大学も新年度を迎えて3週間。新入生の入学式からも10日が過ぎた。それは、研究室単位での新入生と在学生との対面式が済んで、新しい履修届けも提出し終わり、2回生以上の学生にとって、普段の大学生活が戻って来たと感じられる頃だ。研究室や部活に新入生が加入して、その歓迎コンパが企画されていることが、唯一春らしい行事と言えるかも知れない。
「仙道、履修届の確認には行ったのか」
「行きましたよー。問題ナシでした。アレ、牧さんに書き方教えて貰おうと思ってたんですけど、なんか今年からカリキュラム変わっちゃったらしいですね。必要単位数も違うんでしょう?」
「毎年少しずつ違ってるみたいだからな。俺らと1コ上の先輩たちともまた違うし」
そうなんだー、と相槌を打つ仙道は、ストレッチをする俺の補助として背中を押してくれている。
大学の最終授業時間にあたる5コマ目が終わり、俺たちは体育館で部活動前の準備運動をしているところだ。
俺の後輩になると宣言して同じ大学を一般入試枠で受験した仙道は、学部だけでなく学科も専攻も俺と同じにしていて、一般に体育研究室と呼ばれるところの所属になっていた。だが学年が違うため、一般教養(ぱんきょう)の授業が中心になる1回生の仙道と、専門と一般教養が半々の割合で入ってくる2回生の俺とでは、同じ授業に出ることは稀だ。そのくせ仙道は、この広い学内で俺の姿を探し出し、時間さえあればどこへでもくっついて回っていた。昼食は言うに及ばず、下手をすると自分が履修していない――ひどい時には1回生にはまだ履修資格すらない――授業にまで出席し、何喰わぬ顔で俺のとなりに座っていたりする。⋯⋯まったく信じられないヤツだ。
「仙道、おまえな、あんまり俺とべったりじゃ良くないんじゃないか?」
コイツのことだから、1回生とも上手くやってるんだろうとは思いつつ、ついつい俺はいらぬ世話というのを焼いてしまう。
「なんでですかー?」
上体を眼界まで倒した俺の背中の上から、間延びした声が降って来た。
「⋯⋯おまえ1回生なんだしさ、1回生の連中から疎外されたりしないか? 浮いたりしたらマズイだろ、なにかと」
同じ授業を履修している連中とうまくやっていないと、特に俺たちのように大会や試合で公欠しなければならない学生は、あとあと困ることになる。レポートの情報だとか欠席した授業のノートだとか試験のポイントだとか、気兼ねなく頼める友達は必要不可欠な存在なのだ。
「もー、牧さんってば心配性! そんなんだとそのうちハゲますよ」
「ハ⋯⋯ハゲ!?」
ストレッチの途中だというのに、俺は思わず勢いよく身体を起こし、腰を捻って背後を振り返ってしまった。
「あ、でも俺のこと心配してくれてたんだ? うっれしっいなあ~っ」
ふやけた笑顔でなにやら寝言を言っている男に、俺は眉をしかめて言い放つ。
「バカなこと言ってんなっ。うっとうしいから言ってんだろ!」
「牧さんさあ、自覚してます? 俺と牧さんは付き合ってるんでしょ? べったりしてたって普通だよ」
「そういうことを言うなって!」
「照れちゃってさー、かっわいいのーっ」
「うるさいッ」
どうしてこう、このバカは⋯⋯っ。場所もわきまえずこういう恥ずかしいことを言うかな!
