『Commemorative gift』


 ――参ったな。
 ひどい有様だ。
 これじゃコートの前は開けられない。





 三月一日。
 今日は牧が通う海南大附属高校の卒業式だった。
 在校生代表の送辞を聞いても総代の答辞を聞いても牧が涙腺を刺激されなかったのは、卒業生の大多数がそのままエスカレーター式に海南大学へ進学するからだ。それでもそれなりの感慨を持って臨んだ卒業式ではあった。
 卒業生は、式が終わると教室で行われる最後のHRのために講堂から校舎へと移動する。
 教室に戻った後、担任のはなむけの言葉を最後に解散し、やはりあまり湿っぽい雰囲気になることもなく、ほとんどのクラスメイト同様、牧も笑顔で教室を出たのだった。





 制服の第二ボタン。
 卒業式となれば必ず話題になるその存在を、牧は数日前から少なからず意識していた。事前に欲しいと仄めかした男がいるせいで。
 だから、もしも彼以外の誰かに欲しいと請われたら、そのときは、悪いけど先約があるからと断る用意はあったのだ。
 しかし、それとて口を利く隙もあればこそ。
 HR後にクラスメイトの女の子から請われたものについては、用意していた言葉でもって丁寧に断りを入れることが出来たのだが。
 同級生数人と共に校舎を出た途端、待ち構えていたのだろう在校生たちの、次々に伸びて来た無遠慮な手にもみくちゃにされ、牧のそれは引きちぎられて、気付けばブレザーのボタンは元より、Yシャツの身ごろについたボタン、果ては袖口のものまでが全滅してしまっていた。
 それはあっという間の出来事で、当然誰がどの服の何番目のボタンを手にしたのかなど牧にはまったく認知できなかった。
 この事態、正直に言えば予測していなかったわけではない。実は卒業式当日におけるボタン争奪戦は毎年恒例の光景で、人気のある部に所属していた三年生は大抵が餌食になるものなのだ。強豪として全国的に名の知れたバスケ部も例に漏れず、在校生の立場として過去二年間、部の先輩達がこの騒動に巻き込まれる様を遠目に眺めて来ていた牧だったが、いざ自分が当事者となってみれば、いくら心構えがあっても恐怖以外の何者でもないとしみじみ感じさせられたのだった。





 自分を取り囲んでいた小型台風が去り、牧はほっと息ついた。ようやく余裕が出来、周囲に目をやれば、式に参列していた父兄や部の後輩らと校舎や正門をバックに記念撮影をする同級生達の姿がある。
 牧の両親は今日この場に来ていなかった。彼らは現在海外赴任中であり、生憎と多忙で帰国が叶わなかったのだ。
 卒業証書と、唯一無事な姿で牧の手元に残されたジッパー式でボタンのない学校指定のコートを手に、牧は部室へと足を向けた。部室では、部の後輩達の手によるささやかな、持ち込んだジュースや菓子を飲み食いしながらただわいわい騒ぐという程度の追い出し会が準備されているのだ。これも、過去に自身が在校生の立場で経験していることなので、牧にも様子はわかっている。





 用意されていた飲食物があらかた片付き、そこかしこで盛り上がっていた話にも一段落ついた頃、じゃあそろそろ、という神の声を契機に追い出し会はお開きになった。
 部屋の片付けを後輩達に任せ、牧たち三年生は外へ出る。
 夕方に向かい陽が陰り始めているとはいえまだ明るさの残る時刻、ボタンのとれたブレザーやシャツを晒したまま校外へ出ることが憚られ、牧は仕方なくコートを羽織り、いつもは閉めないジッパーを襟元までしっかりと上げた。
 それぞれ自宅や寮へと帰るチームメイトたちと正門のところで別れ、三年の月日を過ごした学び舎を後にした牧の足が向かった先は、仙道の住む学生アパートだった。
 卒業式後のもろもろが終わったら部屋に行く、と。先月会った際、仙道と交わした約束を果たすためだ。





