高校の卒業式が済んで数日、大学の合格発表を5日後に控えた春休みのとある日。
「仙道、おまえ明日ヒマか?」
「ええ、別に予定は何も」
牧さんの生徒出張版家庭教師のバイトは、前期日程2次試験の前日までで一旦終わっている。だけど俺は、2次試験受験の翌日からまた、牧さんがひとり暮らしている1Kの学生アパートに当然のように上がり込んでいた。
「大学(ウチ)の体育館で練習試合やるんだけど、観に来るか?」
牧さんは、高校を卒業してからは平日でも朝から訪れる俺が、何をするでもなく日がな一日部屋にいるのを気にして誘ってくれたようだ。今日も、牧さんが部の練習に出掛けていた午前中ずっと、俺はこの部屋でゴロゴロしていたから。
「部外者が行ってもいいんですか? 練習は見に来ちゃダメだって⋯⋯」
「ああ、練習はな。部の決まりだから⋯⋯。明日のは試合だからいいんだよ」
部員以外の学生も見に来るし、と言い添える牧さんは、ベランダから取り込んだ洗濯物を慣れた手付きで畳んでいる。明日の試合に使うのだろうタオルをよける、その手元を見ながら、
「牧さん出るんですか?」
そう尋ねた俺に、
「さあ、どうかなあ。でも多分出られるんじゃないかな。スタメンには選ばれてないけど⋯⋯」
牧さんはちょっと手を休めて首を傾げた。
「じゃあ行きます」
「なんだ、俺が出ないと見ないのか? 変なヤツだな」
ふたたび手を動かしながら、牧さんは可笑しそうに肩を竦めている。
――当然じゃないか。
口には出さず、俺は思う。
練習試合とはいえ、俺にとっては牧さんがプレーする姿を身られる可能性のある久方ぶりの試合なのだ。出場できないでベンチを温めている姿なんか見たい訳がない。
「ああ、そうだ。今日も晩ご飯食べて帰れよ」
洗濯物を畳み終えた牧さんが顔を上げ、寝そべる俺を振り返った。
「いいんですかー? ここんとこ毎日ですけど⋯⋯」
「いいんだよ。ひとり分作るのってけっこう面倒だからな。それに作りがいもあるし。おまえ何でも喰うから」
――当然じゃないか。
再び俺は思う。
牧さんが作ってくれた料理なら何だって喰うさ! 第一美味いんだから。牧さんがひとり暮らしを始めてもうすぐ1年になるけど、最近ますます料理の腕に磨きがかかっている。食べてくれる人間がいるとついはりきってしまうのだそうだ。
「今夜はなに作ってくれるんですか?」
「野菜いっぱい入れたクリームシチューと鳥のササミ焼いたのと、あとは昨日の残りのキンピラな」
言いながら、炊飯器をセットするために立ち上がった牧さんを、俺はクッションを枕に見送った。
牧さんが俺のことをどういう存在として認めているのかは正直なトコロよく判らない。1年ほど前、付き合ってることを認めるような発言をしたのは確かだけど、実はあれから俺達の関係にはほとんど変化がなかったりするからだ(我ながら情けないとは思ってる)。ただ、いつの頃からか牧さんは、この部屋に出入りする俺をごく自然に受け入れてくれている。そうして俺は、ありのままの牧さんの姿をたくさん見ることができるようになった。
バスケを離れると実は意外とドジだったり、甘いものが大好きで、人目も気にせずコージーコーナーのチョコバナナパフェを注文しちゃうような人だと知ったのも、この1年の間のことだ。
だけど俺にはどんな牧さんでも受け入れられる自信がある。どんな牧さんを見たってこの想いは変わらない。なんたって牧さんは、あらゆる意味で俺を本気にさせた、ただひとりの男(ひと)なんだから。
「ちょっと時間かかるから、テレビでも観ててくれ」
キッチンから顔を覗かせたエプロン姿の牧さんに、
「はーい」
ニコニコ顔で応えながら、俺は明日の試合のことを思ってわくわくしていた。
――久しぶりに牧さんのプレーが生で観られる!
