屋根にのこる雨水が朝日を反射してまぶしい。
昨夜の雨がすっかり上がった朝の街は、すべての汚れや埃を洗い流し、こころなしか輝いて見える。
流川が起き出してくるまで、窓辺で眼下にひろがる家々の屋根をしずかに見つめていた花道は、むかしから雨上がりの風景を眺めるのが好きだった。
昼下がり、見るともなくバスケのビデオを流しながら、スポーツ用品カタログのページをめくる花道の側で、流川は何をするでもなくクッションにもたれくつろいでいる。
商品写真を見ることをやめ、ふと顔を上げた花道の目に、流川の部屋にそぐわない物の姿が飛び込んできた。
女性週刊誌。
バスケに関係しないものは、日常生活に不可欠な必要最小限のものだけと言い切っても決して過言ではない流川の部屋において、その存在はかなり異質である。
動きの止まった花道の視線の先にある物に気付いたのか、流川がクッションから起き直った。
――なんだ、アレ?
床に数冊積まれたものを指さしながら目線だけで流川に問いかけた花道に、部屋の主はこう説明した。
「オレの記事が載ってる⋯⋯らしい」
それも、ほぼ100%、女性関係のスキャンダルが。
『らしい』という言葉が象徴するように、もちろんこれらは流川本人が購入したものではない。あまり自分のことに頓着しない彼を心配してか、からかいがてらチームメイトが押し付けて行ったものなのである。
「ふ~ん」
気持ちのこもらない花道の反応に、
「⋯⋯⋯⋯」
流川はすこし傷ついたようだった。
押し付けられたところで読みもしないそれを捨てずにおいて、尚且つ花道の目に触れる場所へ出しておく。この行為の意図するところが花道に伝わらなかったらしく、そのことが彼を失望させていた。
「不満そうだな?」
実際には流川の考えていることなどすべてお見通しの花道である。その声は笑いを含んでいた。
「⋯⋯ちったぁ心配しろ」
「しねーよ、心配は、な」
「?」
「けどちゃんと気にはしてる」
週刊誌を手に取るまでもなく、すでに花道はそのすべての記事の内容を知っていた。『流』の文字はなぜか自然に彼の目に飛び込むようにできているらしく、たとえ流川に関係のない記事であっても、その一文字が見出しに踊っているだけで思わず反応してしまうのだ。
チームオーナーの娘との結婚話にはじまって、今日まで、流川と何人の女性との恋がうわさされただろう。そのすべてが、相手女性の一方的な、いわゆる片想いというやつなのだが。
密会の動かざる証拠と称するスクープ写真にうつる流川のその表情を見れば、彼が相手の女性に対して何の感情も持っていないことは明らかで、むしろ迷惑そうに突き放しているのが花道には解る。
だから。心配はしない。
ただ⋯⋯。
「おまえさあ⋯⋯」
花道の口から、思いもよらない言葉が飛び出したのはこのときだった。
「結婚、しねーの?」
「どあほう⋯⋯?」
花道の言葉の意味するところがわからない。急に何を言い出すのかと困惑する流川に、彼はなおも不可解なことを言った。
「オレ、おまえが結婚してくんねーと、ダメだ⋯⋯」
花道の言葉の真意をくみとるだけの冷静さと心の余裕とが、このときの流川にはなかった。昨夜のやりとりが意識のどこかに残っていたからなのかも知れない。
「好きでもねぇ女と結婚しろってのか!?」
このとき流川の思考は悔やむべきことに、もっとも悪辣な方向に働いた。
「⋯⋯そーだよな、おまえはあの女をダシにできるからな」
すでに一度結婚しているという事実が、今のふたりのこの関係から花道をカモフラージュしてくれる。
「そーじゃねぇ⋯⋯そんなこと、言ってねぇ⋯⋯」
青ざめた花道は傷ついた表情でうつむき、低く呻く。
その顔を目にした瞬間、流川はしまったと思った。自分は何か間違ったことを言ったのだ、と。しかし、悲しいかな、その感情が面に現れてはくれない。
「どあ⋯⋯っ」
引き止めようと伸ばした流川の手をすり抜けて、花道は部屋を飛び出していた。
下降するエレベーターの中できゅっと唇を噛む。
――あの女をダシに⋯⋯。
流川にそう言われても仕方のないことをしたのだ、己は。何をどう言い繕っても、それは言い訳にしかならない。
彼女の存在をダシにする気など微塵もなかったけど。
