紅丸と大門のふたりは、納得したのかどうか定かでないものの、庵に対して昨日以上の質問をすることもなく、それぞれに予定があるということで、翌日の昼過ぎ、大阪を発った。
紅丸たちが訪れていたことの名残りなのか、それまでは、日中は決して庵のいる客間に近づきたがらなかった京が、彼らを見送ったその足で、珍しくそこへ顔を出した。が、庵は室内におらず、布団はもぬけの殻。京は庵を探して部屋を出た。そしてすぐに、庭に面した廊下で片膝を抱いて座っている男の姿を見つけた。
庵は、四月上旬の、随分と暖かくなった陽差しの中、眩しそうに眼を細めて広大な庭の鮮やかな緑を眺めていた。
庭の奥に植えられている桜の老木の枝先で、薄桃色の蕾が綻び始めている。巨木になるため、一般には庭木向きでないとされる桜だが、この広大な敷地では切り倒される心配もなく、今まで無事に生き延びて来られたのだろう。しかし、その樹齢故にか少々開花が遅れているらしい。
「暑くねえ?」
庵の隣に立った京が声をかける。
「べつに」
静がなるべく陽に当たるようにさせていた効果がようやく現れたらしく、素っ気なく答えた庵の顔色は、幾分か良くなっているふうだ。
「なんでそんな大人しく言いつけ守ってんだ」
静から命じられた日光浴は、庵の日課になっている。
「一日も早くこの家を出たいからな」
「それもそうか」
八神としての庵にとって今のこの状態は、いうなれば敵地に囲われているようなものなのだ。
会話が途切れ、京が次の話題を探しあぐねていると、何を考えていたものか、庵が不意にクツクツと押し殺した笑いを漏らし始めた。
「なんだよ、いきなり」
「いや⋯⋯。何ひとつ、自分の思いどおりになることなど無いのかと思うと、可笑(おか)しくてな」
――自分を嗤ってやりたくもなる。
「なに言ってやがる」
理解不可能な庵の言葉を、へっ、と京は鼻で嗤い飛ばし、縁に下りた。その場にあった女物のサンダルを無造作につっかけ、飛び石の上を渡って庭へと出て行く。
その姿を目線で追いながら、嗤いを収めた庵は、ぼんやりと自分のことを考えて始めていた。
生まれてくる場所も時代も、自ら選ぶことなど誰にもできはしない。それは己に限ったことじゃない。そんなことは百も承知だ。けれど自分の運命は特殊であるのだと、嫌でも認めなければならない瞬間が、ついに庵の身に訪れたのは昨年の夏の終わりのことだった。
血の暴走。
意識を乗っ取られるということ。狂うということ。それは、自分が自分でなくなる瞬間(とき)だ。庵は、己が自我を認識できず、自我で自分を制御できない、その恐怖を知った。
正気に返ってからいくら記憶を辿ろうとも、決して思い出せない空白の時間があり、その間(かん)、自分が何を見、どこで何をしていたのか、庵はまったく覚えていなかった。こんな恐ろしい話があるだろうか。
初めての血の暴走を経験した庵が次に我に返ったとき、彼は知らない街の雑踏の中に立っていた。大蛇一族の女たちを手にかけた証しに、その指を朱に染めて、魂を抜かれたようなぼんやりとした貌で。訳も解ぬまま辺りを見回し、最後に見上げた空は薄暗く、今にも雨が降りだしそうだ⋯⋯そう思った途端、曇天から大粒の雨が落ちて来た。
降りしきる雨を厭うことなく、ずぶ濡れになって当てもなく彷徨い歩きながら、庵はそのときも『自分』というものの存在について考えていた。
俺は誰だ?
俺は何だ?
八尺瓊の血と大蛇の血と。その双方を流す自分、『八神』とはいったい何なのか。更には、その『八神』をも超えたところに存在している筈の『自分』というものの自我は?
しかしいくら突き詰めて考えようと、どこまでが『八神』のもので、どこからが自分のものなのか、線引きは易くなく、自我の境界はいつだって曖昧だった。今この瞬間に己の意識の表層に浮かんでいるものが何者の意志なのか、それすら庵には解らない。確かめるすべもない。
自分とは誰だ?
自分とは何だ?
ここで今こうして呼吸している男は何者なんだ?
