『雲の名前』『贖罪』より改題


 KOF97が閉幕してひと月余が過ぎた。
 9月も下旬になったというのに、日本ではまだ残暑の厳しい日が続いている。
 蒸し暑くてやりきれない。
 庵に心を残したまま、京は草薙本家で日々を送っていた。
 あのときのことは、いまでも後悔していない。ああでもしなければ、自分が殺されていたかも知れないのだ。
 あのとき。
 それは、KOF97の閉会式の会場で優勝セレモニーが行われようとしていたときのこと。
 オロチの血の暴走に呑まれて我を無くした庵は、尋常ならざる姿で、優勝チームのメンバーだった京の目前に立ちはだかった。その庵を、京は自らの拳で完膚無きまでに叩きのめした。
 大会後の騒動を経、庵は意識不明の重体のまま日本へと搬送されている。ちづるから得た情報では、何日か前にようやく意識を取り戻し、いま彼は八神家で療養中だという。
 元来、京は楽天家だ。物事を悪い方向に考える傾向にはない。しかし、庵のことを思うとき、なぜか彼は無性に暗い気持ちに苛まれる。胸をふさぐ、わけの判らない不安が、KOF97閉幕以来、京の顔から笑みを奪い眉間の皺を深くさせていた。
 そんな京の元を、ある日、八神家の使者と名乗る人物が訪なった。
 彼は草薙家に和解を申し入れたいと述べた。
 男の吐いた台詞に京は己の耳を疑った。
「和解⋯⋯だと?」
 庵は、オロチの力を借りてでさえ――血の暴走に支配されてでさえ――、京を殺すことができなかった。その事実を踏まえ、八神家では、オロチという後ろ盾を失った今、草薙を滅することは永遠に不可能だと判断し、それならば、草薙にこれ以上楯突くのは得策ではないと考えたらしい。
 その、八神一族の変わり身の早さは、京に嫌悪感を抱かせるに充分だった。
「ざけんなよッ!」
 そう叫ぶ一方で、しかし京は、庵がそんな理屈で簡単に引き下がるはずはないとも思っていた。
『草薙も八神も関係ない』
 それは京の口癖だったが、庵もまた幾度となく口にしていたのだ。八神庵としての自分が、京を、そして草薙一族を屠るのだ、と。つまり庵にとっても、オロチは庵当人とは関係のない存在だったということになる。
 ならば、一族が下した決断がどうであれ、彼個人の意志はそれとは別のところにあるはずだ。
「八神を⋯⋯おまえらの当主をここへ寄越せ。あいつが自分の口で和解したいって言うんなら、そのときは考えてやるよ」
 そんなことは有り得ない。そう決めてかかった台詞で、京は使者を追い返した。







 数日後、京の希望どおりに今度は庵本人が現われた。
 家の者に彼の来訪を告げられ、京は庵の待つ客間へと足をはこぶ。
 庵は縁に出ていた。
 緑鮮やかな庭先にあって、その緑に負けず劣らず鮮やかな色彩をもつ男の赤い髪が、ひときわ京の目に映える。その髪の色と、差し込む正午の陽差しの眩しさに、京は思わず目をすがめた。
 廊下の角を曲がって現れた京の姿に気付いたのか、庵の首がかえる。彼は無表情に京の顔を一瞥し、そして、用意された部屋へとしずかに入って行った。
 彼の後を追い、京も室内に足を踏み入れる。
 庵は出入り口に背を向ける格好で、下座にすわっていた。
「⋯⋯⋯⋯」
 京は口を開きかけ、しかし声を飲み込んだ。自分が現れたとなれば、相手はあの庵だ、いつもの悪態で迎えてくれるものと思っていた。だから、彼に掛けるべき言葉など、京は用意していなかった。
 まさかこんな素っ気ない態度で出迎えられるとは。
 戸惑いながらも上座につく。
 互いに視線を合わせないまま。
 京と対面に座し庵の口からも、一向に挨拶の言葉が出る気配はない。
 そんなふたりの沈黙の間に、唐突に一匹の蝉の声が、庭からやかましく割り込んできた。
 生まれる時期を間違えたのか、死期を逃したのか。いずれにしろ季節外れの蝉だ。
 しばらく京は、その蝉の声に耳をあずけて気を紛らせていたが、
「それにしても、えらく長げェお休みだったじゃねえの」
 たくさんの選択肢の中からそんな台詞を選び出し、ようやく言葉を口にした。
「やっとお目覚め、か?」
