『赤の原罪・後』 R18


 京を見送ったその日の午後、庵はひとり屋敷の廊下を歩いていた。行き違った親族のひとりが、慌ててその背を呼び止める。庵が向かう先には東の離れしかないのだ。
「庵様、どちらへ参られます?」
 男は訊くまでもないことを問う。案の定、庵からは、
「東の離れだ」
 という答えが返って来た。
「ですが、あそこは⋯⋯」
「いいんだ」
 東の離れは今も手入れはされているが、かの人が亡くなってから使用はされていない。そのことは庵も知っている。
「俺が出て来るまで誰も近付けるな」
 言い置いて、庵は離れの奥の部屋へ入った。
 あの日と同じように後ろ手に障子を閉め、何もない部屋の中央へと歩を進める。そしてその場に座した。
 目を閉じれば、昨日のことのようにあの日の情景を思い出せた。
 彼女の姿も、声も、匂いも、すべて。
 それらが今すべてこの場にあるかのように。鮮明に。リアルに。
「母様」
 目を閉じたまま、あのとき呼べなかった母を呼ぶ。
「母様」
 ――しんであげればよかった。
 あの人の目の前でこの喉を一突きにして。
 なぜあのとき思いつかなかったのだろう。
 庵は迂闊だった自分を嗤った。
 死んで上げれば良かったのだ。そうすれば、あの人は正気を取り戻したかも知れない。
 庵は目を開けた。
 何もない畳の上を手のひらでそっと撫ぜる。指の腹で畳の目を何度もなぞった。
 あの人の好きだった色にこの身を染めて、死んで上げられたら良かった。
 そう、この畳一面を真っ赤な血で染め上げて⋯⋯。
 その情景は彼にとってひどく甘美な想像だった。
「おはなしがあるのです」
 狂気と正気の差など紙一重。
 正気という薄っぺらな色紙一枚。ひらりと裏返せば、そこに塗られているのは狂気の色だ。
 庵はうっすらと微笑んだ。
「母様、どちらにおいでですか⋯⋯」






 その頃、蒼子は庵を探していた。昼食の時間になったのに、いつまで経っても兄が居間に現れない。離れの部屋を覗いたが、そこにも彼はいなかった。
「兄様を見かけませんでしたか」
 屋敷内で出逢う片端から訊いて回っていた彼女に、
「東の離れにおられると思いますが」
 先刻、廊下で庵とすれ違った男が答える。
「東の⋯⋯?」
「はい」
 胸騒ぎがした。蒼子は礼を言うのもそこそこに足を早めようとする。
「あ、蒼子様」
 男は慌てて蒼子を呼び止めた。
「出て来るまで誰も近けぬように、と」
 そう仰せつかいました、と追いかけて来た言葉が更に蒼子を不安にさせた。
「わかったわ」
 そう答えながら、蒼子はカーディガンの胸元を引き寄せ小走りに離れへと向かった。
 喪が明けるまでは地味で質素な生活を送るのが慣例だ。勿論服装もそれなりの格好をする。しかしこの日は朝からずっと冷え込みが厳しく、蒼子は黒い衣服の上から赤いカーディガンを羽織っていた。
 それが、いけなかったのかも知れない。
「兄様!」
 切迫した声で庵を呼ばわりながら蒼子がその部屋の障子を開けたとき、彼は入り口に背を向けて正座していた。
「兄様、こんなところで何をしておいでです」
 上がる息を整えながら、はやる気持ちを押さえて蒼子が兄の背に声を掛ける。その声に、庵がゆっくりとした所作で振り返った。そして蒼子の姿を見留めた瞬間、
「母様」
 彼の顔はほころんだ。
「⋯⋯⋯⋯!」
 蒼子はぞっとした。
「どこに行っていたのですか。ずっと探していたのに」
と、問いながら微笑む兄の貌は幼子のそれ。
 背筋を怖気(おぞけ)が走り抜け、蒼子はその場で立ち竦んだ。
 が、次の瞬間、兄の元へ駆け寄ると、庵の両腕を掴み強く揺さぶっていた。
「兄様!?」
 蒼子は実母のことをよくは知らない。彼女には実母だと信じていた養母がいたため、本当の母親の葬式のときも、亡くなったのが己の母だとは疑いもしなかったのだ。成長してから真実を知る機会を得たが、けれど母親の死に様までは詳しく聞かされていなかった。
 だからこそ、彼女には庵のようには亡霊に飲まれる要素がなかったのだろう。
「兄様! どうしたのっ」
 蒼子は庵の意識を呼び戻そうと、必死に言葉を連ねた。けれど。
「やっと迎えに来て下さった⋯⋯」
「兄様! しっかりして!!」
 自分の言葉では庵の耳に届かない。混乱の中で、それでもその事実に気付いた蒼子は本能的に言葉遣いを変えた。
「駄目よ、<い お り>。あなたは⋯⋯あなたはまだこちらに来てはいけない⋯⋯」
 ――お願い兄様、正気に戻って!