己が何者かも解らぬままに、自分はどうしてここに生きているのだろう。
この世に生まれ落ちてから、八神一族の者たちが庵にひたすら求め続けて来たのは、草薙一族を滅すこと。ただそれだけだった。
おまえはその為だけに生かされているのだと言われて、それでも庵は何の疑問も抱(いだ)かなかった。
いや、抱けなかったというのが正しい。
庵には何も判らなかったのだ。外部との接触を断たれた閉じられた空間の中で、それを成す為におまえはこの世に生を受けたのだと、絶えず言われながら育てられたから、随分と長い間、庵は一途にそれを信じていた。疑うことも知らなかった。当然、ほかの生き方があろうなどとは考えもしなかった。
それでも年齢(とし)を重ねるうち、一族以外の人間と触れ合う機会が徐々に増え、庵は弱いながらも自意識というものを構築していく。けれど、彼の心の奥深い場所で、意志の核を成すものは既に確立していて、屈強なそれは、容易には揺らぐこともひび割れることもなかった。
草薙一族を屠り去ること――。
それが、自らの死に直結する行為だと、直接的には誰にも教えられなかったけれど、庵はいつからか知っていた。そしてその行為の結果、訪れるだろう己の死が、一族皆に望まれているのだということも理解していた。死ぬことを望まれて、自分はこの世に生を受けたのだ。庵はそれを納得していたから、自分の中に芽生えるものが『八神』の総意に反する思いであるのなら、それを表に出すことをしなかった。それどころか、その思いそのものを殺そうと努めてさえいた。それが、死んで行く自分には必要のない感情(もの)だと解っていたからだ。『八神』の掟に従ってさえいれば、いつか自分は、運命とか宿命とかいう名の面倒な柵から解放され、自由になれる。それならば、彼らに望まれるままに生きよう。望まれるままに死のう。それがいい。それはきっと、幸福なことに違いない。
こうして、生への執着を極端に希薄にしたまま、庵は20年という年月を過ごすことになる。そして、彼は自分の運命に出逢う日を迎えてしまうのだ。
一九九五年、夏――。
草薙 京。
KOF95に於ける試合のステージ上で、初めて間近に対峙した京は、庵の想像していたような男ではなかった。唖然とした。彼は、宿命というものの中に生きてはいなかったのだ、自分のようには。
自分とは違う生き方を、こうではない生き方をして来た人間の存在を、歪めようも否定のしようもない真実として目の前に突き付けられて、庵ははかり知れない衝撃を受けた。
ショックだった。
そしてそれは庵にとっての、不幸の始まりでもあったのだ。彼は、京と闘うことに歓喜(よろこび)まで覚えてしまったのだから。
庵にとって京との出逢いとは、それまで信じていた己の幸福を、真っ向から否定されることに他ならなかった。柵に纏わり付かれたままでも――いや、纏わり付かれているからこそ――、生きていることを投げ出したくはないと思える程の楽しさがあるのなら、もう少し、このまま生きていたい、そんな気がしてしまったのだ。そして一旦は、京を殺さないでいようかと、そんな世迷言(よまいごと)さえ考えた。彼といつまでも、拳を突き合わせていたいという願いから。
己の身に血の暴走が起こらず、『真実』を知っていなければ、今でも庵はそう思っていたに違いない。
けれど、そんな庵の心境の変化を、一族の者たちは憂えた。何が原因で若き当主が心変わりし、生きようなどと思ってしまったのか、それが究明できなかった彼らは、庵が僅かでも執着を示したもの総てをこの世から消し去ろうとした。そうすることで、元の庵に戻そうと努めた。
結果、物は壊され、人は殺され、形のない音楽だけが、唯一消されることを免れた。このとき、庵は大切な女性(ひと)をも失うことになる。彼女は、いつかこうなるかも知れないと、心のどこかで疑いながら、それでも手放せなかった存在だった。庵は、彼女を護りきれなかったのである。
けれど庵は、一族のしたことを何ひとつ責めなかった。彼らを裏切った自分への、それは罰だと認識したからだ。
ただ、この一連の出来事を機に、庵は一族の者たちを問い詰め、それまでに生じていた疑問や疑惑の一切を詳らかにさせた。そこで初めて、庵は、己が自ら死ぬことのできない特異な身だと知ることになる。
そう。大蛇の血をもつ者は、自らの意志では死を望めないのだ。『草薙』の手にかかって死ぬか、大蛇に殺されるか、もしくは、大蛇がその存在を脅威として認識している草薙一族を抹殺すること、そうすることで用済みになり、生命力を失うか。そのいずれかの方法を以てでしか、死ぬことが適わないのである。
そして、このときもう一つ、庵が新たに知った事実がある。それは、『八神』が『草薙』を恨んでいないのだということだ。『草薙』を殺さなくてはならない理由を、『八神』は持っていなかったのである。
八神一族は、大蛇と血の盟約を結んでしまったことを悔いていた。『草薙』を屠り得る力を得てしまった自分たち自身に脅えていた。
世に日蝕という天体現象がある。
太陽を喰(は)むことのできるもの。太陽を蝕むことのできるもの。それが月だ。