 しかし庵は無反応だ。伏し目がちに畳の上へ投げられた彼の視線は焦点が曖昧で、どこを見ているものか判然としない。
「王子様のキスでも待ってたってかァ?」
 笑えない冗談にさえ、庵はピクリとも動かない。
「ま、⋯⋯そんなガラじゃねえか」
 ひとりごちて、
「なんだよ、無視かよ」
 庵の様子をいぶかり、ふと思い当たった出来事に京は眉をひそめた。
「もしかして怒ってんのか? ⋯⋯あんときのこと」
 あれ以外に遣り様があったとは思わないが、庵に向かって技を放ち、結果彼に重症を負わせてしまったのが京自身であることは確かなのだ。それを恨みに思っているのか。
 しかし、
「まさか」
 庵は京の懸念を言下に否定し、そして、
「赦しを請わねばならんのは我々の方だ。これまで八神が草薙に対して行ってきた非道の数々⋯⋯どうか赦して貰いたい。⋯⋯このとおりだ」
 そう言ったかと思うと、スッと畳に両手をついた。ごく自然な、流れるような挙措で。そこには躊躇いがなく、葛藤さえ微塵も感じられなかった。
「!?」
 背筋が粟立った。京にとって、それは衝撃的な光景だった。
 土下座、だ。庵が、あの八神庵が、自分に、草薙京に頭を下げている。
 京には目前の状況が、にわかには信じられなかった。
 庵は顔をあげない。
「無論ただで赦して貰おうとは思っていない。出される要求はなんでも飲む」
「――⋯⋯」
 庵は、誰かに用意された台詞を、ただ読み上げているだけのようだった。その声から、彼の感情が窺えないのだ。
「八神、もうよせ。顔上げろ」
 その言葉を聞いてやっと庵は顔を上げ、京の顔を見つめ返した。だがその双眸には、京の知る、ひとを射殺すような鋭さがない。
 ここへ来てようやく、京は庵の異変に気が付いた。
 京は男の貌を凝視する。
 これは、誰だ?
 この男はいったい何者だ?
 すがたかたちは、己の知る、あの八神庵とそっくりだ。だが違う。どこかが決定的に違う。何かが欠落している。
 牙のない猛獣(けもの)。
 毒をもたない蛇。
 目の前にいる男の中から、彼の核になっていた物が明らかに失われているのだ。
「おまえ⋯⋯誰だ⋯⋯?」
 拭いようのない違和感が、寒気となって京を襲う。
 京は一瞬、庵の記憶喪失を疑った。おのれの立てたその仮説があまりに突飛で馬鹿馬鹿しく、自嘲しそうにもなったが、それ以外には思い当たる『状態』がなかったのだ。
 それでも、問い質してみれば、庵は己が何者であるのかを答えられたし、もちろん京のこともちゃんと覚えていた。過去の記憶も定かだ。
 だとすれば、もう原因はひとつしかない。
「俺のせいか? 俺がオロチを斃しちまったから、だからおまえは⋯⋯」
 庵はYESともNOとも答えなかったが、京は確信してしまった。
「そう⋯⋯なんだな」
 八神の当主は『器』なのだという話を、かつてちづるから聞かされたことがある。
 ずっと昔から――六六〇年前のあのときから――八神の当主は、オロチ復活の際その依り代の一端を担う存在のひとつとして、この世に用意される器だと言われてきた。いつ、オロチがその復活のときを迎えてもいいように、途切れることなく延々と生み出され続ける器。ただし、その言い伝えが真実かどうかを確かめるには、オロチを斃す以外に方法がない。それ故、これまでその『器説』は、憶測の域を出ない、噂話でしかなかった。
 その憶測が、ついに証明されてしまったということなのか。
 京は戦慄をこらえながら、目の前に座す男を眺めた。
 あれほど意志がはっきりと読みとれた庵の顔が、いま、京の目にはぼやけて映る。それは恐らく、彼が目的とするもの、目標としていたものを失くしたせいだ。
 草薙を滅する――。
 ただそれだけのために生きていた、生かされていた男が、オロチの消滅と同時に、目指すものすべてを持っていかれた。器を満たしていた物をごっそり奪われたのだ。
 人格の、喪失。
 いまの庵は、角を削り取られて丸くなった石だ。踏みとどまる術をなくして、流れのままに川を転がっていく、寄る辺ない存在。
 これが本来の、本物の、八神庵だというのか。
 ――こんな男が⋯⋯?
