シャキン。
庵の握るハサミが澄んだ音をたて、癖のない黒髪が一房足元に散らばった。
戸外で過ごすにはもうかなり寒い季節。ベランダへ持ち出した椅子に京を座らせ、その背後に立った庵が器用にハサミを操っている。
特別な日の前日には必ず庵が京の髪を切る。
きっかけは些細だ。翌日人と会う約束をしていた京の髪が、見苦しく伸び放題になっているのを庵が見咎めた。それを受けて、じゃあおまえが切ってくれよ、こんな遅い時間じゃ店も開いてねえし明日じゃ間に合わないだろ? そんな京の言葉が発端だった。
凝り性の庵は、自身行きつけの店で担当の美容師に教わり、じきに道具から何から一通りの用品を買い揃えてしまった。なにごとも形から入る彼らしいその行動を京は笑ったが、ハサミを握る回数をこなすうちに腕が上がって所要時間も短くなり、いつしか玄人裸足の域に達していた。
いつだったか、プロになれるぜと京がその腕前を誉めたときには、この程度では貴様の髪しか切れんと素っ気なく返されたものだが、しかし京は知っている。それが庵の照れ隠しだったということを。
左右の長さが揃っているかを見るために京の正面にまわった男は、耳の横の髪を両手でそれぞれ摘み毛先の位置を確認している。その真剣な眼差しを見つめていた京が、不意に口をきいた。
「庵、俺さあ、明日ユキに話そうと思うんだ」
小島ユキは、付き合っている彼女だと京が公言してはばからない存在。
「⋯⋯何をだ」
嫌な予感がする。
カットクロスと首に巻いていたタオルをはずしてやりながら、庵は男の背後へと立ち位置を戻した。動揺を悟られるわけには行かない。
「別れ話ってヤツ?」
サバサバとした口調で。何の感慨も感傷もなく。庵が凝視(みつ)める広く厚い肩の向こうから聞こえる男の声は、いっそ朗らかですらある。
「明日はやめておけ」
明日はクリスマスイブ。彼女とのデートに出掛ける京のために、この日庵は彼の髪にハサミを入れてやっていたのだ。
「毎年クリスマスが来るたび貴様を思い出すことになるんだぞ。最悪の記憶と共に」
それは、決して少なくはない好意を寄せていたのであろう彼女に対し、あまりに残酷な仕打ちではないのか。
「そっか⋯⋯うん、それもそうだな」
京はぽりぽりと首の後ろを掻いている。
「日を改めたらどうだ」
「じゃあそうする」
もう随分と長くこんな二重生活を続けて来たのだ。今更それが後一週間続こうと、ひと月先まで延びようと、大した違いではない。そう告げる庵に納得したのか、京はあっさりと決行延期の提案を飲んだ。
ああ。
ついにこのときが来てしまったか。
そのとき背後に立つ男の双眸が翳りを宿したことを、京は知らない。
『そのとき』は突然訪れるものだと常に覚悟していたつもりで、やはり唐突なそれは庵に少なからず衝撃をもたらした。
ユキと別れる。
その言葉が京の口から出たとき。それが決別のときだと密かに思い定めていた。彼を受け入れた日から。
草薙・八尺瓊・八咫。三家間に於ける契りはタブー。それが子を成さぬものであっても、いや、そうであるならばこそ。精神的な婚姻は始末が悪い。
事実庵は、京との関係を、いつまでも続けていいものだとは思っていなかったし、続くものだとも信じていなかった。京の考えが、自分のそれとは真逆であると知っていて、だからこそ、このえにしを断ち切るのは自分からだと理解していた。対処法は八尺瓊の術の中にある。それに従えばいい。
髪を切り終え、庵は京をバスルームへと追い立てた。切り落とした髪は短く、どんなに注意を払いタオルで防いでいるつもりでも、知らぬ間に衣服の内側に入ってしまう。髪を梳いたくらいでは取れないものもあるし、それらを完全に落とすには洗い流してしまうのが一番だ。
