『真冬の花火・前』


 リビングの方で、ベランダの戸が引き開けられる音がした。
 寝室のベッドの上に転がっていた庵は、ぼんやり薄暗い部屋の中で息を潜め、耳を澄ませる。
「いおりー、いるんだろー?」
 自分の名を呼ぶ男の声がした。
 何日ぶりかに耳にする京の声。
 それが聞こえただけで、庵は自分の胸郭を塞ぐ冷たく重い塊がちいさくなっていくのを感じた。






 話は半年程さかのぼる。
 それは関東地方が梅雨明けしてすぐの頃だった。生鮮食品でもあるまいに、初物だと言ってコンビニで見つけたという商品を、京は嬉しそうに庵の部屋へと持ち込んだ。
「いおりー、お土産ーっ」
 とかなんとか言いながら、京が掲げて見せたものに、風を通すため窓を全開にしたリビングの、ソファーに座って音楽雑誌をめくっていた庵は少しだけ目を見張った。
「花火?」
「そ。さっき下のコンビニで見かけてさ。売ってんの見たの今シーズン初だったから」
 ――つい買って来ちまった。
 笑いながらそう言って、京は手にしていた打ち上げ花火とネズミ花火のセットと、チープな手持ち花火セットの2つの袋をテーブルの上へ並べてみせた。
 庵の住むマンションの1階の貸店舗にはコンビニと生花店とが入っている。そのコンビニへ、用がなくても立ち寄るのが、最近の京の、この部屋に上がってくる前の習慣になっていた。
 どうやらこの花火は、そこの売り場で見つけたものらしい。
 庵は膝の上の雑誌を閉じて腕を伸ばし、
「花火か⋯⋯」
 何ということもなく一つを手にとってラベルを眺める。
 花火などもう何年もしたことがなかった。まだ本家にいた時分、妹にせがまれて付き合った記憶があるが、あれはいくつのときだったのか。なんにせよ随分と年少の頃の話だ。
「懐かしいな」
 つぶやいた庵に、京も、
「俺も最近全然やってねえよ、花火なんか。⋯⋯KOFが終わって日本にもどる頃って言ったらもう秋だろ? なんとなーく毎年やりそびれるって言うかさ」
 気候的にはまだまだ夏の気配充分なのだが、KOFが終わる、イコール、夏が終わる。そういう公式が意識のどこかに存在しているようで、京も庵も帰国した頃にはもうそんな気が起きないのだった。
「自分でやんないだけじゃなくて、花火大会とか観に行くこともないもんな」
「そうだな」
 KOFに参戦するようになってからは、夏の間、世界各地を移動して過ごすため、ここ数年、ふたりとも夏の国内行事とはすっかり疎遠になっている。
「だからさ、今年はやろうぜ。せっかく買ったんだし」
 京のその提案に、庵も躊躇なく頷いた。
 楽しみだった。
 KOFが始まる前に――。
 どちらからともなくそう言った。
 けれど、ふたりの約束は果たされぬまま、KOFは開幕の日を迎えた。






 その年の大会でも京と庵との格闘上での決着はつかず、彼らは互いに再戦を誓いあって帰国した。それからひと月あまり、これはKOF終了後の常で、ふたりは顔を合わせないまま時を過ごした。だから、京が久しぶりに庵の部屋を訪れると言い出したのは、10月も半ばが過ぎようとしていた頃。
 来客があるからといって特別なにかをしなければ、ということもないのだが、条件反射のようなもので部屋の掃除をはじめた庵は、リビングの隅に置いてあるコンビニの袋に目をとめる。
 取り上げて中身を確認するまでもない。なぜかずっと捨てられずにいた、それは京が買って来た花火。今となっては湿気にやられ、使用に耐えないことが確実だった。
 だが庵は捨てることを躊躇し、それをただじっと俯瞰している。
 実を言えば、使い物にならないだろうと思ったのは今日が最初ではない。
