桜の開花予想が発表されてからほぼひと月。数日前に春一番が吹いた3月下旬の関東地方は、その後も風の強い日が続いている。
その日は、朝から春らしい陽気の晴天で、ひとり暮らしのアパートの部屋を出た京は、いつになく上機嫌だった。彼は足取りもかるく階段を駆け降りると、愛車ZII のエンジンをかけ、一路、爆音をひびかせて庵の住むマンションを目指し驀進する。
今日、3月25日は庵の誕生日なのだ。
通い慣れたマンションの部屋の、そのドアを勢いよく開いて京は叫ぶ。
「庵ィー、出掛けようぜーっ」
「出掛ける? どこへだ」
玄関先で訪問者を出迎えたパジャマ姿の部屋主は、もっともな質問を投げかけた。
「どこだっていいだろ。とにかく行こうぜ。ホラ、はやく着替えろ」
庵の質問には答えず、ともかく出掛けようと促す京を、
「ちょっと待て、京」
なおも庵は引き止める。
「なんだよォ、まさか予定でもあんのかッ? 今日は一日あけとけって、ずっと前から言っといたよな、俺!」
――3月の第4土曜は絶対に空けておけ。
そういう言い方をして、京はずいぶん前から、この日の庵を独り占めしようと頑張ってきたのだ。それなのに庵が外出を渋るのは、自分の知らないうちに何か予定を入れてしまったからなのかと勝手に疑い、彼はひとりで不機嫌になっている。
しかし庵は京の疑惑を否定した。
「今日は一日あけてある」
「じゃあ、問題ないじゃん」
それならば、と京が改めて支度をするよう急かすと、
「だから、」
京以上に焦れた庵が、ふたたび問い質す。
「何の目的でどこへ行くのか、と訊いている」
理由も目的もなく外出するという発想が、庵にはないのだ。
「なんの目的って⋯⋯そんなの言わなくても判るだろー」
当たり前のこと訊くなよなー、と京は困惑貌で笑う。ここぞという時までは敢えて言わずにいたいのだから、そんなこと今は尋ねて欲しくない。
なのに。
「判らないから訊いているんだ」
庵は生真面目な表情で質問をくりかえす。
「もぉーっ、なんで言わせんだよッ」
庵のあまりの鈍感さに堪忍袋の緒を切らせ、本気で憤慨した京は、ついには、今ここでは言葉にしたくなかったことを不承不承口にした。
「今日はおまえの誕生日だろ!?」
「!」
庵は京の台詞におおきく目を見張り、それからひとつゆっくりと瞬いた。
「ああ、そうか⋯⋯そんな日もあったな」
「おいおいおいっ、ちょ、ちょっと待てよ⋯⋯。庵、頼むから、おまえ、マジで判ってなかったとか言うなよ?」
「いや、本当に忘れていた」
冗談だろう、と笑おうとして京は見事に失敗した。彼の表情は硬く引き攣ってしまっていた。
「マジかよ⋯⋯」
呻くように声にして、溜息。さすがの京も、庵のこの無関心ぶりは無視することができず、頭を抱えたくなった。出端を挫(くじ)かれたせいで、このまま庵を外へと連れ出すには気合も勢いも足りない。
「とりあえず⋯⋯上がっていいか」
一から体勢を立て直さなければ、とても前に進めそうにない自分を京は感じていた。
庵の後をついて京がリビングに入ってみると、食卓にも使われるガラステーブルの上に、飲みかけのコーヒーカップが置かれていた。どうやら庵は起きたばかりで、彼にとってはそれが朝食という、その日何杯目かのコーヒーを飲んでいる最中だったらしい。ソファーに座った庵は、京が見ている前で、おもむろにそのカップへ手を伸ばした。砂糖も入れないブラックだ。これを飲まないと、庵の一日は始まらない。ひどい低血圧の彼は、こうしてコーヒーを飲んだり煙草を吸ったりしながら、徐々に頭を覚醒させていくのが常だった。
