『君と明日の話をしよう・前』 ※原作 #217 を読む前に思いついた話であるため、村越が独身設定。


 緑川が日本代表からの引退を表明したとき、当時の代表監督からは強く残留を要請された。曰く、代表チームに残りその豊富な経験を是非とも後進に伝えて欲しい、と。それはまさしく選手冥利に尽きる評価であったのだが、緑川の意思は固く、自らが一度下した決断を翻すことはついぞなかった。
 その緑川の元へ移籍話が舞い込んできたのは、彼が所属するクラブチーム・清水インパルスの試合に専念するようになって二シーズンが過ぎたオフのことだ。
 元代表正GKの経歴を持つ緑川は、現所属クラブ内で高給取りの部類に入る。その金額がクラブの経営を左右するのはもとより、三十歳をひとつ越えた今、経験値以外の面での伸びを期待できない選手と認識されていることを彼自身が知悉していた。
 なので、クラブ側の方針が自分の放出に積極的であるらしいことを、話し合いの場を持つ前から、緑川はうすうす察していた。
 緑川の獲得を希望しているクラブは、ETUことイースト・トーキョー・ユナイテッド。その名のとおり東東京に本拠地を置くクラブチームで、六年前にトップリーグから降格、四シーズン二部に低迷したのち、二シーズン前にようやく一部リーグへの復帰を果たしたところだった。しかし、再昇格後も成績は振わず、シーズンごとに降格ライン上で危ない綱渡りを繰り返している。
 代表GKを退いて二年、アスリートとしての肉体的ピークを既に過ぎたとはいえ、清水ではいまだ正GKの座にある緑川の獲得となれば、決して安価な買い物ではない。今オフに於けるETU最大の、ともすれば唯一の補強なのかも知れなかった。
 条件面での折り合いがつかなければ決裂も有り得るが、ともあれ交渉の席に着いてみないことには何も始まらない。残留にしろ移籍にしろ、前向きに受け止めようと心に決めて、緑川はETUゼネラルマネージャーとの面会の日を迎えたのだった。





 緑川に名刺を差し出しながら、
「イースト・トーキョー・ユナイテッド、GMの後藤です」
 身分を告げ、後藤と名乗った男には見覚えがあった。もっとも緑川が知っているのは選手としての後藤であり、フロント入り後の彼と直接対面するのはこれが初めてだ。現役時代DFのポジションだった後藤は、長身故にポストプレーの際には必ずゴール前へ上がって来ており、GKの緑川とは直接競り合った経験が何度かあった。選手としての後藤はETUから京都へ移籍し、そこで引退したと記憶している。
 その後藤が、引退後に就任したのがETUのGMというポストだったらしい。
 某ホテルの一室で行われた移籍交渉の席で、後藤は緑川に、まずはこれを見て欲しい、とETUの過去の成績を数値化した資料を差し出した。
 ETUはとにかく失点が多かった。勝ち試合でも零封がほとんどなく、それは得失点差に歴然と現れており、過去五シーズンすべて、二桁台のマイナス数字がずらりと並んでいる。
「守備を強化したいというのがクラブの考えで」
 経験が豊富で、遠慮せずコーチング出来る人材を求めているのだと後藤は言った。
「それから、ウチにはベテランが少ない」
 ETUは二部降格を機にクラブ離れた選手が多く、また一部昇格後も将来を見据えた補強に重きが置かれていた。これまで即戦力的な補強が皆無だったわけではないが、獲得した外国人選手が環境に馴染めず、シーズン途中で離脱してしまったこともある。
「最年長の村越で三十、ほかは二十代以下の選手ばかりだ」
 故に、緑川に対して期待を寄せているのは守備面での貢献だけではない、と。これまで積んできた経験や培ってきた技術とメンタル、サッカーに対する取り組み方、そういったものも含めてチーム全体の糧にしたいのだ、と。
 後藤の、クラブ愛に満ちた掻き口説かんばかりの熱弁は一時間を超えて続いた。
 最後に、色良い返事を期待していると言い残し、丁寧に頭を下げて去って行く男の背中を見送って、緑川はこの時点で既に己の気持ちが移籍の方向に傾いていることを自覚していた。
 安泰よりも波乱の方がおもしろい。
 この歳になってもまだ新しい目標を掲げて、それにチャレンジ出来るのであれば、自分を試すのもいいかも知れない。それに東京ならば、ヴィクトリーとのダービーマッチも魅力だ。
 独身の緑川には移籍を相談すべき家族はいない。だから自分ひとりの裁量で決断を下すことができる。
 初交渉から数日後、緑川宏の清水インパルスからETUへの移籍が、正式に発表された。





