「きーてくれよぉハナミチぃ⋯⋯ひでぇんだぜ!? アヤちゃんなんかさぁ⋯⋯」
さっきからもう何度おなじ台詞がくりかえされただろう。
酔っぱらい特有の、ひきずるような語尾と回り切らない呂律とで花道に絡んでいるのは宴会幹事の宮城である。
「聞いてる、ちゃんと聞いてるから⋯⋯で、なに?」
「おーよ、だからなーイヴにアヤちゃん誘ってさー食事に行ったわけよー、んでー予約してたテーブルにつくだろ? したらさあアヤちゃん、席につくなりカイコーイチバン『リョータ、忘年会の準備はどうなってるの?』って!! これだぁー」
これだぁー、の言葉と共にドンッと左肩をどつかれた花道の右隣には、さっきから黙々と顔色ひとつ変えず杯を重ねつづける流川がいる。
「ひでぇと思わねぇ!?」
暮れもおしせまった師走最後の金曜日。
都内の飲み屋で座敷ひとつを借り切って忘年会を催すのは、大学生になった宮城が幹事役をかってでて以来、彼等の恒例行事になっており、今年で9度目を数える。一見、神奈川県立湘北高等学校バスケットボール部OB会といったところだが、実際は、当該部がはじめて全国大会の晴れ舞台へ駒をすすめた記念すべき年の主力選手こそが主役の会であり、それ以外のメンバーが出席しないケースも珍しくなかった。スケジュール自体、あの当時のメンバーのそれを最優先に考慮し決定に至る、という具合だ。
「けどリョーちん、アヤコさんもさ、ほらアレ、コンパレクなわけだし⋯⋯気になっ⋯⋯」
「そーかも知んねーけどよお!」
酔っ払いはひとの話など最後まで聞きはしない。必死に宥めようとする花道の言葉におっかぶせて、尚も言い募ろうとする宮城へ、
「リョータッ、いいかげんにしなさい!」
ひとつ向こうのテーブルから女の声が飛ぶ。
と、反射的に声のした方へ上体をひねった宮城が拗ねた子供さながらに、
「だってえ、アヤちゃんが悪いんじゃんかーっ」
負けじと言い返した。素面でなら、口が裂けてもできない口応えだ。
宮城リョータ、27才、だんだんと目まで据わりはじめている。
「⋯⋯⋯⋯」
この会唯一の女性出席者はヤレヤレといったていで眉を上げ、花道に向かって肩をすくめてみせた。
晴子が元気だった頃はよく顔を出していた藤井や松井も、彼女が出席できなくなったとあって、遠慮からか次第にその足は遠のき、女性の出席者は今では彩子ひとりになっている。
「そーいやさー」
花道の胸元から、にょっと顔を突き出した宮城が、急に流川へとその興味の鉾先を変えた。
「おまえ、自分(てめぇ)ンとこのオーナーの娘サンとやらとの結婚話、断ったんだってなあ? あぁ?」
宮城のこの絡み口調、もう完全に酔っていると見ていい。
「結婚じゃねーっス」
ぼそっと返した流川の声も、おそらく男の耳には入っていないだろう。
「ンでぇ、移籍する気でいたそーじゃねーか」
「センパイ、それもう1年前のハナシ⋯⋯」
「ナ~マ~イ~キ~!」
やっぱり聞いちゃいない酔っぱらいであった。
ここで宮城が言う流川の結婚話とは、昨年暮れから今年の頭にかけて巷をおおいに沸せたニュースのひとつで、この業界ではそのかなり詳しい経緯(いきさつ)までが公然の秘密と前置きされつつ語られている。
無口で有名な流川の口から漏れるはずはない。では、なぜ詳細な内容が知れ渡っているのか。
答えは彦一である。
かけだしの雑誌記者である彼が、たまたま偶然『その場』に居合わせたのだ。
おかげで流川の新年は、レポーター責めという最悪の状況で明けることとなる。バスケに関することならともかく、私生活については他人にとやかく言われるのを何よりも嫌う彼にとって、この上ない不幸であった。
だが、首を切られることを内心願い、真剣に移籍することを視野に入れていた流川の思惑ははずれ、いまも彼は同じクラブでプレーしている。移籍するなら花道のいるチームにと、心密かに誓っていたのだが、流川の認識は甘かった。
金の卵。
