神奈川県海南警察署の刑事課は、捜査一課と捜査二課のふたつの課に分かれていて、同じ刑事事件でも、障害・殺人など、俗に凶悪犯罪と呼ばれる危険な事件を担当するのが一課、窃盗・詐欺など、軽犯罪を担当するのが二課、という割り当てになっている。
その海南警察署管内で、連続殺人という、極めて陰湿な事件が起きた。
――東洋版切り裂きジャックかジェイソンか。
そんな無責任なコピーが、連日のようにワイドショーの見出しになり、新聞の一面を飾り、各種週刊誌の巻頭を独占したのは残暑も厳しい九月の初旬。
そして最初の事件が起きてから十日目に第4の殺人が発生するに至って、世間の警察に対する不信感が爆発。海南署と神奈川県警は避難の矢面に立たされた。窮地に追い込まれた海南署では、署長退陣の噂がまことしやかに囁かれた程だ。
だが最初の事件からちょうど二週間後、事件はあっけない幕切れを迎えることになる。
ひとりの男が、自首して来たのだ。
シャワーを浴び終えた、まだ少し濡れたままの髪で、着替えを済ませたスーツ姿の男が一課の刑事部屋に戻ってきたのを見、赤木剛憲は不思議そうな顔をした。
「あれ、なんだお前、泊って⋯⋯」
行かないのか? と言いかけて、彼はその男、相棒の牧紳一が、明日非番であったことを思い出す。最初の被害者が出たとき、捜査が長引けば2週間後の有給は返上することになるだろうな、と、この相棒は諦め顔で言っていたのだ。
犯人が報道陣の目を盗むためにか他署へ出頭して来たのが午前7時。海南署へ移送されて来たのが午前8時。件数もさることながら、その事件の猟奇的な内容に、捜査課のベテラン刑事を持ってしても取り調べは難航した。
もっとも、難航した最大の理由はほかにあった。
犯人が、薬物の常用者だったのである。
だから調書を取り終えて起訴の手続きを済ませた頃には、時計の針は深夜12時を回ってしまっていた。
取り調べが終わるまではと刑事部屋で待機していた捜査員たちは、その時点でお互いの努力を労い合い、近距離に住む家庭持ちの者以外はシャワーを浴びるなどして、明日に備え仮眠室で休息している。
従って、いま刑事部屋にいるのは、若くて体力があるからというもっともらしい理由だけで、正規の順番を無視されて当直を押し付けられた赤木ひとりだ。
「そうか、明日は非番なんだったな」
「⋯⋯もう『今日』になってんだけど」
壁に掛かった時計を指さして複雑な笑顔で応じる牧は、話しながらも手際よく帰り支度をはじめている。足元にある大きな紙袋の中身は大量の洗濯物だ。2週間も署に泊まり込めば、さすがに洗濯物もたまる。
「今日は一日洗濯機と格闘か?」
相棒に彼女らしき女性の影がないことを知っている赤木の揶揄いに、
「俺は家事が好きなんだ」
牧も負けじと言い返す。
「いい主夫になれるぞー」
「なんとでも言えよ。ぜんぶ妹に任せてるお前よりマシだろ」
口元に笑みを浮かべた悪意のない軽口の応酬は、つい数時間前までの非日常を忘れ、日常を取り戻すためのささやかな儀式だ。
とは云え、事件のことをすっかり忘れてしまっていい訳ではない。
いま県警のお偉いサン方と署長とは、緊急の記者会見を開いている最中だ。
「これで署長の首が繋がればいいんだが⋯⋯」
望みは薄いかもしれない。
事件は一応の解決を見たが、犯人自首という結末である。警察が不甲斐ないというマイナスイメージは、市民の記憶から当分の間は払拭されないだろう。
「それにしてもヤな事件だったよな」
「⋯⋯⋯⋯」
呟いた赤木の声も暗いが、無言で頷く牧の表情もまた暗い。
おそらく、犯行当時の犯人には物事の善悪を判断する能力がなかったものとして、この事件に対する責任を問われることはないだろう。精神鑑定の結果を待つまでもなく、捜査員たちにはそれが充分解っていた。
四つの猟奇殺人の結末がこれである。残された遺族の心情を思うと、畢竟、誰の口も重くなるのだ。
