『QUATSCH』前


「男は、海南署の牧が刑事の職を辞さない限りこれからも無差別に市民を傷つけると宣言したそうだ」
 容疑者の男の名と、それに続いて、彼が言ったと証言されている犯行動機とが神奈川県海南警察署刑事課課長・堂本の口から刑事部屋に伝えられた瞬間、刑事部屋に詰めていた捜査員たちの視線はその男の元に集中した。
 牧 紳一。
 海南署の牧といえば、この男しかいない。
 それに――、
「この男、おまえがパクったんじゃなかったか?」
 容疑者の名は、牧が刑事になって初めて担当した障害事件加害者のそれと同じものだったのだ。
「逆恨み、腹いせ⋯⋯ま、そんなトコなんじゃねえの?」
 誰かが揶揄うように無責任な発言をするのを軽く聞き流し、牧は表情を変えることもなく上司の指示を待つ。
「どうする、牧? 担当から外した方が良ければ⋯⋯」
『捜査に私情を挟むな』が、この職場では慣例句だ。怨恨、私怨が絡む時事件では、我を忘れて暴走する危険がある。それを理由に、当事者が捜査から外されることは珍しくない。
 だが、
「いえ、行けます」
 きっぱり言い切る部下に、堂本は尚も気遣わしげな表情をして見せたが、
「課長、心配ありませんよ」
 ――万一暴走しそうになったら責任を持って俺が止めます。
 そう擁護してしてくれた同僚は、警察学校を同期で卒業し、捜査課では牧とコンビを組むことの多い赤木だった。
 刑事課に配属になってすぐの頃はベテラン刑事と組んで捜査に出るケースが多いのだが、ある程度仕事を覚えて来ると気の合う者同士で事件を担当する。彼と牧とが組むようになったのも、そんな自然の成りゆきからだ。
 結局、牧は担当から外されることなく、それぞれの役割を確認したのち、ほかの刑事たちと共に刑事部屋を後にした。





 真夏の太陽がジリジリと照りつける真昼の署の駐車場は、アスファルトの表面からゆらゆらと陽炎(かげろう)が立つほど熱せられている。
「靴底が焼けそうだな」
「おまけに車ン中は蒸し風呂だぞ」
 強い陽射しに目を眇め、口々に暑さを罵りながら、刑事たちは二人一組になって指定の覆面車両に乗り込んで行く。
 そんな中、覆面車の助手席につくなり、
「別行動とってもいいか?」
 牧の第一声がそれだった。
 が、運転席でシートベルトを引き寄せる手をとめた赤木は、その言葉を予想していたのだろう。まったく驚いたふうもなく、さらりと切り返す。
「単独行動は御法度だ。今回のおまえは特に、だぞ」
「解ってる」
 牧の返答を聞きながら、赤木はエンジンをかけ冷房の温度を調節している。
「ってことは、当然、減俸・始末書も覚悟して言ってるんだな?」
 揶揄を含んだ同僚の言葉にいささかムッとしたようで、
「みんなが思ってるほど俺は優等生じゃない」
 答える牧の言葉は剣呑になった。
「そんなこと」
 知っているさ、と赤木の声は笑っている。
 署内では冷静沈着で通っているこの男が、一旦思い込むとどこまでも突っ走ってしまうタイプの刑事だということは、彼と一緒に行動したこれまでのいくつかの事件の中で確認済みなのだ。
 それなのに、敢えて牧をこの事件から外さないよう助言したのも当の赤木である。
 これにはちゃんと理由があった。
「悔いは残さない方がいいからな」
「⋯⋯⋯⋯」
 こういう私怨が絡む事件は、その処理を誤ると後々まで尾を引く結果になりかねない。それが原因で辞職していった刑事を、赤木は過去に何人か知っていた。
「課長はうまく誤魔化してやるよ」
「恩に着る」
「その替わり車(アシ)は貸さんぞ」
「ああ。⋯⋯おまえに迷惑はかけない」
「そうしてくれ。⋯⋯で、どこで降ろせばいいんだ?」
 行き先を確認して、赤木はゆっくりとハンドルを切った。






 刑事にとって、初めて担当した事件というのは、それがどんなに小さなものでも、晴れがましい思い出でも苦々しい思い出でも、忘れることなど出来ないものだ。どのベテラン刑事に尋ねたところで、まるで昨日のことのように鮮明に当時の思い出を語ってくれるだろう。
