『QUATSCH』中-2 R18


 騒音を気にした仙道は、住宅街に入る手前でバイクを降りた。少し時間はかかってしまうが、そこからはバイクを押して歩いていく。深夜も2時を過ぎようとしている時間だ、マンションにバイクで乗り付けるような真似をすれば、近所から牧へ苦情が行くかもしれない。日本人離れした体躯を持つ仙道にとっては、バイクを押して歩くこともさして苦にはならなかった。
 10分以上かけて辿り着いたマンションの地下駐車場の来客用スペースにバイクを停め、仙道はヘルメット片手にエレベーターへ向かう。
『好きなときに使っていいから』
 そう言って牧が手渡してくれた彼の部屋の鍵を、仙道は車やバイクのキーとは別にして持っている。彼は鎖に通したその鍵を首から提げているのだ。初めてそれを目にした牧は、肌身離さずとは正にそのことだな、と言って大笑いした。
 実際仙道は、針金一本でたいがいの錠なら開けてしまえる技術の持ち主である。鍵を忘れたところで困ることはない。だが彼の気持ちの上で、それとこれとは次元のまったく違う問題なのだ。タオルやハンカチを貸すような、そんな気軽さで差し出されたそれが、仙道にとってどれだけ意味と価値のあるものなのか、牧に想像できただろうか。
 鎖ごと首から鍵を外して仙道はエレベーターを出る。もう何度も訪れている場所なのに、ひとりで来るときはいつも、エレベーターから牧の部屋までの30歩にも満たない距離をとても長く感じるのはなぜだろう。
「牧さーん、上がりますよー」
 部屋主がもう休んでしまっているかも、と遠慮がちに声を殺して暗い室内に呼び掛ける。もし起きているのなら、きっと鍵の開く音には気付いているだろう。
 そこが指定場所になっている靴箱の上にヘルメットを置き、明かりをつけなくてもどこに何があるのかは把握しているから、仙道は障害物をよけてリビングを壁伝いに歩き、静かに寝室のドアを開けた。
「牧さん⋯⋯。起きてたんですか」
 張り詰めた空気の中、ドアに背を向けて牧はベッドに腰を下ろしていた。ピンと張った背中がなぜだか痛々しい。その姿は、カーテンを開け放した窓から差し込む月明かりで、仙道の目にもはっきり見える。
 サイドテーブルの明かりは消されていた。
「牧さん」
 だが牧は仙道の声にも振り返ろうとはしない。その双眸は窓ガラスの向こう、真っ暗な闇を冷たく溶かす月を透かし見ている。本当は疲れ切って今にも崩れそうな肉体を牧は、気力のみで支えているのだ。少しでも触れたら、そのまま壊れてしまいそうな危うさが、その横顔にある。
 仙道は黙って牧のとなりに腰を下ろした。
「来たんだ」
 仙道の顔も見ないで牧が言う。
「ええ、来ましたよ」
 ――牧さんが、呼ぶから。
 わずかな距離を置いて触れることのない仙道の肩に、牧の体温が空気を通して柔らかく伝わって来る。
 と、不意に牧の姿勢が崩れた。仙道の肩に片頬を預ける。
「俺が呼んだんじゃない。お前が」
「はい?」
「お前が、呼べって」
「⋯⋯違うでしょ。俺は、お休みなさいって。それしか言ってませんよ」
 いつからだろう。素直というにはまだどこかぎこちなさを残しながらも、牧がこんなふうに自分に弱さを見せてくれるようになったのは。ギリギリのところまで自分ひとりで頑張ろうとするその姿勢は相変わらずだが、臨界点を越えそうになったとき仙道が気を回して誘い水にならなくても、牧の方から頼ってくれることが多くなったように感じる。
「まーきさん」
 嬉しさを押し隠して牧を呼ぶ。
「うん?」
「もう休んだ方がいいですよ」
「⋯⋯うん」
 囁きかけるような声に素直に応えながら、それでも牧は仙道の肩に頬を乗せたその体勢を変えない。
 仙道は片手で牧の肩を抱き寄せ、彼の顔を覗き込んだ。牧は眩しくもないだろうに、かすかに目を眇めている。
「⋯⋯痩せました?」
 愚問だった。
