『唄う花びら・後』 R18


 まるで精気を吸い取られていくように、いつまでも桜に魅せられている庵が、京には次第に我慢できなくなった。京は繋いだままだった庵の手を引くことで、彼の注意を自分の方へ向けさせてしまう。
 しかし、
「なんだ?」
 庵に見つめられると、
「⋯⋯いや、その」
 京はらしくない歯切れの悪さで口ごもる。いざ庵を振り向かせてしまうと、桜を相手に焼き餅を焼いてしまった自分が今更ながらに決まり悪く思えた。
「京?」
 一方庵は、不自然に黙り込んだ京の顔を覗きこみ、首をひねる。何故なのか、庵には、京が拗ねているように見えるのだ。
「不満があるなら言え。言葉にしなければ、俺には解らんぞ?」
 まるで幼子を教え諭す大人の口調で、庵は京の俯き気味の顔を更にじっと覗きこむ。京はそれを嫌がり、頬を膨らませたむくれ貌を庵の視線から隠した。
「京」
 名を、少し強調した声で呼ばれる。言外に言えと促され、
「桜に奪(と)られる気がした!」
 情けないのは自分でも解っているのだ、と京は言い訳のように付け加える。
 ――まったく、この男は。
 庵は呆れてしまった。
「だからおまえは馬鹿だというんだ」
「⋯⋯⋯⋯⋯」
「この桜は、おまえが俺に見せたいと思った物なのだろう?」
「そうだけど⋯⋯」
「ほかの誰かが俺のために用意した物じゃない。おまえが選んだ物だ。そうだな?」
 念を押す庵に京は頷いてみせる。
「ならばおまえが嫉妬すべき相手は桜じゃない。おまえは自分に嫉妬しろ。それが筋だ」
 庵は知っている。認めている。
 自分はただの桜に見惚れたのではない。京が自分に見せようと思った、この桜に見惚れたのだ。
 京は泣き笑いのような、複雑な笑顔をみせた。
 まったく、今日は庵の誕生日だというのに、彼に何度気を遣わせれば、自分は気が済むのだろう。
「キスしてもいいかな」
 そう言われて、庵の眼が、京の表情を真正面から捕らえる。
 珍しいことがあるものだ。キスひとつに許可を求めるなど、京の性格からしてまず皆無だと思っていた。
「いつもなら嫌だと言ってもするくせに」
「今日は特別な日なんだよ。⋯⋯おまえの誕生日なんだから」
 だから、庵が嫌ならしないし、したくもない。
 自分がどうしたいかが問題ではないのだ。自分が庵にどうしてあげたいか。そして何より庵当人がどうされたいか。今日はそれが最優先の一日であるべきで。
 だから。
「キスして、いい?」
 もう一度おなじ問をくりかえした京に、庵は瞬きで頷いた。
「へへっ」
 照れ笑いを見せ、京は庵の唇に啄むだけのキスをおくる。
 決してそれ以上ふかくならない口吻けに、庵は京が自分に向ける想いを理解した。
 そして。
 何度も触れ合ってから、そっと離れようとした相手に、
「それだけ、か?」
 言葉が唇に触れるほどの至近距離で、そう囁いたのは庵の方だった。
「そんなんじゃ⋯⋯」
 ――物足りない。
 自分自身。
 そして⋯⋯。
 ――京、おまえもそうだろう?
