
どこまでが本当のことなのか定かでない、曖昧な情報しか得られていないのだと、ちづるは断った。
「じゃあ、六六〇年前、ウチと『八神』⋯⋯いや『八尺瓊』とが袂を別った理由ってのは」
京が一番に知りたいと思ったことは、六六〇年前に起きたとされる事件についてだった。
「辛うじて、文献としてなら残っているけれど、どこまで正確かは自信がないわ」
「なんでもいい、とにかく話してくれ」
そうして、ちづるの昔話は、『八尺瓊』が代々女の当主を立てて来たという内容からスタートした。
天照大神(あまてらすおおみかみ)という女の太陽神を守護とする『草薙』は、現世に於いて彼女の代理人を務めるため、彼女と儀礼的な結婚をし、その任を全うする。そのために、当主は当然男児でなければならない。故に草薙家には代々、第一子には男児が誕生するのが常だった。
一方、八尺瓊家には、それとは逆の現象が起こる。月読命(つくよみのみこと)という男神(おとこがみ)と契りを結ぶために、第一子には女児が生まれるというわけだ。そうして第二子以降の誰かが、次の巫女を誕生させる責任を負う。『八尺瓊』はそうやって続いて来た家柄であり、第一子として男児が生まれる確率が、異様に低い家柄であるのだった。言い換えるなら、『八尺瓊』は代々巫女を輩出する家系であり、女系一族だということになる。
ただし、八神と名を変えてからの彼らは、第一子にのみ大蛇の血が受け継がれることから、第一子が女児であってもその娘が巫女として神に仕えることはなくなっている。それでも、第一子に女児が誕生する確率が高いことには変わりがない。
その八神家に第一子として男児の生まれるとき、そこには必ず何らかの理由が存在すると言われていた。彼は何か重大な使命を果たすために生まれ、望むと望まざるとに関わらず、逆らえぬ宿命を背負って生きることになるのだと。
六六〇年前、八尺瓊家の当主は過去数人しか存在しない男の当主だった。その彼が妻を娶って数年後、事件は起きる。当時、当主の子を身籠もっていた正妻が、何者かに殺害されてしまうのだ。
「八尺瓊の家には、彼女を殺したのは草薙の手の者だと伝えられた。でも本当は⋯⋯、実際に手を下したのは大蛇一族だったの。⋯⋯八尺瓊は騙されたのよ」
自分たちが騙されたということを、彼らはすぐに知っただろう、とちづるは言う。
「なら、なんで⋯⋯」
「騙されたなんていうこと自体、彼らのプライドが許さなかったのではなくて? だから今もその事実を認めようとしないのだと思うわ」
「そんなことで⋯⋯あいつらのプライドのために⋯⋯、『草薙』⋯⋯俺たちは、『八神』に命狙われなきゃなんなかったってのか!?」
憤る京に対し、
「それは少し違うわね」
ちづるは冷静な声で、彼の想像を否定する。
「?」
「『草薙』の命を一番最初に狙ったのは六六〇年前の当主。その後には八神庵、彼だけよ」
「え?」
その間(かん)は一度として、『八神』は『草薙』に刃(やいば)を向けてなどいない。仲違いをしたまま啀(いが)み合っていたことは確かだが、両家の間で殺戮が行われたという記録はなかった。この期間にも、八神家では何人か男の当主が立った記述は残っているし、それは誤記ではないが、『八神』が『草薙』に対し、何か事を為したという伝承は皆無。
むろん『八神』の内部では何かが起こっていたのかも知れないが、『八咫』に、それに関する情報を集めることはできなかったらしく、文献はないという。
「どういうことなんだ⋯⋯」
京の釈然としない呟きに、解らないわ、とちづるは首を振り、話し続けて乾いた喉を潤すために、水の入ったグラスに口をつけた。
京の前に置かれていたホットコーヒーは、いつの間にか冷めていた。飲むことを忘れるほど熱心に、彼はちづるの話に全神経を傾けていたらしい。随分ながい間その存在が忘れられていたようで、京が喉に流しこんだ琥珀色の液体は、店内に効かされた冷房のせいか、すっかり冷たくなっていた。
「⋯⋯八神は何を背負って生まれたのかしらね」
庵は、八神の家に十数代ぶりに生まれた第一子の男児。彼は何を成すためにこの世に生を受けたのか。
「知らねえな。けど、少なくともあいつは⋯⋯八神家の現御当主様は、何かやらかす気でいるぜ。それだけは俺にも判る」
なげやりで皮肉っぽい口調の裏側で、京は庵の冷めた双眸を思い起こしていた。そして、あの日自分に向けられた彼の背中も。
あの背が背負っているものなど知らない。運命も宿命も、そんなもの自分には関係ない。縛られたい奴だけが縛られていればいい。
「ま、アレだな。俺はあいつと全力でぶつかり合えるんなら、理由はなんだって構わねえ」
京は、冷めてしまったせいで、苦味を増したように感じるコーヒーの残りを一息に呷り、
「ともかく『八神』は⋯⋯いや『八尺瓊』は、『草薙』に復讐するために大蛇八傑集の封印に手をつけたってことなんだな?」
と、確認のために口にして、京はちづるの顔を見た。
『『草薙』が憎かろう? 復讐したいだろう?』
大蛇にそそのかされ、八尺瓊は頷いたのか?
