そんなもの
欲しいと望むのも 呉れてやりたいと願うのも
今はもう ひとりの男しか思い浮かばないのに
そんなのは、漫画の中だけのことだと思ってた。
個人的な朝練のために部室へ直行していた俺は、HR(ホームルーム)開始の十五分前になって校舎へと向かう。上履きに履き替えようと玄関口で靴箱の蓋を開けた途端、ボタボタと擬音を発てて落下したそれらに驚いて、把手に掛けた手をそのままに固まった。見下ろした視線の先、足元に散らばっているのはカラフルな包装紙にくるまれた箱やら袋やら、が、複数個。
靴箱の中に残るラッピングから漂う甘ったるい匂いが鼻先に届き、ようやくその正体に思い至る。
ああ、そうだ。
今日は二月の十四日。
去年も一昨年も、同じような場所で同じような目に遭ったのに、一年経てばすっかり忘れ去ってしまう己の記憶力にほとほと呆れる。
それにしたって、靴箱の中に食べ物を入れて平気な神経は、俺にはいささか理解し兼ねるんだけどな。
落とした目線の行き着く所、爪先付近に転がる暖色の包装紙の群れ。
こんな光景は漫画の中だけのものだと思っていた。
ここ数日、妙に教室の雰囲気が浮き立っているように感じていたのだが、それも俺の気のせいではなかったらしい。
落ちたチョコをそのままにしておくことは出来ず、かと言ってもう一度靴箱に戻すというわけにもいかず、仕方なく靴箱の中のもの共々それらを腕に抱えて教室へ移動するハメになった。
何の罰ゲームなんだろうな、この恥ずかしい格好は。見世物じゃないんだが。
おまけに教室に着けば着いたで机の中にも上にも溢れんばかりの⋯⋯。
「⋯⋯」
目に飛び込んで来たその光景に、俺は思わず腕に抱えていた分を取り落としてしまうところだった。四方八方から突き刺さるクラスメイトたちの好奇心いっぱいの視線が、俺の一挙手一投足に注がれていることに気付かなければ、きっと体面を取り繕えなかっただろう。
それにしたって。
ああもう、どうすればいいんだ、こんなにたくさん!
一昨年よりも去年よりも、間違いなく増えてる⋯⋯。
紙袋かダンボール箱か、とにかく容れ物を調達しないことには、これはどうにもならんな。
「牧さん!」
知らずうなだれそうになっていたところで廊下から俺を呼ばわる声。顔を上げ振り向くと、神と信長とが連れ立って手招きしていた。
「こんなことだろうと思ったんですよね」
にこにこといつもの掴みどころのない笑みを浮かべて神が差し出したのは、つい今し方、欲しいと思っていた紙袋。
「今日がバレンタインデーだなんて全然気付いてなかったんでしょう?」
ご明察。
その通りなので反論も出やしない。
これ使ってください、そう言って大判の紙袋を3枚も押しつけ、用は済んだとばかりに自分たちの教室へそれぞれ戻って行く後輩二人の後姿を、俺は半ば拝みたいような気持ちで見送った。持つべきものは出来た後輩。きっとこういうのを先輩冥利に尽きるっていうんだな、うん。
センター試験からひと月が経ち、この時期、外部入試に臨む連中はともかく、エスカレーター式に海南大へ進む三年生に授業らしい授業はない。俺はそのエスカレーター組の方なので、朝のHRを終えてしまえば後は自習時間、それも午前中だけで終わってしまう。
昼休み、チョコで満杯になった紙袋三つを提げて俺はいったん寮の自室に戻った。あの後、直接手渡しに来た同級生やら下級生やらから貰った分が更に増えて、結局すべての紙袋をいっぱいにしてしまったのだ。
最初は断るつもりだったのだが、一番最初に手渡しに来た子の、その付き添いにこう言われた。本人が関知していないところで勝手に贈られたチョコを――それが本意ではないにしろ――受け取っておいて、直接渡しに来たものを断るというのは理不尽じゃないか、と。