京はサーバーを使って自分用にもう一杯分のコーヒーを作り、カップに注ぐ。庵が使わないので、京のためだけに買い置きされているクリープをカップに入れてスプーンで掻き混ぜ、味を確かめるように一口すすってから、京は庵のとなりに腰を落ち着けた。そして、さっきから疑問に思っていたことを尋ねてみる。
「誕生祝いとか、やんないのか? 八神の家で」
当主生誕の日。草薙でさえ相応の催事をするのに、あの八神家が何もしないでいたとは思えない。もっとも草薙家の場合、京本人が大仰な儀式を嫌うので、近年、特に目立つ催しは行われていないのだが。
その京の疑問に、庵はこう答えた。
「14か15の頃まででやめてしまうんだ、八神(うち)は」
「どうして」
「⋯⋯⋯⋯⋯」
今度の疑問には即答が返らなかった。京に教えるべきかどうか、庵は逡巡しているふうだ。が、ややあってのち、別段隠しだてするようなことでもないと思ったのだろう、冷徹とも取れるほどに揺らがない声色が、
「誕生日というのは、死へのカウントダウンをする日だからな」
淡々と、事実を告げた。
「死へのカウントダウン⋯⋯」
八神家においても、古(いにしえ)の風習に倣い、元服するに相当する歳の頃までは重ねていく齢を祝う。しかしその歳頃を過ぎると、年齢がいくつであれ、成人であるという一括りの認識のもと、八神の人間にとっての誕生日は成長を祝うための日とはその意味を異(こと)にするようになる。そのせいで、庵はここ10年ばかり、おのれの誕生日を意識したことがなかったのだ。
「⋯⋯そうだったんだ⋯⋯」
つぶやくように声にして、事態を認知したものの、京には続けるべき言葉が見いだせない。
その沈黙から、耳聡く沈痛の表情(いろ)を聞き取り、
「気に病むな。それが八神では当たり前なんだ」
京に代わってフォローを入れたのは、庵の方だった。
確かに、京が気に病んでどうなるというものでもない。それが八神家の体質である以上、庵にとってもそれが自然で当然の処され方なのだろうことは、京にも解る。
が、しかし、だ。
「よし!」
なにを思ったのか、京は気合の掛け声と共にソファーから立ち上がった。彼はコーヒーの残りを一気に飲み干し、
「今年は普通の誕生日にしよう」
一度言い出したらきかない京は、カップをテーブルに返すのももどかしく、出掛ける準備をはじめている。
「いいか、今日はこれからどこにも出掛けるなよ? 部屋に、いろよ?」
解った、と庵が頷いてからも、なお執拗に念を押し、
「また後で来るから!!」
肩越しに告げて、京は部屋を出て行った。
なにをもって『普通の』というのかは十人十色であるはずなのだが、京はいったい何をしようというのだろう。
京にしつこく念を押されなくても、庵には、週末の街に人があふれているのが解っていて、わざわざそこへ出掛けていくような酔狂な趣味はない。
自分に関心を寄せる人たちの集団の中にいるのは時に気分のいいことだが、自分に無関心な人間の集団の中にいることは、彼にとって苦痛なだけだ。
アルバイトの類いになら、過去にはいくつか手を出したこともあったが、現在の庵は定職についている訳でもなく、毎日が宿題のない夏休みなのである。だから外出の用事は、平日を選んで片付けることが多かった。京に連れ出されでもしない限り、週末は家でのんびり過ごすというのが彼の常のスタイルなのだ。
京が戻ってくるのを待ちながら、庵はくつろいだ気分でひとりの時間を過ごしていた。
自分は、いつもと変わらぬ週末の一日を、いつもと同じように過ごしている、庵自身はそんなつもりでいる。
しかし、そんなふうに『いつもの自分』などというものを意識していること自体が、既に『いつもと同じ』でなくなっていることの証拠(あかし)だと、当の庵は気付いていない。
そして正午を過ぎたころ。
