『一生言わない』


 正直に言って俺はただ呆然としていた。しばらくして思ったのは、汗やらなにやらで濡れた体が気持ち悪くてどうにかしたいというものだった。言葉なんて思いつかなかった。


 仰向けに寝転がったまま、窓辺に座り込んでいるやつへと視線を流す。よく知っている見なれた涼しげな顔がそこにあった。無性に腹が立つかと思っていたのに、その表情を捕らえても、俺はなんだか怒る気にはならなかった。


 一樹はそういう奴なのだ。何を言ってもどうにもならない。もう最初に殴っていたから、あいつの顔は少し腫れている。これ以上殴ったところで、反省なんてするやつじゃないのだ。それぐらいなら、初めからこんなことを俺にしないだろう。


「っ⋯⋯⋯」とにかく汗を拭きたかったから、体を起こすと嫌な痛みがあった。シーツも汚れている。煩わしさに目眩がした。くしゃっと勢いよくそれを丸めて、一樹に投げ付けてから、ぶわっと涙が溢れて俺は慌てて目を擦った。


「洋介、泣くなよ」
「⋯⋯⋯うるさいっ、触るなっ、誰が泣くかっ、こんなことでっ」好き放題して置いて、今更泣くなも何もあるもんか。
「洋介、好きなんだ」そういうことは最初に言え、馬鹿。それにそんなことは知っている。知っていたけど、だからっていきなりこれはないだろう。


 いつだって一樹はそうなんだ。俺の気持ちなんか考えちゃいない。いや、俺のだけじゃないな。こいつは誰のことも考えちゃいないんだ、ひとのことは。そしてそれは野球をしている時、もっとも如実に現れる。俺がチームの勝利だけを思って一生懸命研究し、考え、そうやって組み立てた配球を、こいつはあっさり無視するんだ。あの時だってそうだった。今年の夏の⋯⋯最後の甲子園――。
「⋯⋯⋯⋯」
 ああ、嫌なことまで思い出しちまったじゃねえか。一樹の馬鹿!


 俺は、ぐい、と強く目元を擦って涙を拭った。心配そうというより困ったような貌をしている一樹とは目を合わせずに、痛みを訴える身体を叱咤して起き上がる。寮の風呂は時間外には使えないから、今部屋でできるだけのことをして、畳の上に散らばっていた、一樹に脱がされたジャージを着直した。そうして、さっき一樹に向かって投げ付けたシーツを拾い上げ、部屋の隅に置いてある自分の洗濯篭にそれを押し込み、ほかの汚れものと一緒に洗うつもりで外へ出た。普段ならここで一樹に一言声をかけて、あいつの洗濯物を一緒に洗ってやることもあるんだけど、今日はとてもそんな気分になれない。


 部屋のドアは閉まったのに、まだ一樹の視線が俺の背を見つめているような気がした。







 洗い場には4台の洗濯機がある。一番奥の洗濯機は蓋が壊れていて、それごと取れてしまう。俺はその洗濯機の前まで行って洗濯篭の中身を空け、いつもならちゃんと溶かす粉末洗剤を、今日ばかりは溶くのが面倒で、スプーンに一杯、粉のまま無造作に放り込み、スタートボタンを押した。ドバドバと派手な音を上げながら、水が溜まっていく。


「なんでお前はいつもそうなんだよ」
 自分以外誰もいない洗い場で、俺は声に出して一樹を罵った。
「ひとの気も知らないで!」
 俺だってなあ、お前のことは好きだったんだよっ。
 一樹と初めてバッテリーを組んだときから、こいつの球は俺が受けるんだ、って思ってた。こいつの球を受けていいのは俺だけなんだ、って。出会ったときから、俺は一樹のことをすごいピッチャーだと思っていて、その一樹とバッテリーが組める、それが嬉しかったんだ。その頃から、俺はずっとあいつが好きだった。我侭な投球をするあいつに信頼される、一番のキャッチャーになれたらいいと思っていた。

 さっき、不覚にもあいつの前で涙を見せてしまった理由が、もう俺には解っていた。
悔しかったんだ。自分の気持ちを無視されたことが。あいつには、あいつ自身の気持ちだけが大事で、俺の気持ちなんかどうでもいいんじゃないかと思えたから、だから⋯⋯。
 そんなんで好きだなんて言われても、何て答えたらいいんだよ。
 試合で、お前がサインを無視して投げ込んで来る球を、文句を言いながら、それでも今までちゃんと捕球してきたみたいに、お前は俺がお前の気持ちを受け入れると思ってるんだろう?
 俺がどんな答えを持っていても、お前には関係ないんだろう。

 だったら。
「絶対教えてやんねーから」
 俺がお前を好きだってこと。


 水が溜まり切り、ごうんごうんと音をたてて回り始めた洗濯機の、汚れていくその渦を、俺は瞬きもせず睨み付けていた。



2001.10.07 終 



 ありがとうございますっ、akiさん! というお話。akiさんが冒頭部分をFAXで送って下さって、わたくし暴走しました。笑
 実はこのお話には更なる続編がありまして、これもakiさんのお作なんですが、ぜひ御覧になってくださいませ。かわいいんだ、ふたりとも~v
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