葬儀の日は、朝から小雪の舞う生憎の空模様だった。
低音の読経が流れる斎場の一室では、黒いスーツに身を包んだ庵が喪主の席に就いている。次々と訪れる弔問客を相手に、彼はそつ無くその任を務めていた。
庵の隣の席には、泣き腫らした赤い眼をして、膝の上でハンドタオルを握り締め俯いている蒼子の姿がある。蒼子は庵とよく似た、目元の涼しい面立ちの娘だった。今は、切り揃えられた射干玉色の前髪が、腫れた目蓋に濃い陰を落としている。
「庵様⋯⋯」
弔問客を座敷へと通す案内役が耳元で囁く低い声に、それまで顎を上げてじっと正面の壁を見据えていた庵がゆっくりと首を回した。自分の前へと新たに歩み来る男の顔を見留め、それまで微動だにしなかった表情が僅かに動く。
歩を止め庵の前に座り、見慣れぬ他所行きの畏まった貌で、
「この度は突然のことで⋯⋯」
と、母親の静に教え込まれたのだろう口上を他人の言葉で語り始めたのは、草薙家を代表して弔問に訪れた京だった。
彼はその表情で、大丈夫かと庵に問いかける。
庵もまた型通りの挨拶を口に出して返しながら、大丈夫だと瞬きで頷き返した。
京はそれを確認した後、膝頭を動かして蒼子の方へも顔を向け、不似合いな程の丁寧さで一礼してみせた。そして改めて座り直し、一度遺影を見上げてから一呼吸置いてすっと立ち上がる。
廊下へと大股に出て行く男の背を、庵の無意識の視線が揺れながら追いかけていた。
焼香を終えた京は八神家をすぐには辞さず、そのままふらりと母屋の調理場へ顔を出した。通夜に列席しないことを家人に伝えるためだ。
「あら、草薙」
「神楽⋯⋯おまえも来てたのか」
調理場の入り口で京に声を掛けて来たのは神楽ちづるである。
黒の紋付きを襷掛けにし長い黒髪をひとつに束ねて、ちづるは八神家の女性たちを指揮し機敏に動き回りながら調理場を切り盛りしている最中だった。おそらく彼女は既に焼香を済ませ、喪主への挨拶も終えているのだろう。
ちづるは側にいた年配の女性に今後の指示を与えると、暫くその場を任せると言い置いて、京を誘い調理場を出た。
「草薙、あなた通夜には?」
京が調理場に何をしに来たのか知っていたような口調でちづるが尋ねる。
「俺は出ねえ。⋯⋯おまえは出ンのか?」
と、京が問い返せば、
「いえ、わたしも引き上げるわ。でも通夜の賄いの準備だけは、ね」
女手が足りない八神家を慮ってちづるはそう言った。だが故人と親しかったとは決して云えない彼らだった。
京がちづるに付き従う形で足を向けたのは、今夜には通夜の会場となる和室の広間である。
室内には長机と座布団とが整然と並べられていた。その座布団の中からちづるは2枚を抜き出し、火鉢の置かれた中央へと移動させる。そしてその1枚を指して京に座るよう促し、自分もその真向かいに腰を下ろした。
襷をするすると手慣れた仕草で解きながら、
「その後どうなの? 八神の様子は」
と、尋ねたちづるに、
「相変わらず⋯⋯かな」
京は俯き気味に首の後ろに手をやりながら、歯切れ悪く答えた。
『その後』
ちづるの言葉が指しているのは、KOF97終幕直前に暴走し、京との戦いに敗れて倒れ、長く眠り続けていた庵が意識を取り戻して後のことだ。
「そう⋯⋯」
小さく相槌が打たれ、そこで会話が途切れた。
ちづるは京にとって、庵の現状を語り相談ができる唯一の相手だ。しかし、今は彼の何を話し、何を助言されたいのか判らない。そして庵に関すること以外に、彼女としたい話もなかった。だから黙った。
ちづるの方は庵を目覚めさせる行為の一端を担った者として、彼の現状をもっと詳しく知りたかったのだが、京の態度を見、それ以上彼の口から自然に話を聞き出すことは無理だと思ったらしい。
「先程彼に会って挨拶して来ましたが、随分落ち着いているようでしたね」
そう言って話の接ぎ穂を作った。相変わらず固い彼女独特の口調が、けれど今の京には心地いい。
「まさか感情が欠落しているわけではないのでしょう?」
大真面目に訊いてくるのが可笑しくて、京は思わず苦笑いする。
「それはねえよ。確かに感情の起伏は乏しいけどな」
――ああ、でも⋯⋯。
「そういや笑ったことはなかったか⋯⋯」
怒ったこともないな。そう思い至って京は顔を顰めた。
それでも京と躰を重ねるのを快いと言い、苦痛を訴えることはある。
