『QUATSCH』後-1


 師走も半ばを過ぎると世の中なにかと浮かれ騒ぐ連中が増えて来る。となると当然、大小ところ構わずの犯罪行為も頻発してしまうわけで、神奈川県海南警察署は、刑事課・少年課はもとより、警邏課・交通課をも巻き込んで連日ハチの巣をつついたような騒ぎに明け暮れていた。
 犯罪が時を選ばぬ以上、刑事には盆も正月もないと言われているが、まさかここまで忙しい歳末を迎えることになろうとは。悪態も溜息さえもつく暇を与えられぬ忙しさに目が回りそうだ。捜査一課の刑事・牧紳一は、年内最後の有給休暇の返上を覚悟していた。
 そんなある日。
「なあ、牧。おまえの次の休暇って25日だったよなあ、確か」
「そうですけど⋯⋯、何か?」
「悪りぃんだけどさ、俺のと替えてくれないか」
 牧に休暇のトレードを持ちかけたのは、結婚2年目の今年、はじめての子供が生まれたという先輩刑事だった。
「孫の顔見せに帰れって実家がうるさくてな⋯⋯。嫁さんの都合でどうしても25日に休みが欲しいんだ」
「はあ⋯⋯」
 しばし牧は返答に詰まる。
 師走、つまりは12月。その25日が何の日であるかなど、クリスチャンでなくても皆知っている。そんな特別な日を共に過ごしたがるあの男が、今の自分を見ていたら⋯⋯。
 牧の脳裏に、イベント大好き人間のふやけた笑顔が浮かんで消えた。
 しかし、そんな考えとは裏腹に、
「じゃあ、あの⋯⋯」
 牧の口はこんな言葉をつむいでしまう。
「今日中に⋯⋯考えておきます」
「ヨロシク頼むわ」
 片手をひらひら振りながらパトロールに出かける先輩刑事の後ろ姿を見送ってから、牧は自席についた。机上にかなりの嵩(かさ)で積み上げられた未処理の書類を手際よく選別しはじめるのに、無意識の内に『あの男』の影に邪魔をされ、その手はついついとまりがちだ。
「⋯⋯⋯⋯」
 そんな相棒の迷いの気配を背中に感じて、赤木剛憲はその堅苦しい顔に人の悪い笑みを浮かべていた。
 牧との付き合いが長い彼は知っている。相棒は、その気がないのなら最初から考えることはしない。断るときにはその場で即座に断ってしまうのだ。
 この男が迷った挙げ句に出す結論は必ず『YES』
 赤木はその法則に気付いていた。ただし、牧本人にそれを指摘したことはない。なぜなら、生真面目な牧のことだ、知った途端、変に意識して身動きがとれなくなってしまう可能性、大、だからである。
 今夜あの先輩は笑顔で帰宅するだろう。
 にわか予言者の面持ちで、赤木は手元の書類に目を落とした。






「仙道、どないすんの。『あの人』誘うんか? それやったら招待状、余分に1枚確保しとけよ、早めになあ?」
 開店まであと30分。15分後にミーティングを控え、最後の身だしなみチェックをしようと店のバックルームに向かって廊下を歩いていた仙道彰の背へ、ふいに頭上からくだけた関西弁が降って来た。
 振り向いて見上げると、フロアへと続く階段の途中に、先にフロアへ出ていた筈の男が立っていた。
「南さん⋯⋯」
 南 烈。
 同僚には違いないが、そんな言葉よりも、この店で人気ナンバーワンホストの座を競うライバルと言った方が、仙道にとってはよほどその関係が的確な男である。歳は仙道の方がひとつ下だ。因って、必然的に彼に対する言葉遣いは丁寧なものになる。それが却って厭味だと、南には言われているのだが。
「あの人って」
 誰のことですか、という仙道のおとぼけなど眠たげな視線ひとつで遮って、南は仙道と共にバックルームへ入る。
「あの男に決まっとろう。こないだココに自分に会いに来てたやん。泣き黒子のべっぴんサンが」
 南は、『ココ』と言いながら親指を立てた右手を下に向けてバックルームを指し、『泣き黒子』のところでは己の左目元を人さし指で示す。
「ああ、あれは⋯⋯」
 およそ何事に対してもそつなく応答する仙道が、しばし返答に窮する。珍しいことがあったものだ。
「あれは会いに来てたわけじゃなくてですね⋯⋯」
「何ごちゃごちゃ言うとんねん。何しに来とったんでもええわ」
 牧の家に忘れていた自分の荷物を届けに来ただけだ、という仙道の説明など、南にはいっさい聞く気がないらしい。
「あれ、お前のコレやろ」
 下世話な口調と小指を立てる仕草とで、南はその端正と言うには少し癖の強い面差しに、似合いの皮肉な笑みを刷(は)いてみせた。
 彼のそのテの勘は異様に鋭い。