彼(か)のチームオーナーにとって、流川は見目の良さだけではなく実力をも兼ね備えた、いわば花も実もある客寄せパンダなのである。縁談が破談になったくらいのことで手放すわけがない。
このてのスキャンダルは一年、いや、三月(みつき)も経てば時効なのだが、それを今更のように話題にするあたり、宮城の彩子に対する執着がみてとれた。
と、そのとき、
「みーやぎっ」
どどーっと雪崩れる勢いで後輩の背後から奇襲をかけたのは三井である。アナザーワールドへ突入しかけている後輩をからかいに来たらしい。
「ったく、この男はだらしねえなあ。幹事が潰れてどーすんだか」
「潰れてなんかねーっスよお、ひつれいな⋯⋯」
呂律どころか発音まで怪しくなってきている。
「相当キてんな、コイツ」
「ミッチーが飲ましたんだろー? 責任取って連れてけよー」
酔いつぶれる宮城を指さし大仰に顔をしかめた三井を、花道がいじわるく笑って茶化す。
今年は会がはじまった直後から三井vs宮城の一騎討ちで盛り上がり、だからこそ、いつもならいの一番にこの双璧に寄ってたかって飲まされて一次会が終わるころには正体なくヘベレケになっている花道が、今もこうして正気を保っていられるのだ。宮城サマサマである。
「まーたコイツはー! 先輩に対する口の利き方がなってねえぞ!?」
高校卒業と同時に実業団入りし、間もなくプロ契約を結んだ三井は、この場にいるほかの誰よりもプロとしての選手生活が長い。それゆえにか、酔うとかならず飛び出す台詞に『先輩をうやまえ』というフレーズがあるのだが、過去を知る連中相手に通用するはずもなく、このときの花道もやはり笑っただけで軽く流してしまっていた。
「宮城ぃ、おまえんとこ、どういう後輩教育してんだ」
不満をあらわにそう言った三井だが、もうひとりの後輩からの返事はない。
「⋯⋯⋯⋯?」
訝しんで宮城の顔を覗き込むと、
――スーッ。
「み⋯やぎ⋯⋯?」
「あ⋯⋯」
「寝ちまいやがったっ!」
花道の肩に手ですがり、そのままの姿勢で宮城の頭部だけがカクンと落ちている。
「コイツ⋯⋯」
たいした理由があるわけでもないのに、絡む相手がいなくなったことに腹を立てたらしい三井が、邪険に酔っぱらいの四肢を座敷の隅へと蹴り飛ばしても、幸せなことに宮城は夢の中だった。
「桜木、おまえ替わりに飲め」
そして腹の虫がおさまらない三井の、正当なやり場を失ったエネルギーは花道へと向けられ、
「やっぱ先におまえに飲ましとくんだったな。おまえ酔うとおもしれーし」
「おもしろいって⋯⋯なんだよソレ」
むくれる後輩を見、先輩はひとの悪い顔でニヤニヤしている。
心外だと言わんばかりの花道だが、酔ってしまった当人にそのときの記憶があろうはずはなく、周囲の者からしてみれば、いまの彼の反応こそが笑わずにはいられない程、陽気に輪がかかっておおはしゃぎするし笑い上戸になるしで、とにかく楽しいだけの酔っぱらいが出来上がるのである。いつかビデオにおさめて花道本人にも見せてやろうと、毎回誰かが言い出すのだが、いまだ実行には移されていない。
「おらっ、さっさとコップ出せ」
とりあえず思い出し笑いを引っ込めて凄む三井に、
「替わりに後輩に飲ますんだったらコイツ」
と、隣の同級生をさし、
「キツネもいるじゃねえかー」
花道は不服そうに訴える。酒に強くないという自覚はあるのだ、それなりに。当然自ら認めはしないが。
「流川? コイツぁダメだ。ザルだもんよ」
そんな奴に飲ませちゃあ酒がもったいない、と三井はにべもない。
しかしザルだと言われたこの流川が、過去に一度だけ潰れたことがある。それは花道と晴子との婚約が正式に発表された後にはじめて開かれた、6年前の忘年会席上でのことだった。
この年の忘年会は花道と晴子の婚約祝いを兼ねていたこともあって、当然主役のふたりは出席、かつ男性陣女性陣共に過去最高の出席者を数えた。
宴もたけなわ、さあそろそろ二次会へ会場を移そうかと幹事の宮城が号令を発しかけた、まさにそのとき、座敷の端でそれは起こった。