 書類にサインしたのち、清水の選手やサポーターたちへの別れの挨拶を済ませ、東京での住処を定めて慌ただしく引っ越しの手配を整えた緑川は、同時期に加入が決まったМFのルイジ吉田と共に、シーズン開幕前のキャンプ途中から新しいチームへと合流した。
 キャンプの期間中、緑川は休憩中や食事の時間を利用し、なるべく多くの選手と話をするよう心がけて個々の性格を把握し、またプレースタイルや技術面については、ミニゲームや紅白戦で実際ピッチに立ち、ゴール前からの視野の中で理解するように努め、シーズン開幕に備えることに専心していた。
 当初は、緑川が名の知れたベテラン選手ということで萎縮しがちで、話し掛けるのもおっかなびっくりの態度(てい)だった若手たちも、緑川自身が積極的に動いたこと、またキャプテンでありチーム内から絶大な信頼を寄せられている村越が橋渡し役を買って出てくれたことで、キャンプも終盤に差し掛かる頃にはすっかり打ち解け、緑川は想像していたのよりもずっとスムーズに新チームに溶け込むことに成功していた。
 そうしてキャンプを打ち上げ、ETUクラブハウス横の練習場での練習が始まった初日、
「なあ村越、このへんでうまい飯が食える店、どこか教えてくれないか」
 一日の練習を終えて、ロッカールームで着替えている村越に、緑川は声をかけた。
 緑川の新居は、現時点ではまだ引っ越しの荷物を片付ける時間をほとんど取れておらず、自炊はもとより、たとえデリバリーを頼んだとしても、自室でゆっくりくつろぐこと自体ままならない状況なのだ。
「あれ、ドリさん、メシ作ってくれるような彼女とか居ねえんスか?」
「ちょ、クロ、おまえそんな直球で⋯⋯!」
 遠慮のカケラもない黒田の問い掛けを、デリカシーなくて済みません! と、慌てた杉江がまるで保護者のようにフォローする。
「いや、まあ清水(あっち)には居たんだけどな。遠距離は無理だって言われて」
 移籍の前に振られたんだよ、と何でもないことのように緑川は事実を告げた。幸か不幸か、彼女はまだ歳若く結婚を意識した付き合いではなかったこともあり、後味の悪い別れにはならずに済んだ。もちろん傷つかなかったわけではないし、寂しいという想いがないとも言わない。が、自身で選びとり身を置くと定めた新しい環境に慣れることに忙しく、いい具合に気が紛れていたのも確かだった。
「そんな、試しもしないうちから!?」
「や、むこうには過去にそういう経験があったみたいで」
 相手が違えば結果だって違うんじゃ、とまだ口の中でぶつぶつ言っている黒田に、
「クロは優しいんだな」
「なっ」
 笑い掛ければ、坊主頭のDFは、顔を真っ赤にして押し黙ってしまった。
 照れているらしい。
「というわけで村越、頼めるか?」
「ああ、構わない」
 ひとつ頷いて了承を示した、仏頂面がトレードマークのいかつい風貌のキャプテンには、ミスターETUという、敬意のこめられた別称がある。ETU在籍期間がもっとも長い選手というだけでなく、過去代表候補に選ばれただけの実力を持ちながら、移籍のオファーをことごとく断り、二部で低迷していた数シーズンの間もずっとこのクラブと運命を共にして来たからだ。
 先達て後藤GMが説明したとおり、緑川が清水からETUに移籍してきたとき既に、村越よりもキャリアの長い選手はこのクラブにはひとりも在籍していなかった。文字通り大黒柱的にチームを支える村越には、己自身以外、頼ることのできる何者も存在していないらしく、おそらくは後藤が緑川獲得を希望した意図のうち、具体的には明かされなかった要因の中のひとつに、彼への負担の軽減があったのだろうことを緑川はすぐに察した。
 その思惑に乗ることはやぶさかではない。
 チームのバランスの悪さは、キャンプを通じてじきに見てとれていたことでもある。プレーも勿論だが、精神面での依存までが、何もかも村越ひとりに集中し過ぎていた。
 緑川がこのチームに加入することで、いま村越ひとりの肩に圧し掛かっている負荷が減じるのではないか、ETUのフロント陣はそれを期待したのだろう。
 そんなふうに責任を背負い込み、またフロントから大事にもされている選手。
 緑川はその村越に興味を持った。
 まずは村越という男の人と為りを知りたい。そう思った緑川は、彼とじっくり話す機会を得るべく、食事を餌に誘いを掛けてみたのだった。





