『お休みなさい、良い夢を』


 静かな寝息が聞こえる。難しい顔をして考え込んでいたはずの洋介は、いつのまにか眠ってしまったようだった。

「おい、そのまま寝るなよ」
「⋯⋯⋯⋯」
「いつも俺に肩冷やすなとかうるさく言うのお前だろ」
「⋯⋯⋯⋯」

 ぴくりともしない。反応の無さに呆れながら、俺はその無防備な寝顔を覗き込んでいた。洋介はいつも相手をまっすぐに見る。明るい、素直な目で、相手のすべてを受け止めるかのように。今、その目は閉じられていて、俺を映してはいない。それが嫌で、俺は乱暴にその体を揺すった。

「洋介っ」
「⋯⋯⋯なんだよ」
「なんだよ、じゃない。そのまま寝る気か」
「ん⋯⋯寝る⋯⋯」
「寝ぼけてんなよ」

 洋介はなんだかいつもと違っていた。だいたいこういう世話を焼くのは洋介の専売特許な筈だ。だらしのないことも嫌う。気がついた時点でちゃんとしようとするのが洋介だ。
 なのに、ぼんやりと俺を見上げたまま動こうともしない。放って置けば、本当にそのまま眠ってしまうだろう。

 ここ何日か、あまり眠れていなかったのかもしれない。こいつの願いも、迷いも知っていた。そして、俺はお前なら正しい答えを見つけだすことも知っている。

「ったく。布団ぐらい敷いてやるけどな」
 聞いているのか、いないのか、そのまま閉じられた目蓋に、俺は軽く口付け、立ち上がった。

 押し入れの襖を開けてから、俺はチラリと背後を振り返った。洋介がどんな反応を見せているか、様子を窺うつもりで。だけど洋介は、俺が触れたときと全く同じ姿勢のまま、本格的に眠入ってしまったようだった。
 俺の唇には気付かなかったんだろうか。




 俺が寮で初めて洋介と同室になったのは高1の3学期が最初だった。野球部寮では学期ごとに部屋替えがあり、その都度同室になる相手も変わるのだ。その頃からしょっちゅう、俺はふざけた振りをして今みたいに洋介に触れていた。最初はそれこそ飛び上がらんばかりに驚き、真っ赤になって俺の目を楽しませてくれていた洋介も、この頃では、またいつもの悪ふざけだと呆れ顔を見せるのがせいぜいで以前のような際立った反応は見せてくれない。
 本当は俺がどんなふうに洋介に触れたいと思っているのかなんて、こいつには想像もできないんだろう。
 俺は頭をひとつ振って、押し入れに向き直った。

 洋介の布団をまず敷き、ちょっと強引に、畳の上を転がして洋介の身体をその上へ移動させる。何やら呻いてはいたようだけど、結局最後まで目を覚ますことなく、洋介は布団の上で丸くなった。眠りに落ちた身には少し肌寒いのかも知れない。
 掛け布団を掛けてやったら、ほっとしたのか縮こまらせていた四肢を解(と)いて、洋介はころんと寝返りを打った。俺の方へ向けられた寝顔は、だけど少し険しく見える。

 洋介は、自分の捕手としての実力が正当に評価されていないことを悔しがっていた。口に出しては何も言わなかったけど、同じ時間を長く過ごしてきた俺には、ときどき洋介の隠し切れない苛立ちが、その表情や言動から透けて見えた。
 高校生捕手が正当な評価を受けるのは難しいことなんだ。それは洋介も解っているんだろうけど。

 高校野球は監督次第だ、とよく言われる。選手の実力にあまり差の生じない高校野球の場合、あとは監督の采配次第で勝敗が決まることが多いからだ。特に攻撃の時は一球ごとにベンチからバッターへサインが出、試合の流れが監督の指示によって決められる。国分寺南も、それは例外じゃなかった。でも守備のときは違ってた。ここぞというピンチのときにはベンチから指示が飛んだけど、それ以外はほぼ全てが俺達バッテリーに――とりわけ洋介に――その判断が任されていた。それだけ捕手としての洋介は監督の信頼が厚く、チームメイト全員からは主将として、全幅の、と言ってもいいくらいの信頼を寄せられていたんだ。
 そして洋介は、それを重荷に思うような器の小さな奴じゃなかったし、またそれを鼻にかけ奢るような矮小な人間でもなかった。