 だが、刑事になって初めて担当した事件といっても、牧にとってのそれはそう昔の話ではない。刑事としてこの海南署に配属されてから、まだ2年程しか経っていないのだ。当然最初の事件もそれ以上の年月は遡らない。
 それは、ありふれた障害事件だった。
 加害者の男は初犯で、些細なことをきっかけにした酔った上での諍(いさか)いが原因と言う、有り難くはないがよくある動機であったし、相手に負わせた怪我も大してひどいものではなかった。だから刑は軽く、執行猶予付きで済んだ、と牧は記憶している。
 が、今回の行為は、その執行猶予期間中に犯した罪だ。もう事無しでは済まされない。
 赤木と別れた後、牧は容疑者の身内に会うつもりで、表の大きな通りからずっと奥に入り込み、複雑に交錯したせまい路地を歩いていた。この周辺は市の区画整備の関係で用地買収が進み、ここ数カ月の間で急に廃屋が目立つようになってきている場所だった。そのせいか、昼間だというのにやけに静かで人の気配もしない。
 牧は額に浮かぶ汗を手の甲で拭いながら、真夏の強い陽射しを避け日陰になっている資材置き場の側で足をとめた。上着を脱ぎたくなる程の暑さなのだが、職務上それができない。彼らには、上着の下にある拳銃を隠す必要があるのだ。
 目指す家までは、まだかなりの距離を歩かなければならず、ここで少し休憩して行こう、とふっと気を抜いた一瞬の隙が、牧の反射神経を鈍らせた。
「!?」
 シュッという何かが空を切る鋭い摩擦音を脳が知覚するのと、肉体が受け身をとるような姿勢で地面に伏せるのと、どちらが先だったろう。
 何者かの一撃を回避して顔を上げたとき、牧の視線の先には太陽を背にしたその男――容疑者――の姿があった。
 肌で殺気を感じる程の至近距離に迫られるまで男の気配に気付けなかったとは。
 ――不覚!
 男が右手に握りしめているナイフの刃が、日の光を受けて鈍く光っている。
 牧は次の攻撃に備えて慎重に身構えた。上着の内側に拳銃を携帯してはいても、実際問題、発砲が許されるのは極めて稀なケースであって、当然今のこの状況ではそれを抜くことすら躊躇われる。
 そんな牧の事情を知ってか知らずしてか、男はじりじりと間合いを詰めて来る。
 そして突如、凶器は振りかざされた。
「――っ」
 咄嗟に急所をかばい、相手に向かってかざした左腕に鋭い痛みを感じて、堪らず牧は蹲る。走り去る男の背へ鋭く一声、
「待てッ!」
 制止をかけるのが精一杯で、立ち上がり追うことまでは出来なかった。
「チッ」
 短く舌打ちして起き上がり、痛む左上腕部を無意識に押さえていた右手を離すと、その手のひら一面にべったりと赤い血がついていた。見れば真一文字に切り裂かれた衣服の間から、ぱっくりと傷口を開いた己の腕が顔を覗かせている。真っ赤な肉が見えるほどの深い傷だ。
 またたく間にシャツからスーツまでが、牧の体液を吸い込んで濃い血の色に染まって行く。
 が、彼は慌てる様子もない。
 そもそも己の血を見て貧血を起こしているようでは、海南署捜査一課の刑事などやっていられないのだ。第一この稼業、無傷で定年を迎えることなど不可能といっていい。
 何はともあれ応急処置である。止血をしないことには身動きもとれない。
 牧は片手でネクタイをほどくと、傷口よりも上、より心臓に近い腕の付け根あたりに巻き付け、右手と口だけを使って器用に縛り上げてしまった。
 手慣れたものである。
 その後、取り敢えず通りから死角になる場所まで移動し、携帯電話で赤木を呼び出した。そして、今夜署に戻らないとを告げ、課長への言い訳を彼に任せることを確認してから電話を切る。このとき牧は、容疑者に遭遇したことについて一言も触れなかった。当然、怪我のことにも。
 彼はこの事件から自分が外されることを懸念したのだ。
 赤木は物わかりのいい男だが、いかな彼でもこの傷のことを知って尚、黙認してくれるほどのお人好しだとは思われなかった。その結果病院行きになったら、間違いなく牧はこの事件から離れることになる。だが、さいわい衣服が血液を吸ってくれたおかげで、地面にはそれほど目立つ血痕はないし、目撃者もいそうにないし、人目につきにくい路地だから誰かに通報される心配もないだろう。
