その日も庵は出窓のところに腰かけていた。
晩秋。
あとひと月もすれば、外気を窓ガラス一枚で隔てただけのそこは、寒さに最もちかい場所になる。それでも庵は窓際から離れないつもりだろうか。
「おまえ、バイトしてたことある?」
ないだろうなと思いながら、訊く。
「いや」
案の定。
「じゃあ一日中この部屋にいたんだ、ひとりで」
「ああ」
「前からそうしてた?」
「?」
質問の意味が解らない、という貌で、庵は京をふりかえった。オロチが屠られて以来、感情の起伏が乏しくなっている彼にあって、この疑問を訴える表情と困惑のそれだけは、よくその面に現れる。
「だからさ、前からそうやって、そこに座って外見てたのかなってコト」
京がこの部屋で、庵と長くおなじ時間を過ごすようになって、いちばん最初に気付いたことがそれだった。自分が何かを要求していないとき、彼は決まってその出窓のところに腰を据え、外の景色を見ている。
「なに考えて生活してたんだ?」
ひとりきり、テレビも見ず音楽も聴かず、食事も作らず洗濯もしない。なにをして過ごせば、この部屋でながい一日を終わらせることができたのか。
京の疑問に対する庵の答えは実にあっさりとしたものだった。
「なにも」
「なにもしてなかったのか」
「いや⋯⋯何もしてなかったと言うと語弊があるな⋯⋯」
とおい記憶を探り当てたのか、それを懐かしむ表情で庵がつぶやく。
「じゃあ何してたんだ?」
「考えていた。ここでこうして、おまえのことを」
心臓が跳ねた。
「どうやって殺そうか、と⋯⋯延々⋯⋯」
「ははっ」
京は額に手を宛てて俯き、力無く笑う。
「そんなこったろうと思ったよ⋯⋯」
一瞬でもなにかを期待した自分が馬鹿だった。
きっと、それがオロチの意志だったから。だから彼はそうして⋯⋯、いや、そうさせられていたのだろう。
いまでも庵はいつも京のことを考えている。常に京を意識して、贖罪の完遂に努めている。そのくせ京本人には、そこに庵が存在していることを忘れさせるほど、彼の気配は希薄だ。
場の空気に部屋の景色に、溶けるようにしてそこに在る彼。
「いおり」
庵は風景から目を離し、京の方へと顔を向ける。
「俺がさ、贖罪はもういいって言ったら、おまえどうすんの」
「本家に帰る」
即答。
「そうしたいんだ?」
「そうするように言われている」
罪を贖い終えたらそのときは。帰って来なさい、と。
「⋯⋯⋯⋯」
八神に言われるまま、自分に請われるまま⋯⋯。
いったい庵の意思はどこにあるのだろう。それともそんなものは、最初からどこにもなかったと言うのか。
冬を目前にして、京は自分の生活の場を、完全に庵の部屋へと移していた。
傍目には、ふたり、ひどく平穏な日々を過ごしているように見えることだろう。
京には判っていた。自分が多くを望みさえしなければ、この羽毛でくるまれたような、柔らかで穏やかな日常がいつまでも続くのだ、と。自分が終焉を告げない限り、このぬるま湯に浸かりきった生活は延々とつづく。おそらくそれは自分と庵のどちらかが死ぬまで。
だが京にはこの生活を守る気は毛頭なかった。その気持ち良さ、心地良さこそが、彼にとっては唾棄すべきものなのだ。
だから、京は何度も庵を試してきた。
そして今日もまた、彼を試す。
「俺のこと好きになれって言ったら、どうする?」
「おまえを、俺が好きになる?」
窓辺から、庵が訊きかえしてくる。
「そう」
京はニヤリと癖のある笑みを見せた。
そんなこと、庵にはできっこない。偽装するにしたって無理がありすぎる。京はそう踏んていた。だからこそ訊いたのだ。
今度こそ庵は音を上げるだろう。そんなことはできないと言うだろう。
言って、くれる、筈だ――。
「どうすればいい?」
「え⋯⋯?」
「何をどうすることが、おまえを好きになったという証しになるんだ?」
庵は真剣な眼で京を見つめている。