女性なら誰とでもいいから結婚して欲しい、そんなふうに思ったわけではないのだ。でもそれが上手く伝えられなかった。それに、流川が想像したように、カモフラージュしたいと思ったのでもない。けれど、自分たちのこの関係が公になったとき、流川だけが糾弾されるのではないか。そういう不安が花道にはあった。
自分ひとりが安全圏に逃げ込んでいるようで、苦しかったのだ。
『オレ、おまえが結婚してくんねーと、ダメだ⋯⋯』
その懸念や不安が口にさせた言葉だった。
ガクンという停止の衝撃の後、エレベーターのドアが開く。
いつかのようにそこに流川の姿はなく、エントランスを抜け駅に向かって歩き出した花道は、部屋を出る際にそれだけは掴んで来た上着に袖を通し、財布を捜してポケットに手を入れた。
「⋯⋯」
指先にやわらかなビロードの感触。
それが、花道にふたたび流川のことを想わせる。
花道はポケットから出した己の左手を⋯⋯冬の陽に光るそれを、じっと見つめた。
この指に、この枷をはめたのは誰だと思っているのだ。
「⋯⋯あほうはどっちだ」
ぎゅっと握り締めたこぶしの中で、伸びてもいない爪が手のひらに弓なりの跡を紅く残した。
こういうのも痴話喧嘩と呼べるのかどうか。
部屋にひとり残された流川は、花道が忘れて行ったコートを羽織り、ぼんやりと座り込んでいた。
花道がかけたビデオはとっくに終わっていて、テレビの画面は真っ青になっている。
花道が何を言おうとしていたのかはよく理解(わか)らない。
でもこのままにしておくのは嫌だった。
このままでは、明日の朝目が覚めたとき、いちばんに思い出すのが花道のあの表情になってしまう。
――冗談じゃねえ。
流川は意を決して立ち上がった。
このコートを理由に会いに行こう。
花道自身が取りに現れることはないだろうから。あのときのようには。
流川は車のキーを握り締め、自動巻き戻しが済んで2度目の再生が始まったビデオをそのままに部屋を出る。
流川を乗せた車がその白いボディを地上に現したのは、もう街が黄昏色に染まるころだった。順調に走れても、花道の住むアパートへ着く時刻にはあたりは真っ暗になっているだろう。ましてこの年の暮れ、この時間帯、一度ならず渋滞に巻き込まれることを覚悟しなければならない。平素の流川であれば、車での外出を極力避ける時間帯だが、この際そんなことに構ってはいられなかった。
目指す花道のアパートは、高校時代からその場所に変化がない。ただ建物はそのものは老朽化が深刻になっていたために、彼が大学で4年間の寮生活をしていた間に取り壊され、新しいものに建て替えられていた。新築のそれは以前のものよりも戸数が減った分、一戸あたりの坪数が多くなり部屋数も増えている。
とは云えプロバスケの世界でその実力を認められている選手が生活するには、おせじにも相応しいと呼べる環境(レベル)ではなく、そのことで花道がお偉方から引越しを薦められていることを流川は知っていた。
『ならウチに越して来りゃーいい』
『バーカ、ンなことしてみろ、よけいジイサン連中の血圧が上がるぞ』
ある日のふたりの会話である。
途中、予測どおりに渋滞に巻き込まれた流川が空き地に車を停めた頃には、街灯がなければ足元もおぼつかない冬の闇があたりを支配していた。
花道は部屋にいるだろうか。
足をとめて流川が見上げた花道の部屋の窓には、あたたかなオレンジの明かり。
それを見留めてから彼は迷いなく一歩を踏み出した。
コンクリートの階段を1階ぶん昇った、一番手前のドアが花道の部屋への入口である。
今までにも何度かその戸口まで足を運んだことのある流川だが、いまだかつてこんな重い気持ちを抱いて訪れたことはない。
ふたりが諍いを起こすのは何も今日がはじめてではないのだが。
流川の口から白い息がこぼれた。
ドアの前まで来て、流川の指がインターホンへゆっくりと伸びる。
壁一枚隔てた空間で、機械音が二度くりかえされて消えた。
中から返答はない。
「⋯⋯⋯⋯」
室内にいる筈の花道の息遣いが聞こえてきそうなほど閑静な住宅街の一角で、流川はただひとり立ち尽くす。ひっそりと、そこだけが切り取られた絵のようだ。
ややあって、聴覚に全神経を集中させていた流川の耳に、大股に近づく男の足音。
ドアを内側からあけた花道は、来訪者が彼であることを知っていたのか、流川の顔を見ても表情を変えなかった。
「忘れモンだ」
流川の差し出すコートを、やはり表情を変えないまま受け取る花道は、正面に立つ男の目を見ないまま低く言う。
