『赤の原罪・前』 R18


 あなたに名前を呼んで欲しいのです。
 あなたの声で。
 あなたの意志で。
 あなたにしか発音できない、あなただけの呼び方で。
 どうかわたしの名前を呼んで下さい。
 その声で。
 その、愛しい唇で。







 冬空の下、公園のベンチに男がひとり座っていた。手袋をしていないその素手の内側には、彼が好んで口にするブラック無糖のコーヒー缶が包み込まれている。
 庵の住むマンションに向かう途中、当の本人の姿を視界の隅に捕らえた京は足を止め、迷うことなく行き先を変更した。
「よぉ」
 片手を挙げ、白い息で軽い挨拶。
 声を掛けられた男は顔を上げて京の姿をその視界に一度収め、また何事もなかったように視線を元に戻した。京の存在を見留めても、現在(いま)この男が殺意や露骨な嫌悪感を面に表わすことはない。
「何してんだ、ンなトコで」
 庵の隣に、ベースが納まっているのだろう黒いソフトケースが鎮座しているからには、バンドの練習帰りというのが妥当な推測か。
 だが京が訊きたいのはそういうことではなかった。
 雨ざらしで薄汚れたベンチに浅く腰掛けた男の、前方へと投げ出された長い脚に、真っ黒な一匹の仔猫が戯れかかっているのが目を引いたのだ。
「ソレ、おまえのネコ?」
「⋯⋯」
 男は無言で否定のために首を振り、言う。
「ウチのマンションはペット禁止だ」
「そうだったっけ」
 よく見れば仔猫は首輪をつけていなかった。飼い猫ではないらしい。だが、どこかで餌を貰っているものか、痩せぎすな感じもなく、野良にしては毛並みも艶やかだ。
「けど懐いてんじゃん?」
 京の言葉に、そうか? と素の表情で男は小首を傾げ、
「⋯⋯よく解らんが、俺が公園近くを通ると大抵どこからともなく寄って来るな」
と、思い出すような眼差しを宙に投げた。
「ふーん」
 迷惑がっているふうでなく、どちらかと云えば仔猫の好きにさせてやっているように見受けられる彼の様子から察するに、彼自身懐かれて嫌な気はしていないのだろう。もしかしたら、この猫が現れることを無意識に期待し、彼は公園近くの道を敢えて順路に選んで日々行動しているのかも知れない。
 僅かだが、庵の確かな情動を見たように思い、京は頬を緩めた。
「おまえオスかァ? メスかァ?」
 下世話な物言いで仔猫の前足を取ると、京は素早く腋に手を掛けてひょいと抱き上げ、眼前に下腹部を曝した。
 仔猫は暴れもせず、おとなしく宙吊りにされている。
「あ、メスだわ」
 こりゃ失礼、などとおどけて仔猫をそっと地面に下ろすと、彼女は再び庵の脚に躰を擦り付けるようにしながら、クルクルとその周りを歩き始めた。
 ピンと尻尾を立てて歩く姿がひどく愛らしく、無意識に口元を綻ばせて京は仔猫を見降ろす。
「飽きねえのかな」
 猫も勿論だが人間の方も飽きないのだろうか。そろそろ庵の手中のコーヒーは空になっている頃だ。
 そんな京の想像を察したように、
「俺は帰るぞ」
 庵が腰を屈め、告げた。
 相手は猫である。
 そろそろ解放してくれないか、とまるで人間に接するように言葉を続け、男は腕を伸ばして仔猫の頭を撫でる。大きな手のひらに触れられて耳を伏せ、心地良さそうに眼を眇める彼女の表情は、京の笑みを更に深くさせた。
「なあ、庵。おまえんち寄ってっていいか?」
 京は立ち上がった男に肩を並べる。
「そのつもりで来たのだろう」
 好きにすればいいと言いながらベースを取り上げ、肩に担いだ庵が京と並んで歩き出しても、仔猫がそれに付いて来る気配はなかった。
 テリトリーでもあるのだろうか。
 京がチラと振り返れば、立てたしっぽの先を微かに動かしながら、彼女はさっきまで庵が座っていたベンチにぺたりと腰を下ろし、ふたりの後ろ姿を見送っていた。






 京と庵との関係が一変したのは、KOF97の閉幕後のことだ。京によってオロチが斃されたことに端を発したその変化は、草薙・八神両家の関係までを土台から覆した。