バタンという鈍い音とともに床が揺れ、それに驚いた一同がいっせいに振り向いた視線の先には、畳の上でまるくなり既に夢の世界へと旅立ってしまっている流川の姿。ぶっ倒れる寸前まで顔色ひとつ変わっていなかった、とは、流川の隣で事の一部始終を見ていた桑田の談である。
この出来事は、その年も例にもれずまっ先に酔っぱらって眠りこけていた花道、彼ひとりが知らない事実であった。
流川がなぜ潰れたのか。
理由が解らない。
手酌で自ら望んで潰れたからには、それ相応の事情があってしかるべきところだが、当の流川は黙して語らず、ただ彩子のみが何事かを察しているふうだった。
ともあれ、流川が酒に飲まれたのは、後にも先にもこのとき一度きりである。
で、そのころ。
「つべこべ言ってねーで飲め!」
「ヤダ」
三井vs花道の不毛な攻防は激化していた。
口での応戦ではおさまらず、手まで出かかっている花道だが、ここで実力行使に及べば確実に何かを破損せずにはおかないだろう。因って、片手でコップに蓋をし、もう一方の手で三井が傾けようとするビール瓶を制する、それで我慢している次第だ。
「どあほう」
「あぁん?」
彩子の動きを目で追っていた流川が、目線もそのままに花道を呼んだ。
「おーひーらーきーっ」
パンパンと手を叩きながらの彩子の声が、うたげのいっときの終焉を告げる。
ビール瓶片手に凄んでいた三井の肩からも、コップを押さえ込んでいた花道の手からも、途端に力が抜ける。
「つづきは二次会で、だな」
捨て台詞よろしく一言そう言い残し、座敷の隅で寝息をたてている宮城を抱え、半ば引きずるようにして連れ出そうとし始めた三井は、まさか花道が二次会に参加しないなどとは露ほどにも想像していない。
結果の見えすいたこの勝負、バトルは来年に持ち越しである。
「⋯⋯ルカワ」
誰もが退席の準備に気をとられいるのを見定めて、それでも油断なく周囲に気を配りながら、花道が小声で流川に話の先を促した。
「待ってる」
いちばん最後に出て来い、と小さく付け足して、流川は席を立つ。彼もまた二次会欠席組のひとりなのだ。
しばらくしてから花道があたりを見回せば、彩子、赤木、木暮の3人が額を着き合わせ、何事か話し合っている姿に行きあった。『勘定』『タクシー』といった単語が聞こえて来る。なおも見守っていると、木暮が彩子から、おそらく皆から集金した会費が入っているのだろう茶封筒を受け取り、座敷から出て行くのが見えた。
木暮公延。彼はいま神奈川県内の私立小学校で教員をしている。中学の体育の免許も取得しているのだが、こちらは希望しなかったのだそうだ。いつだったかその理由を尋ねた花道に、中学生は怖いからなあと、冗談とも本気ともとれる微妙な口調で答え、彼はメガネの向こうで穏やかに笑っていた。
座敷に残った彩子は赤木を見上げ、まだ何か話をしている。その光景は花道の目に、10年前、正確には11年前、あの思い出のたくさん詰まった体育館で毎日のように見られた、練習メニューの確認をするふたりの姿と重なって映る。
彩子は現在外資系企業の総合職に就いている。男勝り姉御肌な気質は健在で、まわりの男性社員からも一目置かれる働きぶりであるそうだ。そんな彩子が、長い間その心に住まわせている男性の存在がある。それが今、彼女が親しげに見上げている男、赤木だった。
きっとこれは花道だけでなく、宮城さえもが気付いているだろう事実だ。気付いていないのは、いや、気付いているのに知らないふりをしているのか、とにかくその感情を読ませないのは当の赤木だけである。
いつ彩子のその気持ちに気付いたのか、花道はよく覚えていない。ただひとつはっきりしているのは、彩子の赤木を見つめる視線と、自分が晴子に向けていた視線、それが同じものであるということだ。
花道が眺めやる視線の先で、何事かを了承したのであろう赤木がひとつ大きく頷いてから、上着片手にゆっくりと彩子に背を向けた。