 京は脂汗をかいている自分に気付いた。気分も悪く、ひっきりなしにむかつきが込み上げている。
 脳が拒絶しているのだ、目の前の現実を理解し、受け容れることを。
 それでも、その場を逃げ出すことだけはかろうじて踏みとどまっている。京にそうさせているのはもはや意地でしかなかった。
 吐き気をこらえ、京は言う。
「俺がどんな無理難題ふっかけたとしても、それを受け入れろって、そう言われてココに来たんだ?」
 庵は頷いた。
 過去の、草薙への、そして京に対する仕打ちを、草薙、ひいては京が赦すと言う日まで、庵は贖罪に彼の身と彼の人生のすべてを費やす。
「慰謝料くれって言ったら払ってくれんの?」
「ああ」
 戯れで言った台詞を、真顔で肯定された。
 頭が、痛い。
「なあ、ホントはさ、マジで悪かったなんて思ってねえんだろ?」
 そうだと言って頷いて欲しい。
「和解なんて本意じゃねえよな?」
 それは京の願望。
「だってそうだろ。俺のこと殺すんじゃなかったのかよ? 草薙も八神も関係ないって、おまえだって言ってたじゃねえか!」
「⋯⋯⋯⋯」
「俺のことが気に喰わないから、だから俺を殺すんだって!」
 そう口にしていた言葉さえ、彼自身のものではなかったというのか。
 覇気のない、しかし邪気もない、澄んだ庵の瞳にやわらかく見つめ返されて、京はどうしようもなく打ちのめされる。
 部屋の外では、狂ったように、いまだ蝉が鳴きつづけていた。







 そのまま庵を放り出すことも、京にはできたはずだった。
 一昨年、1995年開催のKOFで彼と出会うまで、京は庵の存在など何も知らず、八神家にも興味を持ってはいなかった。オロチを屠った今となっては尚更、自分には関係がない、そう言って、彼との関わり一切を断ち切るのは、簡単なことのはずだった。
 だが。
 京には、庵をそのまま帰し八神家に放置しておくことがなぜか出来ず、彼と会う機会を持ち続けたいと望んだ。
 そうして、週に一度、庵を自分の元へ呼び付けた。
 口実は鍛練の相手である。
 庵は乞われるまま、週に一度、草薙の屋敷に赴く。彼にとっては、これも一つの贖罪の在り方なのだろう。
 しかし、口実にした庵との手合わせは、京には物足りないものだった。それは庵が炎を使わないせいだ。
 オロチを屠った後も、庵の身体にその血は流れつづけている。だから炎が使えなくなった訳ではない。なのに彼は炎を使わない。
「使えよ。こんなんじゃ相手になんねえ」
 何度目かの手合わせのとき、痺れを切らした京が庵に炎を使うよう促した。すると、
「それだけは――」
 勘弁して欲しい、と庵は言葉を返してきた。
 心が躍った。それは、これまで自分に何を言われてもただ諾々と従うだけだった庵が、はじめて見せた拒絶のいろ。しかし続く台詞に、期待に膨らんだ京の胸はあっけなく萎んだ。
「八神の決定事項だから」
 一族の命により、庵の蒼い炎は封印された。だから庵はその決定を忠実に守らなければならない。
「おまえは俺と闘いたくないのかよ」
「わからない⋯⋯」
「じゃあ、もしまたKOFがあったら? おまえは出場しないのか?」
 庵は首肯した。
「なんで?」
「出場する理由がない」
「⋯⋯俺を殺すってこと?」
 庵はまた頷く。
「おまえホントにそれしか考えてなかったんだな」
 溜息のように言葉がこぼれた。
 過去二十余年、それしか考えて来なかった男が、いま日々をどう過ごしているのか、京は興味をかきたてられた。
「おまえさ、俺が呼ばない日はどこで何してんだ」
「なにも」
「なにも、って⋯⋯」
 素っ気ない返事に言葉が詰まる。
「そうだ、バンドは? おまえの趣味って、バンド活動なんだろ」
