『幸福な一日・3』


「仙道、おまえいつまでウチにいるつもりだ? いいかげん家の人が心配するだろう」
「心配なんかしませんよぉ。牧さんのこと、ウチの両親が信用してるの知ってるでしょ」
「だからってなあ⋯⋯」
「だってここからの方が大学近いですもん。俺寝坊するから練習遅れちゃうかもだし。それともアレですか、俺が居ちゃ迷惑?」
「そうは言ってないけど⋯⋯けどなあ⋯⋯」
 歯切れ悪く口籠った牧さんは、そのくせ俺のために客用の布団を敷こうと押し入れの襖に手を掛けていたりする。
 ――なんだかなあ⋯⋯。
 俺は背を向けた牧さんに見えないのをいいことに、くすりと忍び笑いを漏らしてしまう。
 大学入試が済んで高校の卒業式を終えてから、俺はほとんど毎日のように牧さんの住む学生アパートに入り浸っていて、でもその頃はまだ夜になればちゃんと家に帰っていた。それが今じゃ夜になっても家には帰らないで、まるで我が家のような感覚で俺はこの部屋で生活している。こんな状態になったのは合格発表があった日からだ。






 その日、牧さんは部の朝練に参加するため早朝から大学に出ていた。俺の方は落ちてるなんて正直思っちゃいなかったけど(厭味じゃないぞ。なんたって牧さんっていう強力な家庭教師がほぼ1年がかりで面倒見てくれたんだから落ちてる訳ないだろう?)、それでも人並みに緊張らしいものを感じつつ、大学までひとりで合格発表を見に行った。受験番号なんか、試験が終わった瞬間に忘れてしまってすっかり記憶の彼方だったから、くしゃくしゃになった受験票を手に、校舎の壁に張り出された合格者の受験番号がずらりと並ぶ紙の帯を人垣の後ろから見上げ、しばらく目を泳がせていたら、
『おっ』
 てのひらの中のそれと同じ文字の列(ならび)に行き当たった。
 ――よっしゃあ!
 このとき俺が胆(はら)の底で声を上げ架空の握りこぶしを突き上げたのは、大学に合格したということそのものに対してのそれよりも、約束通り牧さんの後輩になれるとハッキリしたのが嬉しかったからだ。
 俺はその足で、牧さんのいる体育館に顔を出した。
 ちょうど練習が一段落ついたところだったのか、入口付近でボールを抱えて立っていたお目当ての人の名を呼んで手招きすると、その人は『あれ?』という表情で俺のそばまで寄ってきた。合格発表が今日だということを、この人はまったく記憶していなかったらしい。
 俺がそのことを教えたら、
『道理で⋯⋯。さっきからなんか外が騒がしいと思ってたんだよ』
 なんて天然ボケなことを言っていた。いや、そういうトコも大好きなんだけどね。
 で、俺が合格したことを耳打ちすると、
『⋯⋯ホントか!?』
 別に疑ってた訳じゃないんだろうけど牧さんはそう言って、そのあと、今日はお祝しないとなー、と嬉しそうに笑ってくれた。
 その日、奢るから外で食事をしようかと誘ってくれた牧さんに、牧さんの手料理の方がいいと散々わがままを言ってアパートに上がり込み、俺は自分の好物ばかりを食卓いっぱいに並べてもらって御機嫌だった。両親には、体育館で牧さんと会ったあと電話で結果を報告し、合格した友達と集まるからと言って外泊の許可を取り付けてあった。その日から着替えを取りに帰る以外、俺は自宅へ戻っていないのだ。あ、あと一日だけ、入学手続きに必要なものを取りには帰ったけど。そのとき、これからしばらく牧さんの家にいるつもりだと話したら、なんのお咎めもなく、それどころか笑って送り出してくれてしまったウチの母親って一体なんだったんだろう⋯⋯(有り難かったけどさ)。
「ねーねー牧さーん。4月になったらもう少し大きな部屋に引っ越して一緒に住みましょうよー」
「イ・ヤ・だッ」
「ンな力いっぱい嫌わなくたってぇ~」
 情けない声を出した俺に、
「何回も同じこと言わせるからだ」
 牧さんは冷たく言い放つ。確かにこの春休み中、俺たちは同じような会話を何度となくくり返しているんだけど。
「ぶー」
「膨れても拗ねても知りません!」
 キッパリと撥ね付けられてしまった。
 なんか牧さん強くなったかも。ていうか、俺のあしらい方をマスターしてしまったという感じ。手強くなっちゃったよー。
「じゃあせめて生活費半分は払わせて下さいよー」
「それも必要ありません。おまえがウチに帰れば済むことだろ」
 ビシッと人さし指を突き出して、牧さんはそう言い切った。とは云え牧さんに俺を本気で追い出そうという気はないらしく、なんだかんだ言いつつも世話を焼いてくれている。かと云って気を遣い過ぎてるって訳でもない。最近では、俺の存在をいい意味であまり意識しなくなっているように思う。つまり俺が側にいるのが、牧さんの生活の中で自然なことになりつつあるんだろう。それって俺にとってはすごく喜ばしいことだ。
「ニヤけてないで、おまえも手伝え」
 気持ち悪いヤツだなあとブツブツ言ってる牧さんから渡されたシーツの端を持って、俺はやっぱりニヤける顔をどうすることも出来ないでいた。
 牧さんが本気で嫌がらないならこれからもずっとこの部屋に居座っちゃうもんね。
 俺は本気になったらとことん攻めるよ? しつこいよ?
 覚悟するべし。