月を象った八神家の家紋は、太陽を家紋にいただく一族から袂を別ったことの証し。そして、その家紋は彼らの本質をも、最も的確に表現する暗示的な紋様なのだった。
草薙を滅することができるもの、八神――。
だが世間一般に認知されている、『草薙』を恨み彼らを殺そうと目論む一族という『八神』の有り様(よう)は、ひとの目を欺くための虚像だった。すべてはただ、『八神』をこの世から消し去るための布石。悪者が消えても、誰も悲しんだりはしない。誰にも惜しまれずに消えていくことを望み、そのために『八神』は悪を演じ続けていた。そして庵に対しては、真実の『八神』の姿というもの自体を、ずっと隠してきたという訳だ。
大蛇の力をもってすれば、草薙一族の抹殺という、一見途方もないように思われることも実行可能だ。しかし、唯一それを成す力をもつ庵に、口では『草薙一族の抹殺』を命じながら、その実、八神一族が本当に望んでいたのは、『京に庵を殺してもらうこと』、それだけだったのである。
京を本気にさせることができれば、庵は殺して貰えるかも知れない。京には、それだけの力が備わっているから。もし京に直接手を下して貰えなかったとしても、京を手酷く傷つけることで、草薙一族の誰かの手に掛けて貰える可能性はある。
八神の一族は、当主の死、つまりは大蛇の血の浄化、それを願う一心で、庵本人には真実を告げぬまま、京と対峙させるべく、彼をKOFの舞台へと送りこんだ。
本当のことを知ってしまったら、庵が辛いだろうと彼らは慮っていた。恨む理由も憎む理由もない相手、それどころか、八尺瓊の血が本来惹かれさえする『草薙』の者に対して、殺人拳を向けなければならないなどと――。
何も教えないで、何も知らせないままで、死出の旅路に就かせてやろう。
それが、庵に注がれた一族からの精一杯の愛情だった。
真実を知ったとき、その歪んだ愛情をも含めて、庵はすべてを冷静に受け止め、そして最終的には、己もまた悪を演じる途を選択した。
庵とて、自らの意志で生きることも死ぬことも叶わぬこの身を恨めしく思わなかったと言えば嘘になる。でもそれならば、せめてそうとしか生きられないその生き方を、己の望んだものにしてしまおう。それを自分の意志にしてしまおう。庵はそう考えた。
ずっと幼いころ、『八神』の総意のもとに生きることを決めたときにも、庵はそれと相反する己の感情を殺し、自我を否定した。そうやって明日を想うことをやめたのだ。彼にとって未来(さき)を想うことは、死を想うことと同義だったから。生きようとする行為には、結びつかない感情だったから。
だがその一方で、表層に現れない意識のどこかでは、自分が自分として生きて行くことのできる途を、模索し始めてもいたのだろう。そう、京と出逢ってしまってからの庵は。
その証しが、京を殺さずにいようかという気の迷い。
でも、いい。もう迷わない。
迷いをすべて断ち切って、庵は覚悟を決めた。そして、京に殺されるべく、彼と対峙し続けることに努めた。自分の死が試合中の不慮の事故として片付けられるのなら、それが一番いいと庵は考えていた。そしてまた、悪者としての八神を殺すのなら、世間も草薙家の行為を正当と思ってくれるだろうとも。きっと京の胸も痛むまい。
しかし、京に死を与えられるよりも先に、庵の身に血の暴走という現象が起こってしまい、悠長に構えてはいられなくなった。
もう一刻の猶予もない。
血の暴走に身を任せてしまえば、庵は自分の意志とは関わりなく、ただ闇雲にひとの命を狙う野獣(けもの)と化してしまう。勿論、子を成すことで大蛇の血を次の世代へ譲り渡せば庵の暴走は喰い止められる。しかしそれでは、血の盟約破棄という、一族最大の悲願が果たせない。本末転倒だ。
ついに庵は、最終手段に訴えざるを得なくなった。KOFという大会の舞台を借りずに京と対峙し、たとえ彼を本気にさせられないままであっても、どうにかしてこの命を奪って貰わなければ。
そのために望み挑んだのが、過日の京との果たし合いだった。
けれど庵は死に損なった。そして、眠り続けることさえ出来なかった。
もっとも、たとえあのまま眠り続けていたとしても、自ら死ぬことの許されない身である以上、そのまま死ぬことができたかどうかは不明である。もしかしたら、目覚めぬままに寿命が尽きるのを待つことさえ許されず、大蛇の血か、もしくは大蛇そのものの力によって、無理にでも覚醒させられていたかも知れない。
だが。それでも幸せだったのだ、庵は。いっときでも長く、あの穏やかな時間の中で息をひそめて眠っていたかった。あれは庵にとって、生まれて初めての、心の底から安らぎを感じた眠りだった。永遠に浸っていたい微睡みだった。
「どうして<おまえ>は俺を目覚めさせた⋯⋯? なぜ見捨ててはくれなかった⋯⋯」
庵の呟きは京の元へは届かない。
「⋯⋯俺は<おまえ>を傷つけたくないのに」
どうか――。
嫌ってくれ。
恨んでくれ。
憎んでくれ。
あんなヤツ、死んで良かったと、そう思われたいのだ。そう思って貰えたなら、ここで自分ひとり死ぬことに何の未練もない。
庵は握り締めた両の拳に閉じた目蓋を押し当てる。
そして、京、おまえは生き続けろ。