 呼吸を奪う口吻けが庵から京へ。
「⋯⋯っ」
「――――」
 ふたりの間で無言の視線が絡んだ。
 ふいの強風に煽られて大きくしなった桜の梢が、ふたりの頭上でザァッと、派手な音を立てた次の瞬間、京は乱暴なほどの振る舞いで庵の背を樹の幹に押し付け、改めて、咬みつくような深い口吻けを庵の唇に重ねた。
 何に飢えているというのか、貪りあう口吻けに、ふたりはすぐさま夢中になる。
 庇護する物のない粘膜の、熱く柔らかな危うい感触が、なけなしの理性を霞ませ、気付けば京の膝が、条件反射のように庵の下肢を割っていた。
「⋯⋯ッ」
 舌にすこし強く歯を立てられて、抗議するように、京の背に添えられた庵の指に力がこもる。
 キスの合間に、それでも必死の努力で正気を働かせ、
「ヤバイって、庵⋯⋯」
 ――こんな場所で。
 京の理性が言葉となり、本能の衝動を封じ込めようと声をだした。
 が。
「誰も、見てないんだろう?」
 それは先刻の京の言葉。
 普段と変わらぬ庵の落ち着いた声色は、そのくせ逆に京の理性を掻き崩す。
 顔を離し、熱を孕んだ庵の双眸を眼にしたとき、
「おまえ⋯⋯っ」
 ――確信犯かよッ。
 弾けるように、京の正気は狂気へと豹変した。
「知らねえぞ、どうなっても!!」
 ――こんなシチュエーションで⋯⋯。
 歯止めが効かなくなるのは目に見えていた。しかし、腹の底から突き上げてくる熱い衝動は、もう堪えようがない。
「おまえが⋯⋯っ、誘ったんだからな!?」
 最後の足掻きとでもいうように、言わでもの一言を突き刺して、京は庵の顎を捕らえる。
「そんなことは⋯⋯」
 庵の呟きは、最後までは声にならなかった。
 ――解っている⋯⋯。
 今夜何度目かの、京からの口吻けを全身で受け止めながら、庵はのこりの言葉を胸の裡につづけ、息が詰まりそうなほど強く抱き締めてくる男の躰を、彼に負けない力で抱きかえした。






 膝が嗤って、もう自身の力だけでは立っていることさえままならない。このとき庵は、京の首に両腕をまわし、彼にしがみつくことで、かろうじて体勢をたもっているような状態になっていた。
 京の方は、庵の背中を樹の幹に押さえ付けることで、どうにか彼の躰を支えている。
 下肢だけを暴かれる、こんな遣り方のセックスは、ふだんの庵が嫌う最たるものだ。しかし、今夜はそれでも良かった。どんな遣り方でもいい、京を欲しいと思ったのは庵の方だから。
「庵、いい⋯⋯?」
 内部を探っていた指を抜き取り、京が庵に尋ねる。
「⋯⋯待、て」
 京に抱き着くようにしていた腕を緩め、庵は彼からわずかに躰を離した。それから縋る腕の位置を変え、京の肩口に顔を埋める。
 そして、
「悪いが⋯⋯京、肩⋯⋯、貸りるぞ⋯⋯」
 庵の歯が、衣服越しに京の肩の筋肉に押し当てられた。このあと己の身に何が起きるのか、京には判っている。だから彼はわざと挑発する口調で言ってやった。
「いっそ喰い千切れよ」
「⋯⋯そう、したい⋯⋯気分だ、な⋯⋯」
 笑いを含んだ軽口は、しかし、庵に余裕がなくなっていることを示す、途切れ途切れの掠れた声。
 もうこれ以上は待てないし、待たせられない。
 京は、掴み上げた庵の片脚を、彼の胸元に押し付けてその場所を晒すと、
「いいな、庵? 堪(こらえ)えろよ⋯⋯」
 一気に押し込もうと自身を突き入れた、その瞬間、肩口に鈍い痛みが広がった。
 地に両足をつけていられない庵が、うまく自身の力を分散できず、京の肩に歯を立てることで、余分な力をそこに吐き出そうとしたのである。
 しかし。
「い、っ⋯⋯」
 痛みを訴える庵の声に、京は動きをとめた。自由が利かず、やはりかなり無理な体勢で躰を繋ぐことになってしまったらしい。中途半端に京を呑み込んだまま、庵の躰は硬直している。これでは、進むことも退(ひ)くこともままならない。
「いおり⋯⋯」
 京が見上げた視線のさきで、庵の顔は苦悶のいろを浮かべ、その表面(おもて)に重く冷たい汗を滲ませている。