 村越の運転する車の助手席に同乗し、道案内を受けつつ都内を移動する。今日行く店は和食の定食屋に決まっていたが、それ以外にも、ひとりで食事をするのに気兼ねのない店、店主が昔からETUを応援しており選手の健康を慮ったメニューを出してくれる店、野菜料理がうまい店、魚料理ならこの店、など、遠回りしながら村越が一軒一軒ていねいに紹介してくれる。
「⋯⋯とりあえずこんなところか。まあいっぺんには覚えられないだろうから、気になった店があればまた言ってくれ」
「ありがとう。助かるよ」
 目当ての定食屋の駐車スペースに車を入れ、ふたり連れ立ってのれんをくぐる。
「いらっしゃい!」
 カウンターの奥から声を掛けてきた店主らしい年嵩の親父は、村越とは顔見知りのようで、彼と二言三言会話を交わし、
「いつもの席、空いてるよ」
と告げて、また手元の食材に目を落とした。
 新顔の自分にも何か言うかと心の準備をしていた緑川だったが、目が合ったときに笑みを向けられただけで肩透かしを喰らう。
 店の奥まった位置にある掘りごたつ式の座敷席に緑川を案内して、運ばれて来たおしぼりを手に取った村越が、
「ここの親父は野球派らしくてな。俺がサッカー選手だってことは一応知ってるみたいだが、それについて触れられたことはないんだ」
 そう言った。
「ドリさんのことも知ってるかどうか⋯⋯。怪しいところだと思う」
 そうなのか、と軽い相槌を打って品書きを手に取る。
 お薦め欄に記載された本日の定食に決め、そうする旨を伝えると、村越が店員を呼び止め注文を通した。品書きに目を向けなかったところから察するに、彼はこの店でいつも決まった料理を頼んでいるか、メニューを覚えてしまっているか、そのどちらかだろう。
 ふたり分の食事が運ばれて来てから、
「少し真面目な話があるんだが、いいか?」
 どんぶりを片手に緑川が切り出した。
「どうぞ」
 焼き魚の小骨を器用に取り避けていた村越が、いったん顔を上げて頷く。
「シーズンが開幕する前に、チームのことをおまえの口から聞いておきたい」
 フロント、監督、コーチングスタッフ、チームメイト、そしてサポーターのこと。
「村越の主観でいい。なんでもいいから聞かせてくれ」
 サポーターについて以外は、キャンプである程度の時間を共に過ごし、それなりに人間観察したつもりだ。その上で、自分の分析と村越のそれとにどの程度の差異があるのか知っておきたかったし、これを機に、村越との会話の糸口を掴みたいとも思っていた。
「そうだな⋯⋯」
 操っていた箸をいったん止め、
「何をどこから話すかな⋯⋯」
 村越は視線を宙に投げてしばし考え込んだ後、
「そうだな、じゃあ、まずは選手の話からにしようか」
「ああ、頼む」
 在籍年数の長い選手から順に、入団までの簡単な経歴、性格、プレースタイル、趣味や家族構成など、村越の話す内容は多岐に亘った。
 聞けば聞くほどその掌握ぶりには舌を巻くしかなく、それと同時に、村越の抱えている物の大きさ、重さを再確認することにもなってしまい、緑川は改めて問題の根の深さを思い知らされた気分だった。むろん、そんな苦い思いを顔に出すようなヘマはしていない。
 そうして、同じチームに所属するベテラン選手同士としての真面目な話が一段落つく頃には、ふたりの前に並んだ料理皿はとうに空になっていた。
 追加でサービスされた食後の日本茶をすすって一息ついたところで、今度は村越の方から話を振ってきた。
「ドリさん、ひとつ訊かせてくれ。あんたはETUに移籍して来て⋯⋯、移籍して来たことを⋯⋯その⋯⋯どう思ってる?」
 うまい言葉を思いつけなかったのだろう、言い淀み、言い直そうとし、更に逡巡し、最終的に村越の問いはひどく抽象的なものになった。
 が、緑川は迷うことなく即答する。
「やり易くていいな」
「?」
「や、ウチっていま外国人選手がひとりも居ないだろ? コーチングし易くてほんと助かってる」
 半ば本心、半ば冗談だ。
「⋯⋯」
 仔細な説明を堂目して聞いていた村越は、次の瞬間、ぶはっ、と大きく吹き出し、
「なんだそれ!」
 続いて両肩を震わせ笑い始めた。
「おいおい、笑うところかー? 結構切実なんだぞー。FWならまあアレだけどな、DFやらMFやらにいると意外にたいへんで」
 敢えて真面目な顔をつくって冗談を言い募りながら、内心緑川は驚いていた。
 ――こいつが笑うのはじめて見たな。
 キャンプ中、村越の笑顔を見た記憶が緑川には一度もなかったのだ。誰かの冗談に皆が大ウケし笑い転げているようなときでも、この男の仏頂面だけは崩れもしなかった。だが、いま彼は緑川の目の前で、眦に涙まで浮かべて笑っている。
 いい傾向だ。
 ――悪くない。
 サッカーを離れた場面でだけでもいい、まだこうして笑うことが出来るのなら。
 ――大丈夫。
「俺だって日本人として三十一年生きて来てんだから、咄嗟に出て来るのは日本語に決まってる。試合中のピンチに考えながら英語だのポルトガル語だの叫べないって。選手の名前呼ぶのがせいぜいだよ」
 緑川が口にしていることの半分はでたらめだ。それは村越にも当然わかっているだろう。
「ドリさん、あんたおもしろい人だな」
「そうかー? これくらい普通だろ?」
 軽口のやりとりが心地良い。
 ――せめて俺の前でだけでも。
 気を許してくれて、それで少しでも肩の荷を下ろすことが出来るというのなら。
 ――また食事に誘って話をしよう。
 この日のことをきっかけに、緑川は間を空けず村越を食事に誘うようになる。
 やがて、オフの前日には酒が入ることも珍しくなくなり、いつしかふたりの関係は、一人暮らしの互いの部屋を行き来するまでに親密度を増して行った。