「まあ昔のあいつに比べたら、感情がなくなったって思えるくらいには違って見えるかも知んねーな」
そうして結論を出した京の口からは、呼び水を得たようにするする言葉が溢れはじめた。
「あいつに俺は必要なかったんだ、ホントは」
京はぽつりと言う。
「あンとき俺があいつのこと無理に起こしたりしねえで、もういいんだ、ってあいつを解放してやってれば⋯⋯あいつは簡単に逝っちまえたんだよ、多分」
何の迷いもなく、彼岸へと。
彼はきっと晴れ晴れと笑って、断崖へと続くその一歩を踏み出したに違いない。
奈落へと向かい。
幸福(しあわせ)そうな笑顔で。
振り向きもせずに。
見たことなどないその柔らかな笑みまでが、京には何となく想像できる。
今でもときどき思うのだ。
「その方が幸せだったんじゃないか、って」
――俺は余計なことをしたのかも知れない。
そう思わなかった訳じゃない。思わない訳じゃない。
「でもな、もう俺はあいつを引き留めちまったんだ」
それが現実。過去は戻らない。いまさら手を離すことなど出来もしない。
「エゴだよなあ」
――手放せないのは俺の方なんだから。
京が自虐的な笑みを見せた。
「⋯⋯⋯⋯」
この男は、いつからこんな表情が出来るようになっていたのだろう。いつの間に、後悔などという感情を体感してしまっていたのだろう。
ちづるは痛ましい情景を見るような眼で、目の前の男の貌を見遣った。
口角を歪めたまま、伏せた目線で言葉を継いでいた京だが、ついには目蓋を閉じてしまう。
「後悔⋯⋯しているのですか」
「何をだよ」
訊き返さなくても、本当はちづるの言いたいことなど判っていた。だから顔を上げた京の口調は怒っていた。
「八神を目覚めさせたことを、です」
京の心情に気付いたちづるだったが、彼女は敢えて言葉を続けた。京の返事も予測済みで。
「するかよ」
憤然と答えるのは、それが図星だからだ。
そっとしておいてやれば良かったのかも知れない。
その想いがなくはないのだ。
でも後悔を認めたくない。己が取った行動を京は否定したくなかった。正しかったのだと言い切れなくても、決して間違っていたとも思わないから。
「⋯⋯それともナニか? おまえは間違ってたって言うのかよ」
庵を目覚めさせたことを。
ちづるは首を振った。
「わたしはあのときあなたの判断にすべてを託したわ。でもわたし自身、彼には目覚めて欲しかったのよ」
それが庵の意志を無視した願望かも知れないと思いながら、それでも尚。
「いちばん狡いのはわたしかも知れないわね」
京に決断を委ね、更には八神庵の人生すべてを京ひとりに押し付けて。
「それでも、彼にこの現実の中で生きて欲しいと願っているのだもの」
京が乱暴な口調で言った。
「安心しろよ。投げ出したりしねーから」
自分で選んだ道なのだ。放棄などしない。
「それによ、俺な、あいつが病室で寝てるときに気付いたんだ」
「⋯⋯?」
「自分が片輪(かたわ)なんだって」
あの男がいなければ、いかに自分が不完全な人間であるのか、京はあのとき思い知った。
それはたった一個のピースだ。
なのに、それだけはどうしても失くせなかった。似た形の欠片はいくらでもあったのに、その場所にだけは、どうしてもほかのピースを嵌められなかった。代用品でごまかせなかった。
草薙京が草薙京であるために、それだけはどうしても不可欠な欠片だったのだ。
庵がいなくなったら。
――そのとき俺は片輪になる。
「覚悟を決めたっておまえに言ったとき、俺はまさかあいつが今みたいな状態で目覚めるとは思ってなかった。でもな、あのとき決めた覚悟ってのは、あいつの人生を背負うってことだったから⋯⋯」
あのときのそれは、庵から向けられる憎しみを一生受け止め続けてやろうという覚悟だった。あの男が草薙京への憎しみを生きる糧にできるのなら、それでいいと思っていた。
「だったら、それがどんなあいつであっても、どんな人生であっても同じことだろ」
だから最終的には腹を括ることができた。
「⋯⋯人ひとりの人生背負うなんてよ、そりゃあ大層な真似だと思うぜ? けど、無理だとも思わねえからな」
大層ではあっても、大それてるとは思わないしな。そう言った京の顔は王者のそれだった。
「俺はぜってえ諦めねえ。一生付き合ってく覚悟はできてる」