牧と赤木はふたりとも、四体すべての遺体を目の当たりにしている。思わず先輩刑事たちが制止の声をかけたほど、犯人に対する憎しみや怒りを自ら煽るように、物言わぬ肉塊を注視め続けるふたりの視線は険しかった。それだけ、彼らは犯人逮捕に執念ともいえる思いを抱いていたのかもしれない。
それなのに。
正義なんて安っぽい言葉を振りかざし、世の中に良心ひとつで裁くことができる犯罪しか存在しないのなら、人生どれだけ生き易いことか。今この世で、己の信じる道徳や倫理などというものが万人に共通する正義であると信じているのなら、まともに生きてなどいられない。
理想と現実とのギャップに、どこで折り合いをつければいいのだろう。
「じゃあ、俺そろそろ帰るわ」
帰り支度を済ませた牧が時計を見上げて言う。
「ま、何はともあれお前は今日丸一日お休みな訳だ。事件のことは一先ず忘れてのんびり過ごすんだな」
「ああ、すそうる。⋯⋯じゃ、お先」
「お疲れサン」
仮眠をとるため毛布を抱えて奥のソファーへ移動する相棒の気配を背に、牧は刑事部屋を後にした。
裏口のドアを開けると同時に吹き込んできた秋風に、牧は思わず首をすくめる。ネクタイをはずしワイシャツの第二ボタンまでをはだけた胸元が少し寒い。9月も最終週に突入しようかという時分、いかな都会でも毎晩のように続いていた熱帯夜は去った。上着なしでは過ごせない季節が、もうそこまで来ているのだ。
牧はドアの先で立ち止まり、はずしたままだったスーツのボタンをはめてから、荷物を持ち直して歩き出した。
普段は車で通勤している彼なのだが、月に何度か天気の良い日には気分転換を兼ねて徒歩出勤することがある。たまたま2週間前の朝がちょうどその日だったために、今夜は歩きで帰るのだ。彼の住むマンションまで、荷物がかさばるとはいえ深夜料金のタクシーを呼ぶほどの距離ではない。
刑事に昇格して一課への配属が決まったその年に、牧はそれまで生活していた警察官専用の独身寮を出て、1DKの狭いアパートでの独り暮らしを始めている。そして2年前に、署から徒歩30分程の距離にある1LDKのマンションへ引っ越した。相変わらずの独り住まいだが、すこし無理をしてでもマンション級の部屋に移りたかったのだ。ユニットバスは狭すぎたし、夜勤明けで日中休みたいときでも、安価なアパートの薄壁では、外の騒音も隣人の生活音もシャットアウトすることは不可能だった。
これではプライバシーなどあってないようなものである。
同じアパートの住民に警察官であることが知れて、なんとなく居心地が悪くなったのをきっかけに、彼はアパートを出る決意をしたのだった。
が、引っ越しの理由はもうひとつあった。
最近になってようやく素直に認められるようになった理由なのだが、それはときどきアパートに姿を見せる情報屋の存在、だった。
早朝、深夜を問わずに現れるのも問題だったが、何よりも自分達の関係が周囲に知れるのではないか、それが牧の心配の種になっていた。隣人や階下の住人に始終気を配っていなければならない状況というのは疲れるもので、そんな生活を続けるくらいならいっそ、という気にもなるだろう。本音を言えば、アパートの住人に職業を知られてしまったから、という前者の理由は建て前で、引っ越し理由としては後者の方がその比重は大きかったのである。
牧は思い出したように時折紙袋を持つ手を替えながら、満月かと見間違う(みまごう)月影に明るく照らし出された歩道の上を、足元に視線を落としたまま黙々と歩いて行く。
仲秋の名月からまだ数日。夜空に浮かぶ月は、その隈(くま)がどこにあるのか素人目には判らぬほど丸かった。
マンションとは云っても、牧の住むそれはあまり仰々しい造りをしていない。地上7階建、地下1階分が駐車スペースで、外観も平凡なライトグレーの、どちらかといえば質素な感じのする建物だ。
牧の部屋はその最上階にあった。
