『QUATSCH』後-2 R18


 パーティー会場はすでにそれなりの盛り上がりを見せていて、新顔が現れたことに幸い誰も別段気にとめるふうはなかった。それよりも姿を消していた仙道が戻って来たことの方が重要だったらしく、彼は、その姿を発見するなり嬌声を上げて殺到した女の子の集団にまんまと囲まれてしまう。
 フロアに出る寸前の階段の踊り場でそっと仙道の手を離していた牧は、しぜん彼のそばを離れ会場の目立たない位置のテーブル席に身を寄せた。
 ――想像以上の人気なんだな。
 グルーピーに群がられて、それでも嫌な顔ひとつせず彼女たちと談笑している仙道を眺めやり、牧はぼんやりとそんな感想を持つ。
 仙道のひとあたりの良さは、いつどこで培われたものなのだろう。生来のものなのか、それとも自然と身についたものなのか。ともあれそれを武器に表裏のある人生を歩んで行く仙道を、それでも牧は少し心配している。彼はきっと多くの人間に愛されているし必要とされてもいる。それは今だけではなく、これからだってずっとそうだろう。
 しかし、それが両刃の剣だということを、牧はその感覚でもって把握していた。
 人生には、大袈裟に言えば『究極の選択』というものを迫られる局面が、いつか必ず訪れる。そのとき、仙道が己の選ぶ肢(みち)を後悔しないでいられるか。もしかしたら、何か大切なひとつを手に入れるために、そのほかのすべてを切り捨てなければならないことだってある。そのとき、仙道が自分自身を見失わなければいい。その心が修復不可能なまでに傷付いてしまわなければいい。仙道の精神が、自分が心配しなければならない程、ヤワに出来ていないことは理解しているつもりの牧だ。だが、どこまでタフに出来ているのかもまた、牧の想像の域を出ないのである。
 そんな、華やかなパーティー会場には相応しくないことを考えていた牧の前に、スッとシャンパングラスが差し出された。
「楽しんでる?」
「?」
 ハッとして面を上げた視線の先に、牧の知らない男の顔。
「一応『はじめまして』やな」
 牧はその一言で、男の微妙なイントネーションの違いを聞き取った。
「ったく、あのド阿呆は何やっとんねんな! あんなんほっときゃエエのに」
 彼は背後を振り返り、いままで牧が見つめていた男を見遣っている。仙道はいまだ女の子に取り囲まれたままだ。
「こないなべっぴんサンひとりにして⋯⋯。横取りされてもええんやろか」
「⋯⋯⋯⋯」
 牧が一言も言葉を返せないでいるうちに、男はそれだけのことを一気にまくしたてている。
「でも、あれが仕事だろう?」
 ――あいつにとっては。
 ようやく口をきいた牧に、男の視線が落とされた。
「なるほどな。理解ある恋人っちゅーわけ、か」
「!」
 瞬間、牧の警戒ボルテージ表示がマックスを示す。
「あんた正直すぎるよ、ソレ。黙ってても『ハイそうです』て自分でバラしてるようなもんやん」
 しかし、そう言われたからと云って、ハイそうですか、と警戒心を解く訳にもいかない牧である。
 そんな牧の態度に呆れたのか、男はその眠たげな一重の目蓋を閉じて大袈裟に溜息をついてみせた。
「カマかけて悪かった。俺はミナミ。南烈や。ああ、本名が、な。店での名前はまた別やけど、それ知らんでもかまわんやろし。ま、ヨロシク」
 ヨロシク、という言葉と共に握手を求める手が牧へと差し出される。
「⋯⋯仙道から俺のこと聞いたことないか? それとも仕事の話なんかせェへんのかな。⋯⋯アイツとは一応、仕事仲間や」
 握手をかわした手を離しながら、牧もようやく会話らしい言葉を口にする。
「⋯⋯ライバルだって話なら聞いてる。ふたりで店の客二分してるって」
 南は、ふん、と鼻で笑った。それが仙道に対する彼のどんな感情を示しているのか、牧には判断できなかったのだが。
「いいのか? あんたのファンもたくさん来てるんだろう?」
 こんなところで男相手に油を売っていて、店の責任者にでも見つかったらマズイのではないだろうか。
 しかし南はそれには答えず、別なことを口にした。
「なあんか気持ち悪いくらい、よお似てるな、あんたら」
 仙道の同僚とはいえ初対面の相手に、どうしてこうもズケズケと自分達のことを言われなければならないのか、牧も本気で怒ればいいものを、なぜかそんな気にならないのは、この男の憎めない大阪弁のせいなのかも知れない。
「お行儀良うてイイ子ちゃんで、ひとの心配ばっかして」
「そんなこと⋯⋯」
「警戒心バリバリ全開なトコまでそっくりやんか」
 でも、と言って、南はその横顔に真剣な表情を浮かべた。