 KOFに出場するため、庵がこの部屋を出ようとしていたとき、花火はビニール袋から出された状態でリビングのテーブルの上に並べられていた。出掛ける直前、その様子をふりかえって確かめた庵は、外へ出て鍵を掛けながら、つぎにこのドアを開くとき、あの花火は全部駄目になっているだろうと既に思っていたのだ。
 そして結果は予想どおり。
 だが帰国した彼はテーブルの上のそれらを改めて眺め、なぜかコンビニの袋へと戻した。そしてリビングの隅へ置いたのだ。
「⋯⋯⋯⋯⋯」
 ――どうしようか。
 今もやはりすぐには捨てる気になれず、処理を迷っている最中、庵の背後でドアノブを回す音がした。ビクッとして玄関を振り返る。
 京だ。
 咄嗟に、隠さなければと思った。京に見つけられそうにない場所へ。
 その日を境に、また次のKOFを迎えるまでの穏やかな日常がふたりの元に戻ってきた。






 ある夜、めずらしく京が庵の部屋の台所に立っていた。ここ2週間程の間に、立て続けに数本のライブをこなしていた庵が、手首の具合を気にする素振りを見せていたからだ。
 夕食をふたりで食べてから、庵がリビングでくつろいでいると、
「庵ィ、予備の洗剤ってどこー?」
 洗い物をしている最中の京から声がかかった。食器用洗剤が切れたらしい。
「シンクの下だ」
「右ぃ? 左ぃ?」
「たぶん右だ。詰め替え用のがある筈だが⋯⋯」
 扉を開ける音がしたが、しばらく経っても返事をしない京を不審に思い、庵はキッチンへ向かう。
「どうした。見つからないか」
 シンクの下にしゃがみこんでいた京が、何かを手に立ち上がった。そして庵を振り返る。
「これ⋯⋯」
 庵の目の前に突き出されたのは、見慣れたコンビニのロゴが入った白いビニール袋。
「あんトキの花火だよな」
 ――しまった。
 心に動揺が走るのを自覚する。
「⋯⋯そんな所にあったのか」
 喉を絞り上げるように押し出した自分の声が上擦っているような気がして、庵の表情は知らず強張った。
 京が台所に入ることは、本来、稀だ。冷蔵庫を覗くときか飲み物を作るときくらいにしか、彼はその場に出入りしない。だから先月、庵はその袋を流しの下に放り込んだ。京がもっとも見る危険の小さい場所だと咄嗟に判断してのことだった。
「間違ってそこに仕舞ってたんだな」
 苦し紛れの嘘。
 京が嘘だと気づかなければいい。心の底からそう願う。
「捨てておいてくれ。たぶんもう湿気って駄目になっているだろう」
 平静を装って言葉をつなぐ。
「⋯⋯⋯⋯⋯」
 しかし庵に言われたとおりには行動せず、京は花火の入った袋を足元に置いた。
「京?」
「いいから。俺の好きにさせろよ。コレ買ったの俺なんだからさ」
 京の声は、心なし曇っているようだ。
「どうする気だ?」
 庵の質問に答えず、京は背をむけた。
 洗剤をパックから容器へ移し替える姿をしばらく見守っていたが、京にそれ以上話す気がないことを悟り、庵は黙ってリビングに引き返す。不穏な空気を肌で感じていた。
 台所からは再び水音が聞こえはじめる。カチャカチャと食器同士の触れ合う音がひとしきり続いて、洗い終わった食器を食器棚にしまう音もやみ、次に聞こえてきたのは袋を引き破る音。
 何をやっているのだろうかと不思議に思ったその直後、何かが焼け焦げる匂いが漂いはじめ、庵はハッとして顔を上げる。
 京が手持ち花火に火をつけたのだ。
 しかし。無理だろうと理解しながらも庵が一瞬期待してしまった、火薬が火を吹く音を聞くことはやはりなかった。
 庵の肩が落ちる。
 火薬の匂いのしないまま、焦げ臭い微粒子だけがリビングにまで流れてきていた。