 和解、したのである。
 それを切り出したのは意外にも八神家の方からだった。
 オロチの存在が彼らにどのような形でどのように影響を与えていたのか、草薙である京には想像する以外に手立てがなかったが、ともあれ八神一族がその血の呪縛から解き放たれたことだけは違いない。
 彼らの態度の変様は、まさに憑き物が落ちたというそれだった。
 元から八神家に対し怨恨の念を持たない草薙家には、和解の提案に否やはない。草薙にしてみれば実害があったわけでもなかったし、それこそこれまでの八神のように、いつまでも過去を根にもつ血筋でもなかったから、最終的には八神家の申し出に首肯していた。
 草薙家に和解の打診が最初に持ち込まれたとき、その場に八神当主の姿はなかった。なぜなら当主である庵は、当時病室で眠り続けていたからだ。
 京が他のチームメイトと共に復活したオロチと対峙していたとき、庵は既に昏睡状態にあった。躰内に巣喰うオロチの血の暴走に意識を奪われた彼は、京の拳の前に屈していたのである。
 そして、長く目覚めようとはしなかった。
 そんな庵を京が見舞ったのは、和解の申し出があってからのことだ。和解は八神一族の総意だと聞かされはしたが、やはり庵当人の意志を、本人に直接会ってこの目と耳とで確認してからでなければ正式な返答はできないと思ったのである。
 このとき庵は、神楽ちづるを総帥にいただく八咫一族経営の、神楽コーポレーション系列の病院に収容されていた。
 そこを訪れて初めて、京は庵があのときから一度も目覚めていないことを知った。
「どういうことだ」
 今この瞬間に己が現すべき感情を選択できず、元来表情豊かな筈の京の貌は固く強張っていた。絞り出した声も表情(いろ)を失くし、低い。
「いま言ったとおりよ。八神はあの日から目覚めていないわ」
 答えるちづるの言葉は淡々としていて、その抑揚の無さが京の神経を一層逆撫でる。
「一度も、か」
「ええ、一度も」
 無駄に質問をくり返すのは動揺している証拠だと、京は一部分でだけ冷静な頭の中で己の精神状態を分析していた。
 では自分は一体なにに動揺しているというのか。
 この男が眼を開けないことに、か。
 そして自分を見ないことに、か。
 京とちづるとが並んで見下ろす病院の特別室のベッドの上で、生命維持装置に繋がれた庵の肉体は身動ぎもしない。ちづるの話では、彼は既に半月以上もの間この状態でいるのだと云う。
「なんで起きねえんだ?」
「判らないわ」
「起こせないのか」
「医学に出来る範囲ではね」
「⋯⋯⋯⋯」
 言葉が途切れると急に病室は、庵の微かな呼吸と機械の発する低いモーター音だけで満たされる。それが嫌でも京の不安感を増長させた。だから言葉を継がずにはいられない。
「このままだとどうなる?」
「さあ」
「『さあ』って、おまえ⋯⋯」
「生命維持装置を外さなければ、いつまででも眠っているのかも知れないわね。それこそ天寿を全うするまで」
「⋯⋯外しちまったら⋯⋯?」
「死ぬのでしょう」
 この状況を前にして、どうしてこうも淡々と言葉が紡げるのか、いっそ感心したくなる程にちづるの物言いは冷たかった。それが、今の今まで庵の容体を気にもかけず、また問うこともしなかった自分への、彼女からのささやかな抗議だと、気持ちに余裕のない京は気付けていない。
「いつ?」
 ほかに紡ぐべき言葉が見当たらず、無遠慮に庵の死期を尋ねた京に、
「八神に直接訊くといいわ」
 とうとうちづるの声色が剣呑になった。
 そこで初めて、いまやっと目が覚めたというように京の面に表情が走った。戦きのそれだった。
 ――八神庵が死ぬ。
 その事実が京を戦慄させたのだ。
 不意に目の前の景色が青味がかったフィルターに覆われたように見え、現実感が遠のく。京はしゃがみ込みそうになる己の脚を必死に堪えた。無意識に額に手を当てる。
 ――八神が俺の前からいなくなる⋯⋯?