 仙道は黙った。
「⋯⋯⋯⋯」
「そんなカオすんな。別に俺が手ェ出そうとか言うてるわけやあれへんし」
 うまく感情を殺したつもりの仙道だったが、どうやら警戒心までは隠せなかったらしく、その全身から発せられる、南に対する防衛壁の存在を、南のアンテナは敏感に察知したようだった。
 が、当の南は、
「俺にはちゃんと惚れてるヤツがいてる」
 安心しろ、とでも言いたいのか、唐突に手の内を明かした。
 南の視線は険しい表情をした仙道をはるか通り越し、何を見るともなく宙に投げられている。
「尻(ケツ)の軽いヤツでなあ。間違ごうても今度のパーティーには呼べんのやけどな」
 そこまで言って一旦言葉を切り、視線を仙道に戻した南は、
「招待状、もう残りすくないんやて。キープするなら早めに、思て、忠告や。有り難く思い?」
 それだけを言い終えると、何事もなかったかのように、涼しげな顔でフロアへと戻って行った。
「⋯⋯⋯⋯」
 礼を言うべきか、どうか。
 仙道は腕時計にチラリと目を遣ってから、手早く髪を整えると、ロッカーの扉にはめ込まれた鏡でトータルのスタイルを確認し、バックルームを後にする。
 南が口にしたパーティーというのは、このクラブで毎年、イブから翌日にかけて行われるクリスマスイベントのことだった。
 仙道はまだ『泣き黒子のべっぴんサン』に、このことを話していない。






 その日、仕事から上がった仙道を乗せた車は、早朝のまだ真っ暗な街並みをかなりのスピードで車窓のはるか後方へと押し流しながら、牧の眠るマンションを目指していた。
 違法駐車を承知で住宅街の一角、路上に車を停めて車外に出ると、仙道はそのマンションを見上げる。
 地上7階建て、地下1階が駐車スペースになっているその建物の静かな佇まいは、いつも仙道のこころを落ち着かせる。そこに牧がいて、そこで彼が生活をしているという、ただそれだけの事実が仙道をどれほど幸せな気持ちにさせるのか、当の牧は理解しているだろうか。
 仙道はふたたび車内に戻り、マンションの来客用スペースに車を入れた。車外へ出、ふっ、と小さく白い息を吐いて歩き出す。彼はエントランスを抜け、まっすぐエレベーターに向かった。7階のボタンを押して扉を閉める。そして、それまで腕に抱えていたロングコートに袖を通した。
 牧が観葉植物を購入してからはほとんど毎日、その世話を口実に仙道は仕事帰りにこのマンションを訪れている。実際はそう頻繁に部屋主が留守にしている訳もなく、眠っている牧に会い、朝出勤して行くのを見送ることが仙道の目的なのだった。その後、牧の部屋で睡眠をとって自分のマンションに戻り、着替えを済ませて再び店に出る。これが最近の仙道の生活パターンになりつつある。
 エレベーターは1分も経たず、チン、という軽い音と共にちょっとした浮遊感を味わわせて仙道を7階の廊下へと吐き出した。
 男は牧の部屋までの数十歩の距離を流れるような足取りで歩く。
 眠っている筈の牧を起こさぬよう、仙道はインターホンを押さず合鍵で錠を開けると、静かに部屋に上がった。
 暖房の入っていない室内は、外よりは暖かいといえどもかなりの寒さだ。極力音を立てないようにドアを閉め、急に冷たさを意識させ始めた指先に息を吐きかけながら奥の寝室を目指す。
 時間をかけてたどりついた寝室のドアを、やはり音をたてないよう気を遣って開けてみると、サイドテーブルの上のライトを点けたままでその人は眠っていた。読みかけで眠ってしまったらしく、ベッドの足下に文庫本が1冊、ページが開いたままの状態で俯せに落ちている。
 それをゆっくりとした動作で拾い上げて、開いたページにしおりを挟み直してからサイドテーブルの上に置くと、仙道は無心に眠る牧の寝顔を覗き込んだ。
 ――スー⋯⋯。
 彼は身体をうつぶせに、片頬を枕に押し付けるようにして規則的な寝息をたてていた。くっきりとした二重の目蓋を閉じてしまうと、その意志の強そうな瞳が隠れ、どこかあどけなく幼い印象を与える顔つきになる。遊び疲れた子供が、夢も見ないでただ一心に眠っているようだ。仕事が忙しいと聞いていたが、精神的には充実した毎日を送っているのだろう牧の、痩せた様子のない頬のラインを確認して、仙道は人知れず安堵の吐息を漏らした。
 あと1時間ほどで牧は目覚めるだろう。セットされた目覚まし時計の時刻を見、ようやく仙道は窓際の壁に背をあずけて座り込んだ。その目は穏やかな光を宿し、眠る牧の顔を見つめている。