 緑川が正GKとしてETUのゴールマウスを守るようになってからも、チームの成績が飛躍的に改善されるなどといった都合の良い変化は起こらなかった。
 現実はお伽噺とは違う。
 こんな筈ではなかったと、あがきもがく日々の連続の中、それでも時間は誰の上にも等しく過ぎて行き、試合は行われ、勝敗が決まり、また次の試合開催日がやってくる。
 そうしてETUは前季同様、後半戦も中盤からは降格・残留争いの波に浚われた。四苦八苦の末、なんとか残留を決めはしたものの、チームとしての収穫も来季への明るい展望も得られぬまま、緑川移籍一年目のシーズンは幕を閉じたのだった。
 翌二〇〇六年も、大金を積んで補強した外国人FWが日本に馴染めずシーズン途中で帰国する事態になったり、夏には得点源だった夏木までが怪我で離脱したりと不運も重なり、チームの成績はいっこうに上向かないまま、気付けばリーグ戦は後半戦に突入してしまっていた。
 そんなある日。
「もうあんたとは飯食いに行かねえ⋯⋯!」
 酔って目を赤く充血させた村越に唐突に宣言され、口へ運ぼうとしていた猪口を中途半端な高さでとめたまま、緑川は目を丸くして対面に座る男の顔をまじまじと見つめ直した。その視線から逃れるように、村越の上体がテーブルに突っ伏す。
 この日はオフの前日で、ふたりは緑川の部屋にほど近い距離に新しく出来た小料理屋に腰を落ち着けていた。
「あんたと飲むといつもそうだ、言わなくていいようなことまで話しちまって⋯⋯」
 それこそが緑川の意図するところで、村越はまんまとその思惑に嵌められてしまっているだけなのだが、翌日になって前夜自分が話した内容を反芻するにつけ、羞恥と後悔とが押し寄せ居た堪れないらしい。
「いいじゃねえか、それくらい」
「よくない!」
 つむじを見せてテーブルに沈んだ村越は、鷹揚に笑う緑川の擁護を即座に否定し、
「⋯⋯恥ずかしいし、情けないだろ」
 いい歳して、こんな、愚痴みたいな、と続ける呂律がずいぶん怪しくなっている。
 囲った腕の中に顔を隠す村越に気付かれぬよう、緑川はひっそり微笑んだ。
「俺は嬉しいんだけどな、村越」
「⋯⋯」
 村越からのリアクションはない。
「本音が聞けて、嬉しいよ」
「――」
 ピクリともしない男の様子に、もう眠ってしまっているのかも知れないと疑ったが、
「情けないところが見られて嬉しい」
 敢えて確かめることはせず、最後まで声に出して言ってみる。
「俺にだけ見せてくれてんだと思ったら」
 独占欲が満たされる――。
 ああ、そうか。
 そうだったのか。
 緑川が、自分が村越に向けている想いのベクトルを正しく理解し自覚を持ったのはこのときだ。