「大丈夫か⋯⋯?」
 京が声を掛ければ、庵が細く目をあけて彼を見下ろす。その顔がかすかに歪んだ。それは京を安心させるための精一杯の微笑。
「無理すんなよ⋯⋯」
 痛みを宥めるように、庵の、その顔を覆う前髪を梳きあげてやりながら、京は動き出したい衝動をじっと耐える。強張る全身を弛緩させようと、庵がみずから呼吸を深くしていくのが、触れ合う衣服越しの、彼の筋肉の動きで京にも伝わってきていた。
 そして、ふいに。
 庵が息を詰めた、と感じた次の瞬間、京は彼の内部(なか)ふかく、一気に呑み込まれていた。
「――ッ!!」
 声にならない苦鳴に咽喉(のど)を絞り上げ、庵が髪を振り乱してもがく。覚悟を決めて京を受け容れたのは庵自身のはずなのに、あまりの衝撃の強さに、彼は冷静さを失ってしまった。
 このままでは庵が傷ついてしまう。
 必死になった京は、暴れる躰を木の幹につよく押し付けることでその動きを封じ、性急に彼の熱に触れ、手の中に握りこんだ。
「⋯⋯っ、あ⋯⋯」
 途端に庵の口から甘い声が漏れる。そのまま執拗に、庵の弱い部分ばかりを狙って愛撫を続けると、次第に抗う力も抜けていく。
「んっ、あ⋯⋯」
 完全に抵抗のやんだ庵に、京はふかく口吻ける。
「ん⋯⋯っ」
 その口吻けの間に、庵と繋がった場所へ手を伸ばし、限界まで押し広げられた入り口の縁を、指の腹で撫でるように何度もなぞると、京の下腹(はら)に当たる庵のものが、ぴく、と反応した。
「動くぞ⋯⋯?」
 頃合いをみて、京は庵に囁きかける。とたん、庵の躰が期待に震えるのが判った。その期待に応えるため、京は思うさま動き始める。
「ああ⋯⋯っ」
 庵の上体がのけ反る。
「⋯⋯!」
 突き上げられて爪先が地を離れる。
 これ以上ない深さで京と繋がっている。
 こんなに深く躰を繋いだことは、今までになかったかも知れない。
「ああ、ぁ⋯⋯っ」
 押し込まれる京の熱が、信じられないほど奥深い場所にまで入り込んで来る。庵の躰は、無意識にそれを締め付けていた。そのたびに返ってくる熱く堅いその感覚は、さらに庵を狂喜させる。
「京⋯⋯!!」
 泣き叫びたくなるような歓喜。
 なにが自分をここまで感じさせているのか、庵には判らない。しかしそれが、ここが屋外だからだとか、いつもならしないような体位で繋がっているからだとか、そんな外面的な理由でないことは判る。そう。それを自分に与えてくれているのが、腕の中のこの男だということだけは確かなのだ。
 いつもとは、何かが、どこかが、違う。しかし、この違和感はひどく心地いい。
 だから、もう何も考えない。
 このまま、溺れてしまえ⋯⋯。






 庵だけでなく、京自身もまた、いつにも増して気が昂ぶっていた。もっとずっと、ずっと永く触れていたいと思うのに、いつもより早く、確実に終わりが近づいてきている。
 もう限界かもしれない。
 そろそろ庵の中から出なければ、あとで庵の身体が辛いことになる。今夜は、そんなつもりで庵を連れ出したのではなく、だから京は、とうぜん避妊具など持ち合わせていなかった。
 堪えられるギリギリまで耐えて、庵の中から自身を抜き取ろうとした、そのとき、
「京⋯⋯」
 庵から制止の声が掛かった。
「いい⋯⋯京、このまま⋯⋯」
「でも⋯⋯」
 庵は荒い呼吸に息を弾ませながら、見上げる京の瞳を見つめ返し、首をふる。
「いいから⋯⋯出せ⋯⋯」
「⋯⋯っ!」
 庵にきつく締め付けられ、思わず京は呻く。
「バカ⋯⋯ヤロ⋯⋯!!」
 もう駄目だった。これ以上は抑えてなどいられない。
 京は庵の躰をいっそう強く幹におしつけると、激しく腰を震わせて、庵の奥ふかくに熱のすべてを注ぎ込んだ。
「⋯⋯あぁっ」
 躰の奥が熱いもので満たされる。
 庵は苦しさから逃れるように伸び上がり、喉をそらして目を眇めた。
 視界に、薄紅が、あわく滲む。
 花が、見ている。
 桜に見られている。
 ――目が、眩む⋯⋯。