 至福の時。
 目覚める牧の、その表情の変化を見つめていることが、仙道は好きだった。






 午前6時。デジタル時計の文字盤が切り替わったと同時に、ピピピッという甲高い電子アラームが鳴りはじめる。くりかえすアラームが4回鳴ったところで、布団の中から伸びた牧の手が手探りで音源のスイッチを切った。
 アラームが止む。
 そこで一旦動きを止めた牧の身体は、しかしややあってくるりを寝返りを打ち仰向けになった。そして一声、うーんと唸って伸びをする。
 そこまでの動作の後、ふいに人の気配を感じたのか、ぼんやりと見開かれた男の瞳が人影を捜して揺れた。そこにいるのが誰なのか、信じて疑っていないのだろう。彼はその双眸が男の姿を捕らえるより早く、
「仙道?」
 寝起きの掠れた声で、その名を呼ぶ。
「おはようございます」
 耳に優しい男の声に、自然、牧の表情がなごむ。
「おはよう」
 まだ覚醒しきっていない牧の無防備な眼差し。もぞもぞと布団の奥からふたたび伸びて出た手がこぶしを握り、無造作に目頭をこする。その幼い仕草に、思わず仙道の頬は緩む。
 牧が布団から出易いようにとエアコンのスイッチを入れ室温を調節する仙道の背へ、
「寒かったろう? 暖房入れて待っててくれて良かったのに⋯⋯」
 彼がいま来たばかりではないと察した牧が、気遣いの声をかける。部屋の中だというのに、吐く息には色があった。
「いーえ。幸せだったからいいんです」
 牧をキョトンとさせる返事をしておいて、仙道は寝室を出る。起きて来る牧のためにコーヒーの用意でもしようかと思ったのだ。
 部屋の隅に置かれたファンヒーターのスイッチをONにしてからコートとスーツの上着を食卓の椅子の背凭れに掛け、シャツの袖をまくりあげて仙道はキッチンに立った。鼻歌を唄いながらコーヒー豆とソーサー付きのカップをふた組準備する。
 おちゃらけて見える性格だから、家事などしなさそうに思われがちな仙道だが、実は結構料理も得意なほうなのだ。凝り性なので、一旦ハマると玄人裸足の域にまで達する。ただ、牧が一緒にいるときは、その手料理を食べたいがためにものぐさを装う策士でもある。
 その仙道がちょうどコーヒーを煎れ終えたところで、Gパンにハイネックのセーターというかなりラフな格好をした牧が、ダイニングキッチンに現れた。今日の彼は当直のため遅番で、午前中はゆっくりできるのだ。そのくせしっかりと早起きをしてしまうのが、なんとも几帳面な牧らしい。
 差し出したコーヒーを受け取った牧に、
「牧さん」
「ん?」
「今日は午前中、俺の買い物につきあってください」
 仙道が切り出す。
 珍しいことがあるものだ、と牧は思った。相手の予定を聞かずに自分の意志を告げることなど、普段の仙道にはない行動なのである。しかも、いつもなら大抵『つきあってくれませんか?』と問いかけるところを、今日は頼みごとをする口調になっている。
「いいけど、何買うんだ?」
 もちろん断る気ははなかった。元から今日は特に何をしようという予定もなかったのだ。部屋にこもっているくらいならこの男と出掛けた方が、よほど有意義な時間を過ごせるだろう。
「うー⋯⋯。店に着いてのお楽しみ、で、どうですか」
 言おうか言わまいか一瞬迷う素振りを見せ、結局は言わないことを選んだ仙道が楽しそうに笑っている。
「じゃ、それでいいさ」
 その顔を見ていたら、なんだか自分まで楽しいような気分にさせられて牧も口元をほころばせた。






 街はクリスマス一色だった。
 クリスマスソングが溢れる平日の繁華街を、仙道と牧はふたり並んで歩いていく。
 立ち並ぶどの店も、店内だけでなくショーウィンドウの中や外壁までが、これでもかと言わんばかりにクリスマス関連のグッズやデザインで埋め尽くされていた。陽が落ちれば豆電球を全身にまとった街路樹が、いっせいにライトアップされるのだろう。
「牧さん、年末の休みっていつでしたっけ」
 クリスマスなんてことはないですよね、と仙道が白い息で問う。
「クリスマスがどうかしたのか」
 ベージュのトレンチコートのポケットに両手を突っ込んで歩く牧は、足元に気をとられている。
「いや、クリスマスっていうか⋯⋯正確にはイヴからなんですけど、ウチの店、クリスマスパーティーやるんですよね。それに来られないかなと⋯⋯」