おまえは、ただひとつ、ただひとり、俺が最期まで執着することを許された相手。
たとえこの身がどうなろうと、京、おまえには生きていて欲しい――。
庵は心の底からそれを願っていた。
妙に月明かりが眩しい夜だった。
他人の家では、夜遅くまで起きていてもすることなど何もない。だから庵は京の部屋で早々と布団にもぐりこんでいた。意識を取り戻したのだから、もうその必要はなくなった筈なのに、なぜかこれまでの習慣通り、彼は夜になると離れに移動しているのだ。
京はまだ母屋にいるらしい。
目覚めてから一週間余を経過して、庵の身体機能はほぼ正常な状態にまで回復していた。筋肉の落ちた身体はまだ痛々しい印象を残しているが、これも時間が解決してくれるのを待つより他はない。
庵は明日にでもこの家を出ようと考えていた。後は何と言って出て行くか、だ。
いっそ京と派手に喧嘩でもしようか。そうすれば、きっと彼は出て行けと言い出すだろうから、その売り言葉を買えばいい。簡単なことだ。それが一番手っ取り早く、且つ後腐れがない遣り方かもしれない。
庵が、冗談ではなく、かなり本気でそんなふうに思いはじめていたとき、
「⋯⋯⋯⋯!!」
――しまった。
喉元をせり上がって来る熱く粘ついた体液に呼吸を止められ、庵は筋肉を強張らせた。体温が一気に上昇する。辛うじて布団からは這い出したが、そうすることまでがやっとで、庭先に移動するだけの余裕はなかった。
「う、ぐ⋯⋯っ」
――やはり、来たか。
一週間程前、京に為されたことによって庵の身体に取り込まれてしまった草薙の氣に、大蛇の血が脅えているのだ。その血は、己に向けられた悪意と殺意とに震えている。己を亡き者にできる唯一の存在である草薙の力は、大蛇の血にとっては畏怖の対象でしかない。
この大蛇の血の反逆を、なぜ今頃、と思わないではなかったが、同時に、大蛇の血が宿主の体力の回復を待っていただけなのだろうとも推察できた。無理に暴れれば、寄生元の器を壊しかねないのだから。
意識が遠くなりかけたその一瞬、
「八神!?」
母屋から戻ってきた京の一声に、庵は救われた。
うずくまる庵の姿に異様さを覚えた京は彼の側へ駆け寄ろうとし、途中で踏みとどまる。彼は静を呼ぶことが先決だと思ったのか、母屋に向かって叫ぼうとし、しかしその思惑に気付いた庵の、
「よせッ」
という、切迫した声に制される。
「けど⋯⋯っ」
「⋯⋯ッ、う⋯⋯、無駄、だ⋯⋯」
庵は逆流してくる血液に遮られながらも、懸命に声を絞りだす。そして言い終えた途端、ひどく喀血した。すぐに畳は血の海になり、畳の目にはじんわりと徐々に血液が染み込みはじめる。
どうしていいのか判らず、京はおろおろするばかりだ。
「八神⋯⋯」
不安そうな声。
「じき⋯⋯、おさまる⋯⋯」
ぐ、と喉を詰まらせたような音を聞かせる自分を前に、珍しくも自信なく、まごついている様子の京の声に、辛うじてそれだけを返して、庵はしゃべることを一切やめた。
彼は全身の筋肉という筋肉を総動員し、なだらかな背を波打たせながら、躰全体を使って血液を吐き出し続ける。汗の吹き出すその背に白いシャツが張りつき、いつしか肌の色が溶け出していた。
何を見ているのか、畳の上の一点を燃えるような視線で睨みつける庵の双眸からは、知らず泪が溢れていく。血塊を吐き出す瞬間にだけ薄い目蓋がきつく閉じられ、その泪は汗と共に庵の痩せた頬のラインを伝い落ち、畳に弾けた。
部屋の中に荒く不規則な庵の息遣いだけが満ちていて、京は耳を覆いたくなる。それでも目だけは逸らすまいと、苦痛に歪む男の横顔を見つめ続けた。京の顔は、まるで己が喀血してでもいるような、苦悶の表情を浮かべている。
しばらくして、庵の口から吐き出される体液の勢いが弱まった。それを見計らい、ようやく庵の側に近づくことができた京が、彼の背に手を乗せようとする。が、
「触るなッ」
声に弾かれて、瞬時に動きをとめた京の見ている目の前で、庵の体表から青黒い陽炎のような氣が立ち昇り始めた。
京は息を呑む。
――これは⋯⋯、
『八神』の氣じゃない。
庵の氣はもっと透明な、青白いと表現するのがもっとも相応しい、そういう色をしていた筈だ。こんな濁った色の氣を自分は知らない。そう思うと同時に、どこかで見たような気もして、京は既視感の元を捜し出すべく記憶を一気に逆行させる。
そして。
――そうだ、あいつだ。
その氣の持ち主を、京は思い出した。牧師の姿をした、あの男の名前はゲーニッツ。大蛇一族の彼が放った氣は、まさしくこんな色をしていた。KOF96でゲーニッツと再会したときにふたたび目にすることになったそれは、過去の敗北の記憶と相俟って、京に吐き気を催させたほどだ。
京が記憶の糸を手繰り寄せている間にも、庵の身体からはゆらゆらと濁った氣が立ち昇り続けている。彼の躰内では、いまだ大蛇の血が暴れていた。目の前にいる『草薙』の存在を消したいと、己の自由を奪う鎖を引き千切ろうとするように、もがき足掻き、身を捩っている。臨界点を越えた恐怖感は、病的なまでの攻撃力を生み出そうとしていた。
「だめだ⋯⋯、や、め⋯⋯ろッ」
庵の口から制止の言葉が漏れる。
「八神?」
――誰に向かって話してる?