「ハタから見てたら羨ましい限りや。『妬まし』とか思う前に、なんや幸せな気ィさせられる」
「⋯⋯⋯⋯」
「仙道に言うとき。お前が大事にせェへんのやったら俺が横取りするで、って。⋯⋯揶揄(からこ)うて悪かった」
 あんたが暇そうやったから、ちょっとちょっかい掛けに来ただけや、と言い残し、南はフロアの中央に向かって歩き出す。
 この短時間の邂逅で、牧には少しだけ南のことが解ってしまっていた。
 南には、今その関係がうまく行っていない相手がいるのだ、と。仙道と知り合う前の自分なら、おそらく気付なかったであろう他人の機微だ。
「⋯⋯うまく行くといいな」
 がんばれと励まされるのは、彼の好みではないような気がして、それでも何かを伝えたくて、牧はそう声にする。
 聞こえたのか否か。南は歩調も乱さず牧の前から姿を消した。
 そこへ、南と入れ替わるようにして、今度は仙道が足早にやって来る。どうやらやっと女の子達から解放されたらしい。
「牧さんっ」
 シャンパンを口に運ぶ牧に、上から覆い被さる勢いで仙道は詰め寄った。
「なに慌ててるんだ」
「いまアイツ⋯⋯南サン来てたでしょ!? いじめられませんでしたかッ!?」
 仙道の言い草がおかしくて、牧は思わず吹き出した。
「いじめ⋯⋯って、おまえ⋯⋯。もうちょっとで噎(む)せるトコだったぞ」
「だって⋯⋯、なんか長話してたし」
「大した話じゃないって。⋯⋯あとでちゃんと話すから」
 南から言付(ことづ)かった伝言は、いま言うべきではないと判断し、
「それより、お客を放っておいちゃダメだろ」
と、仕事に戻るよう、言外に促す。
「牧さんだって客なんです!」
 ムキになって仙道が言う。
「その前に、品行方正な男友達、だろ?」
 ――店にとっては。
「⋯⋯そうですけどォ」
 仙道は不満そうだ。
「それに、もう少ししたら、俺帰るよ」
「ええっ、そんな⋯⋯。いま来たばっかじゃないですかー」
「うん、でももう眠いんだよ。お前には会えたからな」
「ぶー」
「ぶー、ってお前⋯⋯。子供じゃないんだ、そう膨れるなよ。ファンが減るぞ?」
「減ったって構いませんよ、牧さんが俺のこと嫌いなんじゃ、ほかの誰に好かれたってイミないもん」
「ばっ⋯⋯、馬鹿なこと言ってんな!」
 ――嫌いだなんて、いつ誰がいったよ!?
「⋯⋯明日も仕事なんだ、仕方ないだろう?」
 駄々っ子をなだめる口調で牧は諭す。
 納得がいかないらしい仙道は黙ったままだ。
「この埋め合わせはちゃんとする。だから、27日の夜、空けておいてくれ。な?」
「⋯⋯じゃあ、そこまで送ります。タクシー呼びますから」
 不承不承といった恰好(てい)で頷き、仙道は牧を伴って表へ出た。






「で、南サンとなに話してたんです?」
 タクシーを待つ間に仙道がそう訊いてくる。
 牧は、あの言葉をそのまま伝えようかどうしようかとしばし躊躇した。
『大事にせェへんのやったら⋯⋯』
 ――もう充分俺は大事にされてる。
『横取りするで』
 ――だから、そんな必要もない。
「んー、別に大したことじゃないんだ。⋯⋯お前との関係知ってるって言われて、ちょっとびっくりしたかな」
「それは、こないだ俺も言われたんですよ」
「それでかあ⋯⋯。なんか確信持ってカマかけられたからな~」
 南のふてぶてしい態度を思い出して、牧は苦笑する。
「でも南サン、自分には惚れてるヤツがいるからって」
 ――ああ、やっぱり⋯⋯。
「そっか。⋯⋯あ、タクシー来たな。あれだろ?」
 近付いてくる黒い車を牧が指さす。
 黒塗りのタクシーはふたりの前でピタリと停まった。
 先に着替えと荷物とをリアシートに押し込んで、ドアに半分身を隠しながら、
「仙道、あの人に言っといてくれないか、そんなことする必要ないってさ」
 牧は仙道を振り返る。
「そう言えば解るから」
「南サンに? ⋯⋯いいですけど⋯⋯」
「じゃあ、27日のことは、また後で連絡する。今日は会えて良かったよ」
 そう言い残し、牧の身体は車内に収まった。
 牧を乗せたタクシーのテイルランプが路地の向こうに見えなくなるまで見送って、
「⋯⋯おやすみなさい」
 呟いた仙道の声は遣る瀬なさに沈んでいた。






 あの日から、牧は家に帰っていないらしい。
 観用植物の様子を見るため、二、三日に一度はかならず牧の部屋を訪れる仙道は、しかしその間(かん)一回も部屋主に会うことはなかった。その代わり、約束通り牧からの連絡は入り、27日、つまりは今日、横浜にある某有名ホテルのレストランで食事を共にすることになっている。
 約束の時間の5分前に仙道はホテルの最上階に位置するレストランに到着した。ウェイターに、予約した牧の名を告げ、リザーブ席に案内して貰う。