「教えてくれ、京」
――教えられたとおりにするから。
京は目の前が一瞬真っ暗になった気がした。
出来るか出来ないか。それは庵にとって考えるべきことではないのだ。迷うことですらない。何がどうであれ、そうしなければならないのだ、彼は。それが京の望みである以上、そうすることが贖罪なのだから。
「そんなウソが欲しいんじゃねえよ!!」
たまりかねて叫ぶ。
フリをして欲しい訳じゃない。
心の底から⋯⋯。
そう、庵の意志で⋯⋯。
しかし京の絶望に追い打ちをかけるように、庵はさらに言い募る。
「⋯⋯それが駄目だというのなら、別の方法を示してくれ」
そうでなければ、罪を贖えない。
このとき、なにが自分のたがを外したのかは、京自身にも判らなかった。気付いたときには、振り上げた京のこぶしが庵に向かって叩きつけられた後だった。
不意打ちを喰らってたたらを踏んだ庵の、切れた唇の端から一筋、鮮血が流れ落ちる。
白い顎を伝い落ちる、緋。
視界を流れ落ちたその緋色が、京の理性を粉々に砕き、我を忘れさせた。
つぎの瞬間、京は庵の躰に掴みかかり、その身を強引に床へと引き摺り倒していた。
その後は目茶苦茶だった。
京は庵の躰に馬乗りにのしかかり、無抵抗な男を殴りつづけた。
一方的に。
なにかに憑かれたように、必死の形相で。
京が拳を振るうたび、緋の飛沫が散る。
本当は、拒絶して欲しかった。抗って欲しかった。やめろと一言、叫んで欲しかった。庵がそうしてくれれば、暴走するこの心を、狂ったこの拳を、とめることは出来たのだ。
なのに。
顔の輪郭を変えてしまうほどの暴力にも、庵の抵抗はなかった。それでも痛みを堪えかね、庵の顔は、あの日以来見せることが稀になっていた『表情』を浮かべる。
苦痛に歪む庵の貌に、京はおのれの身の裡に不穏な興奮が沸き起こるのを感じた。
腹の底から突き上げて来るうねり。
抑えの効かない異様な衝動。
京は乱暴に庵の衣服を剥ぎ取り、何の準備もないままに無理矢理その身を繋いだ。
唇の切れた庵の口から苦鳴が迸る。
それでも京の激情は止まなかった。
手も脚も、庵のそれは躰の横に投げ出され、ただ京の揺さぶりに任せて動くだけだ。けれど、京は庵の確かな抵抗を感じていた。はじめて感じた庵からの拒絶。それは本能的な肉の反応でしかなかったが、明らかに彼の躰は京の侵入を拒んでいた。
苦痛を訴える呻きが庵の唇から溢れ、生理的な涙は眦を濡らし、かたく強張ったその躰は痛みに感応して戦く。
庵が自分を拒んでいる。
庵が自分を怖がっている。
濁った、黒い歓喜が、京の脳髄を侵食していた。
躰を傷つけられ血さえ滲ませて、ついには意識が途切れるまで続けられた暴行に、しかし最後まで庵が抗議の声を上げることはなかった。
庵は自失したまま、床の上に倒れている。腫れ上がった彼の顔を、京は濁った眼で見つめていた。口元に昏い笑みが浮かんでいる。京には庵の目覚めが楽しみだった。
拒絶を期待していた。
どれくらいの刻が過ぎたのか、ようやく開いた庵の眼を嬉々として覗き込み、しかし京は絶望した。
そこにあったのは平素と変わらぬ凪いだ瞳。
京が自分を見つめていることに気付いても、庵はその表情を変えなかった。
「おまえ⋯⋯!」
京は吹き出す感情を殺せなかった。
「なんで平気なんだよ!? 拒絶しねえのかよ!!」
「⋯⋯拒絶して欲しいのか?」
「!」
――言えばそうしてみせるのに。
そんな言葉が続きそうな口調。
「おまえ、自分がどれだけ理不尽なことされたのか解ってないのかッ」
「理不尽?」
「そうだろ!? おまえは俺に、訳も解らずいきなり殴られて⋯⋯」
しかも⋯⋯。
つづく言葉を、京は口にできなかった。
「とにかく⋯⋯っ、怒れよ! 反抗しろよ!!」
「『訳』なら解っている」
「なんだって⋯⋯?」
息を飲み込むようにして訊き返した京に、庵は澄んだ視線を向けた。激昂する京とは対照的に、彼の声はひどく落ち着いて聞こえる。
