開幕から五連敗、サポーターにチームバスを取り囲まれたり、後藤が心労で体重を五キロ落としたり、その後アウェーでの名古屋戦を皮きりに連勝を経験したり、その間にエースの夏木が復帰したり、ホームでは好調の大阪Gを倒したり、と、良くも悪くもさまざまな話題を振りまきつつ、ETUの二〇〇七年シーズン前半戦は終了した。
リーグ中断期間中のキャンプもまた、プレシーズン中のそれ同様、奇抜な練習メニューが用意されていた。達海の相も変わらぬ策略に、良いように振り回される日々を経て、ETUは新たにふたりの選手の加入を受け入れた。
そしてキャンプが打ち上げられ、クラブハウスでの練習が再開された日、練習場でのミーティングを終えた選手たちを待っていたのは、監督との個人面談だった。
グラウンドでの練習メニューをこなしながら、選手たちは自分が呼ばれるのを待つ。基本的に監督の元へ呼ばれるのは年齢の若い順で、そこに在籍年数が加味されて、多少変動するようだった。
面談を終えた選手は、ふたたび練習に参加するためにグラウンドへと戻り、その際、達海の指示に従って次の選手を指名するという流れになっている。
夕刻までにあらかたのメンバーが呼ばれ終わったが、あと数名の面談を残してその日の練習時間はリミットを迎えてしまった。結果、堺、村越、そして緑川の三人は、着替えをしつつロッカールームで待機することになった。
シャワーを浴び着替えを済ませた後輩たちが、口々に挨拶して部屋から出て行く。そうして堺が呼ばれた後のロッカールームには、帰り支度を済ませた村越と緑川だけが残された。
「ドリさん」
「ん?」
長椅子に村越と並んで腰掛け、手持ち無沙汰に携帯電話をいじっていた緑川は、となりから呼ばれて顔を上げた。
「ずっとあんたに言っておきたいことがあって⋯⋯」
そう口にした村越は、ふたりだけになったこの時間を、ちょうど良い機会だと踏んだのだろう。
「ドリさんには感謝してる」
「なんだよ、急に改まって」
恥ずかしいからやめてくれ、と緑川はくすぐったさに肩をすくめた。が、最後まで聞いて欲しいと真顔で乞われてしまえば口をつぐむしかない。
「ドリさんにはずいぶん助けられたからな。ずっと、礼を言っておきたいと思ってた」
「俺はべつに⋯⋯特別なことは何もしてないぞ?」
否定する緑川の言葉を、村越は首を振ることで更に否定し、
「すっかり甘えて、依存して、愚痴まで聞かせちまって、本当に悪かったと思ってる」
済まなかったと頭を下げられ、緑川は身の裡の一部がすっと冷えるのを感じた。
「⋯⋯」
謝られるのは正直つらい。村越に手を差し伸べたこと、それ自体が間違いだったと言われたようで。むろん、当の村越にそのような意図がないことは解っているのだが。
――被害妄想だな。
「俺のことは⋯⋯その、フロントにでも頼まれたのか」
「いいや。俺がしたくてやってただけさ」
チームに関してはともかく、村越個人については誰からも具体的に何かを求められはしていない。
「誰かのために何かが出来るってのは嬉しいもんだろ?」
「⋯⋯そうか」
ありがとうと感謝の言葉を継ぎ、更に、
「じゃあ、あの日――」
村越が何事かを言いかけたそのタイミングで、ドアノブがガチャリと音をたて、廊下から堺が顔を出した。
「コシさん、監督が呼んでます」
「あ、ああ」
言いさした言葉の続きを声にすることなく村越が腰を上げる。
「じゃあドリさんお先に」
「おう」
行って来い、とひらひら手を振って緑川は男の背中を見送った。
最後のひとり、緑川と達海との面談は、結論から云うと雑談に終始することになった。
緑川は、荷物を取りに戻って来た村越と共にロッカールームを出、彼とは廊下で別れて、ひとりミーティングルームの前に立った。
コンコンとドアをノックし、
「失礼します」
声を掛けて室内に足を踏み入れると、部屋の中央で、パイプ椅子に腰掛け、行儀悪く机の上に両足を投げ出した達海が待っていた。
「待ちくたびれましたよ、達海さん」
「やー、わりぃわりぃ」