ベランダに残った庵は寒さに首をすくめながら、切り落とした髪の残骸を片づける。
「!」
箒でうまく掃き集めたつもりだったのだが、敷いていた新聞紙にくるもうとした瞬間に吹きつけた強い風が、一房、黒髪をベランダの外へと運び去ってしまう。咄嗟に柵の外へと身を乗りだした庵だったが、阻止することは適わず、飛ばされた先を見届けることもできなかった。諦めて残りを始末し、部屋に戻ればバスルームから呼ばわる男の声。
「なんだ」
ドアを開けると、中から伸びて来た強引な腕に、服を着たままで浴室内へ引きずり込まれる。
「京!」
服が濡れる、そう抗議する間もなく抱きすくめられ、
「今夜は泊まって行けないからさ」
理由にもならない言い訳をしながら寄せられる唇を、庵は抗うことなく受け止めた。
この男とこんなふうに触れ合うのも、これが最後になるのだろう。そう、冴えた頭の隅で考える。そんな余裕がある自分を嗤い飛ばしたい衝動に駆られていた。
その夜。
じゃあまた、と。再会を微塵も疑わず玄関先で戯れにキスを仕掛けて来る男に、常と変わらず呆れた態度を主張して見せながら、庵は静かに心の中で印を切っていた。
触れる唇に呪詛を込めて。終焉の口付けを――。
これで終わる。
明日の朝には何もなかったことになる。
次に目覚めたとき、京は一切を忘れている。
この蜜月の記憶、すべてを。
「神楽。進めてくれ、奴の婚儀」
京を部屋から送り出した直後、庵は神楽ちづると連絡を取った。
「今度は奴も拒まん筈だ」
京の縁談については以前から三家の間で何度か話し合われていたことだ。草薙とクシナダとの婚姻という結末で、本来ならばとっくに決着を見ている筈の懸案は、京がのらりくらりと躱し続けていたせいで延び延びになっていた。
『何かあったの⋯⋯?』
庵の急な申し入れにちづるは困惑している。彼女は、オロチ亡き後の京と庵との関係を正確に把握する唯一の存在だった。ユキとの結婚を渋る京を前にして、この男の意志を覆すことがいかに困難なのかを知っているちづるは、半ば諦観の境地にいたのである。
「ままごとは卒業だ」
答えになっていない言葉を口にして自虐的に笑う男が、京の記憶を改竄したと告白すれば、電話の向こうで息を飲む気配。
『どうしてそんな⋯⋯』
なぜそんな強引な遣り方で京との関係を断ったのか。
何を起因にして庵がそんな暴挙に出たのかは判らない。が、庵の京に対するその行動が戯れでないということだけはちづるにも理解できた。
正直、宗家の直系の血脈が途絶えることを覚悟していた彼女は、代役を捜すべく傍流諸家に属する能力者への調査さえ開始していたのだ。だが、今後ことが順調に運べばその手間は省ける。
しかしそれを僥倖ととらえる気持ちは今のちづるにはない。ただ、その感情を公にすることが立場上許されないため、心の裡に思うだけだ。
庵のため、そして京のためを思えば。草薙・八神という「お家」を考慮せず、ただ彼ら一個人を対象にするのならば、むしろふたりを引き離すことには反対だった。
こんなふうに表現するのは庵に対して失礼なのかもしれないが、彼に人間らしい感情を教え育ませたのが京であると、ちづるは理解している。オロチを屠ることになった大会で、強引に彼らを己のエディットへ引きずり込んだのはちづるだ。あの大会の期間中、行動を共にすることで徐々に変わりはじめていた彼らの関係は、三家が力を合わせてオロチを斃したのち、劇変した。
あなたはそれでいいの? 納得したの?
