定時を一時間程過ぎた頃、深町はようやくその日の仕事を終えた。2月も半ば、冬至以来確実に日は長くなっている筈なのだが、彼が艦を降りた時分にはあたりはすっかり夜だった。
その深町が、出勤時には持っていなかった小ぶりな紙袋を提げ、夜風の冷たさに首を竦めて基地から出ようとしていたときだ。
「深町、いま帰りか」
背後からの声に振り向けば、通勤鞄と一緒に小洒落た紙袋を提げた海江田が、こちらも今から帰宅するのだろう格好で歩いて来るところだった。
「珍しいな、おまえが残業なんて」
深町は軽口を叩き、同期の桜が追い付いて来るのをその場で待つ。彼らが帰宅する先はそれぞれ別の部屋だが、その帰路は途中まで一緒なのだ。
「今日は鎌倉か?」
と、深町。
「いや、明日は朝が早いのでな。今夜はこっちだよ」
と、海江田。
既婚者である海江田には鎌倉に彼を待つ家族がいる。だが仕事が忙しいときや朝が早い日などは帰宅出勤がきつい。それで彼は横須賀の基地に近い場所に部屋を借りていた。一方独身である深町は深川に実家があるのだが、やはりそこから基地への通勤は難しく、彼もまた基地にほど近い場所にひとり居住している。
「おまえも貰ったんだな」
「ああ、これか」
深町が手に提げていた紙袋を少し掲げてみせた。中身はチョコレートである。今日は14日。洋菓子店の喜ぶ例のイベントデーだったのだ。
「そういうおまえも結構貰ってるじゃねえか」
深町が茶化す。
「まったく既婚者にくれてやってどうする気なんだか」
「私はそういう意味で安全牌だからね。彼女たちにしてみれば気兼ねがないのだろう」
彼らにチョコを渡したのは、通称WAVE(ウェーブ)と呼ばれる数少ない海自女性自衛官たちである。たいていのWAVEは同じものを複数買い、普段世話になっている上司や同僚に配り歩いていたようだ。
「3倍返しを期待されてるだけってことか」
「そうらしい」
だがおまえは違うかも知れんぞ、と既婚者は独身貴族に言う。
「本命チョコとやらが混じってるんじゃないのか?」
「知らんよ、そんなこたァ」
そんな他愛ない会話を交わしながら、男たちはふたり並んで基地を出た。
「ところで深町。おまえからのチョコはないのか」
「はあ?あるかよンなもん」
街灯の下で深町は眉を上げた。
なに寝ぼけたこと言ってやがる。
口にしなくても声が聞こえそうな表情だ。
「なんだつまらん。朝からずっと楽しみにしていたのに」
どこまでが本気なのか深町にも判断しがたい口調で海江田が言った。口吻が少し尖って見えるのは、深町の目の錯覚だろうか。
「そんなもん楽しみにすんなよなー」
頭が痛くなるぜ、と深町が言えば、風邪でも引いたか、と間髪入れず返って来る。
打てば響く。
それは彼らにとって10年来の慣れた間合いの遣り取りだ。
帰路の途中の四ツ辻の角にあるたばこ屋を数メール通り過ぎたところで、
「あ」
小さく声を上げて深町が立ち止まった。コートの上から何かの存在を確かめるためにポケットのあたりを叩き、
「悪りィ、少し待っててくれ。煙草切らしてたんだわ」
そう言い置いて深町は来た道をとって返した。海江田が視線で追った先で、彼はたばこ屋のガラスの小窓を叩き中にいる店番の老婆に声をかけていた。なにやら会話が弾んでいるようで、老いた婦人の楽しげな笑い声が海江田の耳にまで聞こえて来る。そのまましばらく深町は談笑を続けていた。
「煙草ひと箱買うのに随分時間がかかったな」