その広く大きな背を見送って、忘れ物がないかと座敷を振り返った彩子は、
「あら、桜木花道。あんたまだいたの」
フルネームで呼ぶ癖もそのままに、あきれ顔で、ひとり座り込んだままの、いつまでも手のかかる問題児の名を口にした。
「二次会には⋯⋯行かないんだったわね。外にタクシー呼んであるから乗って帰んなさい。木暮先輩も帰るそうだから途中まで一緒に行くといいわ」
彩子の提案には曖昧に頷いて、花道はすこし真顔になり立ち上がった。彩子とふたりだけになる機会があったら言おうと、ずっと以前から思っていたことがあったのである。
「アヤコさん」
花道は彩子の瞳をまっすぐに見つめた。
「憧れと恋はちがうよ」
その口調は酔っているようには聞こえない。
「憧憬(あこがれ)で結婚はしちゃダメだよ」
――結婚は、一緒にいて緊張しない相手とでなきゃ。
「⋯⋯⋯⋯」
自分に向けられた言葉を聞き、おどろきに一瞬見開かれた彩子の二重目蓋のおおきな瞳は、ややあって静かに伏せられ、次に花道を見たときには煙(けぶ)るように眇められていた。
「わかってるわ。心配してくれなくても大丈夫よ」
――いつの間にこの子は⋯⋯。
こんなにも成長してしまったのだろう。こどもだとばかり思っていた花道の口から、こんな台詞を聞くことになろうとは。昨年伴侶を亡くしたことが彼を成長させたのか、それとも⋯⋯。
彩子の脳裏を、表情の乏しいもうひとりの問題児の顔がかすめて消えた。
「さ、早く出て」
けれど、重く沈みかけた沈黙を断ち切るように声を出して花道を急き立てたとき、彩子の表情は寸部たがわず普段のそれに戻っていた。
彼女が宮城のプロポーズに応えるのは一体いつのことだろう。
コートを手に宴会場を後にした花道の背を、良いお年を! という彩子の明るい声が追いかけた。
花道が店を出たとき、そこにタクシーの姿はすでになかった。木暮たち帰宅組を乗せて先に出てしまったものらしい。だが別段困ったふうもなく歩を進める花道は、スッと眼前に現れた1台のプレリュードを見留め、足をとめた。そして馴れた手つきで助手席のドアを開ける。
「遅せぇ」
ハンドルに腕を乗せその上に顎を預けた運転手が、不機嫌にひとこと言い放つ。最後に出て来いといったのは彼自身であるのにこの言い草。
が、言われた花道の方は意に介した様子もなく、指定席に腰をおちつけてドアを閉め、一連の流れでシートベルトを引き寄せた。
「アヤコさんが出てくるぞ」
言外に早く車を出すよう促して流川の方へ目をやると、彼はじっと花道の顔を見つめていた。
目の前の、流川の双眸。
普段は何も語らないと思われているそれが、花道を映すとき、燃え上がるように熱をはらんだ表情を見せる。
「ルカワ?」
「⋯⋯」
あっ、と思ったときには、花道の唇は流川のそれに塞がれており、反射的に殴りつけようと振り上げたこぶしが振り下ろされる前に接触は解かれた。
「お、おまっ⋯⋯ななななに考えてんだーっ! だれかに⋯⋯」
見られたらどうするのだと唇を押さえて吼える花道が睨み付けた流川の顔は、なぜなのか拗ねているようだ。
「⋯⋯ルカ、ワ?」
拍子抜けし、怒鳴り続けるきっかけを失ったかたちで、花道がふたたび流川の名を呼ぶ。しかし呼ばれた本人は、そっけなく顔を前に戻しハンドルを切っていた。
頑是無い子供のような表情の流川を乗せ、白い車体は年末の気ぜわしい街の中へと滑り出す。
「だいじょうぶか?」
花道の気遣わしげな問いかけに、なにが? と返す流川の声は冷めている。
「飲酒運転。飲みすぎじゃねえの、さすがにあれは」
テーブルを飾っていた空徳利の様を脳裏に思い出した花道は、流川の不可解な行動の原因をそこに求めたのだ。
「おめーが⋯⋯」
「あ?」
「先輩とずーっと⋯⋯」
そこまでは口にしたのに、流川はそのまま黙り込んでしまう。
花道の視線の先で、やはり流川は何かに拗ねている。
――俺が、先輩と⋯⋯っつーことはリョーちんと、か? で、ずっと? なんだってんだ?