「大丈夫だ、から⋯⋯っ、まだ⋯⋯今はっ」
庵は両腕で己の身体をきつく抱き、溢れ出す氣を押さえつけようとしているらしかった。その庵に向かって、京が一歩踏み出す。が、
「京⋯⋯寄るな⋯⋯」
庵からはふたたび拒絶の言葉。
――駄目だ。正気を保てない⋯⋯。
次の瞬間、京がとめる暇もなく、庵は自らの身体を壁に叩きつけていた。ガンッと左肩から激突した彼は、今度は痛みを堪えるために肩を抱いてうずくまる。
「ハッ⋯⋯、ハッ⋯⋯」
荒く息をつき、ダラダラと粘ついた脂汗を流しながら、それでも庵の身体からは、ようやく不要な力が抜け落ちていた。
激痛に引き戻された正気。傷ついた腕では、強力な八稚女は放てない。
これで当面は京を傷つけずに済む筈だ。無論もっと強烈な暴走が起これば、こんな痛みなどものともしないで、大蛇がこの身からその力を存分に発するだろうことを、庵は十二分に承知している。たとえ宿主の肉体(うつわ)を破壊することになろうと、『草薙』という脅威をこの世から消し去るためならば、大蛇の血がそれを躊躇う訳もない。だがそれは、最期の時だ。体調が不完全な今は、まだ大丈夫な筈。
血溜まりを避(よ)けて畳に膝をついた京が、今度こそ撥ねつける気配のない庵の、汗ばんだ背に触れる。京はそうと気付かぬうちに庵を労ろうとしていた。
「⋯⋯よくあることなのか、これは」
「いや」
庵は端的に否定する。本当のところを言えば、喀血自体は昨年の夏、あのKOF終了後のそれが最初で、以後ここ数ヶ月のうちに、急速にその回数を増しているということになるのだが、その事実を京に明かす訳にはいかなかった。
「でも、初めてじゃないんだよな?」
「ああ」
KOF96終了後に起きた、最初の血の暴走。おそらくあの時の暴走は、京がゲーニッツという大蛇四天王のひとりに向けて草薙の力を発動させたこと、それを自分の中にある大蛇の血が感知した、そこに理由があったのだろうと庵は推測している。けれど、その後もたびたび起こるようになった同じ現象はそれとは理由が違い、大蛇の血の増幅が、庵の肉体の許容量を超え始めたことに起因している。庵の肉体という器が使えなくなる前に、『草薙』という脅威を消し去るか、さもなくば、新たな器を遺させるか。その選択を迫って、暴走という現象が起きるのだ。
「初めて見たぞ、俺」
「⋯⋯貴様の前に、こんな無様が晒せるか」
いつもの憎まれ口の筈なのに、やはりどこか力なく弱々しい響き。京が次の言葉を口にする前に、ひとつ大きく深呼吸した庵は、ふらりと立ち上がった。
「八神?」
「顔を洗ってくる」
言い置いて部屋を出、次に戻って来たときの彼は、口も濯いだものらしく、拭い切らない水滴にその唇や顎を無造作に濡らしていた。ついでに血痕で汚れたシャツも脱いでいて、上半身素肌という恰好だ。
「⋯⋯⋯⋯」
どうしようか? と京に問いかけるように、丸めて手にしていたシャツを庵が差し出す。そのシャツは京の持ち物だった。
「⋯⋯⋯⋯⋯」
京も庵に倣って口は開かず、受け取ったそれを、そのままゴミ箱に直行させる。洗濯に回して静に心配をかけることは避けたかった。この後の始末については、明日にでも考えればいい。
その後、京が新しいシャツを箪笥から出して手渡してやると、それを羽織るように肩に掛けただけで、庵は壁を背に畳の上へ座り込んだ。
ふたり共、口を開くことで、何か大切なものを壊してしまうような気がしていた。だからずっと押し黙ったまま。昼間は気にもとまらない、時計の秒針(はり)が時を刻む音が、やけに大きく感じられる。
ふう、と、庵が、苦しそうに肩でひとつ大きく呼吸(いき)をした。それを見て何を思ったのか、京の腕が彼の肩を引き寄せ、自分の身体に寄り掛からせようとする。相当に体力を消耗している庵にはそれに逆らう気力も最早なく、屈辱と感じる感性も薄れていて、大人しく男の肩に頬を寄せた。
ひどく眠い。脱力しきった身体に疲労が重く沈殿して、思考力までが奪われているようだ。どんよりとした意識の隙間に忍び込む、時を数える秒針の響きに、庵は心地よさを感じていた。
彼は、かつて自分の肩に担ぎ上げた京の身体の重みと温かさとを、触れ合う肌を通して思い出しながら、ゆっくりと疲れた目を伏せた。
真夜中。庵はぽっかりと目覚めた。彼は布団の上に寝かされていて、そのすぐ側では京が伏せて眠っている。着替えもせず突っ伏しているところを見ると、どうやらあのまま眠ってしまった庵を布団に運び、京もそのまま寝入ってしまったものらしい。
カーテンを閉め忘れた部屋の窓から、月明かりが差し込んでいた。眩しい程のそれは、天空を見上げるまでもなく、今宵の月齢を庵に知らしめる。