 蒼子は思いつく限りの制止の言葉を口走る。言葉を考え選ぶ余裕はなかった。ただ兄の心に響く言葉を、と、それだけを考えていた。
『まだ』
 その単語に庵は反応した。
「母様、なぜ」
 なぜきてはいけないというの。
 もうそこへいきたいのに。
 もうそちらへよんでほしいのに。
 どうして、まだ、だめなの?
 蒼子に強く躰を揺すられながら、庵は幼心に一生懸命考えていた。そして。
 ――ああ、そうか。
 わかった。
 幼子は開眼する。
 まだあのやくそくをはたしていないから。
 だからだめなのでしょう?
 それなら⋯⋯やくそくをはたしたら、そちらへいってもいい?
 わらってだきしめてくれる?
 そうしてここにいてもいいっていってね。
 あおいひはもうつかわないから、だからもうばけものだなんていわないで。
 不意に庵の躰ががくりと力を失った。意識を失った男の躰は蒼子の腕の中へ倒れ込む。
「いお⋯⋯兄様?」
 崩折れた躰を抱き締めて、蒼子は声の限り叫んだ。
「誰か⋯⋯誰か――――――!!」
 蒼子の悲痛な叫びが屋敷中に響き渡った。
 翌朝、庵は何事もなかったように普段通りの様子で起き出して来た。家の者といつもどおりに接し、それまでと同じように会話して。だから、かろうじて保たれていた正気と狂気との均衡が、彼の裡で崩れてしまったことを八神家の者は誰も知らない。







 予告どおりに初七日を過ぎて東京に戻って来た庵は、あの日の饒舌が嘘のようにまた寡黙になっていた。せっかく現実に帰ってきたと思ったのに、彼は再び彼岸に憧憬を覚えているのだろうか。
 しかし、それまでの彼とは確実に何かが変化していた。
 漠然と感じる違和感がその根拠だ。京の中でその変化が確信に変わったのは、触れようとして伸ばした指先を庵にはっきりと拒絶された瞬間だった。
 葬儀の日までは、その躰を貪ることを、一度として拒絶されなかった。そしてあの日の八神家でも、庵は戸惑いは見せたが最終的には京を受け容れようとした。
 それなのに、いま彼は敢然と京を拒絶する。
 庵が、あの日の約束を果たしたくないと思っているらしいことだけは確かだ。
 何か心境の変化があったのだろう。
 ただ、その理由までは判らない。
 ――しばらくは様子を見るしかない、か。
 歯痒さを覚えながらも京はそう結論づけ納得していた。
 焦ってはいけないのだ。
 目覚めた後の庵と同じ時間を過ごすようになってから、自分はずいぶん忍耐強くなった。自嘲まじりに自賛している京だった。






 2月も中旬に差しかかったその日は、正午を過ぎた頃から霙混じりの冷たい雨が降り出した。
 ――いっそ雪になりゃあいいのに。
 何事に於いても中途半端が嫌いな京はそんなふうに思いながら、バイトを終えたその足で自分のアパートへ向かって歩いていた。まだ日没時間の早い時節だが、この日の彼は早番のシフトだったため外は充分に明るい。
 ――飯喰ったら今日も庵の部屋に行こう。
 今は少しでも長く庵の側にいたい。庵をひとりにしておくことが憚られ、彼があの部屋に戻ってからこちら、京はほとんど毎日のように彼の部屋を訪ねていた。この頃では、思い切って同居してしまおうかとさえ考える。
 アパートの外観が見えて来た。
 ジーパンの右ポケットに入っている鍵を取り出そうと、右手に持っていた傘を左手に持ち替えたとき、それまで遮られていた視界がひらけ、鮮やかな色彩が京の目を掠めた。
「!」
 それは、赤。一旦はフレームアウトしたその色を探し、京は改めて2階にある自分の部屋を仰ぎ見た。
 ――庵?