「なんだあ? 楽しそうだなあ、おまえら~」
そこへ、俺たちふたりが騒いでいるのに気付いたのだろう先輩のひとりが、ゆっくりと近付いてきた。
――ギクッ。
仙道のバカのお陰で俺はことあるごとに寿命が縮んでいく気がする。ハゲるより死ぬ方が先なんじゃないだろうか。
が、そんな心中の動揺を隠して、さりげなさを装いストレッチを再開した俺を、仙道は何事もなかったかのように補助している。
傍らに立った先輩は、何を思ったのかこんなことを口走った。
「お前らホンットに仲いいよな」
上体を俯せにしているせいで顔を上げられない俺が、
「そうですか? 別に普通だと⋯⋯」
思うんですけど、と床に向かって答えかけたその言葉尻に重ねて、
「そりゃそうでしょ、俺たち高校時代に死闘くりひろげた仲なんですから」
語尾にハートマークを飛ばして仙道が茶々を入れる。
「ほざいてろっ」
鳥肌をたてて、思わずふりむきざまそう口走った俺を見て、
「ほーら、な?」
先輩はしたり顔。
「どこがですかー!」
「牧、おまえマジで自覚ないのか」
おっかしーヤツーっ、と文字どおり腹を抱えて笑い転げだす始末。
――失礼な。
とは心の裡でだけ呟いて、それでも俺は不満の表情を隠さず先輩を眺めやった。ようやく笑い止んだ先輩の方はといえば、自信ありげな目付きで俺を見下ろしている。
「だってよ、おまえコイツといるときは全然構えてないだろ。自然体っていうかさ」
コイツ、のところで俺のとなりに座り込んでヘラヘラ笑ってる男を指差して、先輩はそう指摘した。
「⋯⋯⋯⋯」
自覚していないと言えば嘘になる。本当に本当に認めたくないんだけど、認めるのは癪に障るんだけど、俺は仙道といるとき気負うということがない。周囲からこうあるべきだと、こうあって欲しいと期待される自分を演じないでいられる。自分を解放してしまえる。それまではひとりのときの自分にしか許していなかった『等身大の自分に還る』ということを、この男の前でなら――自分ひとりのときでなくても――許すことができた。それは目の逸らしようのない事実なのだ。
それを簡単に認めてしまえない俺は、子供だ。
反論できなくて黙ってしまった俺をどう思ったのか、
「後10分で練習始めるからな」
先輩はそう言い置いて自分のペアのところへと歩き去った。
俺が入学当初から入居している学生アパートの同じ部屋に、この春仙道は正式に引っ越して来た。俺は正直ずいぶん迷ったんだけど最終的には承諾し、そのあと仙道のご両親ともよく相談した上で決定した。金銭面でのことは面倒がないように、専用の通帳を作って生活費などはワリカンにしている。部屋はひとつしかないのだが、さいわいロフト付きだったから就寝スペースには困らなかった。今までも仙道の来なかった日はなかったと言っていいし、ほとんど生活が変わったようには感じない。レポートの締めきり前だとかで、どうしても仙道が煩くてかなわないときは大学の図書館に逃げることを決めていた。
夕食を済ませて俺がワープロでレポートを打っていると、洗い物を片付け終えた仙道が、俺が貸してやったエプロンをはずしながら部屋に入ってきた。
「ねーねー、牧さんピアス空ける気ない?」
「はあ?」
この男が突飛なことを言い出すのは別に今に始まったことじゃない。だけど俺は未だにそれに慣れることができなくて、その度いつも間抜けな声を上げてしまう。
仙道はなおも言い募る。
「片っぽだけでいいからさー」
「なんだそりゃ」
ますます訳が解らん。
「牧さんが空けたら俺も片っぽ空けるからさー、そしたらお揃いでピアスできるじゃん」
「バカなこと言ってんなよ」