 ぞっとした。
 この喪失感はなんだ⋯⋯。
 己(おの)が身の一部を無理矢理ひきちぎられ持ち去られるような物理的痛みを躰に感じ、京は無自覚のまま自分の二の腕をきつく掴んでそれに耐える。そして、つまずくようにひとつ息を吸って口を開いた。
「起こせるのか」
 それまで庵にしか向けられていなかった京の視線が、となりに立つちづるの横顔へと移される。
「あなたになら出来るかも知れない」
 ちづるは相変わらず庵の寝顔に目を落としたまま、そう答えた。そして徐に顔を上げ、こう付け加える。
「でもあなたは本当に彼を目覚めさせたいの?」
 京の顔を真正面から見据えた女の瞳は、目の前の男を射殺すような強い光を湛えていた。
「何のためにそうするの?」
「!」
 思わぬ方向から打ち込まれた女の一太刀に、京は目を見開き息を呑む。頭を殴られたような衝撃だった。






「そうだ。そういや庵、おまえ、今日じゃなかったか、バンドの面接⋯⋯」
 庵と並んで彼の家へ向かって歩きながら、京はふと思い出して口を開いた。白い息が流れ、冬の澄んだ空気の中に溶ける。
 それを面接と言うのが適当なのかどうか京は知らないのだが、ともかく庵にはベーシストを募集しているバンドのメンバーと会う予定があったのだ。そしてその約束の日は、京の記憶に間違いがなければ、確か今日だった筈だ。
 ついさっき彼をバンドの練習帰りだと推測したのは京の勘違いで、いま庵は誰とも組んではおらずフリーの身なのである。
「⋯⋯途中でやめて帰って来た」
 僅かに口籠もった後、京の疑問に庵はそう答えた。
「なんで」
 京は庵の横顔を伺う。
「続けて行く自信がなくてな」
 その言葉に京は思わず目を閉じた。
 始めもしないうちから終わることを惧れてしまう。
 それが今の庵。
 自信がないなどと口にする姿がもう、かつての彼からは想像もつかないものだった。今の庵は新しい何かに挑むことを極端に躊躇い、後込みする。現状に留まっていたいと思う気持ちが強く、環境の変化を望まない。
 しかし、これでも随分マシになった方なのだ。
 目覚めた当初は、正に生ける屍という状態だったから。
 八神庵個人の意志など、どこにもないのではないかと京に疑わせずには置かなかったくらいに。それ程、京の中で以前の庵と今の彼とのギャップは埋め難かった。
 けれど庵の意志が決して皆無ではなく、ただ極端に希薄なだけだと理解してから、京は彼への態度を豹変させた。壊れ物を扱うような慎重さや遠慮をかなぐり捨てて、本来彼が持ち合わせている強引さと我儘さで以て庵に接し始めた。
 庵が無抵抗なのを幸いに、彼を外の世界へと強引に連れ出すこともままあった。けれどそうすることは、庵にとって決してマイナスにはならなかったらしい。
 現に庵は自然に外へと眼を向けるようになっている。京の荒療治の甲斐だろう。だから今は京の方から無理に庵を誘い出すこともない。未だ受動的な態度は目立つのだが、決して以前の庵がそうでなかったのかと云えばそれは嘘で、かつての彼が、敢えて能動的に見えるよう振る舞っていただけだと今の京は知っていた。あの頃には気付けなかったけれど。それを思えば、今ここにいる庵こそが『本来の庵』に近い姿であるのかも知れない。
 京にとってはそれこそが認め難い現実だったが。






 庵が眠る病室でちづるが残した一言は、鋭い針となって京の胸に深々と突き刺さった。
 何のために庵を目覚めさせるのか。
 そんなこと、京は考えもしなかった。理由を思うより先に、ただそうしたいと願っただけなのだ。生理的な欲求にも似た感覚だった。本能ともいえる。
『八神はなぜ眠っているのだと思いますか?』
 ちづるは厳しい眼差しを京に向けたままそう問うた。詰問するような口調だった。
『その理由を理解して、それでも尚彼を目覚めさせたいと言うのなら、そのときはわたしに連絡してちょうだい。覚醒させる方法を教えます』
 ちづるが去り、病室に庵とふたり取り残されて、京は改めて眠る男の顔に目を遣った。
 穏やかな寝顔だと思った。ほかの八神一族がそうであるように、彼もまたオロチが屠られた時点で『憑き物』は落ちている筈だ。だからなのか。この凪いだような貌は。
 だが。
 誰なのだろう、この男は。