「お待たせ」
「俺も今さっき着いたとこだよ」
 正装した牧が、もう既に着席して待っていた。
 ウェイターの引いてくれた椅子に慣れた動作で腰を下ろし、仙道はメニューを受け取る。
「ホントはな」
 同じくメニューを受け取りながら、
「窓際の席をキープしたかったんだけど」
 予約が遅過ぎてダメだったよ、と言って牧が笑ったのは、このレストランの最大の売りのひとつがその夜景の美しさにあるからだ。
「場所によったらベイブリッジも見えるって聞いたんだけどさ」
「残念でしたね」
「うん」
 しかしふたりとも、口にする言葉ほどにはそれを残念に思っていない。今はまだ目の前にいる相手のことだけで手一杯で、そういった回りの風景やムードを楽しむ余裕が持てないのだ。慣れてしまうのも、それはそれで幸せなことだと思う。でも会うたびに新鮮な気持ちで、新しい何かを見つけられる今も、やはり幸せだと感じるのだ。
「男同士でディナーなんて、やっぱりあんまりいないのかな」
 注文を聞いたウェイターがふたりのテーブルから遠く離れてしまってから、不躾にならないさり気なさで、仙道はレストラン内に視線を走らせた。
「そうなんじゃないか?」
 そう、しぜんに答える牧が、仙道にはすこし不思議だった。ふだんの牧なら、照れたり恥ずかしがったりしそうなシチュエーションではないか。
 しかし牧の変貌の理由を仙道が見つけられないまま、なんということもない会話が始まり、ふたりの食事は進む。知り合った頃からしばらくの間は意識して避けてきた節のある互いのプライベートな部分にまで話題が及んでも、今では何の気兼ねもない。赤木や南といった共通の知人も出来、話題も当然増えてくる。
「そういえば、諸星サン、どうしてるんです? まだ愛知県警にいるんですよね?」
 牧の幼馴染みの名を、仙道は親しげに口にした。まだ一度も直接会ったことはない相手なのだが、ふたりの会話にはよく登場するため、すっかり『知った人』のように感じている仙道だ。
「なーんかな、あっちもこの時期はめちゃめちゃ忙しいらしい。里帰りもままならん、とか言ってあちこち走り回ってるみたいだ。アイツ、身体は細いのにパワーとスタミナはあるんだよ、昔っから」
 もうずっと会ってないけどなあ、と付け足して、牧の表情は何か懐かしいものを見るように凪いでいる。
 そんな話をしているうちに、最後のデザートが運ばれて来た。シェフのお薦めというメロンのババロアとプリンアラモードだ。
「俺のも食べていいですよ」
 プリンに生クリームを塗り付けている牧に、仙道がババロアの乗った皿を差し出す。
「⋯⋯いいって、別に」
「ダイエットでもしてるんですか」
「そうじゃないけど⋯⋯。お前だって、甘いもの嫌いなわけじゃないだろ」
 プリンを一口くちに運んで牧は言う。
「まあ、牧さんほど好きってこともないですけどねえ」
「だろ? だったらお前も食べろよ」
 そう言われても尚、納得できない仙道は、
「あ、じゃあ半分コしましょう!」
 なんとしてでも牧にババロアを食べさせたいらしい。
「ハイハイ」
 呆れてしまった牧だが、そこまで押されて断る気にもなれず、プリンを2分の1残して仙道の前へ押し遣る。
「トレード、な」
 牧が甘党だと知って以来、おいしいデザートの噂を聞きつけると、何がなんでもそれを彼に食べさせたくなる仙道である。好物を頬張っているときの牧の、なんとも形容し難い幸せそうな笑顔に弱いのだ。
 ――ガキだよなー。
 好きな人を喜ばせたいとか、好きな人の笑顔が見たいだとか。
 10代の初恋でもあるまいに。
 なにしろ牧とはもう、キスだってするし、躯を重ねたことさえ一度や二度ではないのに。
 それなのに。
「どうした、仙道。プリン嫌いだったか?」
 トレードされて来たプリンには手もつけず、自分の口元ばかり見ている目の前の男に気付いて、牧はババロアを切るフォークをとめた。
「や。しあわせそうに食べるなーと思って」
 見とれてただけです、と答え、仙道もスプーンを手にプリンと向かい合う。
 ――俺はいつも一緒にいたいんだけどな。
 この人は、そんなふうに感じたりしないのだろうか。
 あの夜。
 お互い仕事なのだから仕方ないのだと頭では理解して、それでも帰宅の途につく牧を、ただ見送ることしかできなかった自分が、どうしようもなく惨めだった。牧の部屋へ行くことはいつだって出来るけれど、それはあくまでも訪問なのであって、『帰る』のではない。
 その微妙且つ重大な差異に、仙道はもう耐えられそうになかった。