「おまえが、そうしたかったんだろう?」
――京がしたいと思ったから、そうした。
庵にとっては、それが理由。それが、すべて。その向こうにあるはずの、どんな理由で殴ったのかも、なぜ自分を犯したのかも、彼にはどうでもいいことなのだ。
『おまえがそうしたいんだろう』
いつも庵はそう言う。
だから京は何度もくり返してきた。
『嫌なら嫌だって言え。言っていいんだからな』
と。
『わかっている』
『じゃあ、嫌じゃないから従うんだな?』
『そうだ』
ウソばっかり。
――それが京の望みだから⋯⋯。
いつだって、なんだって、庵の思考の行き着く先はそこなのだ。
庵の意思を見つけたくて始めた、ふたりきりでの生活だったのに、これではまるで、庵の中にそれがないことを確認するために、この生活を続けているようではないか。
見えない敵はどこにいるんだ?
そいつは今もきっとどこかで、こんな自分たちを嘲嗤っているに違いない。
出て来い。
姿を見せろ。
叩き潰してやる。
でもそれは幻想。
京は絶望に追い詰められていく自分を感じる。絶望に背中を押され、断崖へと昇っていく自分のすがたが見える。
京は願う。この行き詰まった現状を打破したい、と。
その想いが京に握らせたのは、狂気の刃(やいば)。
「俺の言うこと、おまえは何でもきいてくれるんだったよな? だったら俺が死んでくれっつったら、おまえ死んでくれるってことだよな?」
まとわりつくような口調でそう言って、京はまた、あの昏い笑みを見せた。
これは、最終手段。
使ってはならない最後の切札。
切札は、手の内にあってこそその効力を発揮するのであって、手放してしまえば、そこにはそれまでと同じだけの効果は残らない。
なのに今、京はその持ち札を手放そうとしている。
「俺の目の前でさ、手首でも掻っ切って、死んでみせろよ、今すぐに」
最後の、賭。
「それができたら赦してやるよ。贖罪ってヤツも、それで終わりだ」
庵は起き上がった。乱れた衣服もそのままに、迷いのない足取りで、彼はリビングにある棚に近づいていき、その抽出しの中から一本のカッターナイフを取り出した。
チキチキチキチキ⋯⋯。
硬質な高く乾いた音を響かせ、庵の手のうちでカッターのボディから薄い刃が押し出されてくる。庵は握ったカッターの刃を、左の手首に、皮膚に刃が沈むほどぐっと押し当てて、そのまま右手をすうっと引いた。
つぎの瞬間。
動脈から鮮血が噴き出した。
京も庵も、眉ひとつ動かすことなく、その情景を眺めている。
曇りガラス越しに見るそれのような、現実味を欠いたぼやけた風景。
点々と、フローリングの床に血溜まりを残しながら、庵はバスルームへと歩きはじめる。
笛の音(ね)に導かれ、笛吹き男について行ったハーメルンの子供のように、夢見る面持ちで、京は彼のあとを追っていた。
バスタブに栓をして、庵は蛇口を限界までひねる。そして水の流れの中へ、傷ついた腕を無造作に延べた。
水に溶けた血はその色を薄め、赤というより朱に近い色彩で、渦巻く流れに沿う筋状の尾をひく。
赤い筋雲。
噎せかえる血の匂い。
刻々とその身から流れ出し、失われていく庵の生命。
奇麗な、色。
バスタブに広がっていく朱を、陶然として見つめる京の眼差しは、もはや正気のそれではなかった。混沌とする意識は彼の理性を完全に麻痺させていた。
いつしか庵の瞳は光を失い、その表情が虚ろなものへと変わっていく。
そして、ついにその目蓋が完全に閉じられたとき、それまで濁っていた京の意識を閃光が引き裂いた。
「いおり⋯⋯」
声は水音に掻き消される。
「庵!?」
靄が、一瞬にして晴れて。
凍りついていた世界が音を立てて砕け、見ていたつもりで、実際には何ひとつ見えていなかった京の視界に、衝撃的な光景が飛び込んでくる。
力無く投げ出された庵の四肢。
閉じられた瞳。
土色の唇。