 そうして想いは降り積もる。
 そっと静かに。
 しずかに――。










 己の想いを自覚してのち、緑川が具体的に何か行動を起こしたかというと、そうではなかった。
 大人はずるい。
 勝算の見込みが定かでないとなれば、玉砕覚悟で敵陣へ突っ込むような無謀な真似はしない。現状の安寧と未知の将来とを天秤に掛けて、結果、緑川が選んだのは安牌に手を伸ばすことだった。
 むろん、これがサッカーに関することなら無茶を押し通す覚悟もあるのだが、プライベートでの大きな変化を、このときの緑川は望んでいなかった。それだけETUのチーム状況が芳しくなく、サッカー選手として過ごす日常が切迫していたというのもある。
 仕掛ける気がない緑川と、そんな男の下心など知らぬ村越との間には、変わり映えのない日常がただただ横たわっているだけだった。
 そんなぼんやりとしたゆるい時間がいつまでも続いて行くかに思われたある日。ぬるま湯に浸り切ったふたりの関係に、冷水を浴びせ掛けるような転機が訪れる。
 眠たいばかりの安寧に覚醒と崩壊とをもたらしたのは、十年ぶりに日本へ帰って来たひとりの男だった。
 達海猛。
 現役時代はETUのスター選手だった人物だ。
 緑川と現役時代の彼との間には多少なりと接点があった。緑川が清水に居た頃には対戦相手として関わり、また代表の試合では同じジャパンブルーに身を包み――もっともGKである緑川のユニフォームの色はフィールドプレーヤーのそれとは違っていたが――共に戦った仲でもある。
 対戦相手としては厄介な選手だったが、味方にすればあれほど頼もしい存在もなかったと緑川は懐かしく思い出す。
 選手としての達海のプレーには華があり夢があった。彼は観る者の目を奪い、こころを鷲掴みにする何かを持った選手だったのだ。
 達海が日本サッカー界を離れて渡英し、所属した先のクラブで脚の怪我を悪化させ、それを理由に引退したことは当時緑川も見聞きしていた。そのニュースを知ったときは、他意なく残念に思ったものだ。ただ、その後、彼がながく音信不通になっていたことは、ここETUのホームタウンに身を置くようになるまで知らなかったのだが。
 その、行方知れずになっていた男を、かつての同僚でもあった後藤が探し出し、英国から連れ帰って来たのがそもそもの発端。
 英国で五部に所属するアマチュアのフットボールチームで監督を努めていた達海は、フロントの要請を受けETU新監督の座に着いた。
 達海に対し、緑川に含みはない。むしろ歓びを持って迎え入れたのだが――。
 サポーターと一部の選手の思いは違っていたらしい。
 その最たる者が村越だった。