 部屋のドアの前に庵が立っていた。ひどく項垂れた様子の彼は京の姿にまだ気付いていないようで、俯いてじっとしている。
 京は濡れるのも構わず、邪魔な傘を畳みながら駆け出していた。
「庵!」
 階段を駆け上がって来た京に名を呼ばれ、庵が鈍い動きで顔を上げる。彼は頭から全身ぐっしょりと濡れそぼっていて、その眼には表情がない。いつからそこにいたのか、庵の衣服から滴る雨に、足元のコンクリートが広範囲で暗く色を変えていた。
「ど、した? 何があった?」
 急に走ったからではなく、不安のあまり心臓が跳ね言葉が喉につかえる。
「どうすればいい⋯⋯?」
 血の気を失くした紫色の唇が微かに動き、庵の両腕が何かを京に向かって差し出した。
「⋯⋯?」
 そのときになって漸く、京は血の匂いと共に庵が胸に抱きかかえていたものの存在に気付いた。
 それは。
「!」
 仔猫の、亡骸――。
 黒いコートを着た庵が、黒いシャツに包んでその腕に抱いていたのは、真っ黒な体毛を持つ仔猫だった。以前公園のベンチで庵に戯れ掛かっていたあの猫だ。
「それ⋯⋯」
 どうしたのだ、と京が尋ねるより先に庵が言った。
「目の前で、急に車道に飛び出して⋯⋯」
 あまりに咄嗟の出来事で、庵にさえ制止する暇もなければ救出する余裕もなかった。
 恐らく、即死。
 それまで生き物だったものが、一瞬にしてただの血肉の塊になる――。
 庵はその瞬間を目撃してしまったのだ。
 撥ねられたときの勢いのまま、車道から自分の足元へと飛ばされて来たその仔猫を、庵はコートの下に着ていたシャツを一枚脱いで包み、腕に抱いて京の部屋までやって来た。どうすればいいのか判らなかったのだ。
 庵がPHSに電話することも思いつけないくらい心神を喪失しているのだと思い至り、京はショックを受ける。が、これ以上彼を不安な気持ちにさせる訳にはいかなかった。
「大丈夫だ。後は俺に全部任せろ」
 安心させるために力強く声にして、
「とにかくどっかに埋めてやんなきゃな」
 京は出来る限りの高速で考えを巡らせる。
 埋めるとなると土のある場所でなければならないが、どこが最適だろうか。
「よし」
 この仔猫が多分ねぐらにもしていただろう、例の公園に場所を定め、庵の手を引いてアパートの階段を降りた。今更だとは思ったが、ずぶ濡れの庵を傘下に入れてやる。
「ここで待ってろよ」
 公園へ向かうのに途中少し回り道をし、傘を持たせた庵を建物の軒先に立たせ、京は日用雑貨を取り扱う店に飛び込んだ。そしてスコップをひとつ買って出て来ると、再び庵を連れて歩きだす。
 京の住むアパートからその公園までは、徒歩5分程の距離だった。庵のマンションからも同じくらいの場所にある。公園といっても遊具は数える程しか設置されていない小さな規模のものだ。それでも天気が良い日なら、近所の子供たちが大抵数人で遊んでいるし、ここならば仔猫も寂しくはないだろう。
 一番奥の隅、フェンスと植木との間のせまい地面に埋めてやることにして、
「コレ持ってろ」
 庵に傘を持たせ、京はスコップを手に土を掘り始める。雨で地面が緩んでいるせいで、作業は思ったより簡単に進められた。そうして仔猫を寝かせるのに充分な窪みが出来たところで、京は側にあった常緑樹の葉を何枚か摘み取り、それを穴の中へ敷き詰める。
 ずっとむかし、縁日で買ったヒヨコがイタチにやられて死んでしまったことがある。悔しいのと悲しいのとでわんわん泣きながら、あのとき京は母とふたり庭の土を掘った。季節は夏の終わりで庭にはたくさんの花が咲いていたから、その花で穴を一杯にしてヒヨコを埋めた。