そう突き付けられてしまえば無下にも出来ず、気持ちは受け取れないがそれでも構わないのなら、と言わでもの一言を過不足なく付け加えた上で、それらを紙袋に収納(おさ)めることになったのだった。
ほんとうは
欲しいと望むのも 呉れてやりたいと願うのも
今はもう ひとりの男しか思い浮かばないのだけど
放課後の部活に、引退した身なので自主トレの名目で顔を出した後、更に三十分ほど時間を潰し、俺はテレカを持って校外へ出た。携帯電話が普及したおかげで設置台数の減ってしまった緑の公衆電話から、一人暮らしをしているあいつの部屋に電話を入れる。
携帯は校則で禁止されていて、いまはまだ持つことができない。寮生にとっては不便なことこの上ない話だが、こればかりは仕方なかった。元部員の校則違反が理由で部活に迷惑がかかる可能性もある。それを思えば、大人しく従っておくしかないだろう。
だが、こんな不便も後ひと月半ほどの辛抱なんだと思うと、それはそれでなんだか複雑な心持ちがする。
電話の相手との短い遣り取りで部屋への訪問の約束をとりつけ、凡その到着時間を知らせて受話器をフックに戻した。吐き出されたカードを財布に仕舞い、その足で駅へ向かう。
電車を一回乗り換えて最寄り駅で下車する頃には、陽は完全に暮れ落ちて、あたりはすっかり夜の様相を呈していた。
部屋までの道程にあるコンビニで買い物をし、辿り着いた部屋の前、インターホンを押すより早く内側からドアが開く。
「牧さん、いらっしゃい」
足音でわかりましたよ、とスウェット姿の仙道が笑って俺を出迎えた。
「犬みたいなヤツだな」
おじゃまします、と一言告げて靴を脱ぐ。
「外、寒かったでしょう。なんか飲みますか」
先に奥へ引き上げる部屋着姿の男の背に、あたたかい物ならなんでもいいと応じながら、マフラーをほどきコートのボタンに手を掛けた。
板間の廊下のような狭いキッチンに立って湯を沸かし始めた仙道をその場に残し、俺は六畳一間の洋間に入ると壁際に寄せてあるベッドに腰を落ち着けた。ここがこの部屋における俺の定位置だ。
1Kの学生用アパートである仙道の部屋を俺が訪れるようになってから迎える初めての冬。
最初にこの部屋に来たのは去年の夏だから、あれからまだ半年ほどしか経っていないし、互いに予定のない週末に託(かこつ)けるのが常、それも外で会う場合があるので、回数をかぞえればそれほど頻繁でもない。なのに、俺はここに居ると、もうずいぶん昔からこの場所を知っていて馴染んでいるようなひどく寛いだ気分になる。そうしていつも、体中から不必要な物すべてが溶け出して行く、不思議な感覚を味わう。それは、ここに自分の居場所が用意されていると感じるせいだ。そういう空間を、部屋主である仙道が意識して誂(あつら)え、迎え入れてくれているのだ。
つまり仙道が、ここに俺が存在することを当然のことのように思っている、そうだからこそ、この部屋は俺の居場所、居てもいい場所、になる。
ほどなくして、インスタントのコーヒーを手に、ガラス戸一枚を隔てたキッチンから仙道が部屋へ入って来た。差し出すカップをひとつ、礼を言って受け取り、かわりに、
「これ」
暖房で溶けてしまう前に、とコンビニの袋から取り出したものを差し出す。
「⋯⋯チョコ、ですね?」
剥き出しだから見間違いようもない、有名な菓子メーカーのロゴが入った板チョコ。
「一応、な。今日はそういう日らしいし」
さすがに男の身で、ラッピングされリボンで飾りたてられた商品に手を出す勇気はなかったのだ。だからこれで勘弁して欲しい。
板チョコを受け取った仙道は、自分が持っていたカップを部屋の真ん中に置かれたテーブルの上に置き、俺の隣に腰を下ろした。