 だけど高校野球にそういった特質がある以上、守備に回ったときにこそその実力が際立つ投手はともかく、それ以外の野手は当然守備よりも打撃の実力で注目され勝ちだ。それでも洋介はバッターとしてだけの評価を嫌っていた。バッターとしての実力も含め、捕手として評価されたがっていた。こいつにとって、捕手というポジションは絶対に譲れない立ち位置なのだ。
 俺が投手であることを譲れないのと同じで。


 それにしたって。
「見る目ないよな」
 俺は思わず洋介の寝顔に向かって話し掛けていた。
 これは俺の本心だ。洋介の何をどう判断したら、ドラフト3位なんて順位になるんだろう。チームの選手強化事情が絡むことを考慮したって、12球団中1チームも2位以上で指名しないなんて。スカウトマンたちはどこに目をつけてるんだ?節穴なのかな。

 洋介の夢を俺は知っていた。
「俺とどこまで一緒に行けるか試したいんだよな、お前は」
 だけどさっきの俺の一言で、洋介にはもう解った筈だ。俺が洋介と同じ球団に入団する意志を持たないってこと。数日後に控えたイーグルスのスカウト部長との面談で、俺が他球団を逆指名しても、きっとこいつだけは驚かないだろう。

「俺は強いチームに興味がないんだ」
 投手として、強い選手と対戦したいという気持ちはあるけど、同じチームで揉まれることに意味はない。だけど捕手であり強打者でもある洋介にとっては、いい投手が揃い、打線のしっかりした球団の、その中にいることの方が得るものは大きい筈だ。

「俺はメッツに行くよ」
 いつまでも洋介のサインに頼ってちゃ駄目だから。
 洋介、お前のその実力のすべてを発揮させられるような、今以上の力をお前から引き出してやれるような、すごいピッチャーになってやるよ。そうして今度は俺がお前をリードしてやる。

 洋介の枕元に胡座をかいていた俺は、掛け布団の隙間から差し入れた手で洋介の手を探り当て、それをそっと握ってみた。洋介の手は、大きくて皮が厚くごつごつしている。
 中学で初めて洋介とバッテリーを組んだとき、俺の豪速球を70球受けたこいつの左手は真っ赤になって腫れ上がった。最後の方は、ほとんど握力も働いていなかった筈だ。
 50球を過ぎた頃には激しい痛みを覚え始め、更に10球受けたあたりからはもう感覚もなくなりかけていたのだろうに、洋介は練習開始時に決められた70球を俺が投げ切るまで音も上げず、70球すべてをミットに納めてみせた。
 意地っ張りな洋介は、一度も痛いと言わなかった。
 翌日には、左手では鞄ひとつ持てないくらいだったのに。

 あの日から6年。そんな洋介も、今では100球を超える俺の球を毎日受けて、平然としている。
 たぶんこの無骨な手触りの半分くらいは、この6年間の間に俺が洋介に与えたものなんだろう。
 そうやってじっと洋介の手の感触を確かめているうちに、俺は胸の奥から沸き起こるざわつきを堪えられなくなっていた。我慢できず、もそもそと洋介の布団の中へ潜り込む。
 洋介の存在がもたらすこのざわつきは、洋介の存在によってでしか鎮められないのだ。
 ひとり用の布団はさすがにちょっと狭かったけど、今更起き出して自分のを敷くのも面倒だ。布団からはみ出さないよう、俺は洋介と身体を密着させた。
 先に眠入ってしまっていた洋介の体温は高く、まるで人間湯たんぽだった。腕に抱くと心地よくて、じきに俺も眠くなる。

 卒業したら、もうこんなふうに洋介に触れる機会は滅多になくなるのだろうし、独り占めすることも出来なくなるんだろう。
 だから今の内に思う存分触れておこう。

 たぶん洋介は怒らない。朝になって同じ布団で寝ている俺を見つけたら、なに子供みたいなことしてんだよ、ホントに面倒臭がり屋だな、って、きっと呆れて笑うんだ。


 胸元をくすぐる洋介の寝息を数えながら、俺は意識を夢の中へと手放した。



2001.10.10 終 



 またしても! 合作して下さった akiさん感謝です~v
 以下、akiさんに送ったメールより。

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 本当の一樹は、akiさんのおっしゃるように、
 蹴り飛ばしてでも洋介を起こすくらいのキチク(笑)で、更には
 自分の布団まで洋介に敷かせる亭主関白だと思います(苦笑)
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 ⋯⋯夢くらい見させてくれよう!! うわ~ん(泣)(2001.11.12 記)