「あれは嘘だ」
「ウソ?」
 庵の説明によれば、KOFに提出されたプロフィールはすべて八神家の者によって用意された虚偽だとのこと。
 何もかもが嘘だなどと、にわかには信じられない話だ。だから、それを確かめたいと思い、京は所望した。
「おまえの部屋に行ってみたいな」
「八神の?」
「ちがう。おまえ一人暮らししてたハズだよな? そっちの方」
 まだ引き払われていないのなら見てみたい。そこへ行けば、かつての庵がどんな生活をしていたのかも判るだろう。
 京の希望はすぐに聞き入れられ、庵はその日のうちに京をあるマンションの一室へと案内した。







 部屋の空気は淀んでいた。京は室内の窓という窓をすべて開け放つ。
 KOF97に出場するために部屋を空け、それきり庵はここへは戻っていなかったらしい。だから今この部屋は彼がここを出た、そのときのままになっている。
 あれは嘘だと言った庵の言葉どおり、音楽の匂いがするものは室内のどこにも見当たらなかった。デッキもCDも、もちろん楽器類も。音楽雑誌一冊置かれていない。いや、音楽雑誌にかぎらず、一冊の本もなかった。家具や電化製品でさえ必要最小限といった感じで、電話がないのは、携帯を利用しているからだと解釈すれば不自然でもなかったが、テレビが存在しないという庵の部屋の風景は、京の目には異様に映る。
 一体この部屋の中で、彼は数年間、どんな生活をしていたのだろう。
 食事は自炊していたのだろうか。
 部屋の掃除や洗濯は自分でやっていたのだろうか。
 京はためしにキッチンへ行ってみた。食器類は一揃え置いてあるし、調理器具も一通りそろっている。料理をするには充分な環境だ。しかし、庵が部屋を空けていた数カ月間使用されていなかったせいで、それまでにも使われていなかったのかどうか、京には判別できなかった。
「おまえ、食事はどうしてたんだ?」
 京には本来ひとの私生活を詮索する趣味などない。だが訊いてみずにはいられなかった。
「毎日、通いの家政婦が作りに来ていた」
「掃除とか洗濯とかも?」
「ああ。その家政婦がやっていた」
 次に京はクローゼットを開いてみた。いかにも、というデザインの服ばかりが何着も吊るされている。それをひとしきり物色するように眺め、
「服なんかは、自分で買ってたんだろ?」
と、庵をふりかえった。
 しかし庵は首を振る。
「じゃあこれはどうしたんだ」
 京はクローゼットの中の服を指さした。
「本家の人間がそろえた」
 全身コーディネートされて、一着ずつアクセサリーまでの一式が用意され、送られて来たらしい。
「特にこれが気に入ってるとか、ないわけ?」
「ない」
「けど⋯⋯、その格好とかさ、髪の色とかもさ、それがおまえの好みなんだろ? 違うのかよ」
 庵はあっさりと首を振った。
「こうするように言われて、そうしている」
 おのれの装いに好みなどない。服など着られればいい。
「じゃあ、肉が好きだっていうのは?」
 KOFで紹介されていた庵のプロフィールをひとつひとつ思い出しながら尋ねる。
 だが庵はふたたび首を振った。
 食べ物も同じ。食べられたらそれでいい。美味しいとか不味いとか、庵は味覚に関心がなかった。
 京の中で、かつての庵の姿がどんどん壊されていく。
「彼女がいたっていうのもウソなのか?」
 スポーツは何でも得意だというのも、全部?
 なにもかも、演じて⋯⋯いや、演じさせられていただけだというのか。八神庵という、オロチの手によって創り出された人格を、八神家の人間の手を借りながら、筋書きをなぞって、ただ役者のように。
 本当にそこにおまえの意志は働いてなかったのか?