脚を床におろした達海は、言葉とは裏腹に悪びれた様子などなく笑っている。
「ひとりひとり全員と面談とか、せめて二日に分けてやってくれりゃあいいのに」
「まあまあ。鉄は熱いうちに打っとかないとさ」
とりあえずそこ座れ、と対面の椅子を示され、促されるまま腰を下ろす。
なにげなく目をやれば、壁際に設置されたホワイトボードには青赤二色の丸磁石が貼られ、何事かをマーカーで書き込んだ跡、それを消した跡とが幾重にも残っていた。選手たちを相手にもう何時間も、ここで熱心に話し込んでいたのだろうことが窺える。
「じゃ、面談始めるぞー⋯⋯と言いたいトコだけど。今更おまえ相手に戦略の説明とか要らねえし、プレー内容どうこうってのもないよな」
「ですねえ。俺も特にいま達海さんと話しとかなきゃならねえようなことって思い付かないな」
「だよなあ」
「じゃあ面談終了?」
帰っていい? と半ば本気で問い掛けてみる。
が、
「んー、まあせっかくの機会だからちょっとしゃべってけよ。フットボールに関係ない雑談でもいいからさ」
「雑談ねえ」
机の上に束ねられた資料らしき書類を脇に避け、身を乗り出すようにして達海が緑川の顔を覗き込んで来た。
「二年前、お前のことウチに引っ張ったのって後藤らしいな」
「ええ。直接口説きに来ましたよ、清水まで」
自分から話題を提供した割には興味なさげに、ふうん、とだけ頷いて、
「間に合って良かった」
達海がぽつりと呟いた。
後藤もいい仕事してくれたもんだ、そう続けるのが聞こえ、
「村越のこと、ありがとな」
「?」
礼を言われて緑川は首を傾げる。
達海は、俺が礼を言うのもおかしな話だとは思うんだけどさ、と前置きし、こう続けた。
「ドリがウチに来てなきゃ、あいつもこのチームも、もっと早くにダメんなってた」
達海が監督として戻って来るまでは、良くも悪くも村越がこのチームの屋台骨でありチームそのものだったわけで。村越が潰れてしまえば一蓮托生でチームも潰れる、ETUはそんなあやうい状態にあった。
「や、そんなことはないんじゃ⋯⋯? あいつはそんなにヤワに出来ちゃいないでしょう」
「だからこそ、だろ。柔軟じゃないからこそ、いつポッキリ折れちまってもおかしくなかったんだ」
改めてそんなふうに言われてみれば、そうだったのかも知れないと思わなくもない。しかし、当時の緑川にそこまでの斟酌はなかった。
「まあ確かに後藤さんの思惑はすぐにわかりましたけどね。でも俺は別に⋯⋯」
そう、いま振り返ってみても、ただ単に村越の背負っている物を少し軽くしてやりたいと願っただけで、チーム全体のことはそこまで深刻には憂えていなかったように思うのだ。緑川は、飽くまでも個人的な興味の延長で、利己的に村越に手を差し伸べたに過ぎない。結局は、それがチームのためにもなったわけだが、所詮結果論だ。
買い被り過ぎですよ、と軽くいなそうとする緑川に、達海は不満げな表情をしてみせた。
「ドリ、おまえも素直じゃねえなあ。こちとら褒めてんだからさあ、賛辞は有難く受け取っとくもんだぞー」
「じゃあそうしときましょうか」
飄々と応じる緑川は、さすがベテランと言うべきか、一筋縄で行くような単純な性格はしていない。
「ったく。ドリはやっぱキーパーだなァ」
昔っから食えねえヤツだったよおまえはさ、と達海は拗ねたように唇を尖らせ頬杖をついた。
「ま、この話はもういいや。それよりさ、おまえ村越となんかあった?」
「? 何かってなんです?」
とぼけたわけではない。本当に訊かれていることの意味が解らず緑川は眉を上げた。
「おまえらの様子が今までと違うって密告があった」
「密告⋯⋯て、なんですかそれ」
達海は机から肘を離し、上体を後ろに反らした。体重を預けられたちゃちなパイプ椅子が、ギシリと軋んだ音をたてる。
「チーム内で起こったことについてはあいつ⋯⋯村越に言って、逐一報告させるようにしてんだけどさ。でもあいつ自身のことは上がって来ない。⋯⋯まあ当然の話なんだけど」
「じゃあ」
じゃあ、いったいどこから?