 きっと、牧が思っているよりも、そして己が自惚れているよりも、自分は聞き分けのいい大人などではないのだろう。
 楽しくもない想像に思考を支配されて、仙道にはせっかくのデザートの味がほとんどわからなかった。
 それでも、
「ごちそうさまでした」
 ふたり同時に手を合わせ、なんとはなしに顔を見合わせてあたたかく笑う。
 椅子を引いて立ち上がった牧は、
「今日は俺の奢りだからな」
 ちょっと胸を張って言う。
「おおっ、大きく出ましたねえ」
「公務員を馬鹿にしちゃいけません」
 おどけた口調で言い、牧は立てた人差し指を左右に振ってみせる。
「これでイヴの穴はチャラですね」
「⋯⋯⋯⋯」
 ――まだだよ。
 まだこんなもんで埋まってなどいないさ。
 けれど牧は言葉にしない。
「じゃあ俺、タクシーの手配頼んできますよ」
 会計に向かう牧の背へ仙道がそう言ったとき、
「必要ないよ」
 牧が振り返った。
「今夜はここに泊まるんだから」
「⋯⋯!」
 仙道彰、不覚にも、絶句。






 絨毯を敷き詰めた広く長い廊下に、ふたりの靴音は吸収されていく。レストランを出てから彼らは一言も口をきいていない。
 前を行く牧の背を、仙道はじっと見つめていた。その背が急に止まり、横を向く。ひとつのドアの前で牧が身体を反転させたせいだ。右手に持っていたカード型のルームキーをドア横の装置に差し込み、彼は仙道の顔を見つめた。
「仙道。俺は、この部屋に入ったら、部屋を出るまで、絶対に、お前の云うことに逆らわない」
 この場にそぐわない、恐ろしく張り詰めた表情。そして、一言一言を確かめるように区切られたその言葉。
「ま、き、さん⋯⋯?」
 仙道は口内が急速に干上がるのを感じる。
「自分が何云ってるか解っ⋯⋯」
「わかってる」
 仙道の台詞を遮って牧はきっぱりと言い切り、そして、
「解ってるよ、ちゃんと」
 己に言い聞かせるように小さく繰り返した。
 牧の手がカードキーを引き抜く。
 ロック、解除。
 牧の肢体がドアの向こうに消えるのを、信じられないもののように、仙道はその場で見送った。
 足が地に着いていないような、心もとない感覚。
 仙道は無意識に己の左胸に手を当て、声に出して呟く。
「牧さん、俺殺す気?」
 殺し文句だなんてかわいいモンじゃない、アレは。身体中そこいらに仕掛けられた何十個もの爆弾が、連鎖反応を起こして立続けに爆発して行くようだ。これでは生殺しである。一息に命を奪われるより断然始末が悪い。
 動悸がおさまらない。
 ふるふると頭を振り、しっかりしろと自分に言い聞かせ、それからようやく仙道も牧の後を追って部屋に入った。
 部屋の中は思った以上に広く、奥のベッドルームと二部屋に仕切られていた。いったいいくら奮発して牧はこの部屋を押さえたのだろう。
 先に部屋に入っていた牧は、窓際に立って夜景に目を向けていた。小さな窓だから見渡すというほどではないが、それでも一通り横浜の街並が堪能できる。
「俺は卑怯だな」
 背後に近付く男の気配へ、振り返らない牧の後ろ姿が語りかける。
「?」
「わざわざあんなこと口にして、お前に誓わないと自分の気持ちも素直に話せない」
 いや、それどころか。
 『逆らわない』と宣言してしまうことで、逆に自分の気持ちを楽にしようとさえしたのだ。これを卑怯と云わずしてなんとする。
「俺はいつだってお前に甘えてる。甘えて、安心してる。なのにそれをちゃんとお前に伝えてなかったろう。⋯⋯卑怯だと思ったんだ。お前からばかり言葉を貰って、なのに俺は⋯⋯」
「牧さん、いいよ、もう」
「良くない。駄目だ」
「だって、俺にはちゃんと伝わってる⋯⋯。牧さんの気持ち」
「⋯⋯俺を甘やかすな、仙道」
 そうやって牧の思考を先回りして、仙道は牧が苦手としていることを簡単に避けさせてしまう。言わなくていいようにしてしまう。いや、思考だけではないのだろう。仙道はふたりの、そして牧の、進む道の先にある障害物を、その存在に気付く余地さえ自分に与えることなく取り除いてしまうのだ、さりげなく、且つ完璧に。
 だから牧は、ともすれば仙道のした親切に気付かない。
「このままじゃ、俺はひとりで生きて行けない人間になる。⋯⋯勿論お前と一緒にいたくないって言ってるんじゃないぞ? そうじゃないけど、でもひとりででも大丈夫な自分でありたいんだ、俺は」
 ――その上で、お前と一緒にいたい。
 寄り掛かるのではなく、支え合い寄り添って生きていきたい。
「俺は、男なんだから」
 振り向いた牧の表情(かお)は真剣だった。
 ――道理で。