 事件が解決するまでの2週間、睡眠も食事もまともに摂った記憶がない。確かに眠り、食べもしたのだが、あの非常時下でのそれは牧の記憶にとどまりなどしない。食べた気にならない食事が身になる筈もなく、明らかに彼の体重は減っていた。
 今回の事件がどれほど過酷だったのか、裏にいた仙道にはその片鱗しか解らない。でもこの窶れ方、尋常とは思われない。
 なにが牧の精神にこれほどのダメージを与えたのか。
 形の無い怒りの対象に向け、仙道の表情に一瞬やり場のない怒りが覗く。が、すぐに平静の穏やかなそれに戻り、牧を安心させるように笑みを浮かべてみせる。
 凍てついた表情もそのままで、牧が静かに目蓋を伏せた。
 仙道の指が牧の顎に添えられ、その輪郭をなぞる。
 牧の両腕が仙道に向かって伸ばされる。
 その牧の腕に引き寄せられるまま、仙道はシーツの海に身を沈めた。






 この前一番最後にこうやって牧に触れたのはいつだったか、考えなければ思い出せないくらい、その記憶は遠い。ふだん昼夜逆転の生活を送る仙道と勤務時間の不規則な牧とでは、休暇を合わせてとるようにでもしなければお互い擦れ違うばかりで、ふたり一緒にすごせる時間はただでさえ少なかった。だから仙道は、牧に会えばいつだって触れたいと思う。けれど激務に追われ心身共に疲弊し消耗しきっている牧を目の前にすると、それ以上の無理をさせられず手が出せなくなってしまうのだ。
 自分でもおかしいと思う。らしくないと思う。でも臆病だと言われても、仙道は牧を大切にしたかった。過去に知り合った女性との間には、ついぞ生まれなかった感情である。だがこの気持ちに嘘はない。
 仙道が見下ろす素肌の肢体には大小いくつかの傷痕がある。それらすべてが何らかの事件の記憶を持っていた。見るたびに、とまでは言わないが、それでもここ数年の間で確実にその数は増えている。あの時の、仙道が初めて牧の姿を目にした時の、あの腕の怪我の傷も、まだその褐色の肌にかすかな抜糸の痕を残していた。
 そんな傷痕ひとつひとつを確かめるように辿りながら、仙道の唇が牧の肌に触れていく。想いを通い合わせてから初めてこの身に触れた夜も、こうやって傷痕を辿っていったことを、仙道は今でもはっきり覚えていた。
 過去の牧がそうだったように、現実の牧も抗うこともしなければ逃げようともしない。戸惑いも羞恥もあるのだろうに、いっさいの感情を押し隠して、すべてを仙道に晒している。いつもなら恥ずかしがって顔を覆い隠してしまう腕でさえも、今は身体の両脇におとなしく伸びていた。乾いて、触れると痛みさえ感じさせる唇はうっすらと開き、次第に熱くなっていく吐息をこぼす。
 牧は目を閉じて、ただなすがまま仙道にその身を任せていた。
 やさしくされることが、今は辛い。
 忘れたいことが多すぎる。
「牧さん⋯⋯、なに考えてるんです?」
 仙道の言葉に、ぬるま湯に浸っているようなぼんやりと心地良い浮遊感を手放して、牧はゆっくりと目を開けた。
 焦点が一瞬ぶれるほど間近に、仙道の端正な顔がある。この男は、牧が弱音を吐ける唯一の相手だ。彼に隠さなければならないことは、何ひとつ、ない。
 だから、
「なんかおまえのこと、利用してるんじゃないかって⋯⋯。俺の都合のいいように、さ」
 胸の裡にある言葉が、素直に牧の口から転(まろ)び出た。
「そんなこと⋯⋯」
 利用されているなど。当の仙道が微塵も感じていないのに。
 なにを迷うのだろう。
 なにを躊躇うのだろう。
 なにを疑うのだろう。
 余計なことに意識を奪われる余裕を与えぬ激しさで、仙道は牧の口唇を塞いだ。
 ――忘れさせてあげたい。
 せめて今この瞬間だけでも。
 牧を惑わせ苦しめるすべてのことから、その心を解き放つことが出来るなら。
 何度触れても飽き足りないと言わんばかりの執拗さで、仙道は牧の口唇を追いかける。
「ん⋯⋯」
 急速に不足した酸素を求めて牧の肺が悲鳴を上げる寸前、仙道の口唇は離れた。