――冗談じゃないぞ。
「嫌だからな、俺は」
「⋯⋯俺とお揃いってそんなにヤですか」
「耳に穴空けんのがイヤだって言ってんだ」
「じゃあお揃いはいいんですね?」
妙に『お揃い』のところだけ力を込めて言う仙道に、俺は己の掘った墓穴に気付く。
「⋯⋯⋯⋯」
答える言葉を無くし黙るしかない俺の顔を、仙道がなんとも称し難い表情で覗き込んでいた。
ふだんよく見せる悪ふざけの延長のような笑顔とは少し違う、うまく表現できないんだけど⋯⋯そう、大人びた、というのが一番しっくり来るかもしれない、そんな微笑。ときどき仙道はこんな、俺を落ち着かない気分にさせる表情や仕草をして見せることがある。揶揄われることを覚悟していた俺は、内心少なからず驚きながらぎこちなく視線を逸らす。
そんな俺をどう思っているのかまるで読ませない態度の仙道は、いつもの悪戯な表情に戻ってこう訊いた。
「ゴールドとシルバーどっちが好きですか」
「え?」
「色ですよ、色」
「シ⋯⋯シルバーかな」
「ふ~ん」
意外だなあと仙道は目を丸くする。
「ゴールドの方がらしいのか」
「っていうか、ゴールドってナンバーワンの色でしょう? だから牧さんだったらそう言うかなーと思って」
そっか、シルバーか、と何を納得したのかコクコク頷きながら反芻している仙道を、俺は怪訝な目で眺め遣った。
やっぱりコイツの考えてることは想像がつかない。
このとき仙道が何を考えていたのか俺が知るのは、この日から更に二日後のことになる。
その日、俺は学内で仙道を見かけなかった。確かに一緒に家を出たのだが、1コマ目の授業で別れてから、昼時になっても学食に姿を現さず、俺が仙道に再会(?)したのは部活の時間になってからだ。
「おまえ昼飯ちゃんと喰ったか?」
昼休みに学食に来なかったろう、と休憩中に声をかけたら、
「今日は外で食べてたから」
ということだった。
「もしかして待っててくれたんですか?」
目をキラキラさせて、という表現がピッタリ当てはまってしまいそうな、期待を満面に浮かべた表情で仙道がそんなことを言うから、俺は大袈裟に溜息をついてみせ、
「ばーか」
とだけ答えて練習に戻った。仙道の物足りなさそうな表情なんか知ったこっちゃない。
その日の帰り道、陽も暮れて真っ暗になった夜道をふたり並んで歩いていると、ひときわ明るい街灯の下で仙道仙道が足をとめた。
「ねえ牧さん」
「ん?」
つられて俺も立ち止まる。
「目ェつぶってくれません?」
こんなところで何をする気だと、不審感をあらわに身構える俺を見て、
「変なことしませんから」
――変なコトってなんだ!?
心の中ではそう叫んでいたものの、その神妙な表情を見ているのがなんだか居たたまれなくて、コイツにほだされるとロクなことにならないのだと解っていながら俺は目蓋をおろして仙道の次の行動を待った。
「!?」
左の耳朶に仙道の指が触れる。
「じっとして」
反射的に身を竦ませた俺に、声まで神妙にした仙道が短く命じた。
「な⋯⋯に⋯⋯?」
「いいですよ、目開けて」
おそるおそる目を開けて、自分の手で左耳を探ってみる。
「???」
指先に馴染みのない感触。少し硬い。
「なんだコレ」
「イヤーカフスって言うんです」
そう言って仙道はGジャンのポケットからそれを出して見せてくれた。
「イヤーカフス」
耳なれない響きだったけど、その物体を見たことはあった。
「そういう名前なのか。⋯⋯知らなかったな」