「ホストクラブに男が行くのか!?」
 勢い良く顔を上げた牧の言葉には鳥肌が立っていた。
 牧が仙道の表の稼業が何であるのかを知ったのは、今から3ヶ月ほど前のことになる。その日もふたりで買い物に出掛けていて、観葉植物を見て回っているうちに自然とそんな話題になったのだ。
「もちろん主役はヒイキにしてくれてる女の子たちですよ」
 仙道は、牧のあからさまな反応が面白かったのか、声を出して笑う。
「けど、この日だけは特別で、男友達を招待してもいいことになってるんです。ただまあ、品行方正だっていう店員(オレ)たちの保障が必要ですけどね」
「ふ~ん」
 客、つまりは贔屓の女の子を盗んだり――その気にさせたり――しない男ならば、ということなのだろうと牧は想像する。せっかくのパーティーで売上げ減になるようなことがあってはお話にならない。そして自分がその条件を満たす対象になるということを、彼はちょっと複雑な想いで受け止めた。それは仙道が、自分が仙道を裏切らないと確信していることの証なのか、それとも女性に興味を示さないと誤解されていることの証なのか。
 たぶん前者なのだろうと結論付けて、その直後、そういう結論に達した自分の思考が恥ずかしくなってしまう牧だった。
「ざ⋯⋯残念だが、25日は仕事だ」
 とりあえず事実を告げて、牧は恥ずかしい考えから意識を逸らす。
「だと思った」
 年間を通してもっとも事件の発生率が高くなる時期が、この年末であることを仙道は知っていた。大掛かりな事件が起これば牧の性格上、たとえ休みがあったとしても返上してしまうだろうことは想像に難くない。はじめから、色好い返事は期待していなかった。
「年末の休みは、たしか⋯⋯28日だったな」
 先輩刑事の休日を記憶の片隅から手繰り寄せて牧は言う。相棒の推察どおり、あの日彼は休暇のトレードを成立させていた。最後の最後まで、仙道が残念がる様子を想像して迷いはしたのだが。
「そうですかー」
 やっぱり無理かなあ、とぼやいて、厚い雲に覆われた冬空をふりあおぐ仙道は、牧が思っていたのより遥かに残念そうな失意の表情をしている。
 胸がキリキリするのは、自業自得。
「無理って、なんのことだ?」
 胸の痛みから強引に意識を逸らし、牧は素知らぬふりで言葉をつぐ。
 それには応えず、仙道が数軒先に見えてきた店の看板を指さした。
「今日の目的地はあそこです」
「⋯⋯ブティック、か?」
「そっおでぇーす」
 跳ねた口調で応じた仙道は、さっき見せた淋しそうな表情が幻だったのかと思わせるほどに、いつもの掴みどころのない飄々とした笑みで牧をふり返っている。
「オーダーメイドで服作って貰えるんですよおー」
 うきうきと謳うような調子でそう言って、仙道は店のドアを引いた。
 ドアについていた小振りなベルがカランカランと暖かい音を発てるのに紛れて、
「いらっしゃいませ」
 落ち着いたトーンの女性の声。
 フロアの奥から現れた、この店のオーナーらしい上品な年配の婦人に笑顔で出迎えられ、牧はなんだか急にそわそわと落ち着かない気分になってきた。この店の持つ妙に高級そうな雰囲気に、自分がそぐわない人間のように感じてしまったからだ。おしまいには、オーダーメイドで服を作るという発想自体が、しがない公務員の身である自分には一生縁がなさそうな世界のものに思えてきてしまう。
 しかし、相手はさすがに接客のプロたちであった。牧が居心地の悪さを感じたのはほんの数分のこと。脱いだコートをクロークに預け、服のデザインを選び始めた仙道をその場に残し、店の奥にしつらえてある接待用のカウンターに案内され、コーヒーを振る舞われる頃には、すっかりくつろいだ気分にさせられていた。
「牧さん、これなんかどうかなあ?」
 そう言いながら仙道がカウンターへやって来て、オーダー用のカタログに載った1着のタキシードを指さして見せる。
 牧はなるほどと思った。
「⋯⋯例のクリスマスパーティー用か」
 仙道は嬉しそうにコクコク頷く。
「おもしろいデザインだな」
 牧がそう言ったのは、首元のことだ。タキシードのネクタイといえば蝶ネクタイが定番の筈だが、仙道が選んだそれはちょっと変わった造りのブローチになっている。どうやらこの店では服だけでなく、それに合わせた装飾品も取り扱っているらしい。
「いいんじゃないか。第一お前自身が気に入ってるんだろう?」
「似合うと思います?」
