『地上の星、深海の陽』1 ⋯⋯ 未完SS。続きを書く予定はありません。


 海江田が深町と親しくなったのは防衛大学校の二年生のときである。それまでも互いに相手の存在は知っていたし、いや、知っていた、どころか、討論議論が絡む講議ではしょっちゅう意見を対立させ真っ向から遣り合う間柄ではあったのだが、なぜかプライベートでは不思議なくらい縁がなかったのだ。
 ふたりがそれぞれ周囲に与える印象は全く正反対で、畢竟集まってくる連中のタイプも両極端になる。だから彼らは共通の友人を持たなかった。そのことが、疎遠であった原因といえば原因だったのかも知れない。
 そんな彼らが二年生に進級してふた月が過ぎた頃、深町に関するあまり性質(たち)の良くない噂が海江田の耳に入ってきた。
 深町が夜の女に金を貢いでいる、というのである。
 日を追うにつれて噂は具体的になり、相手はどこそこの店の誰某(だれそれ)という源氏名の女だ、とまで言われ始めた。ついには噂を放置できなくなったのだろう学校側から、深町本人に呼び出しまでかかる始末。が、結局のところ深町に対する咎めは何もなく、それを潮に、暫く経って噂もやんだ。
 しかしそのことをきっかけに、海江田は深町という男個人に興味を持った。
 火のないところに煙りは立たぬ、と言う。ならば先の聞くに耐えない醜聞にも、何かしら根拠はある筈だ。
 そう思った海江田は、知らず深町の動向を目で追うようになっていた。そうして最初に気付いたのは、
『休日の深町は人付き合いが悪い』
ということだった。
 規則と規律とに縛られた雁字搦めの日常を強いられている防大生は、外出の許される週末を殊のほか楽しみにしている。二年生ともなれば、月に一度という限られた回数ではあるものの外泊も許可されるので、そのための宿として数人のグループでアパートを借りるのが慣例ですらある。かく言う海江田も、3人の仲間とアパートの一室をキープしている。けれど深町はその宿を持っていないのか、外泊している様子がなかった。外泊どころか、殆どすべての休日を、彼は構内で過ごしているようなのだ。
 海江田は意外に思った。
 平素、構内で見かける深町は常に誰かと行動を共にしている。いつでも彼の周りには人が集まり、笑い声が絶えない。なのにそんな深町が、休日をひとりで過ごしている――。
 何か特別な理由があるとしか思えなかった。
 ――折を見て直接本人に訊いてみるか。
 一旦気になり始めると自分が納得するまで追求せずにいられない。それは海江田が生まれ持った、傍迷惑な性格だった。






