センター試験を一ヶ月後に控えた12月の半ば、仙道がダウンした。
仙道が倒れた(と云うとちょっと大袈裟になるのだが⋯⋯)のは、ほとんど毎日のように行われる勉強会の最中だった。授業の終わった仙道がいつものように受験用テキストをかかえてウチに来て、さあ30分ほどが過ぎた頃だったか⋯⋯。
「牧さぁん⋯⋯」
仙道のために夜食でも作ってやろうかと1Kの学生アパートの狭いキッチンに立っていた俺は、彼のあまりに情けない響きをもった声に驚いて振り向いた。家庭教師(と云っても、教師である筈の俺ではなく、仙道の方がウチに通ってくるという、生徒出張版家庭教師なのだが)とは名ばかりで、俺なんかいなくても大抵の問題は自力で解いてしまえる仙道が、助けを求めるような声で呼ぶなんて、思ってもみなかったからだ。
「問題文が読めない⋯⋯」
最初、俺は仙道のその『読めない』という言葉を『理解できない』という意味だと婉曲して解釈したのだが、訊いてみればそうではなく、本当に文字が読めないと言うのだから正直焦った。
あわてて仙道の元へ駆け寄った俺を見上げるその眼がなんだか潤んでいる。
「どうした」
赤本の細かい文字を追っているうちに眩暈がして来たらしい。
「熱か⋯⋯?」
わからない、と首を振った仙道は、それだけの行為でもかなりのダメージになるようで、こめかみに手を当て、辛そうに眉根を寄せる。
水仕事をしていて両手が濡れたままだった俺は、空いている額で仙道の体温を計ろうと、必然的に仙道に顔を近付けた。
仙道は条件反射で目蓋を閉じる。
「⋯⋯仙道、おまえ自覚症状ないのかっ!?」
触れた額のあまりの熱さに、俺はびっくりして顎を引いた。
ここまで熱が上がったら、人間フツー気付くぞ!?
「そんなにヒドイですか?」
おそらく平素健康体で熱に対する免疫がないのだろう彼が大真面目に訊いてくる。いつもならここで『とぼけるな!』の一言が飛び出すところなのだが、今日ばかりはそんなことも言えない。
――とぼけてる訳じゃないんだもんな。
とりあえず少しの間だけでも休養させなくては、と俺は仙道の腕を取って立たせ、部屋の隅にある、昼間はソファー代わりとしても活用されている自分のベッドへとその躯を移動させた。そうしておいてから、気にするかも知れないと思い、枕に洗いたてのタオルを巻き掛け布団の肩当てを取り替え、横になるよう促す。
布団にもぐりこんだ仙道が、
「あ⋯⋯牧さんの匂いだ~⋯⋯」
ふざけているのか本気なのか嬉しそうに呟くのを必死に無視して(こんなところで病人相手にムキになってる場合じゃないと思ったのだ)、俺は台所へと逃げ込んだ。
仙道の熱を少しでも軽くしてやろうと、流し台の上にある造り付けの棚からまだ新しいハンドタオルを探し出し、水に濡らしてからきつく絞る。それを手に部屋へ戻ると、横になてどっと疲れが出たのか、ベッドの中の仙道はうとうとし始めていた。
起こしてしまうのはかわいそうだからタオルを炬燵の上に置き、俺は先に仙道の家へ連絡を入れることにした。
背後の仙道の気配を気にしながら、いつの間にか指が覚えた番号をプッシュする。
家庭教師と言っても大したことはしていない(勉強するための環境を提供しているだけのようなものだ)から、アルバイト料を貰うことは辞退したかった俺なのだが、それでは仙道のご両親の方が納得してくれなくて、最終的には時間給で仙道の面倒をみることになった。毎月月末にバイト料を持って来るのは仙道の役目で、その額に誤りがないか毎回かならず電話で確認をとる。それが前もって決められたルールだったから、今ではすっかり仙道の家族とも親しくなっている俺だった。
電話に出た仙道のお母さんは、事情を説明した俺に、一時間後には車で迎えに行くと応えた。普段の仙道は電車(それもたいてい終電なのだ。少しでも長く俺の部屋にいたいらしい)を乗り継いで帰宅するのだが、さすがに今日のこの状態でそれはキツイと判断したのだろう。俺自身も、もし迎えに来て貰えないようならタクシーを呼ぼうと思っていたくらいだ。
受話器を置いてベッドの中の仙道を振り返ると、いつの間に目覚めたのか、仙道が熱のせいでまだ潤んだままの瞳をじっと俺に向けていた。