京の視線は真正面にあるちづるの顔を通り越し、その背後にある空を睨みつけている。その京に、ちづるは優しく言った。
「違うでしょう?」
「え?」
何が違うのか、と視線を向けた京に、ちづるは家族を慈しむような眼差しを向けていた。無鉄砲な弟を、はらはらしながら、それでも手を出すことなく見守る姉の気持ちというのは、こういうものなのかも知れない。
「あなたが背負うのは、八神庵の人生よ」
ただ人ひとりの人生を背負うのではない。京の背に委ねられているのは、他の誰のそれでもない、八神庵の人生だ。
ちづるは思う。
八神庵の人生は、全てが庵のものではない筈だ、と。その幾らか――もしかしたらその殆ど――は、元から京の人生の一部でもあった筈なのだ。庵は京という存在のためだけに、この世に生み出されたようなものだから。
だからこそ、京は庵を失えば片輪になる。ほかの何を失っても京は京でいられるだろうが、庵だけは別なのだ。
だから。
京にならそれを背負うことも出来るだろう。そして京でなければ不可能なのだ、庵の人生を背負うことなど。
「そうだな」
ちづるの言葉に京は素直に頷いた。
「俺は、あいつのためにあいつの人生背を負うんじゃない。俺は俺自身のために、俺自身の人生の一部としてあいつの人生も背負うんだな」
京の眼にはいつでも強い光が宿っている。その光を失わない限り、この男と彼は大丈夫だ。
ちづるは思わずこぼれた安堵の吐息を、微笑することで京から隠した。
弔問者の足が絶えた夜半、通夜の席が設けられた部屋に一族が集まっていた。しかし、古式懐(ゆか)しい作法に則(のっと)って故人を偲んでいる最中、庵だけがその場から席を外している。いま彼はひとり別室の霊前に座し、火の番をしていた。
庵の瞳に映り込むのは、霊前の2本の蝋燭に灯された小さな炎。
不意にその焔が大きく揺らめいた。
庵の背後の障子が音もなく開き、外から風が吹き込んだのだ。が、庵は振り向かない。その庵のピンと張り詰めた後ろ姿に、
「いおり」
いつの間にか耳に馴染んでいた、男の柔らかく暖かな声が掛けられる。その瞬間、庵の背が僅かにたわみ緊張を解いたように見えた。
「⋯⋯⋯⋯」
己の背後にいる人物が誰なのか、庵には振り向かなくても判っているらしい。庵がその男の氣を読み違えたことは、過去に一度としてない。そしてこの先もずっとそうだろう。
「お疲れ」
自分の掛けた労いの言葉に、漸く顔を上げた庵の憔悴した表情を目の当たりにし、京は小さな、けれど鋭い痛みが胸腔を走り抜けるのを感じた。それでも敢えて笑顔を造ってみせて庵の隣に腰を下ろす。そして腿の上に置かれていた庵の拳に黙って己の手を重ねた。
冷たく凍えた男の手の甲は、京の手の温もりにじんわりと熱を取り戻し始める。
音のない時間が過ぎていく。
と、ふいに庵が京の肩に頭を預けて来た。
「!?」
その、庵から甘えるという初めてかも知れない行為に京は一瞬驚き、けれどそれを意識させない素振りで、
「疲れたろ」
優しく問いかける。
「流石にな」
素直な反応。
葬儀など一生に何度も経験するものではない。慣れないことの連続で、庵は気疲れしているようだった。触れ合う京の躰から伝わる熱に酔うように、彼は暫し目を伏せる。
温かな沈黙。
そして、
「草薙」
「ん?」
「⋯⋯⋯⋯」
呼びかけて、何か言いたそうに自分の顔を見るものの、結局そのまま視線を逸らしてしまった庵に、
「どうした?」
京はごく自然な流れで誘い水を送ってやったのだが、
「いや⋯⋯」
尚も思い切れないでいるのか言葉を濁し、庵は口を噤んでしまう。
ここで黙らせてはいけない。京は強く思った。珍しく庵が自分から何かを訴えようとしている。
「言えよ」
キツイ口調にならないよう留意しながら京は、煮え切らない庵の気持ちを辛抱強く誘導する。そして、
「⋯⋯薄情だと⋯⋯思ってな」
頑なだった彼の口から漸く引き出せたのは、吐息に紛れたそんな言葉で。
「薄情?」
思わず訊き返した京に、庵はこう応じた。
「父が倒れたと聞かされたときも、息を引き取ったときも、俺は⋯⋯」
心が動かなかった――。
あまりに突然のことで驚いたのは確かだが、そこに哀悼の感情は伴わなかったのだ。驚愕以外の感情を、己の裡に見い出すことが庵には出来なかった。自分がこれほど冷淡に生まれついているとは、正直思っていなかった。死に水を取れば、いくらなんでも泣くだろう、と。そう思ったのに。