電話口の相手に向かって危うくそう言葉にしかけ、ちづるは咄嗟に口をつぐむ。
良いも悪いもない。納得など、しようとして出来るものでもない。それでも、そうするしかないから、だから庵は行動を起こした。その彼に対して、こんな問いかけは侮辱だ。
どう言葉を繕っても庵を傷つけることになる。それでも何か言わなければと、ちづるは長い沈黙の果てにようやく言葉を紡いだ。
『あなたが⋯⋯、草薙だけでなく、あなたもがそう望むのなら、諦めるしかないと、わたしはそう思っていたのよ』
そのための準備も既に始めていた。今ならばまだ引き返すことは可能なのだと言外に告げる。
しかし、ちづるの譲歩に対する庵のいらえは微塵の躊躇もなかった。
「本来経験することさえなかった筈の時間を持てた。俺にはそれで充分だ」
それ以上は、過ぎた望みだと思わないか?
あの男は俺ひとりのものじゃない。そしてクシナダ姫の生まれ変わりである彼女だけのものでもない。強いて言葉にするならば、この世界の物、だ。それを、その世界に成り代わって独占できた。それがたとえいっときのことであれ。
ならば。これ以上は何を望んでも、罰が当たろうというものだ。既に禁忌は犯されているのだから。
『⋯⋯⋯⋯』
ちづるは沈黙した。
庵もまた、電話を切るでもなくその静寂に付き合いひっそりと押し黙っている。
『わたしに』
ちづるは目を閉じ、溢れそうになる熱いものを堪えて、しずかに口を開いた。
『わたしに何か出来ることはある?』
優しい声だ。
次女である彼女なのになぜか長姉のようなちづるの気遣いは、頑なに閉じてしまいそうだった男の心をわずかばかり穏やかにする。
「そうだな⋯⋯次に俺から連絡を入れるまで、放っておいてくれないか?」
今すぐには気持ちの整理がつきそうもない。だからしばらくの間でいい、ひとりにしておいて欲しい。
『解ったわ』
それ以上はもう伝えるべき言葉もなく、淡々とわかれの挨拶を交わし通話を終える。
携帯電話をたたみ、庵は部屋を見回した。京の私物のいくつかがその視界に映る。テーブルに放り出すようにして置かれたバイク雑誌、配線を繋ぎっぱなしにしたゲーム機。クローゼットのドアを開ければ、何着かの服もある。
物によっては返却しておかないと不審に思うときが来るかも知れない。ちづるを介し、京の元へ届けてもらうよう手配しなければ。
ほかに片付けるべきことは何だ?
「⋯⋯⋯⋯」
ずっと張り続けていた予防線。
共に行動することは極力避けてきた。ふたりで写った写真は一枚もなく、個人の写真でさえ彼には撮らせなかった。携帯電話のメモリーや履歴をチェックするような不躾な真似も、来たる日のことを思えば躊躇なく実行できた。
庵は淡々と、これからの己の行動予定を確認する。
自身が呆れたくなるほど、その行為は冷静そのもので。
不思議と涙は出なかった。
ふたりで禁忌を犯した。
京に忘れられ、けれど自分はすべて覚えている、これが庵への罰。
そして、すべてを忘れ去ることが、京に与えられた罰。
庵が京と再会するのはこの日から約二ヶ月後、神楽家でのことになる。
その日、ちづるの呼びかけで神楽邸に招かれたのは京とユキ、そして庵の三名。京とユキとの婚礼について話し合うことが目的である。
年は改まり、暦はもう二月も下旬にさしかかっている。
既に神楽家の差配で婚礼の準備は着々と進められており、庵を除く三人は何度か集まって話を詰めていた。その進行状況については庵もちづるから逐一報告を受けて知っている。ただ、少しでも京との接触を避けるため、彼だけがぎりぎりまで会合に同席しなかったのである。
古式に則った儀式の進行役は神楽家が務める。しかし、慣れない作法の連続で、それを習得するのにユキは苦心していた。万が一の場合に備え、儀礼の間は助言できる位置にちづるが控えることになっているのだが、それでも不安を隠しきれない様子の花嫁に、