庵のもとに一本の電話がかかってきた。
かけてきた相手はちづる。
それは、庵の生誕の日を慶んでいる、と祝福の気持ちを彼に伝えるための短い電話だった。おめでとう、と祝辞を贈る、相も変わらぬ抑揚のとぼしい彼女の声は、未だ堅苦しさえ拭い去れないでいるが、それでも、この電話が、八咫ちづるとしての義務感が彼女に掛けさせたものではないということを、確実に庵に感じさせる何かをもっていた。
庵は受話器を置いた。
――おめでとう。
庵が今日はじめて聞いた、しかし、誕生日を迎えた者ならだれもが、その日もっとも多く耳にするはずの言葉。
そう。それは、ありふれた言葉だ。
ありふれていて、でも、それ以外にはない言葉。それ以外の言葉では、伝えようのない気持ち。
なのに、そんな大切な言葉も言わないままで、京はどこかへ行ってしまった。
「馬鹿だな、おまえは」
この場にはいない男に向かって、庵は嘆息する。
「神楽になど先を越されて⋯⋯」
知れば京は嘆くだろう。彼こそが、今日いちばんに、自分にその言葉を言いたかった、聞かせたかった人物だったのだろうに。
このとき庵にはもう判っていた。京がこの日、朝から自分を連れ出そうとしていたその理由(わけ)が。たぶん、自分を独り占めするつもりだったのだ、彼は。
京が自分を外に連れ出してしまっていれば、こんなふうに、誰かからかかって来るかもしれない電話に、自分が出ることはない。電話に出なければ、その言葉を否応無く耳にするような事態も起こらない。せいぜいが、出先から戻ったときに、留録のメッセージとしてそれを聞くくらいのことだ。そして、たとえそれが現実に起こったとしても、そのとき京はきっと自分の側にいて、ふたりでそれを聞くことになっていただろう。いや、そんなことよりもまず、家に帰りつく頃にはもう、だれからよりも早く、自分は京からその言葉を贈られていた
に決まっている。
そうなのである。庵が推測したように、彼を独り占めにさえしてしまえば、京には、誰よりも先にその言葉を庵に伝える機会が持てた。事実そうしようと思っていたからこそ、今朝、庵と顔を合わせて開口一番の彼の台詞が、その言葉にはならなかったのだ。
――おめでとう。
それは、この日一番最初に、庵が京からもらえた筈だった言葉。
なのに。
――ああ、そうか。
庵は思った。
この事実を嘆くのは京だけじゃない。
京が自分を独り占めにさえしてくれていれば、と。
現に自分は、もう、ここでこうして嘆いているではないか。
それから後も、庵の部屋の電話は何度か鳴った。
用件はみな同じ。
一度聞いてしまえば、後はもう、だれから何度その言葉を贈られようと、それは庵にとって頓着に値しないことだった。たとえ心の底からの祝辞であっても。
それが、あの男からの言葉でない以上は。
だから彼は居留守を使うこともせず、電話が掛かるたび律義にその言葉を聞き続けた。
だが、贈られる祝辞を、庵が素直に受け止められていたのかと言うと、それは違う。
何がめでたいのか解らない。
どうめでたいのか解らない。
どうして彼らは、そんなふうに簡単に、他人の生誕の日を喜べるのだろう。
彼らの口から、一様にくり返される『おめでとう』という言葉は、庵の心を素通りし、疑問ばかりを残して消えて行ったのだった。
その後、陽が傾きはじめる時刻になって、ようやく京が庵の部屋に戻ってきた。しかし出掛けの勢いはどこへやら、彼はすっかり意気消沈しているらしい。傍目にも判るくらいに肩が落ちてしまっている。無言でリビングに入ってきた京は、ドッカとソファーに座り込み、そのままフテ寝でもしそうな勢いだ。
その、あまりの京の落ち込み様に、庵は眉根をよせる。
「どうした⋯⋯?」