蝋のように青白い頬。
そして、バスタブいっぱいの、朱(あか)。
心臓を鷲掴まれるような戦慄が走り、京はバスルームから庵の躰を引きずり出した。
焦って震える指で携帯のボタンを押し、救急車を手配する。
そして、意識の朦朧としている庵の躰を腕のなかに抱き込んだ。
悪い夢の中にいるようだった。
「いいよ⋯⋯庵。もういいんだ。ごめんな⋯⋯」
京は白ずんだ庵の冷たい頬に頬を擦り寄せ、応えない男に向かって話しかける。
「もう、ちゃんと終わりにしよう」
――なにもかも、全部。
「償いは、もう充分だから⋯⋯」
庵の瞳は固く閉ざされたまま。
望みは叶った。
現状は打破された。
こんな最悪で最低な結末を呼び込んで⋯⋯。
とおく窓の向こうから、救急車のサイレンの音が聞こえはじめていた。
庵は救急病院に担ぎ込まれ、応急処置を施されたのち、神楽家の息がかかった病院へと搬送された。どこからか情報を聞き付けたのであろうちづるの手配である。
庵の命に別状がないことを医師から聞かされ、京は黙って席を立った。
「草薙、どこへ行くのです」
ちづるがその後を追いかけて廊下へ出てくる。
「わからない」
「八神のことはどうするの!」
彼女はもう知っているはずだった、自分が庵に対して振るった暴力のことも、鶏姦のことも。
「目が覚めたら、もういいって言ってやってくれよ。もう好きにしていいからって。俺がそう言ってたって」
それを聞けば庵は八神家に帰るだろう。いつだったか、彼自身がそうすると言っていたはずだ。
後のことは彼ら――八神家の人間――に任せればいい。彼らにとって、どんな状態のそれであれ、庵は当主である。決して悪いようにはしないだろう。
「何があったのです⋯⋯」
――あなたたちふたりの間で。
ちづるの問いかけに京は首を振った。
何があったかなんて、そんなこと、こっちが聞きたい。
「神楽。あいつさ、ほんとに器だったよ」
病院独特の薬品の匂いが鼻につく廊下で窓側の壁に寄りかかり、京は自分の足元に視線を落とした。
「それも、底のない器さ。しかも自分では底を作れない、そういう器。外枠しかない壊れた桶みたいな」
急速に寒さを増して弱くなった陽差しのせいで、廊下にのびる京の影は色薄く、輪郭も曖昧にぼやけている。
「オロチがその桶に底をつけて、そこに八神庵っていう人格を流し込んでた。それが、俺が八神庵だと信じてた男の正体だった」
己の影の寄る辺なさに更なる焦燥を掻き立てられるような気がして、京はそれを見ることをやめ、顔を上げた。眉間に皺を寄せた、不安そうな貌のちづると目が合う。ちづるは黙ったまま、その表情で京に話の続きを促した。
「でもな、たとえ嘘で満たされた器でも、俺はあいつに、俺の知ってる八神庵のままでいて欲しかったんだ⋯⋯」
苦い想いが胸に溢れる。
「あいつが罪を償うっていうから、だから俺は」
京から提示される要求を受け入れるため、外枠しかなかった器には、贖罪という名の仮初めの底が宛てがわれた。贖罪が終われば仮初めの底は外される。そうなれば、彼に何を流し込んでも、ただただそれらは素通りし、すべては擦り抜けいずこへともなく消え落ちて行くのだろう。そうやってすべてが擦り抜けて、庵の中にはいつまで経っても何も残らない。
庵は空洞。
虚ろな洞(うろ)。
ふいに京は、シニカルな表情に頬をゆがめた。
「あいつを束縛していい理由なんか、俺にあるわけないだろ?」
らしくない自虐的な台詞を吐いて男はちづるに歪んだ笑みを向ける。
同意を求めているのか、否定して欲しいのか。
ちづるは痛ましそうな貌をして、京を見つめ返す。いったい何が彼をここまで追い詰めたというのだろう。彼の、こんなに荒んだ貌を見るのは初めてだ。彼の顔は憔悴に彩られ、すこやかな精悍さを完全に失っている。
応じないちづるに構うことなく、京はまた口を開いた。
「もう自由にしてやんないとさ⋯⋯」