「案ずることはない。三家の人間は皆(みな)おまえの味方だ。どんな事態になっても、絶対にフォローする」
庵は思わずそう声を掛けていた。
大船に乗ったつもりでいていいわよ、と微笑むちづるがユキを気遣い、それを混ぜ返すように、ユキは本番に強いんだから大丈夫だ、などと無責任に京が言う。即座にちづるに窘められる京の姿を間近に、しかしフィルタを一枚隔てたような奇妙な距離感をもって眺めながら、なぜ自分が冷静でいられるのかが庵にはわからなかった。ユキを前にすれば、京のとなりに居る彼女を見れば、みっともなく取り乱すのではないかと、少なからず懸念していたのだが。
しかし、いざそのシチュエーションに身を置いて尚、彼の裡は凪いでいた。
庵は気付いていない。
おそらくその理由は、彼女と同じ立場で京に想われたかった訳ではないからだ。庵は決して彼女に成り代わりたかったのではない。
「ところで草薙、例の祝詞(のりと)はもう覚えましたか?」
「や、その⋯⋯まだ、ええと半分というか⋯⋯三分の一というか⋯⋯その、全然⋯⋯」
「あれから何週間経ったと思っているのですか!」
京を批難するちづるのヒステリックな声音が庵の耳孔を素通りして行く。同じ空間に身を置いている筈なのに、庵にとっては何もかもが違う次元で起きている遠い出来事のように感じられる。
この奇妙な疎外感は、この日の打ち合わせが終了するまで庵につきまとい続けた。
パチンという扇の畳まれる微かな音に気付き、ちづるは鼓を打つ手を宙にとどめ、閉じていた目蓋を上げた。
「駄目だな⋯⋯やはり」
能舞台の中央で足をとめた庵が、深く息をついて肩を落としている。
その姿を見遣り、ちづるは肩から鼓を下ろす。ちづると庵は、婚儀の席で披露する舞の稽古中だった。
「今日はここまでにしましょうか」
ちづるの提案に庵は顔を上げ、
「済まん」
小さくうなだれる。
「謝ることはないわ」
ちづるは努めて明るい声を出す。
ややあって庵は手首を翻しもう一度扇を広げると、指先の動きだけでその所作を反復し始める。もう鼓は併せず、ちづるは座したまま扇の動きを目で追った。
祝いの席で演じる舞だ。ふたりの婚姻を祝し、その幸せがいつまでも続くよう、宗家の繁栄を祈り、願う舞。
なのに喜びを表現できない。
ちづるにそう訴えた男は苦悩に歪んだ硬い表情をしていた。
彼は京の結婚を祝福していない訳ではない。痩せ我慢でも強がりでもなく、心の底から庵はあの男の幸せを願っている。だがその感情を表に出すことが彼にできないのは、なぜなのか。
京の幸福を願う気持ちを、自身の悲しみが凌駕しているからか。それとも、京を騙し、その記憶を奪ったこと、それが今も彼の心に影を落としているからなのか。
ちづるには判らない。
判らないものは手の差し延べようがなかった。
八尺瓊の末裔である八神の当主として、しきたりに従い庵はこの舞を披露しなければならない。そこには三家の仲が良好であると、世間に知らしめる意図も含まれている。決して辞退するわけにはいかないのだ。
ちづるが見守る視界の中で、庵の手先だけの舞はまだ、続いている。
「なあ、ユキ。俺さ、行きつけの美容院っておまえに話したことないか?」
引き出物を選ぶことを目的に出かけた先で、歩き疲れたというユキのためにカフェに寄り、飲み物が運ばれるのを待ちながら、ふいに京がそんなことを訊いてきた。
ユキは一瞬きょとんとして、
「よくは知らないけど⋯⋯。ああ、でも、そうね。京、いつだったか言ってたわよ。『専属の美容師がいるんだ』って」
「専属の美容師?」
ユキの言った言葉を反芻して京が奇妙な表情をみせる。自分で言ったことなのに、この人はなにを怪訝そうにしているのだろう。
「だからわたし、てっきり格闘技の大会に出るときなんかにスタイリングしてくれる人がいて、その人のこと言ってるんだって思ったんだけど」
違うの? と逆に訊き返すと、京の眉間のシワが深くなった。