さすがに7階分を階段で昇るなどという酔狂な真似ができるほどの体力は残っておらず、牧はエントランスを抜けると郵便受けを覗いて、配達休止の連絡を怠ったために溜まってしまった2週間分の新聞を小脇にかかえ、そのままエレベータに乗り込んだ。
エレベーターを左に出て、一番端になるのが牧の部屋だ。この新しい住まいは、深夜自分の部屋までの距離を、靴音を気にしなければいけないようなヤワな造りはしていない。
ただいま、と口にするだけ虚しいと解っていながら、幼少時の親の躾の威力とやらは絶大で、身に染み付いた習慣そのままに、牧はドアを開けると同時に誰もいない空間へ向けてその言葉を口にする。
「⋯⋯⋯⋯」
無論いらえなど返っては来ず、2週間ぶりに帰宅した主人を迎える部屋の空気は悲しくなる程よそよそしかった。寝に帰るだけの部屋だと頭では理解しているが、寂しいと感じる心は騙せない。
そこは必要最小限の家具以外は何もないといっていいほど殺風景な空間だった。これが牧の好みだという訳では決してない。ただ、買いたいものがあっても買い物に出掛ける時間がなかったり、思い付いたところでまとめ買いが出来るほど公務員の給料は高くない。せめて観葉植物でも置こうかと思ったことはあるのだが、大事件が発生すれば署に詰めることになる。それが原因で、前のアパートにいたころに一度枯らしてしまって以来、かわいそうで、動物であれ植物であれ生き物は飼うまいと決めてしまっていた。
そんな事情を知って、
『俺が替わりに世話しますよ?』
と、言ってくれる相手がいるのだが、そこまでして貰うのも何だか悪いような、甘え過ぎのような気がして気が引けて、いまだ牧は観葉植物を買う決心が出来ずにいる。
かの男にこの部屋の合鍵を渡した今となっては、いつ買って来ても問題はないのだが。
牧は玄関で靴を脱ぐと、明かりもつけずに部屋に上がり新聞を部屋の隅に置いて、持ち帰った着替えを洗濯籠に放り込んだ。その足で寝室へ行く。ベッドのサイドテーブルの上にあるタッチセンサー付きのスタンドの明かりのみを灯し、スーツの内ポケットから出した携帯電話をスタンドの横に置いて、上着だけはハンガーに掛け、そのまま着替えもせずにベッドへ倒れ込んだ。
今夜はもう何もしないで寝てしまうつもりだった。
が。
身体も心も疲弊し切っている筈だ。なのに眠りの波は彼を浚いに来てはくれない。それどころか次第に頭は冴え渡り、思い出したくもない映像の数々が意識の隙間に忍び込んで来る。
猟奇殺人と騒がれただけあって、実に凄惨な事件だった。
もっとも無惨な様相だったのは3体目の遺体で、頭部はめちゃくちゃに潰れて原形をとどめておらず、眼球は本来あるべき所からは想像もつかないほど離れた場所で発見された。何よりもそれが生前人の顔であったのかすら判断しかねるような状態で、署長に百戦錬磨のつわもの揃いと言わしめる鑑識課のプロたちをして、その顔色を変えさせずにはおかなかった代物である。
それはスプラッタなどと軽々しく形容することのできない懺劇の爪痕だった。
わかっている。
死者を生む事件が起きるたび、いちいち感情を動かされ死を悼んでいたのでは神経などもちはしない。
感情を不用意に動かしてはならない。
決して鈍感であれと言うのではない。ただ必要以上に過敏であってはならないということだ。どんな場面に遭遇しても冷静に対処できるだけの強い精神力を身に付けること。
それが、牧が先輩刑事から学んだ、この世界で生き残って行くために必要な、最重要事項だった。
一課は肉体的にだけでなく精神的にも人並み以上の強靱さを求められる部署である。当然そこには、肉体的精神的共にそれ相応のレベルを超えた者でなければ配置されるはずはない。
だがこの猟奇殺人事件が起きた頃から、牧は自信をなくしかけていた。
自分は間違っていないなどと自惚れるつもりはないが、それでも己の信じる善悪の基準に従って行動してきたことは事実で、それが果たして最良といえるのか。
何が正しくて何が間違っているのかなど、誰に解る? それを裁く権利が誰にある?