「情報源はウチの王子様」
「ああ、ジーノ」
あの男なら気付いて当然か、と緑川は頷き納得する。
「あいつの視野の広さはピッチ外でも有効でさ」
重宝してる、と悪い顔で笑ってみせて、
「おまえ、あいつとメシ食いに行ったりしてたらしいじゃん? それが最近すっかり御無沙汰だ、って」
ジーノの達海への報告どおり、あの夜以来、緑川と村越の間にはプライベートでの接触はない。緑川が食事に誘うことをしなくなったからだ。
「なんでやめた?」
「なんでって言われても⋯⋯。まあ強いて言うなら俺の役目は終わったと思ったから、ってところですかね」
いまの村越に必要なのは居心地の良い逃げ場所ではない。だから手を離した。それだけのこと。
「このキャンプの間にも収穫があったみたいだし、だったら俺はお役御免じゃないかな、ってね」
緑川の返答を聞いた達海は、ひどく詰まらなさそうな顔をした。
「で、ドリはそれでいいわけ?」
「良いも何も⋯⋯」
良いも悪いもない。
緑川に出来なかったことは達海がやってくれた。自分の出る幕はもうないだろうと思う。となれば、あとは黙って見守るだけだ。
「さっき俺を呼びに来たとき、あいつずいぶん良い顔になってたし」
直近の事実も添えて、これでもうこの話はおしまいと云うように、緑川は降参のポーズをしてみせた。両のたなごころを達海に晒し、こちらの手のうちはすべて明かしましたよと無言のパフォーマンスは、けれど偽りでもないのだ。
「いろいろ振っ切ったみたいだし、だからいまは後半戦のあいつが楽しみ、かな?」
村越は過去やそれに連なる達海とのしがらみを乗り越え、今まさに前を向いて歩きだそうとしている。村越がそうであるのだから、緑川自身もまた、胸の裡に巣食うこの想いとは、そろそろ完全に決別すべきなのだろう。
「模範解答寄越しやがって」
おもしろくねえんだよ、そう吐き捨てた達海は、口惜しいのか不貞腐れた顔をしていた。
「あいつが抱えてた問題は、根っこが深いし、なんせ十年分だ、ほんとに大丈夫なのかって思っちまうんだけどさ」
「そんなこと選手の俺に言わないで下さいよ」
今のは聞かなかったことにしときますからね、と軽口で流して、
「そこんとこの見極めは『監督』の仕事でしょうが」
俺は責任持ちません、と笑っていなす。
「わかってる。けど、なあんかドリにはしゃべっちまいたくなるんだよなあ」
おまえにはなんかそういう雰囲気があるよな、などと言われても、緑川には苦笑いしか返せない。
「いい迷惑ですって。この歳になったら自分のコンディション維持するのだけで手一杯ですよ」
だから余分な物までは請け負えない。
「なので、そういうのは、当人同士かコーチたちとだけ共有しててください」
「⋯⋯そういうことにしとこうか」
達海のもってまわった物言いに、かすかな警戒心が芽生える。
達海は何事をか察しているのだろうか。
質せば藪蛇になりそうな予感がする。緑川は更なる追及を意図的に控えた。
ふたりの間を静寂が満たし、気詰まりを感じた緑川は窓の外へと視線を逃がす。
窓の向こうはすっかり夜の様相で、グラウンドのある方向に灯りが浮かんで見えるのは、誰かが照明をともし夜間練習をしているのだろうか。
「なあドリ」
短い沈黙を破り、先に口を開いたのは達海の方だった。
「俺はただの監督だ。あいつにとっても、昔の⋯⋯新人時代の同僚で現監督。それだけの存在だぜ?」
「⋯⋯」
緑川は慎重に口をつぐむ。
この人はいったい何をどこまで知っているのだろう。
「けど、おまえの立ち位置はまた別なんじゃねえの?」
達海の言わんとしていることはわかる。解るのだが、既に決意を固めてしまった今、迂闊に賛同することは緑川には出来なかった。
あの手は二度と掴まない。
それはもう決めてしまったことだ。
「じゃあ最後にひとつだけ」
揺さぶりを掛けたはいいが、緑川からの反応がはかばかしくないと見て取り諦めたのか、
「ドリの後半戦での目標は?」
がらりと表情を変えて、声音も明るく達海が問う。
その流れに乗って、緑川も軽い口調で答えた。
「せっかく続いてるんだし、連続試合出場時間をどこまで伸ばせるか、チャレンジしたいかな」
「そんなことかよ」
「いやいや、地味に難しいんですって」
この歳になると疲労とか色々たまるからねー、とおどけた調子で続け、緑川は椅子から腰を浮かせた。
「これでシメってことで良いですか」
「ん、いいよ。ご苦労さま。遅くまで悪かったな」
最後は実にあっさりとしたもので、こうして緑川の個人面談は終了した。
リーグの後半戦をETUは札幌でのアウェー戦からスタートさせた。そしてこの試合に逆転勝利し、幸先よく後半戦を白星発進することに成功している。
それから数日後、週末開催のホームゲームを控え、選手達はクラブハウスに集結していた。
