洋介が風邪をひいた。
国体が終わったのが3日前。これからしばらくの間、野球部には大きな試合や行事がない。それで少し気が弛んだのかも知れない。洋介の基礎体力には目を見張るものがあって、本来はちょっとやそっとの無茶で身体を壊すことなんかないのだ。自分でもそのことに自信があるのか、洋介は大切な試合の前日にでさえ平気で徹夜してしまう。勿論こういうときにはそれ相応の理由があって、対戦相手のデータの見直しをしていて気が付いたら朝だった、というのが一番多いパターンなんだけど。
洋介の風邪は鼻風邪だった。だから一見風邪とは判らないのだが、口を開くと確かに鼻声になっている。熱咳共にない。喉にも違和感はないらしい。鼻詰まりだけだということだけど、実は風邪の症状の中でこいつが一番厄介だろう。
酸欠のせいで頭がぼーっとしているのか、洋介は何をするでもなく畳の上に転がっていた。寒いと言って押し入れから毛布を出し、それにくるまっている。蓑虫みたいだ。
「てっ」
小さな声がして振り向くと、洋介が指で唇を押さえていた。口で呼吸(いき)をするせいで乾き勝ちな唇が切れてしまったらしい。
「あーあ、またやっちまった」
唇から離した指についた血を見、洋介は切れてしまった唇を湿すように舌で舐める。
なんということもない仕草だが、俺は簡単に心拍数を上げられてしまう。
そういえば。
俺はあるものの存在を思い出し、読みかけの野球雑誌を置いて立ち上がると自分の机の引き出しを漁った。
あった。
俺が探し出したのは、小さな円柱形の容器に入ったリップクリームだ。
それは、以前一日デートに付き合っただけの同級生の女がくれたものだった。そいつはキスするのに荒れた唇は嫌なのだと言っていた。よく覚えていないけど、多分そのときの俺の唇が荒れてでもいたのだろう。
俺がその容器を手に近付くと、『リップクリーム』の文字を読んだらしい洋介が、
「なんでそんなモン持ってんだ」
と、不思議そうな顔をした。男が当たり前に常備している物ではないからだろう。
「女に貰った」
本当のことを言ってみた。
「ふ~ん」
気にして欲しいのに。
洋介には少しも心動かされた様子がない。
有り難く使わせてもらう。そう言って毛布の中から伸びて来た洋介の手を、俺は掴んでぐいと引き寄せた。
「う、わっ!?」
引力に従って倒れ込んで来る身体を抱きとめて、
「塗ってやる」
親切でそう言ってやったのに、自分で出来るからいいと拒否されてしまった。それを聞き入れず強引に顎を捕らえたら、条件反射なのか洋介が目を閉じた。
小さな容器の蓋を開け中身を指先に取り、洋介のふっくらと厚みのある唇に塗り付ける。
塗り終えて指を離す。艶めいたそれに思わず喉が鳴った。
「わーっ!」
いきなり盛るなッ!
不意を突かれた洋介は、あっさりと俺に組み敷かれた。
唇で触れた洋介のそれは薬品の変な味がした。
洋介は俺の口接けを受けたまましばらく無言でもがいていたけど、観念したのか途中から大人しくなった。と、思った途端、どん! と強く背中を叩かれる。あまりに激しく殴りつけられたから堪らず解放してやると、洋介は顔中を真っ赤にして涙目で俺を睨み上げていた。
「なんだよ」
「なんだよ、じゃねェ! 窒息させる気か!?」
「あ」
喚かれて初めて思い出した。
「いま俺鼻で息出来ねんだって! それに⋯⋯」
洋介は苦しそうに大きく口で息を吐いた。そして赤い顔のまま視線を逸らし、
「感染する(うつる)だろ、バカ」
ぼそっとそんなことを言う。
なんだ、俺のこと気にしてくれてたんだ?
「バカは洋介だろ」
嬉しくてつい笑みがこぼれてしまう。洋介には思いきり不審な顔をされてしまったけど、頬の弛(ゆる)みは抑えられない。
「風邪は空気感染だぞ」
俺達は同室なんだ。感染するならとっくに感染してるよ、洋介。
改めて唇に触れようとしたら、洋介はなんとも形容し難い表情で大きな溜息をついた。
一見、諦めたように見えるそれ。
だけど俺は知ってる。洋介は諦めるということを知らない。絶対に諦めるなんてしない。
だからこういう貌をしているときの洋介は呆れているのだ。俺には解る。
「感染っても知らんからな」
「構わんよ」
洋介の風邪なら。
「何が構わんよ、だ。俺は構うんだよ! ヤだぞ、カゼひいたおまえの面倒見んの」
病気するとおまえ、いつもに増してワガママ大王になるんだから。
そんな心外な台詞を言ったのと同じ唇で、口塞ぐなよ、と何でもないことのように釘を刺し、洋介は差し伸べた俺の手に素直に指を絡めて来る。
塞ぐなと言われたので、代わりに舌先で舐めてみた。
くすぐったい、と洋介が首を竦めて笑う。その洋介のジャージのジッパーに手を掛けながら、
――後でまた塗ってやんなきゃな。
俺はそんなことを思っていた。
洋介の心配をよそに、その冬、俺はついに一度も風邪をひかなかった。
2001.12.25 終