 あの男をこの手で捕まえるまでは、自分で決着をつけるまでは、牧はこの事件から離れる訳にいかないのだ。
 とはいえ応急処置をしただけのこの状態では、満足に動くことが叶わない。出血は止められても、その身を襲う激痛までは止められないのだ。
 それに、容疑者を逮捕するために必要な持ち札は、数も少く、それ以上に肝心な切札を欠いていた。今の牧には自分ひとりで決定打を放つだけの力はもうない。
 意を決したようにひとつ大きく息をつくと、再び携帯を持ち直し、
「仙道か⋯⋯?」
 牧は信頼できる情報屋の名を呼んだ。






 アスファルトを踏んで近付いて来る乾いた靴音に、物陰に身を潜めていた牧はビクリと弾かれたように上体を起こし、肩から提げたホルスターに収まるオートマへ手を伸ばす。
 が、
「牧さん、俺ですよ」
 押し殺した声ではあるけれど、その中に耳慣れた響きを聞き取って、牧は警戒心を解いた。
 建物の陰からひょこっと首だけ出して、うずくまる牧を見下ろしたのは、
「おまえか⋯⋯」
 仙道 彰。
 昼間にコンタクトをとるときは、本場ジャマイカでもこれはちょっと派手過ぎるんじゃないかというようなアロハシャツを、何の違和感もなく着こなして現れるか、たとえアロハでなくても必ずと言っていいほど柄物のシャツを着て、とても生っ粋の日本人とは思われないセンスを漂わせているこの男が、今は白のスラックスに黒のポロシャツという、いたって平凡な格好をして立っている。
 目立ってはマズイ状況だということが、直感的に解っていたのだろう。
 その仙道が、立ち上がろうとする牧に手を貸しながら、
「車持って来ましたよ。すぐそこの路地に停めてありますけど、歩けます? ここまで回して⋯⋯」
 来ましょうか、と問うのへ、
「大丈夫だ」
 短く応じ、牧はその言葉通りしっかりした足取りで歩き出した。仙道は、怪我をしている牧の腕を庇うように、彼の左側について車まで案内する。
「指示通り、手当てに必要なものと寝る場所は用意しておきました。これからそこまで移動します」
 車を発進させながら仙道が説明するのへ頷き返し、張り詰めていた緊張の糸が切れたように、牧は助手席のシートに深く腰を沈めて目を閉じた。治まることを知らない痛みのせいで眠ることはできないが、味方が現れたという安心感が彼の気持ちを楽にしている。ただ無意識に寄せられたその眉間が、牧の苦痛を物語っていた。
 そんな牧を気遣ってか、いつもは途切れることなく何かしら話をしている仙道が、今は黙ってハンドルを握っている。
 牧と彼との出会いも、今から2年ほど前の出来事になる。
『アンタの役に立ちたいんだ』
 そう言って、ひどく並びのいい白い歯を覗かせて笑った正体不明のこの情報屋の存在を、その場で自分に信用させてしまったものは一体何だったのだろうかと、仙道に会うたび牧は今でも不思議に思う。
 誰に紹介された訳でもない。自分で探し出して手なづけたのでもなければ、恩を売って飼い馴らしたのでもない。なぜか彼の方から近付いて来たのだ。
 その理由を尋ねても、
『そんなの、牧さんが好きだからに決まってるじゃないですか』
 冗談なのか本気なのか計りかねる笑顔で、いつもはぐらかされてしまう。
 そもそも、なぜこの男が情報屋などしているのかが牧には疑問なのだ。
 情報屋なんて、ひとが思うほどカッコいい仕事ではないし、楽な仕事でもない。ヤバいネタを掴んでしまった日には当然それなりのリスクがついて回る訳で、生命にかかわる場合だって考えられる。そのうえ報酬を払うのはケチな公務員なのだから、とうてい割に合うとは思われない。
 第一、仙道には充分に食べていけるだけの稼ぎが表の世界にある。好き好んであぶない橋を渡る必要がどこにあるというのか。
 けれど、そう言っていくら牧が説得しても、彼は一向に裏の仕事から足を洗おうとはしないのだ。