練習を終えてロッカールームで着替えをしていた村越は、
「コッシー、ドリーと何かあったのかい?」
背後から声を掛けられ、動きをとめた。自分のことをこの妙な愛称で呼ぶ人間は、村越が知る限りひとりしかいない。当初は面食らったものだが、二年以上も続けられれば流石に耳慣れる。
「ジーノ」
声の主を振り向けば、頭に思い浮かべた通り、自分のことは王子と呼んで欲しいなどと巫山戯たことを真顔で口にする男が村越を見ていた。
「なぜそんなことを訊く?」
「だってコッシー、もうずっとドリーと食事に行っていないだろう」
「⋯⋯」
言われてみれば。
ジーノに指摘されて初めて村越はその事実を認識した。
達海に振り回され続けていたこの数ヶ月、そんな身近な変化にも気付けぬほど己を顧みる余裕がなくなっていたのかと思うと、いっそ滑稽ですらある。
村越は室内にその人の姿を探そうと顔を上げ、
「ドリーならまだここには戻って来ていないよ。マッサージを受けるって言っていたからね」
と、ジーノに先手を打たれた。
「で、何かあった?」
涼しげな顔で、そのくせ言動に有無を言わせぬ押しを秘めているのがジーノという男だ。
「べつに何があったってわけじゃない」
ジーノの言うとおり、確かに緑川からの誘いが間遠になっている。いつだって声を掛けて来るのは緑川の方で、自分はそれに応じるだけだったのだと改めて気付かされた。
「そもそも気にとめてなかったしな」
おまえに言われるまで気付いていなかった、と素直にそう口にすれば、
「ドリーもかわいそうに」
相手がこんなに鈍いんじゃあね、とジーノから蔑みの視線を貰ってしまう。
「どういう⋯⋯」
言葉の意味がよくわからない。
「彼の献身に応えないのは罪だと思うよ、コッシー」
「⋯⋯」
献身。
おそらくジーノが言っているのは、緑川が陰になり日向になり村越を支えてくれていたことだろう。
「わかってる」
だからこそキャンプ後に、これまで自分が受けて来た数々の厚意に対し感謝の気持ちを伝えたのだ。
あのときの緑川は、なぜか少し寂しそうに見えたのだが。
今にして思えば、手のかかる子供が巣立つのを見送った、そんな心境だったのだろうか。
もしそうであるなら、なおさら。
お互い酔っていたのだし――。
「蒸し返さない方がいいんだろうな⋯⋯」
「何をだい?」
思わず声に出してしまっていた独り言をジーノに聞きつけられ、何でもない、と首を振る。
自分との距離を置いた緑川の真意は一方的に想像するしか出来ないが、その理由が、ふたりの関係がこじれたからでないのは、サッカーを介した接触がこれまでと変わっていないことと、見守られていると感じる彼の視線とでわかる。
言葉での謝意は伝えた。
それ以外に村越に出来ることと言えば、試合中のプレーで迷いを見せないことだろう。そうやって、もう心配は要らないのだと緑川を安心させることもまた、彼の献身に応えるひとつの方法である筈だ。
いまはまだシーズンも半ばで時期尚早だろうが、最終節が近付いた頃、チームが納得のいく成績をおさめることが出来ていたら、そのときは。
今度は自分の方から緑川を食事に誘って話をしよう。
村越には、感謝の意を伝えるのとは別に、緑川に確かめ、また伝えておきたいと思っていることがあった。
このシーズンを良い形で終わらせることが出来たら、そのときに。
こんなふうに、未来の訪れを期待したくなる日々を過ごせていることが今は純粋に嬉しい。
中断していた着替えを再開させながら、村越の口元には淡い笑みが浮かんでいた。
期待と希望を胸に顔を上げて走り出したその先に、何が待ち構えているのかなど誰にもわかりはしない。
落とし穴はいつだって、平坦な道の先にこそその口を開けているものだ、と。否応なく思い知らされるのは、リーグジャパン第十九節、ウィッセル神戸戦でのことになる――。
それぞれが好転の兆しを感じつつ、ホームで迎えた神戸戦。
途中から降り出した雨のせいでピッチコンディションが思わしくなく、試合は序盤から荒れた展開になっていた。
前半のこり数分というところで、ETUは亀井のパスミスから始まった相手の攻撃を断ち切ることが出来ずに失点、先制を許してしまう。その際、ゴール前に身を投げ出していた緑川は体勢を整える前に相手チームの十番と交錯し、右足首を抑えたまましばらく起き上がることが出来なかった。
ベンチに嫌な緊張が走る。
ハーフタイムまでの前半残り時間をそのまま緑川がピッチに立ち続けることでしのいだため、大した接触ではなかったのだろうとも期待されたのだが。実際には緑川の後半の出場は見送られ、大事をとって病院へ直行することになった。
その身が案じられて仕方ないが、いまはまだ試合中、しかも一点ビハインドという状況だ。