 土曜の朝の食堂で、海江田の目はその日もごく自然に深町の姿を追っていた。
 深町は、彼がよく行動を共にしている一団と共にテーブルに座り、がつがつと音が聞こえて来そうな勢いで、どんぶりに山と盛られた舎利を掻き込んでいる。そのテーブルでの話題は今夜の予定にあるらしく、しきりに夕刻の時間と店の場所、そして持参金の金額が相談されていた。
 深町も何度か話かけられては、首を縦に振ったり横に振ったりして応えている。口が塞がっていて言葉を発せられないのだ。
 海江田はそんな深町の様子に、知らず口元を綻ばせていた。
 一見がさつそうで騒がしいイメージのある深町が、実は意外に礼儀作法をわきまえた男であることに、彼を観察し始めてからの海江田はすぐ気付いた。ひとつひとつの動作が体躯に見合って大振りで、そのため見た目は乱暴に映るのだが、決して不躾ではないのである。ただ、口の悪さだけは否定できなかったが。
 今も、口に物を入れたまましゃべらない、という、当たり前といえば当たり前な、食事のマナーの基礎の基礎を深町は忠実に守っているのだろう。親の躾が行き届いている証拠だな、と海江田はなぜか愉快な気にさせられていた。深町は覗くたびにその模様を変える万華鏡のような男で、彼を観察することは海江田を密かに楽しませているのだった。
 この日の午後、海江田は目的なく立ち寄った図書館の2階で思わぬ姿を目にした。珍しく構内で見かけないため、てっきり仲間と共に出掛けているのだとばかり思っていた深町が、そこにいたのである。
 海江田は彼の姿に思わず微笑してしまった。
 深町は眠っていたのだ。
 起きているときのイメージそのままに、寝ているときでさえ騒がしいのだろうと思われがちな深町だが、実際は意外なほど寝姿が大人しい。かつて彼と同室だった相手の言葉を鵜飲みにするなら、鼾もかかなければ歯ぎしりもない、寝相も悪くないということになる。
 あいつが静かなのは寝ているときだけだ、と同期の誰かが言っているのを海江田は聞いたことがあったが、口に物を入れたまましゃべるような不作法をしない深町は、けれど食べているときでさえ賑やかなのだ。実際に音を発てるのではなく、視覚が音を聞き取ってしまうような、豪快で闊達な食べ方をする。そしてそれは、決して見る者を不快にはさせない。それどころか幸せな気分にさせてしまう。今朝もそうだったなと、海江田は食堂での彼と、彼を見ていたそのときの自分の胸の裡を思い出して、また温かな気持ちに包まれた。
 いま深町は、読みかけらしい1冊の本を抱き込むような格好で机に突っ伏し、その腕を枕に眠っている。水色のシャツに包まれた広い背が、熟睡を示す長いセンテンスで、ゆったりと隆起と沈降とをくり返していた。
 海江田は静かに深町の側へ歩み寄ると、彼の正面の席へそっと腰を下ろした。
 机の上には数冊の本が左右に分けて積み上げられていた。何気なくそれらタイトルに指を這わせ、海江田の目は『潜水艦』の文字をそのうちの3冊から拾い上げた。
 二年生に進級する時点で、既に彼らは将来陸海空いずれの部隊に所属するかの振り分けがなされている。海江田も深町も海を希望し、それが通っていた。だがその先の進路はまだ決まっていない。
 海江田は『潜水艦』の3文字を指でなぞりながら、深町は潜水艦乗務を希望しているのだろうかと考えた。しかし、勝手な言い草かもしれないが、なんだか似合わない気もする。深町が、自分は海が好きだから海自を選んだのだ、と誰かに話しているのを聞いたことはある。それは納得できる進路選択理由だった。だが、勤務艦が潜水艦となると話は別だ。狭苦しい場所に閉じこもっている深町の姿というものが、海江田にはどうもしっくり来ないのである。だいいち潜水艦に乗り込んでしまえば、大好きな海を見ることも叶わない。
 ――解らないな。
 海江田は首を傾げた。
 起きたら訊いてみようか。
 海江田が見つめる視線の先で、深町はまだ眠っている。