 花びらの洪水に視覚と意識を侵されて、強烈な眩暈を自覚したその直後、庵もまた、京の手の中にすべてを吐き出していた。






 部屋にもどってからも、まだ仄(ほの)暗い熱がふたりの躰のどこかで燻っているようだった。
 いったんリビングに入った京は、庵の躰を気遣って彼をソファーに座らせ、
「風呂、入れてくる」
 そう言って、すぐに風呂の用意をしにバスルームへと向かう。
 まだ庵の体内には自分の残滓がある。さっきは、あんな場所で、ちゃんとした後始末などしてやれなかったのだ。それを思うと、どうしても京の気分は落ち着かず、はやく庵を風呂に入れて休ませてやりたかった。
 勝手知ったる他人の家、というわけで、京は手慣れた様子で準備を整え、バスタブに湯を張りはじめる。そうしてリビングに戻ってみると、散らかしたままになっていたテーブルの上を、庵が片付けようとしているところだった。
「いいよ、庵、あとは俺がやるから」
「どういう風の吹き回しだ?」
「皮肉んなよ⋯⋯。今日はおまえの誕生日だろー?」
 おまえはお客様でいいの! と半ば強引に庵をソファーへ逆戻りさせ、彼のあとを引き取って、今度は京が片付けをはじめる。
 庵はソファーで大人しく、そんな京の様子を見守った。
「なあ、庵」
 すこし経って、片付けの手を休めず、ソファーに背中を向けたままの京が、庵に声を掛けてきた。
「おまえさ、さっき⋯⋯なんであんなこと⋯⋯?」
 それは、京が帰り道の途中からずっと気になって、庵に訊こうと思っていた疑問だった。その問に、
「『その気になった』⋯⋯それでは理由にならないか?」
 悪びれない庵の言葉が返される。
「⋯⋯充分だけど⋯⋯」
「けど、なんだ?」
 言い切らなかった京を、庵は放置してくれなかった。だから仕方なく京は言葉を続ける。
「や、だってさ、ホラ、珍しいじゃん、おまえから⋯⋯その⋯⋯誘うなんてよ」
「そうか? 迷惑だったか?」
「ンなワケあるか! 俺は嬉しかったの!!」
 ムキになって答え、ソファーの方を振りかえると、庵はおかしそうに肩を震わせ、声を殺して笑っていた。
「ンだよ。判ってたんだったら訊くなよォ」
 京はむくれる。
「その気にもなるさ」
 笑いを収め、庵は京を見遣った。
「あんなものを見せられては、な⋯⋯」
 庵は謳うように言い、
「きっと桜に狂わされたんだろう」
 まるで他人事の口調でそう続けた。
「それに、」
と、更に言葉を次いで、
「そういうのも有りだろう?」
 悪戯な表情で京を見つめ、
「今日は特別な日だそうだからな?」
 シニカルに笑ってそう言葉を締めくくった。
「なるほどね」
 京は、あれが庵にとって納得づくの行為だったのかどうかを確かめたかっただけだ。だから、そうでありさえすれば理由はなんであっても構わなかった。
 残っている片付けを全部済ませると京は一度風呂場へ様子を見に行き、それからリビングに戻って、庵の隣へようやく腰を落ち着けた。
「風呂、すぐ入るか?」
「ああ」
「じゃあ、後5分くらい待て」
 言いながら、京は自然な仕種で庵の肩にもたれかかり、
「⋯⋯?」
 いったん頭を離してから、
「なんか、イイ匂いする⋯⋯」
 もう一度、今度は庵の首筋に鼻先を寄せ、クンと匂いを嗅ぐしぐさをした。
「京?」
 甘すぎず、キツすぎず。
「ああ⋯⋯」
 溜息のように呟いて、京はクスクス笑いだす。
「桜の匂いだ⋯⋯」
「おまえだって⋯⋯」
 言い返そうとする庵の唇を京の唇がかすめた。一瞬驚いたように自分を見つめ返した庵が、しずかに目を閉じるのを確かめて、京はふたたび彼の唇に触れる。舌を差し入れると、すぐに庵のそれも応えはじめた。
 器用に蠢く庵の舌に頬の内側をなぞられ、くすぐったさに京は笑い肩をすくめる。庵の節立った長い手指は、煽るように焦らすように京の黒髪を撫でそれを絡め取る、その動作をくり返した。