村越は自身の気持ちをまず切り替え、落ち込み惑う椿を叱咤して尻を叩き、清川の同点ゴールを以てこの試合をかろうじてドローという結果に持ち込んだ。
クラブハウスで簡単なミーティングを終えての帰宅後、風呂から上がった村越は、充電器にセットした携帯に着信を示すライトの点滅を見留め、頭にタオルをかぶったままそれへと手を伸ばした。
フリップを開いて確認した発信者名には、緑川の文字が浮かび上がっていた。
ドクリとひとつ心臓が跳ねた。
ミーティング中、病院に付き添ったスタッフからもたらされた情報では、緑川は精密検査を受けているという話で、その結果は明日発表されるとのことだったのだ。
緑川が電話を掛けて来たのは、村越が風呂に入った直後だったらしく、ディスプレイには四十分ほど前の時刻が表示されていた。
伝言は残されていない。
時計に目をやって現在時刻を確認し、迷う。
夜分遅く、というほどでもないが、プロのアスリートとしては起きているか休んでいるか微妙な時間帯でもある。
だが相手は緑川で、病院での検査後だ。明日に持ち越すことも躊躇われ、結局、村越は緊張した面持ちで通話ボタンに指を掛けた。が、コール五回で留守録サービスに切り替わってしまう。やはりもう床に就いてしまったのだろう。
仕方ない。
伝言サービスの音声ガイダンスを聞くともなく耳に入れながら、溜め息と共に両の肩から力を抜く。
「⋯⋯村越です」
着信に気付くのが遅れ連絡をとるのが今頃になってしまったと謝罪を吹き込んで、まだ何か言い残すべきだろうかと逡巡し、結局うまい言葉を思いつけずに通話を切った。
すぐにでも診断の結果を知りたいという欲求はあったのだが、無事とは限らないのだと気付いてしまえば、不用意にそれに触れることは出来なかったのだ。
翌日のクラブハウスは重苦しい雰囲気に包まれた。
全治三ヵ月――。
それが緑川の怪我――右足外くるぶしの骨折――に下された診断だった。
立場上、顔色を変えることも憚られたが、村越は目の前が暗くなっていくのを止められなかった。
今季中の復帰は絶望的だと、冷静な表情で事実を淡々と口にしたのはベテランの堺だが、彼もまた、自身の動揺を抑え込むために敢えてそれを言葉にしたような感がある。
ベテランになればなるほど怪我に対する危機感は増す。
若い頃に比べると、復帰までに要する時間は長くなるし、レギュラーであれば、離脱中にポジションが奪われてしまうことへの焦りや恐怖がつきまとうものだ。
おそらく緑川も例外ではない。
迷惑を掛けて済まない、と常と変わらぬ穏やかな表情で謝罪し、怪我の後に無茶をして復帰が遅れたかつての失態をネタに夏木をいじる緑川を皆は笑っていたが、それに便乗する余裕は、村越にはなかった。
昨夜掛かって来た電話に出られなかったことを、今更のように悔やむ。
検査結果を知らされた緑川は、一晩どんな思いで過ごしたのだろう。ひとと会話することで気を紛らわせたかっただけかも知れないが、その相手にすらなれなかったのだと思えば心苦しい。
いつだって自分は緑川に助けられてきたのに。
緑川は、怪我に関する補償やそれに絡んだ書類の提出が必要だとかで、スタッフと共にクラブハウスの建物の中へ消えて行き、その日はそのまま練習場に姿を見せることなく帰宅したようだった。
試合出場組と控え組とで違うメニューをそれぞれこなし、村越が試合翌日用の軽めの練習を終えて戻ったロッカールームでは、若手選手を中心に緑川の怪我が話題になっていた。
大ベテランだが気さくな緑川には、たいていの若手が日頃からなにかと世話になっている。見舞いに行きたいが、迷惑だろうかと言った、そんな会話が村越の耳にも聞こえてきた。
シャワーを浴びて着替えをしながら村越は思いを巡らせる。
こういうときに弱音を吐けて本音を零せる相手は、あの人の側にいるのだろうか、と。
ETUに来てからの約二年半、村越の知る限り、緑川に特定の女の影はない。そうであるのなら、いま身の回りの世話をしてくれる人もいないということになる。
独身選手の場合は肉親が面倒を見に上京してくるという可能性もないではないが、日頃の緑川の自活ぶりを知る身としてはあまり現実味のない想像で、着替えを終えた村越は、世良と赤崎が中心になって見舞いの相談をしている輪の方へとやおら足を向けた。
「俺が行って様子を見て来る」
「コシさん⋯⋯」
突然の村越の宣言に驚いて固まっている若手たちの顔を順に見まわし、有無を言わせぬ口調で続ける。
「大人数で押し掛けても却って迷惑になるだろうしな。今日のところはおまえらを代表して俺ひとりに行かせてくれないか」
一度訪ねてみて大丈夫そうなら、おまえらはまた日を改めて行けばいい、そう諭し、
「じゃあコシさん頼みます」
お願いします、頼んます! と口々に想いを託され、村越は真剣な顔で頷いた。
移籍からまだ三年目だというのに。
「あんたって人は⋯⋯」