「特別な日にデートするときって、京、かならず前の日に散髪して来てた。いつもそうだから、マメなんだなあって、わたし感心してたのよ?」
ただ、付き合い始めた頃はそんなふうでもなかったように思う。忠実(マメ)だとかいう以前の問題で、己を装おうことにはおよそ関心がないように見えた。それが変わったのはいつからだったろう。
「それがさー⋯⋯」
京が話したところによると、美容院がなくなっていたというのだ。
そろそろ襟足のあたりが鬱陶しくなって、つい数日前、いつも世話になっている美容院へ向かった。そうしたら、
「店が変わってて」
美容院ではなく、飲食店になっていたのである。
まさに狐につままれたていで、京はその場で固まってしまった。何が起きたのか解らなかった。道を間違ったのかと並行する前後の通りも歩いてみたが、やはり己が知っている店は見あたらず、解せぬ気持ちでその飲食店へ入ってみた。
「中で店の人に話聞いたら、二年くらい前から今の店になってるって言うんだ」
ますます訳がわからなくなった。混乱する頭を抱えて店を出、隣店にも立ち寄り念のため確認を取ったが、やはり二年ほど前に美容院はなくなり、現在の店舗になったとの返答だった。
「もう俺、訳がわかんなくなっちまって⋯⋯」
ようやく運ばれて来たコーヒーに、京はミルクを入れる。
まるで街ぐるみで自分を騙そうとしているかのようで、有り得もしない被害妄想にまで陥ったのだと言いながら、カップを口に運んだ。
店が変わってしまったのは本当らしい。だが、そうであるなら自分は今まで二年もの間、一体どこで髪を切っていたのだろう。その疑問が、冒頭の問(とい)へと繋がっていたのだ。
「京、去年のクリスマスに会ったとき、髪切ったばっかりだったわよね」
「そうだっけ⋯⋯」
自分のことであるのにそれを思い出せず曖昧に応じる京とは対照的に、ユキの方は自信に満ちた表情で首肯する。
「あのときどこで切ってもらったのか覚えてないの?」
覚えていない。
思い出せない。
考えてもわからない。
なぜ?
「変ねえ⋯⋯」
呟いて、ユキは小首を傾げる。京の身に起きたそのことは確かに珍妙な出来事なのだが、所詮は他人事、彼女には重大な問題だと認識されていなかった。気に入る美容院を新規に開拓すれば解決する、その程度にしか思っていない。
だが当事者である京の方は、そんなふうに簡単に割り切れていなかった。
『変ねえ⋯⋯』
京はユキの言葉に胸の裡で頷く。
そう、変なのだ。
何かが、おかしい。
自分には、スムーズにさかのぼることができない、過去の記憶がある。
専属の美容師とは、誰だ?
休憩にしましょうか。
屋敷の主であるちづるの提案で、それまでなぞっていた式の進行を一旦休止し、京と庵は中庭に面した部屋へ移動した。
ちづるが運ぶ茶を待ちながら、京は縁側に立ち、三月の風が薫る新緑の庭を観るともなく眺める。庵の方は部屋の中央に配された低卓の側に腰を落ち着けて、そんな京の背に視線を遣った。剪定前の、生き生きと伸びた新芽のせいで不格好な姿態を晒す木々が、京の肩越しの中庭のそこかしこに植わっている。
この日はユキを除く三人で神楽家に集まっていた。
「八神、おまえさ、あの後どうしてたんだっけ?」
ふいに背後を振り向いた京が、庵に向かって口をきいた。
「あの後、とは?」
「俺らでオロチの野郎に引導渡してやったろ? その後だ」
俺、おまえとはずっと会ってなかったんだっけなと首を傾げた男の表情が、逆光に翳る。
「会ってはいないな」
それだけを答え、庵は口をつぐんだ。
会話はそこで途切れ、手持ち無沙汰になった京は仕方なくふたたび顔を中庭へと戻す。
あれから二年半余の年月が経っている。その間(かん)の京の記憶の中に、この男の影はない。それまでの二年程の期間は、まとわりつくような庵の気配をつねに身近に感じながら過ごしていたというのに。