 物音の止んでしまった部屋の空気は重苦しかった。
 庵は、京がその話題に触れるのを回避することが不可能だと悟って、場を和ませる努力も最初から放棄し、彼の言葉をじっと待つ。
「あの花火、KOFが始まる前にやろうって、言ってたんだよな」
 リビングに現れた京の問いに、庵は無言でうなずいた。
「俺は忘れてた」
 毎年の恒例行事だとはいえ、いつも期末試験と時期の重なる海外遠征の準備には手を取られるし、その忙しさにかまけて、京は花火のことをすっかり忘れていたのだ。
「⋯⋯そうだろうと思っていた」
「なんで言わなかったんだよ」
 ――約束の花火をしよう。
 たった一言。言えば自分は。
「おまえが言うのを待っていただけだ」
 誘いがかかるのを、待っていた。
「俺が忘れてるんじゃないかって、おまえは思ってたんだろう?」
「⋯⋯ああ」
「じゃあ、どうして!」
 庵は口をつぐんだまま首を振る。
 庵は、自分と同じように同じ強さで京がそれを望んでいるとは考えなかった。忘れているということは、京にとってそれがさほど重要な約束ではなかったということだ。そうしたいと強く望んだのは自分ひとりの勝手であって、庵はそうできなかったことを京のせいだと言うつもりはなかったし、責める気もなかった。
 だから、黙っていた。
 だけど捨てられなかった。
 それだけの話。
「おまえは忙しかったんだろう?」
「そうだけど⋯⋯言えば花火する時間くらい⋯⋯」
「やめよう、この話は。もう済んだことだ」
 これ以上触れたくなくて、話を切り上げようとする庵に対し、
「済んでねえよ」
 京は強い口調で喰い下がる。
「ずっと訊こうと思ってたんだ」
 真顔になっていた。
「どうしておまえは俺を呼ばない? おまえの方から俺のこと、呼んだことってないよな」
 ただの一度も。
 いつだって、庵を呼び出すのは京だった。庵が京を何かに誘ったことは一度もない。
「自分から逢いたいって思ったこと、ないのかよ?」
 庵は首を横に振った。
「なら、どうして!」
「⋯⋯呼ばなくても勝手に来るだろう」
「じゃあ、もし俺が、もうここには来ないって言ったら、おまえは⋯⋯おまえはそれで何もかも諦めんのか? おまえはそれでいいってのか!?」
 出て行く俺を、庵、おまえは黙って見送るのか。
「そうだ」
 言い切った庵に、京はいろを作(な)した。
「ちゃんと俺の眼ェ見て言ってみろ!!」
 庵はゆっくりと顔を上げる。
「何度でも言ってやる。⋯⋯来たくないなら来なければいい」
 京に自分が必要なくなったというのなら、彼がここへ来なくなることは必然。
 いらなくなった荷物を、いつまでも引きずって歩く馬鹿はない。誰だって手を離し、それをどこかへ置いて行くだろう。
 荷物はそのことに抗議などしない。
「俺のこと信じてなかったのかよ!?」
 京の語気はさらに荒くなる。そしてそれと反比例するように、庵の頭脳は気持ちと共に冷たく冴えていく。
「おまえの何を、どう信じろと?」
 自分に信頼などされたら、信用などされたら、京の持っている荷物はますます重たくなってしまうだろうに。
 京の拳が怒りのあまりぶるぶる震えているのを視界の隅に捕らえ、殴られるかも知れないと思いながら、それでも庵は言葉をついだ。
「今までも、おまえはずっとそうして来たはずだ」
 そうやって、好きなことを好きなように。
「なにが変わる? なにも変わらないだろう。今までと同じさ」
 そう。自分にとっては。
「出て行きたいなら、そうしろ。俺は引き留めたりなどせん」
 その言葉が引き金になった。京は身をひるがえし、まさに鉄砲玉の勢いで部屋を飛び出して行った。
 バン!