 だけど今は冬だから。飾ってやれる花もない。そのことをひどく寂しく思うけど。
「庵、できたぜ」
 京が声をかけると、それまでじっと胸に抱え続けていた小さな骸をシャツの中から抱き上げ、庵は片膝を泥濘(ぬかる)む地面に着き、そっと穴の中へと降ろした。
 直視に耐えない状態の傷を、京は手早く木の葉で覆い、それからちょうど仔猫の顔だけ覗くように、少しだけ木の葉の位置をずらす。その顔を見ていると躰の傷などどこにもなくて、ただ眠っているだけのようにも思えてくる。それが一層ふたりの哀感を刺激する。
「もういいか?」
 ――もうお別れは済んだ?
 京の柔らかな問いかけに、庵が小さく頷く。それを見届けて京はたくさんの木の葉を穴の中へ降らせ、更にその上へ掘り返した土を戻して行く。そして土を全部かけ終えてから立ち上がり、手を合わせた。隣で庵も同じように合掌し目を閉じている。
 暫くして京が目を開けると、庵もちょうど目蓋を上げたところだった。
「帰ろっか」
 なるべく軽い口調を意識して声をかけてみるが、庵はまだ立ち去り難い様子で動こうとしない。見れば彼の両眼は真っ赤になっていた。
 京は胸が詰まった。
「いおり」
 泥塗れの指では触れてやることも出来なくて、腕で庵の首を抱き寄せる。庵が持っていた傘が彼の手を離れ、地面に落ちて小さく跳ねた。
「⋯⋯っ」
 庵の喉の奥で気泡が破裂する。
「いおり⋯⋯」
 彼の名を繰り返し囁きながら、京はその頬に自分のそれを押し付けた。互いの頬を濡らすのが雨の滴なのか庵の涙なのか、いつしかふたりには判らなくなって行く。
 雨と涙の滴とで濡れた庵の頬に唇を寄せる。
「⋯⋯っ」
 舌先に触れた苦い刺激に胸が締め付けられて、京は小さく呻いた。






 京は庵を庵のマンションへと連れ帰った。
 寒さと冷たさのあまり指先の感覚を失ってしまっている庵に代わり、京は脱衣所で彼の濡れた衣服を脱がせてやる。磨りガラス一枚を隔てたバスルームでは、湯船に湯が張られている最中だ。
「しっかり温ったまって来い」
 庵の服を脱がせ終え、京は彼の背をバスルームへと押し出す。そして、
「エアコン入れといてやるから」
 そう言って寝室へ戻ろうと背を向けた京の腕を、冷たい指が引き留めた。
「どうした?」
「おまえも⋯⋯」
 低く震える声がそう囁き、庵のもう一方の手指が京の濡れた髪を梳いて、
「冷たい」
 一言呟いた。その庵の眼は虚ろで、まだ彼の意識が此岸に戻り切っていないことを京に知らしめる。京は少し困ったように眉根を寄せて微笑った。
「わかったよ」
と、庵の手を取る。
「一緒に入ればいいんだな?」
 京は浴室に入ってから衣類を脱ぎ捨て、まだ腰のあたりまでしか溜まっていない湯船に庵を浸からせた。自分は後からその中へ入る。
 現実から目を背けた庵はぼやけた表情を晒して、自ら京の腕に躰を預けて来た。眼を閉じ膝を曲げ、上体を折って丸くなったその姿勢はまるで胎児だ。
「窮屈だろ?」
 決して広くもない湯船に、日本人の標準体型を遥かに凌駕する体躯の男がふたりで浸かっているのだから、満足に脚も伸ばせない。けれど庵は首を振り、こうしていたいのだと蚊の鳴くような声で応えた。彼の意識は、まだどこか別の次元を彷徨しているらしい。寒気がするのだろうその躰はさっきから絶えず震えていて、京は手桶で休みなく湯を掬ってはその肩から流してやっていた。
 湯船から溢れる程に湯が溜まった頃、庵の四肢が漸く弛緩する。震えも止まって血の色を取り戻した唇が、やっと京を安堵させた。