「忘れるから⋯⋯何も言うなよ」
――今日のこと。
「⋯⋯忘れねぇでいい」
流川が答えた瞬間、花道が顔を上げた。
「てめっ⋯⋯人がせっかく⋯⋯、⋯⋯ンなに怒らせてーのかよ!?」
「怒れ」
流川の声は静かだった。
ふたりの視線が絡む。
怒ってくれた方がマシだった。責められた方がよっぽど楽だった。殴り付けられた方がどれだけ解り易かったことか。
「10年前のおまえなら、あそこで手が出てたな」
流川の言葉に、怒りを押し殺した声で花道も返す。
「10年前のおまえなら、ここに来たりしてねーな」
耐えるということを、互いに、なぜ覚えてしまったのか。
「⋯⋯なんであんなこと言った?」
アパートの狭い玄関に立ち、流川は後ろ手にドアを閉める。
「⋯⋯⋯⋯」
「答えろ、どあほう」
焦れて尚も問い詰める流川に、けれど花道は俯いて頭を振るばかり。一言も言葉を発しない。
「黙ってたら解んねーだろ!?」
試合以外の場ではめったに激することのない流川の語気が、だんだんと荒くなる。
それでも花道は首を振る。
そして、極め付けがごこの台詞だった。
「今日は、帰れ」
「―――!」
ここまで来て、そんな要求に従えるはずがない。
咄嗟に伸ばした流川の手は花道の手首を捉え、強引にその身を引き寄せていた。
「ルカワッ」
悲鳴のような響き。
――離せ⋯⋯。
奥の部屋へと続く、板張りの狭い廊下で揉み合いになり、もつれるようにふたりの身体が崩れる。
流川にとって悔やんでも悔やみきれない悪夢のような数分間が、彼の理性の及ばぬ領域で、過ぎた。
「⋯⋯あ、⋯⋯?」
ひろげた手のひらに、こすり付けられたように伸びた朱の模様。
眼下にうずくまるのは花道の力無い肢体。
「サクラギ⋯⋯?」
声が喉にからまる。
己が何をしたのかが、流川には暫くのあいだ認識できないでいた。
認識、したくなかった。
――何をした?
知らず口元を押さえる流川の顔から、次第に血の気が引いていく。
――オレハ、サクラギニ、ナニ、ヲ⋯⋯。
「ウソ、だろ⋯⋯?」
むなしい言葉が現実味なく口内にこもる。
なにを理由にしても言い訳にしかならないのだが、花道の本気の抵抗は初めてだった。驚きが引き起こした混乱に頭を支配され、もがく彼を力尽くで押さえ込んでしまった。
脂汗で額にはりつく赤い髪を指先で不器用に払うと、苦痛に歪んだままの顔が露になる。いまにも苦鳴が聞こえてきそうなその表情に、流川は打ちひしがれ、唇を噛んだ。
謝れば許されるのだろうか。
絶望感に襲われながらも、花道のきつく寄せられて深い谷を刻む眉間が辛くて、流川は彼の身を抱きしめる。
己の感情をコントロールすることも満足にできないで、いちばん大切にしたいと願う相手の、その身体も心も傷つけて。
法的には、何ひとつ自分たちを守ってくれるものはないのだ。
だからこそ余計、大事にしなければと思っていたのに。
自分たちには互いの気持ちだけが頼りなのに。
どうして自分は、自分たちは、こんなにも不器用なのだろう。
――あれから10年も経つというのに。
どうして、後悔ばかりなのだろう。
「――――っ」
噛み締めた歯と歯の間から、堪えようとして抑え切れない呻きが漏れる。
せめて花道の意識が戻るまでは側に居よう。
完全に脱力してしまっている自分と同程度に重い四肢を、それでも辛うじて寝室兼居間にまで運び入れた流川は、その部屋で『それ』を見つけてしまった。
「⋯⋯⋯⋯」
一体の、新しい位牌。
――ああ。そうだったのか。
なぜ今までそれに気付いてやれなかったのだろう。
一回忌が済んだからといって、晴子の影が花道の周囲から完全に消えてしまった訳ではなかったのだ。
花道の迷いのわけはきっと⋯⋯。
蒼褪めた表情のまま、毛布にくるまれ横たわる肢体を見下ろして、流川は花道の気持ちを想像する。
そして、この場から立ち去る決心をした。
この部屋に、彼女と花道ふたりだけを置き去りにしたくはないのだが、いま自分が側にいることを、彼は望まないだろうから。
そう自分に言い聞かせてはみたものの尚、この場に残ろうとする身体を何かから無理矢理もぎ離し、引き裂かれるような痛みを心に伴って、流川は花道に背を向けた。
目頭が熱い。
知らぬ間に視界が滲みはじめていた。
身体中の関節という関節がきしむ痛みに、花道は呻きながら意識を取り戻した。
見慣れた部屋の壁にかかる時計の針は、真夜中過ぎを指している。