 叩きつけられたような激しい音を響かせて、玄関のドアが閉まる。
 その音を庵は目を閉じて聞いていた。身じろぎもせず、彼はソファーに座っている。
 ――いらない荷物なら、捨てて行けばいい。
 いつも思っていたことだった。だがそれを口にするつもりもなかった。あそこまで言うつもりなどなかった。言えば京が怒ることくらい、そして彼を傷つけてしまうだろうことくらい、頭ではちゃんと解っていた。
 だけど、嘘ではなかったから。
 あれは自分の本心。
 そんな自分が嫌だというのなら、相手に離れて行ってもらうしかない。その相手というのが京であっても、この気持ちは変わらない。
 庵が重い腰を上げたのは、それから一時間ちかくも経ってからだった。重い足取りで玄関に向かい、錠をかける。庵が何げなく目を向けた玄関の靴箱の上には、京に渡してあったこの部屋の合鍵が無造作に投げ出されていた。怒りのあまり忘れて行ったのか、それとも故意に置き去りにしたのか。どちらにしても、もうここへは来ないと宣言されているように、庵には思えた。
 胸の裡が黒い色に塗り潰されていく。
「⋯⋯っ」
 息苦しさに、庵はちいさく喘ぐ。
 黒い絵の具は冷たくて、ひどく重たかった。






 京が庵の部屋を飛び出して、数日が過ぎた。
 その間(かん)、京はあの日交わした庵との会話を、嫌というほど頭の中で反芻している。
 引き留めないと言い切った、それが庵の本心だということは、京にも疑いようがなかった。あの眼は嘘などついていなかった。だから、このまま自分が電話をせず、あの部屋にも行かなければ、おそらく次のKOFまで彼と逢うことはないだろう。
 逢いたいと思っても、逢いたいとは言わないのだから、あの男は。
『おまえがそうしたいなら』
 いつだって庵はそうだ。
『そうすればいい』
 それは一見すべてを容認する台詞だが、逆にすべてを放棄した言葉とも取れる。
 自分には、何もかもどうでもいいことだから。だから、どうとでもすればいい、と。
 なにが庵にそう言わせるのか、京には解らない。
 どうして庵は欲しいものを欲しいと言ってくれないのだろう。言ってもらえなければ、自分には庵の気持ちが解らないのに。
「ホントに⋯⋯」
 本当に、要らないんだろうか。自分は、あの男には必要ない存在なのだろうか。
 だとしたら⋯⋯。
 ――ちがう。
 だとしても、だ。






 かつて気の置けない紅丸に、悩むための頭脳など持たないとまで言われた京のこと、考え込むのにはすぐ飽きた。
 問題は、いま自分がどうしたいか、だ。庵が何をどう思っているのか解らない以上は。そして――。  
 逢いたくなったら逢いに行く。
 逢いたくなったから逢いに行く。
 シンプルな思考だが、実行するとなると意外に無駄なプライドに邪魔されて完遂し難いことを、しかし京はいとも簡単にやってのけてしまう。必要ないプライドをいっさい持たないで生きる。これも一種の才能だろう。
 ヘルメットを小腋にかかえてアパートを出ると、真冬の澄んだ空気が冷たく頬を刺す。フルフェイスのメットで剥き出しの頬をガードして、京は庵のマンションを目指し、バイクを発進させた。
 マンションの駐車場の来客用スペースにバイクを停め、ヘルメットをはずし、京は庵の部屋のある7階をふりあおぐ。
 いま彼は合鍵を持っていない。バイクのキーと一緒にしておけば、庵の部屋に忘れたりはしなかっただろうに、分けて持っていたことが裏目に出た。
 エントランスはどうにかなる。マンションの住人のふりをして、本当の住人が通った後、ドアが閉まるまえに通過してしまえばいい。問題はそれからだ。
 ――どうするかなー。
 部屋の前で泣こうが喚こうが、内側からあのドアが開かれることはないような気がする。