 まだ入学はしてないんだけど、去年の牧さんがそうしてたように、俺もこの春休みから大学の部活に参加している。高校生と大学生とじゃやっぱりパワーもスタミナもかなりの差があって、最初は正直キツかった。高校の部活を引退してからも自主トレはしていたし、牧さんとの1on1も結構マメにやってた筈の俺だけど、さすがにそれだけで太刀打ちできるレベルじゃなかったのだ。それでもここ数日で、ようやく最後まで音を上げず練習について行けるようになってきた。
 練習終了後、
「今日なんか余力があるんじゃないか?」
 俺の状態に気付いていたらしい牧さんに指摘され、
「そうですかねえ?」
 口では、そんなことないですよー、なんて言ってみせながら、俺は有頂天だった。俺のことを牧さんがちゃんと見てくれていたのが判って嬉しかったし、実力を認めてくれるような発言も誇らしかったし。
「はやく4月にならないかな。そしたら正式におまえも選手登録できるのにな」
 牧さんは練習帰りの道すがら、俺にそんなことを言った。
 当然のことながら俺はまだチームの正式メンバーじゃない。だから例え練習試合があったりしても、その試合に出場はできない。
「練習だけ一緒に出来たって、やっぱりなんか面白くない」
「俺もはやく牧さんとプレーしたいな。おんなじチームの一員としてさ」
 想像するだけでドキドキしてくるんだ。牧さんと同じユニフォームに袖を通して同じフロアに立つってことに。敵として対峙し、ひとつのボールを奪い合うのも決して嫌じゃなかったけど――あんなに試合に熱くなったのは生まれて初めてのことだったし――でも今は、はやくチームプレーがしてみたい。同じもの、同じ勝利を目指して戦ってみたい。牧さんと。
「なんかさ、今からすっごい楽しみなんだ。絶対面白い試合ができると思わないか?」
 わくわくするんだよなーと御機嫌な牧さんは、俺のとなりでなんだか子供みたいに笑っている。ったく、誰だよ、こんなかわいい人つかまえて『じぃ』だなんて言ったのは!
「全日本ジュニアの試合も面白かったけど、あれは即席チームで、だったろう? だけど今度は少なくとも3年間みっちり練習して、同じチームの選手としてプレー出来るんだもんな」
 あーあーあー、そんな俺を喜ばせるようなことばっか言ってると、襲っちゃうよ? 俺、マジで。
 俺の心の裡での葛藤をよそに、牧さんは軽い足取りで家路を急いでいた。






