『蹟』6000Hitsリク R18


 背を丸めて上体を倒すと、私の下で彼が呻いた。その身に飲み込んだ私の肉体の一部が容赦なく彼を追い詰めている。




 航海明けに彼を誘った。一人暮らしの彼の部屋でふたりの夜明けを迎えるのは、もう数えることも馬鹿馬鹿しい程の日常だ。
 求めて理由なく断られたことはないが、しかし彼から誘われたこともない。彼がこの関係をどう思っているのか、私は問い質したことがなかった。彼もまた、私にそれを尋ねない。学生の頃からもう10余年、彼とのこの奇態な関係は続いている。




 唇を寄せて名を呼ぶと、顰められていた眉がゆるみ目蓋が上がる。内側の痛みに涙腺を刺激されて不本意に潤んだ双眸が、音もなく、なんだ、と問い返す。
「それは癖か」
「⋯⋯なん、の、ことだ」
 荒れた呼吸が彼の言葉を短く切断する。
「手」
「わ、かんね、よ⋯⋯」
 解るようにしゃべりやがれ。
 息を詰め、喉の奥からひと息にそう搾り出した彼の長く力強い腕の1本は今、汗にすべる私の背に回されている。その腕の先で、彼の指は強く握り込まれてこぶしを成していた。
 無意識なのかどうか。はじめてのときからずっと、彼の手は私の身体に傷を作ったことがない。支えを欲して背を抱くとき、この男の指が自由であった例(ためし)はないのだ。手のひらに握り込まれ動きを束縛されて、彼の指はいつだって私の皮膚から遠ざけられている。
「なぜ私には残さない?」
 私には残させるくせに。
「だから、なんのこ、と、だって⋯⋯」
 訊いてんだろうが、と罵声のように続いた言葉の合間に、私は彼の首筋の襟にも隠れない場所に唇で痣を刻んだ。こういうことだ、と。
「⋯⋯ィッ」
 皮膚をきつく吸い上げられる痛みに抗議の声を上げ、
「口で言いやがれ」
 そう吐き捨てる。
「返事をきかせろ」
 迫る私に、彼はその顔に今のこの場の空気にそぐわない笑みを浮かべた。
「決まってる」
 どう言い繕う気なんだ、彼女に。
 そんなものを望んでどう言い訳するのか、と。
 言葉の意味など私の意識に留まりはしなかった。鼓膜を打つそんなただの音よりも。このときの彼の笑みが、私の胸郭にそれまで感じたことも意識したこともなかった、得体の知れないモノを溢れさせて。
 箍をはずしたのはお前だ、深町。








 常ならば、度を越す前に抗議の声を上げ、それでも私が無理を通そうものなら容赦なく撥ね除けもする彼が、この夜はなぜか、あの笑顔以降まったく抗うことをしなかった。
 そのことに思い至ったのはすべてが終わった後で、いつ彼が自我を放棄したのか、いつ彼の腕が私の背から離れてしまっていたのか、それさえも記憶にない。
 こんな経験はかつてなく、狼狽えこそしなかったが、私はしばらくの間、己がまるで手負いの獣ででもあるかのように気配を殺し、ぴくりともしないで横たわる男を見つめていた。




 体側に投げ出された、筋肉に盛り上がる力強い造形を、その肩口から指先へと視線で撫でる。愛撫の辿り着いた先には男らしい厚みを持った大きな手の甲。更にその先にある無造作に切りそろえられた爪は、たとえ指先を肌に突き立てようと、その痕を残してはくれなさそうに短い。
 ふとあることを思いついて、私は彼へと腕を伸ばした。彼の手を取りその人差し指を握り込むと、己の左胸の上に添える。そうしてわざと爪が皮膚に食い込むよう指先に角度をつけ力を込め、呼吸(いき)を詰めてひと息に薙いだ。力任せに。
 切れの悪い刃が走った後のように飛び飛びに皮膚が裂け、時間を置いてじわじわと赤い体液がそこから顔を覗かせる。
 体を駆け抜けたじんとした痺れは、なぜか傷口とは違う部位から生じているように思われた。



2005.07.07 終 



・リク内容:なんでも好きなもん書いていいよ by 鈍 ぐりん。