 確認する口調でそう訊かれ、
「似合わないなんてちっとも思ってないくせに」
 わざわざ俺に訊くなよ、と牧は苦笑した。
「牧さんが認めてくれたら絶対安心だもん」
 仙道はそんなことを言う。
 それで、牧はちょっと真顔になって、
「似合うと思う」
 律儀に頷いてみせた。
「じゃあ今年のはこれに決めます」
 そう言って仙道はカウンターを離れて行く。そして今度は生地を選ぶのか、ちいさな生地見本を張り付けた別のカタログと睨めっこだ。
 その仙道の様子を、何か微笑ましい光景を見るような、包み込む眼差しで眺めていた牧の側にオーナーの婦人が歩み寄った。
「御兄弟ですか?」
「はあ⋯⋯まあ、ええ、そんなものです」
 牧は曖昧に微笑うしかない。
 これほど顔付きは似ていないのだし苗字も違うのだ、義理の、というところだろうか。が、どちらにせよ、彼女の目にはただの友人同士という関係には映らなかったのだろう。
「仙道様は当店のお得意様なんですよ」
「そうなんですか」
 牧が眺めやる視線の向こうで、生地も選び終えたらしい仙道はオーダーの手続きに入ったようだ。いつ採寸するのかと思ってその様子を見つめていた牧だったが、お得意様であるということは、当然寸法も記録済みということで、どうやら今日改めて採り直す必要はないらしい。なおも見守っていると、店員に一言二言話し掛けて、彼は1着のシングルスーツを手に試着室へと姿を消した。
 数分後、試着室から顔だけ出して、
「牧さーん」
 仙道が牧を手招く。
 牧が試着室の前まで移動したところで外に出て来た彼は、どう? と言うように小首を傾げてくるりと一回転してみせた。遠目には真っ黒な生地のスーツだったのだが、よく見ると細い白のストライプが細かく入っている。
 牧は少し距離をとって仙道の全身を眺め、
「やっぱお前にはシングルが似合うな」
と、目を細めた。もともと上背があるし、スタイルはいい。シングルを着るとスマートな印象が強くなる。
「牧さんはダブルですね、胸あるから」
「阿呆!」
 思わず、上品なこの店には不似合いな言葉を発してしまって牧は慌てた。
「バカなこと言ってないで、用が済んだんなら出るぞ」
 早口になってしまうのは照れ隠しだ。
「まだですよう。次は牧さんのです」
「はあっ!?」
 どういうことなんだ、と牧が問い詰めるより早く、仙道は試着室のドアの向こうに消えてしまった。
 ふたたび、今度は元のスーツに着替えて出て来た彼は、
「牧さん、タキシードは持ってないでしょう?」
 ストライプのスーツを店員に手渡しながら牧に訊く。
「必要ないからなあ」
 基本的に、礼服として黒のフォーマルスーツが1着あれば、後は白と黒のネクタイ1本ずつで冠婚葬祭はオールOKだ。タキシードを着て行かなければならない集まりなど、これまでの牧の人生には無縁だった。これからだって、そう度々タキシードが必要になるとも思えないし、箪笥の肥やしになるくらいならレンタルで充分間に合う。
「じゃあ、今ここで作っちゃいましょう。せっかくだからオーダーメイドで」
「ええ!?」
 いきなりそんなことを決められても困る。慌てる牧に、けれど仙道はいつも通りのマイペースだ。
「俺からのクリスマスプレゼントってことで」
「って、あ、オイ! ちょっと待てよ、そんな、俺⋯⋯」
 困るよ、と云う言葉は続けられなかった。
「寸法をお採りします」
 あっと思う間もなく、有無を言わせぬプロの職人たちがメジャーを持って牧を取り囲んでしまったからだ。
 そんな牧を後目に、礼服のデザインを選ぶ仙道は嬉々としてオーダー用のカタログと向き合い、オーナーの老婦人と談笑に花を咲かせはじめている。
 そして牧を振り返った。
「牧さーん。なんか特別に注文つけたいことってありますー?」
「知るか、そんなこと!」
 メジャー集団に取り囲まれて身動きのとれない牧からは、叩き付けるような口調の投げやりな返事が返ってくる。あまりに急な展開ついて行けず、怒っていいのか拗ねていいのか混乱しているのだった。
「あー⋯⋯」
 困ったな、という泣き笑いのような表情で、仙道は牧の側へやって来た。採寸が終わるのを待って、
「ごめんなさい」
 小声で謝る。
「困らせたかったわけじゃないんです」
「⋯⋯⋯⋯」
 牧にもそれは解っている。だから、仙道のことを強くは責められない。でも、いくらなんでも強引過ぎだ。