先日、久方ぶりに神楽邸で再会した庵は、ひどく存在感の薄い男になっていた。いまも、京の背後に座っていながら、その気配をほとんど感じさせることがない。
ちづるに請われるまま庵とエディットして挑んだあの大会の時点で、ただ啀み合うだけの関係ではなくなっていた自分たちだが、大会終了後、庵がどうしていたのかを京はまったく知らず、知らないということに今更のように違和感を覚えていた。
オロチを屠った際に受けた傷がもとで、彼が随分と長く伏せっていたことは知っている。だが快復した後のことは何も聞いていないのだ。
なぜだろう。
なぜ今の今まで、彼の消息を尋ねることをしていなかったのか。気に掛けることさえなかった自分の精神構造が、正直わからない。どうしてこの男に無関心でいられたのだろう。あんなにも自分に執着していた男の存在が、己の周囲から突如として消えたことに、なぜ何の疑問も持たなかったのだろう。
自分で自分が理解できない。
そこへ、ちづるが茶と茶請けを乗せた盆を手に現れた。
「八神、そういえばあなた、今日が誕生日なのではなくて?」
テーブルに着いたふたりの前へ小皿を並べ、庵のとなりに腰を下ろしながら、思い出したようにちづるが問う。
「え? そうなのか?」
京は顔を上げて斜向かいに座る男を見た。
「今日は何日だ?」
「二十五日よ」
「ならばそうだな」
ちづるの指摘通り、三月二十五日は庵の誕生日である。
「なんだよー、そんなめでたい日に何もこんなことやんなくったってさー。なあ? 八神」
庵に向かって同意を求める男は、単にこの面倒な儀式の予習から逃げ出す口実が欲しいだけである。
「別に俺は続けてもらって構わん。もともと八神には生誕を祝う習慣がないのでな」
対する庵はにべもなく、愛想のない奴だだのなんだのと往生際悪く不平をこぼす男を黙殺する。
かつて二度、京が共に祝ってくれた。それが祝福の全て。
三度目は、ない。
とりつく島もない様子の庵にさすがの京もそれ以上はごねるのを諦めたのか、個別に用意された茶菓子をたいらげる頃には大人しくなっていた。
「草薙、休憩が終わったらあなたは離れの方へ行ってちょうだい。衣装ができあがったそうだから」
屋敷の主に指示されるまま京が席を立ち、その場には庵とちづるとが残される。
茶請けの羊羹にも漬け物にも手をつけず、庵は最初からずっと湯飲みにばかり手を伸ばしていた。
「甘いものは嫌いだったかしら?」
ちづるのその言葉に一瞬顔を上げてとなりに座す女を見、庵はふたたび視線をテーブルへと落とす。
その様をしずかに見つめていたちづるの瞳に優しい光が宿る。
「八神」
労りの滲む声で名を呼んで、幼い子供にそうするように、ちづるはそっと腕を伸ばした。
引き寄せるちづるの腕に逆らわず、庵は女の肩に額を預ける。頭を撫でる手のひらの暖かさは、母親のそれを思わせた。
「いいのよ」
泣いていいの。
穏やかに囁かれる。
それでも庵の瞳が涙に濡れることはなかった。
見てはいけないものを見てしまった。
京はそう思った。
渡り廊下の途中、なにげなく母屋を振り返り、そこで見たもの。
男に向かい、なにごとかを囁きかけて伸ばされた女の腕。されるがまま引き寄せられる男の身体。
寄り添うふたりがまとう気配は親密で。
ちづるの瞳に浮かぶ庵への労りの色までは、京のいる場所からは判別できず。
滲み出す優しさが恋慕でないなどと、京には判らぬことだった。弟を慈しむ姉のようなその眼差しに気付けず、京は彼らを誤解する。
――見てはいけないものを見てしまった。
あわてて目を逸らし、離れへ向かって早足に歩く。
しかし。
胸に渦巻くこのドス黒い想いは、いったい――?
この、吐き気がするような気分の悪さは――。
「あいつは⋯⋯」
あいつが執着していいのは俺だけだ。
それ以外の何ものにも、興味を持つことは許さない。
これまでずっとそうだった筈だ。
だからあいつは俺だけを見ていればいい。
そうだろう?