 自分のアパート並の安普請なら、近隣への手前、招き入れざるを得ない状況にもなるのだろうが、相手はこの堅牢なマンションだ。少々の騒音が世間体を気にする庵を屈服させるとも思えない。その気になればドアのひとつやふたつ壊すことも京には可能だが、そんなことをしたら後が怖い。それはもう、いろんな方面から、いろんな意味で。
 人工構造物にまで嫌われているような気がして、京は自分に威圧感さえ覚えさせる高層建築物を、不機嫌な貌で睨み上げた。
「坊主憎けりゃ⋯⋯だな」
 いまは袈裟どころか、いっそ抹香の匂いまで憎らしい。
 善後策を思いつかないうちから、しかし京はもうエントランスに向かって歩きだしている。相変わらず良策は思い浮かばないのだが、かと言って、彼はいつまでもじっとしていられるタイプの人間でもない。
 マンションの正面玄関まで来たところで、運よく中から人が出てくるのに遭遇した。そのチャンスを逃さず、第一関門を易々と突破。建物の中に入ると、京の前にひとりの男がいた。エレベーターホールに向かうその男の顔に見覚えがあるような気がして、京は記憶の糸をたぐる。そして、彼が庵の部屋の隣人だということを思い出した。
 ――そうだ。
 あることを思いつき、ニンマリ笑う。そして男の後を追って行き、京は彼と共にエレベーターへと乗り込んだ。
「あのー」
「はい?」
 声を掛けられて振り返った男に、京は人好きのする笑顔でにっこりしてみせた。






 京が思いついたのは、ベランダからベランダへ移動することで庵の部屋へ侵入するという犯罪まがいの方法だった。 
 この場合、隣室の住人が男性であったことが幸いしている。ひとり暮らしの女性が相手だと、部屋に上げてもらうこと自体困難だったかも知れない。もっとも女の側に下心があったりすると、それはそれで、また状況も違ってくるのだろうが。
 ともあれ、有無を言わせぬ強引さ、言い換えれば、気迫の脅し、で隣人を頷かせ、京は男の部屋に上がり込むと、即座に作戦を実行に移した。
 いまいち状況を飲み込めていないらしい男には構わず、靴を手にまっすぐベランダへと向かう。
 しばらくしてから、ようやく、
「あのー、ここ7階なんだけど⋯⋯」
 恐る恐る話しかけてきた男に、へらへら手を振って、
「あ、ヘーキヘーキ。俺高所恐怖症のケ、ないから」
 男が心配したのは高所恐怖症云々ではなく、落ちれば確実に無傷では済まない高さのことだったのだろうが、どちらにせよ京には関係なかった。今この場での関心事といえば、ベランダからベランダまで移動する、その方法だけだ。
 ベランダの手摺りの丸みを確認し、滑ることを懸念した京は裸足になった。脱いだ靴下を靴の中へ押し込み、それを無造作にとなりのベランダへと放り投げる。つづいて、持っていたショルダーバッグも放り込んだ。
 準備完了。
 もはや声もなく、脅えた貌で見守っているだけの男に背を向け、
「よっ」
 かるく弾みをつけてベランダの縁に立つと、最大の障害物である火災用の防護壁をものともせず、京は身軽に庵の部屋のベランダへ着地した。
 自分を見送っていた男性の、血の気が引いて強張ったガチガチの顔に頓着することもなく、
「どーも。お世話サマ」
 京はニッと笑って防護壁の陰に顔を引っ込めた。






 庵が、その在宅中にベランダの鍵を掛けないのはいつものことだ。もし彼の在宅中に部屋に侵入しようとする人間がいるとしたら、それは余程の腕自慢か、ただの命知らずか、そのどちらかしかないだろう。
 京はガラス戸に手をかけた。
 やはり鍵はかかっていない。
 京の手の動きにつれてカラカラと乾いた音を立て、戸は開いた。
 ひとが侵入した気配に庵が気づかない筈もないのに、シンと静まり返った部屋の空気は動かない。 
 京は裸足のまま部屋に上がり込み、周囲を見回す。
 淀んだ空気。
 換気もしていないようだった。
 多分あの日から、ずっと。
「いおりー、いるんだろー?」