たっぷり10分は足留めを食い、やっと買い物を終えて戻って来た深町を海江田が揶揄う。
「そう言うなよ。ばあさんも話し相手がいなくて淋しかったんだろ」
それより、と深町は言葉をついだ。そして、
「ほら、やるよ」
その言葉と共に、海江田の鼻先に細長い箱が差し出された。その物体の正体を見極めようと、しぜん海江田の目が内側に寄る。
「⋯⋯アーモンド、チョコ?」
それは10粒のアーモンドチョコがそれぞれ金色の包装紙に包まれ2列に並んで入れられている、大手製菓メーカーの見慣れた赤い箱だった。おそらく前(さき)のたばこ屋で購入したのだろう。
「欲しかったんだろ?チョコ」
くれてやるよ、と深町が笑う。だが海江田は何も言わない。表情も動かない。ただ黙然と鼻先を見つめている。
「なんだよ、なんか不満か?まさかちゃんと包装してリボンがかかってなきゃ嫌だとか抜かすんじゃねえだろな」
「⋯⋯相変わらずムードの欠片もない男だな、貴様は」
「そんなもん要るかよ」
箱を海江田に押し付け、気の短い深町はさっさと歩き出してしまった。
「だいたいな、包装なんかしたってどうせ破って捨てちまうんだぞ?大事なのは見てくれじゃねえよ、中身だろーが。ったく⋯⋯」
ぶつぶつ言う男の広い背を追って足を踏み出した海江田の口元は綻び、その目は笑みに眇められている。
「おまえの気持ち、確かに受け取ったぞ」
「おい、誰がそんなもん込めたっつったよ」
「大事なのは中身だといま言ったじゃないか」
「おまえの脳みそにはどういう翻訳機能がついてやがんだ?」
呆れ顔で振り向く深町に追い付き、
「おまえも食べるか?」
その場で封を切りながら海江田が尋ねる。深町の言葉をどこまで聞いていたのか、甚だ怪しい物言いだ。
「いらねえ。それはおまえのもんだ」
だからおまえが全部喰え。
深町は深町で取り合わない。
「じゃあお返しは何がいい?」
「だからそれもいらねーよ」
第一そんなものを期待してくれてやったんじゃねーぞ、と深町は心外そうである。
「そんなことより、もう着いて来んな!」
「なんのことだ」
「とぼけやがって⋯⋯」
おまえンちはさっきの角を右折だろうが、と深町が吠える。
「言っただろう?明日は朝が早いんだ。おまえの部屋の方が基地に近い」
朝食を作ってやるからそれで手を打たないか、と海江田は悪びれもせず持ちかける。
「騙されね~ぞ~⋯⋯」
握りしめた拳を震わせながら恨むような低い声で呻く深町だが、しかし無駄骨を折る気はないらしい。口から生まれて来たようなこの男を相手に口で勝とうなどという無謀な試みは、もう5年は前にやめている。深町とて馬鹿ではない。人間とは学習する動物なのだ。無論、天下の公道に於いて力に訴えるなどという野蛮な真似も自重した。
「海江田」
「ん?」
海江田は何がそんなに嬉しいのか顔に笑みを湛えたまま、包装紙を剥き終えたばかりのチョコを1粒口に放り込んだ。
「そのチョコの礼だがな」
「なんだ。やはり何か欲しいのか?」
がりっと音をたて、海江田の奥歯がアーモンドを噛み砕く。
「⋯⋯物じゃねえ」
「じゃあなんだ」
「今夜は 絶 対 おとなしく寝ろ。⋯⋯ひ・と・り・で、な!」
それが俺の望みだ、と明日から2週間の定期パトロールに出る深町は、肩を怒らせ声高に命じた。
その要望に海江田が応じたのかどうかはまた別のお話、ということで⋯⋯。
2002.02.14 終
・彼らが自衛官だった頃ってまだWAVEは存在しなかったんじゃなかったかな? と朧げな記憶で疑いつつ。