ちづるの指揮のもと、古式に則った婚礼の儀式は恙なく執り行われた。式の締め括りは庵の舞。ちづるの鼓に併せたそれの終演と同時にすべての行程が終了する。
式の後には宴席が設けられていた。そこでようやく自由に動き回ることを許されて、さっそく京は席を立つ。古風で窮屈な着物からも解放されてやっと人心地がつき、堅苦しい雰囲気から逃れるように庭を目指す。京は屋内の閉塞感が苦手で、屋根のない場所を好む傾向にあった。
庭には先客がいた。
「八神」
声を掛ければ、ゆったりとした動作で男が振り向く。
「そんなところで何してる」
自分のことをすっかり棚に上げて問う京に、
「月が⋯⋯」
それだけ言って顔を戻した庵に倣い、京も廊下で夜空へと視線を向けた。
見れば、ちょうど満開の桜の木の枝先にかかるような位置で月が輝いている。春らしく輪郭がおぼろに滲むそれは霞懸かり、放たれる光も柔らかい。
京は縁台に乗った下駄を拝借して庭へおり、庵のとなりに並び立つ。
しばらくふたり黙って春の月を眺めていたが、ふいに庵が口を開いた。
「済まなかった」
思わぬ謝罪の言葉に、
「何が」
怪訝な面もちで京はとなりにたたずむ男の横顔を見つめる。庵は月を見上げたまま、
「先刻の舞だ。あれは祝いの席で舞うもので、本来もっと喜びを前面に押し出さねばならんのだ。だが⋯⋯」
自分は感情を外に出すことが苦手で、と非礼を詫びる文言を続けた。
「や、まあ、随分ストイックに舞うんだな、とは思ったけどよ」
さして気にしたふうもなく、京はそう応じる。
「でも、⋯⋯いや、だからこそ、かな⋯⋯。俺見蕩れてたんだけど?」
式の進行の順序を間違えないようにだとか、台詞を忘れないようにだとか、そればかりに意識をとられ気を張りつめていた行程がほぼ終了し、ようやく肩の力を抜くことを許された式の最後に、おそろしく美しいものを贈られた。シンと静まった空気の中、リズムを刻む鼓の音も、翻る扇の空を裂く音も耳に心地よく、切れのある男の所作に魅せられたのだ。
「舞なんてのはもっと退屈なもんかと思ってた」
おまえにあんな特技があったなんて知らなかったな。屈託なく笑う京に、庵は俯きかすかに白い歯を見せた。
「特技ではない、嗜みだ」
「⋯⋯⋯⋯」
いつから。
いつからこの男とこんなに穏やかに言葉が交わせるようになっていたのか。
いつからこの男は自分の前でこんな静かな笑顔を見せるようになったのか。
いつから⋯⋯。
京は庵の横顔を盗み見る。
この男と共にオロチを斃したあの大会の終盤でさえ、自分たちの間にこんなぬるい空気は存在していなかった筈だ。このまま啀み合うだけの関係ではいられないだろう何かを予感させる気配は確かにあった。でもそれは、ここまで発展したものではない。ひとつ誤れば、まったく別のベクトルを向いていたであろう、ひどく切迫した分岐点にいるのだという、その自覚しかなかった。
あの頃の、行方のおぼつかない気配が、一体いつこちら側へと方向づけられたのか。この男との接触を断っていた二年半の空白だけがその要素だと信じるには、あまりにも説得力がなくて。
「主役が長く席をはずしていてはまずい」
京の視線に気付いたのか、顔を上げて振り向いた庵が宴席へ戻るよう促す。
「じゃあおまえも一緒に戻ろうぜ」
自分に向かって自然に差し伸べられた男の手。庵は気付かぬふりで、先に行くよう京をせかす。そして彼の後を追うかたちで庭を離れた。
前を行く京の体側で自然に揺れる長い腕。
この手を取ることが、自分にはもう二度と許されない。
庵はそっと背後の庭を振り返る。
この季節が巡り来るたび、自分は今日という日を思い出すだろう。
朧な月も、夜桜も、あの舞も、すべてを嫌いになるのだろう。