 達海は村越からキャプテンマークを剥奪した。
 そして命じる。
 自分のためにプレーしろ、顔を上げて前を向け、と。

 村越は、荒れた。





 達海が退団した当時のETUの内情を知らない緑川には、村越と彼との間に何があったのか、過去の確執について詳しいことは解らない。だが、達海の監督就任後の村越の動揺と混乱ぶりとは、緑川を戸惑わせるには充分だった。
 村越が達海に対していだく複雑な感情は、想像してはみるものの、その鬱屈すべてを理解することが緑川には能(あた)わない。
 それがひどくもどかしい。
 これまでどおり村越を食事に誘い飲みに連れ出しても、心ここに有らずの上の空で、彼が意識の全てを達海に奪われていることが解る。その思い入れの深さに圧倒されると同時に、寂寞を感じる自分を緑川は持て余す。
 達海の指揮のもとで戦ったプレシーズンマッチの東京ヴィクトリー戦が散々な内容で終わってしまい、その後開催されたプレスカンファレンスにチームキャプテンとして臨んだ参加した村越は、髪型を変えていた。
 こころに期する何かが彼にそうさせたのだろう。
 そうして達海を新監督に迎えて臨んだ二〇〇七年シーズン。
 新生ETUは、けれど波に乗り切ることが出来ぬまま、勝てない試合を続けていた。
 それまではチームの中心に君臨し、公私の両方で求心力を発揮していた村越だが、開幕前のキャンプの時期から近寄り難くなったともっぱらの評判で、若手はもとより中堅の選手までが彼を遠巻きにするような空気が生まれている。
 そんな村越に対し、遠慮することなくこれまで通りの接し方が出来ているのは、緑川と、何事にもマイペースなジーノくらいのものだ。
「村越、飯食いに行こう」
「⋯⋯あ? ああ、ドリさんか」
 何に気を取られていたものか――おそらくは達海のことだろう――、緑川の誘いにも一拍遅れて反応が返る。最近の村越によく見られる現象だった。
 達海に振り回され余裕をなくしている、そんな村越を見兼ね、ガス抜きになればと誘った飲みの一席。
 いつぞや緑川に向かって、もう共に食事をしないなどと宣言した村越だが、しかしそれは実行に移されることなく今に至っており、村越が緑川の誘いを理由なく断ったためしはない。
 最初から酔い潰すつもりでペース配分していた緑川にまんまと飲まされ、その日、村越は早々に撃沈した。
 会計を済ませた緑川は、村越に肩を貸して店を出る。
 今夜選んだ店からは、村越の住まいよりも緑川のそれの方が近い。
「俺んちでいいよな?」
 酔い潰れた男からは明確な反応など返らないと解っていたが、律儀に一言断って、緑川はワンメーターの距離をタクシーで移動した。
 村越の熱っぽい身体を抱きかかえ、セキュリティー万全なマンションのエントランスを抜ける。エレベーターに乗り込んでひと息ついた緑川は、大人しく体重を預けている男の横顔に視線を走らせた。
 ――同性相手でも『お持ち帰り』っていうのかね?
 脳裏をよぎった自分の言葉にハッとして我に返る。
 ――何考えてんだ、俺。
 緑川が、ふう、とひとつ深く溜め息を吐き出したところで、上昇していた箱がカクンと振動を伝え、停止した。スライドしたドアから足を踏み出し角部屋の前へ。
 体格差のほとんどない、しかも泥酔した男を運ぶのにはさすがの緑川でも骨が折れる。オートロックの錠をはずすと、村越ともども縺れ合うようにして玄関のあがり框へ倒れ込みそうになってしまった。それをどうにか踏みとどまり、何度か転びそうになりながら、ようやく寝室にまで辿り着く。
 キングサイズのベッドが視界に入った途端、気力が萎え、緑川は村越もろともドサリとマットの上へ倒れ込んだ。ふたりともが靴を履いたままだということに気付いたが、玄関にとって返す余力などどこにも残ってはいなかった。
「村越、起きろー」
 起きてくれ、と自分の上に折り重なっている男の身体を揺さぶる。
「村越、起きろって。重い⋯⋯」
 うう、と呻き声を上げ、けれど村越の身体はびくともしない。
「むらこし⋯⋯」
 身動き出来ずに押し潰されながら、どうしたものかと思案を巡らせていた緑川は、次の瞬間、ビクリと肩を跳ね上げ息を飲んだ。
 自分のそれと重なった村越の下肢が反応している。酔ったが故の生理現象のようなものだ、と理性はすぐに判断を下したが、それでも鼓動は乱れ打つ。
 ――ヤバイよ、な。
 理性は制止の声を上げているのに、本能が自由な右腕を村越の背に回させていた。
 無意識の動作だった。
 つけ込んでいるという自覚は確かにあって、だが、本能が理性を裏切っていく。頭で考えていることと身体が行動することとが全くちぐはぐで、いっそ自分が驚いてしまう程。
「村越⋯⋯」
「ん」
 人肌の温もりを感じているのだろう村越の、それへ覆い被さり熱くなった下半身を押し付けてくるのは雄の本能だ。自分が伸し掛かっている相手が緑川であり男であるということは、おそらく今の彼には認識できていない。
 それでもいい。
 後悔させることになるのではという村越に対する懸念と躊躇とを持った緑川だが、自身が後悔するだろう可能性については微塵も疑わなかった。むしろこれは村越を手に入れるチャンスだとすら。
 そんなふうに血迷う程度には緑川も酒に酔い、日常のストレスに追い詰められていたのだろう。
「村越、いいのか?」
 ――とめないと、好きにしちまうぞ⋯⋯。
 身体と身体の隙間に強引に手を差し込み、ベルトのバックルに手を掛けても村越は抵抗しなかった。
 半ば眠っているのか、目も開けない。
 首筋に掛かる村越の呼吸が短く荒くなっていくのを、フィルタを一枚隔てた、どこか別次元の出来事のように現実味なく感じながら、緑川は右手に想いを込める。
「ん⋯⋯」
 村越が低く呻いて肘を立てた。上体を起こそうとしたらしい村越の背に腕を回し、緑川はその身体をつよく抱き寄せた。肉欲のまま身を沈めたがる村越の無意識を宥めながら下肢に触れ、自ら受け入れる体勢を整える。
 ここまで来てしまったからにはもう止まれない。止まりたくない。
 情動を抑える努力を放棄して、緑川は自身もまた本能に身を任せる選択をした。