正解など誰も持たない疑念の中で、一度嵌まれば二度と抜けだせない食虫花の罠に捕らえられた虫のように、牧の精神は狂気への足掻きをくり返す。
日々、正常であったはずの感覚は麻痺し、亀裂を生じ、徐々に徐々にと崩壊していく。
それが確かな映像として脳裏に浮かぶ。
錯覚。
そんなことはあり得ないと解っているつもりで、何度その錯覚に飲み込まれそうになったかしれない。
目の前に横たわる、かつて人間であったそれと、いま同じ地面に足をつけて立つ自分との間に、どれほどの違いがあるというのか。
生と死は隣り合わせ。表裏一体、紙一重。裏を返すだけで生死が逆転してしまうほど簡単に、呆気なく、死はひとの身に訪れるのだ。
それを嫌というほど思い知った彼だった。
刑事になったことを後悔するつもりはない。自ら望んだことである。
ただ、ときおり思うのだ。自分は、他人の、いやもしかしたら己をも対象に含めた、何者かの不幸を餌に生きている卑しい生き物ではないのかと。
牧はベッドから起き上がった。
妙に研ぎ澄まされてささくれ立った神経は、彼のバイオリズムを狂わせて、こんな日には精神安定剤もアルコールも眠りの役に立ちはしない。今までの経験から、牧にはそれが解っていた。
それでも何か口にすれば少しは気分が変わるかもしれない。そう思って寝室を出たところで初めて、彼は留守番電話の赤いランプが点滅していることに気付いた。
帰宅時に留守電のメッセージをチェックする習慣が、独身寮での共同ピンク電話の呼び出しに馴染んでいた牧には、いまだ身についていないのだ。
――誰だろう。
警察学校時代の友人連中は、どの管轄内でどんな事件が起きているかを知っている。だから気まずくなるのが解り切っていて、電話をかけてくる物好きはいない。
暗闇に目が慣れるのを待って、彼は電話に近付いた。
録音件数は1件。
訝しみながらも再生ボタンを押してみる。
――ピーッ。
《牧さん、お帰りなさい。今日はゆっくり休んで下さいね⋯⋯》
機械音声が告げる録音日時は5日も前のもの。事件が解決して牧がこの部屋に戻ることを想定して、前もってこのメッセージを残しておいてくれたのだろう。警察関係者でなくてもあの男なら、牧が署に泊まり込んでいたことを知っていておかしくない。
「⋯⋯⋯⋯」
巻き戻された録音テープから再生されたその声は、少し変質していて感情が読み取りにくい。それでももう一度その声を聞きたくて、牧はふたたび再生ボタンを押した。
《牧さん、お帰りなさい。今日はゆっくり⋯⋯》
「ただいま、仙道」
電話に向かって返事をしてみる。
――不意に、人恋しさに襲われた。
緊急で開かれた記者会見の模様は、深夜であったにも関わらずテレビで放映されていて、
――やられたな。
街頭のテレビで事の一部始終を確認した仙道の、それが実直な感想だった。
早い段階から犯行の異常さには気付いていたのだが、それが薬物には直結しなかった。まったく何の予測も立てず闇雲に行動を起こすほど、仙道は未熟な情報屋ではない。事件の概要からいくつかの仮説を立て、それらを元にターゲットを絞るのが彼の遣り方だ。が、今回の件ではその仮説をことごとく外してしまったわけだ。因って仙道の行動は、かなりの高確率で空振りしたことになる。迂闊だった。
この裏方稼業、仙道自身、無駄骨を折ることなく成功をおさめられる仕事だとは思っていないが、今回は長丁場だったことも手伝ってか、努力が報われなかったことがいつも以上に重い疲れを誘う。
裏にいた自分でさえこんな状態なのだ。表で身体を張っていたあの人など⋯⋯。