 目の前の彼はそれだけのことを考え、それを仙道に伝える決心をして今夜ここに来たのだ。レストランでの仙道のちょっとした言葉になど、心が揺らぐはずもない。
「誓い直すよ。俺は今からこの部屋を出るまでの間、どんな些細な嘘もつかない。訊かれたことにはちゃんと答える」
 ――何からも逃げない。
「牧さん、それ卑怯だ」
「え?」
「この部屋の中でだけじゃなくて、これからもずっとって誓ってよ。俺も誓うから。牧さん、あんたには本心しか見せない、って」
「⋯⋯⋯⋯」
 しかし牧は俯いて答えない。
「ダメですか」
「自信が、ないんだ⋯⋯」
 その言葉の一瞬の空白を誤訳した仙道は、思わず牧の両肩を鷲掴んでいた。
「俺の気持ちが信じられないって⋯⋯っ」
「ちがう!」
 叫ぶようにして牧が頭(かぶり)を振る。
「俺が⋯⋯俺がお前に愛想尽かされないでいられるか、自分に⋯⋯自信がないんだ」
 瞬間、仙道の頭の中で理性のネジが1本飛んだ。
「牧さん、キスしていい?」
「はあ!?」
 感情の逝ってしまった声と共に腰に回された仙道の腕に、牧は渾身の力で抱きすくめられる。
「⋯⋯、う⋯⋯」
 膝が嗤って今にも崩れそうだ。しかしそれさえも仙道の両腕がしっかりと支えている。
「⋯⋯ったく、ンな馬鹿なことばっか言ってると⋯⋯それこそホントに愛想尽かしますよ」
 口唇を離した仙道は、耳まで真っ赤になっている牧の顔を至近距離で覗き込んだ。
「でもっ⋯⋯」
「デモもストもありません!」
「⋯⋯」
 だいたい、男が男に惚れるということにどれだけのリスクがあると思っているのだ。そもそも仙道にそのケはなかった。女を受け付けない体質だというのならまだしも、そうではないのに、それでも牧を想っているのだ。リスクを承知でなおその存在を求めてやまない、仙道にとって牧とはそういう対象なのである。
 ――そう簡単に愛想が尽きてたまるか!
 な、心境になるのも当然だろう。
「牧さんは自分を過小評価しすぎです」
 殊、恋愛に関しては。
「そうなのかな⋯⋯」
 良く解らない、と視線を逸らして言う牧に、仙道は厳かに告げた。
「牧さんのこと、俺がどれだけ想ってるか、教えてあげますよ」
 この身を以て。






 ほかにどうすれば、何をどうすれば仙道が喜ぶのか、牧には判らなかった。何を望むということもない。何を欲しいと口にすることもない。いや、敢えて認めるなら⋯⋯。
 ――俺、か?
 事実仙道は、牧の役に立ちたいと言い、牧の側にいたいと言う。ならばこの認知は、己の自惚れだけが引き出した誤った結論ではないのだろう。
 そう自覚したとき初めて、牧は、無意識のうちにではなく意図的に自己というものを曝け出そうと思ったのだ、仙道に対して。出逢ってからこれまでの間に、彼が自分にして来てくれたことに比べたら、些細だろう、今夜の決意は。でも、仙道から受け取ったものを、与えられたことを、これから少しずつ返して行って、いつか彼と対等な存在になりたいと思う。守られ甘やかされるだけでなく、守り甘やかすことのできる存在でありたいと願う。
 牧の中にはそれを可能にするだけの力がある。己の力量を正当に評価し、仙道に対する自分の気持ちを素直に認め表に出すことができたなら。
 シャワーの湯気に満たされ曇っていく浴室の中で、牧の目線は足元に注がれていた。タイルの上を流れていく湯の後を追って視線が動く。
 水は逆らわない。
 人工的に造り出された高低差に従順に、ただ低い方へ低い方へと流れていく。それが当たり前だと言うことすらなく、しぜんに。
 そんなふうに生きられるだろうか。
 気負わず、逆らわず。
 ――あの男となら。
 身体についた石鹸の泡をていねいに洗い流した牧が、濡れた前髪を無造作に掻き揚げたとき、その背後で浴室のドアの開く音がした。
 牧は振り返ることができない。
 片手を宙に浮かせたままで強張った彼の身体に、背中から素肌の長い腕が巻き付く。
 心臓が破れそうだ。
「牧さん」
「⋯⋯⋯⋯」
「心臓⋯⋯壊れそう⋯⋯」
 腕に直接伝わる牧の鼓動が仙道にそう言わせる。
「驚いた?」
 それだけではない。これから我が身に起こるであろうことのすべてが牧を緊張させるのだ。
 喘ぐように呼吸(いき)をする。
 酸素が、足りない。
 シャワーに温められていたはずの体温が、更に上昇していく。その背に密着した仙道の身体は、水の流れる隙間もないほどぴったりと重なっている。
「牧さん」
 その声に呪縛を解かれ、一旦は落ちていた牧の手がゆっくりと動いて仙道の腕に添えられた。
 仙道の口唇が牧の耳朶に触れる。
「牧さん、俺ね、今日まで生きてきて、こんなに嬉しいことってないよ」