それがあんなことになるなんて、このときの俺は予想もしなかった。
俺はこの日の牧さんを一生忘れないと思う。
試合が終わって一時間程ののち、待ち合わせの図書館の雑誌コーナーに現れた牧さんの表情は、思っていた以上に暗かった。もし試合を観ていなくても、その表情だけで結果が推し量れてしまうくらいに。
「待たせたな」
ミーティングが長引いたと詫びる牧さんに、気にしていないと答えて俺は雑誌を閉じ席を立った。
黙々と帰途に就く牧さんと並んで俺は校門を抜ける。
「⋯⋯⋯⋯」
牧さんはさっきからずっと無言だ。
試合の結果は今更言うまでもないだろうけど、牧さん達のチームの負けだった。でも牧さんのせいで負けた訳じゃない。俺の観ていた限り、牧さんのプレーには何の落ち度もなかったのだ。これは決して贔屓して言ってるんじゃなくて。
牧さんは後半戦途中からの出場で、その時点でもう既に得点にはかなりの開きがあった。どう足掻いても逆転するには決定的時間が足りなかった。それは素人目でも明らかだったろう。そんな状況から3ゴール差まで追い上げた、その原動力になったというだけでも充分評価されるべき活躍だったのだ。
それでも牧さんは自分を責めているようだった。
「晩飯どっかで喰って帰ろう」
作る気力はもうない、と牧さんがぼやく。
帰りがけに立ち寄った定食屋で、注文した料理が運ばれて来るまでの間に、俺は牧さんを慰めるつもりでこう言ってみた。
「元気出して下さいよお。今日の試合はフォーメーションの確認が課題だって言ってたじゃないですか」
そうでなければ牧さんの出場時間があんなに少ないはずはない。それどころかスタメンでないはずもない。一回生とはいえ、間違いなく牧さんはあのチームの主力メンバーのひとりなのだ。
でも、
「負けは負けだよ」
牧さんの答えは簡潔だった。
「勝てたんだ、今日の試合は」
それを、落とした。
だから俺は自分が許せない。歯痒い。
牧さんはそれきり黙り込んだ。
誰だって試合をするからには――それが例え練習試合であったとしても――勝ちたいに決まってる。勝つつもりで、勝ちに行く気でフロアに立つ。
「牧さん⋯⋯」
決して現状に甘んじない。いつだってハングリーに勝ちを望んでいる。それが牧さんのバスケに対する真摯な姿勢であり、強さの源だ。それは解ってるんだけど。
しばらくして料理が運ばれて来てからも、牧さんは黙ったままだった。自分の殻に閉じこもって己の心との葛藤を続けているのか、目の前にいる俺の存在などすっかり忘れてしまっているみたいだった。
こんな牧さんを見るのは初めてだ。
迂闊に話しかけようものなら、いや、不用意に手を触れようものなら指先を弾かれてしまいそうな錯覚さえあって、俺は牧さんに対して何をすることも出来ない。それくらい牧さんの周囲に漂う雰囲気は切迫していた。
食事をしている間中、俺はすっかり置いてけぼりだった。
「俺から誘っといて⋯⋯なんか悪かったな」
定食屋を出たところで、やっと牧さんが口をひらいた。
「いえ⋯⋯それは別に」
――いいんですけど。
俺はこのときになって、負け試合後の牧さんと行動を共にするのはこれが初めてだということに気付いた。
かつて彦一からこんな話を聞いたことがある。
『そりゃあもう毅然とした態度で、これぞキャプテンの見本っていうか⋯⋯ホンマ感動しました!』
それは高三の牧さん率いる海南大付属高校のバスケ部が、IHで負けたときのことだ。誰もが肩を落としてフロアに立ち尽くす中、牧さんはキャプテンとしてチームメイトを励まし観客席の応援団にあいさつし、最後まで堂々と胸を張って引き上げて行ったという。広島までわざわざその試合を見に行っていた彦一は、後日部活の休憩中、興奮気味にそのときの様子を俺達に語ってくれたのだった。
今日も試合後の牧さんはサバサバした表情で、特に落ち込んでいるようには見受けられなかった。だから図書館に現れたときのあまりの暗い雰囲気に、意外な気がしたというのが正直な俺の感想だ。
彦一が見て来たように、牧さんはどんなに自分が悔しい思いをしているときだって、ひとに弱味を見せたり、人前で弱音を吐いたりする男じゃない。でもそれは牧さんの『立場』がそうさせるのであって、本当の牧さんの気持ちではないのだ。みんなの前ではきっちりとその『立場』でその『役割』を果たすけど、そんなふうに自分の感情を押し殺してばかりでは精神的に潰れてしまいかねない。牧さん自身そのことをよく解っていて、だからきっと今までは一人でいるときには、こうやって素直に自分の感情を曝け出すことを許し、そのバランスを保っていたのだろう。
――自分ひとりでいるときは⋯⋯?
そこまで考えて、俺はハタと気付いた。
「試合に負けたときって、牧さんいつもこんな感じなんですか」
取り繕わない、牧さん本来の姿。
「⋯⋯ホントはな。みんなの前ではこんなんじゃないけど」
「じゃあ俺には特別に見せてくれるんだ?」
わざと茶化した口調で言ってみれば、意外にも真面目な表情と口調とで牧さんはこう答えた。
「おまえには、きっとこれから何度も見せることになるんだろうしな⋯⋯」
「それって⋯⋯」
――これからもずーっと一緒にいていいってことだよね?
続きの言葉は飲み込んで、それでも俺は温かな気持ちに満たされて綻んで行く口元をどうすることもできなかった。
「牧さん」
「?」
「明日まで一緒にいてもいいですか」
牧さんは振り向いた。ちょっと困ったような表情(かお)で俺を見ている。
「駄目?」
「いや⋯⋯。明日までは多分こんなまんまだぞ?」
自分の精神状態を指して牧さんはそう言った。それでも一緒にいる気なのか、と言外に問うている。
「牧さんが構わないなら俺は⋯⋯」
今は何もしてあげられないけど、これから少しずつ、どんな状況にある牧さんとも上手く付き合っていけるように、今夜はずっと牧さんの側にいたい。そして牧さんがどんなふうに自分を取り戻して行くのか見つめていよう。
俺はまたひとつ、牧さんの新しい素顔を知った。それだけで、今日は充分に幸福な一日だと思った。
「じゃあ、好きにしろよ」
「はいっ」
元気よく返事をして、俺はちょっとだけ足を止め、星の綺麗な夜空を見上げる。
この天気なら、明日はきっと晴れるだろう。その頃には牧さんの気分も晴れているはずだ。
そんなことを思いながら、立ち止まった俺に気付かず歩き続ける牧さんを追い掛けて、俺は大きく足を踏み出した。
1998.04.xx 脱稿/2023.02.05 微修正
・初出:『PERFECTION』1998.05.03 (c) LOVE&PEACE様 発行