「俺ね、牧さんのそういうシンプルな考え方、大好きですよ」
「俺はおまえのそういうストレートな反応が気に入ってる」
臆面なく言い合って、顔を見合わせ笑い合う。
「けど参ったなあ、俺も何か用意しとけば良かった。今日は会えると思ってなかったから⋯⋯」
ああ、そうか、だから今日は平日なのに来てくれたんだ、と仙道が呟くのが耳に入った。
寮に外泊届けが出せるのは通常週末のみ。特別な理由がなければ外泊届けの受理されない平日には、ここを訪れることのない俺を仙道は知っている。
会えないでいた間の互いの近況などをしばらく報告し合った後、
「おまえも今日はたくさん貰ったんだろ。どこに置いてあるんだ?」
俺は部屋を見回しながら気になったことを訊いてみた。室内の目につく場所にはそれらしい物の影がない。
「“も”ってことは牧さんも貰ったんですね」
察しのいい仙道はおどけて笑い、
「俺の分は部室に置いて来ました」
聞けば、陵南のバスケ部の部員の中に記者をしている姉をもつ後輩がいて、彼の姉のつてで、施設などへ分配して貰うということだった。
「いいな、それ」
「なんなら牧さんの分も引き受けましょうか」
仙道が請け負うと言ってくれるので、少し考えて、結局その厚意に甘えることにした。添えられているだろう手紙やカードのたぐいは避(よ)けて、チョコ本体だけ預けてしまおう。捨てるなんて勿体無いことはできないし、かと言って、全部食べるのは想像するだに胸焼けがしそうだ。
「今年は全部断るつもりでいたんだけどな」
「どうせカバンに勝手に入れられてたりしたんでしょう?」
「まあ似たようなもんだ」
それじゃあ断り切れませんよねえ、訳知り顔で仙道は頷いている。この男のことだから、おそらく身に覚えもあるのだろう。
バレンタインだから、を免罪符に、好意を押し付けることをためらわない、その、剥き出しの熱意――あからさまに欲望と言い換えてもいい――に晒される側の、本能的に感じる慄きに、彼女たちの考えが及ぶことはないのだろうか。
「これ、いま食べてもいいですか」
俺が渡した板チョコを目の前で振って見せるので、
「いいぞ。もうおまえのもんだし」
いちいち許可なんか取らなくたって構わないのに、この男は妙なところで律儀だ。
「じゃ、遠慮なく」
過ぎた甘さを嫌う仙道の味覚を慮ってビターを選んだのだが、特にチョコレートが好物という訳でなし、果たして口に合うだろうか。
ビリビリと外側の焦げ茶色の紙を破き、そこから覗く銀色のアルミも剥きながら、
「お約束ですけど味見してみます?」
いたずらっぽい笑みを浮かべて仙道が小首を傾げる。
味見もなにも、既製品なんだから、とは思ったが、遣りたいようにさせてみるのも悪くないな、と頷いてやった。
「じゃあ」
パリンと小気味良い音がして、仙道の口に銜えられた一欠けのチョコレート。
どうぞ、と寄せられる顔。
期待に満ち満ちた眼差し。
やっぱりそう来るんだな。
ここは茶化したりせず、面白がって乗せられておくべきなんだろう。
チョコが体温にあたためられて溶け出してしまう前に、と、
「いただきます」
目の前の男の首に腕を巻き付けて、俺はカカオの苦みと仙道の舌の甘さを堪能することにしたのだった。
なにもかも
欲しいと望むのも 呉れてやりたいと願うのも
今はもう ただひとり この男しか思い浮かばないのだから
2008.02.16 終
・ナチュラルにLovers。
・幸福シリーズとは別世界――なので、牧の進路も海南大エスカレーターコースです。高校生同士、既に出来上がっている設定で。
・幸福シリーズとは別世界――なので、牧の進路も海南大エスカレーターコースです。高校生同士、既に出来上がっている設定で。