仙道の手のひらに乗っかった小さな銀色の筒状の不完全な輪を右手で摘まみ上げ、俺は街灯のあかりを反射させてみた。そうしてもう一度左の耳に触れてみる。飾りの全くないシンプルなデザインのリングだ。たぶん仙道のポケットの中で温まっていたのだろうその片割れは、確かに右手のそれと同じ金属の触感がするのになぜか不思議なほど冷たくはなかった。
「部屋に戻ってからでも良かったじゃないか」
なにも今こんなところで着けなくても、と俺が言うと、
「だって早く着けてみて欲しかったんだもん」
あまりに真直ぐな答え。悪びれないその言葉に、俺は苦笑した。
――まったくコイツは⋯⋯。
我慢のきかないところがまるで子供だ。
仙道はそのまま言葉をついだ。
「今日ね、2コマ目が休講になってたんですよ。で、元々3コマと4コマは授業が入ってないから、ちょっとそこまで買い物に。⋯⋯ほら、道端でさケースとか開いてアクセサリー売ってる人いるでしょ? そこで買って来たんです」
「これ買うためだけに、わざわざ?」
「ええ、まあ⋯⋯」
別に今日が特別な日だというのではない。仙道はただ思い付いたから行動しただけなのだろう。
――コイツらしい。
自然と弛んだ俺の口元に気付いた仙道が、
「なんか変なこと言いました? 俺」
小首を傾げて俺の顔を覗き込む。
「いや、おまえらしいなと思っただけだ」
思ったとおりを口にして、
「もう帰ろう。腹減ったよ」
さあ、と仙道を促す。
「ちょっと待って」
「なんだ?」
「それ⋯⋯俺にも着けてくれませんか」
俺が右手で無意識に弄んでいたイヤーカフスの片割れを指して仙道が言う。
「⋯⋯おそろい♪」
そう付け足してにっこり笑った男の顔に、俺はやっと仙道の意図を悟った。
銀色の⋯⋯シルバーのイヤーカフス。
俺が好きだと言った色。
ピアスではなく⋯⋯。
「バカ」
何をどう言っていいのか、どう反応すべきなのか解らずに、俺はついいつもの悪態に逃げる。
「これでもいろいろ考えたんだけどなあ」
バカはないでしょー、と俺の当惑など見透かしているのだろう仙道は、そのくせ素知らぬふりで話しだす。
「ホントはさ、指輪して欲しかったんですよ? 俺」
「⋯⋯⋯⋯」
「左の薬指に」
――言うと思った。
「でも絶対牧さん嫌がると思ったからピアスだったらどうかなって。ネックレスなんて邪魔になりそうだし毎日着けてくれるか解んないし、でもピアスならそうそう邪魔にはなんないでしょ? 嫌でも毎日つけてなきゃだし」
なのに牧さん耳に穴空けんのヤだって言うんだもん、と二日前の会話を持ち出して仙道は更に続ける。
「だったらもうコレしかないと思ったワケ」
「なんで⋯⋯」
「え?」
「なんでそういう⋯⋯指輪とかピアスとか⋯⋯そういうの俺に着けさせたいんだ」
「牧さんに自覚して貰いたいからですよ。⋯⋯俺の恋人だってこと」
「⋯⋯⋯⋯」
俺はなぜか仙道の真剣な瞳から目を逸らしてしまっていた。
「一緒に住み始めても牧さんなんにも変わんないしさ⋯⋯俺のことちゃんと意識してくれてる? 俺がどんな気持ちであの部屋に一緒にいるか、牧さん解ってる?」
「そんなの⋯⋯解んねーよ⋯⋯」
ウソだった。
解らないのではない。解らないでいたかっただけだ。気付かないふりで逃げていたかっただけだ。本当は知ってる。いや、知ってた。仙道の望みなんて。あの冬の日から。仙道の記憶にないあの日の、あの事件があってから。
今まで――いや、今も――どれだけ仙道に辛い思いをさせていたか、どれだけ仙道に我慢を強いているか、同じ男だから俺にだって想像はついていた。
だけど。
それでも。
――恐いんだ。
仙道が小さく溜息をついた。
「いいですよ、別に⋯⋯解んないんだったら」
「仙道?」