 草薙京が目の前にいるというのに、なぜ彼は自分を見ないのか。そして『殺す』と言わないのか。
「おまえは誰なんだ」
 これは自分の知っているあの男ではない。
 オロチの意志やオロチ一族のそれとは関係なく、ただ貴様が憎いから殺すのだ、と。何度も庵はそう言った筈だ。
「俺を殺すんだろ? だったら何で寝てんだよ⋯⋯」
 ――俺はここにいるのに。
 生きて、いるのに。
 八神、おまえの目の前に。
「俺を殺すんじゃなかったのかよッ!」
 昂ぶる感情のままに叫んで、雷に打たれたようにハタと気付いた。
 ――まさか。
「そうか⋯⋯。八神、あれはおまえの本意じゃなかったってことか⋯⋯?」
 草薙京を殺したいという望みは、庵の裡から生まれた意志ではなかったのか――。
 殺す、と何度も繰り返して口にしていたのは自己暗示のため。
 それが自らの意志ではなかったからこその。
 このとき京は生まれて初めて、庵自身と向き合おうとしていた。それまでは、彼について本気で考えたことなど一度もなかったのだ。彼の挑発など、くだらないと鼻先で嗤い飛ばし、おざなりにしか相手をしてこなかった。庵が、ただ一個人として――八神庵として挑んで来るというのならともかく、オロチや血といった、京にしてみれば胸糞悪いとしか思えない諸々の柵に雁字搦めにされた身を以て対峙しに来ても、真剣に相手をする気には到底なれなかったからだ。
 強い相手は常に求めていたが、狂気を相手にしようとは思わなかった。そんなものを相手すれば、たとえ勝利したとしても己に不快な思いしかさせないことを、京はゲーニッツとの闘いで身を以て経験している。
「だから、起きねえのか⋯⋯?」
 ――俺を殺す必要がなくなったから。
 オロチが消滅すれば、血の支配から解き放たれ、無理矢理植え付けられていた憎しみの感情からも自由になって、八神一族は草薙一族と本来の関係を取り戻す。そうなれば、庵には京を殺さなければならない理由がなくなる。それが彼自身の望みではなかった以上、確実に。
「それだけがおまえの生きている意味だったから、か」
 なにを口にしても答えなど返らぬ問いかけ。けれど京は言葉にし続けた。声にすることで初めて理解できる真実もある。自分が得心することもある。
 草薙一族を屠り去ること。
 それだけが庵に課せられた使命だった。
 だが、それを果たせぬまま、己が役目を失ったことに庵は気付いたのだろう。眠りの中で。
「それ以外ホントに何もなかったのかよ」
 草薙を屠る以外に為すべきこと――いや、したいこと――が、おまえにはなかったのか、何ひとつ。八神、おまえの生をこの世に繋ぎ止めるに充分な存在が、この世界にはもうひとつもないと云うのか。
「だから、起きないんだな?」
 確信を深めて更に問う。
 目覚めないことが、今のおまえの意志か。それがおまえの望みなのか――。
 オロチの狂った血に蝕まれた躰が、その暴走に頻繁に見舞われるようになって、庵は己の死期を悟っていた。このままでは何も為さないうちに死ぬことになる。望まれたことを為せず、生きた証しを残さぬまま。
 だから。
 事前にバンドからも籍を抜き、バイトも辞めて。己の命を捧げる覚悟をし、すべてを清算するつもりだったのだろう庵が、全身全霊を懸けて挑んだ97年のKOF。
 すべてが終わったとき、彼は自分の存在に意味を見い出すことがなかったのだ。己のそれが意味のない生ならば、これ以上それを維持する気にはならなかったのだろう。
 だから彼は目覚めようとしない。
 眠り続けること。
 それが生きる理由を失った庵の唯一の望み。
 もし庵に、草薙京を殺すことと草薙一族を屠り去ることができていたら、やはり彼は今と同じ状況になっていたのではないかと思う。
「八神⋯⋯」
 もうそれ以上問い掛けることはせず、京は眠る男の顔をただ凝視めた。
 このまま朽ち果てたいと。そう言うんだな、おまえは。
 庵の想いを理解して、数日後、意を決した京はちづると連絡を取っていた。
 覚悟は出来た、と。







 庵の自信のなさがどこから来るのかを考えて、京はやがてひとつの結論に達した。正確に言えば、かつての庵の、根拠がないように思われていた自信の理由に気付いた、ということになるが。