己ひとりの我儘で、庵をこれ以上自分の元に縛り付けておくことはできない。そばに置いておけば、今度こそ本当に、自分は彼に取り返しのつかないことをしてしまうだろう。なにもかもを終わらせてしまうことになるだろう。
きっと明日のない未来を彼に与えてしまう。
京は踵をかえし、ちづるに背を向けて歩きだす。
「オロチなんか、斃さなきゃ良かった⋯⋯」
最後に彼が吐き出した嘆きの言葉は、ちづるの耳には届かなかった。
その後も、あるじのいなくなった部屋に京はひとりで住みつづけていた。庵がここへ戻らないことは解っている。それでも、いや、だからこそ、彼はこの場所を離れることができなかったのか。
冬将軍が到来し、寒さが一段と厳しくなったある日、そんな京の元をちづるが訪れた。
「じゃあ、あいつ八神に帰ったんだな」
そのちづるが京に伝えたのは、庵の退院の報。
「良かった」
「草薙⋯⋯あなたは本気でそう思っているのですか?」
京の漏らした感想に、ちづるは不信の眼を向ける。
「このままでいいの? 本当に八神を帰してしまって良かったと思うの?」
彼女は何が言いたいのだろうか。京は芒洋とした表情でちづるの顔を眺め遣る。
「⋯⋯⋯⋯」
京の淀んだ瞳を目の当たりにし、ちづるは悔しげに唇を噛む。そして、
「いい加減になさいッ」
そう叫ぶ声と同時に、パンッ! と、乾いた音が響き渡った。
手を挙げたのはちづる。
頬を張られたのは京。
平手打ち、だった。
「⋯⋯⋯⋯」
驚きの方が先にたって、頬を打たれた痛みも忘れ、京は間の抜けた貌でちづるを見つめる。かかっていた靄が、その眼からきれいに払拭されていた。
「いつから、あなたはそんな臆病な人間になってしまったの」
いつも、澄ましているという印象を与えがちなちづるなのに、このとき、彼女は頬を紅潮させていた。振り下ろした右手が、まだ興奮に微かに震えている。
「なにが怖いのです? 草薙」
「こわい⋯⋯?」
「そうよ。あなたは何かを怖がっているわ」
京は首を振った。自分に、怖いものなどあるはずがない。オロチだって斃した。人類最大の脅威さえもなくなったこの世界に、自分に恐怖を感じさせるものなど存在する訳がない。
しかし、
「それなら、どうして八神を放り出したの!」
ちづるにそう詰め寄られると、京にはかえす言葉がなかった。
――俺は庵が怖いのか?
ちがう。
太陽は月を怖がったりしない。
月の存在が怖いのではない。
怖いのは、そう、怖いのは――己が照らすべき月を、失う、こと。
ちづるは気付いていた、庵を失うことが怖くて、だから京は彼を遠ざけたのだと。
「目を覚ましなさい」
子供を叱りつける母親の口調で言い、ちづるは京の顔を覗きこむ。
「草薙、あなた前に言ったわね? いまの八神は底のない器だ、と」
京は頷いた。その話なら覚えている。だが今頃それが何だというのだろう。
「あなたはこんな昔話を聞いたことないかしら? 塩田のある小さな村の、貧しい少女の話を」
そう前置きして、ちづるは語りはじめた。
「その少女は出自に謂れがあるせいで村の人間に疎まれていてね。何かにつけ苛められていたの」
あるとき、少女は村の塩田一面に海水を撒くよう命じられる。そして、底のない桶を渡された。
「底のない桶? ⋯⋯どうするんだ、そんなんで」
そんなもので海水が汲めるわけがない。
「その夜の夢枕に、少女の亡き母が立つの」
そして母は娘に教えるのだ。桶にすこし水を入れて凍らせなさい、と。
桶に張った水が凍れば、それが底の代わりとなる。あとは夜の明けぬ寒いうちに海水を撒けばいい。氷が溶けてしまわないうちに、急いで。
氷でできた底板。
「誰かがそれを教えなければ、彼女は底の作り方を知らないままよ」
そうであれば、畑に海水を撒くことは叶わなかった。けれど少女には、知恵を授けてくれる母がいた。
ならば、彼には。
――八神には、誰が居るの?