顔を上げた俺の視界の中に、今まで見たことのない、表情の死んだ仙道の顔があった。仙道のその奇妙な表情は、いくつもの感情が複雑に絡み合った末に生じたものだ。
「解るまで、待ちますよ。牧さんの側にいて後どれだけ待てるかあんまり自信はないけどね」
「済まん」
俺はもうただ謝るしかなくて、仙道の顔をそれ以上見ていられずに俯く。
「牧さんが謝ることないよ。俺の我侭だよ」
――ちがう。そうじゃない。
わがままなのは俺だ。
けれど心の叫びは声にはならず、俺はまだ俯いたまま仙道の次の言葉を待っていた。不用意に口をきけるような状況ではなかった。
「でも牧さん、牧さんは俺と付き合ってるんですよね? 俺は牧さんの恋人だよね?」
俺はゆっくり顔を上げた。そして黙ったまま両手を仙道の左耳に伸ばした。俺の手には片割れのイヤーカフスが握られている。
仙道の目に映る俺はきっとどうしようもなく情けない表情をしているのだろう。
「⋯⋯⋯⋯」
「⋯⋯⋯⋯」
どちらも無言のまま、俺は作業を終えて手を下ろした。
「⋯⋯帰ろう」
やっとそれだけを口にして、俺は先にたって歩き出す。たとえ仙道がついて来なくても俺は立ち止まれない、そう思いながら黙々と機械的に左右の足を前へ前へと押し出していた。なんだか良く解らないのに涙が溢れそうになっていて、後ろを振り返ることが出来ない。
仙道の耳に着けてやった揃いのカフスをこの目でよく見て確かめなかったことをひどく後悔しながら、俺はただただ歩き続けていた。
表面上は何事もなかったかのように、傍目には平穏な一週間が過ぎた。
その間に俺は自分の言葉に自分が縛られ始めていることに気付いていた。『解らない』と答えてしまった手前、仙道の前ではわずかな警戒心も見せてはならない。今まで以上に仙道を意識してしまっているのに、それ以上の無意識さを取り繕わなければならないのだ。神経がすりへって行くのが自分でも解るほど俺は疲れを感じ、レポートの締め切りを口実に、図書館に逃げ籠る時間が長くなっていた。あの勘のいい仙道が、もし不審に思い始めていたとしてもどうしようもなかった。
そんな状態で周囲のことだけでなく自分のことにまで気が回り切らない日々を送っていた俺は、だからこそ普段の自分では考えられないような失態をおかしてしまったのだと思う。
それは部活が始まる直前のことだった。
「牧、それ外した方がいいぞ」
「え?」
「それだよ、それ」
自分の左の耳朶を摘みながら先輩が顎をしゃくるのにつられて己の耳に手をやった俺は、
「あっ」
――ヤバイ!
指に触れたのはイヤーカフス。
その存在をすっかり忘れていたのだ。平素の自分だったら決して犯す筈のない失敗だった。
慌てて俺はその小さな銀色の輪を耳から外す。
「下手すっと切れて怪我するからな。これからは気をつけろ」
「あ⋯⋯はい」
外したまでは良かったが、もう部室に戻って置いて来るだけの時間はなかった。仕方なく俺は穿いていたジャージのポケットにそれを押し込んだ。そしてそのことを、その夜アパートに戻るまで思い出さなかった。
その日俺は仙道を先に帰らせて、自分は図書館とスーパーに寄ってから帰宅した。
「仙道ー、今日の分の汚れ物もう出したかー?」
アパートに帰ってすぐ、部屋の外に置いてある洗濯機に自分のTシャツやらジャージやらを放り込みながら、俺は玄関のドアを開け中にいる仙道に尋ねる。
「いま持っていきまーす」
その返事と共に大股に歩み寄って来た仙道から衣類を受け取って、それも洗濯機に押し込む。
「明日俺が洗濯するから、おまえは先に学校⋯⋯あっ! ああ、ヤバッ」
「牧さん?」
俺は仙道に事情を説明するのも忘れて、たった今放り込んだばかりの汚れ物を慌ててひっくり返しはじめた。