そんなにヘコまされるような、何事に見舞われたというのだろう。
「なんでもねー⋯」
口ではそう答えた京だが、これが本当になんでもない筈はない。
庵がなおも追及すると、ついには根負けしたように、
「⋯⋯誕生会、やろうと思ったんだよ」
京はボソっとそう言って、その後すべてを白状した。意地を張り通す気力もなかったのだろう。
誕生日とは、仲間みんなで祝うもの――。
それが、京にとっての誕生日の概念だ。だから、庵の部屋を出た彼は、庵の誕生日をともに祝ってくれる面子を集めるため、思いつく人間に片っ端から電話をかけた。
しかし、結果的に、当日いきなりの打診では、庵の部屋まで来られる人間を確保できなかったのである。
当然と言えば当然の話だった。庵の誕生日を祝してくれそうな人物として、京の頭の中に思い浮かんだ人間のほとんどは、海外在住者だったのだ。時差のことなどすっかり忘れていたため、現地時間を無視した、甚だ迷惑な国際電話を彼らにも掛けた京だが、結局すべて空振りに終わった。
みんなで庵の誕生日を祝う――。
なかなか良い思いつきだと自負していただけに、いざそれが実行に移せないと判ったときの、京の失望は深すぎた。第一これから改めてふたりきりで祝えと言われても、いまさら満足のいく準備などできないではないか。
落胆のあまり、ふたりだけで祝う誕生日の準備をしようなどと、前向きな方向に気分を切り替えることもできず、ケーキは元よりアルコールひとつ用意しないで、すごすごと引き上げて来てしまった京だった。
「だがおまえは⋯⋯」
しょんぼりしている京をこれ以上見るに忍びなく、庵は彼に言う。
「今日一日俺を独り占めしようと、最初はそう思っていたのだろう?」
「⋯⋯⋯⋯」
京は無言でうなずいた。
庵の言うとおりだ。当初京は、庵にとっての特別なこの一日を、彼を独り占めにして過ごすつもりだった。24日から25日へと日付が変わるその瞬間を狙って庵に夜襲をかけ、そこからの24時間をずっとふたりで一緒に過ごそうとさえ考えて、そのために練り上げた壮大なプランもあったほどだ。結局プラン自体は、庵を朝から連れ出して、明日へと日付が変わるまでの時間を彼とふたりでどう過ごすか、という内容のものに落ち着いたが、そのときも、庵を独り占めしたいと思った京の気持ち自体に変化があった訳では無論ない。
「ならばもっと喜んだらどうだ」
――その願いが叶おうとしているのだから。
しかし、京は庵の言葉に首を振った。
「けどよ⋯⋯今日は、おまえのための日じゃねえか」
その考えこそが、この日の京のすべての行動の支軸になっている。さきの夜襲プランの実行を京に思い止どまらせたのも、この『庵の為精神』なのだ。夜襲など、それを仕掛けられた庵の取りようによっては、喜べることどころか、忌ま忌ましく迷惑にしか感じられないことにもなってしまう。
万が一にも、庵の機嫌を損ねる可能性があることはしては ならない――。
それが今日という一日に彼自身が課した、京の、自分が守るべき掟だった。
今日は、庵にとって、年に一度の特別な日。
クリスマスも正月もバレンタインデーも、それはそれで特別な日だが、これらは万人に共通のイベント日だ。誕生日とは、やはりそれの持つ意味が異なる。誕生日はその日生まれたその人だけの記念日。その人のためだけの特別な日。
だから、誕生日は、ほかのどんな記念日やイベント事よりも大切だと京は思う。
その特別な日に。
自分以外に祝ってくれる者がいないなんて。そんなのは悲しすぎる。
このときの京はまだ、庵の元に祝辞を伝える電話があったことを知らなかった。
「⋯⋯京」
いつまで経っても気分が浮上しない様子の京に、庵は荒療治の敢行を決意する。