 人生の表街道からドロップアウトする必要などどこにもないように見えるこの男が、なぜそんな裏道を、それも好んで歩こうとするのか、牧にはどうにも理解できなかった。
 ――それとも、俺が知らないだけで⋯⋯。
 臑に傷持つ身なのだろうか。
 自ら話そうとしないプライベートに関しては、必要以上に詮索しないのが礼儀だと思っている牧は、しかしこの男が裏の世界に身を置く原因を、自分が作っているのではないかと、時折不安に思うのだった。






「牧さん、起きて下さい。着きましたよ」
 どこをどう走って来たのか、仙道に呼ばれて目を開けた牧の視界には、ヨットハーバーとそこに浮かぶ無数の小型船舶が飛び込んできた。
「こっちです」
 車を降り、先に立って歩き出した仙道の後を追う牧は、なんだかキツネに摘まれたような気分である。こんなところに傷を手当てするための薬や休むための場所があるとは思えない。一体どこに連れて行く気だと、前を行く男の背に問いかけようとしたとき、不意に足をとめて仙道が振り返った。
「さあ、どうぞ」
 貴婦人を紹介するような優雅さで彼がスッと片腕を広げて示した先に、その流線形の白く優雅なボディを惜し気もなくさらして碧い波間に浮かんでいるのは、どう見ても、
「クルーザー⋯⋯?」
 小型とはいえ、庶民の所有物であるはずのない代物だ。
「⋯⋯これ、まさかおまえのか?」
「いざって云うときの隠れ家ってトコですかね。⋯⋯さ、はやく乗って下さい」
 ケロリとなんでもないことのように肯定されてしまえば、それ以上の疑問を差し挟む余地もなく。
 ――もしかしなくてもコイツって、いいトコのボンボンなんじゃ⋯⋯。
 たとえばの話、彼がブランド物の衣装に身を包み、高級車を乗り回しているところを想像してみても、実際恐いくらいに違和感がないのである。
「⋯⋯⋯⋯」
 牧には、またひとつ謎の増えたこの情報屋の正体が、ますます遠のいたような気がした。
 当の仙道はといえば、クルーザーの船室に備え付けられた簡易ベッドに腰掛けてブツブツ悩んでいる牧に背を向けたまま、
「もぐりの医者には知り合いがいないんですよねー」
 などとぼやきつつ、救急箱を探して棚に首を突っ込んでいる。
「お、あったあった」
 お目当ての物を見つけだし、牧のとなりに腰を降ろした彼はさっそく怪我の治療に取りかかった。
「こりゃあ⋯⋯、縫うか縫わないかの瀬戸際ですね」
 乾き切らない血液で傷口のまわりに張り付いているシャツを慎重に剥がした仙道は、自分の怪我を見るように痛みを想像してか眉をしかめる。
「傷口は?」
「塞がってますけどね。まあ見事にスッパリ切れちゃって」
「おい、感心してる場合じゃないだろ⋯⋯」
「良かったじゃないですか、キレイな切り口で」
 ノコギリのように波状の刃を持った凶器だとこうはいかない。
「でなきゃ素人(オレ)なんかの手には負えませんよ」
 傷口からの出血は完全に止まったわけではなかった。血管を締め付けているネクタイを緩めてしまえば、また出血が始まってしまうだろう。服を脱がせることが出来ない以上、手当てをするには服の袖を切るしかない。
「袖、切っちゃいますよ」
 救急箱からハサミを取り出すと、仙道は牧の返事も待たずに切り裂かれた部分から下の袖をためらうことなく切り離す。
 どうせ洋服としてはもう使い物にならないのだ。
「一張羅がオシャカですね」
「これ、結構気に入ってたんだけどな~」
 片袖を失った、淡い藤色のダブルのサマースーツは、牧が昨年夏のボーナスをつぎ込んで手に入れたものだった。
「服ならまた買えますよ」
 ――牧さんの命には代えられない。
 口にすれば、照れた牧から拳骨を貰いそうな言い草だが、それが仙道の本音だ。
 仙道は牧の無用な痛みが長引かないよう手早く、しかし確実にアルコール消毒を済ませ、傷口が開かないよう丁寧に左上腕部一帯を清潔な包帯で覆っていく。
 アルコールを含んだ脱脂綿が遠慮なく傷口に触れている間中、唇を噛み締めてその痛みに耐えていた牧も、ようやく全身の力を抜いた。