「牧さん、何? どうしたんです!?」
自分のジャージを引っ張り出し、そのポケットに手を突っ込む。
「ない⋯⋯」
「何がないんですかっ」
洗濯槽の中のものを全部外に出して調べてみたが、やっぱりそれは見つからなかった。
「落としたんだ⋯⋯」
きっと部活の練習中、体育館のどこかに落ちてしまったのに違いない。迂闊だったとしか言い様のない失態。
「仙道、俺学校行って来る!」
「い⋯⋯今からですか!? ちょ⋯⋯ちょっと待って下さいよ!!」
仙道に二の腕をつかまれて、すでに踵を返しかけていた俺は、焦りのいろを隠せないまま振り向いた。
「牧さん、落ち着いて」
仙道はいつもの穏やかな声で逸る俺を宥めようとする。
「何がないんですか」
「⋯⋯それ⋯⋯」
俺は仙道の左耳を指さした。
「イヤーカフス?」
仙道の耳を見て思い出したのだ。自分がそれを外してポケットに入れたままにしていたことを。
「今日練習の前に外すの忘れてて、先輩に⋯⋯」
俺は俯いてポツリポツリと事情を説明し始めた。
「⋯⋯いま探したけど、ないんだ。⋯⋯多分体育館のどこかに落ちてると思うから、探せば⋯⋯見つかるかも知れない」
二の腕をつかんでいた仙道の手は、いつの間にか外されていた。
「解りました。そういうことなら俺も行きます。⋯⋯ふたりで探した方が早いよ?」
顔を上げた俺が余程しょぼくれて見えたのだろう仙道は、
「もー、そんなカオしないで。だいじょうぶ! 見つかりますよ!」
明るい声でそう言って、じゃあ行きましょうか、と俺に笑いかけた。
アパートにから大学までは、ゆっくり歩いても10分とはかからない距離だ。急いで行ったところで失くし物が見つかる訳でもないのだが、俺たちは少し早足で学校に向かっていた。
「あれっ、でも体育館って今の時間カギ掛かってんじゃないですか?」
思い出したように仙道が言うので、
「裏から入れるんだ、実は」
と、俺は秘密を教えてやることにした。
ウチの体育館は用具室の窓の鍵が壊れていて、そこからならいつでも侵入可能なのである。
「知らなかった⋯⋯」
「まだ教えてなかったもんな」
「まだ⋯⋯?」
「そ。『まだ』。体育研では代々下に伝えてくことになってんだ。だから大学側にはご注進しないし、逆にバレないように隠してる」
「なんでまた?」
「そうのうちやるからな。学校にバレないように、夜中のスポーツ大会。体育館に忍び込んで⋯⋯徹夜で」
「うっわーっ、楽しそ~!」
仙道は予想に違わぬ反応をしてくれた。
「実際楽しいぞ、あれは。特に二回生が」
「なんかするんですか」
「見張り役。⋯⋯今年は俺らの番だな」
スポーツ大会の企画・運営をするのが代々二回生の役割なのだが、企画の他に大会中の『見張り』がその仕事内容に含まれている。まあ実際は見つかってしまっても大した騒動にはならないのだが、一応大学側の人間にバレることがないように、近付く人間を事前に見つけて体育館にいる連中に知らせる、というのが役目なのだ。そのときは大会を一時中断して体育館の電気を消し用具室に身を隠してやりすごす。それが大会参加者の義務(?)という訳だった。
「大会心得ってヤツ」
「楽しすぎる⋯⋯」
仙道は肩を震わせて笑っている。
そうこうしている内に俺達は体育館の裏まで来ていた。
鍵の壊れた窓は、俺や仙道の身長を以ってしてもギリギリ届くかどうかという高さにある。壁をよじ登って侵入するのはかなり困難だ。
「そっちに放置自転車が積んであるだろ」
俺は指差して仙道に教える。
「ああ、ありますね、いっぱい」