――どんだけ慕われてんだよ⋯⋯。
村越の口端には微苦笑がやわらかく浮かんでいた。
その頃、緑川は自宅の暗いリビングのソファーの上でひとりうずくまっていた。
スタメンを張れるようになってから今までの選手生活の中で、長期離脱を余儀なくされる怪我や病気はしたことがなかった。これまでの経験を総動員しても、不意打ちで襲いかかる不安や危機感には立ち向かうすべが見つからない。
書類上のもろもろの手続きを済ませてクラブハウスを出、まだ外が明るい時間にタクシーで自宅へ戻って来たときには、使い慣れぬ松葉杖に閉口しつつも、肉体的な不自由を除けば別段変わったことはなく、メンタル面でも落ち着いていたのだ。
だが、時間が経ち日が暮れてあたりが暗くなるにつれ、どこに潜んでいたものか、言いようのない焦燥がむくりと頭をもたげた。
電気を点けなければと頭では考えているのに体はまったく動こうとしない。次第に暗さを増して行く部屋の中、緑川は背を丸め、腹を抱きかかえるようにしてソファーの上で小さくなっていた。
外敵がいるわけでもないのに、無意識に身を守る姿勢になるものなのだな、と妙に冷静な頭の隅で考える。
誰かに連絡を取ろうという気は起きないが、ひとりで居るとろくなことを考えないのも確かだ。
昨夜、村越に電話を掛けてしまったのは、処方された鎮痛剤の副作用でおそらく少し意識がぼんやりしていたからだろうと思う。
気付いた時には通話ボタンを押してしまった後で、後悔したのだ。
今の自分の怪我の状態を知ったら、村越が困惑しないわけがない。明日には皆に知られることである以上、それは一晩限りでしかないが、それでもチームメイトの中で村越ひとりにこんな重い現実を共有させるのは酷だ。
しかし携帯電話には着信履歴が残ってしまう。証拠隠滅は謀れない。
聞いて貰うしかないな、と腹を括りコール音を数えていた緑川だったが、当の村越はすぐには電話に出られない状況にあるらしく、いっかな回線が繋がる気配がない。
これ幸いと頃合いをみて呼び出しを止め、わざとリビングに携帯を置き去りにして寝室へ籠ると、緑川はそのまま眠りに就いたのだった。
翌朝――つまり今朝だ――確認した留守録には、思ったとおりチームキャプテンの真面目な声が残されていたが、掛け返すことは敢えてせず、緑川はクラブハウスへ赴いた。
仲間たちの前ではうまく笑えていたと思う。虚勢を張ったわけではなく、実際あのときは気持ちも穏やかだったのだ。
それが今はこのざまだ。ひとりでいるからこそ誰に見られる心配もないが、何より自分で自分が情けない。
己はこんなに気弱だったのかと呆れ、三十三年も付き合って来て、まだ知らない自分がいることに、純粋に驚いてもいる。
いつまでもここに居るのは良くない、せめてベッドで寝ないとな、そう思ったところで、かたわらのローテーブルに置いてあった携帯電話が着信を知らせて震え始めた。
「ドリさん、俺だけど⋯⋯」
緑川の住むマンションの前まで来て、村越は携帯から部屋主へ電話を掛けた。ここまで乗って来た自分の車は近くにあるコインパーキングに停めてある。
いまマンションの下に居るのだが、訪ねて行っても構わないか、と問えば、
『いま開ける。ちょっと待っててくれ』
緑川から返答があり、エントランスのオートロックを解除する旨を伝えられた。
村越がここへ来るのはずいぶん久しぶりのことだが、緑川の部屋番号と共にパネルに打ち込まなければならない暗証番号はまだ忘れていなかった。
エレベーターで階を上がり、緑川の部屋の前に立つと、来訪者の足音が聞こえたものか、インターホンを押す前に内側からドアが開く。
見れば壁に手をついて身体を支えている緑川の姿が目に飛び込んで来て、しまったな、と村越は臍を噛んだ。ほかにどうしようもないとはいえ、
「悪い。その⋯⋯」
怪我人の手を煩わせてしまったことが申し訳なかった。
「気にするな。⋯⋯とりあえず上がれよ」
「あ、ああ、⋯⋯おじゃまします」
村越に背を向けた緑川は、壁を支えに、トントン、と無事な左足だけで跳ぶようにして室内へ戻って行く。
「ドリさん、松葉杖は?」
「あー、それが、まだ使い慣れなくてな。滑りそうになるっていうか⋯⋯部屋の中だと却って危ないんだ」
下の階の住人から苦情が来る前に使いこなせるようになるのが当面の目標だ、と言って笑う声が聞こえる。
リビングへ続くドアを開け、電気のスイッチを押しながら緑川は中へと入って行く。その動作に違和感を覚え、違和感の正体に気付いて村越は眉をひそめた。
寝室で休んでいたのでなければ、村越を迎えに出るまで緑川はここに電気も点けず居たことになる。彼がポロシャツを着ていることからしても、寝ていた可能性は低いだろう。
来てみて良かった、と緑川に気付かれぬようそっと吐息を逃がした。