けれど。
涙は一筋も頬を伝わず。
自分には、人の死を悼むという感覚が備わっていないのだろうか。
「俺はどこか、面妖(おか)しいのかも知れんな」
――人としての欠陥品。
長い間自身の死があまりにも身近にあり過ぎたために、世間一般の死というものに対する感覚までが麻痺してしまったのか。
「そんなこと⋯⋯」
慰めでも気休めでもいい、何か言葉をかけたくて京が口を開いたとき、ふたりは遠くから近付いて来る人の足音に気付いた。
「やべっ」
身を隠そうと、京は腰を浮かせる。
「どうした」
「あ、いや⋯⋯」
自分の行動を訝しむ庵に詳しく事情を説明している暇はなかった。しかしここには身を隠す場所もない。
――万事休す。
京が観念して身を竦め、ぎゅっと目を瞑ったところで、ふたりの背後の障子がするりと開いた。
「お兄様、そろそろ替わりましょう」
そう言いながら顔を覗かせたのは、庵と火番を交替するためにやって来た蒼子だった。彼女は京の姿を見留めると、あら、という表情になった。蒼子の両目は泣き過ぎたせいかまだ薄赤く腫れている。
「お邪魔、してます⋯⋯」
蒼子の顔を見上げ、急に畏まって頭を下げる京に、彼女は小さく吹き出す。それに釣られたのか、庵の表情も少し和らいだ。
「草薙様いつの間に⋯⋯。一体どこからお入りになったのです?」
「や⋯⋯あの⋯⋯」
「まさか庭からおいでになりましたか」
憶測を口にした蒼子に、京は首筋を掻きながら、
「うん、まあ⋯⋯」
困ったように頷いて見せた。庭の垣根を乗り越えて、京はこの屋敷に侵入したのだ。用心深く、雪の上の足跡は消して来た。因に履いていた靴は縁の下に隠されていたりする。
てっきり正式に訪問したのだとばかり思っていた庵が、京の横顔を無言で凝視してくる。その視線に気付き、
「俺がいると何かと面倒だろ?」
京は悪びれず言い訳した。
宗家の当主が居残っていては、例えそれが京の本意でないにしても、否応無く分家である八神家の人間に気を遣わせてしまう。それを懸念した京は、ちづると別れた後一旦この屋敷を離れた。そして最寄りの道の駅で時間を潰してから、家人に気取られないよう、再び今度は忍んで来たのだ。
だから今夜はこっそりおまえの部屋に泊めて欲しいんだけど、と付け加えた京に、先の不審な挙動の理由も理解したらしい庵はただ黙って首肯した。
「今日はお疲れでしょうから、ゆっくりお休みになって」
通夜の方はもういいから、との蒼子の言葉に送られ、ふたりは庵の部屋へ引き上げた。
離れにある庵の部屋に布団をふたつ並べて敷き、しかしどちらからともなく彼らはひとつの布団に身を伸べた。
ふたりきりになってしまうと、庵の周囲に漂う空気がひどく不安定になっていることを京は強く意識させられる。
やはり引き金は引かれてしまったのか――。
かつてないほどに庵の感情が揺れ動いている。そのことに京は気付いていた。氷が溶け出したことを感じる。きっと父親の死が、彼を現実の嵐の中に引きずり出したのだろう。庵は今、此岸にいる己という現実と向き合いつつあるのだ。
抱き寄せる京に逆らわず、大人しく彼の腕の中に収まっている庵は、京の胸元に鼻梁を押し当てて目を閉じ身動ぎもしない。だが彼が眠っていないことが京には判っていた。
だから、いつもなら先に寝入ってしまう寝付きのいい京が敢えて眠らず起きていて、さっきからずっと庵の髪を撫でている。
そうして半時も過ぎただろうか。それでもまだ眠った気配のない庵に、
「眠れないのか⋯⋯?」
髪を慰撫する手は休めないまま、京は囁くような声で尋ねた。
「⋯⋯⋯⋯」
その問い掛けに庵が目を開け、京の顔を見上げるようにして顎を浮かせた。そして、
「蒼子は⋯⋯」
と、口を開いたものの、短い呟きだけで言葉を途切れさせてしまう。
「彼女がどうしたって?」
何でもない口調で、先を促すために京は問い返す。そして身を寄せ合っている庵の背を軽く叩き、その切れ長の瞳を見詰め返した。
庵が一呼吸おいて言葉を繋ぐ。
「蒼子は⋯⋯あいつは⋯⋯ずっと泣き通しだった」
庵の言ったとおり、この日蒼子は人前であることも憚らず、嗚咽を零して泣き続けていたのだ。
「なのに俺は⋯⋯」
庵は我が身を振り返る。