 翌朝、遮光性のカーテンのわずかな隙間から差し込んだ陽の眩しさに目を覚ました村越は、己のいる場所が自分の部屋でないことに気付き、ベッドから跳ね起きた。
 が、ぐるりと目線で室内を見回して、そこが何度か入ったことのある緑川の寝室だと気付き、途端に安堵の息をつく。
 しかし、昨夜ここを訪れた記憶はない。
 ただ、緑川と飲んだことまでは覚えており、相当酔ったらしいな、と罰の悪い思いを抱えてベッドから抜け出した。
 ドアの向こうに人の気配がある。かすかに聞こえる生活音は、部屋主がキッチンで立ち働いているらしいそれだ。
 ベッドの足もとに畳まれていたジーパンを拾い上げて脚を通し、見当たらないシャツを着るのは諦めて寝室の外へ出た。
「おう、起きたか村越。おはよう」
 パン切り包丁を手に振り返った緑川に、
「⋯⋯ス」
 挨拶を返そうとして初めて、干上がった喉がまともに声を出してくれないことに驚いた。無言で眉根を寄せ、こめかみを抑えてぐらつく視界と格闘していると、
「なんだ、二日酔いか?」
 揶揄う緑川の声に笑われる。
「⋯⋯」
「ほら、飲めよ」
 近付いて来た緑川にミネラルウォーターのペットボトルを手渡され、礼を言ってキャップをひねる。ひと息に半分ほど飲んで口を離した。
「昨日は、なんか、迷惑掛けたみたいで⋯⋯。ドリさんがここまで連れて来てくれたんだよな?」
「まあ俺しかいなかったからな。⋯⋯なんだ、おまえ覚えてないのか」
「メシの途中から記憶がない⋯⋯」
「⋯⋯そう、か――」
 なぜか緑川の表情がくもる。
「ドリさん?」
 首を傾げ疑問を声音に乗せたが、なんでもない、と首を振られた。
「じゃあ、昨日の夜俺にしたことも覚えてないわけだ」
「⋯⋯!?」
 ――昨晩、した、こと⋯⋯?
 深読みしろと言わんばかりのもったいぶった口調と表情とに、ぎょっとして固まった村越は、おそるおそる目線だけを動かして緑川の視線をとらえた。よもや、と下世話な疑念が脳裏を駆け抜けていく。
「素っ裸でとなりに寝てた方がわかりやすくて良かったか?」
 当たって欲しくない想像を肯定する緑川の言葉。それを耳にした途端、村越は強張った表情のまま真っ青になり、手のひらで口元を覆っていた。
 血の気の引く音が、はっきりと聞こえた気がした。
 が、次の瞬間、
「冗談だよ、村越」
「!?」
 何を言われたのか咄嗟には理解できず、軋むようなぎこちない動きで顔を上げると、フッと頬をゆるめた緑川と目が合った。
「揶揄っただけだ」
 途端、村越はその場にガクリと膝をついていた。
「ドリさん! いくらなんでも⋯⋯」
 冗談が過ぎる。
 咎める声色を察したのだろう緑川は、しかし、悪びれた様子もなくカラカラと笑う。
「悪い悪い。いやあ、おまえがあんまり真面目でいじり甲斐があるから、つい、な」
「つい、ってなあ⋯⋯! 肝が冷えただろ⋯⋯。ほんと勘弁してくれ」
 更になじる村越に、
「悪かったって、ほら」
と、しゃがみこむのへ腕を差し出して、手首を掴み立たせてくれる。
「とりあえずシャワー浴びて来いよ、そのあいだに朝飯準備しとくから」
「⋯⋯じゃあ、お言葉に甘えて」
 ここで問答していても何も始まらない。気を取り直して頷き、すまないと一言言い置いて、既に何度かこの部屋に泊まったことのある村越は、勝手知ったるとばかりに踵を返し浴室へと足を向けた。