 あの頃、八神庵という器の中には沢山のものが詰まっていた。隙間なくびっしりと。けれどその殆どは、元は彼の持ち物ではなかったのだ。彼が望んで取り込んだ物でもなく。それらは後天的に外からもたらされ、押し付けられ、無理に飲み込まされた物ばかり。
 ただ、そんな望まないもの達ではあったけれど、それらに満たされることで、庵の有るか無しかの小さな自我は僅かにも揺らぐことなくその器の中で安定していた。だから彼は自信に満ち溢れていたのだ。不安や疑念の入り込む隙間など、そこにはなかったから。
 満ち足りていたから。
 それが今は――。
 空っぽになった器の中で、庵の自我は際限なく転がり彷徨い続けている。どこにもとどまることが出来ず、ころころと。
 じっとしていたいのだろう、本当は。外からの刺激をすべて遮断して、自我を揺らす物すべてを遠ざけて。
 平穏に、静かに。
 何かの殻に閉じこもるように。
 けれど目覚めた庵にはそれが許されなかった。
 長い眠りから目覚めてのち、庵は以前から彼が生活していた東京へと戻って来た。ただしそれは彼自身の意志ではなかった。庵は自発的に帰って来た訳ではなく、京がそれを望み実行させたのだ。
 京にそう乞われたとき庵が否やを唱えなかったことは事実だが、だからと言って彼が本当にそれを望んでいたのかどうか、京には自信がない。けれどその日からまた、それまでと同じように庵はマンションでのひとり暮らしを始めた。
 その庵のマンションに、ふたりはいま辿り着いた。
 生活力のない当主のために、八神家は毎月多額の生活費を送金しているが、しかし庵がそれを必要最小限にしか利用していないことを、果たして彼らは知っているのだろうか。庵の外見上の人格が、かつての彼のそれからは想像もつかぬ程に変化していることを、彼らはどこまで正確に把握しているのだろう。
 京の住むアパートとこのマンションとは、さほど距離が離れていない。元々は京を付け狙い殺すチャンスを得るために選ばれ居を構えていた場所であるのだから、それは当然の結果だった。
 その距離のこともあって頻繁にこの部屋を訪れる京という存在を、部屋主は何も云わず受け入れている。京が合鍵が欲しいとねだったときには、一瞬の逡巡もなく庵はそれを差し出した。理由も訊かなかった。
 その無感心に、京がどれだけ打ちのめされたか、当の庵は知りもしないのだ。
 遣瀬ない、というのはこんな気分のことを云うらしい。まるで他人事のようにそんなことを考えた自分が、京には哀しく可笑しかった。






 八神庵の人生を背負う覚悟はできた――。
 目の前にある京の顔を見、更にその言葉を聞いたちづるは、もう何も言わなかった。約束どおりに覚醒の方法を教え、それだけだった。京が何をどう理解してその結論に達したのかということまで、彼女には判っていたのかも知れない。
 庵の意志は、自我が芽生えたその頃からずっと希薄だったのだろうと京は思う。自我を育てることを抑制された環境下にあった彼は、だからこそ一族に望まれる自分を演じることに固執した。そういう己だけが、彼にとって生き続けることを赦される自分の姿であったからだ。
 八神家の期待を一身に背負い、草薙を滅すること。それだけが、己の存在意義。
 そうでない自分なら要らない。
 生きている必要がない。
 価値もない。
 そんな庵の意向を無視して彼を目覚めさせる。そうすれば庵は、再び草薙京を憎むようになるだろう。今度は紛い物が生み出した感情からでなく、彼本人の意思で。
 そうなれば。また庵は草薙京を恨み、その視線は草薙京にのみ向けられる筈だ。これまでと同じように。
 けれど――。
 京の期待は手酷く裏切られるのだ。






 音楽関連機材が置かれた奥の部屋から戻って来た庵に、
「年末は本家か?」
 思い出したように京は尋ねた。
 この部屋に居てもどこに居ても、庵から何かを話すことは滅多にない。たいてい先に口を開くのは京で、庵はその京の言葉に応じるばかりだ。
 今も京に問われてはじめて庵の唇が動いた。
「ああ」
 短く簡潔な肯定の返答。
 八神本邸の所在地は山陰の出雲地方である。帰省すれば新春の祭事全般から解放されるまで、庵はこの部屋には帰れない。
 暫く会えないのだと知覚した途端、京の躰が反応した。
「草薙?」
 不意に首を引き寄せ唇を奪った京に、庵は驚いた表情を見せた。が、そこに嫌悪は混じらない。