 謡うように囁く仙道の言葉に牧は目を閉じた。その旋律に酔う。
「牧さんが俺のこと考えて、俺のためにしてくれることだったら、俺は何だって嬉しい」
 ふたりの足を濡らして水は流れて行く。
 牧の手が、濡れたタイルの壁を求めて虚空(くう)を掴んだ。






 真冬の太陽は怠惰だ。
 普段なら決して目覚めることのない時刻に目を覚ました仙道は、視界を覆う暗がりが見知らぬものだと気付いて思わず身を起こした。闇の中にぽっかりと浮かんだ電光表示の数字が午前5時をさしている。
「⋯⋯⋯⋯」
 ――あ、そっか。
 ここはホテルの部屋だ。
 停止していた思考を働かせ、それだけのことを思い出した彼は、すぐ側の人の温もりを己の肌で確かめて、おだやかに微笑む。
 同じベッドの中でその人は眠っていた。
 少し肌寒いのか、牧は身体をまるめ縮こまっている。彼のその規則正しい寝息の音だけが、夜明けを待つ静かな空間を満たしている。
 ――触ったら起きるかな。
 仙道はそっと牧の額の指先を伸ばしてみる。
「⋯⋯⋯⋯」
 熟睡しているのだろう牧に、目覚めの気配はなかった。少しだけ開いた厚みのある唇に触れると、彼の体温を宿した吐息(いき)が仙道の指を温めてくれる。
 ――この唇が。
 仙道は思い出す。
 ほんの数時間前まで自分の名を呼んでいたのだ、切れ切れに、何度も。そして、離さないで欲しいと言って泣いていた。
『離すな⋯⋯』
 恐らくは無自覚の言葉。
『俺を、離すな』
 うわ言のように。
 それは本心で。
 溢れる涙を拭いもせず、牧の両腕は仙道の身体をを引き寄せた。
 その腕の強さを忘れない。
 ――離せるわけないよ。
 あの瞬間のことだけではなかった。これからだってずっとそうだ。離せるわけなんか、ない。たとえ牧本人が嫌がっても、多分もう離すことなど出来ないだろう、今の自分には。牧と出遭ってしまった、牧を知ってしまった、現在(いま)の自分には。
 牧の側を離れて――ひとりになって――生きて行くことが出来ないのは自分の方なのだと知っている。
 牧はこの部屋に入ってすぐあんなことを言っていたけれど、仙道には解っていた。牧が、たとえどこか見知らぬ土地にひとりで放り出されたとしても、ちゃんとその両足で歩いていくことが出来る、適応力に優れた人間であるということを。彼は決して弱くない。その肉体も精神も、仙道が支え導き補わなければならない必然性など、本来はひとつも持ち合わせてはいないのだ。自分がいなくても牧なら大丈夫。心配ない。一見器用そうに見えて、その実生きることに不器用なのは仙道の方だった。
 ――だから。
 眠る牧の額にかかる前髪を梳き上げて、仙道はそこに唇を落とす。そして、彼の頭部を胸に抱き寄せるようにして、もう一度ふかい眠りに就いた。
 離したりなんかしない。
 そんなこと、頼まれたって出来ない。
 ずっと、一緒にいたいよ⋯⋯。






 浅くなった意識を、それでも手放したくなくて、牧は目を閉じたまま寝返りを打とうとし、それが上手く行かないことに気付かされた。仕方なく、重い目蓋をこじ開ける。
 途端、視界を埋め尽くす肌の色。
 びくっとして身を起こしかけ、それさえも上手く行かずに更に焦る。
「⋯⋯⋯⋯」
 頭だけをようやく動かして見上げた先に、長いまつげに縁取られた目蓋を閉じて安眠を貪っている、見慣れた男の顔があった。普段はきっちりセットされている前髪が、今は無造作に額を覆い隠していて、それが彼のいつものシャープな印象を和らげている。彼のその長い腕が自分の背を抱いているのだと理解して、牧は寝返りを諦めた。そしてもう一度、その顔を見上げてみる。
 無心に眠る整ったその顔。
 大きく温かで、力強い腕。
 いつかこんなことにも慣れてしまうのだろうか。
 ――いつか。
 そんな日が。
 そう考えて、その想像に少しの嫌悪も感じていない自分が不思議だ。
『アンタの役に立ちたいんだ』
 はじめて仙道が自分に声をかけて来たあの日から、牧はこの男の存在を無視することができなくなっていた。
 理由などない。
 今でも解らない。
 でも。
 あれは偶然などではなく必然であったのだと、今の牧ならそう認められる。
 牧が独りでいたくないとき、誰かに側にいて欲しいと望むとき、必ず己の傍らで微笑んでいるのはこの男だった。計ったように側にいる、そのタイミングの良さは、けれど決して計算されたものではなく仙道の無自覚の行動の結果なのだろう。
 自分が自分らしく生きて行けるのは、この男がいるからだ。
 たぶん仙道は気付いていない。
 どれだけ牧が彼の存在に救われているのかなど。彼に対し、どれだけ言葉を尽くしても伝え切れない想いをいだいているかなど。