仕事おさめとでもいうように、花道はふだん使っていない脳ミソをフル回転させて流川の不機嫌な理由を推測しようとする。
そして、ひとつの結論に達した。
自信なく、まさかなあ、とは思いながら。
「おまえさ、もしかしてよ、そのォ⋯⋯ヤキモチ⋯⋯焼いてたりなんかしちゃったわけ?」
コクリ。
あまりにもあっさりと男の首が縦に振られるのを見、花道はなんとも複雑な心境になった。
「ずっとってさ⋯⋯、話聞いてただけだぞ?」
そんなことは、隣に座っていた流川がいちばんよく解っているはずなのに。
「ま、いーや。とにかく事故んねぇように慎重に運転しろよな」
天才の俺様が怪我なんかしちゃ、バスケ界の一大事だからな! と、流川からの返事は期待せず、続けても意味のない話題を打ち切る宣言をした花道に、
「ウチ、寄ってけ」
不意な言葉。
「お? ⋯⋯おぅ」
寄って行くか? ではない。選択の余地を与えているようでいて、実は半強制的なその提案に、反射的に応じてしまった花道は、内心しまったと思ったのだろう。言葉の語尾がすくむように小さくなっていた。
この時間から彼の部屋に立ち寄るということは、つまり泊まっていくのと同意義なのである。
頬が熱い。
会話というには頼りなかったふたりの言葉のやりとりは、ここで本格的に途切れてしまった。
耳までを赤くした顔を、運転席の流川から逸らし、どんな表情をしていいのか解らなくて不機嫌になった花道には、助手席の窓から夜景を眺める以外、この沈黙の前でできることがない。
この男の手を自ら選んで一年。
いまだ流川との逢瀬に慣れることのない花道だった。
花道にとってはどうしようもなく居心地のわるい沈黙を乗せたまま、流川の運転する車は彼のひとり暮らすマンションへ到着する。
地下の駐車場に入るまえの流川の、
「さき、上がってろ」
――部屋に。
その言葉に、花道は大人しく車をおりた。
流川に鍵を渡されるまでもなく、花道の手にはエントランスと部屋と、ふたつの合鍵が握られている。この鍵を彼が流川から手渡されたのは、ちょうど去年の今頃のことだ。
花道自らがはじめて流川の部屋を訪れようとした夜、留守にしていたばかりに寒空の下で何時間も彼を待たせてしまったことがいつまでも頭から離れず、流川は二日後には合鍵の手配をし、出来上がった鍵を受け取ったその足で花道の住むアパートを訪ねている。
自分に向かって差し出されたそれを、花道はすこし躊躇ってから、はにかんだような、それでいてちょっと困ったようにも見える笑みを浮かべて受け取った。
このとき流川は部屋に上げてもらえず、いまでもそのことを気にしている。というのも、あれから一年が経つというのに、流川は今日まで一度も花道の部屋へ招かれたことがないからだ。
部屋番号と同じ数字が書かれた駐車スペースに愛車をとめ乱暴にドアを閉めた流川は、エントランスを抜けるとすぐさまエレベーターに乗り込んだ。
鍵のかかっていない扉を開け足を踏み入れた己の部屋には、抱えたコートもそのままに立ち尽くす花道の姿。こんな時どこでどうしていればいいのか、途方に暮れた迷子の子犬のような表情で、花道が部屋主を振り返った。
後ろ手にドアを閉め、流川は無言のまま花道に近づく。
「⋯⋯⋯⋯」
その流川に気圧されるように後ずさり、壁際まで追い詰められた花道は、膝が崩れるにまかせ背で壁を滑った。
花道を追って流川の膝も床へ。
目線が同じ高さまで沈んだところではじめて、流川の手が花道の身体に触れ、それに応えるように花道の腕が流川の首を抱き寄せる。
ながい夜のはじまりを告げる流川の唇は、花道の眦へゆっくりと押し当てられた。