庵には、その光源を見ることができなかった。見てしまったら、今度こそ本当に狂う。そんな気がした。
それにしても。
こんな環境下で、よくも不完全な暴走で済んだものだ。本来拒絶反応が起こるだろう草薙の領内にいることが、今回に限っては逆にいい方向に作用したのだろうか。
「⋯⋯⋯⋯?」
何気なく左腕を動かそうとして、庵はそれが固定されていることに気付いた。どうやら京が応急処置をしてくれていたようだ。よく見ると、シャツもきちんと着せられているし、ボタンも息苦しくない程度に嵌められている。
――まめなことだ。
庵は小さく笑う。気になって、月明かりを頼りに部屋の中を見回せば、畳を汚していた筈の自分の血も、きれいに始末されていた。それでも濃厚な匂いだけは消えておらず、胸を悪くするような独特な臭気は、まだ少し鼻につく。が、じきにそれも気にならなくなるだろう。人体のもつ五感の中で、もっとも順応性に優れているのは嗅覚だから。
庵は溜息をつく。
大蛇の血をもつ以上、自分には安息などないのだと悟った。少しでも気を抜けば、己の身に、いつまたあの暴走が起きないとも限らない。けれど大蛇の血がなければ、自分は自己を確立することができなかった。その血の存在を認め、受け容れることで、自分は己の存在を確認してきたのだから。
庵は知っている。大蛇の血を、八尺瓊は望んでその身に孕んだのだと。なればこそ、不都合が生じたからといって、今更それを追い出すなどと、そんな身勝手は赦されまい。
少なくとも、それを善しとする心は庵にはなかった。
それでも、大蛇の血をこれ以上己の身に孕み続けることが、物理的、肉体的に不可能になりつつある今、庵にできるのは、それと共に滅んでしまうこと。己の身ごと、大蛇の血をこの世界から連れ去ってしまうこと。ひとの力の及ばぬ場所へ。時空の狭間へ。たとえそれが死の国であっても、誰にも知られないでそこへ行けるなら、それで良いと思うのだ。
それは庵の本心だった。
――約束だ。
庵はいつの頃からか、月に祈るようになっていた。胸の裡で一心に。
その血が己の肉体から失われるとき、そのときは、必ずこの命も連れ去ってくれるようにと。
――俺はおまえと共に逝く。
だから、俺を⋯⋯俺たちを、赦せ。
そのとき、庵の膝元でもそもそと掛け布団が動いた。どうやら京が目を覚ましたものらしい。庵が見ていると、更にもぞもぞと窮屈そうに身じろいでから、彼はふらりと顔を上げた。
「あー⋯⋯寝ちまってたのか⋯⋯」
ポキポキと音をさせて首を回し、ふ、と庵と視線を合わせ、あれ? という表情をして、それから、
「おまえも起きたんだ」
と、間の抜けたことを言う。寝起きだからなのか、刺のある物言いではなく、常よりずっと語調が柔らかい。こういうときの京の言動は、無意識故に育ちの良さを滲ませる。その京の言葉にわざわざ答える気にならず、庵がじっとして黙っていると、何を思ったか京は腕を伸ばし、赤い髪の毛の下を掻潜(かいくぐ)らせて、庵の額に厚い手のひらを押し当ててきた。
「熱とか、ないのな」
病気ではないのだからと思ったが、それに答えるのもやはり億劫で、庵が尚も反応を示さないでいると、
「なんかしゃべれよ」
京が不服そうな声を出して睨んでくる。実際の年齢よりもその顔を幼く見せる、我儘で駄々っ子のような視線。
「⋯⋯勝手なヤツだ」
そんな憎まれ口でも反応が返ってきたことに満足したのか、京は安堵を示す息を小さく吐いた。
「もう平気なのか」
京が言っているのが喀血のことだと気付き、庵は頷きで答える。
「アレ、何なんだ、いったい」
徒事(ただごと)ではないと、やはり京も勘付いているらしい。
庵はすなおに答えた。
「俺の身体の中にある大蛇の血が、草薙の氣に反応して起こしたことだろう。多分」
端的に、そしてもっと下世話な表現をするなら、京が庵を抱いたから、だ。ただ単に、草薙の氣に反応した訳ではない。京が草薙の力を大蛇の血にぶつけたから。その行為に大蛇の血が脅かされ、結果あの事態を引き起こしたのだ。
「もう何週間もここで過ごしてんのに⋯⋯今ごろ急に?」
やはり京は、血の暴走の仕組を、正確には理解していないらしい。だが庵には、それを訂正し説明し直す気がなかった。
「俺の体力が戻るのを待っていたのだろう」
自分の肉体が、大蛇の血の増幅に耐えられなくなりつつある以上、狂うのは時間の問題だ。出来ることなら、正気を失くす前に死を選びたかった。だが、それさえも自分には赦されないらしい。最期の時を自分で決めるという、その、最初で最後の、ただ一度きりの我儘も聞き届けては貰えなかった。
狂い死ね、と?