「もう平気か?」
 京の問いかけに目蓋を伏せたまま庵が頷いた。京はそっと湯船から立ち上がる。
「じゃあリビング暖めておいてやるから、もう少ししてから出て来い」
 もう一度庵が頷くのを見届けて、京は浴室を後にした。扉を閉めるその瞬間、庵の声が聞こえたような気がした。
 ははさま――。






 空調が効いて程よい室温になった頃、黒いバスローブを着た庵がリビングに入って来た。ソファーに座って彼を待っていた京は、濡れてしまった自分の服の替わりに、庵の部屋にあった厚手のパジャマを着ている。
「これ、借りたぞ」
 断りを入れた京に、しかし庵は応えず、無言で京に近付くと、いきなりその躰をソファーへ押しつけて来た。
「!?」
 咄嗟の出来事で何が起きたのか判らず、京には目前に迫った庵の顔を見上げることしか出来ない。
「どした⋯⋯?」
 庵は朱金の瞳に、苦しそうな、哀しそうな色を湛えて京を見下ろしていたかと思うと、徐に京のパジャマに手を掛け、釦をはずし始めた。
 流石にここへ来て、庵が何をしようとしているのかを京も理解した。が、何が庵にこの行為を促しているのかまでは判らない。ただこんな積極的な庵を見るのは初めてだった。
 釦をすべて外し終え、露になる京の引き締まった腹筋に庵が唇で触れて来る。そのまま下降して行こうとする庵の頭部を、京はそこから引き剥がした。
「そんなことすんな」
 これが『今』でなければ大歓迎なのだが。でも今の庵の精神は尋常な状態ではないから。これ以上この状態のままで行為を続けさせてはいけない。庵はこの世界に帰って来られなくなってしまう。
 行為を阻止された庵は、ひどく不安気な眼で京を見詰めている。
「違う、庵。やめろって言ってる訳じゃねえよ」
 ――だからそんな貌を見せるな。
「どうしたのかを、教えて欲しいだけだ」
「やくそく」
「え?」
「続き⋯⋯」
 再び身を沈めようとする庵の躰をもう一度制し、京は上体を起こした。それでも尚、触れて来ようとする庵の手を掴み、今度は完全にその動きを封じる。そうしてしまうと、まるで悪事を見咎められでもしたように、庵はその場で固まり俯いてしまった。
 京は静かな声音で問うた。
「約束、果たし終えたらおまえはどうすんだ」
 その言葉に、庵の両肩がビクリと跳ねる。
「いくのか?」
 彼岸へ。俺を置いて、ひとりで。
「ひとりで楽になろうってのか」
 何もかもを放り出して。
「⋯⋯⋯⋯」
 落ち掛かる長い前髪のせいで、庵の眼の表情は窺えないが、彼が唇を噛み締めているのは見える。
「庵。顔上げろ」
 伏し目勝ちに庵が顎を上げた。
「俺の眼ェ見ろ」
 目蓋を上げ、一瞬だけ目を合わせ、けれどすぐに庵の視線は京のそれから逸れてしまう。
「そんなにこの世界が嫌いか」
 庵の表情は動かない。床に投げられた視線も、京を見ようとはしない。京は問を重ねる。
「違うんなら理由を言えよ」
 この世界を放棄する、その理由を。
 庵が、重い口を開いた。
「俺は⋯⋯この世界に、ふ⋯⋯」
「『相応しくない』って?」
 京に言葉の先を正確に奪われて、驚いた貌で庵が面を上げる。彼の視線の先には、大袈裟に眉を顰めた京の呆れ貌。
「ばーか。おまえの考えてることなんてな、俺にはお見通しなんだよッ」
 それは、肉親の死を引き金に、己の出生を見つめ直してしまった庵が考えそうなことだった。母親を狂気に追いやってこの世に生まれ出(い)でた自分の存在を、庵は頭から否定してしまったのだろう。そしてあの仔猫の死が、そのマイナス思考に更に拍車をかけた。