「もう考えるのよせ」
庵の言葉の先が容易に想像できるから、京はその続きを言わせまいと、会話を切り上げにかかった。
「だが⋯⋯」
「今日はもう遅いんだし。そうでないと明日おまえが辛いだろ?」
明日もまだ、喪主としての庵には、こなさなければならぬ務めが幾らもあるのだ。
「⋯⋯⋯⋯」
もの言いたげに視線を泳がせる庵に、京は邪気のない触れるだけのキスをする。時が時なだけに、もし庵が拒絶するなら勿論それ以上のことをするつもりはなかった。
ただ――。
その重い思考から、庵の意識を逃がしたい。今だけは庵にそれを忘れさせたい。その一心で。
多分『それ』を考え口にするのは、庵にとって必要なことであるのだろう。京にもそれは解っていた。でも今はまだ意識させない方がいい。そう思ったのだ。もっと時間を置いて、前向きに物事を考えられるようになってからであれば、いくらでも話に付き合うが。
でも今夜はまだ――。
唇を放し、京は腕の中の庵の表情を伺う。庵自身やはり迷いがあるのか、彼は困惑の表情で京を見つめていた。
「もう寝ようぜ」
再び就寝を促して、京は庵の躰を抱き直す。と、それまで庵の胸元に折り畳まれていた彼の両腕の内の一本が、京に向かって伸びて来る。京は迷わずその手を取った。
「おやすみ、庵」
「⋯⋯おやすみ」
ふたりはそのままの態勢で、いつしか眠りの淵に沈んでいた。
明け方、かなり早い時間に京は目覚めた。しかし昨夜抱き締めて眠った筈の庵の姿が腕の中にない。寝返りを打ってうつ伏せになると、その姿勢のまま布団の中で顎を上げ、京は枕元に置いた自分の腕時計を見遣った。
文字盤に浮き上がるデジタル数字は、起き出すにはまだ早過ぎる時刻を示している。
庭に面した廊下と部屋とを隔てる障子の向こうはひどく明るいが、それは朝陽のせいではなく庭一面に降り積もる雪のせいだろう。外の景色が判るということは、昨夜には閉められていた雨戸がもう開けられている証拠だ。八神家の人間は皆、既に起き出しているのだろうか。
――庵の奴、トイレかな⋯⋯。
まだ半覚醒の寝ぼけた頭でそんなことを考え、京は耳を澄ませてみた。が、一向に足音は聞こえて来ない。一旦意識し始めると急に不安が募って来た。京は布団から抜け出し、庵に借りた夜着の上から自分のダウンジャケットを羽織って障子を開ける。一刻も早く、庵の姿を目にして安心したかった。
部屋を出て廊下に立った途端、一際目に鮮やかに飛び込んで来たのは紅色(くれない)。
京は目映いものを見るように思わず眼を眇めた。
赤い髪が白一色の景色に異様に映えていた。それは雪の降り積もった庭に佇む庵の後ろ姿だった。彼が上着も羽織らぬ寝間着姿だと気付き、更には裸足だと判って、
「いお⋯⋯ッ」
咄嗟に叫びそうになった自分の口を、京は慌てて自らの手で塞いだ。危うく家中の人間に自分の存在を知られてしまうところだった。
とは云え、
――何やってんだ!!
ともかく自分も庭へ出なければ。しかし庵の元まで行こうにも、縁に履物が見当たらない。
仕方なく京は、昨夜庵の部屋に移動させておいた自分の靴を急いで取りに戻り、それを履いて庭に下りた。飛び石の位置も判らなくなるほどの深い雪に足を飲まれながら、どうにか転ばず庵の側まで歩み寄る。
「庵⋯⋯その足! ⋯⋯靴はどうしたんだよッ」
押し殺した声で、それでも必死に言い募る京の言葉が聞こえていないのか、庵は精気の薄いぼやけた表情であらぬ方向を見遣っている。
薄着の肩を抱き寄せれば、一体いつからこの場にいたのか、本気で詰問したくなる程に冷え切っていた。
「いおり⋯⋯」
温かな腕に包まれて耳元で囁かれ、ようよう庵が京の存在を認知する。
「ああ、起きたのか⋯⋯」
そんな的外れな言葉だったが、それでもやっと返って来た庵からの反応に、京は一先ず安堵に胸を撫で下ろす。
「草薙」
京の腕の中に収まったまま、不意に庵が言った。
「おまえは俺の母のことを知っているか?」
「いや⋯⋯」
京は首を振る。
「もう亡くなってるってことしか聞いてねえ」
静から教えて貰ったことを忘れた訳ではないのだが、敢えてここでは口にしなかった。
それを受け、庵がとつとつと語り始めた。
「幼い頃、俺には入ることを許されていない場所があってな。それが⋯⋯あそこに、」
と、朝日の昇る方角を指さし、