「⋯⋯⋯⋯?」
なぜ自分はここで眠っているのだろう。
この部屋に移動した覚えがない。
ぽっかりと、記憶の空白。
――なんでこんなに身体が⋯⋯。
ぼんやりとした表情で上体を起こした花道を、途端に襲うフラッシュバック。
「あ⋯⋯」
己の身に何が起こったのか、吐き気を伴った記憶が怒濤のように一気に押し寄せる。
無意識のうちに、彼はふらふらとバスルームへ移動していた。何をどうしようと、起きてしまった事実が消えてなくなる訳ではないのに。
花道の身体に刻まれたものは、諦め切れずに抗ったことによる四肢の痛みだけでは済まされなかった。
「!」
大腿部の内側を伝う赤い体液。
熱いシャワーの飛沫に打たれながら、改めて、全身に残るその跡に愕然とする。
『ルカワッ』
強引に掴み寄せる腕に逆らい、力任せにねじ伏せて来るのを訳もわからぬまま押しのけようと藻掻きながら、そのとき初めて花道は己の迷いの核心に触れようとしていた。
自分がなぜ、この部屋で流川を、いや、この部屋にいる「自分」を拒むのか。認めれらないでいたのか。なぜ本心を否定しようとするのか。なぜ自由になれなかったのか。
「遅せぇよ⋯⋯いまごろ、こんな⋯⋯」
認識するのが遅すぎる。しかも、こんなことが起こってようやく理解できただなんて、自分の馬鹿さ加減に溜息もでない。
いま、すべてを理解した。
あのリングを渡せないでいたわけも、この部屋に流川を招きたくなかったわけも、彼と共に暮らそうと思い切れなかったわけも、全部。
ここには、この部屋には、晴子がいたのだ。
その晴子と花道とは、いま流川に対して同じ立場にある。
だから。
彼女に対する後ろめたさか、それとも遠慮か。それが、素直な言動から花道を遠ざけてしまっていた。
そのことに、今ようやく思い至った。
どうして自分は、自分たちは、こんなにも不器用なのだろう。
10年が過ぎたのに。
あの日の15の少年がそのままここに居るようだ。
――悪いのは、ぜんぶ、オレなんじゃねえか⋯⋯。
今度は何を理由に逢いに行けばいい?
「―――ッ」
俯く花道の瞳から、涙が溢れた。
部屋に上がって行けと花道に言われて、はじめて流川は彼に受け入れられた自分を認識した。ソファー代わりにベッドの端に腰掛けて、いま彼は花道が衣装ケースの中から持ち出して来る何かを待っている。
赤い小箱を手に流川のもとへ歩んできた花道は、てのひらに乗せたそれを彼に差し出した。
「べつに、その⋯⋯誕生日だからってんじゃ、ねーんだ、けど」
歯切れ悪く、しどろもどろになりながらそこまで言い、いらなかったら捨てちまっていいから! とは、後から慌てて付け足した台詞だったが、受け取った箱の蓋を開けてその中身に気を取られていた流川には聞こえていなかった。
「どあほう⋯⋯?」
花道を見上げた流川に、照れて赤くなった顔をそらしながら、
「フツーに指輪とかじゃ、さ、ほら⋯⋯いつもつけとくわけに行かねーかと思って⋯⋯」
ネックレスなら、いつ着けていていても衣服の下に隠れるからいいと思ったのだ。たとえ人目に触れたとしても、指輪ほどには物議を醸すことがないだろうし。
それでわざわざ、絶対に流川の指には、たとえ一番細い小指にであっても通すことができないサイズを選んだのである。
「けど、試合ンときは外しとけよ?」
――またレポーター責めに遭うから。
そこまで言葉にしてようやく視線を戻した花道は、つまみあげたプラチナの鎖を差し出す流川の行動の意味がよめず、戸惑う。
「?」
「⋯⋯つけろ」
おまえの手で。
彼女が見ているこの場所で。
「⋯⋯」
ひとつ小さく呼吸を飲み込んで、流川の手からそれを受け取った花道の表情が緊張にこわばり、動きが凍る。
「サクラギ」
流川の声にうながされ、花道はようやく片膝をベッドの上に折った。そして、はずした留め金を左右の手に持つと、その手を流川の斜め前からその首へ。
首の後ろで花道の指はすぐに動かなくなる。
指をはなれたプラチナの鎖が流川の鎖骨をわずかにすべり、とまった。
「できたぞ」
囁くようにそう告げて、流川の首にまわした両腕が作る輪をスッとせばめ、
「ルカワ」
鼻先が触れ合う距離で、花道の声が流川の唇を濡らす。
「⋯⋯誓いのくちづけを――」
あの日にはじまった儀式が、いま、終わる。
1997.04.13 脱稿
・初出:『0 ~ラブ~』97.05.03 発行