 在りのままの姿、在りのままの心の彼自身を庵が受け容れることを、どうしてこの世界は庵に善しとさせないのだろう。
 京は苦く溜息を吐き、
「それで? ⋯⋯庵、おまえはどうしたいんだ」
 それまで動きを封じるために掴んでいた庵の手を、ここで漸く解放する。
「どうすることがおまえの本当の望みなんだ? 死んでこの世界から消えちまうことか? それともまた⋯⋯覚めない夢が見たいのか?」
 両手の自由を取り戻し、けれど庵はもう自ら動き出そうとはしなかった。苦しそうに眉根を寄せ、彼は首を振る。
「じゃあどうしたい⋯⋯?」
 彷徨う視線。
 庵、おまえは自分の気持ちを知っていて、どうしてそれを口に出来ない? 言いたいことはただひとつ。おまえはそれを判っているくせに。
 なあ庵、何がおまえの口を塞ぐんだ。
 何が不安?
 何を惧れてる?
「キョウ」
 自由になった庵の腕が、京に向かって伸びて行く。そしてその手のひらは京の裸の胸に触れ、続いてその頬が押し当てられた。
 京は冷めた眼で、そんな庵を見下ろす。
 京の胸に添えられている庵の手が、戸惑いを連れて動き出した。懸命なその指先からは彼の逡巡と、彼の望みとが直に伝わって来る。それでも京の躰は応えない。京をその気にさせようと、必死になる庵の姿には激しく心を揺さぶられるけど。
 でも。
「キョウ⋯⋯!」
 追い詰められた庵の声に切なく訴えられても。
「知らねーよ。俺の質問に答えるまで、あの約束は果たさない」
 ――おまえをどこにも行かせはしない。
 このままのおまえなら。
 彼岸へは、決して。
 それが庵のためになるのなら、いくらでも非情になれる自分を京は知っている。このまま済崩しに庵を抱くことなど簡単だ。でもそうしてしまえば、何もかもが有耶無耶のままになる。一時しのぎに、その場かぎりに躰を繋いで我を忘れさせられたとしても、問題の根本が消える訳でもない。何の解決にもなりはしないのだ。
 それどころか、取り返しのつかないことが引き起こされるに違いない。
 庵は微笑って逝ってしまうだろうから。かつて望んだ彼岸へと。今はもう望んでいない筈の向こう側へ。
「どうしたいんだよ。ちゃんと言ってみろ」
 本音を聞かせてくれるまで、抱き締めない。答えてもやらない。ここで庵の望むまま手を差し伸べてしまったら、彼はいつかまた同じ轍を踏む。ふたたび優しい闇と死の影に誘惑されてしまう日がきっと来る。
 だから、甘やかさない。ごまかさない。
 これを機にすべてを明瞭にさせておいてやろう。二度と同じ苦しみを、庵が味わうことのないように。二度と彼岸を夢見ないように。
 京の肌を離れ、ぎゅっと拳を握った庵の手が小刻みに震えている。そして喘ぐように何度も小さく息をして、やっと口を開いたかと思うと、
「俺には母を死なせてまでこの世に生まれて来る価値があったのか⋯⋯?」
 一息に言葉を吐き出した。
 ――ああ、やっぱり。
 京はそれまで詰めていた吐息を、躰の外へそっと逃がした。
 やはり庵がこの部屋に戻ってから考え続けていたのは、そのことだったのだ。
「教えてくれ⋯⋯キョウ」
 つまずく声が京に請う。
「俺はここにいていいのか? 俺が今ここに生きていることに意味はあるのか?」
 母の正気と引き換えにするだけ価値が、この生命にあるというのか。
「誰の望みも叶えられなかったのに」
 確かに自分は望まれてこの世に生まれて来た。けれどその望みを叶えることはなかった。期待には応えられなかった。だからもう不要な筈だった。それでも自分は生きている。
 ――何のために?