「おまえが車でなきゃビールくらい出すんだけど⋯⋯。とりあえずまあ座れよ」
ソファーの片側に寄って腰かけた緑川が、となりの空いたスペースをぽんと叩く。
「いや、そんなこと気にしないでくれ。なんなら俺がコーヒーでも淹れようか」
「冷蔵庫にペットボトルのヤツならあった筈だ。それを出してくれるか?」
「わかった。グラスは適当に使うぞ」
この部屋には何度も来ていて、緑川の手料理を振舞われたことがあるし、その料理を手伝ったこともある。おかげでキッチンの仕様をある程度知っている村越は、まごつくことなくふたり分のアイスコーヒーをグラスに注いでリビングに戻り、緑川のとなりへ腰掛けた。
「さんきゅ」
緑川は礼を言って村越からグラスを受け取ると、一口だけ飲んでテーブルに置いた。そしておもむろに口を開く。
「で、何か用があるのか?」
アポイントなしで突然訪ねて来たことを迷惑がる素振りもなく、普段の穏やかさのまま緑川が訊いてくる。
「用っていうか、その⋯⋯見舞い、かな」
ロッカールームでの若手たちとの遣り取りを、村越がかいつまんで聞かせると、なるほどね、と緑川は頷いた。
「それでおまえが代表して様子見に来てくれたってわけだ」
「⋯⋯ああ、まあ」
でも違う、それだけじゃない。
「建前ではそういうことになってる」
「なんだよ、持って回った言い方するなあ」
気になるじゃないか、と先を促され、
「⋯⋯あいつらに託されたからだけじゃない。俺が、俺自身が心配だったんだ」
だから彼らを制してまで自らここへ来た。
「ちゃんと世話を焼いてくれる人はいるのかとか、俺に出来ることはないのかとか⋯⋯」
村越は手指を組み両肘を腿に預ける前傾姿勢で、緑川の視線を横顔に感じている。
「それに、ドリさん昨日電話くれたよな? なのに今日はぜんぜん話せないで帰っちまったから」
それも気掛かりだったのだ。
「あー⋯⋯電話のことは、その⋯⋯うん、悪かった。なんか俺寝惚けてたみたいでさ」
目線を横に流せば、ごめんなと照れたように頭を掻く緑川の姿が見え、それが偽りの誤魔化しなのか真意の現れなのか、村越には判断できない。
「俺なあ、誰かに頼るってのが苦手なんだよ。今までたいていのことはひとりでやってきたし、実際だいたいのことは出来たからさ」
それは事実なのだろうけれど。
「でも、そうだな、さすがにこの怪我じゃ、そのうち日常生活にも支障が出るよな」
参ったな、と呟いた緑川の顔には、そのこころの揺らぎが透けて見えるような、ひどく曖昧な笑みが浮かんでいる。
「ドリさん」
俺に出来ることなら手伝うから、と言おうとして、村越はそのとき初めて気が付いた。腕を組み直した緑川の、その手の先、握りしめたこぶしがかすかに震えている――。
「ドリさん⋯⋯」
村越の視線をたどり、気付かれたことを覚ったのだろう緑川が、震える手を敢えて差し出し、目の前に晒した。
「情けないよな、怪我って言っても治らないわけじゃないのにさ」
「⋯⋯」
「こわいんだ」
何が、とは訊かなかった。訊けなかった。いまはきっと何もかもが怖い筈だ。
「⋯⋯」
掛ける言葉が見つからない。
無言のまま、村越は緑川の両肩を引き寄せた。
緑川は逆らわず、おとなしく抱き寄せられる。
村越が鼻先をうずめた緑川の首筋からは、かすかに汗の匂いがした。
宥めるように背を撫でて、緊張から解放されやわらかく弛緩していく緑川のからだを、村越は包み込むように腕の中におさめ直す。
医者でもない自分が、大丈夫だなどと無責任な台詞を口にしたところで何の保証にもなりはしない。
それでも。
この腕の中で、ひとときであれ安らぐことが出来るというのなら。
ふたりきりの部屋の中では、エアコンの稼働音だけがその存在を主張していた。
やがて、自らを抱き込む温かさや揺るぎない逞しさに安堵したのか、緑川の全身から強張りが解け、ふかい溜息が吐き出された。
「村越」
離してくれという言葉は続かなかったが、もぞりと居心地悪げに動いた身体は束縛から逃れたがっているようだ。
それを敢えて無視し、村越はひとつの決意を固めて口を開いた。
「ドリさん、俺、あんたにひとつ懺悔しなきゃならないことがある」
これから口にすることが、今日ここへ来た自分の、本来の目的なのかも知れないと、我が事を他人事のように分析する冷静な理性を頭の隅に残し、村越はしずかに切り出した。
「なんだよ、急に改まって⋯⋯」
こわいな、と茶化そうとしたらしい声が閊(つか)え、不自然に途切れたのは、おそらく村越の緊張が緑川にまで伝わったからだろう。
いま早鐘のように暴れている鼓動の拍が、重なった胸からじかに届いてしまっている筈だ。
「村越⋯⋯?」
村越の、このあまりに明らかな緊張の理由がわからず、緑川は戸惑う。
「ドリさん俺にひとつ嘘ついたよな」
「嘘?」
「俺を最後にこの部屋に泊めた日」