 幸福という言葉の本当の意味を、牧は今ようやく知ったような気がした。
 仙道の腕の中でちいさく溜息をつく。
 カーテンを閉めた窓の向こうでは、既に夜の明けた気配がしている。
 もう、起きなくては。






「仙道、起きろ。チェックアウトの時間だ」
 耳元でそう言われ、ぼんやりとした頭では言葉の意味を理解しないまま、それでも仙道は重い目蓋を無理にこじ開けた。
「あー、牧、さん⋯⋯?」
「朝だぞ」
「⋯⋯おはよう⋯⋯ございます⋯⋯」
「おはよう」
 寝癖のついた髪を掻き回しながら、仙道はのっそりと身を起こす。室温を調節してあるので素肌を晒しても寒さは感じない。
 ただ。
「う"ー」
 意識は完全には覚醒していないので、その動きは停止している。平素なら、まだ熟睡している時間なのだ。
「仙道、がんばれっ」
 この男の生活パターンはよく理解している牧である。だから出来ることならもう少し寝かせておいてやりたかった。が、そうも言っていられない。時間は刻一刻と容赦なく過ぎる。
 ぶるぶると犬のように頭を振って、仙道も必死に眠気を追い払おうとする。そして、
「牧さん、ズルい⋯⋯」
 ようやく頭の中までハッキリした仙道の視界の中には、もう身支度を整え終えたスーツ姿の枚。
「何がズルいんだよ⋯⋯。とにかくお前も早く着替えろ」
「だって⋯⋯」
 ――夢だったみたいじゃないか。
 これじゃ、何もかもが。
 昨日なにがあったのかを忘れてしまったような、忘れさせてしまうような、牧の姿。いつもの朝の情景。
 ――ウソみたいじゃん。
 抱き寄せてくれた腕の強さも、名前を呼んでくれたあの声の響きも、ちゃんと覚えていたつもりなのに、形のないものは残しておくことが出来ず、確かめられない。触れることも叶わない。
 そんな仙道の心の葛藤をよそに、
「ほら、いつまでも固まってんな」
 牧が放って寄越した服を頭から受け止めて、しぶしぶ仙道は着替え始めた。
「⋯⋯何いじけてんだ」
「べっつにィ、いじけてなんかないですよ~だ」
「⋯⋯⋯⋯」
 口調だけではない、膨れっ面でまでそのいじっけっぷりを披露しておいて、今更いじけてないも何もないもんだ。
 ときどき仙道はこんなふうに、子供っぽい一面を見せることがある。普段の、牧を包み込むような、あの包容力のある仙道が多くの人間にとってもっとも彼らしいと感じられる仙道なのだろうけれど、いま目の前で拗ねてむくれている男もまた、牧にとっては彼らしい仙道だった。本当に稀にでしかないが、自分には本気のわがままを聞かせてくれる仙道を、牧は大切にしたいと思う。それは、彼の人間味をいちばん実感できるからなのかも知れない。
 牧が見守る中、仙道はのろのろと着替えを続けている。
 これ以上彼の着替えを見ていてもしかたない。
「向こうの部屋にいるから」
 そう言い置き、牧は寝室を後にした。






 ――夢じゃないよな。
 昨夜と同じ窓際に立って、牧は胸の裡(うち)に呟く。
 昨日のすべてをなかったことにしてしまいたいような、そんな後悔の念はない。それどころか、しっかり記憶にとどめておきたいと願っていた筈だった。
 それなのに。
 ――こんなにも早く、
 記憶は風化していく。
 眼下に広がる街並までが、朝と夜とではこうも様相をたがえるものだとは。
 だけど。
 「夢じゃない」
 自分に教えるように口にする。
 昨夜、仙道に告げた自分の言葉、気持ち、態度、すべて夢じゃない。嘘でもない。
 ――忘れるな。
 もう絶対に自分の気持ちに嘘はつかない。ごまかしもしない。
 自分に誓う。
 牧がふっと小さく息を吐いたとき、
「お待たせしましたー」
 ドアが開いて、すっかり身支度を済ませた仙道がその長身を現した。
 振り向いた牧は、ついさっきまでむくれていたことなど忘れ去ったような男の端正な顔を見、そのギャップに笑いを噛み殺す。しかし、次の瞬間、意図せずして仙道と目線を合わせてしまい、訳もなく赤くなった。
 ぎこちなく視線を逸らせる牧の態度に、仙道はほくそ笑む。
 ――いつもの牧さんだ。
 昨日の思い詰めたような牧も嫌いではない。だが、普段のちょっとぼんやりした、どこかに隙がある牧の方が彼らしいような気がして、仙道は安心してしまうのだ。それは、己の確かな存在理由を明確に感じられるからなのだろう。
「じゃ、出るか」
 部屋のキーを持っていることを確かめて、頬を少し赤くしたままの牧がドアへと歩き始めたとき、その背中へ仙道は呼び掛けた。
「待ってください」
「ん?」
「言いたいことがあるんです」
 この部屋を出る前に。