 京は存分にその感触を堪能してから、ゆっくりと唇を離した。
「冷てえな⋯⋯」
 元々体温が低いらしい庵の唇は、ついさっきまで外気に触れていたせいで更に冷たくなっていた。
「シャワーを⋯⋯」
 湯を使えば冷えた躰も温まる。
 京の腕から抜け出してバスルームへ向かおうと庵が身をよじる。けれど京は庵の細い腰を腕に抱き、
「待てない」
 余裕のなさを滲ませた声を耳元に吹き込むと、そのまま暖かなカーペットの上へ男の躰を引き倒していた。
 埋めてしまいたいと思う。空っぽになって、不安定に揺らぐ男の自我を固定させるために、その隙間すべてを自分で埋めてやろうかと思う。京にはそうすることが可能だった。今すぐにでも。
 でも京はそれをしない。
 出来ない。
 理由は京自身、解らなかった。ただ漠然と、それだけはしてはならないのだと思っている。
 かつてのようにひとの手によって、庵にとって受動的に埋められた空間は、再び偽物の彼を創り上げるだろう。そのことを、京の本能は知っていた。
 偽物は、欲しくない。






 京は草薙の能力と技とを以て、躊躇いなく庵を目覚めさせた。
 目蓋を上げ、その瞳に京の姿を映した庵は、けれど何も言わなかった。
 言葉でも、表情でも。
 ベッド上から京を見上げた男の眼には感情がなく、そのくせ確かに京を見つめている。
 見ているのに――。
 京は知らず息を詰めていた。見えざる冷たい手に背筋を撫で上げられたような気がした。
 責められた方がマシだった。いや、責めて欲しかった。京はそうなるだろうと思い、それをこそ望んで強引に庵を目覚めさせたのだから。
 けれど庵は恨み言ひとつ吐いてはくれず。
 それどころか――。
 京は無反応な庵に焦れ、なぜ責めないのかと昂ぶる想いのまま激情をぶつけた。
 このとき呟かれた言葉が今も京には忘れられない。
 余生だから、と。庵はそう言ったのだ。
 これは余生だから。だから、どうでもいい。
 それが迷いの末に仕方なく辿り着いた諦観の念からではなく、自然に発せられた本気の言葉だったことが、京をどうしようもなく打ちのめした。
 眠っていても起きていても。今後この身に起こるすべての事象が、最早自分にとっては何の意味も持たないことだ、と。
 最初の絶望――。
 このとき生まれて初めて、自分は絶望という言葉の意味を知ったのだと京は思う。
 己の力が及ばないことなど、この世にあるとは思っていなかった。自分の能力を以てすれば、どうにも出来ないものなどひとつもないと信じていた。
 それは草薙である京にとってごく自然な思考で、決して傲慢などではなかったのだ。
 ――依存していたのは俺の方か。
 京は自虐的にそう思った。本来自虐などという行為は、自分には似合わないのに。
 いつからだろう。
 常に、ではなかったにしろ、庵という鏡に己を映しその姿を点検することで、京は自己を確認するようになっていたのだ。
 相手になどしていなかった筈なのに。あんなに否定して来たのに。
 草薙京という人格を形成し確立させるものの一端に、いつの間にか、八神庵というピースが確固たる居場所を見つけてぴったりと嵌まっていたことを、京は愕然とする想いで知った。
 その日から庵は、彼岸に憧憬を抱きながら此岸で生きている。京の隣で、かつてない程に緩やかな呼吸をもって。






 初めてそれを望んだとき、全く抵抗を見せない庵に、これは訊いてはいけないことだと思いながら、どうしても不安を拭えず、京は慎重に言葉を選んで、後悔しないかという意味の問を発していた。
 庵は自分の気持ちを探すように少し考えた後で、
『気持ちのいいことは嫌いじゃない』
 さらりと答えた。
 男が男を受け入れるという行為に、快楽以外の情動が伴わない訳がない。逡巡も躊躇いもなく、こんな行為が受け入れられること自体、尋常ではない筈だった。
 なのに。
 そんな現実も、すべての事象に無関心な今の庵にとっては取るに足らないことだというのだ。
 思わず眉根を寄せた京の顔に何を思ったのか、そのとき庵は珍しく能動的に言葉を継いだ。
『おまえは俺を傷つけたいのか? 貶めたいか?』
 京が首を横に振ると、
『ならばそれで充分だろう』
 そして、
『それに、』