もう幾度となくふたりだけで過ごした部屋に熱い気が満ちている。
最暗にまでしぼられた明かりのもとで花道の肢体がつくる美しい陰影の造形。その影の中へ流川はおのが身を沈めて行く。
すでに汗を滲ませシーツの上でうねるその肉体は自分のそれと同じ男のもののはずなのに、どうしてこんなにも魅せられるのだろう。
花道の紅いはずの髪は、暗がりの中で鮮やかさを欠き、おもく沈んで見えた。
「サクラギ⋯⋯」
なぜ10年も離れていられたのか、今となってはもう解らない。
何度ふれても飽き足りない。
何度むすばれても満ち足りない。
きっと触れなかったからこそ離れていられた時間だったのだと、今にして思う。一度触れてしまえばもう――それは麻薬のようなものだ。
あまりの『かわき』に水を飲むと、それが人を殺す凶器になることがあるという。かわいた流川にとっての花道は、正にその水なのかも知れなかった。
花道という唯一無二の存在によって意識の奥底から引きずり出されてしまった流川の感情は、それほどに苛烈だったのだ。
「ん⋯⋯っ」
流川のわずかな動きにも反応しその身を引きつらせる花道の、切なげにさらされた喉元へ唇を落とす。流川は、彼の表情を見るたび胸がきしむのを自覚する。
――どうしておまえはそんな苦しそうな顔をする⋯⋯?
苦痛に耐える表情と快楽に耐える表情とは、どうしてこんなにも似ているのだろう。
自分たちは何か悪いことをしているのだろうか。何か罪を犯しているのか。
もしそうなのだとしたら。
いったい誰に赦しを請えばいい?
「ル⋯カワ⋯⋯?」
ふいに動きをとめた流川を不審に思ったのか、うわずる声で、それでも心配そうに花道が名を呼ぶ。見上げてくる彼の瞳は涙で潤み、そこに映り込むスタンドの明かりを滲ませていた。
その様を見つめる流川の表情こそが、彼の心情を映して辛苦に歪んでいることなど、当の本人は知り得ない。
なんでもないのだとかぶりを振って、しかし流川は花道にこう尋ねたかった。
おまえの心は辛くないか、と。
たとえ口にしても、おそらく真意までは伝わらないであろう、それは質問(といかけ)だった。
ふたりを包む部屋の空気はまだどこかに先刻までの余韻を引きずって、心なしか気だるい。
聞くともなく聞いていた、窓を打つ風の音が激しさを増したような気がして、花道はうっすらと目蓋を持ち上げる。
「雨だ」
耳元で、馴染んだ低い声がささやく。
いつの間に降りだしたんだろう。風だと思っていたのは雨が窓を打つ音だったのか⋯⋯。
またゆっくりと沈んでいく意識の中で、花道はぼんやりとそう思った。
今年の冬は暖かく、深夜になっても雨が雪にかわることがない。去年の今頃には、関東地方ももう初雪を記録していたのに。
「どあほう」
髪を梳いてくる流川の指先の感触に、ふたたび意識がうつつへと引き戻される。目を開けると、眼前に、いつになく深刻ないろで己を見下ろす流川の双眸があった。
「ウチに越して来い」
思いつめた声音が花道の鼓膜を揺らす。
しかし花道は困ったように笑んだだけで、答えを返さない。
流川のこの言葉を聞くのは、なにも今日が初めてというわけではなかった。
もう半年以上も前から、花道に会うと必ず流川の口をついて出るこの台詞に、花道は快諾もしなければ拒絶もしない。
当初、晴子の一周忌が済んでいないことが花道に了承をためらわせているのだと流川は思っていたのだが、その期日ももうひと月前、恙無く過ぎている。今もって花道はその意志を明らかにしない。
流川はそれを責める。
「俺はずっとおめーと一緒に居てぇ」
「うん」
花道の裸の胸に流川の呟きが当たった。
「解ってるくせに、てめえはズルイ⋯⋯」