「茅葺きの屋根が見えるだろう? あの建物⋯⋯東の離れと呼ばれる場所だ⋯⋯」
そこに誰かが住んでいるのだということには、幼いながら庵も薄々気付いていた。毎日決まった時間に膳が運ばれて行くし、衣類の行き来もあったから。そしてその着物の形や柄から、そこで生活しているのが既婚の女性であることも推測できていた。
いつのころからか、庵はその離れへ行ってみたいと思うようになった。今にして思えば、そこに大した理由はなかったのだろう。きっと子供故の好奇心程度で。ただそれは、自我を抑制されて育った庵が自ら何かを求めた最初だった。
ただ、その離れへ行くためには、使用人の控える部屋の前を必ず通らなければならない。だがその部屋には絶えず数人の使用人が詰めていて、まず間違いなく見つかってしまう。そうなれば、幼い子供の冒険は簡単に頓挫させられてしまうだろう。望みを完遂することは困難に思われた。
「いくつの時だったか⋯⋯俺はこの庭伝いにその部屋へ近付くことを思いついた」
そして、
「雪の吹雪く日に、それを決行したんだ」
それは、誰も庭へ出ようなどと思わないくらいの寒い寒い冬の日だった。日頃大人たちの言い付けに柔順な庵が、よもやそのような突飛な行動に出るとは誰も想像しなかったのだろう。常に庵の側にいた目付役の男も、その日は彼の挙動に殆ど注意を払っていなかった。
それを幸いに、庵は大人たちの目をうまく盗み、事前に見つけておいた垣根の壊れた場所から、子供ひとりやっと潜り抜けられるくらいの穴を通って、ついに離れの庭へ侵入することに成功したのだ。
そのとき、自分が何を期待して小さな胸を高鳴らせていたのか、今となっては庵本人にも思い出せない。ただドキドキと、厳しい稽古を終えた後のように激しく脈打っていた己の心臓の音だけは、今でもはっきりと覚えている。
京は黙って庵の話に聞き入っていた。その手は庵に暖を与えるため、始終彼の背を摩っている。
庵は話し続けた。掬っても掬っても後から後から沸き出す泉のように、その言葉は途切れることがなかった。なにかを言い残そうとするように、病的なほどの熱心さで庵は過去を語っていく。
「誰かに見咎められるんじゃないかと思うと鼓動が跳ね上がって痛いくらいだった」
垣根にひっかけたせいで髪は乱れ雪にも塗れ、全身を白く染めたまま、庵はせまい庭を突っ切って離れの縁から屋内へと息せききって這い上がった。使用人が出て来ないよう祈りながら、迷うことなく奥の部屋を目指す。東の離れの造りが対である西の離れと同じ構造だということは予想していたから、離れの住人がどの部屋にいるのかも、庵には大体の見当がついていたのだ。
そして――。
奥の部屋の障子を開け放った庵は、そこで若い女の姿を見た。
冬だというのに彼女は襦袢しか身に着けておらず、その着衣の真っ赤な色と赤く染められた髪が、明かりも灯さぬ薄暗い部屋の中で庵の目を刺した。
闖入者に気付き一瞬驚いた貌をした女は、目の前の情景の異質さに言葉もなく立ち尽くしていた庵の側へ、這うようにして近付いて来た。あどけない、童女の笑顔で庵の瞳を覗き込んだ細面の色白な女の虹彩は、
「俺のそれと同じ、血を薄めたような朱い色で⋯⋯」
それは薄暗い部屋の中でもなぜか判然としていて。その眼に射竦められて庵は総気立ち、身動ぎすることも出来なかった。
「怖かったんだ」
目の前の女の様相と室内に満ちるただならぬ気配に、当時の庵の胸裡に沸き起こったのは恐怖という感情。
「実の母親を見て、俺は怖いと思ってしまった⋯⋯」
「おまえは知ってたのか⋯⋯? それが自分の母親だってこと」
庵は首を横に振る。
「母は俺を生んですぐに死んだと、教えられていたからな」
「だったら⋯⋯!」
――それは仕方のないことではないか。
しかし言い募ろうとする京の言葉を遮って、
「俺は気付けなかった。それが俺の母だと」
感情の死んだ庵の声が続ける。京は口を噤んだ。庵は今反論を望んでいない。そして、おそらく京の存在すら理性では知覚していない。
『遊ぼう』
幼子の口調で女が言った。そして、
『名前は? 名前は何て云うの?』
女の瞳に魅入られ、教えて欲しいとねだられるまま、虚ろな思考で庵が己の名を舌に乗せた直後、
『――――――!』
女は聞くも悍(おぞ)ましい絶叫を放ち、その細い両腕のどこにそれ程の力があったのかと驚かせる強さで、庵の躰を突き飛ばした。