 最後に呟かれた言葉は京の胸を鋭くえぐった。
『これは余生だからな』
 庵はそう言ったのだ。諦めとは違う、ただ穏やかなだけの貌で。早くその先へ行ってしまいたいと云いたげに。
 ――ああ、まただ⋯⋯。
 京は唇を噛み締め俯いた。
 二度目の絶望。
 それから何度自分は絶望を味わったのだろう。
 何も望まなければいいのだ。そうすれば絶望を味わうことはない。それを解っていながら尚、京は庵に対し何かを期待せずにはいられなかった。望むことをやめてしまえば何もかもが終わってしまうような、そんな気がしていた。
 未来が閉ざされてしまうような閉塞感に襲われて。
 以来、京が求めれば、庵は肌を重ね合うことを拒まない。
 そんなとき決して無反応ではない庵が、けれど何を思っているのか、京に解ったことは一度としてなかった。そしてまた、己が何を望んで彼の肌に触れているのか、それさえも曖昧だった。
 ただ、その躰に触れたなら、生きていることを実感できる。
 庵が生きていること。
 そして自分が生きていること。
 それだけは確かなことだった。
「草薙⋯⋯ッ」
 その身に京を受け入れる瞬間痛みを覚えたのか、庵が引き攣った声を上げた。
 いまの庵には羞恥も禁忌もない。おそらくプライドも。
 焦らされれば自ら己の欲望に触れることさえ厭わない。今は苦痛から気を逸らすために自身をなぶる庵の手に、京は己の手を重ねた。
「名前、呼べって⋯⋯言った、ろ?」
 熱に掠れ上擦った声で庵を促す。庵は呼吸困難に陥ったように何度か喘いで口を開いた。
「⋯⋯キョ、ウ」
 その音を耳にして、京はぐっと奥歯を噛み締め眉間に皺を寄せた。
 解っていた。彼に何度この名を呼ばせても、それがかつての音(それ)とは違う響きしか持たないと云うことくらい。それでも諦め切れなくて、情事の最中にだけ、京はこうして彼に名を呼ぶことを請うた。
 庵はそれに応えてくれる。
 けれど⋯⋯。
 その度、京は絶望を深くするのだ。
 生きているこの躰はこんなにも熱いのに。庵の心はその殆どが、未だ冷たく凍りついたまま。不安定に揺さぶられながら、そのまま朽ちてしまいたいと望んでいる。
 ――京。
 かつてその名を呼ぶことは、庵にとって能動的な行為だったのに。草薙ではなく京という一個人を認識してくれていた証拠。庵本人の確かな意志を表した唯一の。
 あの頃の庵は、貴様と言い、京と名を呼んで、そうすることで僅かにでも己の意志を保っていた。京を殺すことだけは、一族の総意でも何でもなく、ただ己の意志だ、と主張しながら。
 京は力任せに庵の躰を突き上げた。
 もっともっと彼の言葉で話をして欲しい。そしていつかまた彼の意志でこの名を呼んで欲しかった。あの頃と同じ響きを耳にして安心したいのだ。
 エゴだと思う。それでも。
 庵の声が、聞きたい――。
 いつ訪れるとも知れぬ、決して来ないかも知れないその日のために、京は今この男の側にいるのかも知れない。
 京が導いてやらなければ決して背に回らない腕も。
 背に肩に、爪を立てることもなく強く拳を握る手指も。
 哀しくて、愛しくて。
 京は胸に込み上げる熱い塊を必死に押し止どめる。
 熱に浮かされ生理的な涙に潤む目で京を見上げた庵は、今にも泣き出しそうに赤く充血した眼で自分を見下ろしている男の貌に気付いた。
「キョウ⋯⋯」
 無意識に京へと伸ばされた庵の両手は、ひどく柔らかな優しい仕草で彼の頬を包み込んだ。
「なぜおまえがそんな表情(かお)をする⋯⋯?」
 その瞬間、きつく閉じられた京の目蓋の内側から行き場を失った熱いものが一筋頬を伝い落ち、庵の肌の上で弾けた。






 何も起こらないことを平穏と呼ぶのならば、そんなものは欲しくなかった。庵との関係に京が求めたものはそんな穏やかさではない。
 波瀾万丈でいい。そう思う。けれどその嵐に今の庵を叩き込んでいいという正当な理由を、京は持ち合わせていないのだ。
 それがもどかしく焦れったい。
 オロチが斃された後も、庵が蒼紫の炎を失うことはなかった。だが、自分たちが拳を突き合わせることはもうないのかも知れない。それが試合であれ私闘であれ。
 京はそのことに淋しさを感じている。
 せめて彼と闘うことが出来るのならば。そうすればあんな馬鹿げた茶番をくり返しはしないのだ。彼との肉の交感に溺れたりはしない。