 だが、気を抜いた途端、傷口に直接触れられるのとはまた別の痛みが、心臓の収縮と同じリズムで牧を襲う。黙ってじっとしていると、その感覚にばかり意識が集中してしまってやりきれない。
 気を紛らわそうと、牧は思い付くまま口を開いた。
「あーあ、諸星にバレたらまたバカにされるな⋯⋯」
「モロボシ⋯⋯?」
 使い終わった薬や道具を救急箱にしまう手をとめ、一瞬考え込むように視線を空に向けた仙道だったが、
「ああ、牧さんの幼馴染みでしたよね。愛知県警にいる」
「!?」
 なんでお前がそんなこと知ってるんだ!? と、黒目勝ちな眼を見開く牧の表情がおかしかったのか、仙道はクスクス笑った。
「牧さんに関することなら、俺チェック細かいですよ~? スリーサイズから下着の好みまでバッチシです♪」
「⋯⋯っ、のバカ!」
「あーあーほらほら暴れない暴れない。ちゃんと大人しくしてないと、傷口開いちゃいますよ?」
 右腕一本で殴り掛かろうとする牧を難無くあしらって、仙道は救急箱を手に立ち上がる。
「ったく、お前が変なこと言うからだろ」
「なにブツブツ言ってんです?」
「⋯⋯なんでもない」
 子供のような牧の拗ねた口調が、また仙道のやわらかな微笑いを誘う。救急箱を片付けた彼がベッドの側へ戻ると、
「赤木に迷惑かけるな⋯⋯」
 牧は仙道に聞かせるでもなくそんなことを呟いた。
「俺にはいっぱい迷惑かけていいですからね」
 仙道のその言葉に嘘はない。
 もっとたくさん頼って欲しい。
 もっとあてにして欲しい。
 そうされることが嬉しいのだから。
「本気ですよ?」
「⋯⋯⋯⋯」
 彼の言葉には敢えて応えず、そのままベッドへ仰向けになろうとした牧を、仙道は慌てて抱きとめる。
「牧さん、寝るんならホルスターくらい外して下さいよ」
 牧の額を自分の肩に乗せ、仙道は牧の上着の下に両手を滑り込ませた。驚いた牧が顔を上げるのに構わず、背中にあるバックルのような留め金をはずし、オートマの入ったポケットの部分を下に引く。こうすれば、上着に袖を通したままでも簡単にホルスターははずれるのだ。
「おい、いつまでひっついてる気だ」
 両肩から銃の重みがなくなったのが判るのに、仙道の体は自分から離れて行かない。牧は困ったように眉を寄せた。
「暑いだろう」
「⋯⋯牧さんが悪い」
「ああ?」
「怪我するよーな無茶するから⋯⋯」
 不意に仙道の声のトーンが落ちた。
「仙道?」
 不審に思って顔を覗き込もうとしたが、仙道は牧の首筋に頭(こうべ)を垂れたままでその望みは叶わない。
「さっき電話で救急箱用意しろって言われて、俺心臓止まるかと思ったんですよ⋯⋯?」
 ――アンタ、解ってんですか。
 仙道の声音が妙に切ない。
「⋯⋯泣いて、る、のか?」
 牧の首元でかすかに仙道の髪がゆれる。
「単独行動なんかするんだったら、どうして最初から俺のこと呼んでくれなかったんです!?」
 急に顔を上げた仙道の双眸が、間近で牧の視線を捕らえる。
 熱が、絡む。
 静まり返った船室に波の音が満ち、それが鼓膜をも圧迫する。視線を逸らすことも出来ず、牧は目の前の男の真剣な面差しに息を呑んでいた。
 ――こんな⋯⋯。
 こんな思い詰めた表情をする仙道は初めて見る。
「せんどう?」
 躊躇いながらの呼び掛けに、ふたりの間で凍り付いていた時間が再び動き出す。
 途端、弾かれたように立ち上がった仙道は、くるりと牧に背を向けた。
「鎮痛剤と、何か食べる物買ってきます」
 そう言うが早いか出口に向かって大股に歩き出し、しかし次の瞬間、なにを思ったのかいきなり踵を返して戻って来た。
「せ、ん⋯⋯!? ⋯⋯ん!」
 そして船室のドアを開け放したまま、今度こそ振り返らずに牧の視界から姿を消した。
「どさくさに紛れて⋯⋯」
 ――なんてことしやがる。
 自由になる右手を無意識に唇に押し当てポツリと呟いた牧の声は、開いたままになっていたドアの向こうで波の音に飲み込まれた。






 鎮痛剤が効いたのだろう、昏々と眠る牧の横顔を見つめながら、仙道は少し後悔していた。