 おだやかで熱い時間が過ぎ、ひとつに重なっていた唇が元のふたつに解(ほど)けていく。ふたりの間で、互いを繋ぎ止めるように糸をひいた唾液を、かるい音を立てて京の唇が吸い取った。
 至近距離で視線を合わせ、
「風呂、いっしょに入ろっか」
 京は明るい声で提案する。そして庵の首を抱き寄せ、
「洗ってやるよ」
 耳朶に唇を触れさせて、今度は艶めかしく囁くと、庵の腕をとり、彼をソファーから立ち上がらせた。






 脱衣所で服を脱ごうとして、
「あ⋯⋯」
 衣類の隙間から、ひとひら、ふたひら。薄紅の桜の花びらが床へと舞い落ちていくのが見えた。
 その様子を目で追っていたふたりは、ほぼ同時に顔をあげ、視線を合わせて、どちらからともなく頬を緩める。桜の影は、まだふたりを解放する気がないらしい。
 湯気に温められた浴室に入り、煌々とした明かりの下に立つと、庵の目には、京の肩口に自分が残した歯列の跡が飛び込んできた。
「しばらくは残るな⋯⋯。悪かった」
 歯型の窪みこそ消えているが、鬱血は生々しい。犬歯が食い込んだあたりには、血さえ滲んだ痕がある。
「いいって、べつに謝んなくて。痛くねえんだし」
 悪いどころか京にとっては嬉しいくらいなのだ。ふだんの庵は、キスマークひとつ、戯れにも残してはくれないような男なのだから。その庵がつけた痕だと思えば、ずっと長くこの肌に残ってほしいとさえ思う。
 それでも庵の目には痛々しく映るのだろう。労るように優しい指先が、その痕に触れた。
 撫でるように指の腹で痕のうえを辿られた途端、京の躰に緊張が走り、つづけて、頬に血の色がのぼる。
「?」
 一瞬、京の身になにが起きたのか判らなかった庵だが、すぐに事態を理解した。だから彼はわざと京の下肢に戯れの手を伸ばす。
「ッ!」
 庵の手に捕らえられ、
「よ、せ⋯⋯」
 呻くように京が言う。
 庵の手を引き剥がそうとするのに、手の中に包み込まれてゆったりと扱かれると、気持ち良さのあまり、京はこのまま流されてしまいそうになる。
「よせって⋯⋯止まんなくなるだろ⋯⋯っ」
「とめなければいい」
「おまえ⋯⋯」
 ハッとして顔を上げ、京が見返した庵の顔はひどく冴えた表情を浮かべていた。
「まだ、日付は変わってない」
 今はまだ、特別な一日の中だ。
「欲しいならくれてやる」
 庵の醒めた表情の中で、その瞳だけが熱を帯び、劣情に潤んでいる。
「その代わり、おまえも⋯⋯すべて俺に寄越せ」
 庵らしい言い方だった。
 京は観念して苦笑する。
「嬉しい交換条件だな」
 本当に、この男には敵わない。
「俺でいいんなら⋯⋯」
 一度は終わったと思っていた夜が、今ふたたび始まろうとしている。
「いくらでも⋯⋯喜んでくれてやるよ⋯⋯」






 湯気のこもる浴室で、庵は気怠い躰を京に預け目を閉じてじっとしている。京は彼を胸に抱き寄せて、ことの後始末をしていた。
 京は、自分が残したものを庵の中から丁寧に掻き出し、それをシャワーの湯で洗い流す。それが判ってホッとしたのか、庵の全身から余計な力が抜け落ちた。
「⋯⋯大丈夫か? 辛くねえ?」
 聞き馴れない殊勝な京の声色が、庵の微笑を誘う。しかし庵の顔は京の肩口に預けられているので、京にはそのことが判らない。庵からの返事がないのは、彼が疲れているからだろうと思ったのか、京はまた先に言葉をついだ。
「これじゃどっちの誕生日だか判んねえよ⋯⋯」
「⋯⋯そんなことはない」
 京の嘆くようなぼやきを、庵はゆったりとした口調で否定した。
「おまえを欲しがったのは⋯⋯俺の方だ⋯⋯。そうだろう、京?」
「⋯⋯っ!」
「俺がおまえを望んだんだよ⋯⋯」
 そう。欲しがったのは自分の方。自分が彼を欲しがったのだ。
 できることならば、赦されるものならば、京を自分ただひとりの物にしてしまいたい。誰にも、何にも、渡したくはない。