それほど悪いことを俺はして来たのか? いや、俺たちの一族は、か。⋯⋯そうなのかも知れないな。いや、きっとそうなのだろう。
自嘲の念が、庵の唇を歪ませる。
裏切り者には、その身分に相応しい死に方しか許されない。そういうこと、か――。
一八〇〇年前の八尺瓊の行いを、庵は決して罪だったとは思わない。けれど、六六〇年前の、軽率としか言いようのないそれは、間違いなく過ちだ。
大蛇の力に魅せられたのだと、それだけが外部に漏れ聞こえている事件の真相を、庵は、そして八神一族は知っていた。
だからこそ庵は己の死を望んだのだ。死ぬことでしか購えない過ちだから。生きて償うことが不可能な所業だから。これ以上その罪を深くしてしまわない為には、死を選ぶ以外に途がなかった。誰かが、大蛇の血を持つ当主である誰かが、その責めを一身に負い、罪の侵食を喰い止めなければならない。それは、禁忌を犯した一族が、当然受けるべき報いである筈だ。
そして――。
その八神家当主としての務めを全うすべく、庵は今、納得尽くで自らの死を望んでいる。
「京、ひとつだけ教えてくれ」
「?」
「俺がもし人の姿をしていなければ、貴様は俺を殺せたか?」
たとえば神話の世界に棲むあの八岐大蛇(やまたのおろち)のように、見るからに化け物然としていたなら。人ならざる姿をしていたなら。
「え?」
「檻から逃げ出した猛獣を、たとえば撃ち殺したとして、それを人は咎めるか? 毒蛇の頭を叩き潰すことに、人は躊躇いを覚えるか?」
そうすることは罪になるのか。いや、そんなことはない筈だ。
「なんの話だ」
「⋯⋯埒もない世迷言(よまいごと)だな」
この期に及んで譬え話などして、一体何になるというのだろう。そんな話をしたところで、己のこの姿が変わる訳もなく、いまさら京に殺して貰えもしないのに。
庵は、絶望という言葉を想った。そして即座に、そんな自分を嗤い飛ばしたくなる。
――絶望だと? 嗤わせてくれる。
それは、一度でも希望を持ったことのある者にしか、口にできない言葉である筈だ。絶望とは、少なくとも希望を知る者にしか、決して持ち得ないものなのだから。
自分に希望など、あった筈がない。
けれど庵の胸は疼く。在る筈のない、在ってはならない痛みが彼を苛む。しかしこれは亡霊の痛み(ファントムペイン)。偽りの痛みである筈だった。
そう、これは架空の痛み。なぜなら一族の者たちは、庵が苦しまずに済むように、痛みを感じないで済むようにと、彼を慈しみ育ててくれたのだから。
なのに、その一族すべての願いを裏切って、感情というものを生み育ててしまったのは、誰あろう庵自身なのだ。
あともう少し、京と闘っていたかっただなんて。大した我儘じゃないか。そして、挙げ句の果てがこの茶番。
「八神⋯⋯?」
いきなりどうしたのだ、と京が、いまだ彼本来の芯の優しさを隠し損ねたまま、心配そうに庵の顔を覗き込む。
「なんでもない。忘れろ」
首を振り、京の視線から顔を背けると、庵は布団の中へ逃げ込んだ。
どうして自分は、生きるということを覚えてしまったのだろう。望めないことだと知っていて、その先に待つものが深い闇の淵だと解っていて、なぜ。
死ぬ為だけに生き続けていれば、哀しいなどと思わずに済んだのに。
――俺は、馬鹿だ。
喀血を理由に、庵は草薙家を辞すことを決めた。このままここに居続けても状況は変わらないし、なにも解決しないことが彼には解っていたからだ。これ以上の滞在は無意味。ただ、この家を去る前に、静には挨拶をしておかなければと思った。世話をしてもらった身として、そして『八神』最後の当主として。
それがけじめというものだろう。
一日の大半を過ごしていた和室の、行李の中にしまわれていた衣装。庵はそれを手に取った。そして、京が見ている目の前で借り物の服を脱ぎ落とし、いつもの、彼にとっての正装に装いを改めるため、真っ白なドレスシャツに袖を通す。
庵本人が何も言わないでいても、その行為自体がすべてを物語っていたから、京もまた、敢えて挟むことのできる口を持たなかった。
庵は着替えを済ませてから静の元を訪れ、頭を下げた。世話になったことに対して丁重に礼を述べ、この家を辞すことを告げる。
その庵に静が語りかけた。