「ウチのクリスマスパーティー、どうしても来て欲しいんです。だから⋯⋯」
「仕事だって言ったろう?」
 声を落とし、しずかな調子で牧も返す。
「5分でも10分でもいいんです。顔出して貰えたら、それで。俺が抜けるわけにはいかないから⋯⋯」
 わがままは承知だ、と柄にもなく殊勝な言葉を付け足して、仙道は俯いた。滅多に見られない彼の姿だった。
「せっかくのクリスマスなのに」
 ――会えないのは寂しい。
 最後までは言葉にしない仙道の、その横顔が気持ちを押さえかねている。それを見、牧はそんな表情(かお)をするな、と仙道の額を軽く小突いて溜息をついた。
「解った」
 でも、と言葉を継いで、
「オーダーメイドはいいよ。自分で買えるので充分だから」
 分不相応だよ、と牧は言った。第一仙道に2着分もの代金は払わせられない。
「大丈夫です、それは。俺の分は店から出金されるんで」
「けどさっき試着したスーツは⋯⋯」
「アレは今日は買いません。それにね、今年の冬のボーナスは牧さんのために使うって、ずっと前から決めてたんです。だから俺の好きにさせてください」
「解った」
 もう一度おなじ返事をくり返して、やっと牧の顔に笑みが戻る。
「それなら後はお前に任せるよ。⋯⋯知らないでいる方が出来上がりが楽しみだからな」
「ハイ!」
 仙道の返事はこれ以上ないほどにバラ色だった。






 イヴなんて、あっと言う間に来てしまった。この日にほんの少しでもいいから自由になる時間を多く得ようと、連日署に泊まり込んで山積する仕事を片付けていた牧は、もちろんまだあのタキシードを受け取っていない。
 昼間ブティックに電話を入れて、出来上がっていることは確認した。そして、今夜閉店時間ギリギリになりそうだが必ず受け取りに行くからと約束し、失礼を詫びておいた。
 今日の残業は9時まで。
 そう心に決めて、それでも家に持ち帰る仕事量をわずかでも減らそうと、おそろしく気合いの入っている牧だ。
「頑張り過ぎじゃないのか? お前いつから家に帰ってないんだ」
 背中合わせに机を並べている赤木が、呆れ返った口調で話しかけてきた。書類の処理はペーペーの仕事、という訳で、いま捜査一課の刑事部屋で残業をしているのは牧と赤木のふたりだけだ。当直の刑事は、ふたりが仕事を切り上げるまで仮眠室で休むと言って、ここにはいない。
「今夜は約束があるんだよ」
 ふりかえりもしないで牧が応える。
「イヴだからなあ」
「おう」
「あの男か」
「⋯⋯ああ」
 赤木は、己の相棒とその情報屋との関係を過不足なく把握している。そして、ふたりの良き理解者で、味方でもある。今から二ヶ月ほど前、牧がある事件に巻き込まれて入院を余儀なくされる大怪我を負ったとき、血相を変えて病院に飛び込んで来た仙道を、面会謝絶であるにも関わらず密かに牧に会わせたのが、その日病室前の警護をしていた赤木だった。面会謝絶である上に、ましてや海のものとも山のものともつかぬ部外者を無断で面会させるなど、上層部に知られたら減俸どころの騒ぎでは済まないのに、彼はそれを断行した。そんな経緯があって、以来、赤木には自分たちの関係について必要以上の隠し事をしない牧である。
「それなら、晩飯1回で手を打つぞ」
「赤木⋯⋯」
 思わず背後を振り返った牧の前に、にやりと不敵な笑みを浮かべた相棒の顔があった。
「休暇、替えて上げたりするからだ。いくら相手が先輩だからって、断れなかった訳じゃないだろ?律儀すぎるっていうか、真面目すぎるっていうか⋯⋯」
「解ってるよ⋯⋯」
 いちいちごもっともな指摘に立つ瀬のない牧だ。
「ま、そこがお前の良いところなんだけどな」
「なんか見透かされてるし」
「悔しがっても無駄だぞー。そもそも何年の付き合いだと思ってる?」
 赤木は余裕綽々、喉の奥で心底可笑しそうに笑う。彼と牧との関係は、警察学校時代からの腐れ縁でこんにちに至っているのだった。
「ほら、さっさと仕事置いてけ! 気が変わるぞ!?」
 相棒の笑いながらのけしかけに背を押され、
「晩飯どこで喰うか考えとけよ!」
 照れ隠しにそう叫び、牧はコートを掴んで刑事部屋を飛び出した。