「おまえは馬鹿だ」
この男に、いつもの調子をとっとと取り戻してもらわなければ、こっちが居たたまれない。
「⋯⋯バカ⋯⋯?」
庵の言葉にムッとしたのか、京の声音は剣呑だ。
「ああ、馬鹿だ」
しかし庵はまったく怯まず、わざと、そんな追い打ちにもなり兼ねない言葉をくりかえす。
京を立ち直らせるには、怒らせるくらいが丁度いい。こうやって、負けず嫌い精神を刺激し、反発心を煽ってやるのが一番効果的なのだ。
だからこそ庵は、挑発の口調で、あえて京の自尊心を傷つけるようなことを言ったのである。
「バカってなんだよ! バカって!?」
案の定、京は肩を怒(いか)らせて憤慨し、庵の顔をキッとなって睨み上げた。
ここが引き際だ。
庵は表情を穏やかなものに変え、今度はいつもの落ち着いた声音で京に問いかける。
「俺が、ひとと騒ぐのが苦手なのは知っているだろう」
べつに庵は、誕生会が迷惑だと言っているのではない。
もし、京の思惑どおりに人が集まって、皆が祝ってくれていたなら、自分はそれをちゃんと楽しめたと思う。京のことだから、自分が気を遣わずに済む相手だけを選んで人を集めてくれた筈だし、なによりそれは、京が自分のために、と企画してくれたことだから。
「それとも何か? おまえは、皆(みな)と一緒でなければ、俺の誕生日を祝う気がないのか?」
庵はあえて意地の悪いことも口にした。
京が弾かれたように首を振る。
「そんな訳⋯⋯っ」
そんなこと、ある訳がない。
「ならば、もうそんなにしょげるな。おまえに落ち込まれると、俺はどうしていいか解らなくなる」
計算抜きの気弱な発言は、庵の正直な感想だった。
「悪い⋯⋯。今日はおまえの誕生日なのにな」
京は苦笑して立ち上がる。
自分が暗くしていたのでは、庵の誕生日を祝えない。
気分を変えるように、京は明るく言った。
「あー⋯、ケーキくらい買っとけば良かったなあ。⋯⋯な、庵、今からでも買いに行こうか?」
「俺は喰わんぞ?」
庵は少々迷惑そうだ。彼は甘いものがあまり得意ではない。
「体裁(カッコ)のモンダイなんだよ」
形式張ったことなど大嫌いなくせに、こんなときにはそれに拘りたくなるのが京の性分らしかった。
――おまえが喰わなきゃ俺が喰う。
京がそう言うので、結局ふたりは買い物に出掛けることになった。
まずは、少し足を伸ばして、いつも利用しているレンタルビデオ店へ向かい、ふたりで観られる、好みの別れないタイトルを数本借りる。それから駅前の商店街へもどり、チェーン店スーパーで、大量のジャンクフードを買い込む。そして最後に、手作りケーキを看板にしている喫茶店に立ち寄って、テイクアウトできるカットケーキをふたつ選んだ。このとき京は、ロウソクを2本入れておいてくれるよう店員に頼もうとしたのだが、横から庵が、嫌だ、いらない、使わない、と言い張って、それだけは阻止されてしまった。一個のカットケーキに一本だけロウソクを立てるというのも、間抜けで可愛いと京は思ったのだが、庵は、自分がロウソクを吹き消さなければならなくなることに気付き、彼にはその事態が、どうにも我慢ならなかったらしい。
今年は庵の言い分を聞き入れた京だったが、来年は、彼に内緒でホールのケーキと年齢分のロウソクを用意してやろう、と心密かに誓っていた。
そうして、部屋にもどった頃には、ちょうど夕食にいい時間で。しかし、特別な準備はなにもしていなかったから、有り合わせの材料で、できるものをふたりで簡単に作り、食事は軽目に済ませた。軽目に済ませたのには訳がある。食事の後は、ビデオ鑑賞会をする、と決まっていたからだ。
買い込んで来たジャンクフードを肴にビールをあけ、リビングの明かりを落として42インチの画面で映画を観る。それが、いつもの週末と変わらない、ふたりの夜の過ごし方だった。