02.01.18


 んー、と唸るような声がして、それまで呼吸だけに支配されていた身体が、もぞ、と動いた。
 海江田が開いていた本の頁から視線を上げると、目を覚ましたらしい深町がちょうど身を起こすところだった。
 その顔を見て吹き出してしまいそうになり、海江田は慌てて口元を手のひらで覆った。顔を上げた深町の右頬には、くっきりとシャツの袖口の跡がついていたのである。
 当の深町はと云えば、思わぬ人物が目の前にいることにまず驚き、寝ぼけ眼を丸くして固まっている。暫くして、海江田が忍び笑いを漏らしていることに気付いたのだろう、
「なんだよ」
と、不機嫌そうに眉根を寄せた。
「済まない。悪気はないんだ」
 まだ笑いを滲ませた小声で言い、ここに、と海江田は自分の頬を指でなぞって見せ、
「服の跡がついている」
「ああ、なんだ」
 そんなことか。
 得心したらしい深町は、目立つか?などと言いながら、汚れを拭うような乱暴さでごしごし頬を擦る。そんなことで消える跡でもないのだが、条件反射のようなものだろう。案の定、摩擦熱に頬が赤くなっただけで跡は消えなかった。
「俺に何か用か?」
「いや、用というほどのこともないが⋯⋯」
 ここでは都合が悪かろう?
 海江田は場所を変えないかと提案した。
 図書室内という空間には、小声でしゃべっていても居辛いような雰囲気がある。まして深町など、その声量が密談に向かない最たる男だ。ついでに言うなら彼は密談を善しとしない男でもある。
 深町は腕時計で時間を確認し、広げてあった本を閉じた。彼が小さく頁数を口にするのが聞こえたのは、どこまで読み終えたか暗記するためだろう。
「借りて行くのか」
「いや。そっちのはもう読んだし」
 深町は海江田の差し出す本を受け取り、
「次の休みにまた読みに来るからいいんだ」
と、未読だったらしいもう片方の山は自分で掴み上げ、元の書庫に返すために踵を返した。
「手伝おう」
 海江田は深町の後を追い、図書の半分を受け持った。
 書庫を出、階段をふたり並んで降りながら、
「深町、おまえ潜水艦乗務が希望なのか」
 さっき本のタイトルを見たのだ、と海江田はその言葉をきっかけに疑問のひとつを口にした。
「んー?まだハッキリ決めた訳じゃないけどなあ」
 適性があるかどうかも判んねえし、と言い、
「でも、うん、そうだな。やっぱり乗りてえな」
 深町は妙に子供っぽい表情を見せて頷いた。
 護衛艦に比べると人気のない潜水艦である。適性さえあれば希望が通る可能性は高い。
「貴様は鼾をかかんようだから、大丈夫なんじゃないか」
 海江田が笑いながら言うと、
「そいつは噂だろうが」
 深町は呆れたような貌をした。
 潜水艦乗りは乗り込む艦のもつ任務とその性質上、物静かであるに越したことがない。それ故に鼾をかく奴は適性ナシの烙印を押されて選考から外されるらしいという噂が、海自を目指す学生間でまことしやかに語られているのだ。
「だいいち鼾だけで決まるかよ」
 言い様、深町は海江田に断わりもせず、1階にある手洗いへと入って行った。思わず置き去りにしそうになり慌てて足を止めた海江田が、用を足すのを待つつもりでその場に立ったままでいると、深町は奥へは行かず徐に洗面台に手をつき鏡を覗き込んだ。
「こいつぁヒデェや」
 おまえが笑う訳だよ。
 深町は己の頬に走る赤い線に苦笑を漏らす。気休めにか顔を洗ってから、彼は海江田の元へ戻って来た。
「しばらく外出は出来んな。約束の時間までに消えるといいが」
 海江田がそう言うと、
「約束?」
 深町は首を傾げる。
「夕方から出かけるのだろう?今朝杉山たちとそんな話をしていなかったか」
 食堂での会話を思い出しながら深町の友の名をあげた海江田に、問われた男は首を振った。
「いや、俺は行かねえぞ」
「そうなのか?私はてっきりおまえも⋯⋯」
 誘われているのだと思ったのに。
「今月はオケラでなー」
 誘われはしたのだが、懐具合を理由に断ったと深町は応えた。
「金欠なのか」
「ああ」
「手当にもう手を付けたのか?」
 防大生は学生の身分でありながら、年間百万円近い額の学生手当てという名の給料が貰える。今月のそれが支払われてからはまだ1週間と経っていない。いったい何に使ったというのだろう。そもそも授業料から食費、住居費と、学生生活に必要な類いの出費はすべて国が賄ってくれるため、余程のことがなければ日常生活に支障を来すような事態にはならない筈なのだ。
 そんな海江田の内心の疑問に気付いたのか、
「仕送りしてんだよ」
 深町はあっさりと言った。
「うちは親父がいねえから。だから実家のお袋に俺が仕送りしてんだ」
 今月はなんか物入りらしくてな。
 だから普段よりも多くの額を仕送りに宛てた。そのせいで、もう金欠なのだという。
「なんだ、そうだったのか」
 深町が構外に下宿を持たない理由もあの下世話で無責任な噂が立った訳も、この一言ですべて説明できる。
「いつも金が無え金が無え、つってるからな。だからあんな噂がたったんだろ」
 深町自身もそう言った。解ってはいるらしい。
 噂を流したのが誰なのか知らないが、深町をちゃんと見ていれば外で金を使っていないことなどすぐ判りそうなものなのに、と海江田は思った。
「だがそれならそうと、なぜ言わない」
 そうすれば、教官に呼び出されることもなかっただろう。わざわざ好んで悪印象を持たれずとも良いものを。
 しかし、
「別に言いふらして回るようなことじゃねえから」
 訊かれりゃちゃんと答えてるぜ、と深町は拘泥していない様子だった。
 真実だとか真相だなどというものは、本当に理解していて欲しい相手には自ずと知られているものだ。
「それによ、変に気ィ遣われる方が嫌じゃねえか」
 知れば腫れ物を触るような慎重さで距離を置きたがる連中もいる。そういう雰囲気が深町は苦手だ。それを自ら作り出してしまうのは戴けない。
「その気持ちは解らなくもないな」
 私も父親がいないのだ、と海江田は言った。父親が海軍上がりの自衛官だったこと、そして勤務艦の訓練中に事故で亡くなったこと、それらを海江田は防大に入ってはじめて口にした。なぜ語ろうという気になったのか、このとき海江田は気付いていなかったのだが。
 人を知りたければ、その分、自らを明かさなければならない。心を開いて欲しければ、自分がまず心を開かなくては通じない。
 海江田は深町という男が知りたかったのである。
「で、俺に用って何なんだ?」
 深町に問われ、海江田は我に返った。
「いや、さっきの噂の真相をな⋯⋯」
 訊こうと思っていたのだが、もう聞いてしまったな、と海江田は笑った。
「なんだ、そんなことだったのかよ」
 変なことを知りたがるんだな、と言いながら深町は腕時計に目を遣り、教官に呼ばれているからと断って、寮へ向かう海江田と、図書館の出入口で別れた。
 深町の広い背が図書館の角を曲がって見えなくなるまで見送ってから、彼が潜水艦に乗務したがる理由を訊きそびれたことに気付いた海江田だったが、もう気にはならなかった。
 これから先、それを尋ねる機会はいくらでも訪れるだろう。
 海江田は、深町と深く関わって生きて行くことになるであろうこれからの己の人生を、漠然と予感していた。