『牧さんが悪い』
 そう言って彼を責めたけれど。
 今回の事件を引き起こした責任の一端は、自分にもあるのだと気付いたからだ。
 2年前、初犯のその男を逮捕するのに直接必要なネタを集め、それを牧に提供したのは他ならぬ仙道だった。だから、今回の犯行が、逮捕されたことに対する牧への逆恨みに端を発したものであるのなら、仙道にもまた、その恨みの刃(やいば)がかざされるべきなのだ。そして仙道にも、牧の怪我に対する責任があるということになる。
「⋯⋯バカだよなあ」
 情報屋として牧の役に立つことばかりを考えて、まさかその行為が牧を危険に晒すような事態を引き起こすとは、思ってもみなかった。
 いや、それを想像したことが全くなかったと言えば嘘になる。
 ただ、本当にそういった事態が現実のものになる可能性を、気持ちのどこかで否定し眼をつぶろうとしていたのだ。
 牧の邪魔をしたわけじゃない。足枷にはなりたくない。
 どうしてうまく行かないのだろう。
 柄にもなく溜息をつきそうになり、仙道は慌てて首を振った。
 ――今は落ち込んでる場合じゃないだろう!
 だいたい、滅多なことでは落ち込んだりしないしし、たとえそうなっても立ち直りが早いのが取り柄なのだ。
 眠る牧が熟睡していることを確かめて、仙道はそっとベッドの脇に腰を沈めた。
 おだやかな寝顔だ。
 仙道が鎮痛剤や食料品を手に入れて戻って来たときも、牧はこんな穏やかな表情をして待っていた。怪我をしていることが嘘のような、痛みなど感じていないような態度だった。
 それは多分、自分のためを思って取り繕った態度だったのだろうと仙道は思う。
 大した怪我じゃない。大丈夫。お前が気に病むことはない――。
 牧の言葉にはしない気遣い。
 鎮痛剤が効くまでは眠ることもままならなかったくせに。
 いつだって牧はそうなのだ。痩せ我慢ばかりして、ギリギリのラインへ追い込まれるまで、誰の助けも呼ばない。弱さを見せない。
 そんなに自分は頼り無いのだろうか。信用できないのだろうか。
 ――マズイ。
 思考が再び同じ経路を辿ろうとしている。
 もう一度大きく首を振って弱気を頭の外に追い出すと、仙道は牧の体温を計るために彼の額に手を当てた。
 さいわい熱は出ていないようだ。
 包帯に変化が現れないところを見ると傷口もうまく塞がってくれそうだし、このままなら化膿させることもないだろう。今夜一晩ゆっくり眠れば、明日には体力もかなり回復している筈だ。
 うっすらと汗の浮いた額に張り付く前髪を指先でそっと払い、仙道はおもむろに立ち上がる。
 怪我そのものに対して仙道が手を貸せることは今はない。側についていたいとも思うが、牧はそれを望むまい。
 それならば、明日には再び行動を起こすだろう牧の助力になれるよう、より多くの確かな情報を集めることだ。
 第二第三の犯行を、奴に重ねさせないためにも。
 それが今の仙道にできる唯一の仕事。そしてそれは牧に対する償いにもなる。
 外出の意だけを告げるメモを残して船室を後にした仙道の姿は、数分後、すっかり陽の暮れた街の、雑踏とネオンの渦の中に溶けるように紛れていった。



1997 summer 終 



・初出:『PRESENT(初版)』1997.10.26 発行
 この話は、(c)LOVE&PEACEのカズイハジメさんがFAXで送って下さった、刑事の牧と情報屋の仙道のらくがきを見て思いついたもの。1997.10.26 発行のコピー本『PRESENT(初版)』が初出、ということになっていますが、FAXを見てすぐ勢いで書いて、FAXでハジメさんにお送りしたものが本当の「初出」と言えるかも知れません。
 作文の際には、課長を誰にするかとか牧のスーツの色を何色にするかとか、ハジメさんに相談し、随分知恵を授けて頂きました。そんなワケで、改めてこのお話は、シリーズごとハジメさんに捧げたいと思います。私自身楽しみながら書かせて頂きました♪ 感謝!(2002.05.22 - 2005.01.20 記)