 けれど、その願いの叶う時間(とき)が悠久ではないと知っているから、だからこそ、今この瞬間だけは、と、京と抱き合うとき、庵の躰はひどく素直になる。懸命に京を受け容れようとし、すこしでも長くひとつになっていたいと、ふだんは決して表に出すことのない裡なる欲望を、その躰で以てあからさまに表現する。
 京はきっと誰の物にもならないだろう。自分が、京ひとりの物になれないように。自分は、なりたくても、彼ひとりの物にはなれない。この身は、彼ひとりのためだけに、常に空けておける代物ではないから。それでも、この心、それだけは、いつでも京ひとりのものだ。彼に対するこの想いだけは、いついかなる瞬間にあっても彼ひとりのもの。それは、たとえ京の想いが自分とは別のものに向けられていたとしてでさえ、決して揺らぐことのない真実。ひとを想うということは、そういうものだと庵は思う。
 京の魂はどこまでも自由だ。その魂が自由を無くしたとき、彼は精神的死を迎える。京が京のまま在り続けるということ、それは彼の魂が自由であり続けるということに他ならない。
 だから京を束縛したくない。この手で彼の自由を奪いたくはない。そう思うことと京に対する独占欲と、一見矛盾している筈のふたつは、しかし、どちらも偽りない庵の本心だった。
 自由を無くした京など欲しくはないのだ。今のままの、有りのままの彼が欲しいだけ。
 だから。
 永遠はいらない。
 今この瞬間があれば、それでいい。
 この一瞬を永遠に変えて、自分は生きていけるから。
「くっそー! ンな可愛いこと抜かしやがるともっぺん犯すぞ!?」
 京が喚いた。半分以上が照れ隠しだ。喚きながら彼は庵を抱き締めていた。
「俺喜ばせてどうすんだよ!」
 庵のその告白が、一生に一度聞けるかどうかという、とんでもなく貴重なものであることは重々承知なのだ。
 嬉しいなんてもんじゃない。もうこの叫び出したくなるような気持ちは、言葉になんかできない。
 ――嬉しくて気ィ狂いそう⋯⋯。
 これでは益々、今日がどちらのための特別な日なのか判らない。
 胸の中の嵐が鎮まるまで、しばらく京は庵を抱く力を緩めることができなかった。
 自分を抱き締める京の腕が緩んだことに気付き、一呼吸おいて庵が肩口から顔を上げる。
「京、ひとつ教えてくれ」
 真っ向から京の顔を見つめ、庵はこう尋ねる。
「今日は⋯⋯めでたい日、か?」
 今日が己にとって本当にめでたい日なのか、彼は昼間からずっと判らずにいた。
「おまえが生まれた日なんだぜ? めでたいに決まってる」
 あっさり答えた京に、庵は首を振る。
「ちがう、そうじゃなくて⋯⋯」
 うまい言葉が見つからず、庵はしばし口を閉ざした。
 京に祝福されないのなら、自分の存在には意味がない。だが、その京が認めてくれるなら。彼がこの日を、本当に目出度いと思ってくれるのなら。
「京、おまえにとって、だ」
 草薙京にとって、自分が⋯⋯八神庵がこの世に生を受けたこの日が祝福すべき日なのか、それを知りたいのだ。
 この男が、己の存在を認めてくれるなら⋯⋯。
 そうであれば自分は、ここで生きていられる。それがどんな自分でも、今ここに生きていることを、きっと赦せる。過去のすべてを引きずった、今の自分でも。
「俺言わなかったっけ? おめでとうって」
 桜の樹の下で、言った筈だ。
「今日はおまえが、俺に逢うために、この世に生まれて来た日だ⋯⋯。そうだよな? 庵」
 京の手が庵の両頬に添えられる。
「⋯⋯きょう?」
 庵の赤味がかった小さな虹彩を、その、黒く大きな虹彩で見つめかえし、京はキッパリ言い切った。
「俺はおまえを待ってたんだ」
 ずっとずっと待っていた。
「だから、俺にとって、今日はめでたい日だ。おまえに逢うことができるって、決まった日なんだから」
 庵は苦しくなって目を伏せた。京に抱かれたときのように、心臓が熱く、痛い。
「俺を3ケ月も待たせやがって⋯⋯」
 視界を閉ざした庵の耳孔を、京の声がやさしく侵す。
「けど、もう二度と⋯⋯これからは一遍だって待ってなんかやんねえ。⋯⋯そんな必要もないけどな」