「スタンドの立ちそうなヤツ、1台持って来てくれるか」
仙道が自転車を取りに行っている間に、俺は窓の下の土の状態を確かめた。
「持って来ましたよー」
「じゃこのへんに停めて」
仙道が用意した自転車の安定を確認し、
「俺が先に行くから待ってろよ」
そう言い置いて、俺はサドルの上に立ちカラカラと窓を開ける。
「なるほどね⋯⋯」
仙道の感心したような呟きを足元に聞きながら、俺は両手で窓のサッシを掴み腕の力だけで身体を引き上げて、薄暗い用具室の中へ潜入した。
外からは高い位置にある窓も、用具室の床に立てば手を伸ばすだけで届く高さになる。用具室の中は窓から差し込む人工灯の光で、なんとか歩き回れる明るさだ。その中を歩いて用具室の隅にある跳び箱を窓の下まで押してきて、それの上に立ち窓から外へ顔を出した。
「上がって来ていいぞ」
待ち構えていた仙道が俺と同じ要領で窓を抜け、跳び箱の上に降りてくる。
「楽し~っ」
俺こういうの大好きなんですよね! と言って仙道は子供のようにはしゃいだ。
俺は用具室の重い扉を押し開けて、用具室と同じ薄暗い体育館のフロアへと出た。
「電気つけますよ」
背後の壁でパチンと音がして仙道の声と共に、体育館中の灯りが灯される。眩しさに目を眇め、俺たちはその光に目が慣れるまでじっとしていた。
「たぶん両脇のどこかにあると思う」
フロアの両サイドを指し示して、俺は自分の推理を説明した。
「最後にモップがけしてるだろ? だから両側の壁の方に寄せられてる筈なんだ」
「じゃあ俺あっち探します」
俺たちは左右に別れて体育館の床に膝をつき、床の板の木目に目を近付けて這うように前進していく。
探し始めてから俺は急に不安になってきた。体育館の床には鉄格子を嵌め込んだ穴がいくつか空いている。もしそこに落ちてしまっていたら、例え見つけても容易に取ることは出来ないし、もしかしたら誰かに踏まれて壊れているかも知れない。いやそれ以前に、ここで落としたという確かな証拠がないのだ。もっと別の場所で落としているかも⋯⋯。
考えは悪い方悪い方へとどんどん傾いて行く。
――頼むから⋯⋯っ。
頼むから見つかってくれ。例え壊れてしまっていてもいい、それがこの手に戻って来てくれさえすれば。
どうしてあのカフスにこんなにも拘っているのか自分でも良く解らないまま、俺は必死になって床に這いつくばっていた。
どれくらいの時間そうして床板にへばりついていただろう。
「あっ!!」
突然仙道が大声を上げた。
「あったあ―――っ、牧さんッ、ありましたよーっ、ホラ!」
その声にがばっと顔を上げた俺に向かって、逆サイドにいた仙道が両手をぶんぶん振ってみせる。その腕の先で右手の指が作る輪の端に、天井のライトを強く跳ね返すイヤーカフスの姿があった。
「あー⋯⋯」
ホッとした途端身体の力が抜けて、俺はその場にぺたりと座り込んでしまう。
「よかった⋯⋯」
吐息のように漏れた言葉。
その俺の側へ仙道が飛んで来た。
「入口の扉の隙間にハマリかけてましたよ。⋯⋯あーあホコリまみれだ」
言いながら仙道は着ていたコットンシャツの裾でカフスについた汚れを拭き取ってしまう。
「あ、おいっ」
「いいんですよ、シャツなんか洗えばいいんだし」
屈託なく笑って、
「ハイ」
きれいになったそれを俺の手に乗せると、俺の正面にどっかり腰を下ろした。
俺はじっと手のひらの上の銀色の光を見つめる、そして、
「手、出せ」
「え?」
訝しむ声を上げながらも言われたままに手のひらを差し出した仙道に、それを押し付けるようにして渡した。
「牧さん?」
「⋯⋯⋯⋯」