そう思うと仙道は矢も盾もたまらず、まだ街頭テレビを見上げている目の前の人込みを掻き分けるようにして駆け出した。近くの駐輪場に停めておいた愛車のバイクは、裏の仕事における仙道の主な移動アイテムだ。今回の事件でも、犯人逮捕のニュース速報が流れる瞬間まで、彼はこの愛車に跨がって情報収集に努めていた。車ももちろん運転するが、情報収集には、細い路地にも入り込め渋滞にも比較的強いバイクの方が都合がいい。
そして今バイクは繁華街の裏通りを抜け、一路、その人の元へと驀進している。
おそらく疲労困憊で眠っているだろう彼に、会うつもりはなかった。ただ無事の帰宅を確認し、安心したいと思っていた。
ポケベルのそのメッセージを見るまでは。
バイクで走っている間はメットを被っているせいもあってベルの音には気づけない。それで仙道はポケベルを肌に一番近いシャツのポケットに入れ、バイブコールにして使っている。そのポケベルが反応したような気がして、彼はバイクを路肩に停めた。
ライダースーツのジッパーを下げ、取り出したポケベルのメッセージを、フルフェイスのメットを上げて確認する。
《ヘヤデマツ M》
牧だ。
メットを被り直した仙道は、ふたたび車上の人となった。
こんな時間に呼び出されても、彼は少しも不快に感じていない。なぜなら、牧が仙道に会おうとすれば、呼び出す以外に手段がないことを知っているからだ。
牧の方から会いに来ようと思っても、彼は仙道の住まいを知らなかった。携帯電話の番号と、ポケベルの番号、後はいくつかの潜伏先、それが牧が知っている仙道に関わるすべてで、おそらくは表の稼業が何であるのかも知らないだろう。
なぜなのか牧は、仙道のプライベートを知ろうとしない。知ることを惧れ(おそれ)ているようにさえ思えるほどに。
調べることは簡単な筈だった。牧の場合、職権を濫用すれば通常知り得ない範囲のことだって訊き出せる。だが彼は何もしない。ともかく牧が訊こうとしないから、仙道も敢えてしゃべらないことに決めていた。
仙道が初めて牧の存在を知ったのは、警察学校を卒業した牧が、半年の派出所勤務を終えて始めて配属された警察署に、制服警官として勤務していたときのことだ。その頃の仙道はというと、小遣い稼ぎの感覚で情報屋の真似事をしている程度のケチな輩(やから)で、ホストの仕事にも今ひとつのめり込めず、かといって裏の世界だけで喰っていく決心もつきかねる、そんな中ぶらりんの状態だった。
そんなとき、裏稼業の同業者の会話から、牧の噂を小耳に挟んだのだ。
『海南署の交通課にいる一番若いマッポ、アイツなかなかデキる奴らしい』
『知ってる。それ、牧とかうヤツだろ? 近々デカに昇進するんだってな』
『おうよ。それがな、同じ署の刑事課。それも捜査一課だって言うぜ』
『おいおいマジかよ! 海南署の捜一(そういち)っつったら、お前⋯⋯』
海南署管内には、関東一円をその傘下におさめる大規模な暴力団組織の事務所とその組長の邸宅があり、それだけが原因ではないのだろうが、事件事故の発生率が異様に高く、刑事昇格後の新米警察官たちの間では鬼門と噂され、敬遠の対象のひとつになっている所轄なのだ。
情報屋としては半人前の仙道でも、その程度の知識は持ち合わせていた。
その海南署の刑事課、それも捜査一課に新人が配備されるという。欠員が出たことが直接の理由らしいのだが、それにしてもその牧という警官、一体どういう人物なのだろう。
――牧、ねえ。
多分ちょっとした退屈しのぎだった筈なのだ。滅多なことでは他人に興味など示さない仙道が、このときその男に会ってみようかなんて気を起こしたのは。
