彼を目覚めさせる。
その役を割り振られているのが自分だと知っている。
自衛隊旗降し方5分前――。
スピーカーから流れる耳慣れた声が基地内に日没5分前を告げる。
バースに浮かぶ第二の我が家へ向かっていた足を止め、深町は艦旗へと身体を向けた。
陸海空すべての隊で行われる自衛隊旗降下は、海自だけが毎日その時間を異にする。陸自空自で午後5時と定められているのに対し、海自のみ、旧海軍の伝統を途切らせることなく日没を定時にしているのだ。この伝統は世界中の海軍に共通のしきたりでもある。
5分の間に降旗準備が行われ、ラッパが鳴った。
深町は敬礼のために右手をあげた。
ニューヨークの日没は何時だろう。
あの男は今もまだ眠っている。その鼓動を止めることなく。
けれど深町はその姿に見(まみ)えていない。
今年、一月二十六日 〇六一〇。
国連監視船の送迎タッカーに単身で乗り込み、ハドソンリバー桟橋へと向かうその後ろ姿を見送ったのが最後で、それ以降、深町はブラウン管越しの彼しか知らないのだ。
同日、一四三〇。彼は被弾した。
“沈黙の艦隊”独立宣言を改めて世界に発し、国連総会の決議を見届けた後、ストリンガーの問いに答えた自分の言葉に嘘はない。あのときは確かに会うつもりでいたのだ、彼に。しかし深町は結局セントラルパーク病院へ向わなかった。その建物を視認できる距離に立ちながら、彼を病室に訪(おとな)うことはついになかった。
同行していた速水に不審がられ、渡瀬や南波からは何故とも問われたが、そのときは何も答えられなかった。
今はまだその時ではない。
ただ漠然とそう思ったのだ。
だから深町は踵を返した。
身体が先に動き、思慮は後から付いて来る。それが深町という男だった。
彼に会う時は今じゃない。
あのときそう感じた理由を、今ここで艦旗に敬礼を捧げる深町はもう知っている。
彼はまだ目覚めてはならないのだ。
世界はまだその姿を充分には変えていないから。
世界は変わらなければならない。
世界を変えなくてはいけない。
その宿題を出したのはあの男ではなかった。それはもうずっと前からそこに在ったのに、何故か誰もが見過ごして来た物だった。彼はその存在と在り処とを世界に指し示したに過ぎない。
コロンブスになること。それが彼の役割だった。その役目を終え、だから彼は眠っているのだ。
その先は私の仕事ではないから、と。
いま深町は彼の行動をそう理解している。
この世界があの男を、世界革命の象徴としての彼を必要としなくなったら。彼をまるで救世主(メシア)のように感じ、神として奉り上げようとしない世界が出来上がったら。
そのときは誰かが彼を起こしに行かなくてはならない。
さあ起きろ。これがおまえの望んだ世界だ。その目を開けて確かめてみろ、と。
海の向こうの大国ではその国家の頂点に立つ男が、海の上では死力を尽くして彼と渡り合った男達が、そして海中では彼と行動を共にした男達が『その日』を引き寄せようと今この瞬間にもそれぞれの戦場でそれぞれの戦いを闘っている。
深町もまた然り。政治家を目指すのは退官後のことだと決めていた。彼にはまだ自衛官として為すべきこと為せることがいくつも残っている。
『その日』がいつ来るのかは判らない。
明日(あす)かも知れないし、十年後かも知れない。
けれどたとえそれが百年後であっても、千年後でも。
いつまで寝てやがるんだ、バカヤロー。
その言葉で彼を叩き起こすのは自分なのだと知っている。
彼に会いに行く準備は、まだ整っていない。
国旗と艦旗の降下が完了した。止まっていた時間が動き出す。
深町は右手を降ろした。もうその目は海の向こうを見ていない。いつでも現実を見据え現状を正確に把握し、それらと真正面から向き合うことの出来る双眸は、己が踏み締めて行くべき道だけを映している。
茜色に染まる雲を背に静かに佇む艦に向かい、深町は再び力強く歩きはじめた。
2001.12.09 終/2022.01.22 微修正
近い将来確実な死が訪れる、それが脳死というものなのだそうだ。目覚めないまま生き続けるということはないらしい。だからこの話は絶対にあり得ない。現実には起こり得ないことを将来の希望にした、夢物語ということになる。
解っているんだけど。彼が死ぬという場面も、作品内の描写として考えない訳ではないけれど。
でもそういった話は多くの沈艦サイトさんで既に堪能させて頂いたので、ウチでは書くまい、と誓おうかな、と思ったりもする。
解っているんだけど。彼が死ぬという場面も、作品内の描写として考えない訳ではないけれど。
でもそういった話は多くの沈艦サイトさんで既に堪能させて頂いたので、ウチでは書くまい、と誓おうかな、と思ったりもする。