 今にも涙を零しそうな牧の潤んだ目が仙道を見上げる。
 体表に痕を残す外傷など、問題にならない程の深手を追った牧の精神は、いま仙道に救いを求めていた。その傷はあまりに深く、その身を重ねる仙道の胸にまで痛みが波及してくる。けれどそうすることで、少しでも牧の苦痛を貰い受けることが出来るというのなら、仙道はこのまま一生こうしていたいとさえ願う。
 たいていの外傷ならばいつかは治る。時間が経てば痛みはなくなり傷痕も薄れ、消えて行く。でも、内傷はどうすれば癒すことが出来るのだろう。
 牧の眦に唇を寄せると反射的に目蓋が降りた。
 どこにどう触れたら彼がどう反応するのかを知り尽くした仙道の五指は、確実に牧の感覚を支配していく。
 眉根をきつく寄せ、浅く速い息をつぎながら、牧は何度も仙道の名を口にした。
 その牧の反応をひとつひとつ確かめるようにして下降する仙道の指が、ようやく下肢に辿り着く。
「⋯⋯っ」
 牧は思わず吐息(いき)を噛んだ。
 それまで燻っていた、身体の奥深くに潜む快楽の火種が瞬時に発火した。
 反射的に引いてしまいそうになった牧の腰を、仙道の左手が押さえ込んだ。誘うように、それでいて逃げるように、牧は仙道の下で身をよじる。
「仙道っ」
 最奥に向かって滑り込んだ仙道の右手は、牧の内部を傷つけないために動き出そうとしていた。
 その手を、牧の言葉が制す。
「⋯⋯いい」
「って⋯⋯牧さん、それじゃあ⋯⋯」
 無傷では済まないかもしれない。
 思わず身体を起こし、仙道が見つめた牧の目元は薄紅く染まっていた。
「それじゃあ牧さんが⋯⋯」
「いいから」
 なおも言葉を継いで、牧の手が誘うように仙道に触れる。
 より多くの苦痛を。
 そしてより多くの快楽を。
 ――生きていることを確かめたい。
 いま牧が信じられるのは、己の身に仙道によって与えられる感覚だけなのだ。
 生きていることを確認したかった。
 目の前で血まみれになり横たわっていたあの遺体と自分とが、別物であることを確認したかった。
 だから。
「仙道」
 妖しく誘いをかける牧の声に心を決めて仙道は、それでも精一杯の自制心を働かせ、牧を傷つけてしまわないよう細心の注意を払いながら、牧の呼吸に合わせてその身を進めていく。
「⋯⋯ぅっ」
 限界まで反らされた牧の喉元に、仙道は歯を当てた。
 牧の喉が上下にかしいだ瞬間、一筋の赤い痣が走る。
 無意識のうちに、仙道の肩を、牧の腕は渾身の力で押し返そうとしていた。本気で押し退けたい訳ではない。でもそうしないではいられなかった。身体の内側を焼かれるような感覚は、熱さを伴う苦痛なのか快楽なのか、もうその判別もつけられない。
「キツイですか?」
 汗の滲む上擦った声に、
「だい⋯⋯じょう⋯⋯っ」
 大丈夫だと言いかけた牧の言葉は途切れる。
 大丈夫な訳がない。
 しかし仙道の方にも、もう自分を殺し牧を労り続けるだけの余裕は、既になかった。ただひたすらに、思うままに、牧を追い詰めるだけだ。
「仙道⋯⋯っ」
 理性を完全に放棄して、牧は力任せに仙道の頭をその胸に抱え込み、遂情した。






「なんか赤ん坊みたいだな」
 室内の熱い気配が少し薄れ、ふたりの乱れていた呼吸も落ち着いた頃、自分の腹部に頭を乗せて抱き着いている仙道を見下ろして、牧がそう言った。
「俺が?」
「いや、俺だ」
「――?」
 仙道がもぞもぞと上体を起こす。
「誰かから聞いたんだけどな、赤ん坊ってさ、腹に何か当てておいてやると安心するらしいんだ」
「へえ⋯⋯」
 仙道はふたたび牧の腹部に頭を寄せる。その格好はまるで妊娠中の妻のおなかに耳を押し付け胎児の鼓動を聞こうとしている夫のようだ。
「ばーか。くすぐったいって、髪」
 牧の笑い声に、仙道はまた起き上がる。今度は牧も身を起こした。
「仙道」
「はい?」
 仙道の肩にコツンと額を乗せて牧が言う。
 ――ありがとう。