 ――庵の意思が見たい。
 京はふいにそう思った。かつての庵のことも知りたいと思うが、今はそれ以上に、目の前の、この本来の庵というものを知りたい。そのためには少しでも長く彼の側にいるのがいいだろう。
「今日泊まってっていい?」
「ここに?」
 京はうなずく。
「おまえが嫌だって言うなら帰るけど」
「⋯⋯⋯⋯」
 庵は無言で寝室に入って行った。彼は枕のカバーを取り替え、ベッドのシーツを替える。そして、洗いざらしのパジャマを京に向かって差し出した。
 この一連の行動を、『嫌ではない』という彼の意識の表れだと解釈していいのだろうか。
 ――ちがうな。
 京は自分の想像を否定した。泊まりたいと言った自分の望みに、庵はただ応えてくれているだけだ。
 夜になり、庵はリビングのソファーで毛布にくるまって眠りはじめた。長さが足りず、彼の脚はソファーからはみ出している。
 京は庵が眠っているのだろうと気遣い、起こさぬよう足音を忍ばせ、そっと彼に近づいた。が、庵の目は開いていた。
「眠れないのか」
 窮屈な格好で寝ているからだろう、と京が言えば、
「ちがう」
 そう答えが返ってきた。
「じゃ、なんで」
「おまえが起きてきたから」
 なにか用があるのかと思って起きた、と庵は言う。庵は京の気配をいつも窺っているのだ。京にいつ何を望まれ言い付けられてもいいように。
「来いよ。ベッドで一緒に寝よう」
 庵は、何故とは訊かない。なにをするにも、京は庵から理由を尋ねられたことがなかった。彼はただ従うだけ。庵の意志はいつだって見えない。
「シングルでもソファーよりはマシだろ」
 京は庵が拒絶するだろうと思った。いや、拒絶して欲しかったのだ。男同士、友達でもなんでもない自分たちが、さして広くもないベッドにふたりで眠るなんて。
 頼むから、変だと言ってくれ。
 そんなこと、気持ち悪いと断ってくれ。
 祈るように心の中で願う。
 なのに庵はソファーから立ち上がる。毛布をその場にのこし、寝室へと向かう。その背に理不尽なやるせなさを感じながら、京は彼の後を追った。
 ベッドの端で壁の方を向いて横になっている庵に声を掛ける。
「こっち向いて」
 庵は言われたとおりに寝返りを打った。
「もっとくっついて」
 躊躇いもなく、言われたとおりに這い寄ってくる。
「目ェ閉じて」
 言われたとおりに目が伏せられ⋯⋯。
 言われたとおりに――。
 京は急いでスタンドの明かりを消した。
 目頭が急速に熱くなっていた。
 いまが夜でよかった。
 眼の効かない暗闇でよかった。
 そうでなければ、きっと自分は滲んでいく視界に耐えることができなかっただろう。







 翌朝、京は庵に提案した。
「八神の屋敷、出て来ないか?」
 これ以上、庵を八神家に置いておきたくなかった。
「そんで、また一人でここに住めよ」
 京に請われるまま、庵は元の一人暮らしに戻ることになった。しかし今度の生活には、金銭面以外での八神の人間の関与は一切ない。それは京の希望で、八神家も庵本人も素直にその要求に従っている。
 庵の中に、明確な彼の意思を見つけたい。それが京のいだいた願望だった。そして、この欲求を満たすためには、庵を八神から引き離すべきだと思ったのだ。今後すこしでも、八神の人間に庵の言動に制限を加えさせないために。
 いつしか庵は炊事や洗濯といった家事全般を、ひとりで全部こなせるようになっていた。買い物の仕方から何から、生活に必要な知識を、京は自分の知っていることなら何でも彼に教えた。庵はもともと物覚えがいいようで、一度教えたことは、その場でたいてい吸収した。食事も、京がリクエストすれば、料理本を片手に調理する。
 京は少しでも長く庵の側にいるために、頻繁に部屋を訪れた。
 庵はコーヒーをブラックで飲む。これは、彼のイメージを作り上げた八神の者たちが、かつての彼にそうするよう指示していたことの延長だが、さすがの京も、習慣づいている部分でまで庵の変化を求めようとはしなかった。