数日後、仙道は珍しくもまだ陽の高いうちから起き出して、いつもより早い時間にマンションを出た。海南署に寄って、それから出勤しようという腹積もりである。お目当ての人物が現在交通課勤務であることは調べ上げていた。受付で道路交通法をネタにうまく話を持っていけば、本人を拝むことは不可能じゃない。仙道はホストとして磨いた自分の話術に自信があった。
が、仙道は思わぬ場面で牧と出遭うことになる。
海南署へ向かう途中にその管内で、なんと人質立て籠り事件の現場に遭遇してしまうのだ。
時間帯こそ違えど昨日も走った道で交通整理の警察官にいきなり車を停められて、迂回するよう命じられた仙道は正直面喰らった。道路工事をしている筈はないのにと、不審に思って尋ねてはみたが、制服警官からは歯切れの悪い曖昧な返答しか得られない。
――事件だな。
曲がりなりにも情報屋を名乗っている仙道である。ここでその嗅覚が働かないようでは情報屋失格といったところだろう。廃業を決めた方がいい。
仙道は言われたとおりに迂回して、だがそのまま海南署へは向かわず、手近な店の駐車スペースに車を停めると元来た道をとってかえした。ただし交通整理の警察官がいる場所までは戻らないで、その手前で路地を抜けメインストリートに出る。そこから数百メートル進んだところで、彼は予想通り黒山の人だかりを見つけた。
事件発生までの経緯はまったく判らなかったが、一戸建の家の2階に、男が人質をとって立て籠っているらしいのは遠目にも見える。
『何があったんです?』
とりあえず野次馬の群に紛れ込み、側に立っていたおしゃべり好きそうな中年女性にさりげなく声をかけてみる。彼女は何の警戒心もいだかなかったようで、知っている限りのことすべてを話してくれた。
人質は生後1年にも満たない男の赤ん坊。不幸にも、母親が届け物を持って隣家へ出掛けた直後に犯人に押し入られ、家にはその赤ん坊だけがいたらしい。犯人の男は別の場所で窃盗の事件を起こして逃走、店からの通報でかけつけたパトカーに追われ、この家に立て籠ってしまったのだという。
男は包丁らしき刃物を振り回しながら、窓の外に向かって喚き散らしている。
その間に、警察から連絡を受けたのだろう父親が現場に到着した。しかし、だからと云って犯人を取り巻く状況は変わらない。
なおも仙道が見守っていると、拡声器を使って犯人への説得を試みている私服警官の横に、ひとりの若い制服警官の姿があることに気付いた。年輩の制服警官がもうひとり、こちらはさっきからずっとパトカーの脇に張り付いて、無線交信を行っている。どうやら制服警官2人組は付近を巡回中だったようだ。
ふと仙道は、若い方の制服警官が、噂の男なのではないかと思った。
説得の合間合間に、彼は真剣な表情で私服警官と何やら打ち合わせをしている。そしてやおら大きく頷くと、警棒を外し拳銃も置いて、手錠をかけた状態の両腕を後ろ手に、犯人のいる家に向かい迷いのない一歩を踏み出した。
犯人と警察側のやりとりからして、どうやら人質の交換が行われるらしい。
人々が固唾を呑んで見守る中、若い警官は器用にバランスをとりながら、2階の窓に立て掛けた梯子を昇って家の中へと消えた。それと入れ違いで、今度は赤ん坊が同じ窓から救出される。
異様な程の静寂の中で緊張の一瞬は過ぎ、次の瞬間、群集は歓喜の声に沸き返った。その中には、涙を流して我が子の無事を喜ぶ両親の姿もある。彼らはすぐに用意された救急車で、念のため病院へ向かった。
それらの情景を見送り、仙道は我に返った面持ちで腕時計に目を遣った。
出勤時間が迫っている。
事件の結末を見届けられないまま、後ろ髪を引かれる思いで彼はその場を後にしなければならなかった。
今夜はきっと仕事にならないだろう。
そう思うと溜息が出た。