 静けさに耐え兼ねて、沈黙する空間に庵を呼んだ。だがその声は、虚しく自分に返る。
 京は寝室のドアを開けた。
 そこに庵はいた。
 薄暗い闇の中に、庵の白いシャツの背がぼんやりと浮かび上がる。その背は訪問者を拒絶するように、ドアの方に向けられていた。
 京は壁に手を這わせ、明かりを灯す。
 庵は別れた日と同じ服を着て、ベッドの上に転がっていた。
「庵」
 呼びかけに振り向くことはないが、眠っている呼吸でもない。
 京は、なんと言って声をかければいいのか判らず、
「具合でも悪いのか」
 苦し紛れにそう問う。すると、わずかに庵の首が横に動いた。やはり起きていたのだ。
「でも⋯⋯苦しそうだ」
 嘘ではなかった。
 背後から覗き込んだ庵の横顔は、眉根をふかく寄せていて、苦痛に耐えているように見える。シーツの波に紅く散る髪の乱れを、そのまま庵の氣の乱れのように思うのは、京の願望の勝手に過ぎるだろうか。
 そのとき、庵の右手が胸元のシャツを、指の節が色を無くすほどにきつく握り締めていることに京は気づいた。
「どこか、痛むのか」
 今度の問いには微かな頷きが返る。   
「どこ?」
 京が、そうではないかと踏んだとおり、一旦胸元のシャツから離れた庵の手は、ふたたび同じ場所にもどる。
「なんだよ⋯⋯痛いんじゃねえか⋯⋯」
 吐き出す京の声はふかい安堵に満ちていた。
 ――良かった。
 庵のもつ五感は通常の人間の有するそれらとは違う、そう言って世の人間は彼を疎外したがり、理解したがらない。だが、庵が訴えた痛み、それは、京にも覚えのある感覚だった。
 庵の痛みを知った瞬間、それまで京の胸中でわだかまっていた、彼に対するもやもやした感情は、きれいさっぱり消え去っていた。
 ふいに、
「が⋯⋯」
 庵がはじめて口を開いた。
「え?」
 あまりに小さく聞き取りにくい掠れ声に、京は庵の口元へ耳を寄せる。
「だれが」
 ――平気だなんて言った?
「いおり⋯⋯おまえ⋯⋯」
 京は継ぐべき言葉を見失った。
 平気じゃないって解ってて、それでもあんなこと言ったのか?
 どうして。
 何のために?
 だれの、ために?
「平気じゃないんだったら⋯⋯」
 言いかけた京に、
「べつに死ぬ訳じゃない」
 庵の返したいらえはあまりに極端で。
「致命傷でなければ、そのうち治る」
 どうということもない、と続いた声は、感情を完全に死滅させている。
「いおり⋯⋯」
 ――どうしてこの男は⋯⋯。
 京は庵に悟られないよう、音をさせずに吐息をつく。
「傷負っちまってからそれが致命傷だって判ったって、もう遅いんじゃねえ?」
 その京の言葉に、はじめて庵の重かった目蓋がゆうるりと上がり、その下で闇を見続けていた紅い瞳が数日ぶりに外の空気に触れた。だが、外界の刺激が強すぎたのか、眼球を乾燥から守るように、すぐまた目蓋はおりてしまう。
「今度の傷は治るのにどれくらいかかりそうだ?」
「⋯⋯⋯⋯⋯」
「薬、欲しくないか」
 京はベッドの端に腰を下ろした。体重が掛かったその分だけマットが平坦さを失い、庵の背が京の背に近づく。
「即効性なんだけどな」
「⋯⋯⋯⋯⋯」
「庵」
 京はまだ胸元にある庵の手に自分の手を重ね、つよく握り締める。冷えきった手の甲の、乾いた感触が、痛い。
「俺が来なかったら、ずっとひとりでこうしてるつもりだったんだ?」
 ひとり静かにうずくまって。ただじっと、傷が癒えるのを待つ。
 そうやって、いつか本当に庵は諦めてしまえたに違いない、自分の望みを。
 だけど、本当は。
「けど俺のこと、待ってたんだろ?」
「⋯⋯⋯⋯⋯」
「ホントは逢いたいって思ってたんだろ?」
「⋯⋯⋯⋯⋯」
「黙ってないで、なんか言えよ」
「⋯⋯煩い」
「なあ、庵ぃ⋯⋯」
「すこし、黙れ」



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