 庵が飲みかけでテーブルに放置していたコーヒーに何気なく口をつけ、京は尋ねる。
「な、庵、牛乳かなんかある?」
 いつの頃からか、京は庵のことを八神ではなく庵と呼ぶようになっていた。自分の知っていたかつての庵と今の庵とのあまりのギャップに、これまで通りに彼を苗字で呼ぶことが躊躇われたからだ。
 京に尋ねられた庵は、座っていたソファーから急に立ち上がった。そして上着と財布を手に、唐突に部屋を出て行ってしまう。
 いきなり彼がなにを思い立ったのか、京には判らなかった。
 数十分後、庵はコンビニの袋を手に部屋へ戻ってきた。袋の中から取り出して、彼がテーブルの上に並べたのは、牛乳とクリープとそしてコンデンスミルク。買いに出たのはいいが、どれが京の好みか解らなかったということらしい。
「俺は、何かあるかって訊いただけだぜ」
「欲しいから言ったのだろう」
 だから買ってきた。それが庵の言い分。
 庵は京の思考の先を読み、買い物に出掛けたのだ。
 こうやって、いつも京のことに気を配り、庵は先回りした行動をとる。常に彼は京の言動に注意を払っているのだ、京本人に、それとは悟らせないさりげなさで。
 庵の思考回路は壊れてなどいない。正常に働いている。京の言葉の意味するところを読み取り、それに見適った行動をとることができる。
 だが、そんなことが確かめられたからと言って何の足しになるだろう。そんなことが判れば判るほど、京の失望は大きくなるばかりだった。
 いっそ、庵はどこかがおかしくなってしまっていて、なにも理解出来ないのだと結論づけられる方が、余程マシなように思えることがある。あらぬ期待を持たずに済むだけ、その方がずっと。







「なあ、テレビ買わねえ?」
 ある日、京が庵に言った。
 庵の部屋に彼とふたりきりで閉じこもっていると、京はしょっちゅう手持ち無沙汰になる。マンガや雑誌を持ち込んだりしてみているが、それにも飽きは来る。庵と会話を交わそうにも、このままではネタそのものが尽きてしまう。
 京の提案に、庵は一言、わかったと応えた。
 そうして3日後に京が庵の部屋を訪れたとき、リビングの隅には36型のワイドテレビが鎮座していた。テレビは新品。箱からは出されていたが未だコードが繋がれておらず、電源も入っていない。
「いつ買ったんだ?」
「一昨日」
 このとき庵は、片足を床につけ、もう一方の足は胸に抱くような格好で、出窓の突き出した部分に座っていた。
「これ、おまえが選んだのか」
 テレビを指して京が訊けば、庵は首を振った。
「それが売れ筋だという話だった」
 庵は店員に、今いちばん売れている商品は何かと尋ねただけだった。そして、置くスペースがあるのなら、と勧められたのが36インチのワイドテレビで、庵はその場で現金を払い、発送の手続きをしたのだと言う。
 テレビひとつを選ぶにも、そこに庵の選択や積極性は感じられない。揚げ句、買ってきたそれを二日間放置し、使おうともしていないのだ。
「興味ねえの?」
「?」
「テレビだよ」
「ない」
「⋯⋯⋯⋯」
 庵の消極さについて考え始めるとますます暗い気分に支配されてしまいそうで、京は強引に頭の中身を入れ替え、テーブルの上に置かれていた使用説明書を手にテレビの前へ陣取った。そしてコードを繋いで電源を入れ、リモコンを片手に設定をはじめる。
 庵はそんな京の様子をしばらく見守っていたが、自分が手助けすべきことはないと判断したのか、そのまま視線を窓の外へと向けた。
 京がこの部屋にいるとき、庵はいつもこんな調子だ。黙って京を観察し、京が何かを求めているときにはそれを敏感に察知して、京が口に出して頼むより早くたいていの要求を満たしてしまう。
 テレビの基本的な設定をし終えて京が顔をあげたとき、庵はガラスの向こうに視線を投げ、まだ出窓のところに腰掛けていた。
「なに見てるんだ?」
「なにも⋯⋯」
 今度は訊き方をかえる。
「なにが見える?」
「建物」
「ほかには?」
「道路」
「それだけ?」
「人」
「それから?」
「空」