「俺は⋯⋯、」
 庵が顔を上げた。
「ここにいて、いいのか⋯⋯?」
 ――なぜ俺は今ここにいるんだ⋯⋯?
 泣きそうに歪む庵の頬に、やっと京の手が触れる。その手の甲に自分の手のひらを重ね、庵は強く握り締めた。
「⋯⋯理由が、欲しい⋯⋯」
 この世に自分が生きていてもいいのだという、その理由を与えられたい。でなければ、これ以上このまま自分は生きてなどいられない。
 けれど京の返答は素っ気なかった。
「俺だって自分が生きてる理由なんか知らねえよ」
 そんな大層で偉そうなこと、自分には判らないし、答えてもやれない。
 京はもう片方の手も庵の頬に伸ばして、不安気な表情を浮かべる男の顔を至近距離で覗き込む。自分に向けられたその眼が庵のどんな想いを訴えているのか、京にはちゃんと読み取れた。
 見離されたくない。
 突き放されたくない。
 ここに、いたい。
 生きて、いたい。
 だけど自分の出生はそれに値しないかも知れない⋯⋯。
 だから不安。
 それが、不安。
「でもな庵、おまえはここに生きてんだろ?」
 ――どんなおまえでも。
 出生など関係なく。
「それが現実だろ?」
 それでもまだ不安そうな表情を消せない庵に、京はある言葉を思い出していた。
「そういや神楽が言ってたなあ。おまえは俺のために生み出された存在なんだって」
 聞かせるともなく声に出し、不意に何かを思い付いた面持ちで庵を見つめた。真剣な貌だった。
「だったら俺のために生きろよ」
 理由ならくれてやる。いくらでも。
「俺がおまえを望んでやるから」
 それは決して庵のためだけでなく。京自身のためでもある。
「⋯⋯いいのか、そんなことを言って」
 期待と不安とに目を瞠った庵の、重荷になるのではないかと続いた言葉を、京は間髪入れず豪快に笑い飛ばしていた。
「ばっかやろ。てめえ誰に向かってモノ言ってんだ」
 京の眼に浮かぶ、これ以上ないくらいに似合う不遜な笑みが、庵の疑念を完全に氷解させた。
「京⋯⋯」
 庵が深く長い呼気を零して目を伏せた。
 そして京もまた⋯⋯。
 ――やっと。
 やっと帰って来やがった。
 庵の手から逃れた京の両腕が、しっかりと彼の背に回される。庵の四肢から力が抜け、そのすべてが京に委ねられた。
 この腕の中でしか安息できないことが、庵にとって好ましい状況でないのは京にも重々解っている。
 けれど。
 京にはこの腕を差し伸べることしか出来ないのだ。
 でも、それだけでも出来ることがあるのなら。
 今おまえが本当に欲しいのは、この腕じゃないのかも知れない。おまえが望んでいるのは母の腕なのかも知れない。だとしたら俺はその代わりにはなれないけど⋯⋯。
 俺は俺だから。
 俺でしかないから。
 それでも、この腕の中でおまえが穏やかに呼吸できるなら。俺はいつでもこの腕におまえを抱いてやるよ。
 ――おかえり、八神。






 白いシーツを手繰り寄せて、庵がその四肢を乱す。今までなら決して声を抑えようとはしなかったのに、今日は必死になって喉を塞いでいる。そんな彼の姿は京の目にいっそ神々しかった。
 生きていることを実感したいか?
 ならばいくらでも責めてやるよ。
 傷を癒したいか?