『欲しいだろう、力が。強い強い力が。おまえがそれを望むなら、吾(われ)がその力、貸してやろう』
なぜだ? なぜその拳をもって『草薙』に闘いを挑まなかった? なぜ己の力だけで⋯⋯。そんなのは、らしくない。
「無理ですもの。『八尺瓊』にそんな力はないのだから。『八尺瓊』は、今の『八神』とは違うのよ」
京の疑問に答えてちづるは言った。
「言ったでしょう? 『八尺瓊』は巫女の家系だと。だから闘うための力など持っていない。元々彼らの特殊能力は戦闘ではなく、治癒にあるの。『八神』の⋯⋯いえ、『八尺瓊』の家紋の月は、その象徴でもあるのよ」
知らなかった。今まであまりにも自然に庵と拳を突き合わせて来ていたものだから、『八尺瓊』もまた、『草薙』と同じく武芸を尊(たっと)ぶ家柄なのだと、京は勝手に思い込んでいた。
「だけど、理由がどうであれ、『八尺瓊』は封印を解いたんだろ?」
「それがね、わからないのよ」
それまで確信に満ちていたちづるの口調が、この段になって急にトーンダウンした。
「わからない?」
「そう、わからないの。そのときを境に、確かに『八尺瓊』はあの忌まわしい力を我が物にし、『八神』と名を変えたわ。だけど、封印が解かれた形跡は⋯⋯ないの」
「どういうことだ」
ちづるは首を振った。
「ゲーニッツ⋯⋯あの男がわたしの姉を殺したことは、昨年あなたにもお話ししましたね。そのとき、姉が殺されたときに初めて、本当の意味で大蛇の封印が解かれたの。世間で『八尺瓊』が解いたとされている大蛇八傑集の封印、それは最初から存在していないのよ。そんなものの封印、わたしの祖先は護り伝えて来ていない」
ちづるたち『八咫』の姉妹が護っていたのは、大蛇の長、そう呼ばれるものの封印だけ。
「ワケ解んねー⋯⋯」
呻くように呟いて、京はテーブルに肘をつき、文字通り頭を抱えてしまった。この一時間ほどの間に、脳味噌に何週間分もの運動をさせてしまった気がする。目を閉じてしまわなければ、眩暈にさえ襲われそうだった。
「言ったでしょう、あのときのことは、わたしにもよく解らないのだと。多分八神家にしか、真実は伝わっていないのではないかしら。そして、」
「わかった。解ったから、ちょっと待て。少し黙っててくれ」
ちづるがまだ何か言いたそうにしているのを、京は手を挙げて制す。肩で何度も大きく息をつき、脳味噌がミキサーに掛けられているような混乱をどうにか鎮めた。
「大蛇の封印がどうだとか、そんなことはこの際どうでもいい。逆恨みだって確認できただけで充分だ。後は⋯⋯そうだ、俺に人殺しをさせようとした、その理由だ。八神が自分では死ねないって言ったな? それは?」
「八神は自殺できない、そういう意味よ。成すべきことを成すまでは、どんなことをしても、どんなことが起きても彼は死ねないの」
例えその身が朽ちかけ、気が狂おうとも。
「成すべきこと⋯⋯?」
「子孫を残すこと⋯⋯つまり大蛇の血を受け継ぐための器をこの世に残すこと、ね」
それさえ済ませれば、ただの人として、いつでも好きなとき好きなように死ぬことが可能になる。が、大蛇の血を保有している期間の八神当主は、言うなれば、人間という生き物ではない。
「それをせずに死ぬためには⋯⋯」
「草薙、あなたの⋯⋯あなたたち一族の手に掛かるか、なんらかの形で大蛇に殺させるか」
方法は、ふたつにひとつ。
「⋯⋯どちらも、簡単には望めないことでしょうけど」
「それを望んだのかも知れないって?」
その、望めない筈のことを、あの男は望もうとした、と?
「理由は判らないけれどね」
それでも死のうとしたことだけは確かなのだ。それだけではない。あの男はできる筈のことをできないと偽った。
「ったく、決着(ケリ)もつけねえうちから⋯⋯」
――勝手なことを⋯⋯。
「草薙⋯⋯?」
「言った筈だ。俺はな、あいつと闘って熱くなりたいだけさ。あいつと拳を交えて憂さ晴らしができるなら、それだけでいいんだ。でもよ、だからこそ、勝手に死なれちゃ困ンだよ」
「草薙、八神に逢いなさい。居場所を教えるから」
「聞きたくねえな」
「草薙ッ」
「うるせえって言ってんだろ!」
「いいの? 草薙、このまま八神と、もう二度と闘えなくても」
「いいかげんにしてくれよ! ⋯⋯どうせあいつも出て来んだぜ? 今年のKOF。そこでまた闘えるじゃねえか。だったら後はどうだっていいんだ、俺は!!」
言いながら、京は自分の気持ちを確認、整理していた。
そうだ、それでいい。もう捜したりしない。後ふた月もすれば、自分たちはあの熱い舞台にのぼるのだから。
「手遅れになるかも知れない⋯⋯」
「ンだよ、ソレ」
ちづるの呻くような声を、京は聞き咎めた。
「次に八神とあなたが逢い見(まみ)えるとき⋯⋯彼はもう、人ではないかも知れないわよ⋯⋯?」
back | next |