案の定、仕事に集中できない仙道は、同僚にからかわれ店長にどやされ、散々な一日を終えた。客である女性達の話に上の空で彼女たちから何度も責められるなど、仙道にはかつてなかった失態である。だがそんなことを気にして落ち込む暇は、今の彼にはなかった。それほどに事件の、いや、あの若い警察官のことが気に掛かっていたのだ。
ご指名がかかるまでの間と休憩時間、仙道は事務室のテレビに齧りついていた。おかげで、犯人逮捕の瞬間こそ見逃したものの、その後開かれた警察側の記者会見の様子はリアルタイムで観ることができた。
この記者会見を観てはじめて、仙道は自分の勘がはずれていなかったことを知る。
交換人質になったのが、牧紳一という海南署交通課の警察官であったことが公にされたのだ。彼は、警官隊が犯人の隙を突いて一気に屋内へ突入した際の混乱に巻き込まれ、左腕に数針縫う怪我をしていたものの、この席には元気な姿を見せていた。制服姿の牧は、用意された長机の一番端に控えめに、その場にいる誰よりも落ち着いた物静かな様子でひっそりと座っていた。
人質交換から突入までの警察側の一連の行動が、すべて打ち合わせ通り、計画性を持って運ばれた行為だったと事件の担当責任者の口から語られている間も、仙道の視線は画面端にかろうじて映っている牧に向けられたままだった。仙道には、世間には自分が今まで出会ったことのなかった、この男のような人種もいるのだという、とても新鮮な感銘があった。この会見中の牧についての紹介は氏名と年齢だけで、その他の詳細なプロフィールを後日ミーハーな女性週刊誌の記事から仕入れることになる彼だが、牧が自分とひとつしか年齢の違わない同世代の人間だということだけでも仙道にとっては充分な衝撃だった。
事件の概要説明がひととおり済んで会見が質疑応答の段階へと移ったとき、記者団から最初の質問が牧に飛んだ。
ひとりの男性記者に、身代わりで人質になることをどう思ったか、躊躇いはなかったのかと尋ねられた牧は、ゆっくりと、低い声で一言こう答えた。
『それが自分の職務ですので』
顔色ひとつ、表情ひとつ変えない冷静さだった。その一方で自信と誇りに満ちた目をしていた。きっぱりとした牧の口調は、若さ故の意気込みや気負いとは無縁で、むしろ穏やかですらあった。そのくせ確かな熱意が籠っていた。
――敵わない。
仙道の脳裏に、なんの前触れもなく、そんな言葉が浮かび上がった。
この男には敵わないかも知れない。
何が敵わないのか、どう敵わないのか、それは解らない。ただ漠然と、そう思ったのだ。
それまで仙道は、誰かのために何かをしようなどと思ったことが一度もない。無論、誰かのために生きることを職業にしようと思ったこともない。今の仕事とて、接客業だと云いながら、客のために何かを、などと考えて務めている訳ではないのだ。ただ自分のためだけに楽しんで生きる、それでいいと思っていた。それ以外に生きることの目的も喜びもないと思っていた。
大切なのは自分だけ。
仙道はある意味ずいぶんと刹那的な生き方をしていたのだ。
だが。
彼は出会ってしまった。
その男に。
見も知らぬ、と言ってもいいような赤の他人のために、たとえそれが仕事なのだとしても――その仕事を、警察官という職業を選んだのは彼自身である筈で――命を張ることができる牧の姿は、強烈な映像として仙道の脳裏に深く刻印された。
彼のことをもっと知りたい。
その後、刑事になった牧に情報屋として接触し、すぐ側で彼の人柄に触れる機会を得た仙道は、以降ますます牧に傾倒していくことになる。
この人のために。
何かがしたい。
この人の力になりたい。
そう思った日から仙道の日々の生活は、それまでとは全くちがう新鮮な色彩にいろどられて輝きはじめたのだった。