 アパートに帰り着いた牧さんは、こもった部屋の空気を入れ替えるため、いつもそうするように玄関のドアを半開きにしたままでベランダの窓を全開にした。
 そのとき、だった。
「わっ」
「!?」
 ベランダの窓から、その小さな生き物が飛び込んで来たのは。
「な、なんだあ!?」
「とり⋯⋯、インコじゃないですか、あれ」
 一瞬パニクって硬直してしまっていた俺たちは、その物体がカーテンレールの上で動きをとめて初めて冷静さを取り戻した。人間18.9年も生きているとこういう思いも掛けない事件(?)に出くわすことがあるらしい。
 ――チチチチッ。
「どっから来たんだ、おまえ」
 話し掛けながら近寄っていく牧さんに怯える様子もなく、そいつはレールの上で羽を休めている。
「キレイですねー」
 体色のほとんどが白いそのインコは、けれど頭から羽の付根あたりにかけてのみ、目が覚めるように鮮やかな快晴の空の色をしていた。
「おまえ、迷子か?」
 答えなど返って来ないと解っているのだろうに、それでも牧さんはインコに話し掛けることをやめない。
 ――チチッ。
 驚かせないようにそっと差し伸べた牧さんの手のひらを、インコは不思議なものを見ると言いたげに、小首を傾げて覗き込む。でも飛び移ろうとはしない。
「なあ、おまえこれからどうするんだ」
 レールの上から一向に動く気配のない小鳥は、のんきに毛繕いを始めた。
「ずっとウチにいるつもりか?」
 そう鳥に尋ねた牧さんの言葉に、
「⋯⋯牧さん、飼うんですか?」
 飼いたそうな響きを感じて、俺はそう問い質す。
「飼っても大丈夫だったらそうしてもいいかな、と⋯⋯」
 賃貸契約書の内容を思い出そうとしているのか、牧さんの言葉は歯切れが悪い。
「たしか犬と猫はだめだって書いてあったと思うんだが、鳥もだめだったかなあ⋯⋯」
と、牧さんがそこまで言ったとき、
「あっ」
「あーっ」
 来たときと同じ唐突さで、
「⋯⋯あーあ、飛んでっちゃった⋯⋯」
 小さな羽音と小さな小さな産毛のような羽根を一枚だけ残し、小鳥はあっと言う間に青い空に溶けて見えなくなった。
「⋯⋯⋯⋯」
 足下にふわふわと舞い降りて来た柔らかな羽根を摘まみ上げ、牧さんはインコが出て行った窓を何も言わずにじっと見つめている。その横顔がなんだかとても淋しそうだ。
「きっと自分のウチに帰ったんですよ」
 わざと明るくそう言った俺に、自分が慰められていると気付いたのだろう牧さんは、
「そうだな」
 努めて明るい声で答え返し、
「玄関のドア閉めて来てくれるか」
 部屋の換気はもう充分だから、と言葉をついだ。






 その夜、牧さんに俺は、
「今日も泊まってけ」
 らしくないことを言われた。
「牧さん⋯⋯?」
 そんなに誰かと一緒にいたいのだろうかと首を捻りかけて、俺はあることに気付いた。
 ――ああ、そうか。
 牧さんは、一日中ひとりでいるということに慣れていないのだ。
 海南大付属高校の寮は二人部屋か三人部屋しかないらしい。高校の3年間を寮で過ごした牧さんは、だからひとりきりになるということが殆どなかったのだろう。大学生になってからの1年間も、毎日と言っていいくらい俺がこの部屋を訪れていたから、やっぱり一日中ひとりきりでいることはあまりなかった筈だ。
 ――だから、か。
 だから牧さんはあのインコを飼いたかったんだ。
 まったく、どうしてこの人はこういうトコで素直じゃないのかなあ。
 ――ペットなんか飼わなくたってさ⋯⋯。
「ねえ牧さん」
「ん?」
「ペットが欲しいんだったら」
と、俺は、夕食分の洗い物も済ませて見るともなくTVのCM画面を眺めている牧さんのとなりににじり寄った。
「もうここに一匹いるじゃないですか」
 大型犬の仕種を真似て、
「でっかいのが⋯⋯ね?」
 その胸元に頭を擦り付けるようにしてふざける。
 ――俺がいるよ?
「⋯⋯⋯⋯」
 牧さんはフクザツなカオをして、
「⋯⋯そうだな」
 脱力したように頷いた。




 そしてその日から、牧さんは俺に家へ帰れと言わなくなった。



1998.08.29 脱稿/2023.02.05 微修正



・初出:『Q』1998.08.30 発行