 なんて無味乾燥な返事だろう。
 京は我知らず悲しくなっていた。それでもそんな感情は表に出さず、さりげない口調で質問を続ける。
「雲、出てるか?」
「すこし」
「何雲?」
 庵はじっと空を見上げたまま、京に困ったような横顔を見せた。
「⋯⋯わからない」
「雲の種類なんて、普通そんなに知らないか」
 笑って、京は庵のそばに近づいた。腰をかがめ、窓越しに空を眺める。澄んだ青色のカンバスに筆で白い絵の具を掃いたように、雲が幾筋か流れているのが見えた。
 たぶん筋雲というヤツなんだろう、と当たりをつけながら、
「俺にも判んねえや」
 京はまた笑った。
 ふと頬に視線を感じて首をひねると、いつの間にか空を見ることをやめていた庵が、至近距離で自分に視線を向けていた。
「どうかしたか?」
「雲に名前があるのか?」
 庵は不思議そうに言う。
「ああ。俺もちょっとしか知んねえけど、すげぇいっぱいあるらしいぜ。聞いたことねえ? イワシ雲とかうろこ雲とか」
 耳に馴染んだ名前をいくつか挙げてみたが、庵は知らないらしかった。
「んー、ならこれは? 入道雲。これなら知ってるだろ」
 庵がやっと頷いた。
「夏に見える雲だな」
 京はホッとして、つづいて暗い気分に浸される。
 庵が入道雲を知っている。ただそれだけのことに、ここまで安堵してしまうなんて。
 夕食後、京はテレビをつけた。ひととおり番組をハシゴして、適当にチャンネルを定める。
 選んだのは、俗にいうお笑い系バラエティ。そこそこ視聴率も取っている、人気番組のひとつだ。休日のゴールデンタイムの放送枠を押さえいるだけのことはあり、クオリティが高く、面白い。
 庵は食器を片付けたあと、彼の指定席であるらしい出窓のところに座って夜景を眺めていた。
「おまえもこっち来て観れば?」
 京が自分の横のソファーを手で叩いて催促すれば、彼はおとなしく窓辺を離れ移動してくる。そして言われるまま、画面に視線を向けた。
 だが、ブラウン管の中がどんな状況になろうと、庵の表情はピクリとも動かない。
「ちゃんと観てる?」
「見ている」
 たしかに画像は庵の目に映り、音声も彼の耳に届いているのだろう。しかし、その目はただ画面を眺め、その耳は音を聞いているだけ。視覚も聴覚も正常に働いているが、脳ではその内容までを理解していない。
 京は次第に番組に対する興味を失い、自分の考えに引き込まれはじめた。
 庵は、オロチの支配から解放されて自由になった。それは喜ぶべきことのはずだった。
 なのに。
 解っているのだ、頭では。
 いまの庵が本来の彼なのだ、と。
 そう、これが、本物の八神庵。
 でもダメだった。
 気持ちが納得しない。
 これは我儘なのだろう。
 自分勝手な考えなのだろう。
 それは京自身にも、第三者の思考で理解できる。それでも庵には、自分の知っている『八神』に戻って欲しいと思ってしまうのだ。
 そんなふうに感じる己の気持ちを制御できない。
 京には、庵に対する禁句がひとつあった。
『あの頃のおまえに戻ってくれ』
 言えば庵は演じてくれるだろう。
 偽りの殺意を漲らせ、偽りの言葉で憎悪をぶつけて、自分の望みを叶えようと努力してくれることだろう。
 嘘だと気付かせぬほど完璧に。
 でもそれは飽くまでも虚像。
 それが解っているから。だから、京にはその言葉を吐くことが許されない。吐いてしまった後に、おそらく自分が襲われるであろう絶望感を想うだけで、京の気分は暗澹としてくる。
 庵は京のとなりで無表情にテレビの画面を眺めつづけている。
 それまでは自分も一緒になって笑っていたくせに、ブラウン管から聞こえてくる観客の笑い声が、いつしか京には耐え難いものに変わっていた。気に障る、馬鹿笑い。神経を逆撫でられる。耳を塞ぎたくなるほどに。
 目に見えない何かに追い詰められていく。
 自分と庵との間には、見えない敵が立っている。
 見える敵が相手だというのなら、それが例えオロチでも、自分は何度だって斃してみせるのに。



next