「⋯⋯うん」
花道は節のながい骨ばった指を、汗に黒く濡れた髪に差し入れ、自分の胸に頬を乗せる流川の頭部を抱え起こす。
心の苦痛を訴える漆黒の瞳に刹那視線を合わせ、花道には読みとることのできるその痛みを癒すように、そっと男の目蓋へ唇を寄せた。
オフの日には、流川に呼ばれてこの部屋でふたり、特に何をするでなし寄り添って過ごすこともある。そのときふたりの間に落ちる沈黙は決して花道にとって重苦しいものではない。不快でもない。むしろ心地よいとすら思っている。
ふたりで同じ朝を迎えることも、逢いたいと思ったとき、ただそれだけの理由で逢いに行ける存在があるということも、花道は心から幸せだと感じている。
それなのにどうして自分が流川の申し出を受けようとしないのか、実は花道自身、よく解ってはいないのだった。
ただ何となく、その理由と、いまだ流川を己の部屋へ招じ入れることができないでいる理由、それが同じなのではないかと疑ってはいる。そして、あるものを流川に渡せないでいる理由も⋯⋯。
「なにが怖い?」
「こわい⋯⋯?」
流川の身体が花道から離れた。
「オレはバレたって構わねぇ」
この気持ちを――花道を想うこの気持ちを――誰に知られたって構いはしない。誰にも迷惑なんてかけちゃいない。誰に恥じることもない。ただ一緒にいたいと願うことの、どこが駄目? 何がいけない?
10年だ。
10年一緒にいられなかった。だからせめてこれからは、ずっと側にいたいのに。
「⋯⋯⋯⋯」
流川の激情の一端を淡々と受け止めて、その背を見送る花道の笑みは凪いだ海のように穏やかだ。
パタン⋯⋯。
「誰にも知られたくねぇ⋯⋯」
浴室へと消えた、もうその場にはいない相手に向かって、彼はその心情をはきだした。
「オレは知られたくないよ⋯⋯」
流川をひとり想う時間をなくしたくはない。
世間体ではない。
流川を想うこの気持ちは、彼以外の誰にも気づかせたくない。
これは流川だけのものだ。
彼ひとりのものなのだ。
だから⋯⋯。
きっと流川にこの気持ちは理解されないだろう。
いつの間にそんな表情ができるようになったのか、流川が見れば抱きしめずにはおかないだろう、染みるような微笑を頬に乗せ、花道は閉じたドアの向こうを見つめていた。
湯気がこもったままのバスルームへ足を踏み入れた花道は、シャワーのコックを無造作に捻る。頭から降り注ぐ熱湯の温度は、はじめから彼の肌に快いあたたかさだ。
先にシャワーを浴びて寝室へ戻って来た流川とふたりきりになることに落ち着けず、なかば逃げるようにしてここへ来てしまった花道だった。
ふっと肩の力を抜き、視界をさえぎる赤い髪を掻き上げる。
「てっ」
左手の指に絡みついた髪の毛が、うまく梳けず何かにひっかかった。見れば薬指のプラチナに緋色のほそい髪が1本絡まって抜けていた。
このエンゲージリングが花道の指を飾るようになって1年と少し。こんな出来事に遭遇しなければ、その存在さえ意識にのぼらないほど指に馴染んだそれは、花道にふたたびあることを思い出させる。
――いいかげん渡さねぇとなあ⋯⋯。
流川に、あれを。
流川と共に歩むことを心に誓ったあの日からちょうど一年後、渡そう渡そうと思いながら、なぜか、いざとなると彼に差し出すことができなかった物。
それはいま、寝室の床に散った花道のスーツのポケットの中にある。
ビロードの赤い小箱に入ったそれを花道が購ったのは、晴子の一回忌を終えた、年の瀬の街が、まだクリスマスソングに浮かれていたころのことだ。
花道が訪れた宝石店の店員は、すでに結婚しているらしいこの客から9号の指輪をさがしていると聞き、当初妻へのクリスマスプレゼントだと推測したようだった。