本当に、これでテーブルの上にケーキが乗っていなければ、まるっきりいつもと同じ週末の夜である。
しかし、京には、このまま何もしないで今日という一日を終わらせてしまう気は毛頭なかった。
ビデオを1本観終わって、次のテープを選ぼうとしていた庵に、京は声を掛ける。
「庵、これからもっぺん出掛けねえ?」
庵が作業をやめて顔を上げた。
「おまえに⋯⋯プレゼントがあるんだ」
京が庵を連れ出したのは、最寄りの小学校だった。
校門の脇には、どこまで効力をもっているのか定かではない、学校関係者以外の構内への立ち入りを禁じる旨を書いた看板が、その存在を主張することなく掛かっている。
その看板に気付いたのだろう庵が立ち止まるのを見、彼が禁を破ることを咎める台詞を口にするかもしれないと思った京は、先回りしてこう言った。
「誰も見てやしねえよ。バレなきゃ平気だろ?」
こんな些細な違反、見つかりさえしなければ、どうということもない。どうせ春休みなのだ。当直の教師はひとり常駐しているはずだが、自分たちに気付きはしないだろう。
先手攻撃が功を奏したのか、庵はなにも言わず、京につづいて校門を飛び越え、構内へと侵入した。
「こっちだ」
京は何げない所作で庵の方へ手を伸ばすと、彼の腕を引いて歩きだす。
「⋯⋯⋯⋯⋯」
庵は、自分の手首をつかむ京の手を注視し、しかしその手を振り払うことはしなかった。
夜の学校というのは、独特の雰囲気をもっている。昼間賑やかな分、夜間の静けさが際立つからなのか。しかし、休みの日の昼間の学校とも、それはまた違う顔だ。
京と庵が通っていたのは勿論この学校ではないが、それでも、校庭や校舎を眺めていると、なんとなく懐かしいという気分に襲われるのが不思議だった。小学校に通っていたころのことなど、ふたりにとっては遠い過去の記憶だが。
庵は京に手を引かれたまま歩きつづけている。校庭を突っ切り、校舎のわきを抜け、このまま一体どこまで行く気なのかと、庵が僅かながら不安に思ったとき、
「庵、こっから、俺がいいって言うまで目ェつぶって歩け」
いきなり京が言った。
「は?」
「いいから、とにかく目ェ開けんな」
「⋯⋯⋯⋯?」
いぶかる庵の目元を手のひらで覆い隠し、京は強引に目を閉じさせようとする。そして、
「いいモン見せてやるから」
とだけ説明し、強引に庵の抗議を封じてしまう。
不平を言いかけていた庵だったが、
「⋯⋯わかった」
不承不承うなずいて、おとなしく京の指示に従い目蓋を伏せた。
慎重に歩を進める庵を、京は気を配りながら誘導しはじめる。
庵は緊張している自分を自覚していた。一歩すすむごとに、不安か期待かその両方か、曖昧な気持ちがどんどん募っていくようだ。
どれくらい目隠しのまま進んだのか、足裏の感覚にばかり気を取られていた庵が、ふと意識を拡散させたとき、彼は自分の周囲に、淡く薫る、なにか甘酸っぱい匂いが漂っていることに気付いた。吸い込むと胸をいっぱいにする、どこか懐かしいようなその薫りは、花のそれだ。
これは何という花の薫りだったろう。
庵が記憶の引き出しを開けようとした、そのとき、
「とまって」
京から、立ち止まるよう指示がでた。続けて、
「いいぜ、目ェあけても」
言われるままに目蓋を上げた庵は、
「!」
その瞬間、呼吸をとめた。
目蓋を上げた庵の目に飛び込んできたのは、視界いっぱいを埋め尽くす薄紅色。
それは、満開になった一本の彼岸桜の大木の、その花の色だった。
幹から張り出した一本の枝の、ちょうど先端あたりに、彼岸の望月から5日を過ぎた上弦の月が架かっている。
月齢十八.九。