俺は無言で仙道に自分の左耳が見えるようにして横を向く。横目で仙道の眼に視線をくれて、ひとつなぎの動きでその目線をイヤーカフスに移す。
「あ⋯⋯」
解ったという表情で、仙道が頷いた。その目が嬉しそうな笑みに細くなるのを視界の隅に捕らえながら、俺は仙道の手が耳朶に触れるのを待つ。
「気に入ってくれてたんだ?」
口元を笑みに弛めた仙道の明るい声が俺に訊く。
「大切に思ってくれてたんでしょ? だからあんなに必死になって探してくれたんでしょ?」
――多分コイツの言う通りなんだろうな。
自分でもよく解っていなかった己の気持ちを、俺は仙道のその言葉に照らして分析してみる。
「おまえに貰った物だから⋯⋯かな」
自分自身にも問いかけるようにそれを声にした。
手を下ろした仙道が、少し驚いたような表情で俺の横顔を見つめている。
「牧さん」
呼ばれて、身体ごと仙道の方へ向き直る。
正面から見据えるようにして、仙道は俺の双眸を覗き込んでくる。俺の目から何かを探り出そうとするように、じっとしたまま目線を逸らそうとしない。やがてゆるやかな動作で眼を伏せ、次に目蓋を上げたときには俺に何かを訴える目付きに変わっていた。
仙道の気持ちがその物言いたげな眼からダイレクトに伝わって来る。
言葉よりもその瞳に浮かぶ表情の方がはるかに雄弁なことがある。そんな言葉、今まで信じたこともなかったけど、それが本当だと俺は知った。言葉にならないのだろう強い気持ちを、仙道のその眼が伝えている。
だから俺も何も言わなかった。何も言わず、眼を閉じた。
⋯⋯それは、唇にしずかに触れただけで、すぐ、離れた。
俺は冷静にそれを受け止めて、そしてゆっくりと目を開ける。
「⋯⋯⋯⋯」
間近にある仙道の顏をじっと見つめ返した。口元に淡い笑みさえ浮かべて。
「あ、あ⋯⋯れ⋯⋯?」
照れもせず慌てもせず見つめ返す俺の、その予想外な反応に仙道は目を丸くしている。
「ぷっ」
とうとう俺は我慢できずに吹き出した。
「ま⋯⋯ま、きさん⋯⋯?」
肩を震わせて声を押し殺して俺は笑い続ける。
――次にこういうことになったら⋯⋯。
言ってやろうと思っていた言葉も造ってやろうと思っていた表情も、俺は現実に何ひとつ実行できず、でも仙道の鼻を明かしてやれたことだけは確かなようで、それが腹の底から込み上げてくる笑いの衝動の原因なのだろう。
「は⋯⋯はじめてじゃ、ないんだ⋯⋯」
笑いを噛み殺しながら俺は言う。
「おまえと、こうするの」
「⋯⋯ウソ⋯⋯」
愕然とした表情で仙道が呟く。
「おまえ覚えてないんだよな。あのとき⋯⋯インフルエンザで熱出してウチで倒れたとき⋯⋯あのとき、おまえ⋯⋯俺に」
俺はちょっとだけ口籠り、でも意を決してその先の言葉を口にする。
「⋯⋯キス、したんだ」
「ウソ⋯⋯」
「ウソじゃない。⋯⋯された俺が言うんだから信じろよ」
あのときは本当に焦ったのだ。焦って戸惑って狼狽えた。次に会うときどんな顔をしたらいいのかと、真剣に悩みもした。
あのことがなかったら、今だって俺は狼狽し、この場から――仙道から逃げ出そうとしていることだろう。こんなふうに自然に、そして冷静に、仙道の気持ちを受け止められはしなかったと思う。
「じゃあ⋯⋯牧さんとっくに解ってたんだ、俺が⋯⋯牧さんに何したいって思ってるか」
俺は答える代わりに仙道の眼を見つめて、もう一度目蓋を閉じた。顎を捕らえる仙道の手の温かさを感じながら、その瞬間を待つ。
俺にとって三度目の仙道とのそれは、これまでになく長く、そして深いものだった。
1998.09.13 脱稿/2023.02.05 微修正
・初出:『(無題)』1998.09.13 発行