 庵のうすい唇に、京の厚味のある唇がやわらかく押し当てられ、ゆっくりと離れた。
「庵。おまえは、これからずーっと、俺と一緒にいるんだ。⋯⋯そうだよ、な?」






 ――先に出てるぞ。
 そう言って先に浴室から出た京は、後から上がってくる庵のために洗いたてのバスタオルと着替えとを用意してくれていた。そのバスタオルで水滴を丁寧に拭い、庵はパジャマを手にとる。
 袖を通すと、日向の陽差しの匂いがした。
 京の匂いだ。
 その匂いに包まれて、庵はすこし覚束無い足取りで京のいる寝室へと向かう。ドアを開けると、京はすでに布団にもぐりこみ、彼が風呂から出てくるのをベッドの中で待っていた。
「はやく入れよ。湯冷めするぜ」
 掛け布団をめくって、庵の就寝を促す。
 催促されるまま、ベッドサイドに置かれたスタンドの明かりだけを残して部屋の電気を消すと、庵もベッドの中の住人になった。
 ベッドの中で京の方へ顔を向けて背を丸めるのは、いつの頃からか付いた、彼とふたりで眠るときの庵の癖。その庵の頭を胸元に引き寄せたがるのは、京の癖だ。
 しかし今夜京はその庵に、彼自ら胸元に頭を擦り付けるようにして身を寄せられた。
「⋯⋯どうした?」
 常にない彼の行動に、京は態度には出さず、焦る。
 庵はつぶやくように言った。
「今日は一日変な気分だった⋯⋯」
 ――こんな気持ちは初めてだ。
「⋯⋯やっぱ迷惑だったか?」
 庵の言葉を聞き、京が不安げな声を出す。
 自分は、何をした、と言える程のことはしていないが、しかし誕生日を祝われ慣れていない庵にとって、今日が苦痛な一日であったのなら最悪だ。
 しかし庵は、ちがうと首を振った。
 確かに京が何をしたというのでもない。庵が知っているのは、彼が自分の知らないところで、自分のためを思って、必死になっていただろうことだけだ。
 だが、庵にはそれで充分だった。
 目論みは果たされなかったが、京が自分のためを思って何かをしようとしてくれた、その事実が自分を幸福な気持ちにさせているのだから。
「ひとに大切にされるというのも⋯⋯」
 庵は囁くように言う。
「たまには⋯⋯いいものだな⋯⋯」
 年に一度きりのことならば、こんな日があってもいいかも知れない。
 そんなことを考えながら、庵は急速に目蓋が重くなっていくのを自覚する。睡魔に逆らう理由もなく、彼の思考はそこで停止した。
「⋯⋯⋯⋯」
「⋯⋯⋯⋯?」
 庵の気配が急に静かになったことに気づき、京は顔を起こした。
「庵?」
 しかし、京のその呼びかけに応じたのは、深く安らかな寝息で。
「⋯⋯いおり」
 知らず京の表情が和む。
 庵の方が京よりも先に眠ってしまうのは、実はかなり珍しいことだ。ふだんの彼は寝付きが悪く、たいていは京の方が先に眠ってしまう。
 今日はよほど疲れていたのだろう。
 でもその疲れは、決して不快なものではない筈だから。
 京は庵を起こしてしまわないように、湿った紅い髪をそっと撫でた。
「俺は⋯⋯ホントは毎日だっておまえのこと、大切にしたいと思ってるんだけどな」
 そして本当は、庵が自分に甘やかされるの待っているだけではなくて、庵の方から甘えて欲しいとも思っている。
 でも。
 たぶんそれは望めないこと。
 甘やかされることを彼が望まないのは知っている。余程のことがないかぎり、庵が自分からは甘えてくれないだろうことも解っている。だからこそ、こんな日くらいは、特別な日だという免罪符をかざして、好きなだけ好きなように大切にさせて欲しい。思う存分甘やかさせて欲しい。
「来年はもっと大切にしてやるからな⋯⋯。楽しみにしとけよ?」
 そう、眠る男の耳元に言い聞かせ、京はベッドサイドに手を伸ばすと、部屋中の明かりをすべて落とした。



2000.04.01 脱稿/2018.11.02 微修正 



・初出:『唄う花びら』2000.04.02 発行
・再録本『Happy Love Love?』2009.05.03 発行に収録