「⋯⋯⋯⋯」
忙しなく彷徨う京の視線に気付き、ちづるは自分が役目を果たし終えたことを知った。彼の耳には届かないだろうと思いながらも、律儀に平手打ちにしたことを詫び、彼女はそっと部屋から出て行った。
ちづるが去ったあと、京はふらりとソファーから立ち上がり出窓へと近づいた。寒さが厳しくなるにつれ敬遠しがちになり、いつのまにか顧みなくなっていた場所。その場にかつての庵を真似て腰をおろし、彼とおなじ目線で窓の外の風景を眺めてみる。
建物と道路と人と⋯⋯それから何が見えると彼は言ったのだったか。
――ああ。
そうだ、あの日は雲の話をしたのだ。
記憶をたぐりよせ、京は視線を空へ投げた。が、晴れわたった空に雲は見えず、かわりに彼の眼が映し出したのは白く細い昼間の月の姿だった。
もしも太陽に見捨てられたら、月はどうなってしまうのだろう。
輝くことを忘れた月を、ひとは愛でるだろうか。
庵は離れの廊下に出ていた。廊下を覆っている庇の支柱に背を凭せかけ、微睡むような横顔で小春日和の陽差しの中に座っている。しかし、そんな穏やかな表情に見適わぬことを彼はしていた。
伸ばされた腕の先に踊る、蒼。
それは禁じられたはずの八神の炎。
その炎を見るともなく眺めていた庵が、唐突にそれをおさめた。直後、食事の乗った膳をもった女性が現れる。使用人らしいその年配の女性は、庵に何ごとか話しかけ、庵が一言二言それに答えると、膳を置き、退室して行った。
そんな彼らのやりとりを、ひとりの男が生け垣越しにじっと見つめていた。
京だ。
だれにも行き先を告げず彼はこの場所を訪れていた。八神の人間にも来訪を伝えていない。
庵に逢うつもりはなかった。ただ、彼がどうしているのか、京はそれを己の眼で確かめておきたかったのだ。だから、彼の元気な姿が見られたら、それで帰ろうと思っていた。もし言葉を交わして、また自分が冷静さを失うようなことになれば、悔やんでも悔やみ切れないだろうから。
使用人の姿が見えなくなると、庵はおもむろに膳を己のそばへ引き寄せた。そして、煮魚の乗った皿を手に取り、それを庭先の縁台のうえに置く。
すると、どこからともなく一匹の雉猫が現れた。猫は皿の上の魚を攫い、現れたときと同じ素早さで、またどこへともなく姿を消した。
つぎに庵は右手に茶碗を取った。しかし、これも食べるつもりはないらしく、本来右手に持つべき箸は膳の上に置かれたままだ。見ていると、彼は椀を庭におろした。
こんどは庭木の枝から小鳥が降りてきて、白米をついばみ始めた。鳥たちはすっかり慣れた様子で、すぐそばにある庵の存在を怖がっていない。昨日今日に始まったことではないようだった。
一体いつから庵はこんなことをしているのだろう。
結局、庵が口にしたのは汁物だけだった。両手で包み込むように湯飲みを持ち、彼はぼんやりと鳥たちの姿を眺めている。
かなりの時を経て、ようやくすべての鳥が姿を消すと、庵はまた手をかざし、炎を呼んだ。
食事を摂らず、蒼い炎を灯しつづける。庵は明らかに、己の命を削ろうとしている。
――それが、おまえの意志なのか、庵⋯⋯?