「奥様の誕生石は⋯⋯?」との問いかけには答えず、ひどくガタイの良いその男性客は、自分の指から抜き取った指輪を見せてブランド名を告げてから、これと同じデザインのものをと言い、9号のものがなければそれより小さいサイズのものを何号でも構わないから、と不思議なことをのたもうた。
店員はさぞかし不審に感じたことだろう。が、さすがに接客のプロである。彼は営業スマイルを微塵も崩すことなく、花道の希望どおりの物を探し出して来てくれた。
さらに、プラチナの鎖も見せて欲しいという赤い髪の客に、彼はデザイン、長さ、太さの違うものを3本提示し、
「おつけになるペンダントトップはお持ちでですか?」
と、訊く。
ちょっと視線を泳がせてから、持ってきていないと答えた花道に、どういうタイプのトップにはどれがいいかと懇切丁寧に説明した店員だったが、客の方はあまり熱心には聞いていないようだった。
数分悩んだ末に、花道はディスプレイされた中の、もっともシンプルなデザインの1本を選んだ。
またのご来店を⋯⋯、とマニュアルどおりの挨拶で客を送り出した彼は、まさかその鎖が、先に買い求めたリングに通されて、のちに男の首を飾る予定だとは夢にも思わなかっただろう。
ここ数日、左手の薬指でひかえめに輝く指輪をみるたびに、なぜクリスマス当日、流川にあの小箱を渡せなかったのだろうかと花道は思い悩むのだった。
みずからは流川に縛られることを望んでおきながら、相手にはそれを押しつけられない。
いや、押しつける、のではない。
おそらく流川は、花道から与えられる枷を喜びこそすれ重荷とは考えないだろう。考えないどころか、こころから望(よろこ)ぶに違いない。
それなのに。
そうであろうと想像できるのに。
花道は柄にもなく溜息をついて、湯気にくもった鏡を覗き込む。そこに映る自分の顔が情けなくゆがんで見えるのは、水滴がながれた幾筋もの跡のせいばかりではないらしい。
花道はもういちど溜息をつき、もやもやを払いのけるように大きく頭を振った。
が、今度は別のことが彼の意識に滑り込む。
こんな夜、流川を部屋に残して一人で浴室に避難していると、いつも決まって花道の意識を支配すること――。
それは、そのとき、のことだ。
流川がなにを囁いていようと、それに自分がどうこたえていようと、なにも知らない、何もわからない、理性も感性も働かない空白の時間がある。
今夜もそうだった。
流川と共にその感覚の極みへと駆け上った後、自失していた意識が戻るまで、自分の指に絡む彼の指に気づけないほどの⋯⋯。
その間(かん)おそらく自分は『感覚』の生き物になっているのだろうと思う。そして、その生き物の痴態も醜態も、すべてを見知っているのは流川だけなのだ。
と、そこまでを思い巡らせたところで浴室のドアが開き、流川が顔を覗かせた。
花道は思考をとめ、上半身だけで振り返る。
「ンだ?」
「や、あんま長げーから⋯⋯」
のぼせでもしたのかと心配になったらしい。
こんなときの流川の、表情にはあからさまにあらわれない不安や戸惑いが、つい花道のやわらかな微笑を誘う。
「もう出る」
安心させるために口にした言葉に、けれど流川の様子はおかしいままだ。
「ルカワ?」
シャワーをとめて改めて顔を上げた花道を、近づいてきた流川がぎゅっと抱きしめる。
「ば、か⋯っ、服、濡れちまう⋯」
みなまで言わせず、流川が唇を塞いだ。
花道の肌に押し当てたままの彼の唇は、正中線をゆっくりと降下していく。
花道の指が流川の頭髪に絡む。
タイルの上の水たまりが、流川の膝を濡らしていた。