02.01.27 続 




 廊下や食堂で顔を合わせれば親しく挨拶を交わす程度には歩み寄った海江田と深町だったが、平日は別の面々とつるんでいることの方が多く相変わらずそれ以上の付き合いはなかった。そして海江田は、訊きそびれた疑問の存在そのものを、いつしか意識しなくなっていた。
 そうして季節が夏を迎えたある日。
 海江田たち海自を目指す2年生たちが教室で講議を受けていたときだ。授業中であるにも関わらず、教室の前側の入口からひとりの指導官が急ぎ足で入室して来た。彼は室内を見回して誰かの存在を確認してから、講師である教官に何か耳打ちをした。
「深町」
 教官に呼ばれ、深町が席を立つ。
 皆が一斉に彼を注視した。
 彼らと共に振り返った海江田の視線の先で、深町は何かを決意したようなどこか思い詰めた表情をしていた。彼の表情に驚愕や不審の色がないのは、何事かを事前に予測していたからだろう。
 促されるまま指導官と共に廊下へと出て行った彼は、その後教室に戻って来なかった。その日彼は寮の部屋にも戻らず、ついにそのまま防大は夏期休暇とへ突入した。
 母と祖父母の待つ美倉島へ帰省した海江田は、しかしその休暇の間中、折に触れ深町のことを思い出していた。何をしていても何を考えているときでも、あの日最後に見た彼の顔がふいに脳裏に浮かぶとそこで思考が停止してしまう。
 ――あんな顔。
 初めて見た。
 深町は元来表情の豊かな男だと思う。でも、あんな顔はそれまで見たことがなかった。笑う顔も怒った顔も知っていたが、あんな貌だけは、知らない。
 ――らしくない顔だったな。
 海江田はそう思う。そして思った直後、決まって自嘲したくなる。
 彼の何を知っている訳でもないのに、と。
 その年海江田は夏の休暇を美倉島で目一杯満喫することはなく、少し早目に寮へ戻った。



2002.06.12 未完