「!」
いまさらあの日のことを蒸し返されるとは思わなかった。よもやの展開に、緑川の心の準備は間に合わない。
「なん、で⋯⋯?」
なぜ今それを言うのか。いや、それよりも、村越はいったいあの日の何を言おうとしているのか。
「あの朝、ドリさんは俺が前の日の夜のことをろくに覚えてないって知って、しかもそれとなく匂わせてみたら、俺がえらく動揺したもんだから、だから何もなかったってことにしてくれた、そうだろ?」
「⋯⋯」
なんと答えればいいのか、肯定すべきか否か、どちらが最善なのか、それすら判断できず緑川は息を詰める。
「でも、あれは嘘だった。そうだよな?」
あの日の朝、緑川の部屋で目覚めたとき、村越に前夜の記憶がなかったのは本当だ。ただ、その後に、
「夢を何度も見て」
「ゆめ?」
「そう。最初は本当にただの夢だと思ってたんだけどな⋯⋯」
はじめてその夢を見たとき、村越はうなされるようにして飛び起きた。なんて夢を見てしまったのか、と。けれど冷や汗の吹き出した身体をかかえ、夢の内容を反芻しているうちに、そこに嫌悪がないことに気付かされた。焦ったのは確かだが、それは夢に出て来た相手が緑川であったこと、自分が彼に対してしていた行為が、相手が誰であれ、その性別がどうであれ、陽の光のもとでおおっぴらに口にするような事柄ではなかったから、それに尽きる。
思春期の子供(ガキ)でもあるまいし、という羞恥もあった。
その夢を見たのは一度きりではなく、そして何度も何度もくりかえし夢に見るうちに、じわじわと記憶の断片が甦って来たのである。
「違う、これは夢じゃない。夢じゃなくて、俺があの夜あんたにしたことだ、って」
そこまで聞いた緑川は、村越の腕の中から弾かれたように顔を上げた。
「村越、間違えるな。あれは俺がおまえにさせたこと、だろ」
こんなときでも緑川は彼自身に厳しく村越に甘い。
しかし村越は首を振る。
「おんなじだ」
きっかけを作ったのがどちらであれ――、
「俺もあんたにそうしたいって思ってて、それであんたの誘いに乗ったんだとしたら、それは同罪だろ」
それはもう、緑川がさせたこと、だけでは済まない。
「⋯⋯」
緑川はいよいよ言葉を失う。
「そうやって思い出したのはいいけどな、その後自分がどうするべきなのかは正直迷ったよ」
緑川が村越のことを慮って、それをなかったことにしてくれたらしいというのは簡単に想像できた。今更その好意を反故にしてまで真実を掘り返すことが正し遣り方なのかどうか、村越にはわからなかったのだ。それこそ誰にも相談できず、ひとりずっと悩んでいた。
「黙ってた方がいいんだろうと思った」
一度はそう判断を下した村越だったが、
「でも」
無理だったのだ。
それでは自分が嫌なのだ、と。あれをなかったことにされるのを、辛いと感じてしまった。そして寂しい、とも。
「せっかくあんたが俺のためを思って嘘までついてくれたっていうのにな」
それを無碍にする我儘を許して欲しい。
「動機なんてどうでも良かったんだ」
ただの気まぐれでも、自己満足でも、下心でも。
「あんたが俺を支え続けてくれてたのは事実なんだから」
「村越⋯⋯」
自分に向けて差しのべられた手、それを、たとえそれが無意識の挙措であれ、心地よいと感じ、嬉しいと思い、望んで求めて手を伸ばしたのは村越の方だ。
「あんたの誘いを、たぶん俺はいつでも待ってたんだと思う」
緑川の口車に乗せられたふりをして、わがままに付き合うふりをして。
「嬉しかったし、心地良かったし」
いまならわかる。腕の中のこの存在に、自分がどれだけ救われて来たのかが。
「つまり、本当は俺自身の意思で、俺はあんたに依存してたってことだ」
そしてあの日たしかにあった筈の交歓をなかったことにされたと知って、それを残念だと感じた自分の気持ち(ほんね)。
それが答えで、それがすべて。
いくつもの感情が積み重なって、迷いも戸惑いも飲み込んで、いつの間にかこの胸の中で大きく育っていたかけがえのない想い。
「だから俺は、あんたにもうひとつ、言わなきゃならないことがある」
こんどは懺悔ではなく。
「ドリさん、俺はあんたのことが――」
言い掛けたところで、緑川の手指が唇に触れ、村越はやんわりと先を制された。
「少しだけ待ってくれ、村越」
性急でも乱暴でもない緑川のそのしぐさは、けれど充分な効力をもって村越を従わせる。
「俺が⋯⋯俺がまたおまえと一緒に同じ場所(フィールド)に立てたら、そのときに」
村越は緑川の言わんとすることを察し、凪いだ気持ちで目を閉じる。
「いまの続きを聞かせてくれないか? そうしたら」
「俺も同じ言葉をかえすから――」
2011.10.20 脱稿/2018.06.01 微修正
・初出:『きみと明日の話をしよう』2011.10.23 発行