自分の背中が障子の枠にしたたかに打ち付けられる痛みを感じ、獣の咆哮のような女の声を聞いたのを最後に、庵の記憶は途切れている。
「今ならあの絶叫の意味が俺にも解る。母にとって俺は、忌むべき存在でしかなかったのだ、と」
壊れた再生機のように庵はしゃべり続けた。
いおり。
それは恐怖の象徴。
望まないものを意味する言葉。
それはわたしを不幸にする赤子の名。ひとを殺すことを望まれてこの世に生まれ出で、わたしのこの両腕(かいな)から取り上げられてしまう、我が息子の⋯⋯。
「蒼紫の炎をもつ俺を、彼女は化け物だと言ったんだ」
次に気が付いたとき、庵は母屋の自分の部屋で布団に寝かされていた。異様な声と物音とを聞き付けて駆けつけた家の者が倒れていた庵を発見し、母屋まで運び出したのだ。
「俺は暫く満足に口も利けなかったそうだ」
精神的なショックが大きすぎたのだろう。庵の受けた衝撃は言葉を忘れさせるほどに強く、その後彼は熱を出し、意識朦朧と数日間寝込んでしまった。
京の腕の中に、庵の言葉は抑揚なく淡々と落ちていく。
「俺は高熱の中で彼女のことを忘れた」
『化け物』
その一言と、それを叫ばせた事実とを、意識の領域外で忘れたかったのだろう。
その庵が再び母である女性を思い出すのは、それから数年後のことになる。
「ある年、八神の家から葬式を出すことになった」
遺影のない奇妙な葬儀だったと庵は記憶している。外部(そと)からの弔問客はひとりもなく、まるで密儀だった。
「どうしてなのかは判らない。だが⋯⋯かつて見たあの若い気狂いの女が死んだのだと、俺は悟った」
それは直感。そして彼女が自分の実母なのだと、そのとき庵は唐突に理解した。その直感が確信に変わったのは、喪主の座についた父の姿を見たときだ。
死者は彼女。
そして己の母。
だがそれを知ったときも庵は涙を零せなかった。悲しいという感情は、自分の心のどこを探しても見つけ出せなかった。そんな自分がひどく疎ましかった。
「ただ⋯⋯いつか自分もああなるのだろうとは思った」
彼女の血を引く身である以上、いつか自分も狂うのだ、と。その庵の想像は、発狂という形ではなかったが、オロチの血に飲まれ暴走するという形で現実のものになる。
「俺を生まなければ、母は発狂などしなかったんだ」
悔いる気持ちだけは確かに存在するのに、悲しむことが出来ない。哀しいという気持ちが解らない。
「あんな若さで、あんなふうに死ぬこともなかった」
おそらく薬漬けの生活をしていたからだろう、火葬場で拾おうとした骨は、箸で摘まんだ先から跡形もなく崩れ、骨壷に収められたのはただの白い粉だった。
幼い息子が無邪気に蒼紫の炎を操る姿を眼にして、彼女は徐々に精神のバランスを崩して行ったのだという。庵はそのことを、当主になってから聞き知った。そのときからずっと思っていた。
――彼女を殺したのは⋯⋯。
「母を殺したのは、俺だ」
「⋯⋯⋯⋯」
昨夜、父の葬儀を営みながら庵が想いを馳せていたのは己の非情さのことだけではなく、そこから呼び起こされた過去の記憶――若くして死んだ己の母親のこと――だったのだと、このとき京は遅蒔きながら理解した。
それまで夢うつつに此岸で漂うだけだった庵の意識に現実を突き付けたのも、この母親であるに違いない。
何と声を掛ければいいのか判らず、京は庵を抱く腕に力を込める。そして、
「もう部屋(なか)に入ろうぜ? な、庵」
そう口にするのがやっとだった。
屋内に戻っても、凍え切った庵の躰は容易には体温を取り戻さなかった。特に裸足のまま雪を踏んでいた足先は放って置けば凍傷になるのではないかと疑う程で、血行が滞り変色しかけていた。
京は湯を貰って来るべきかどうか判断に困る。
けれど、自分の存在が家人に知られることを回避したかったのも勿論だが、それ以上にいま庵を一瞬でもひとりにすることが躊躇われ、結局京は彼の側を離れることが出来なかった。
庵はと云うと、躰が暖まるまで出てはいけないと京に諭され、布団の中に押し込まれて大人しくなっている。
京はその庵の足元に座り、布団の中へ手を差し入れた。己の体温で暖を与えようと思ったのだ。手初めに庵の爪先を手のひらで包み込み、しかし不意にあることを思いついて、京は手にしたそれを少しだけ持ち上げた。