 だったらその場所を教えろ。
 俺に曝せ。
 口吻けてやるから。
「京⋯⋯ッ」
 庵の尖った声に名を呼ばれるたびに、京は熱く滾る臓腑を感じる。溢れ満ちる力の存在を知る。
 自分たちの行為を知れば、これを感傷的な傷の舐め合いだと蔑む輩もいるだろう。だがそれは京の知ったことではない。
 嗤いたい奴は嗤えばいい。蔑めばいい。
 傷の舐め合だろうと何だろうと構わない。舐めて傷が癒せるというのなら結構なことだ。それで癒すことが出来る傷だというのなら、いくらでも触れてやる⋯⋯。
 傷は癒えても傷痕は残るのだ。ならば癒してやってもいいだろう? この男は傷ついたことを一生忘れはしないのだから。それだけで、充分だろう?
 だからもうこれ以上、誰もこいつを傷つけないでくれ。
 例えそれが庵の愛する母であっても、死者であっても。その存在を許せないだろう自分を、京は強く感じていた。






「なあ八神。ひとつ訊いていいか」
 京の声に、シャツの釦を嵌める手を止めて、庵が顔を上げる。まだ寝てしまうには早い時間。ベッドからひとり抜け出した庵は着替えを始めていた。京の方は未だ、立てた枕に上体を預ける姿勢でベッドの中にいる。
「なんだ?」
「こっち来いよ」
 銜えていた煙草を灰皿の上で押し潰し、その手で京は庵を手招く。呼ばれるままに庵がベッドの端に腰を下ろすと、ギシリと鈍い音を発ててスプリングが軋んだ。
「おまえいつから髪染めてんだ?」
 徐に伸ばされた京の指が、庵の髪と戯れる。
「なんで赤く染めようと思った?」
 庵は問い返す視線を京に寄越した。質問の意味が飲み込めなかったのだろう。そんな庵に応えることなく、京は断定するようにこう続ける。
「お袋さんの好きな色だったからだろ?」
 京の言葉を聞き、虚を突かれた貌で庵が大きく目を見開いた。そして次の瞬間には頬を歪めて俯いてしまっていた。京はそんな庵の肩を引き寄せ、腕の中へと抱き込む。
「だからおまえは⋯⋯」
 その人の着物が赤かったのも、髪が赤かったのも。それはそれが彼女の好んだ色だったからだ。
「お袋さんが死んで、だからおまえは髪を染めたんだな」
 赤い色に。
 貴女はとても脅えた眼をしてわたしを恐れていた。だから。
「好きになって欲しかったんだ」
 そうすれば母に受け容れて貰えるかも知れない。好いて貰えるかも知れない。もうこの世のどこにもいない貴女だけれど。
 決して、泣くことだけが哀悼の表現ではないと京は思う。庵が取った行動は、ほかの誰に気付いて貰えなくても、認めて貰えなくても、そして庵本人すら無意識だったのだとしても、確かに母親の死を悼んだが故のそれだったに違いない。
「だが俺は⋯⋯」
 胸元から顔を上げ、何か反論の言葉を口にしようとした庵の唇に、京は触れるだけの口吻けをした。
「言わなくていい」
 否定の言葉なら要らない。迷いも聞かない。
 ――俺には解ったから。
 たとえ庵本人がそれを認めなくても。
「八神、おまえはここに生きてていいんだ」
 おまえがいなくなるということは、この世からひとつ、彼女の生きた証しが消えるということだから。
 記憶の中の彼女が微笑む日まで。
「おまえは生きてなきゃいけないんだよ」
 その人のためにも。






 誰もが母体を傷つけながらこの世に生を受ける。
 ならば、それはおまえだけが背負う罪じゃない。この世に生きるすべての者が背負う罪。生き続ける限り消えぬ罪。








 罪を償いたいなら生きなさい。
 それは生き続けることでしか、決して贖えない罪なのだから。



2001.08.01 脱稿/2018.11.13 微修正 



・初出:『赤の原罪』2001.08.10 発行