 言葉に照れたような響きはなかった。
 仙道は牧の腰に手を回し、牧の両腕は仙道の背を抱く。
 しばらくそうして牧を抱き締めていると、素肌の胸元に何か温かなものが落ちてきた。
「⋯⋯泣いてるんですか?」
 ――泣いてない。泣いてなどいない。
 首を振って否定する牧の背が波打つ。
 嗚咽を噛み殺そうとする喉が、無理な圧力に耐えかねて激しく上下した。
 咳き込むように痛い呼吸をくり返し、涙を流す牧の背を、仙道の厚く暖かな手のひらが優しく撫でる。
 幼子をあやすような仙道の腕に身を預け、牧は感情を流し続けた。
 泣けばいいのだ、気が済むまで。
 泣くという行為には、心を浄化する作用があるときく。
 ならば。
 苦しいことも悲しいことも辛いことも憤りも、すべての負の感情を涙と一緒に追い出してしまえばいい。できることなら見えないとこにある傷の痛みも、共に。
 どれほどの時間が過ぎたのか、不規則にくり返されていた牧の呼吸は穏やかになり、仙道の腕の中でいつの間にかその身が重みを増していた。
「牧さん?」
 そっと呼び掛けてみたが反応はない。
 泣くことに疲れ果てたのか、牧はいつしか眠ってしまったようだ。
 仙道は牧の顔をそっと抱え起こし、涙の跡を指先で拭った。
 普段なら決して口にしないようなことを言葉にして、普段なら決してしないようなことを態度に表して、そうまでして仙道を求め、牧がその意識の中から追い出そうとしていたことは何だったのか。
「大丈夫。俺がついてますよ」
 聞こえてはいない筈の囁きに、牧の表情が和らいだような気がした。
 仙道は、力の抜けた牧の身体をそうっとベッドへ寝かし付け、肩まで布団を引き上げる。
 安心し切っているのだろう牧の、その穏やかな寝顔を見つめながら、仙道は考えていた。
 この人に出遇って初めて、自分は己の存在価値に気付いたのだ。牧に必要とされて初めて、自分が存在しているということに意味を見い出した。
 それは、牧という他人をフィルターにして初めて認められる『存在価値』である。これがどれほど不確かなものであるかは、仙道とて承知していた。ひとは、もっと確かなものに支えられた価値である方が幸せだと言うのかも知れない。
 だが、牧がいなければ。
 自分は、自分の存在を実感すること、それ自体がなかっただろう。この自分という存在に、価値があるとかないとか、それを意識することすらなかっただろう。それまで気付きもしなかった己の存在そのものを、図らずも牧は教えてくれたのだ。
 なぜ裏の稼業を捨てないのか。
 なぜ牧だけの情報屋であろうとするのか。
 いつか、牧にもその理由(わけ)を話そう。
 仙道は月明かりの差し込む窓をカーテンで覆ってから、牧の隣で目を閉じた。






 その日、ふたりは陽が高くなってから目覚めた。
「うっわ――、みっともなあぁぁ――!」
「どーしたんです?」
「見ろよコレ、ひでぇ顔! まぶたがすっごい腫れてる⋯⋯。あぁ~あ⋯⋯」
 先に起き出した仙道と入れ違いで洗面台の前に立った牧が、素頓狂な声を上げてリビングに戻ってきた。
 軽装でリビングのソファーに陣取り、新聞を広げていた仙道は、
「どれどれ⋯⋯?」
 目の前にある牧の顔をしげしげと見つめる。
「見てる方にはあんまり判んないですよ?」
「そうかあ~?」
 得心しかねる、という響きの返事を残し、牧はふたたび洗面台の前へと引き返して行った。たぶん本人には、目蓋が重いという感覚があるのだろう。今朝方、泣いたせいだ。
 ふたりとも起きたばかりで買い物に出る元気はなく、朝食とも昼食ともつかない食事は、冷凍保存で生き残っていた食パンとベーコンを焼き、インスタントのコーヒーを飲んで軽く済ませた。
 食事中に見たテレビの天気予報によると、今日は一日晴れるらしい。
 食後、着替えをしてからずっと冷やしたハンドタオルを目の上に乗せ、ソファーに座って背凭れに後頭部を預けている牧に、