その朧に霞む月明かりに照らされた桜の花は、絵にしたくなる美しさだった。
「⋯⋯⋯⋯⋯」
目の前にある景色に、幽玄、という言葉が重なる。しかし、そんなひとつの言葉にして形を持たせてしまえば、途端にそれが安っぽく薄っぺらな情景になり下がってしまう気がして、庵はそれを口にできない。
ただ、感嘆の溜息だけが口をつく。
魂まで奪われたような、そんな庵の様子を確認し、京はその顔に満足げな笑みを浮かべる。ここ何日かつづいた強風で、花が散ってしまうのではないかと危惧していたのだが、それは杞憂だったようだ。
――連れて来て良かった。
ここが、今日という日の最後に、京が庵を連れて来ようと思っていた場所だった。
京が、テレビで今春の桜の開花予想のニュースを見たのは、先月の閏日のことだ。このとき、東京での開花が3月26日だと知って、彼の頭にはひとつのプランが閃いた。
庵の誕生日に、ふたりで桜を見に行けたら――。
がさつな性格ばかりが目立つ京だが、妙なところで極端なほどのロマンチストぶりを発揮することがある。このときの彼が、まさにそうだった。
開花予想に使うことを認定されている桜の種(しゅ)は染井吉野だが、彼岸桜や枝垂れ桜はそれよりも開花が早い。彼岸桜であれば、その名のとおり、25日あたりには完全な見頃になっているだろう。京はそう踏んだ。それに、白い花を咲かせる染井吉野も勿論いいが、それよりも紅のふかい彼岸桜も、庵には似合うと思ったのだ。
その日から、京の彼岸桜さがしが始まった。
しかし、その桜も、ただ花が綺麗に咲いていればいい、というのではない。花を心行くまで観賞できる、静かな場所で咲いていてくれなければ駄目だ。もし花見の宴など張られていようものなら、せっかくの思いつきも台無しになってしまう。
そうして見つけ出したのが、この場所だった。春休み中といえど、さすがに学校の敷地内ともなれば、宴を張ろうとする不遜な輩もいないらしく、ここなら静かに、そしてふたりだけで、存分に花を娯(たの)しむことができる。
京の住むアパートと庵の住むマンションとは、すこし離れた場所に位置しているが、同一校区内に属していて、その中にあるのがこの小学校だ。京がこの場所に彼岸桜があることを知ったのは、それを探しはじめてからだった。近所に住む、この学校の生徒たちから教えてもらったのである。そうでなければ、こんな所に桜の木があることなど、京はずっと知らないままだっただろう。この桜があるのは、表の通りから見えるような場所ではなく、構内に入って、さらに校舎の裏まで進まなければ、見つけることはできないのだ。
「気に入ってくれたか?」
「⋯⋯ああ」
頷きと共に、満足気な言葉が庵の口から吐息のように零れる。
「じゃ、改めて。庵⋯⋯誕生日、おめでとう」
胸が、詰まった。
庵には、となりに並んで立つ京の方を振り向くことができない。
今日、幾度か聞いた祝福の言葉。京からは初めて貰うその言葉。それに、なんと言って返せばいいのか、彼には判らなかった。
それまでに聞いた、どの『おめでとう』とも違う、心にまで届いた初めての言葉。
はじめて、心に響いた祝いの言葉。
はじめて心まで震わせたそれを、今日はじめて聞いたものにしてもいいだろうか。
気付けば庵の胸の内側に、暖かくて柔らかで掴みどころのないふわふわしたものが生まれていた。どこからともなく沸き出すそれは、いまにも躰の外へと溢れだしそうだ。
この気持ちを、この感覚を、どうやって京に伝えたらいいのだろう。
見適う言葉が見つけられない。
言葉に、ならない。
「⋯⋯⋯⋯⋯」
はらはらと夜気に舞う薄紅の花びらを、飽かず眺めるふりをしながら、庵はただ立ち尽くすばかりだった。