 けれど日々は穏やかに過ぎていく。
 真綿で首を絞められているような、息苦しさと苛立ちを覚えるのは何故だろう。
 いっそ一思いに刺し殺される方がどれだけ楽だろう。
 此岸で京は庵を案じている。彼の意志で、庵が此岸に戻って来るのを待っている。
 そして庵は――。
 まだ彼岸を忘れてはいない。
 そんな生ぬるい京と庵との日常に突如水を差したのは、ひとりの男の訃報だった。







 庵の父が亡くなった――。
 その訃報は、正月を間近に控え、草薙本家に滞在していた京の元へと届けられた。
 京は平常は東京でひとり暮らしをしているのだが、盆や正月といった祭事には草薙当主としての務めがあるため、まめに帰省していた。
 本音を言えば京だって、その手の面倒事は、先代でもある父・柴舟に代行して貰いたい。だが格式張ったことを嫌うのは血筋のようで、京以上に落ち着くという言葉の似合わない彼の父は、家督を息子に譲って以降、修行と称して、まるで祭事の時期を狙いすましたタイミングで旅に出てしまい、平時以外はまず捕まらない。だから今年も、嫌々ながら、京は年末から草薙家の本邸に腰を据えていた。
「八神の先代が⋯⋯?」
 八神家からかかってきた電話の内容を母親の静から伝え聞き、京は知らず瞠目していた。
 庵が分家の八神当主として、宗家である草薙邸へ新年の挨拶をしに訪れたのはつい2日前のことなのである。そのときふたりだけで話す機会があったが、庵の口からそのような話は出なかった。祝いの席で口にすべき内容でないことも事実だが、特に変わった様子は見受けられなかった。
 今の庵のことなら、それがどんなに些細な変化でも自分が見落とす訳はない。
「前からどっか悪かったとか?」
 持病でもあったのかと疑い、静に確認を取ってみたが、
「いいえ⋯⋯そのような話は聞いておりませんでしたよ」
 彼女も知らないと首を傾げた。ならば所謂突然死なのだろうか。
 そこまで考えて、京は不意に沸いた疑問を口にした。
「なあ、お袋。八神の⋯⋯庵のお袋さんはまだ生きてんのか?」
 京は庵から家族の話を聞いたことがなかった。蒼子(そうこ)という名の年子の妹がいるのは知っていたが、彼の両親については話したことがない。
 京の質問に静は首を振った。
「もう亡くなっていますよ。もう随分と昔のことになるわね」
 その頃のことを思い出したのか、彼女の眼は遠くを見透かすように眇められた。
「庵さんを産んで暫くして⋯⋯精神を病んだと聞いたことがあります」
「⋯⋯⋯⋯」
 京の顔が強張る。
「ふたり目のお子さんが産まれてすぐだったかしら」
 ――亡くなったと聞いたのは。
 当時を回顧する静の表情はひどく悲しそうだった。同じ女として、そして同じく外部から、重責と由緒のある旧家へ嫁いだ者として、庵の母親に対する感情にはいろいろと複雑なものがあるのだろう。
 その後草薙家には、当日のうちに八神家から葬儀の日時を伝える第二報が入った。庵の父の死因が脳疾患であり、突然死だったと判明したのはこのときである。
 その電話で、葬儀に参列することを八神家の人間に伝えながら、とんだ正月になったなと京は思った。
 嫌な予感に気が重くなっている自分を知る。未だ不安定な庵の精神が、その原因だった。
 ――せっかくいい方向に向かってると思ったんだけどな。
 受話器を下ろしながら、京は大きな溜息をついていた。
 少しずつではあるが確実に、庵には此岸に戻ってもいいかという、そんな気になりかけていた節がある。年末に、再び音楽活動を始めようとしたことも、その気持ちの表れだったのだと思う。
 けれど庵は今、ひどく不安なバランスを保って断崖絶壁に立ち続けているような状態で。その足場はかぎりなく危うく、脆く。後進することよりも、前へ踏み出す方がいくらも楽な状況であるに違いない。
 ほんの些細な出来事が引き金になって、いつまた殻の中に閉じ籠もろうとするかも判らない。それ程に頼りない自我だと知っていた。だからこそ今回の、突発的な肉親の死が、庵の不安定な精神にどのような影響を及ぼすか、それが京には気掛かりだった。



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