 パーティーに出席して素面で帰れる保証はない。そう判断した牧は、いったん動かしかけた自家用車を署の駐車場に置き去りにしてタクシーを呼んだ。そうしてまずはブティックへ移動する。すぐ済むからとタクシーをその場に待たせ、衣装カバーに包まれた品物を受け取り車に戻った。仙道が見立ててくれた真新しいタキシードを半ば抱きかかえるようにして後部座席に乗り込んだ牧は、運転席へ身を乗り出し、再び、しかし今度は最終目的地を告げる。それからシートに深く腰を沈め、ようやくホッと息をつき、衣装カバーを膝の上に抱え直した。
 結局、タキシードに関して、シングルしたということしか牧は仙道から聞かされていない。
『仕事には関係ないから大丈夫ですよね?』
 あの日、店からの帰りに仙道に念押しで問われ、この男がそこまで考えを巡らせてくれていたのかと、内心驚きつつ嬉しく思った牧である。
 ふだん牧がダブルのスーツばかりを選んで着るのは、何もそれが好みだからという訳ではなく、あの厄介なホルスターのせいなのだ。シングルではどうしても胸回りが窮屈で、俊敏な動作の妨げになりかねない。
 だがバーティー用のタキシードならば、そんな気遣いをせずにシングルを着られる。仙道はそう考えて、いつもは牧が選べないものを敢えてチョイスしてくれたのだ。
 牧は、こんな、ほかの人からすれば恐らくは取るに足りないほんの些細なことで、仙道の自分に対する想いを意識させられ、それを嬉しく思う自分に気付く。そのことを、この自分の想いと感謝の気持ちを、ちゃんと言葉にして彼に伝えなければと、常々こころの裡では感じているのだ。けれどいつも気恥ずかしさに負け、そして何よりも仙道の寛容さに甘えて有耶無耶にしてしまう。今回休暇の日程を変更してしまったのも、結局は、もし本当のことを仙道が知ったとしても彼が許してくれるだろうと、気持ちのどこかで理解している自分がいたからなのだ。現実には仙道はそのことを知らない。だが、埋め合わせは必ずしよう。牧はそう心に決めていた。
 パーティーに出席するのとはまた別の方法で、必ず。






 牧の乗ったタクシーが仙道の勤めるクラブに到着したのは既にパーティーの始まっている時間だった。小洒落たリースで飾り付けられた入口のドア1枚を隔て、その向こうから賑やかな音楽がわずかに洩れ聞こえる。
 牧はしかし、入口のドアに手をかけることが出来ない。礼服に着替えなければ会場には入れないことになっているのだ、今夜に限っては。
 以前ここへ仙道を尋ねたときには、まだ開店前だったため彼を携帯で呼び出して従業員専用の裏口を開けて貰うことが可能だったのだが、今夜もその手が通用するだろうか。あのときとは違って、いま仙道は勤務時間中だ。携帯の電源を切っている可能性が高かった。その場合はどこかで着替えて出直さなければならない。移動中にタクシーの中から電話してみれば良さそうなものだが、他人――それがタクシーの運転手であっても――のいるところで己のプライベートを曝け出すことが極端に苦手な牧には、それが出来なかったのだ。
 ここで迷っていても埒があかない。
 牧は思い切って携帯電話のボタンを押した。呼び出し音が鳴りはじめる。本人が出るか、伝言預かりの音声ガイダンスに切り替わるか、緊張の一瞬。
『もしもし』
「あ、仙道?」
『ああっ、牧さんだー! 今どこです?』
 仙道の弾んだ声が受信口からこぼれてくる。
「入口んトコまで来てんだけど」
『なら早く入っ⋯⋯』
「着替えてないんだ、それで⋯⋯」
『じゃあ裏に回って下さい。カギ開けますから』
 そこで通話が切れた。






「ちょうど良かった。トイレに行ってたトコだったんですよ」
 裏口のドアを開けて待っていた仙道は、いまフロアじゃケイタイ鳴っても気付きませんからね、と笑いながら牧をバックルームへ招き入れ、
「うるさいでしょ?」
 パーティー会場の方から溢れて来る音楽を指さす。そうだな、と曖昧に頷き、
「済まん、遅くなって。途中で連絡入れようかとも思ったんだが⋯⋯」
と、そこまで口にして、いきなり黙ってしまった牧を、
「牧さん?」
 不審に思った仙道がふりかえる。
「あ⋯⋯いや、似合ってるな、と、思って⋯⋯」
 夢から覚めたような口調で牧はそう言った。もちろん仙道のタキシード姿が、である。
「惚れ直しました?」
 おどけて大袈裟に眉を浮かせる、いたずらっこの笑顔で仙道は牧を見る。
 ――うん。
 思わず心の中で頷いてしまい、
「バカなこと言ってんなよ」
 口をついて出るのは相変わらずな悪態だ。
 でも。
 きっと、真っ赤になった顔で、仙道にはすべてバレている。
「ハイハイ。そういうことにしときましょうかね」