「草薙家の人間としてではなく、個人的に、あなたにお訊きしたいことがあるの。これから、その身をどうされるおつもり? ⋯⋯八神家の御当主としてではなく、あなた個人の気持ちを教えて下さるかしら」
京のそれとそっくりな、静の黒目がちで大きな瞳を、庵は真っすぐに見つめ返す。
そこにあるのは、母親の眼差しだった。
庵は眼を眇め、確かな口調で答える。
「『八神』の意志にはもう従わない」
この家の者たちは、幼い頃の庵を知っている。それは庵本人の記憶にはない、遠い過去。
静の記憶の中にいる自分は、一体どんな姿をしているのだろう。そして、今目の前にいる自分は、彼女の目にどう映っているのだろう。
「それでは京とは、もう⋯⋯?」
問い掛ける静に、庵は顎を引いてみせた。
静との短い対話を終えてふたたび客間に戻った庵は、そのまま少ない荷物を手に玄関へと歩きだす。その庵の後を、京は追った。
庵は『行く』のか、それとも『帰る』のか。
でも、どこへ⋯⋯?
「八神」
どうしても黙って見送ることができなくて、口は開いたものの、
「放っておけ」
意味のある言葉を続けようとした京の行為は、庵にぴしゃりと遮られてしまう。
京に自分を殺す気がないのなら、もうこれ以上構って欲しくはなかった。庵は月を背負うその後ろ姿で、京の追求を拒絶する。たとえ京が直接手を下さなくとも、そう遠くはない未来『八神庵』は消えるのだ。
「俺には貴様と関わる気はもうない」
おそらくこの肉体だけが残る。大蛇の血を宿すための器として。そしてその器に、人としての己の意志は残らない。
「貴様も俺にはもう構うな」
狂って死ぬのが定めなら、もうそれ以外は望まない。京の手を煩わそうなどと、もう二度と思いはすまい。
「『草薙』も『八神』も、貴様には関係がないのだろう? 貴様はいつもそう言っていたな?」
「⋯⋯ああ」
どのみちこの先、自分が正気をもって京と関わることはあるまい。庵はそう思っている。どんな最期を迎えようと、自分には己の肉体の死さえ知覚できないに違いない。
「それを貴様が信じているのなら、それが貴様の真実だ」
玄関先で屈みこみ、庵は靴に手を伸ばした。
「ならば貴様は貴様の信念を貫け。俺は俺の信じる道を行く」
――京。この世の真実は、ひとつきりでは無いのかも知れないぞ?
「せいぜい」
庵は立ち上がった。そして、京に背を向けたまま言い捨てる。
「狂った毒蛇(ヘビ)になど咬まれぬよう、気をつけることだ」
きっとその毒蛇は、この八神庵そっくりな姿形(なり)をしていることだろう。でもそれは、人の姿を象ってはいても、決して人ではない生き物だ。ならば、それが人の姿をしているからといって、よもや躊躇ったりはすまいな、京。その拳で、とどめを刺すことを。
そうして今度こそ、俺をあの世へ送ってくれ。
「待てよ、八神」
このぎりぎりの場面で、京の唇が言葉というものを思い出した。
「おまえ忘れたのかよ!? 俺に何されたか!」
歩き出しかけていた庵が、足をとめた。そして、殊更ゆっくりと振り返る。
「あの屈辱⋯⋯雪がなくて、いいのか?」
自分に向けられた、纏わりつくような京の視線。無理に毒を乗せたその眼を、庵は感情を殺した貌で見つめ返す。
「好きに吹聴すればいい」
死ねば、そんなものはどうでもいいことだ。
「俺には痛くも痒くもないからな」
京が覚えていようと他の誰に知られようと、死んでしまう自分の知ったことではない。『八神』が最期まで、汚(けが)れた存在であったというだけの話だ。そして、後に残されるのは、純粋な八尺瓊の血筋。それで充分。
「八神ッ」
取りつく島もなかった。だが、京は必死に喰い下がる。このまま庵を行かせてしまってはならない。なぜか彼はそう感じたのだ、強烈に。
「俺との決着、まだついてないじゃねえか! ケリつけるまでは⋯⋯っ、闘えよ! 俺と!」
けれど庵はもう一言も言葉を発することはなく、ふたたび京に背を向けた。そして、二度と振り返らなかった。
開け放たれた引き戸の枠に収まった三日月が、京の視界の中をゆっくりと遠ざかり、ぼやけるように霞んで消える。
その日、草薙家の庭で老いた桜が満開になった。
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