「今日は丸一日非番でしょう? 何したいですかー」
 新聞にもテレビにも飽きた仙道が尋ねる。
「んー、でもいつ呼び出し入るか判んないしなー」
 せっかくの非番だというのに、牧は仕事を懸念する。
「なに言ってんですかー。非番なんですよ? 非番! 留守電にして、ケータイも切っときゃいいじゃないですか」
「バカ言うなって」
「⋯⋯⋯⋯けど、いまケータイ切れてますよ」
「あぁ!?」
 叫んで牧はガバッとばかり跳ね起きた。タオルもすっ飛ばして立ち上がる。
「なんで!?」
「だって⋯⋯」
「お前が⋯⋯やったのか!?」
「すみません」
 まったく悪びれた様子もなく頭を下げる仙道の態度に、牧は怒るのを通り越して呆れてしまった。
「緊急の呼び出しがあったらどーすんだよ!」
 文句を言いながら、それでも牧の指は電話の短縮ボタンをプッシュしている。
 仙道にしてみれば、昨日のあの状況で、たとえ事件が起きたからと言って、あんな精神状態の牧を黙って送り出すことなど出来よう筈はない。牧の目を盗んでこっそり電源を切ってしまった彼だった。
「もし査問会沙汰になったら俺を証人に呼んで下さいよ。俺がケータイいじっちゃったって、ちゃんと証言しますから」
 仙道の言葉には耳を貸さず、牧は電話に集中している。
「あ、赤木か? 俺。仕事中に悪いな。⋯⋯ああ、昨日の夜ことなんだけど。俺が帰ってから何かあったか? ⋯⋯いや携帯電話の電源切っちゃっててさ。⋯⋯違うって! わざとじゃないんだって。⋯⋯え? 違うって、もー。からかうなよー。男、男友達と一緒だった。女ひっかける元気なんかあるかよ。ったく。⋯⋯うん、いや、なかったんならいいんだ。⋯⋯おう、そっちも頑張れよ。邪魔した」
 ふー、っと安堵の溜息をついて、牧が受話器を元に戻す。
「大丈夫に決まってんでしょ。ケータイに繋がんなかったら、フツー自宅にかけますよ」
 さすがに電話のコードまでは引き抜くことが出来なかった仙道である。たとえ電話がかかってきたところで、昨夜のあの状況ではやはり無視していたんじゃないかとは思うのだが。
「あ、そっか」
「牧さ~ん、しっかりー!」
 電話の側でぼんやりしてしまった牧に、仙道は絞り直したタオルをポンと放る。それを難なく受け止め、ソファーに戻った牧は、それまでとは違うことを考えていた。
「お前、仕事は?」
「昨日は定休日。今日は有給貰ってます」
「そっか」
 ふたたびタオルを乗せて目を閉じる。
「なあ、仙道」
「はい?」
「お前さあ」
「?」
「⋯⋯いや、いいや。なんでもない」
 訊かなくてもいいではないか。この男がどこの誰で何者であろうと、それが自分にとってどれほど意味のあることだと言うのか。
 仙道は仙道。ほかの何者でもない。
 側にいて、こうしてふたりでホッと出来ればそれで充分。
 そう考えて、牧はふと思い付いたことを口にした。
「今日は買い物に行くか」
「いいですけど、どこへですか」
「観葉植物、探そうかと思うんだけどな」
 その言葉に、仙道の表情がパッと明るくなる。
「いいですねえ」
 応える仙道の顔は、牧よりも、なぜかとても嬉しそうに見えた。



1997 Autumn 終 



・初出:『PRESENT(初版)』1997.10.26 発行
 刑事と情報屋でエロ書いてもいいですか、とキャラクターの生みの親であるカズイハジメさんに自ら許可を求めて書き始めたのがこの話。しっかし見事にコケとります。
 話の時間軸は「QUATSCH・前」から、少なくとも1年以上後になります。その1年(以上)の間に起きた、ふたりの関係上の最大の変化のことも、当時それなりにネタとして考えていたのですが、今となっては思い出せません。どんなのを考えてたのか、その片鱗すら。
 幸福シリーズといいコレといい、はじめて物語を意図せずして避けていたのか。⋯⋯今頃気付いても遅いんじゃ~!(2002.08.02 記)