「?」
何をするつもりなのかと不安そうな貌をした庵の足の指先に、生温かく濡れた感触。息を飲み驚愕に目を見開いた彼の視線の先には、布団から僅かに覗いた庵の足指を口に含んでいる京の姿があった。
「!!」
庵の足指は京の口腔に誘い込まれ熱い舌に包まれて、一本一本丁寧に温められて行く。不用意に抗うことが出来ず、庵は小刻みに震えながら必死でその行為に耐える。
すべての指を温め終えて京が彼の足を解放した頃には、爪先だけでなく庵の躰全体が熱を湛えていた。
だが京は、すべての指を温め終えても尚庵の足を解放しようとしない。京が指の股を舌で舐めた途端、庵の脚が反射的にピクリと跳ねる。
「草薙!」
押し殺した、しかし切迫した声が京のそれ以上の行為を制す。
「嫌か?」
顔を上げ、庵の表情を窺う京に、
「やめろ⋯⋯」
庵は低く呻く。
「どうして」
庵の戸惑いを他所に、
「ほら、おまえだってその気になってるくせに」
そう言ったときには既に京の悪戯な指が熱の中心に伸ばされた後で、庵の微かな変化は確かめられていた。
「⋯⋯っ」
庵は咄嗟に唇を噛む。あんな愛撫を施されて、その気になるなというのが土台無理な注文ではないか。
「何が気に入らない?」
「⋯⋯⋯⋯」
庵は京から視線を外した。
「まわりに聞こえちまう?」
京の問いかけに、庵は正直に首を横に振る。その心配はなかった。今この離れを使っているのは庵だけだから。以前は同じ離れにあった妹の部屋も、庵が当主になったのを機に別棟に移されている。
「なら平気だろ?」
京は庵の上体を抱き起こした。
「だが⋯⋯」
それでも尚思い切れない様子の庵に構うことなく、京は布団の中へ潜り込んだ。そして庵の寝間着の帯を解いて前をはだけてしまうと、京は自らも諸肌脱ぎになり、素肌の胸を触れ合わせた。
ひとの体温に安堵したのか、庵の躰から余計な力がふっと抜けた。
心音が聞こえる――。
「いおり⋯⋯」
名を呼ぶことで庵に顔を上げさせ、京は唇を合わせた。舌先を伸ばし、その先を誘う。閉じていた庵の歯列が上下に開き、京を招き入れる。京のシャツの背を握る彼の手は、拒絶ではなく享受を示す仕種。が、京にはそこで身を引いた。
「続きは帰ってからにしようぜ」
約束をひとつ。
ここに残して行ってやるよ。
そうすれば庵に、あの部屋に帰らなければならぬ正当な理由が出来る。
庵が躊躇いを、戸惑いを抱えたままでも。父のために涙を流せなかったことに罪悪感を感じ、母の記憶に縛られていても。
約束があれば。
――おまえは帰って来られるだろう?
「⋯⋯いいのか、おまえはそれで」
「それ以上は反則」
それ以上言われたら止まれなくなるからな、と言葉の先を切り捨てて、
「まだおまえにはこっちでやんなきゃいけないこと、残ってんだぜ?」
しごく真っ当な返事をし、京は庵の躰を離す。庵の顔から、前(さき)に庭で見せたような危うさはもう消えていた。そのことを確認して、京は帰り支度を始める。
「なあ庵。お袋さんのこと、どうして俺に話したりしたんだ?」
荷物を手に廊下へ出た京が庵に尋ねる。
「⋯⋯どうしてだろうな」
京にだけは、本当のことを、本当の自分を、すべて知っていて欲しいから、か。
この世に何かを残したいから、か。
庵は自分の胸の裡を覗き込みながら、うっすらとそう思った。
「向こうへは初七日を過ぎてから帰ることになると思う」
自らも衣服を着替えた庵は見送りのために庭へ降りて、目の前の垣根の向こうへ荷物を放り投げた京に帰りの予定を伝えた。
「解った。戻って来るときには連絡してくれよ? 今朝の続き、楽しみにしてるから」
そう言って京はニヤリと笑う。
「⋯⋯随分と長いおあずけだな?」
片頬を歪めて挑戦的に笑い返した庵の首を、
「それは俺のセリフだろう」
と、京はやんわり引き寄せ、
「じゃ、おまえの部屋で待ってる」
約束だからな、と今度は真顔で耳元に囁くと、次の瞬間にはもう垣根を身軽に飛び越えて、表通りの雪の上へ綺麗な着地を決めていた。
多分、不安はこのとき芽生えたのだ。
庵が笑った。あの頃のように。押し付けられた何物かに埋め尽くされた胸で。
それでもあいつは帰ってくる。
今ここで自分にできることはもう何もない。
「⋯⋯⋯⋯」
京は一度だけ屋敷を振り返り、それから歩きだした。