「なんだよ!」
 その言い草は、と言い募る牧を軽くいなして、
「っと、とりあえず着替えと荷物、俺のロッカー使ってください」
 そう言って差し出されたロッカーの鍵を、すっかり毒気を抜かれてしまった牧は、おとなしく受け取る。
「それから、シャワーも借りたいんだが⋯⋯」
「いいですよ」
「それと⋯⋯」
 言葉の裏にひそむ気持ちを仙道にさとられないかと心臓をバクバクさせながら、牧は続ける。
「30分くらいしたら、迎えに、来て、貰えないか⋯⋯?」
「⋯⋯? ⋯⋯いいですけど⋯⋯」
 自分の言わんとしていることの真意に、仙道は気付いただろうか。ぎこちない言葉に、不審感を覚えたりしていないだろうか。俺は嘘がうまくない。
 牧の懸念をよそに、シャワー室に案内し、その使い方を説明してから、仙道は迎えに来るとだけ約束してフロアへ戻って行った。
 一日の仕事の疲れも埃も、とにかくすべてを洗い流して、まっさらな気持ちであのタキシードに袖を通したいと思った牧である。それは、何か特別な日に、新しい服や靴をおろすときの子供の心理と変わらない。
 自覚があるだけに、牧自身その子供っぽい発想を恥ずかしいとは思うのだ。
 でも。
「⋯⋯それにさ」
 シャワーのコックを捻って、牧は小さく声に出す。
「一番に、見せたいじゃないか。⋯⋯お前に、さ」
 本人を前にしては絶対言えない彼の本音は、水音に掻き消され、誰の耳にも届かない。
 20分後、身体も頭も洗って手早く髪を乾かした牧の姿は、仙道のロッカーの前にあった。
 オーダーメイドのタキシードは、シャツからすべてが揃っている。まずは袖口のカフスボタンを嵌め、慣れない手付きで蝶ネクタイを締め、それから最後に上着を羽織る。
 しかし、鏡に映る己の姿を見て、牧は大きな溜気をついた。
「なんか服に着られてる⋯⋯」
 着慣れていないのがバレバレなのである。
 ――アイツとはえらい違いだ。
 社会人になって初めて正装したときよりヒドイんじゃないだろうか。
「七五三だってもうちょっと⋯⋯」
 ――マシだったはず⋯⋯。
 実家にあるアルバムの子供の頃の自分の写真まで思い出し、牧は大袈裟に首を振った。
 と、そこへ、ドアの前で止まる足音。
 仙道だ。
 その足音に気付いた牧は、緊張のあまり固まった。まだ心の準備ができていない。いまの自分の格好を似合っていないと思い込んでいるから、彼は尚更ドキドキしていた。
 ドアが開く。
「牧さーん、着替え終わ⋯⋯」
 それ以上、仙道の言葉が続かない。
 その失語を牧は誤解した。やはりこの服装が似合っていないのだ、と。
「⋯⋯スッゲ! 予想以上だ」
「へっ?」
 思わぬ仙道の言葉に、牧の口から間抜けな声が出る。
「お⋯⋯おかしく、ない、か⋯⋯?」
 不安そうに尋ねる牧に仙道は言い放つ。
「牧さん。牧さんは自分がどれだけ好(い)い男か、自覚してませんね?」
「はあ?」
 この人は自分がどれだけ格好いい生き方をしているか、解っていない。その生き方が牧の魅力の根源なのだと、周囲の人間は知っているのに。その牧がどのような服装をしたところで、似合わない訳がない。
 何を言われているのか理解していない牧が仙道に言葉を返すより早く、
「いいですか、お洒落ってのは気合いです!」
 ビシッと人差し指を突き出して、どこまでが本気なのか判断し難いことを男は言い出した。
「似合うと思って着れば何だって似合うんですっ。解りましたね!?」
「あ⋯⋯ああ⋯⋯」
 アロハシャツとタキシードとをそれぞれ違和感なく着こなしてしまう男を目の前にして、ここは不承不承ながらも頷かざるを得ない牧である。
「自信持って下さいよ。そんなんじゃせっかくの正装が台ナシです。それに俺が言うんですから、間違いないでしょ? ホント似合ってますって。ね?」
 ――あなたに嘘なんかつかない。
「⋯⋯信じることにする」
 ようやくそう応え、牧は目を閉じ、ひとつ大きく深呼吸した。そして胸を張ってみる。
「じゃ、行きましょう」
 お手をどうぞ、と差し伸べられた仙道の手のひらに、
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯うん」
 長い逡巡の後、もうひとつの手がゆっくりと重ねられた。



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