 牧が出て行ってしまってから、ベッドルームでひとりずっと考えていたこと。
 ふたたび振り向いた牧が見つめる視線の先で、いつになく神妙な面持ちの仙道が、言葉を捜して目線を床に落としている。
「牧さん、引っ越しする気、ありません?」
「引っ越し?」
 いきなりな言葉に驚いて身体ごと仙道に向き直った牧の前で、尚も男は目線を彷徨わせている。
「うちに、じゃなくて⋯⋯その⋯⋯」
 珍しくも緊張しているのが、その途切れがちな声と落ち着かない目線とで牧にも痛い程よく解った。
「新しく部屋を借りて⋯⋯」
 仙道が、ふたりにとってひどく重要なことを提案しようとしているのだと、その雰囲気と伝わってくる緊張感とで、牧は肌に直接受け止める。
「俺と⋯⋯」
 仙道の言葉が途切れ、刹那の静寂が落ちる。次の瞬間、思わず牧がはっと息を飲んでしまったほどの真摯な目で顔を上げた仙道は、感情を押し殺した声で一息に言った。
「ふたりで一緒に暮らしませんか」






 海南署近くにあるその食堂は、年末になって周囲の企業が休みに入ってしまっているせいか、普段の同じ時刻にくらべると客の入りが悪いようだった。この店も明日から正月休みに入ってしまう。
「なあ、ホントにいいのか? これだけで」
 夕食として定食を一膳注文した牧は、申し訳ない気持ちをありありと滲ませた口調で、カウンター席に並んで腰掛けた相棒の顔を覗き込む。
「本人がいいって言ってるんだ、お前が気に病むことないだろう」
 牧と同様に定食を一膳頼んだ赤木は、相棒の生真面目さに呆れている。
「けど俺、あんなにたくさん仕事押し付けたんだぞ」
 イヴにかわした約束を果たすため、牧は赤木の要望を聞き入れて彼を連れ、この食堂に夕食を奢りに来ているのだ。
「引き受けたのは俺なんだから、いいんだって。だいたいな、邪魔なんかできるかよ。堅物で名の通ってるお前に、そういう相手が出来たってこと自体が奇跡みたいなもんなんだ」
 牧のことを堅物呼ばわりする赤木だが、彼もまたひとに言わせれば堅物のカテゴリの中央に収まる真面目一徹な男ではある。その彼にここまで言われると、牧の立つ瀬はない。
「ひどい言われようだな⋯⋯」
「ま、ほんとのことだしな?」
「おいおいおい」
「だからとにかく、その相手との『いい関係』が壊れたりしないように、相棒の俺としては、だ、できる限り協力してやらんといかんなと思うわけさ」
「お前、それからかってんのか」
「さあ?」
 赤木はくだらない冗談や軽口など、そうむやみやたらに叩く男ではない。どうやらこれは意図的な悪巫山戯のようだ。そうやって軽い口調に混ぜ、彼は本心から牧のことを気遣ってくれているらしい。
「⋯⋯ほんと感謝してる」
 だから牧も素直に礼が言えるのだ。
「それよりな、お前この間の有給中、ホテルに部屋取ったって言ったよな? そっちの首尾の行方が俺は気になってるんだが?」
「ああ、それなあ⋯⋯」
 答えようと牧が口を開きかけたところへ、ふたり分の定食が運ばれて来た。
 しばし会話中断。
 箸を割って手を合わせ、いただきますと丁寧に声にしてから、どんぶりを手に牧はあの日のことを簡単に報告しはじめた。が、報告と言っても重要なことはただひとつ。部屋を出る寸前に仙道が提案した『あのこと』だけである。
「それって⋯⋯なにか? 同棲しないかってことか?」
 唐揚げに伸ばしかけていた箸をとめ、赤木はまじまじと相棒の横顔を見つめた。
「そう⋯⋯らしいな」
 牧は視線を落としたまま生姜焼きを口に運んでいる。その頬が赤くなっているように見えるのは、赤木の気のせいだけではないようだ。
「そいつは、また⋯⋯」
 思い切ったことを、とまでは口にせず、
「で、お前はなんて答えたんだ」
「うん」
 口の中の生姜焼きを嚥下し、相変わらず視線は赤木に向けないまま、
「考えさせてくれって⋯⋯」
 取り敢えず時間が欲しくてそう答えた、と牧は素直に白状する。
「ふ~ん」
 赤木の片頬がわずかに吊り上がる。
「なんだよ」
 相棒の声音に、常にはない不穏な響きを感じ取った牧が、ようやく赤木に視線を向けた。
「なんかおかしなこと言ったか? 俺」
 男の微妙な表情の変化を見てとった牧への、
「⋯⋯引っ越し祝い、考えんとなあ」
 それが相棒の返答だった。



1998.09.08 脱稿/2023.05.18 微修正 



・初出:『(無題)』1998.09.13(?) 発行
 エセ関西弁、お見苦しくて申し訳ありません⋯。
 発行日があいまいなのは、イベント頒布用ではなく、仙牧の同士:HさんとAさんに個人的に捧げた非売品だったため