 パタンと音をたて、リビングと廊下とを仕切るドアが閉まる。
 村越の背を目を眇めて見送って、緑川はひとつ溜息をこぼした。
 ――やっぱり覚えてなかった、か。
 村越が昨夜のことを覚えているかどうかは、正直なところ賭けだった。
「嘘だよ、村越」
 一流のGKたるもの、ポーカーフェイスは得意である。PKを狙うストライカー相手に、動揺も焦燥も、悟らせるようなヘマはしない。
 ――何もなかったなんて嘘さ。
 昨夜、事が終わったあと、眠る村越に気付かれぬよう後始末をし、痕跡を消すことに専念したのは、こうなることを半ば予期していたからだ。
 もし村越が昨日のことを覚えていたら、そのときは、これからのふたりの関係について、彼の出方次第で決めればいいと考えていたのだが、その一方で、彼が覚えている可能性は低いだろうとも思っていた。
 なにせ村越を泥酔させたのは緑川の所業だ。
 案の定、村越に昨夜の記憶はなく、試しにカマを掛けてみればあの動揺ぶり。昨夜の行為、それがたとえ仮定の話であってでさえ村越にとって後悔や嫌悪の対象でしかないのなら、事実を告げるのが得策でないことは明白だった。
 男の生理現象を良いように利用して本能を煽ったのは自分の方だと、その自覚が緑川にはある。どう考えても村越はその被害者だった。
 だから、罵られる覚悟なら決めていた。けれど、相手がそれを覚えていないなら、
「謝ることもできないわけ、か」
 責めてすら貰えない。
 卑怯者と罵倒されるくらいでちょうど良かった筈なのだが。
 揶揄われたと思い込んだ村越の、非難するような眼差しに、緑川は腹を括った。
 なかったことにするしかない。
 それが村越の無意識下での選択であるのなら、この際、己の望みは殺してしまおう。
「仕方ない、よな」
 緑川本人はなかったことになどしたくないのだが、それは自身のわがままだ。
 自分の願望がどうであれ、これ以上、しかも己が原因での心労を村越に負わせる気は、緑川には毛頭ない。
 この膚を彩る鬱血の跡や身の裡に刻み込まれた熱の名残とが、緑川に昨夜の記憶を簡単には忘れさせてくれそうにないが、それとていずれは消えてしまうもの。
 緑川はしずかに目を伏せ、うずく傷口から意識を逸らした。

 たとえば。
 第三者の居ない状況で共有した秘密があったとして。
 秘密を知る者はふたりだけ。
 なのに片方がその秘密を忘れてしまったら。
 それは最初から、どこにもなかったのと同じこと――。










 ――俺はあいつを甘やかし過ぎたのかも知れないな。
 達海が村越を、そしてチームを変えようとしている。それを確信したとき、同時に緑川は自分がミスを犯したことに気が付いた。
 自分は選択を誤ったのだと。
 優しく暖かく包み込むぬるま湯ではなく、村越に必要だったのは劇薬だ。
 甘やかすだけでなく、突き放す厳しさも時には必要だったのだ。けれど緑川は、自分までが彼と共に居心地のよいぬるま湯に浸り、溺れてしまった。
 共に底なし沼に沈むのではなく、引きずり上げなければいけない立場であった筈なのに、惰性の微睡みにいつしか当初の目標も自分の役割も忘れてしまっていたのだろう。
 荒療治は施術する側にも相応のリスクが求められる。当然怪我を負う覚悟が必要で、だから傷つかずに済ませようなどとはぬるい考えでしかなく、そんなことは解っていた筈なのに。
 確かに村越の背負う荷物を軽くしてやることは出来たのかも知れない。だが、過去を振り返り足踏みをくりかえすばかりの村越に、顔を上げさせ、前を向かせ、先へ進ませることまでは緑川には出来なかったのだ。
 達海に振り回され、否応なく変革を迫られ、いつしかそれにわずかずつ対応していく村越の姿を、緑川はその傍らで見守り続けていた。
 自分が二年の年月をかけて出来なかったこと――しなかったことでもある――を、達海は就任後数ヶ月のうちに完遂させようとしている。
 村越をチームの顔としての重責から、そして過ぎし日の栄光栄華という名の呪縛から、真に解放することができるのは、その過去の一部を形成している達海だけなのだろう。
 ずっと、その役目を担うのが自分であれば良いと願って来たのだが――。
 緑川は空を仰いで目を閉じる。
「俺じゃ役者不足だったってこと、か」
 そうなのだと頭で理解はしてみても、こころのどこかが納得しない。
 ――やっぱりちょっと、
「妬けるなあ⋯⋯」
 クラブハウスの外へ一歩足を踏み出すと、夏の強い陽射しに刺激され、じわりと目頭が熱を持つ。まなうらに込み上げるうねりが止まらない。
 目蓋を隔てても突き刺さるような陽の光に、視界が白く焼けつく。
 いっそ雨なら良かった。
 そうすれば、涙を流すことも出来たのに。



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