「ウチですか」
電話をかけた先を確認するその言葉に頷き返し、
「一時間程で迎えに来てくださるそうだ」
ベッドの側に歩み寄った俺は仙道の額にかかった前髪を指で払い、炬燵の上に放置してあったタオルをその額に乗せてやる。
「インフルエンザかなあ⋯⋯」
ベッドの端に腰を下ろした俺に仙道が言った。仙道のクラスにも数人、インフルエンザで欠席している生徒がいるのだそうだ。
インフルエンザがいま全国的に流行していることは、テレビや新聞で連日のように報道されていたから俺も知っている。受験生をかかえた家庭では、親御さんがどれだけこの報道に心を痛め子供の健康を気遣っていることか。
「予防接種受けなかったしなー」
仙道の声はどこか頼りない。
高校は義務教育ではないから、予防接種が強制されることはない筈だ。その年に流行る『型』によっては予防接種をしても意味がないとか、そんな話を聞いたこともあるし、3年間、俺も予防接種と名のつくものは1つも受けなかった。病気には、なるときにはなるのだからと腹を括っていたのだ。
罹ってしまったものは仕方ないさ、と慰める俺に、
「だいじょーぶかなあ、俺」
どんなに苦しく厳しい状況の試合のときにさえ、余程のことがない限りあの独特の余裕の態度を崩さない仙道が、ポツリと弱音を吐いた。
「仙道⋯⋯」
病気のときは誰しも弱気になるものだ。まして今の仙道は受験生――。
俺はこのとき初めて、コイツも人並み(?)の⋯⋯ただの18才の高校生なんだなと思った。そう思ったら、急に自分よりも図体のデカイこの男がかわいく見えてしまうのだから、俺もどうかしている。
「元気だせよ、仙道。いま病気になっときゃ本番は安泰だって!」
まだ試験本番までには一ヶ月もあるんだからな? と明るく茶化して仙道の顏を覗き込んだ俺の首に、仙道がその長い腕をするりと巻き付けて来たのは無意識だったのか、それとも⋯⋯。
「せん⋯⋯?」
驚いて名を呼ぼうとした俺の言葉は最後まで発音されることなく、熱に乾いた唇に遮られ、
「⋯⋯⋯⋯?」
己の身に何が起きているのか理解出来ぬまま、俺は化石になった。
長かったのか短かったのかも判らない時間が過ぎて、混乱していた頭がようやく状況を把握したのは、仙道の腕が解かれて俺の身体が自由を取り戻した後だった。
「せ⋯⋯せんどう?」
恐る恐る小声で呼んだその言葉に反応はなく、見下ろした仙道のそれは年相応のあどけなさを浮かべる安らかな寝顔。
怒るに怒れず騒ぐに騒げず、インフルエンザが感染る(うつる)かもしれないな、と意識のどこかで現実味なくそんなことを考えながら、俺はすっかり毒気を抜かれてしまったような気分で、つい数分前まで仙道のそれが触れていた己の唇に無意識に手をやっていた。
その後、呼んでも起きなかった眠ったままの仙道を、車で迎えに来た仙道の親父さんとふたりで部屋から担ぎ出し、仙道を乗せた車のテイルランプが角を曲がって見えなくなるまで見送りながら、冬の夜道に立ち尽くす俺は、次にあいつに会ったとき、どんな貌をすればいいのだろうかと途方に暮れていた。
ところが――。
一週間後、全快して戻ってきた仙道にさりげなさを装ってあの日のことを切り出した俺は、あまりの仕打ちに言葉を失うことになる。
「俺、なんかしましたっけ?」
あろうことか仙道には、あの日の記憶がまったくなかったのだ。
よほどあの熱が堪えていたらしい。
が、この一週間というもの、あのときのことを思い出しては青くなったり赤くなったり、次に顔をあわせる今日という日にどう振る舞おうかと毎日緊張していた俺の立場は一体どうなるんだ!
⋯⋯などと憤慨したところで、怒りをぶつけるべき相手には理解不可能な主張でしかない。
一週間ぶりの再会に浮かれて抱き着いて来る仙道を邪険にあしらいつつ、俺は握り拳で密かに誓う。
いつかまたそういうことになって、きっと初めてのキスだと喜ぶだろうコイツに、そのときは必ずこう言ってやるのだ。それはもう、出来るだけ意地の悪い笑みを浮かべて。
『今のはセカンドキスだぞ――』と。
1997.05.14 脱稿/2023.02.05 微修正
・初出:『(タイトル忘却)』非売品