「卒業おめでとうございます」
 部屋の中からドアを開けて牧を出迎えた仙道の第一声がこれだった。
 ありがとう、と礼を言う牧に向け、
「待ってましたよ」
 にっこり笑って仙道が手を差し出す。その動きにつられ、牧は持っていた卒業証書の入った筒を彼に渡し、靴を脱いだ。
 陵南高校も今日が卒業式で、仙道は式の後はまっすぐ帰宅し、前(さき)の言葉通り牧の訪れを待っていたのだった。
 仙道に促されるまま部屋へ上がり、いつものようにコートを脱ごうとしてジッパーにかかった牧の手が、次の瞬間ためらいをみせる。
「仙道」
 この場にふさわしくない、思い詰めたふうにも聞こえる声音が仙道を呼んだ。
「はい?」
「⋯⋯何を見ても笑うなよ?」
「?」
 無駄かもしれない釘を一応刺して、牧は観念したように一息にジッパーを下ろすとコートを脱いだ。
「⋯⋯!」
 仙道は笑いはしなかった。ただ、驚愕が彼を瞠目させている。
「こりゃまたなんというか⋯⋯」
 すごいことになってますね、と言葉を続け、受け取ったコートをハンガーにかけて壁に吊る一連の動作は無意識の条件反射だ。
「ボタン、おまえ欲しいって言ってたのにな」
 残せなくて悪かった、と牧は素直に謝った。
「欲しかったのはほんとですけどね。でもいいですよ、そんな格好見ちゃったら⋯⋯」
 牧にはどうしようもなかったのだろうことくらい、嫌でも一目で判ってしまう。ただのひとつもボタンと名のつくものが上着に残っていないのだから。
 ――それにしても。
 と、仙道は、牧が危惧したのとは違う理由で口元をゆるめた。
 部屋へ来る前に着替えようという発想がないところが牧らしい、と。
 意図したわけではないのだろうに、卒業証書さえそのままに『卒業』の匂いをまといつかせてこの部屋を訪れた彼の姿が仙道にはひどく新鮮で、好ましいものに思えた。
 無理は承知で、卒業式に臨む牧の姿を見てみたいと思っていて、だから、その雰囲気をそのままこの部屋まで運んで来てくれたことが素直に嬉しく、そして少し面映い。
「代わりと言っちゃなんだがな」
 仙道が今どんな気持ちで自分の姿を見ているのかになど思い至りもしていないマイペースな男は、おもむろにブレザーのポケットへ手を突っ込んで、そこから何かを取り出した。
「これ、貰ってくれないか」
 仙道に向けて差し出された、ブレザーの生地と似通った色のそれは制服のネクタイ。
「いいんですか」
「いいもなにも⋯⋯」
 むしろこんなものしかなくて申し訳ないと思っているくらいなのだが。
 制服のボタンには、第二ボタン以外にも、それぞれに意味があるらしい。クラスの女の子がそんなことを言っていた記憶が牧にはある。だが、ネクタイには、おそらくそういうたぐいの意味はないだろう。だから、これを渡されることに仙道がどんな意味を見い出すのか、もしくは何の意味も見い出さないか、それは牧にはわからない。
 ただ、今日という日の記念にはなるんじゃないか、と、そう考えたまでで。
 ――そんなものでも、お前にとって何かしら意味を持つ存在になるのなら。
「じゃあ、ありがたく」
 いただきますね。
 答えて受け取る仙道のその表情を目に留めて、牧はフッと肩の力を抜いた。





「ね、牧さん」
「ん?」
「俺、もうひとつ、今日の記念に欲しいものがあるんですけど」
 仙道は貰ったばかりのネクタイを丁寧に折り畳んで低卓の上に置き、ベッドに並んで腰掛けていた牧へと改めて向き直る。
 何が欲しいのかを問うよりも早く、自分に向かって伸ばされた仙道の腕の意味に気付き、避けることも振り払うこともせず大人しくそれに捕われてやると、
「ボタンが一個も残ってないから⋯⋯」
 脱がせ易くていいですね、などと臆面なく言い放つ男の口を、牧は自ら塞ぐことにしたのだった。



2008.03.23 終 



・捏造設定炸裂。
・牧の両親は海外赴任、それで牧は寮住まい――と言うのがこのシリーズ(SaBシリーズ)の前提です。