京は矢も楯もたまらず、垣根を飛び越えた。
「なぜおまえがここにいる⋯⋯?」
いきなり目の前に現れた男の姿に、庵はひどく驚いたようだった。
京は答えず、庵の隣に腰を下ろす。
重ね着した厚手の冬服のせいで一見そうとは知れないが、すぐそばで観察すると庵が痩せていることが判る。心持ち顎も細い。
しかしそれらには触れず、
「いい天気だな」
脈絡のないことを口にして、京は空を見上げた。
「雲の名前でも教えてやろうかと思って来たんだけど、雲なんか一個も出てねえや」
京が笑いかけると、庵は不思議そうに見つめ返してきた。あの部屋にいた頃と変わらない、澄んだ眼で。
その瞳を見つめて京は問う。
「ずっと何してた? ここに戻ってから」
答えなど返らないと思っていたその問いには、意外にも即答があった。
「おまえのことを考えていた」
「どうして」
京は驚いて庵の顔を見つめ返す。贖罪は終わりだと、そう彼に伝えたはずなのだが。
「どうして?」
京の言葉をオウム返しにし、それから、
「わからない」
庵はそう言った。
「わからない、じゃなくて、考えてくれよ、庵」
「⋯⋯⋯⋯」
京はじっと待った。庵が答えを探し当てるのを、根気よく待ちつづける。
ながいながい時間が過ぎた。
そして、庵の口が開く。
「俺にはそれしかないからだ」
京は灼けつくような熱さを身の裡に感じた。
それは、オロチも贖罪も関係なく、いつでも庵の中に自分が存在していたという証しではないのか。自分だけが、彼の中に生き続けていたことの証拠。
それなのに、自分がその手を離してしまったから。もういいのだと、彼に言ってしまったから。
だから庵は⋯⋯。
踊る蒼い炎が目蓋の裏にちらついた。
釦をかけ違えたのは、たぶん贖罪を理由にした瞬間だ。あのときから自分は見失ってしまった、大切な真実を。己の望む、そうあって欲しいと願う庵の意思にばかり固執して、そうでない意思があるということを、考えようともしなかった。
オロチのせいではなく、贖罪の枠の中にあったからでもない。庵が自分のことを考え続けていたのは、いつだって同じ理由からだったのに、それに気付くことができなかった。
庵は底のない器などではなかった。
オロチの名に縛られていたのも、贖罪という名前に雁字搦めになっていたのも、そして、そのせいで本当の自由をなくしてしまっていたのも、庵ではなく自分の方。
なんてことだ。
「京」
庵の腕がゆっくりと伸び、その両手が京の頬をやさしく包みこんだ。
「なぜおまえが泣く⋯⋯?」
庵に言われて初めて、京は自分が泣いていることを知る。
「いおり⋯⋯」
声が詰まった。
嗚咽が漏れる。
京は濡れた頬で、庵の頬を求めた。触れるのは、あのときとは違う、血のかよう温かな肌。
庵の腕が京の背を抱く。
哀しくて、愛(かな)しくて、涙はとめどなく溢れつづける。
もう見失ったりしない。二度と。
「ずっと⋯⋯俺の側にいろ」
どんなおまえでもいいから。
死ぬまで、ずっと。
「俺のために、」
俺のために、生きて。
「俺が作ってやる。おまえが、この世に生きてなきゃいけない理由を⋯⋯」
そして解けない鎖で繋いであげる。
一生、縛り付けていてあげる。
おまえが決して生き迷わぬよう。
「だから、庵」
それがおまえの願いなら、何だってする。
「生きて⋯⋯」
それが、俺がおまえに誓う、罪の贖い。
2000.04.19 脱稿/2018.10.16 微修正
・参考図書『狭霧秘話』佐々木丸美/講談社/1983年
・初出:『贖罪』2000.05.04 発行
・『赤の原罪』の原形になった作品
・初出:『贖罪』2000.05.04 発行
・『赤の原罪』の原形になった作品